
意識一般と真の無の場所との間
- 2025年3月15日
- 読書会だより
前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第5段落317頁3行目「判断的知識の成立」から319頁1行目「限定せられたものである」までを読了しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「我々の概念的知識が特殊化せられて行くに従って、一歩進んだ特殊は前の一般的なるものを内に包んでいく、最後に如何なる意味に於ても苟も概念的に限定し得られる一般的なるものが全然内に包まれても、尚判断の主語述語の関係から真に無の場所といふものが考へられる、即ち真に思慮分別を絶した、真に直接なる心というものが残るのである、かかる場所に於てあるものが真に直覚的なるものである、自己自身を見るものである」(318頁 8~13行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田によれば、特殊がその特殊的方向の最後に一般的なるものを内に包んでなお、「判断の主語述語の関係から真に無の場所といふものが考えられる」といわれる。「判断といふのは特殊なるものが一般なる場所に於てある」(315, 8)といわれることから、西田は特殊ではなく、最後には「判断」の立場をとっているといえる。従来の認識論の「先ず心と物とが相対立し、知るといふのは心の働き」(314, 1)という考えを「極めて素朴的」といいつつも、西田はなぜ「真に直接なる心というものが残る」と考え、判断の立場にたったのか。そして、「真に思慮分別を絶した」ところにおいて成り立つ判断とはどのようなものか」(281字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
「心」という語が二回出て来ていますが、314頁1行目の「心」と318頁12行目の「心」は異なります。前者は「心の働き」とあるように、働きとしての心、です。カントの自我で言えば、素材を形式によって統一する「超越論的統覚」です。これに対し後者は「意識一般」で、図に対する地です。ここには「知る」ということをどう考えるかの根本的な違いがあります。「知る」とは素材を形式によって統一する働きのことを言うのか、場所においてあることを言うのか、という違いです。西田は「知る」の根本義を「場所に於てある」ということのうちに認めます。「一般概念」としての「場所に於てある」のは通常の「知る」ですが、そこにはすでに限定という作用が働いていますから、西田は「真の無の場所に於てある」ということを「知る」ということのもっとも根本的な意義を認めることになります。作用としての心の「知る」は、理解する・判断する、といった意味での「知る」で、「場所に於てある」の「知る」は、そうした理解が破れて、開ける、とか気づくといった意味の「知る」と言ってよいと思います。哲学の始まりとされる「驚き」も、こうした意味での「知る」です。
W
腑に落ちた感じですが、「知る」ということの根本義が「驚き」とか「開け」ということであれば、もともとあるものが通常は見えていない、ということですね。それが開けるという見方は、すでに見えているものを新しい一般概念を作って別の視点から見るという見方ではないですね。
でも、何らかの一般概念による整理をしなければ、「知る」ということにはならないのでは?真に思慮分別を絶した直接的なる心という場所において真に直覚的なるものがある、というのも、すでに十分に一般概念によって整理されていると思いますが。
Z
神とか真理についてはそういう知り方は確かになあ、と思うのですが、例えば目の前の机を机と見る、その客観性はどうなるのだろうかと。
その場合の客観性とは、一般概念の普遍性・必然性(誰にとっても通用する)という意味になりますね。西田にとっての客観性とはどこまでも「ありのまま」ということになりますが。
S
普通は一般概念に還元することを「知る」と言いますが、Zさんは常磐津で精進されていますし、Wさんはフランスで自分の一般概念では通用しないよその言語に直面されていますね。
W
出来上がった一般概念が破れることで見えてくるものがあるというのはよく分かります。
ですが、それを言葉にしなければ何も分からない、ということはあるのでは。
J
西田は思慮分別を絶する、ということが言いたかったのでは?それこそが大切だということで。西洋の二元対立的な考え方に対して、もとの姿をありのままに見るという。それを「知」と呼べるかどうかは分かりませんが。対立の前を見ましょう、ということで。
S
そんなものが、本当に大切なのでしょうか。役にも立たないものだと思います。知らなくてもよいのでは?
Z
しかし、そういう見方というのは芸道、稽古論にはたしかにあって、世阿弥の「離見の見」にはそういう所があります。「離見」は「我見」に対するもので、「我見」とは自分から見える姿、「離見」とは客席から見える姿というのが基本的な意味ですが、「我見」にはさらに、うまく見せようといった執着の心の意味も含まれると思います。ですから「離見」とはそうした「我見」を離れたあり方です。そういうありようをそのまま見る、無心に舞う姿をありのままに見る、それが「離見の見」という在り方だと思います。世阿弥はこうした「離見の見」を「見得」せよ、と言いますが、この「見得」もそうした直覚だと思います。
そうした「見得」を「得た」と言ってしまえば、またしても「我見」になりますね。
Z
それは私のことです。
(笑)。それはともかく、Zさんのご発言は、先程の、「客観性」をもった「知る」とは正反対の「知る」ということになりそうですね。プロトコルはこれ位にして、テキストの講読に移りましょう。Aさん、お願いします。
A
読む(319頁1~14行目)
「此故に」とあるのは「判断的知識」の於いてある場所が、「真の無の場所」の限定せられた場所であるが故に、という意味ですね。「直覚的なるものが判断的知識に入り来ると云うことができる」とあります。「これは机である」という判断もそれだけではない、もっと奥の深いものを含んでいて、それを実は或る意味で我々はすでに見ている、ということです。しかし「無論直覚的なるものが、その儘にて判断の中に入り来ると云うのではない、〔直覚的なるものは〕場所が限定せられる限り、之〔限定せられた場所〕に映ずるのである」と言われます。そうして「故に」と来ます。これは場所が限定せられているが故に、という意味でしょう。そうして「判断的知識はいつでも抽象的なるを免れない、真に具体的なるものは直覚的として、真の無の場所に於てあるのである」とあります。我々の通常の判断は物事をありのまま見ているのではなく、その一面を抽象的に見ているにすぎない、ということです。ですからそれを「ありのまま(具体的)」に見るためにはそうした限定が破られるという経験がなければなりません。ここまではいかがですか?
