当為(sollen)と存在(sein)

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第十四巻『講演筆記』「現代に於ける理想主義の哲学」より「第五講 新カント学派」の初め(48頁1行目「前節に述べたる如く十九世紀の後半には」)から52頁15行目の「従って自然科学というのも客観的実在を或る立場から組立てたものに過ぎない」までを講読しました。今回のプロトコルはKさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「真理は斯くなければならぬといふ當爲(Sollen) によつて成立するのである」(51頁3行目~4行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「真理は當爲(Sollen) によつて成立するとされていますが、真・善・美 については、内容は異なりますが目指すとことは「斯くあらねばならぬ」という当為ではないのかと、私は考えます。キーセンテンスの記述は、真理に限定していると解しました。真理だけなのは、何故でしょうか」(124字)でした。なお注記として「行為という言葉には、馴染みがありますが、当為という言葉を聞くこと自体少なく、これまで理解ができなかったので、この箇所を取り上げました。小室直樹氏の著書には、「日本人というのは、・・・・ザイン(sein ~だ)とゾルレン(sollen ~べきだ)の区別もない」とあり、日本人で哲学に詳しくない人にとって共通の傾向なのかでしょうか」が付記されていました。例によって記憶の断片から「構成」してあります。後出しじゃんけんみたいなもので、佐野だけが「ええかっこ」をしている形になっていてとても恐縮ですが、お許しください。
佐野
今日はKさんがご都合でご欠席ということですが、このプロトコルに基づいて考察しましょう。まずこの「問い」に対してとりあえず分からないところ(意味が通じないところ)はありますか?

I

「真理は当為である」がよく分かりません。
佐野
真理についてはさまざまな考えがありますが、このテーゼは新カント学派に特徴的なものです。我々は「知る(知性)」場合には「真理」を対象とし、「行為(意志)」する場合には「善」を対象とし、「感覚(感性)」する場合には「美」を対象とする、ということがまずあります。そのうち「知る」場合には、我々はその対象が「真理」でなければならない、と考えます。誰も知る以上は本当のこと(真理)を知りたいと思うからです。同じことは「行為(意志)」する場合についても言えます。一般的には悪いと分かっていることでも、例外を認めて「それをしてよい」と思わなければ、人間はそうした悪い行為を行うことができません。我々はよいと思ったことしかできないのです。そこには我々の行為は善でなければならない、ということがあります。「感覚」の場合も、そこには感覚されるものは美でなければならない、ということがあって、それで我々の感覚はつねに美を求める、例えば味覚は美味を求める、ということになります。

R

美については、対象への無関心性ということがあると思います。真や善とはことなるのではないでしょうか?

O

美(快)そのものをこうだ、と決めれば対象には無関心ではいられませんが、例えば美を調和の美に限定しないところに現代美術というものが成り立っていたように、我々の感性はどこまでも美を求める、ということは言えると思います。

R

なるほど。

O

プロトコルの問いに戻りますが、何故「真理」に限定しているか、ということについては、ここで問題になっているのが「真理」だからだという外ないと思います。
佐野
さて、プロトコルのとりあえずの意味は分かったとして、さらに深めて見ましょう。ここに何か問いはありませんか?

R

注記にあるように、日本人は「こうしたい」とか「こうすべきだ」と言うことがあまりないと思います。「そうなっている」というような考え方が多いと感じます。その意味ではsollenがseinに回収されるという仕方で、区別がないと思います。

T

私は途中から参加したのですが、真理が当為(sollen)だというのがよく分かりません。真理とは認識に関わりなく存在することで、真理とはむしろ存在(sein)ではないでしょうか?
佐野
伝統的には真理とは「物と知性の一致」と言われてきました。主観(認識)が客観(存在)に一致することが真理だと。例えば私の後ろに絵がかかっているという認識が、振り返ってみて実際にそのとおりにかかっていれば真だ、ということです。その意味では認識に関わりなく存在している在り方こそが真理だということになります。ただその場合、物と知性の区別が前提されていますね。主客の対立と言ってもいい。ですが物と言っても知性と言ってもすべて言葉です。我々は言葉によって考えるほかはありません。そうすると、「存在」ということもそうした言葉(意味)として考えなければならないことになります。伝統的な考え方からすれば、「存在」は「認識」以前のものでしたが、そのこと自体がすでに「存在」ということの意味になっているのです。我々は言葉の外に出ることはできない。そうして言葉はつねに意味であり、価値、当為を含んでいる。その意味では真も善美同様である、と主張したのが新カント学派です。ただ、例えば「真理」という言葉がどうして「当為」を含むのか、そうした「当為」の出処はどこにあるのか、という問いは起こると思います。これは我々の思い通りになるようなものではない。

K

「当為」とは「理想」とか「理念」と考えていいでしょうか?
佐野
そうだ、と思います。言葉がそうした「理想」として我々に要求してくるわけですが、そうした要求の出処がどこにあるか、ということです。

I

私は「躓き」のようなものが大事なような気がします。当為に従って行為する、しかし躓く、ということです。
佐野
その場合の当為には内容がありますね。「こうすべきだ」の「こう」のところに具体的な内容が盛り込まれていて、人間はそれを実現しようとするし、そうでないと行為できません。しかしそうした前提は思い込みであって、そうした思い込みが「破れる」ということが起る。これが「躓く」ということだと思います。そう考えると、こうした「躓き」を惹き起こしているものこそが「当為」だということになります。この「当為」はこれが真だ、善だ、美だ、というように限定することなく、ただただ「真」を知れ、「善」を為せ。「美」を体感せよ、とだけ命じてくる、そういうことになるのだと思います。こうした「当為」の働きは、つねに一定の思いのなかで生きようとする我々にとっては「他者」という在り方を取ると思います。

W

西田的には「当為」の出処は「意志」と考えてもよいと思います。
佐野
なるほど。最も根本的には「状態としての意志」ということになりますね。プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。今回は55頁3行目まで講読しました。読みやすい内容ですので、各自読まれてください。プロトコルのご担当はTさんです。よろしくお願いいたします。
(第83回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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