
カントの純粋自我、フィヒテの事行
- 2025年1月18日
- 読書会だより
前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第1段落309頁14行目「以上の考は「自覺に於ける直觀と反省」以来」から第2段落311頁2行目「知的自覺によつて可能なるのである。」までを読了しました。今回のプロトコルはJさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは①「自覺に於ては、考へるものと考へられるものとが無條件に一である」(310頁3行)と②「統一の純なる形式的言表が「私は私である」Ich bin ich であるのである」(310頁10行)でした。そうして「考えたことないし問い」は「キーセンテンスとして挙げた➁は、①を言い換えたと解していますが、その理解でいいのか。20024年12月7日付の「読書会だより」の中で、西田はリッケルトの「私は思う(Ich denke)」を批判していると読みましたが、「私は私である(Ich bin ich)」との違いをどのように捉えたらいいのか (表現より、その意図することの相違なのかも知れませんが)」(151字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
「Ich bin ich」が「考えるものと考えられたものとの無条件に一」としての「自覚」の言い換え、というのはその通りだと思います。これと西田が理解した限りにおけるリッケルトの「Ich denke」との違い、ということですか?
J
ええ。そうなんですが、それより以前にデカルトの「私は考える、それ故に私はある」というのと、フィヒテの「Ich bin ich」が同じような感じがするんですが、そこのところがはっきりしません。
分かりました。まずデカルトですが、彼は「私は考える、それ故に私はある」としましたが、これは「私」は「考えている」のだから、その主体としての「私」はある、という意味ではありません。どのようなものを考えても、それを図とするならば、そうした図に対する地が「私は考える」という仕方で存在する、という意味です。この「私は考える」としての「私」の存在は、地として決して対象化できませんから、経験できるような実在ではありません。ですからもしこの「私」の存在を主張するとなれば、それは経験的な実在としてではなく、経験を越えたという意味で「超越論的」な「実在」ないし「実体」として主張することになります。ここまで、分からないところはありますか?
J
大丈夫です。
カントはこうしたデカルトの議論を、誤謬推理として退けます。詳しくは申し上げられませんが、要するに、対象化できないものを対象化・実体化したということです。西田のリッケルト批判はこれに関係します。リッケルトはカントの「Ich denke」を「自己意識」としてではなく、論理的になければならない認識主観と考えますが、リッケルトはこの「抽象的思惟の主観」を経験的心理学ではない、「先験的(超越論的)心理学的反省」によって「実体」化した、そう西田は批判しているのです。このまま続けてもいいですか?
J
お願いします。
カントの「超越論的統覚」(「Ich denke」)は「自己意識」ですが、同時にカントは自我自体の知的直観を認めません。ところが、フィヒテはこの自我自体の知的直観を認めます。こうなると、デカルトの「私は考える、それ故に私は有る」が別の仕方で復活します。フィヒテは「Ich denke」を働きと捉え、これが知的に直観される、とします。そうするとその直観によって、その働きは「ある」とされますが、その時すでにその「ある」とされた働きを考える働きが成立しています。これも例の〈英国にいて完全なる英国の地図を描く〉という喩えを想い起すとよいと思います。このように「ある」ということと「行為」が同時に成り立つのが「事行(Tathandlung)」であり、「自覚」です。ここにおいては「考えるものと考えられるもの」、これは「意識する意識と意識された意識」と言ってもよいですが、それが「無条件に一」となります。そうして「その統一の純なる形式的言表が「私は私である」Ich bin ichである」ということになります。
J
これでだいぶ頭の中が整理できました。
しかし「私は私である」というのがたんなる同語反復でない限り(同語反復A=Aの場合は、このAを外から見る視点が想定されますが、「私は私である」の場合にはそうした視点が成立しません)、そんなに簡単に言えるのか、という問題があると思います。これはアイデンティティの問題で、そんなに簡単に言えるのなら、誰も苦しみはしないだろうと思います。人間は誰しもこの「私」ということで苦悩するのですから。そもそも「私は私である」ということをことさらに言わなければならないのは、「私が私でない」という在り方に晒されているという状況です。そこでここでは「私は私である」ということが「人間」において成り立っているか、そこを考えてみたいと思います。
S
「私」というのはどうも腑に落ちない気がしています。ないような気がしたまま今まで来たという感じです。他者との違いとして意識されますが、なんだかわからないものです。だから主体性と言われても困ります。『善の研究』でよく「統一力」というのが出て来ましたが、たしかに「私」において「統一性」は感じますが、硬い塊、というような感じではない。Fさんは、いまフランスにいらっしゃいますが、そうした「コア」な自分というものを感じますか?私はいつも自分のことを「余(あまり)」と感じていて、地と言うのでなく、確固たる自分がいるとは思えないんですが。
F
私は「私が思う」とか「私がある」というのがどう成立したかに関心があります。
R
やっぱり「人間」は安心感が欲しいのではないかと思います。「私はこれこれである」、と言いたい。でもそれは根本に「不安」があるからだと思います。
S
野山にいるときには「自分が誰」とは思いませんよ。
R
自然からその外に出ると自分を意識するのでは?
