三種の意志について

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」第4段落、285頁6行目から286頁14行目「意味に充ちたものとなる」までを講読しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「所謂感覚的なるものも直観的なるものとして、その根抵は所謂意識面を破って真の無の場所に於てあるのである。真に直観的なるものとしては、感覚的なるものは芸術的対象でなければならない。」(286 ,11-13)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「感覚的なるもの」はその於てある場所が「一般概念」から「真の無の場所」に転ずるとき、「真に直観的なるもの」となる。即ちそれが「芸術的対象」である。その場合、「場所が無となる」。つまり、意識面が自ら無となり、対象が無限の意味をもった対象として自身を見る直観である。この場合で、意識と対象とは一体になるが、なお意識面と対象面との対立はなくなることはなく、意識はなお自由に働くものになっていないのではないか」(200字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
目下のテキストからは出て来ない疑問ですね。他の著作を参照されましたか?

R

はい。「叡智的世界」(旧全集第5巻『一般者の自覚的体系』所収)です。そこでは芸術的直観は真に自分自身の内容を見るものだが、完全に自由にはなっていない、とあります。
佐野
その場合の自由とは?

R

奥底から湧き上がる良心の声に従うことです。
佐野
なるほど。しかしここでは「叡智的世界」のテキストがありませんから、その内容を皆さんと共に検討することはできませんね。(後で「叡智的世界」を調べてみました。まず「芸術的直観は真に自分自身の内容を見る」については、「真に自己自身の内容を見るには、情的ノエシスに至らねばならない、我々は芸術的直観に於てイデヤ其者を直観するのである」(5,167,10-11)という表現が見られます。「完全に自由になっていない」および「良心」については、「芸術的直観に於てはノエシスがノエマに没し、叡智的自己がノエマ的に限定せられた自己自身を見るが故に、自己自身の矛盾を脱して宗教的解脱に類するものが感じられる。併し芸術的直観に於ては、限定せられた自己が見られるのであって、自由なる自己其者が見られるのではない。自由なる自己其者を見る良心は深い自己矛盾でなければならない、自ら良心に恥じないなどと云うものは良心の鈍きを告白するものである。深い罪の意識こそ最も深く自己自身を見るものの意識である。深く自己自身の中に反省し、反省の上に反省を重ねて、反省其者が消磨すると共に、真の自己を見るのである。深い罪の意識の底に沈んで悔い改める途なきもののみ神の霊光を見ることができる」(5,176,4-11)という表現が見られます。ただしここで言われている「自由」は脈絡からしてノエシスの方向に見られる「随意的意志」と考えられます。次のように述べられているからです。「併しかかる直観(イデヤを見る知的直観:引用者)には、そのノエシス的方向に於て、何處までも随意的なるものが残されねばならない」(5,174,4-5)、「自己自身を越えて、何處までもノエシス的方向へ深く自己自身を見て行く自己が、真に自由なる自己であり、それはイデヤを見る自己の根柢を見るものである」(5,175,4-6)。そうしてこの「随意的意志」については「悪なる意志とは何であるか。それは随意的意志である、イデヤを否定し、無に向うの意志である」(5,174,11-12)と述べられています。本日の講読箇所に出て来る「随意的意志」にも深くかかわりますので、少し詳しく紹介しました。)ここでは一般的な哲学的問いとして一緒に考えて見ましょう。芸術的直観が自由でないとはどういうことですか?

R

自転車を運転していた時、突然道端の花にハッとする。この驚きにおいて自由はないと思います。

T

良心に従うことが自由だとおっしゃいましたが、花に驚くことも良心も自分のコントロールできない点では同じだと思います。しかしそこに「気づく」という仕方で自由があり得るのだと思います。そこに至るには何らかの準備(レディネス)が必要で、花との出会いも実はサイクリングの中に予め組み込まれていたとも考えることができます。
佐野
何故良心に従うことが自由で、花に驚くことが自由でないのですか?

R

花に驚くことの場合は、まだ直観する自分と花との対立が残っているからです。
佐野
「驚き」の瞬間にそうした自分が残っているのですか?

