
真に直接なる心
- 2025年3月8日
- 読書会だより
前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第5段落316頁2行目「右の如く」から317頁2行目「考えられるのである」までを読了しました。今回のプロトコルはZさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「故に知的自覚の底には意志的自覚が見られ意志的自覚の奥には自己自身を見るものがある」(316頁15行目?317頁1行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「超越について」というタイトルで、「「個物」や「無の場所」は、それぞれ主語面と述語面の一般性を超越したものであると言われている。また、「知的自覚」「意志的自覚」「自己自身を見るもの(直観)」の間にも超越が起こっているとご説明頂いた。ところで我々は普段、判断的な知識の領域、知的自覚の領域にどこまでもとどまっているように思われる。西田の言うように真の無の場所において個物(真の自己)を直観する場に立つためには、判断の次元を破って超越的なものを志向する意識が生じる必要があるのでは思われるが、そうだとすればそれはどのようにして可能なのか」(248字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
超越はいかにして可能か、ということですね。
Z
そうです。
出発点は「包摂判断」ですね。例えば「犬は動物である」というような判断です。ここから始める。一面において我々はここから出ることはできません。包摂判断は「有るもの」が「有の場所」に於てある、という在り方をしています。しかしこの判断にはつねに「私は考える」ということが伴います。「私は『犬は動物である』と考える」というようにです。「犬な動物である」が図であるのに対し、「私は考える」は地です。この地は決して認識対象になりません。認識対象にしたら図になってしまい、そこにさらに「私は『私は…と考える』と考える」というように、地ができてしまうからです。ですからこの「私は考える」そのもの(自我自体)はどこまで行っても認識できません。ゆえに我々は判断の立場を決して出ることはできない、と言えます。しかしこの「できない」ということを通じて立場の転換(超越)が起こります。「私は『犬は動物である』と考えている」というのは、実は私(自我)が私自身(自我自体)を直観していて、それを意志によって定立したものだと考えるのです(完全なる英国の地図を描くことを思い浮かべてください)。これは一種の自己実現ですが、その場合にも、「私は『私は…と考える』と意志する」という仕方で、意志的な自覚が地として背後に回り、この意志そのもの(自己自身)はどこまで行っても実現されません。意志(自己定立)作用が意識されている間は実現できないということで、意志しなければよいのですが、「意志しないぞ!」としても、この「意志しない」ということも意志になってしまい、どこまで行っても意志の立場を出ることができません。しかしこの「できない」ということを通じてまたしても立場の転換(超越)が起ることになります。これが「自己そのもの(自我自体)」の直観です。「状態としての意志」の直観と言ってもいい。場所としては、判断における「有の場所」が、知的自覚および意志的自覚における「対立的無の場所」(そこではどこまでも対立が残りますので、その立場からの超越は不可能です)を経て、「真の無の場所」にまで深まり、そこに於てあるものが「自己自身を見るもの」です。つまり如何に可能か、という問いに対しては、超越というのはそもそもこちら側からは不可能だ、と答えられます。それは常に目覚めによって気づかされるという形を取ります。ただ、人間は自力で目覚めることができないように、そこには、後から振り返るならば絶対的な他者のようなものによって目覚めさせられた、という外ないような経験が不可欠ですが、この時期の西田にはこの他者性の契機が欠落しているように思われるのです。少し長くなりましたが、以上が「超越」に関する前置きです。ところでZさんのプロトコルで気になった点があります。「我々は普段、判断的な知識の領域、知的自覚の領域にどこまでもとどまっている」とありますが、むしろ私は大抵習慣の中に埋没していて、ぼーっと生きているものですから、鍵をどこに置いたか、よく分からなくなります。我々はむしろ普段判断的な知識以前の所を生きているのではないでしょうか?
S
私も「私は考える」ということの方が異常だと思います。動物はそんなことをせずに知覚に直結しているように見えますから。「私は考える」ということが動物にとっては超越になりますが、人間にとっての超越の方向性は、動物のように考えないところに戻ることを言うのか、それとは違う所への超越なのかが気になります。
完全なボケ状態になるのか、悟りのように覚が残るのか、ということですね。中島敦の『名人伝』を思い出します。完全なボケ状態になれば、人間的な苦悩はなくなると思いますが。
M
完全になれば、周りは大変ですが苦悩はなくなると思います。ですがそれまでが大変なようです。ときどき我に返って自分が人間でなくなっていくような感じがして。
虎になる、ですか?今度は『山月記』ですね。
Z
それでも人間は判断的な知識の領域で生きているように思います。人間が生きているのは言語的に分節された世界で、それを踏まえることで初めて人間と言えるからです。我々は絶えず、例えば目の前のものを机と見なしながら生きているわけですが、そのように社会的に形成された思考方法に従って生きていると思うのですが。
S
最初は意識して判断したものでも、習慣化すれば意識しなくなるのでは?
