読書会だより

このペンは本当にあるのか

今回の哲学的問いは「このペンは本当に存在するのか」でした。

A

一語一語定義しないと議論できませんよ。
佐野
定義せずに、議論の中で意味が深まるようにしてください。

A

仮定の中であると言えると思います。
佐野
本当にあるか、という問いですから、本当には存在しない、ということですか。

A

本当にあるかどうかは分からない、ということです。
佐野
それは本当の世界に事実としてあるが、それを我々は知り得ない、ということですか。

A

本当にある、とも言えません。

B

何故仮定だと判断できたのですか。

A

どういうことですか。仮定が前提になっているということです。この前提がなければ人間は何も考えることができません。
佐野
Bさんはその前提を問題にしているようですよ。例えばその前提を立てているのは誰ですか。

A

認識者である私です。

C

その問題は観察者問題として解決しているんじゃないですか。
佐野
観察者が存在するということが前提である、観察者である私は存在していると。何故私がある、と言えるんですか。

C

背後から包むように私は有るんです。(注:対象化された私は、すでに私自身ではないが、そのように対象化した時にすでにそのように対象化する私が後ろから襲うようにして私を包んでいる、という西田の考え。この「私」は真の自己であるが、どこまでも分からないものである。)

D

その「私」から様々な世界が生じます。物理的世界もそうで、その中にぺんは物質として有ります。

E

ペンは単なる物質ではないと思います。何よりそれは書くものです。書くものとして有るのだと思います。

C

未開の所では存在しないということになりますよ。
佐野
ペンは言葉だと。同様に「有る」も言葉ですね。もちろん「私」も言葉。ところでFさん。どう思います。このペンは本当に存在しますか。

F

私はこのペンが存在しないという考え方が分かりません。

G

同じペンでも見方によって見え方が違ってくるでしょ。
佐野
常識ではペンはEさんやFさんが見なくても、客観的に存在している。それを本当に存在するというように考えている。そうですよね。ですがFさんは自分の認識を一歩も出ることができません。150億年前の宇宙を考えても自分の認識の中です。Eさんが存在するということもFさんの認識です。そうなると認識の外に本当にあるかどうかは分からないということになります。この場合、自分だけが本当にあるとすると、独我論になります。西田はこれとは違う「有る」を考えたことになります。本当にあるのは今見ている意識現象とそれの知が一つになっていること、そう考えます。外界に客観的に存在しているのとは別の「ある」を「本当のある」と考えたことになります。今日はこのくらいにしておきましょう。
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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