知るということ―「作用」への批判

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第3段落312頁7行目「真の認識主観は思惟と広義における直覚との統一」から313頁14行目「尚対象的意義を出し得たということはできない」までを読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「意識の背後には何物をも考へられない、何物かの上に立つならば意識ではない、意識は何處までも直接でなければならぬ。何らかの意味に於いて対象化せられたものは意識ではない、…我々に真に直接なる反省的意識は、かゝる意味における作用的なるものをも越えて、無限に深い奥に還らねばならない」(313頁3行目〜11行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「フィヒテの場合、認識主観(自覚)は形而上学的に実体化・対象化されたものであるから、それにおける「反省」が対象化されたもの(作用)になってしまう。その意味で、西田は「真に直接なる反省的意識」は対象化の方向ではなく、「無限に深い奥」への還帰、即ち「内在的超越」を主張している。そのことはどう考えるか。(フィヒテの場合、見つつ描く自分と描かれたものとの間に間隙があるように思う。誰の自己でもなく誰の自己でもある自分と、他ならぬ自分とは常に一致しない。西田がいう「無限に深い奥」へということはどのようにそれらの一致を可能するのか)」(261字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
何か補足はありますか?

R

見つつ描く自分が〈誰でもあって誰でもないような自己〉というのはよいのですが、描かれたものが〈他ならぬ自己〉とあるのを、「偽我」と訂正したいと思います。
佐野
前回、自己に三つが区別されましたね。デカルトの〈考える我(cogito)〉、カントの統覚、フィヒテの意志などは誰でもあって誰でもないような自己です。図と地で言えば地です。これが一つ。次に自我自体は対象化できませんから、自我自体でないものを自己として押さえることで形成される経験的な自己、前回のことばでは〈意識的自己〉が二番目。これが〈偽我〉と呼ばれました。そうしてそうした偽我でない、〈他ならぬ自己〉つまり〈真の自己〉が三番目です。このうち「書かれたもの」はこの二番目のものだと。

R

はい。フィヒテの場合、一番目の自己と二番目の自己がどこまでも一致しない。これに対し、西田の場合は「無限に深い奥」において一致すると思います。

W

シェリングの場合、主客合一ですから、見るものと見られるものが一致するのでは?

R

シェリングの場合、主客合一したものが絶対者とされています。これだと奥にはなりません。

W

しかし「奥に還らねばならない」とすると、その「奥」が帰る場所・自分として対象化されていませんか?

R

「奥」においては対立がない、ということです。

T

眼は眼を見ない、と言いますよね。それと同様に自分自体を見ることはできない。でも鏡があれば見えるよ、ということで、何かに照らして自分が何であるかが見えるようになるが、西田はその立場を取らない。そこに見ようとする自分がいる、そうした意志としての自分が根底(「奥」)になっているように思います。
佐野
これまでの議論では〈誰でもあって誰でもないような自己〉と〈偽我〉の関係が論じられていますが、〈真の自己〉はどうなるのでしょうか?「描く自分」の意志があっても、描かれたものはどこまでも自分自身ではない、つまり〈真の自己〉ではない。判断や自覚の事実から出発して、そこを一人でどこまでも深堀しても、〈偽我〉から〈真の自己〉への転換は起こらない。そこには他者の契機がどうしても必要な気がしますが、他者自体に出会う、という経験が不可欠となる。しかしそんなことははたしてあるのか、どこまで行っても人間は役割を通じて関わる以外ないのでは?

K

「考える」ことによってどこまでも言語化していっても、〈真の自己〉にはいきつかない気がします。外に向って何かを表現するするということも必要なのでは?

T

内と外はメビウスの輪のようにつながっているので、外に向かうことがじつは内に向かうことになる、内を深堀するようで外に向っているのかも。
佐野
その「じつは」というところに気づくのに、やはり決して対象化されない(対象化以前の)絶対的他者が不可欠なのでは?そういう絶対的他者によって目覚めさせられる、ということがないと、偽我が偽我であることが照らされ、偽我が偽我のままで真の自己になるということも出て来ないと思うのです。今読んでいるテキストは「判断」や「自覚」という事実から出発していて、それは誰もが事実として成立していることを認めるものではありますが、動物は観察する限り、自覚(自己意識)を伴った判断というものをしていない。それが人間の場合、自我の目覚め、というような目覚めによってそうしたものに目覚める。この目覚めはどうしたって自分の力じゃない。西田は「真に直接なる反省的意識」の立場に立つ、と言っていますが、その立場自体がとても不思議なものだと思うのです。この点についてはさらに考えて行きたいと思います。プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(313頁15行目~314頁9行目)
佐野
これから「知る」ということを問題にする、ということですね。まずは「心と物とが相対立する」ということ、つまり「主客の対立」を前提として、「知る」を「心の働き」(作用)と考える立場が紹介されます。こうした「素朴的」な考えを「認識論者」も前提している、と西田は考えます。彼らは「知る」ということを「構成作用」と考えており、このように対象へと向かう関係(「対象的関係」)を「極限にまで推し進めた」(これが「洗練して居る」ということだと思いますが)が、もともと主客の対立を前提しているのだから、こういう意味での「認識主観」の「性質が根柢的に変ずる訳ではない」、そのように批判します。次をBさん、お願いします。

