述語として限定することのできない何物か

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」「五」の第4段落286頁14行目「此の如き直ちに直観の場所」から同段落287頁7行目「その間に随意的意志が成立するのである」までを講読しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「直観面は知識面を越えて無限に廣がる故に、その間に随意的意志が成立するのである。」(287, 6-7)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「直観の述語面に於てあるもの」は「直観面」から見れば「状態としての意志」であり、「知識面」から見れば「作用としての意志」であるといわれる。そして、「直観面は知識面を越えて無限に廣がる故に」、すなわち、「状態としての意志」は「作用としての意志」を越えて無限に廣がる故に、その間に「随意的意志」が成立するといわれる。しかし、どこから見れば「随意的意志」が成立するといえるのだろうか。この「随意的意志」の成立をどのように考えればよいか」(215字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
質問は明確ですね。三種の意志について、「状態としての意志」は「真の無の場所」から、「作用としての意志」は「対立的無の場所」から見たものだとすれば、その中間の「随意的意志」はどこから見たものか、ということです。何かご意見はありますか?

M

「随意的意志」も「真の無の場所」から見たものではないでしょうか?「随意的意志」は「もっとお金が欲しい」といったような、前を向いて、「こうありたい」という在り方です。その中にいる間は「善い」と思っているが、後になって考えると何故そうしたのか、そのことに気付くからです。

W

後から、可能性に開かれていることに気付くというのは分かります。バッティングセンターでボールを打つ時、そのつどこれしかないと思って打とうとするんですが、空振りをする。そうするとその可能性に気づきます。そうして次にまた今度はこれしかない、と思うんです。

M

それはどこまでも悩んでいる状態ですね。それは「真の無の場所」から見た在り方とは違いますね。そうするとこの悩んでいる状態はその一歩手前ということになると思います。
佐野
西田はこの箇所では、「知覚面」「思惟面」「自覚的意識面(対立的無の場所)」と、「直観面(真の無の場所)」の4つに分けて考えていますが、「対立的無の場所」と「真の無の場所」の間に、もう一つ「随意的意志」が成り立つ場所が必要だということになりますね。西田はこの論文の最後に「特に尚直観の問題には入ることができなかった」(289,4)と言っています。後の第5巻所収の「叡智的世界」では、この「知的直観の場所」が「真の無の場所」の前に置かれています。それが「知的直観の一般者」すなわち「叡智的一般者」です。西田は、それに於てある「叡智的自己」に知情意の三種を考え、「知的な叡智的自己」「芸術的直観」「叡智的意志」を挙げています。最後の「叡智的意志」は「良心」(自分自身を見るもの)の立場で、ここで知的直観の内容である「善のイデア」とそのつどの「随意的意志」が対立し、「悩める自己」が成立するとされています。ですから「場所」の論文では「随意的意志」が成り立つ場所というのは書かれていないけれども、後にそれは「直観」というものをさらに考えることによって「叡智的一般者」になって行く、そのように言えるかもしれません。

W

それは分かるんですけれども、その場合、「善のイデア」とか「至善」というものを前提していいのかなあ、と思います。

R

善を為せというのは良心の声です。これは事実です。猫が車に轢かれそうだとか、池に子どもが落ちそうだとか言う時に直ちに聞こえてきます。それを反省すると、いろいろ「自分」都合のものが出て来てしまいますが。