S
たしかに野山にいるときには、鳥を見ていても、「自分が」見ているとは思いませんね。でも現実社会に出てくると、「自分」がなければならない、というように思っていますね。そこには内発性はなく、外から追い詰められている感じしかない。
F
意識された「私」に、なにか確固とした固定点があるとは思えません。例えば「私は真面目である」にしても、いくらでも揺らぎます。
S
もしFさんが世界征服を成し遂げたとして、私=宇宙、となってすべてが意のままになった場合(朕は宇宙なり!)には、(そうした揺らぐような固定点ではない「私」を獲得できたのだから)、「Ich bin ich」と言えるのでは?
むしろそれが本当に成就したらもはや「Ich bin ich」と言う必要もなくなりそうですね。フィヒテの「Ich bin ich」(自我の根本的な自己定立:第一根本命題)も、「非我(das Nicht-ich)」からの「衝撃(Anstoß)」によって制約されることが第二根本命題によって明らかにされます。そこから「Ich bin ich」は「当為(Sollen)」となって(「Ich soll ich sein」)、自己であるべし、の「無限の努力」になって行きます。ヘーゲルはこうした否定的な無限進行の只中に成立している肯定的なものに目覚める、それが「思弁」だ、そのように考えます。ヘーゲルの場合、自我がどこまでも自立、さらには自立のための承認を求めて行って、それがどこまでも成就されず、最終的に「罪とその赦し」という仕方で、「宗教」において神との和解が成立することになります。もちろんこれは「めでたしめでたし」ということではなく、その「赦し」はつねに「罪の自覚」と一体です。そういう仕方で自我は神と和解を得て、「精神」となるのですが、そうした和解をキリスト教の物語のような「表象」ではなく、真に概念把握するのが「哲学」だ、ということになります。ここでも「私」はどこまでも「私」を求めざるを得ないのですが、それが徹底的に崩れることによって、そのことの只中で、神との和解、ひいては自分が自分である、ということが成立する、そのように考えられているようです。プロトコルはこの位にしてテキストに入りましょう、と言いたいところですが、前回の予告の通り、まずはフィヒテについて西田が講演したものがありますので、それを見て置きましょう(旧全集第14巻91頁10行目~95頁3行目)。Aさん、お願いします。
A
読む(91頁10行目~92頁4行目)
ここでは「事行」と「自覚」について述べられていますね。
A
「働き」と「はたらき」は別のことですか?