R

「考える自分」はなくなりますが、「直観する自分」と花の対立は残ります。

H

物(花のような対象)があると真に自由ではないということですか?

R

やりたいことがあれば、それに従うのが自由です。(この辺り、「随意的意志の自由(悪なる意志)」と「自律としての自由(良心の声に従う)」の区別がうまく表現できていないように感じられました。:佐野)

H

それでは「真の無の場所」においてあるものは何ですか?

R

宗教的な罪悪において赦されているということ、そうしてそれが真の自由だと思います。
佐野
なかなか難しい問題ですが、今日の講読箇所にも関わることですので、プロトコルはこのくらいにして、講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(286頁14行目~287頁7行目)
佐野
難しいですね。少しずつ見て行きましょう。「此の如き」、「芸術的対象」のように、ということですね。そうした「直に直観の場所即ち真の無の場所に於てあるもの」が「所謂意識の場所、即ち対立的無の場所に於て見られる時、それが無限に働くものとなる」とあります。この「無限に働くもの」は後を見ると「意志作用」(287,4)のようです。つまり「作用としての意志」ですね。そうなると「直に真の無の場所に於てあるもの」とは「状態としての意志」であることにもなりそうです。「作用としての意志」と「状態としての意志」の区別は以前出て来ましたね。どこでしたでしょうか?

A

229頁です。
佐野
そうですね。ありがとうございます。そこをもう一度見て置きましょう。「意志は単なる作用ではなく、その背後に見るものがなければなければならぬ、然らざれば機械的作用や本能的作用と撰ぶ所はない。意志の背後に於ける暗黒は単なる暗黒ではなくして、ディオニシュースの所謂dazzling obscurity〔眩い暗黒〕でなければならぬ。かかる立場に於ける内容が対立的無の立場に映されたる時、作用としての自由意志を見るのである。意志も意識の様相と考えられるのは此の如き考に基かねばならぬ、作用としての自由の前に状態としての自由があるのである」(228,15-229,5)。テキストに戻りましょう。ここまで何か質問はありますか?

B

大丈夫です。
佐野
「而して直観の場所」、「真の無の場所」ですね、それは「所謂意識の場所」、これは「対立的無の場所」ですね。「直観の場所」はそうした「所謂意識の場所よりも一層深く広い意識の場所であり、意識の極致である」とあります。「極致」という言葉には注意する必要があります。つねにそこに挫折と転換があるからです。「無限に働くもの」はこれで終わりということはありません。それが「極致」に至るということは、これまでの場所である「対立的無の場所」が挫折を通して破れ、「真の無の場所」への飛躍的な超入が起るということです。そうなるとどうなるか?「真の無の場所」が「意識の極致であるから、内に超越的なるものを見ると考えられるのである」とありますね。この「超越的なるもの」って何ですか?

B

「内に」とは「意識」の内に、ということではないですか?
佐野
そうでしょうね。「外に」ではないということです。私の解釈ですが、この「超越的なるもの」は、先の言葉で言えば、「状態としての自由」ではないかと思うのです。「対立的無の場所」において「作用としての意志」(「無限に働くもの」)であった、その同じものが「真の無の場所」において「状態としての意志」として見られるということです。「対立的無の場所」と「真の無の場所」の間には先程申したように超越がありますから、そのように解釈できるように思われるのです。いかがでしょうか?

B

とりあえず、そういうことにして先を読んで見ましょう。
佐野
はい。「併し逆に直観の場所から之を見れば、之に於てあるものが対立的無の場所へ投げた自己の影像に過ぎない」とありますね。最初の「之」は何を指しますか?

C

「内に超越的なるもの」です。
佐野
そうですね。私の解釈では「状態としての意志」です。それでは次の「之」は何を指しますか?

C

「直観の場所」です。
佐野
そうですね。そのように「直観の場所」に於てあるもの(「状態としての意志」)が「対立的無の場所」の場所へと自分を投げる、そうするとそこに「影像」ができる、というわけです。この「影像」が「作用としての意志」です。ここまで、いかがですか?

