意識の棲む世界とは
- 2019年3月30日
- 読書会だより
今回の哲学的問いは「我々の意識の棲む世界とは、哲学的にどのようなものなのだろうか」でした。
意識は分別された世界を生きているんじゃないんですか?
でも意識が「棲む」とありますね。
この「棲む」って文学的で好きです。
私は文学は嫌いです。
まあまあ。
その意識は「意識する意識」ですか?それとも「意識された意識」ですか?
「意識する意識」です。
だったら分別できない世界に棲んでいる、ということになりますね。
そうです。
でもそのように分別・無分別を分けて無分別の世界に棲んでいる、といったらすでに分別ですよね。そうした分別の世界に棲んでいるのではない、と言いたいのでしょ?西田が晩年好んで引用した大燈国師の語に「億劫相別れて須臾も離れず、尽日相対して刹那も対せず」という言葉があります。「億劫」とは非常に長い時間、永遠と言い換えてもいいと思います。「永遠にお互い分かれていて」。「須臾」とは非常に短い時間です。「一瞬も離れない」。後半は「尽日」、一日中、つまり「つねに」ということですね。「つねに向き合っていて」。「刹那も対せず」、「一瞬も向き合っていない」。まとめると「永遠にお互い別れていて一瞬も離れない。つねに向き合っていて一瞬も向き合っていない」。みなさん、これ何だと思いますか。
自分だと思います。
なるほど。実はこれと同じ質問を離任式の時に中学生にしたんです。そうすると「自分と他者」あるいは「忘れられない体験」という答えや「世界」という答えが返ってきました。面白いでしょ。何故「世界」か、と聞いたら、自分はすでにその中に住んでいるからそこから離れられないけど、それを見ようとするともう自分がそこに住んでいないものになっているからだ、というんです。「意識が棲む世界」もまさにそういうものですね。
私は夫婦だと思いました。一日中向き合っていて、一瞬も向き合っていません。
(笑い)
確かに一日中イエスといっしょににながら一瞬もイエスと出会っていないということはありそうですね。