M

池に子どもが落ちる例は(もとは『孟子』にあるものですが)『善の研究』の最後の「知と愛」にも出て来ますね。

W

それも分かるんですけれど、そういう声も随意的意志ではないかと。逆に言えば行為(意志)の根拠を「善のイデア」に回収していいのかな、それを前提していいのかな、と思うのです。禅の五祖法演の「夜盗」の話にもありますが、そのつどの状況の中に投げ込まれ、これしかないとやって行く中で変わって行く、それしかないんじゃないかと。
佐野
実際には、我々はぐちゃぐちゃ考える以前に、というよりそれも含めて、すでに状況の中に投げ込まれていますし、生き方としてもそうした考え方はさっぱりしていて魅力的ですが、他面で我々は言葉で(ぐちゃぐちゃ)考える意識的存在であることを一歩も出ることはできないのではないでしょうか?言葉を用いる以上、その言葉の何であるかは漠然と理解されながらも、それが何であるかはどこまでも分からない。そこにイデア論が出て来ることになるのですが、これをどう考えるかが問題なのでしょう。またそのつどの状況の中での随意的意志しかない、ということになると、根無し草のように流されているだけだというような虚しさしかありませんね。しかし先程の「夜盗」の話でも、本人はそのつどの状況の中で「これしかない」と決断して苦境をおのれの才覚で切り抜けたわけですが、実は本人が気づかないところで、夜盗の奥義を伝授されていた、ということに気付くことがあり得るわけです。逆に言えばすべてを「随意的意志」に回収できる訳でもないとも言えそうです。プロトコルはこのくらいにして講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(287頁7行目~15行目)
佐野
まず、「判断とは一般の中に特殊を包摂することであり、変ずるものは相反するものに移り行く」と一般的に述べられます。ここからは「働くもの(変ずるもの)」を見る、それについて判断するとはどういうことかが論じられます。そうしてまず「変ずるものを意識するには、相反するものを含む一般概念が与えられて居なければならない」とされます。この「一般概念」とは、〈この木の葉の赤〉の場合、何になりますか?

A

〈この木の葉の色〉です。
佐野
そうですね。次を見ます。「かかる場合、一般概念が意識面に於てあり、特殊なるものが対象面に於てあると考えられる間は、働くものを意識することはできぬ」とあります。これはどういうことですか?

A

両面に間隙がある場合です。
佐野
なるほど。たしかに〈この木の葉の色〉が「意識面」に於てあり、〈この緑〉ないし〈この赤(この緑ならざるもの)〉が「対象面」に於てあると考えるならば、両者の間には間隙がありますね。この間隙は物と性質の区別でもありますが、我々は普通こうした両面を区別します。しかも〈この緑〉と〈この赤〉とが「時間」によって隔てられていれば、変化は矛盾なく説明できるし、普通我々はそうしています。しかし西田はそれでは「働くものを意識することはできない」と言います。ではどういう場合に「働くもの」が意識されるのか。次を読んで見ます。「唯、対象面が意識面に附着した時、即ち一般的なるものが直に特殊的なるものの場所となった時、働くものが見られるのである」。〈一般=特殊〉ですね。〈この緑〉(特殊)がそのまま〈この木の葉の色〉(一般)と隔てなく一つになっている在り方です。「矛盾」ですね。こうした矛盾において「働くもの」が見られ得ると。ここまではいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
次を見ます。「対象面が意識面に附着するということは対象が判断するものとなり、意識が変ずるものとなることである」とあります。普通は「対象」が変じ、「意識」が判断するのですが、逆になっています。しかし次を見ると「併し対象面と意識面、主語面と述語面とが単に一つとなってしまえば」とありますから、「対象面が意識面に附着する」とは、所謂主客合一で、その場合「対象」が判断し、「意識」が働くものになる、というのです。しかしそれが単に主客合一にすぎないとすれば、そこには「働くものもなく、判断するものもない」ことになってしまいます。ではどうしたらよいか。「かかるものが見られ得るかぎり」とありますね。「かかるもの」とは?

B

「働くもの」、「判断するもの」だと思います。
佐野
そうですね。そういうものが見られ得る限り、「述語面が主語面を包むものでなければならぬ」。どういうことですか?

B

重なるということではないですか?
佐野
そうですね。さらに「包む」とは「包んで餘ある」ということで、述語面が主語面を越えて広がるということです。

C

どうしてそうなるのですか?

D

次に「而して判断意識の性質よりして何處までも斯く考うべきである」とあるように、包摂判断とはそういうものだからではないですか?
佐野
そうだと思います。次へ参りましょう。Eさん、お願いします。

E

読む(287頁15行目~289頁5行目)
佐野
「変ずるものが相反するものに移り行くということは述語として限定することのできない何物かがあり、之によって述語となるものが限定せられると共に、その物は又すべてに就いて述語となることを意味する」とありますね。文中「之」と「その物」は何を指しますか?

