意識する意識
- 2022年5月30日
- 読書会だより
まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はYさんでした。キーワードは「真に意識する意識、即ち真の直覚」でした。それについての問いは「始原である「真の直覚」から意識の誤謬はどのように説明できるだろうか」でした。
前回の講読箇所は西田の初期フッサールに対する批判でしたね。初期フッサールでは知覚的直覚がすでに反省(「意識された意識」)であり、それが志向作用を基礎づけ、それによって知識が充実する形になっている。西田はそうじゃないと考える。「真の直覚」は「意識する意識」でなければならず、それが作用を基礎づけることで、知識が充実していくと考える。
純粋経験から始める、ということですか?
『善の研究』第2編の「純粋経験」つまり「直接経験」と、第1編冒頭の「純粋経験」をまずは区別する必要があると思います。「直接経験」は主客合一ですが、それは想起するなど、反省によらなければ顕わになることはありません。この反省が破られる、といういわば〈驚き〉のようなものが「純粋経験」には不可欠です。そうした境位から初めて「純粋経験は直接経験と同一である」ということが言いうるわけです。第4巻『働くものから見るものへ』では「内部知覚」が直接経験と呼ばれ、それは「確信」を生じるとされていますが、「明白(明証性)」には至らないと考えてられています。そのためには「自己自身を失う」ことが必要だと(旧全集版64-65頁)。私はこの「明白」に至った純粋経験が第1編冒頭の「純粋経験」だと考えています。そういう限定付きで「真の直覚」から始めるということは「純粋経験」から始めると言ってもよいと思います。西田は反省以前の「真の直覚」から始めて一般に作用を基礎づけ、「自然界」と「意志の世界」を構成しようとします。さて、それではYさんの問いに戻りましょう。「始原である「真の直覚」から意識の誤謬はどのように説明できるだろうか」でした。「真の直覚」に基礎づけられた知識に誤謬の余地はないではないか、ということです。
「真の直覚」を出た所で誤謬が出て来るんじゃないでしょうか。
反省・判断の領域ですね。
私もそうだと思います。反省・判断の領域で初めて真偽が問題になると思います。
誤謬や真偽は一定の領域・場所においてのみ成立するのだと。
確かに判断のないところで真偽も誤謬もあり得ないと思います。
そうすると、「真の無の場所」では真も偽もない。以前この場所についてアウグスティヌスの善悪を超えた絶対的な善について語られたように、この場所は真偽を超えた絶対的な真の世界と呼べることになりそうですね。プロトコルについてはこれくらいにしておきましょう。本日は249頁2行目から14行目まで講読したいと思います(以上は、実際の対話の記憶に基づいてアレンジしたもの、以下は架空対話です)。
転回点が二つあり、そのつど矛盾の超越があるように見えますが、具体的にはどういうことでしょうか。最初の「矛盾の意識」というのは以前出てきた丸い四角みたいなことですか?
そうだと思います。意識一般の世界ではすべてが矛盾律に従って合理的に構成されます。しかしそれができるのは、我々が「矛盾」ということをどこかで知っているからです。それが意志の世界です。そこでは有がそのまま無であり、無がそのまま有です。丸い四角を考えることはできませんが、考えようとすることはできます。西田はそこに意志を認めます。こうした思考・判断における矛盾の意識によって、判断ないし知識の世界から意志の世界へと転回する、というわけです。(もっとも反省や判断の立場を超えさせるような矛盾とは、それを行っていながら、それを行うもの自身が問題になっていない、ということにあるように思います。そうした矛盾の意識は当然、人生の矛盾の意識となるはずです。)
次の「意志の矛盾の超越」は?
これも切り詰められた表現ですから、はっきりとは言えませんが、おそらく道徳的な意志の矛盾だと思います。
欲望に負けるというようなことですか?
西田はパンやお菓子が好きだったようで、猛烈に反省していますね。そのことが日記に書いてある。そこまで自分に打ち克とうとしていたことが驚きですね。道徳的な意志の矛盾はそういうことも含むと思います。善を対象として、それを意志するけれども、そのことによってかえって実現不可能になってしまう。善があくまで向う側に置かれることになるからです。こうしてこうした意志の立場は悪や罪に躓くことになる。
『善の研究』を構想する以前の西田と同じじゃないですか?
そうだと思います。少なくとも私の解釈では。『倫理学草案第二』での躓きのことですね。今日はこのくらいにしておきましょう。
(第39回)