自宅に帰る時でも、最初はここで右に曲がって、などとそのつど意識して判断しますが、習慣化すれば、酔っぱらって意識がなくなっても、気がついたら家についていますね。習慣に埋没している状態は、判断がないという点では動物と変わりがない。しかしそこから何故か人間には動物にはない判断ということが起る。人間も赤子の時には判断ということがない。そこから自我に目覚め、判断が起る。朝起きた時にも、ぼーっとしたり集中したりした在り方からはっと気がつく時にも、目覚めが起る。この目覚め自体が超越ですが、逆にこうして生じた判断(世界を外から見る在り方)という状態から、意志(世界の中で行為する)場合にも超越が考えられますし、さらに意志から直観に到るにも超越がなければなりません。
M
超越は分からない。言葉以前はあると思っていましたし、それを求めて同じところをグルグル回っている感じです。「それよ、それ」と言われて、「それ」が何かわかった気になっても、分かった気になっているだけです。
W
直観のところは「自己自身を見るもの」とありますから、知的自覚にしても、意志的自覚にしても自己自身を見ることができていない、ということになります。
K
如何にして超越は可能かという問いに、私はまず「座禅」ということを思いついたのですが、私自身はそれは無理だと諦めました。
たしかに、超越を求めたり、自己自身を見ることを目的にしたりしていたら、超越は起りそうもありませんね。プロトコルはこの位にして講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。
A
読む(317頁3行目~5行目)
「判断的知識の成立するには、いつでも、その根柢に何等かの意味に於ける一般者がなければならぬ」と、まず一般的に述べられます。最初は「或限定せられた一般者」〈有の場所〉としての「一般者」について述べられます。それが「純粋に思惟による知識」、つまり数や図形に関する知識です。例えば幾何学の場合は、「空間」が「限定せられたる一般者」だとされます。そこから公理や定義、定理といった「知識」が導き出されます。それゆえ「空間」は「幾何学」という「学問のアプリオリ」とされます。次をBさん、お願いします。
B
読む(317頁5行目~318頁2行目)
今度は「所謂経験界の知識」が問題とされます。それは「意識一般の立場によって成立する」とされます。「意識一般の立場」とは「単に限定せられた場所」、つまり〈対立的無の場所〉のことです。経験的知識を構成する一つとして「時」が考えられますが、この「時」は(経験界を構成する場合の空間もそうですが)幾何学における「空間」のように「限定せられたる一般者」ではありません。「時は単に直線的なものではない」とありますが、こうした「単に直線的な」時が形式的な時間(幾何学の「空間」に対応するもの)です。しかし西田は「アウグスチヌスが過去も未来も現在に於てあると云った如く、〔こうした〕時の背後にも一般者がなければならぬ」と続けます。ところでアウグスティヌスのいう所の現在における過去とは記憶、未来とは期待のことです。そうすると、「〔こうした単に直線的な〕時の背後」の「一般者」とはアウグスティヌスのいう所の「現在」のことだと解釈されます。ここまでよろしいでしょうか?
B
大丈夫です。
こうしたアウグスティヌスのいう所の「現在」は、幾何学における「空間」のようにそ「積極的に考えられるもの」、つまり〈有の場所〉ではなく、そこから過去と現在と未来とが分れるところの、それ自身は過去とも現在とも未来とも言えない「現在」、その意味で、これと言って積極的に考えられない、「消極的に考え得る一般者」だとされます。こちらは先の形式的な時間に対して、〈内容ある時〉と言えるかもしれません。そうして「我々の知識はいつでも現在より出立する外はない」とされます。ここまでで何か質問はありますか?
B
特にありません。
続けて「かかる場合、特殊が一般を含むと云ってよい」とあります。この「一般」は過去現在未来というように直線的に考えられた時間ですね。そうした一般に対しては「現在」は特殊ですが、そうした特殊としての「現在」がアウグスティヌスのいう所の「現在」(一般者)として、「一般」(直線的な時間)を含む。「一般者」のすぐあとに「一般」と出て来てややこしいですが、そう解釈する外ないでしょう。そうしてこの「現在」が「コーヘンの生産点」に擬えられます。コーエンは、思惟を生産的と考え、思惟の内容も与えられたものではなく、解決されるべく思惟によって要求されたものと考えます。「生産点」とはそうした思惟の生産活動の出発点となるもののことを言うのだと考えられます。こうした「現在」はこれと言う仕方で限定できない「消極的」なものですが、「限定せられ得る一般者」として、そこから限定がなされ、そこに於てあるものが「判断的知識」と考えられるようになります。ここまでは?