A
大丈夫です。
「真の認識主観というのは、かかる意識の場所という如きものでなければならない」とありますね。「真の無の場所」が「意識の場所」に言い換えられています。そうして「私は前に」と来ます。この「前に」が正確にどこかは分かりません。西田自身も記憶に基づいて書いているだけのような気がします。現在の論文の書き方からすれば不親切でしょうね。それはともかく「認識主観に種々の階段があると云ったのは、之によって明にすることができる」とありますが、「之」とは「真の無の場所」が「意識の場所」であることを指していると考えられます。ではどのような階段があるのでしょうか?次を読んで見ましょう。
A
はい。
まず①「カントの認識主観」が来ます。それが「尚限定せられた場所に過ぎない」とされます。これは「単に限定せられた場所」ということで、「対立的無の場所」、「意識一般」のことです。それが「真の無の場所に入るに従って、②意志の世界、③直覚の世界が見られるのである」とされます。③は「真の無の場所」において見られます。それで「意志の世界と直覚の世界との区別については、我々が直覚的と考えるものは、最終の無の場所たる真の無の場所に於てあるのである」と言われます。ここまでは?
A
ついていけてます。
次いで「意志は尚全然カントの意識一般の立場との関係を脱却しない」とあります。「意志」の立場で念頭に置かれているのはフィヒテの事行です。もちろんカントの意識一般は認識主観について言われるものです。その「私は考える」という地に当たるものを知的に直観することによって、それを意志によって実現(自己定立)するわけですから、ここには超越があるのですが、どちらも認識主観と対象、意志と目的といった主客の対立が支配する「対立的無の場所」であることに変わりはありません。フィヒテの意志の立場がカントの「意識一般の立場との関係を脱却しない」と言われているのはそういう意味だと思います。そうして「意識一般の立場と真の無の場所との間には、種々の階段を考えることができる、種々なる無の場所があるのである」とされます。この「間」とは?
A
意志の立場だと思います。
ですが、意志も意識一般の立場を脱却しない、ということですから、認識主観の立場と意志の立場の両方から考えた方がいいと思います。まずa「合目的的世界」が来ます。生物の世界ですね。ここにはすでに目的あるいは意志の如きものが観察されます。これをあたかもそのようなものがある「かのように」認識するのが認識主観の立場です。b「心理学的対象界」、人間の心ですね。これもあくまで科学的・認識対象的には「心・意志があるかの如くに」認識する、ということになります。さらにc「歴史的世界」が来ます。bでは主観的な心・意志が対象となりましたが、今度は客観的に現われた人間の心・意志が対象となります。こうした「認識主観」の深まりを西田は「漸次に所謂意識一般の立場を包んで」と表現しています。何が包むかと云えば「無の場所」です。一面でどこまでも「意識一般」(私は考える)という認識主観を離れませんが、それが他面からすると、意識がその中に自らの意志を直覚して行く過程と見られているのです。すなわち意志が次第に、生物的意志、主観的意志、客観的意志というように見られ、最後に「自由意志の世界に至る」とされます。道徳の世界ですね。しかしこうした「意志」も作用として見られている限り、「対立的無の場所」を脱しません。どこまでも目的は実現できない、ということになります。そこで「遂に自由意志の世界をも超越した時、全然意識一般の立場を脱却して真に直覚の世界に入る」とされます。この「脱却」には「宗教的覚悟」が不可欠となるでしょう。そうして最後に「此の場所に於てあるものは、全く知識の意味を失って」とあります。この「知識」とは「判断的知識」の意味ですが、これには意志の世界も含まれるでしょう。作用としての意志にも目的がある以上意志的な「判断」(282,1)があるからです。そこで「この場所」つまり「真の無の場所」に於てあるものは、「全く知識の意味を失って」しまいますが、しかしそれが「意識一般の対象界」、つまり「認識主観」の対象、意志の対象ですね。そこに於ては「唯〔真に直覚の世界の〕表現として見られるまでである」とされます。つまり我々が目前の机を見る場合、これを認識対象として見る場合(「これは机だ」、など)でも、意志の対象として見る場合(「机で勉強しよう」、など)でも実は「真に直覚の世界」(「真の無の場所」)に於てあるものが、「対立的無の場所」に映されてその「表現」となっている、ということです。この場所はどこまでも対立を含みますから、この表現もどこまでいっても汲み尽くされるということはありません。今日はここまでとしましょう。
(第95回)