知覚は思惟の上に重なり合ふ
- 2023年1月28日
- 読書会だより
前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 258ページの8行目「直覚は意志の場所をも越えて深く無の根柢に達して居る」から259ページの9行目「一つの一般概念でなければならぬ」までを講読しました。今回のプロトコルはYさんのご担当です。キーセンテンスは「知覺は思惟の上に重り合ふのである」(259,3)で、「考えたことないし問い」は「一般の中に特殊を、特殊の中に一般を包摂する方向性が、知識あるいは意志であり、二つの方向性の統一は直覚である。また、現象学のいう〈知覚の充実〉における、基礎付ける作用と基礎付けられる作用は共に、直覚即ち無の場所に於いてあるのであり、〈知覚作用〉は、既に「範疇的直覚」(思惟)を含んでいる。通常、知覚と思惟は時系列性を有すると考えるが、「知覺は思惟の上に重り合ふ」については、どのように解釈したらよいのだろうか」(203字)でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
Yさん。何か補足があるようですが。
前半はまとめです。後半が皆さんにお伺いしたい点です。通常認識の過程として感覚、知覚、思惟といった時系列を形成すると考えられていますが、西田はここでそれとは異なる独自の時間を考えているようなので、そのあたりを皆さんと一緒に考えたいと思います。
「重り合う」とありますが、時系列的にはどういうことですか。
直前に「知覚作用として限定せられた直覚は、既に思惟によって限定せられた直覚である」とあります。「既に」という表現からすると、思惟が先のようですね。思惟が知覚作用として限定する、そこに知覚的直覚が成立する、と読めますね。ところでYさん。西田が考えている独自の時間とはどのようなものですか?
「重り合う」という表現を西田はよく用いています。西田は直線的な時間を根源的なものとは考えていないように思われます。
直線的な時間はすでに思惟によって考えられた時間、一般概念の空間上に成立する時間だと思います。
なるほど。(これは後で思い出したのですが、西田は『善の研究』でも「我々の直接経験の事実においては純粋感覚なる者はない。我々が純粋感覚といって居る者も已に簡単なる知覚である。而して知覚は、いかに簡単であっても全く受動的でない、必ず能動的即ち構成的要素を含んで居る」(岩波文庫改版79頁)と言っています。)プロトコルはこのくらいにして今回の講読箇所を読みましょう。今回は259頁9行目から260頁12行目まで読みます。Cさん、お願いします。
読む(259頁13行目まで)。
どこか分からないところはありますか?「無限の次元の空間とも考え得べき真の無の場所」を思惟がスパッと切ってそこに境界線ができる、それが「一般概念」です。知覚的直覚の場合は「知覚一般の概念」がそうした境界線で、そこに土俵ができる。まあ、そんなことを言っているのですが、最後の所が難しいでしょう?一般概念が「一方に於て限定せられた場所」の意義を有すると共に「一方に於ては自己自身を限定する場所」の意義を有するってところが。どうですか?
先を読んだ方がいいと思います。
そうですね。ではDさん。お願いします。
読む(260頁4行目まで)。
「私が前に一般概念の外に出ると云ったのは」とありますね。「前に」とはどこですか?
254頁です。2行目に早速あります。
そうですね。目下のテキストに戻ると、一般概念の外に出るとは、一般概念がなくなることではなく、「限定せられた場所から限定する場所に行くこと」だと。それがまた「対立的無の場所」から「真の無の場所」に行くことだと。それが「単に映す鏡」から「自ら照らす鏡」に到ることだと。「単に映す鏡」という表現はどうですか?どこに書いてあったか覚えていますか?覚えてない?調べておきました。231頁8行目を見てください。「単に映す鏡」が「対立的無の場所」に関して用いられていますね。これに対し「対立的無を含む無」つまり「真の無の場所」について「外を映す鏡でなくして内を映す鏡」という言葉が用いられています。これが「自ら照らす鏡」であることが分かります。「単に移す鏡」とは「外を映す鏡」のことですが、これは理解できる。普通の鏡です。ですがどうですか?「内を映す鏡」とか「自ら照らす鏡」とかは想像しにくいですね。
その鏡は「外から持ち来ったのではない、元来その底にあった」とありますね。だから私たちの一番奥深い底にもともとあるんです。そして「鏡と鏡が限なく重り合う」とありますから、合わせ鏡みたいになっているんです。
しかも「自ら照らす鏡」自身は合わせ鏡ではなくて、しかも光源を自ら持っている。
いよいよイメージしにくいですね。しかし「此故に我々は所謂知覚の奥に芸術的内容を見ることもできる」とありますから、前回のプロトコルで取り上げられた258頁2行目の「要素と考えられるものをその儘にして、更に全体が成立する」を参考にできますね。ヴァイオリンの一つの音をとっても、そこには全体がそのまま入っている。一般概念が無限に重なり合っているんですね。しかしどうでしょう?「限定せられた場所」から「限定する場所」に行く、とありますが、これは「意識せられた意識」から「意識する意識」に行くことですよね。これがまあ、純粋経験ということだと思いますが、「意識する意識」に行くってどういうことなんでしょう?そんなことできるんでしょうか?
それが直覚ということでしょう?
西田は直観と直覚と、両方使っていますが、同じ意味ですか?
文脈で判断するほかありませんが、ここでは同じ意味に用いられているようです。そこで意識する意識(直覚、真の無の場所)が自ら限定する、ということですが、西田はこれがないと我々の通常の知覚作用も成立しない、そう考えるわけです。しかしそのようなものが本当に「ある」といってよいでしょうか?文章を読んでいるとだんだんそんな気がしてきますが・・・。難しいところだと思います。それではJさん、次を読んでください。
読む(8行目まで)。
「小語」というのが出てきますね。これは三段論法の用語です。大前提(例:人間は死すべきものである)、小前提(ソクラテスは人間である)、結論(ソクラテスは死ぬ)のうち、「死すべきもの」に相当するのが「大語」、「ソクラテス」に相当するものが「小語」、「人間」に相当するのか「媒語」です。ですからテキストにあるように「小語」は「特殊なるもの」ということになります。「知覚の意識」は特殊性という一般概念、つまり「小語的概念」によって限定せられた場所、ということになります。そこに「特殊なるもの」が「於てある」ということです。そうしてこの「特殊なるもの」が主語として、一般を含むことになります。例えばこの塩は白くて辛い、というようにね。「判断の意識」は逆です。リンゴは果物である、という判断の場合、一般(果物)が特殊(リンゴ)を含んでいます。一般という一般概念によって場所が限定されることになります(そこから「最高の一般概念」とは何かが問題になってきます。これはつぎの段落で扱われます)。それではKさん、次をお願いします。
読む(12行目まで)。
「知覚の底には概念的分析を容れない無限に深いものがある」ことを西田は認めながら、「かかるものの背後に概念を入れて見る」と言っているのですが、どういうことですか?
たとえそれが「概念分析を容れない無限に深いもの」であっても、まさにそうした「無限に深いもの」という「概念」を入れて見なければ「知覚」は成り立たないということではないでしょうか。今日はここまでとします。
(第50回)