B
何とかついていけています。
「併し」と来て、「かかる否定的一般者」とありますが、この「否定的」は「消極的」と同義で、ともに「negativ」の訳語です。つまり〈対立的無の場所〉のことです。それ「をも超越した時、真に判断的知識を超越したと云うことができる、之以上は〔状態としての〕意志とか直観とかいう所謂超概念的知識の世界に入るのである」とありますが、〈真の無の場所〉における話です。それでは次をCさん、お願いします。
C
読む(318頁2行目~8行目)
「一般と特殊との関係から云えば、特殊的方向を何處までも推し進めて行き、時の如きものに於ても、既に特殊が一般を含むと云い得るが」とありますが、これはアウグスティヌスのいう所の「現在」が過去現在未来といった「一般」を含むということですね。そうして「その一般者は尚否定的に限定し得るものであるから」とあるのは、そうした「現在」(一般者)が〈対立的無の場所〉だということです。対立が残っているから、そこではどこまでも限定が可能ということになります。そうして「更に之をも越えた時」、つまり〈真の無の場所〉の話ですね。そうなると「真に特殊が一般を内に包むと言うことができる」ことになります。「真に一般を内に包んだ特殊」ということで西田が何を言おうとしているのか、はっきりしませんが、〈絶対現在〉、とか〈永遠の今〉を考えることができると思います。そうして「即ち如何なる意味に於てでも、苟も概念的に限定し得る一般者ならば、之を内に包むと云うことができる、意志は自己の中に自己の否定を包むものである」とありますが、主語は「真に一般を内に包んだ特殊」ですから、それが「意志」に引き継がれていることが分かります。〈絶対現在〉とか〈永遠の今〉という「現在」としての「意志」が〈対立的無の場所〉を包み、そうした一般者を限定することで、自分自身を〈有の場所〉へと、否定的に自己限定するさまが言われていると思われます。「木の葉が赤くなる」といった時間を含む経験的な判断も、こうした意志が、意識一般を含み、そうした意識一般(私は考える)を限定することを通じて、そうした判断にまで自己限定している、ということでしょう。ここまで、いかがですか?
C
難しいですが、何とかついていけています。
「併し」と来ます。「かくの如き限定的一般者を越えて之を内に包むと云うべきものであっても」とあります。「かくの如き限定的一般者」とは「概念的に限定し得る一般者」つまり〈対立的無の場所〉のことです。それをも内に包むものは、先に「真に一般を包む特殊」とか「意志」とか言われたものです。そうしたものであっても、「尚我々は之を意識に於てあると云うことができる」とあります。この「意識」は〈真の無の場所〉ですね。そうして「何となれば、我々の意識というのは、上に云った如く述語となって主語とならない超越的述語面という如きものを意味するからである」と来ます。まさに「意識」が〈真の無の場所〉だから、というわけです。次をDさん、お願いします。
D
読む(318頁8行目~319頁1行目)
「我々の概念的知識が特殊化せられて行くに従って、一歩進んだ特殊は前の一般的なるものを内に包んで行く」。動物が犬になる(特殊化される)ことで、逆に犬が動物を包む、ということです。「最後に如何なる意味に於ても苟も概念的に限定し得られる一般的なるものが全然内に包まれても」とあるのは、〈対立的無の場所〉をみずからのうちに包む者、つまり「真に一般を包む現在」(絶対現在)とか、「意志」とか言われたものです。
D
犬からどうしてそういうことになるのですか?
ちょっと考えて見ましょう。犬はさらに「秋田犬」、さらには「この犬」にまで特殊化されますね。そうしてさらに「今のこの犬」の在り方にまで特殊化されます。そうした知識(判断)には常に「私は考える」ということが伴います。そうしてその根底には「私は意志する」といった意志が控えています。そうすると「今のこの犬」に関する判断は究極の所、絶対現在における意志の自己限定と考えることができると思います。いかがでしょうか?
D
理解できました。
さて、こうして真の特殊である「意志」についても、「尚判断の主語述語の関係から真に無の場所というものが考えられる、即ち真に思慮分別を絶した、真に直接なる心というものが残るのである」とされます。
D
「心」というの言葉は西田には珍しいですね。
そうですね。「真の無の場所」のことを「心」と呼んでいるのは確かに珍しい。「対立的無の場所」としてのアウグスティヌス的「現在」を越えて、さらにこうした一般者(「対立的無の場所」)を真に包む特殊として、絶対現在とか、意志というものを考えているのですが、こうした「意志」に「真の無の場所」としての「真に思慮分別を絶した、真に直接なる心」が残る、というのです。そうしてそこから主語述語の関係としての判断が成立すると考えられています。しかしもう一歩進んで、「真の無の場所」をも包んだ「特殊」というものも考えられますね。そうなると、映すということない、したがってもはやそこから判断は出て来ない。もう「心」も残っていない、ということになりそうです。
D
完全なボケ状態ですね。
そういうことになりますが、ここではそこまで言われていません。そうして「真に無の場所」とか「心」といった「かかる場所に於てあるものが真に直覚的なるものである、自己自身を見るものである」とされます。そこから今度は判断的知識の成立を説きます。「かかる無の場所というものが、何らかの意味にて一般概念的に限定せられる限り、一種の意識面が限定せられ、之に於て概念的知識の世界が成り立つのである。判断的知識と直覚とは、此の如く場所の関係に於て連結して居る、後者は真の無の場所、即ち場所其者であって、前者はその限定せられたものである」とされます。真の無の場所の自己限定が意志の自己限定になります。今日はここまでとしましょう。
(第94回)