意志の自覚
- 2024年11月9日
- 読書会だより
前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第4段落冒頭から第5段落307頁12行目「認識主観を自由にしたいと思うのである」までを読了しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンス(KS)は二つあって、「理性的KS: 作用の意識としては、意志の意識も知覚の意識と同様に直接である」(305頁9-10行目)と「感情的KS: 意志的体験の内容は論理によって限定せられるものではない、却っていつも之を破るものである」(307頁4-5行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「ある日、あるものが理由もなく以前とちがって見えたとき、それはリッケルトと西田のそれぞれの立場においていかに説明されるか。認識における対象化は、それ自体がとても複雑なことのように思える。意識によってパッケージされた形式と内容はもともと不完全なもので無限にあるものの一部(記憶された体験の平均値あるいは代表値)でしかないとしたら、意志の優位は自ずから説明がつくのではないか。あるいは「あるもの」のカテゴリーが幾つもあって、私(たち)はその都度に異なる対象界を見ているのだろうか」(236字)でした。また「おなじものを知覚しながら知覚していなかった事例として同時期に製作された次の2作品をあげる」として「映画「RUMBLE」(2017年カナダ)と映画「グリーンブック」(2018年アメリカ)が参考として紹介されました。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
議論が深まりやすいように少し整理しましょう。「ある日、あるものが理由もなく以前とちがって見える」ことをどう説明するか、ということですが、「理性的KS」では「意志の意識も知覚の意識と同様に直接である」と言われているけれども、知覚の意識によって認識されたものは、「無限にあるものの一部」でしかない以上、「感情的KS」で「意志的体験の内容は論理によって限定せられるものではない」とあるように、根本に意志的体験があって、それを(知覚として)「見る」時に限定される、だから「以前とちがって見える」ということが起こりうる、というように説明できる。だから「意志の優位」は明らかだ、そのようにおっしゃっていると思われます。この理解で大丈夫でしょうか?
はい。
そうすると、この問題は知情意の問題になりそうです。西田は『善の研究』以来、知情意の同一性と、知に対する情意の優位を同時に説きます。まず何故知より情意を深いと西田が考えたのか、それを問題にしたいと思います。
生まれる順番だと思います。先に起こったから深い。生まれた子供に知はありませんが、情意には圧倒されます。これは生きんとする意志だと思います。大人でも朝目覚めたときにまず働くのは情意です。知はそれからです。
なるほど。目覚めたときに我々はまずここはどこ、私は誰というように状況確認をしますね。ここが教室で受講生だということが分かれば、次に何をすればよいかが分かりますが、これが分からないと何をしてよいか分かりません。これは知を求めているのですが、それはそれより以前に生きんとする意志があるからだと。
でも最初の意志も与えられた状況がなければ働かないと思います。生まれてしまった、目覚めてしまった、というのがその与えられた状況に当たると思います。
たしかに赤ちゃんにしてもへその緒を切られた瞬間泣き始めますね。息をしようとして。これが生きんとする意志だと思いますが、へその緒を切られるまでにはそれがない。目覚めたときにも同じようなことが言えるかもしれません。それ以前は非意志的です。
なるほど。ですが、こうした考察をどこで行っているか、を考える必要があると思います。そうするとこれはもう、明らかに知の立場ですね。知より情意の方が先だとか深いとか言うのも知の立場です。だとしたら、知が先です。それにもかかわらず、何故西田は知より情意の方が深いと言うのか、そこを考える必要があると思います。
知によって捉えられない、知の限界があって、そこに近づけるのが情意ということではないでしょうか?
