不変なるものとは何であるか
- 2019年6月29日
- 読書会だより
今回の「哲学的問い」は「不変なるものとは何であるか」でした。
テキストでは「物の概念」が「不変なる関係」と呼ばれ、「形相」が「不変」とも、「質料」が不変とも呼ばれていました。それを受けてのことですか。
ええ。不変とは時空を超えるということです。その意味で「物の概念」が時空を超えるというのは怪しいのではないかと思っています。
不変なるものはあります。それは「変化」です。変化は不変です。
プロティノスの「流れ(流出)」です。その流れにあって「一者(ト・ヘン)」は不変です。西田も言っています。
動中静、静中動ということですか。
そうです。
不変的なものはないと思います。あってほしいとは思いますが。不変的なものということですぐに思いつくのが神ですが、神が何か分かりません。イデアも分かりません。分からないものがあるとは言えません。
Dさんはニーチェの読書会にも参加されていますね。ニーチェは神やイデアなどの実体を立てることを厳しく批判しますね。
不変的なものがある、となぜ想定しなければならないのかが問題だと思います。
だけど不変的なものがなくて、すべてが徹底した流転の中にあるとすれば、知識というものが成り立たないんじゃないですか。Fさんどうですか。
不変なものはあります。数学の公理がそれです。
それって不変にしたんでしょ。
そうです。
人間に言語機能があるということは想定していいんじゃないですか。
オオカミに育てられた人間はどうですか。
それでも言葉を話そうとしたらしいですよ。
つまり人間の言語は不変かつ普遍的なもので、それによって知識が可能になっていると。しかしその不変的なものがあるといえないということになると、我々の知識というのはどのような基盤の上に成り立っているのでしょうか。
言語を持っているのが人間だけというのがおかしい。動物も意志疎通を図っているんだし。
動物に意志があるんですか。
そう聞かれると困るんですが。
人間の認識で言語が関与しているのは10%に過ぎないそうです。
今日はこのくらいにしてテキストに入りましょう。