微妙な感じがしますが、区別はないと考えた方がよいと思います。それでは次をBさん、お願いします。
B
読む(92頁5行目~9行目)
ここでは「自覚」において、「知る」「考える」という「はたらき」と「在る」ということが一つであることが述べられています。「在る」と言う時にはそこにすでに「知る」働きがあるからです。それでは次をCさん、お願いします。
C
読む(92頁10行目~16行目)
「事行」や「自覚」というのはフィヒテ哲学のもっとも大切な箇所で、「むづかしい」けれども、「これ程はっきりした事実もない」と言われます。そこで自分は自分である、ということが成り立つわけですが、どうでしょうね。難しいところです。次をDさん、お願いします。
D
読む(93頁1行目~6行目)
フィヒテの「自覚」とデカルトの「我考うるが故に我在り」が同じことを言っていること、その根本に作用(我考うる、の働き)の「知的直観」があることが述べられています。この「知的直観」をカントは認めません。次をEさん、お願いします。
E
読む(93頁7行目~13行目)
カントの純粋自我の「純粋統覚」つまり「Ich denke」はあらゆる表象に「伴う」とされますが、西田はこのカントの自我がフィヒテの事行にならなければならない、とします。これは、カントは認めないでしょう。次をFさん、お願いします。
F
読む(93頁14行目~94頁1行目)
ここでは「物自体」がフィヒテの「事行」にほかならないことが述べられます。続いてGさん、お願いします。
G
読む(94頁2行目~6行目)
ここではカントの「物自体」が「知るもの」と「知られるもの」が別物だという考えを除き去ることができなかったところから生じるとし、「事行」において「知るものと知られるものは円環をなしている」とされます。次をHさん、お願いします。
H
読む(94頁7行目~10行目)
ここで西田は「物自体」をカントの「純粋自我」さらにフィヒテの「事行」とすることに「少からぬ議論のあること」を一応認めつつ、「兎に角」と来て、「我々の世界のすべてはこの自己同一の考えから何時でも出発して考えられねばならぬ。此の自己同一の我は何人も疑うことの出来ない明白な事実である。これを疑うことは我を否定することである」と力強い口調で述べています。ここには西田の強い信が感じられますが、それだけに同時に根本的な問題もそこにあるはずです。次をIさん、お願いします。
I
読む(94頁11行目~95頁3行目)
いきなり「物自体をかく考えることによって、カント哲学は矛盾なしに総ての問題を説明することが出来る」と豪語していますね。「自覚の上から見ればよい」とも。そうして具体例が述べられます。「松の木が立っている」のも「私が私であるから」と言います。
I
独我論的な感じがしますが。
これだけ読むとね。しかしここで言われている「自我」は「物自体」と一つになった、絶対的な自我です。自然界も精神界もこの上に立つような「自我」です。そうして「カントでは単に価値(真善美:引用者)の根柢であった静的な事実」―これは自然界精神界の根柢にある「Ich denke」という自覚のことを言っているのでしょう―が、フィヒテになって来ると実在の根柢となり、動的発展的な事行となった」とされています。そうしてこのフィヒテの考えがヘーゲルに受けつがれて、「世界は理性である、理性の自覚が世界である」とされた、そのように述べられます。ただ、ヘーゲルの場合、自覚の一々が否定され、最後に至っても、徹底的な否定が同時に肯定である、というように考えますので、単純な自覚ではありません。参照はここまでにして、本来のテキストに戻りましょう。ではAさん、お願いします。
A
読む(旧全集第4巻311頁2行目~312頁6行目)
ここでは「認識論」は「自覚」の問題に入って行かなければならないこと、それはどこまでも「内在的」であって、「我々の経験界を構成する範疇を、知覚的所与なくして超経験界に押し進める」という意味での「形而上学的」では決してないこと、そうしてフィヒテもフィヒテ以後の所謂ドイツ観念論もそういう意味での「形而上学」ではなく、西田自身もそうした「形而上学」に陥ったことは一度もないことが述べられています。そうして「カントに還れ!」は新カント派の標語ですが、このように自覚の問題を深く考えていくことこそ、リッケルトのカントではなく、カントのカントに還ることだ、そのように言います。
A
これ、左右田博士も読んでいるんですよね。
ですね。さぞむっと来たでしょうね。
B
カントも怒ると思います。
今日はここまでとします。
(第90回)