情意によってよって捉えられるものは、限定できないものだと思います。参考に挙げさせてもらった「グリーンブック」でクラシック音楽のピアニストが「ジャズってズレなんだな」と語るシーンがあります。分からないものが「ズレ」ですが、これを情意と考えてみたいのです。「Rumble」の方は、ブルースは黒人奴隷の歴史から生まれたもの、ロックは白人のもの、という通説がありますが、ネイティブ・アメリカン(黄色人種)の音楽がその底流にあったというドキュメンタリーです。これも通説を破るものとして情意的なものの顕現の体験だと思います。
西田は情意ということで美術家などの例を出すことが多いですが、たしかに芸術作品は言葉で説明できるものではありませんね。その意味では知は浅い。しかし外から見て、それについて論ずる以上、その浅いところから入るほかはないですね。でも情意というので押し切ると、これもおかしなことになる。村上春樹の小説を読んで、すばらしい、感動的だ、言葉では説明できない、以上、ということでは何も分からない。知に深浅があるのと同様に、情意にも深浅があります(そうした深浅は知においてしか顕わになりませんが)。情意体験の深さは言葉にしないと分からない。他方で、体験が深まらないと言葉も薄っぺらです。西田は知覚(知識表象)と意志(運動表象)とは我々において元来分かれていなかったが、発達の段階で分かれて行ったと『善の研究』で述べています(岩波文庫改版『善の研究』43頁)が、おそらく我々の現今目下の認識や意志の場合でも、その根源は知も意もまったく意識されないところでしょう。それが何かの機縁でそれらが分れてそれぞれに意識され、そのつどそれぞれに言葉が与えられ、見ることも、意志することも可能になるのだと思います。その際そのつどの認識(思惟)や意志の根底に知的直観があり、これがどこまでも深まっていきます。この知的直観が深ければ見る(考える)こと、行うことも深いものとなります。しかしその最後の所に宗教的覚悟という知的直観があって、それが「生命の捕捉」つまり生きること(死ぬこと)をありのままに捉える(生死を明らめる)知、だとされます(『善の研究』第1編第4章「知的直観」)。そこでは最初と同様、知も意も特別に意識されない、平常ということが成立するのでしょう。こういうことが目下の認識や意志の場合でも起こっている、ということでしょう。プロトコルはこれ位にしてテキストに移りましょう。Aさん、お願いします。
読む(307頁12行目~15行目)
「共に客観的知識」とありますが、「共に」とは?
「自然科学」と「文化科学」です。
そうですね。たとえば「ここにペンがある」というような「知覚がある」という「知覚的所与」と、「字を書きたい」というような「意志がある」という「意志的所与」が「私は考える」という思惟と結びついて判断(命題)になるわけですが、この両者が「客観的知識」とされています。こうした知識を学問まで高めたものが「自然科学」と「文化科学」だというわけです。もちろんこうした「客観的知識」といえども新しい事実(実験、資料)によって変更されることになりますが、そういうことも踏まえた上で思惟が「内容」と結合していることをもって、西田は「客観的」と呼んだのでしょう。この思惟との結合が「自覚」です。リッケルトの場合は、すべて(知覚的所与、意志的所与)が一律に判断意識の対象です。見た、あるいは意志した、ことについての判断であって、見ている、意志しているという自覚ではありません。「真の認識主観を(リッケルトがそうした如く)単なる判断主観でなく、カント自身の考えた如く形式と内容との統一の主観(構成的主観)とするならば、所与の原理と共に認識主観の意味が変って来なければならぬ」(括弧内引用者)とありますが、「所与の原理」が知覚的所与の場合には、「知的自覚」、意志的所与の場合は、「意志の自覚」ということになります。次をBさん、お願いします。
読む(308頁1行目~4行目)