E

どちらも「述語として限定することのできない何物か」です。
佐野
そうですね。ところでこれは何を言っているのでしょうか。難しいですね。「相反するものに移り行く」とは例えば〈この木の葉の色〉の〈この緑〉が〈この緑ならざるもの=この赤〉に変ずることでした。この場合「述語として限定することのできない何物か」は何になりますか?

E

〈この木の葉の色〉ではないでしょうか?
佐野
そうでしょうね。確かにそれは〈この緑〉だとか〈この赤〉というように述語として限定できない。しかしそれによって「述語となるもの」、つまり緑だとか赤だとかが「限定せられる」。矛盾ですが、「変ずるもの」の場合はこうならざるを得ない。また「述語として限定することのできない何物か」は「すべて」、つまり〈この緑〉だとか〈この赤〉だとかについて「述語となる」。ただしこの場合も包摂判断で考えます。

E

よく分かりません。別の例はありませんか?
佐野
そうですね。「佐野之人の生業」が述語として限定できない何物か、と考えましょう。それが自己限定して、山大の職員となり、年金生活者になる。どうですか?

E

すごくよく分かります。
佐野
そうして「佐野之人の生業」は包摂判断で言えば、「山大の職員は佐野之人の生業である」というように述語になりますし、「年金生活者は佐野之人の生業である」とも言えます。次へ参りましょう。「主語的に云えばそれは個体というべきものであり、述語的に云えばそれは最後の種というべきものであろう」とあります。文中二度出て来る「それ」は何を指しますか?

E

やはりどちらも「述語として限定することのできない何物か」です。
佐野
そうですね。その場合「主語的に云えばそれは個体というべきものである」とは、例えば〈この木の葉の色〉という主語が自己限定して〈この緑〉(個体)になるということです。「述語となる」という意味で「述語的に云えば」、「述語として限定することのできない何物か」が「最後の種というべきもの」になって〈この緑〉や〈この赤〉の述語となります。この場合も〈この緑はこの木の葉の色である〉、というように包摂判断で考えます。ここでの西田の主張は「働くもの」(変ずるもの)を見たり、判断したりするにはこの両面が必要だということです。

G

「最後の種」って何ですか?
佐野
まず種とは、類、種、個と言われる場合の種です。例えば「佐野之人は日本人で人間だ」という場合、「佐野之人」が個、「日本人」が種、「人間」が類になります。類を限定したものが種で、それにどんどん種差を加えて行って限定していく。日本人で、山口県人で、下関在住で、と限定していきます。でもどこまで行っても「佐野之人」という個にはたどり着きませんね。ですが例えば〈この緑〉や〈この赤〉を個と考えたら、〈この木の葉の色〉が「最後の種」になり得ますね。それに限定を加えれば個に至る。(じつは「最後の種」はここではきわめておおざっぱにしか論じられていません。〈この木の葉の色〉が「主語的に、云えば」「個体と云うべきもの」であり、「述語的に云えば」「最後の種と云うべきもの」というのも、目下の文脈の中で解釈したものです。「変ずるもの」ないし「最後の種」については『働くものから見るものへ』の最終論文「知るもの」(330,14-338,9)において改めて論じられることになります。その議論はそれまで待つことにしましょう。)ここまでで何か質問はありませんか?

G

それは変ずるものの基体を認めるということですか?
佐野
(ここからの発言は後から考えたのものです)今の例で言うと、〈この木の葉の色〉が基体になっていますね。変ずるものの基には変ぜざるものがなければならない、ということがまずあります。しかし述語面は主語面に附着してこれを包んでいますから、これは変ぜざるものでありながら、すでに〈特殊=一般〉という矛盾です。したがってこれは所謂質料のような基体ではありません。また現段階では〈この木の葉の色〉の変化ということで、〈この木の葉の色〉という一般概念に於て働くものが見られ、また判断もなされています。しかしこの「一般概念」はさらに拡大深化が可能です。そうしてそれが芸術的対象になれば、木の葉の変化は「真の無の場所に於てある」ことになります。今日はここまでとしましょう。
(第73回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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