B

読む(314頁9行目~315頁10行目)
佐野
以上の主客の対立を前提として、「知る」ということを心(主観)の「作用」と見る見方に対して、西田の立場が表明されます。「私は全く従来の考えを棄てて純真に判断意識其者の自省から出立して見たいと思う、判断意識から出立して、主客の対立が如何にして考えられ、知るということがいかなることを意味するかを明らかにしてみたいと思う」。力強い言葉ですね。ここからは西田が「知る」ということを「場所に於てある」と結論付けていくわけですが、そこに至るまでの西田の遍歴が大変よく整理されています。まず「包摂判断」から出立する。そうして包摂判断の特殊の方向を押し進めて、すべて「客観的なるもの」を「主語となって述語とならない第一本体」に求める。それと「共に」これに反して包摂判断の一般の方向を押し進めて、「主観的なるもの」を「述語となって主語とならないもの」に求め、これを「意識」ないし「場所」と考えた、とされます。先の「第一本体(実体)」はアリストテレスが基になっているのに対し、この「場所」はプラトンの「イデヤの場所(イデアを受け取る場所:コーラ)」が基になっているとされます。かくして「判断」とは「場所に於てある」ということになり、これが「述語となって主語とならない超越的場所の立場からして」「知る」ということの「根本義」だとされます。

B

「超越的場所の立場」とはどういうことでしょうか?
佐野
普通の判断、例えば「犬は動物である」といった判断では主語が「犬」で述語が「動物」です。その際主語が特殊、述語が一般ですが、この関係は相対的なもので、どちらも一般概念です。この「主語」(特殊)の方向を極限にまで推し進めると、「この犬」というような個物になりますが、これが「主語となって述語とならないもの」です。実際「この犬」は述語の側には来ませんね(「それはこの犬です」というのは考えられますが、これは包摂判断ではありません)。それに対応してこうした個物を包む「述語」(一般)が「意識」です。これは以前「真の無の場所」と言われたものです。ここには「どこまでも語り尽くすことの出来ないもの」(個物)がどこまでも語り尽くせないままに、無限に深い場所(真の無の場所)から立ち現れている、というような状況が想定されていますが、ここ、つまり特殊が個物となる所、同時に一般が「意識」となる所には「超越」が含まれています。それで西田は「超越的場所」と言ったのでしょう。この「意識」はさしあたりカントの「意識一般」を引き継ぐものと考えられると思います。図に対する地ですね。そうしてこの場合の図に当たるのが「個物」です。こういう経験はきわめて特殊だと考えられますが、どうでしょうか?

B

美しさに心を奪われて、われを忘れるというようなときに、言葉にならないものに出会う経験をしますが、そういう場合ではないでしょうか?
佐野
純粋経験ですね。言葉にならない経験は、絶句する、というような状況でも起こりえますね。

B

でもそういう経験も、すでに後からの説明になっていると思います。
佐野
なるほど。そうなると、「純粋経験」、あるいは「絶句」という言葉以前(これも言葉ですが)、は捉えられない、ということになりそうです。だとすると、無の場所と個物、これは矛盾した領域における話であり、西田は、個物は無の場所においてつかめる、と思っている節がありますが、それは同時にどこまでもつかめないということの裏返しでもある、ということになりそうですね。因みにテキストではところどころに「〔判断〕作用」批判が挟まれています。314頁11行目の「判断作用というもの…残されるのである」と、同15行目~315頁1行目の「肯定否定と…考えであるから」がそうです。このうち「肯定否定ということから出立すれば、客観的なるものを価値と考うべきであろうが」で念頭に置かれているのは新カント派でしょう。次へ参ります。Cさん、お願いします。

C

読む(315頁10行目~316頁1行目)
佐野
ここも「作用」批判から始まっていますね。

C

「作用という如き考えを如何に純化して行っても、一種の範疇を極限にまで進めたということになる」とありますが、「一種の範疇」とは何ですか?
佐野
はっきりしませんが、「作用」という範疇のことではないでしょうか。続いて西田の考えが述べられますね。「真の認識主観は私の所謂超越的場所という如きものでなければならぬ、すべてを包むものでなければならぬ、所謂主客の対立も之に於てあるものでなければならぬ」。個物も、〈真の自己〉も、ということになるのでしょうね。今日はここまでとします。
(第92回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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