悪は存在するか
- 2019年12月7日
- 読書会だより
第25回読書会だより
本日の哲学的問は「悪は存在するか」です。
どういうことですか。
私は善は嫌いです。善は偽善だからです。自分のことを無意識に「いいひと」だと思っている人や、自分のことを正しいと(正論を)主張する人は嫌いです。
それが問いとどう関係するのですか。
私利私欲の悪も結局は公共の利益を目指すようになるんです。そんな意味を込めてそこには「悪は自己限定して善になる。その生成のプロセスが発散するあらゆる汚名を一心に引き受け、事績と悔恨と社会的制裁と幾多の試練を乗り越えて、自力で構成し昇華を目指す」と書いたんです。
悪に自浄能力があると。
『善の研究』には悪については真の自己ではないというように簡単に書かれていますが、『倫理学草案第二』でも「人心の疑惑」でも悪の問題は西田にとって深刻な問題でした。ですから『善の研究』で悪について書かれていない、そのことの意味が重要だと思います。人間は何々したい、ということを常に言っています。それは善がまだ達成されていないということで悪を抱えるということです。根柢は悪です。それをやめることはできません。それが苦しい。西田の言葉でここにメモしてあるのがあるんです。「自由なる自己其物を見る良心は深い自己矛盾でなければならない。自ら良心に恥じないなどと云ふものは良心の鈍きを告白するものである。深い罪の意識こそ深く自己自身をみるものの意識である。深く自己自身の中に反省し、反省の上に反省を重ねて反省其の者が消磨すると共に真の自己を見るのである。深い罪の意識の底に沈んで悔い改める途なきもののみ神の霊光をみることができる」。(新全集4巻142頁)
「絶対に悔い改められないところに神の霊光を見る」というところが大事ですね。もっと言うと人間は自らの悪に向き合うこともできないと思いますよ。自分を善人だと思っているんです。それをやめることはできない。
その話を聞いて思い出すのはアーレントです。ユダヤ人の大量虐殺を執行したアイヒマン、彼は自分のしたことが悪だとは思っていませんでした。直視できないんですね。一番いけないのは思考停止だと思いますが。
面白いところにまで深まってきましたが、この辺でテキストに入りましょう。
(第25回)