純粋経験は疑うべきものではないか?
- 2019年10月26日
- 読書会だより
本日の哲学的問は「『純粋経験』は判断分別以前であって、いくら疑おうとしても疑うことができない事実であって、この事実に対する判断とか反省とかはどこまでも疑うべきものである。西田は『純粋経験』を唯一の実在とし、それによってすべてを説明しようとする。しかし、『純粋経験は唯一の実在である』というのはすでに判断であって、疑うべきものではないのか。彼はなぜこの矛盾を知る上でまたこの通りに主張するか」です。
「純粋経験は疑うにも疑い様がない」とか「純粋経験は唯一の実在である」というのはすでに判断である。判断であれば疑うことができる。ならばそれを「考究の出立点」にすることはできないのではないか、という問いのようですね。それではお願いします。
根本経験があったから、確かにあると言えるんだと思います。
ですからそれが判断だというんです。
出発点が疑わしいと思います。事実がある、というようにそれを表現したら判断になります。西田は如何なる立場で「ある」と言っているのか。
そもそも立場は変えられるものなんでしょうか。
立場主義ですね。立場に引っ掛かってがんじがらめになっている。これが今の日本社会だと思います。実に閉塞的です。ですが立場などいくらでも変えられます。
私の言っているのは「人間という立場」です。人間は反省や判断の立場を超えられないということです。
クロマニヨン人は言葉を持たなかったので絶滅したそうです。ですが死者に花を供えていた。言葉を持たずにどうしてそんなことができたのか不思議ですが、言葉のない世界というのはやはりあると思います。
立場というのは視点のことですね。
そうですね。そうした視点に立って外から眺めるということになります。
そうした反省で分かったことになるのですか。言葉にしないと理解したことにならないのですか。
ええ。理解したというのはやはり言葉にできるということだと思います。
確かに言葉にはできないが俺は分かっているんだ、というのは断言にすぎないような気がしますね。Fさんどうですか。
言語化はできると思います。それが30年かかろうとも、ゆくゆくはできる。そうしたものだと思います。
私はいつも教育学に関連させて考えてしまうのですが、分かるというのは知識を身に着けるということですね。しかし分からないものに触れることの方が大事ではないかと。その意味では30年かけても分からないという面もあるのではないか。
それでもどう分からないか、ここが分からない、というのは言語化する必要があると思います。
不思議という言葉がありますね。不思議やなあ、というのは分かっていないのか、あるいは一つの分かり方なのか。
分かっていないと思います。
惹かれるものがあるということだと思います。言語化したい。だが言語化できない広いものがあり、一部しか言語化できない。西田は大それたことをしようとしているとも言えると思います。
面白くなってきましたね。ですが今日はこの辺りにしてテキストに入りましょう。
(第22回)