D

大丈夫です。2行目の「併し」から反対の見方がなされているということですか?それまでは「対立的無の場所」から「真の無の場所」への方向だったのが、「併し」以降は逆に「真の無の場所」から「対立的無の場所」への方向になるというような。
佐野
そうですね。最初は表から、次に裏から、といった感じです。例の円錐形で言えば、最初は上から、次に下から、ということになると思います。そこで「此の如く直観の場所から見た時」、裏から見た時ということですね、その時「〔無限に〕働くものとは之に於てあるものの自己限定として意志作用である」。「之」とは?

D

「直観の場所」です。
佐野
そうですね。「真の無の場所に於てあるもの」(「状態としての意志」)が〔「対立的無の場所」において〕自己限定したものが「〔無限に〕働くもの」「意志作用」、つまり「作用としての意志」だということです。ここまではいかがですか?

D

大丈夫です。
佐野
「而して直観的なるものの於てある場所、直観の述語面」、これは置き換えですね。そうした場所ないし「直観の述語面に於てあるもの」(「状態としての意志」)を「知識面から見れば」とあります。この「知識面」とは後を読むと、どうやら「所謂意識の場所」つまり「対立的無の場所」のことのようです。その面から見ると「無より有を生ずる無限の作用と見られ」、とありますね。これは「作用としての意志」のことですね。その面では無限の作用が「有」であり、それが「対立的無の場所」に「於てある」と考えられています。その意味ではそれ自身が無である「対立的無の場所」には「無」はそこに「於て」ないと言えます。ところが有無を絶した「絶対の無」である「真の無の場所」に於てはそうした無もそこに於てある、そのように考えることができそうです。そうした「真の無の場所」である「直観面」から見れば、「それが意志である」とあります。「それ」とは何ですか?

E

同じものを「知識面」(「対立的無の場所」)と「直観面」(「真の無の場所」)の両面において見ているのですから、「それ」は「直観の述語面に於てあるもの」ではないでしょうか?
佐野
そうだと思います。私の解釈では「状態としての意志」ですね。同じものが「直観面」では「意志」つまり「状態としての意志」であり、「知識面」では「作用としての意志」だということです。さて次に「直観面は知識面を越えて無限に広がる故に、その間に随意的意志が成立するのである」とありますね。これはどういうことでしょうか。「知識面」つまり「対立的無の場所」では「作用としての意志」、「直観面」つまり「真の無の場所」では「状態としての意志」、この両面の間に「随意的意志」が見られるというのです。意志に「作用としての意志」、「状態としての意志」、「随意的意志」の三種あるということになります。ロイスの例の「英国にいて完全なる英国の地図を描く」の例で言えば、描かれた地図を見ている限りはどこまでも描き続けなければなりません。これが「知識面」で、そこに於てあるのは「作用としての意志」。それに対して描く以前の足元のところ、そこが「直観面」です。これは「述語面に於て見られる自己同一」と呼ばれたものですが、「一般概念」のそれではなく、「真の無の場所」としてのそれで、そこに於てあるのは「状態としての意志」です。この「状態としての意志」は先に「ディオニシュースの所謂dazzling obscurity(眩い暗黒)」という表現があったように、単なる暗黒ではなく、直視することができないほどの「眩さ」ゆえの「暗黒」です。これは意志や衝動の根源的な暗さを言っているように思われます。それは『善の研究』では実在の形式(方式)として最初に出て来る「含蓄的(implicit)」な全体と言われていたものと同じもののように思われます。そこから意志が直観に基づいて自己限定するのですが、そこには機械的作用や本能的動作でない以上、「自知」の契機があります。これを取ったということはこれを取らなかったということが自知されています。そこに「可能性」が開けてきます。つまり英国の地図は別様にも描かれたかもしれない、ということです。ここに「随意的意志」が顕わになってきます。そうして無限に善を求めるということの裏面に、求めれば求めるほど顕わになるものとして「悪なる意志」つまり「随意的意志」が意識されることになります。今日はここまでにします。
(第72回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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