「知的自覚」によって「自然界」が成立し、「意志的自覚」によって「文化科学」が成立すると書いてありますね。「文化科学の根本概念たる個性の概念」とありますが、人間の意志が問題になる歴史学などが念頭に置かれていると思います。人間の意志を問題にしない限り、歴史学における「個性」を論ずることはできないだろう、というわけです。リッケルトはすべてを判断意識の対象として知的一般的にのみ扱うからです。ついで「意志の自覚は知的自覚と同じく直接である」とありますが、この「直接」はさしあたりの意味でしょう。「ここにペンがある」というのと「字を書きたい」というのと、同じく直接的だ、という程度の意味です。根源にまで遡った議論ではない。ところが西田は「同じく直接である」と言った直後に「否却って一層深い自覚である」と言い直します。そうして「知覚の対象界」より「意志の対象界」は一層深く、我々が自覚を深めることによってそうした対象界を見ることができる、とされます。何故そうなるのか、その理由はまだはっきりしません。次をCさん、お願いします。
読む(308頁4行目~10行目)
「単に判断主観の立場のみに立って」、リッケルトの立場ですね。すべてが対象化されている。「ここにペンがある」、「字を書きたい」というところから一律に出発する。そうなるとそれはどこから来たのか、の問いには外から「与えられたもの」と言うよりほかなく、それ以上にその起源を問うなら「神の所為」とでも言うほかはない。それ以外に知覚的所与の起源としては「物自体」が考えられる。しかし「物自体」が触発して「知覚」が成立する、というのは知覚の原因を経験の外に求める錯誤として論外であるが、この「物自体」を「超越論的対象」として、「知覚の根底」に統制的な理念として用いるのは構わないし、認識構成に必要だ、と言うのでしょうね。しかし「意志の優位」を西田が説くと言っても「情意に基づく信念」、例えば「意志」のようなものを設定して、それを知覚の形而上学的な原因とすることも、あるいはそれを統制的な理念として用いることすら、「一度も考えたことはない」と言っていると思われます。ではどう考えるのか。次をDさん、お願いします。
(308頁10行目~309頁2行目)
まず「意志的体験は知覚のそれの如く直接の所与である、而もそれは知覚より一層具体的なる所与であって、知覚的所与の範疇の内に入って来ない」、と以前と同じ内容が繰り返されます。知覚は意志的体験より抽象的だということになります。その意味で意志的体験は知覚的所与の範疇(分類)の内に入って来ないし、それより根本的で深い、ということになります。何故そう言えるのか。「知覚と意志との意識的構造について詳論する暇はない」と断りつつ、「知覚の内に意志を包むと云い得ないが、意志の内には知覚を包むということができる」とその理由を述べます。これはどういう意味ですか?
「字を書きたい」という意志のうちには「これがペンである」という知覚が包まれているということだと思います。
なるほど、そう考えましたか。とりあえず次を読んで見ましょう。「意志の対象界」を構成する認識主観は「所謂自然界」を構成する認識主観より深い、とありますね。「知覚の自覚」より「意志の自覚」の方が深い、ということです。今日のプロトコルのテーマでしたね。何故深いと言えるのでしょうか。一つには先程あったように、意志の自覚の方が具体的で、知覚の自覚の方がそこから抽象されたものだ、ということがあるでしょう。自覚されたものをさらに外から眺めることによって成立するからだ、と考えることができます。もう少し読んで見ましょう。ここまでで何か分からないところはありますか?
大丈夫です。
まず「無論意志の体験其者を思惟の形式と内容との結合たる認識主観の立場に於て対象化することはできぬ」とあります。意志の体験を対象化してこれを認識(判断)対象としても、それは意志の体験「其者」ではない、ということです。「意志其者を此立場(判断意識の立場)に於て認識するとは云い得ない」(括弧内引用者)とも言われます。意志した(例「水を飲みたいと思った」)ことを認識しても、意志「其者」の認識にはならないということです。「意志の体験」(「意志の自覚」)とは意志しているその刹那に意志していることを自覚することです。その意味では「意志は全然知識を超越すると云うことができ」ます。この場合の「知識」とは判断的・概念的知識のことです。さていよいよ核心に入って来ます。それではEさん、お願いします。
読む(309頁2行目~12行目)
「経験内容」(知覚)と「思惟の形式」(カテゴリー)の統一が「自覚的統一」とか、「自覚の意識」と呼ばれていますね。「ここにペンがある」(知覚)を考えることによって「ここにペンがある」と「私は考える」、となりますが、このことによって知覚とカテゴリーが統一されると同時に、自覚が成り立つことになります。「私は考える」が地となり、「ここにペンがある」が図となります。ここまではどうですか?
大丈夫です。
ところが西田はそれに続けて「かかる自覚的統一の根柢には却って意志の意識がなければならぬ」と言います。「根柢」という言葉が出て来ましたね。何故「より深いのか」の問いに対する正式な答えがこれです。「知的自覚」の「根柢」が「意志の自覚」だからです。しかしそれはどういうことか?「意志の意識なくして知的自覚は成立しない」とも言い換えます。それを考えるヒントが次に示されます。「カントの純粋統覚がフィヒテの事行(タートハンドルング:引用者)に到らねばならなかったのも此故である」がそれです。参考までに西田のフィヒテについての講義を覗いてみましょう。旧西田全集第14巻37頁をごらんください。その7行目から13行目まで、Fさん、お願いします。
読む「フィヒテはカントの物自体を除き去り、凡ての実在は「我」の創造的作用によって存立するものと考えた。凡ての知識は自覚によって成立する。自覚は凡ゆる実在の中心となった。自覚というのは我が我を反省することである。我が我を反省するのは我が我に対して働くことである。我が我に働くのは即ち我の存在であると考えられるに至った(我の存在がまずあって、それが働くのではなく、我が働くことによって、つまり自我定立の働きによって、我は存在するということ:引用者)。知るというのは単に知覚することではない、知るというのは働くことである。働くことは同時に存在することである。即ちタートハンドルング(働き即実在)が世界の中心となったのである。フィヒテの我は云うまでもなく単なる個人的自我ではない、超個人的大我である。而してそれは意志である」。
これを読むと「ここにペンがある」と「私は考える」という「知的自覚」の「根柢」に、「私は考える」を成立せしめている意志があることが分かります。これは例の英国における地図の話です。「ここにペンがある」と「私は考える」ということを地図に描くことで「知的自覚」が成り立つということです。だからカントからフィヒテへの移行は「単にそれが形而上学に堕したとのみ考えることはできない」と言われます。形而上学に堕したとされるのは、自我を客体的に実体化した側面を無視できないと西田が考えるからです。次にまた重要なことが書かれてありますね。
「知的自覚は意志的自覚に於てあるが故に、意志的所与が知覚的所与より深きものと考えられる」とあります。
一応の結論ですね。「於てある」という言葉が用いられていますが、次元の違いがあるようです。ですから「より深きもの」と言われます。そうして「我々の自覚的立場を深めて行くことに従って、所謂自然界以上の対象界を見ることができる」と言われます。
「自然界以上の対象界」とは何ですか?
次に「自覚の意識の存立せられるかぎり、尚認識主観の意義を有し、何等かの意味に於て対象界が見られる」とありますね。「所謂自然界」というのは知的・判断的対象で、外から眺めることによって成立ものです。そこに「私」自身は生きていません。これに対し「意志の対象界」においては、目の前のコップはただちに自分ののどの渇きをいやすための対象となるものです。この対象界はそこにおいて私が生き、死んでいくところの世界です。
しかしそうした対象界を「越える」とありますね。
ええ。「自覚の意識が存立せられるかぎり、尚認識主観の意義を有し」とありますね。「何かをしたい」という意志を自覚(意識)することは、意志の対象を客体として立てることになります。そこに認識主観が成立し、対象も認識対象となる、ということでしょう。意志が自覚されると共に、意志と認識が分かれるということです。こうした在り方を我々は脱することはできませんが、意志的自覚はどこまでも深まっていきます。それにつれて知的自覚も深まることになります。この深まりは無限ですので、西田は一方で「我々の自覚は無限の深底」であると言います。しかし他方で「自覚の意識其者をも失う所」を認め、それを「真の自覚」と呼びます。「真の自覚があるのである」。確信に満ちた強い言葉ですね。それは「全然知識の領域を脱して」とありますが、それは「意志」の「対象」も意識されないということです。これは以前出てきた「作用としての意志」と「状態としての意志」の区別にも関わりますね。なるがままに行う、といったイメージです。『善の研究』では雪舟の筆などの例が挙がっていましたね。そうして「直観の世界に入る」とされます。「而してそこに真の自覚が現れるのである」とありますが、ここは『善の研究』で、思惟(知識)と意志の根柢の「知的直観」、つまり「宗教的直覚」と呼ばれたものです。
悟り、のようなものでしょうか?
そうですね。しかしそれが同時に我々の日常のありのままの姿だ、ということでもあると思います。そうして「此の如き意味の直観を知識の極限として、概念的知識ではないが、真の知識と考えると共に、知識成立の根本条件とも考えるのである」と締めくくります。我々の日常の知識や意志的経験がこうした直覚によって実は成り立っている、ということです。今日はここまでとしましょう。
(第88回)