悪は存在するか
- 2019年9月14日
- 読書会だより
本日の哲学的問は「悪は存在するか」です。この問いの背景は『善の研究』第3編第13章に「アウグスティヌスに従えば元来世の中に悪という者はない」「また神は美しき詩の如くに対立を以て世界を飾った。影が画の美を増すが如く、もし達観するときは世界は罪をもちながらに美である」(岩波文庫版217頁)です。それでは始めてください。
こう言ってしまえば言葉がありませんね。
でも西田は「罪を知らざる者は真に神の愛を知ることはできない」(同256)とも言っています。
完全なる神が人間を創った。その人間が罪を犯すというのは矛盾じゃないですか。
その罪があるから「世界はそれだけ不完全となるのではなく、かえって豊富深淵となるのである」(同257)と書かれています。でも悲惨な事件などを目の当たりにするとそんなこと言っていられますかね。
必要悪みたいで、安っぽく聞こえます。善は至誠でなしうるというのなら、至誠なんてほとんどの人ができないのだから、この世はほとんど悪だとも言えます。
善なる人も少しはいるということですか。
善悪は状況によっても異なると思います。いじめは悪いことですが、いじめた者に逆にひどい攻撃をすれば今度は攻撃した人が悪となります。絶対的善は想像しにくいです。
でも西田は人はたとえ芸術家でなくても、美を理解できるように善を理解できるとも言っているのだけれど。
どこかで知っていたとしてもはっきりは知らないのでしょう?
宮沢賢治が人が善を求めるのは鳥が飛ぶのと同じだと言う一方で、人は誰でも悪を求めるとも考えていたみたいです。どうやら人間は矛盾したものをもっているようです。
悪って何だろう。
『善の研究』はそのタイトルにも拘らず悪についてあまり書いてないように思います。
いつも誰かを傷つけているし、命をいただいている。存在すること自体が悪ではないのか。
『善の研究』では「至誠」を尽さないのが悪でした。自らを欺かずベストを尽くすのが至誠です。
それなら無理です。
偽我から至誠を尽して真の自己へという方向があるのなら、やはり何故最初に偽我があるのかが問題になります。完全なる神がチョンボして創ったのに、その罪を人間に擦り付けて悔い改めよ、というのはおかしい。
西田は神がこの世を創ったとは言っていませんよ。表現だと。
悪や罪の問題はわが身に引き付けて考えることが必要だと思います。頭で考えるだけでは深まらないですから。
悪はありません。善が出てくれば悪もあります。いい奴もいれば悪い奴もいる。悪い奴ほど面白いものはない。人殺しも悪とは言えない。至誠で殺すこともある。他人はそれを判断できないと思います。
自分ではできるのですか。Dさんはできないと言っていましたが。それに至誠なら神意と冥合するとも言われています。これは考えようではとても危険ですよ。
難しい問題だと思います。軍隊はそのように思いやすいですね。京都学派の問題でもあります。私はそれを憎みますが、神の目から見たら善かもしれません。
本当に悲惨な状況を目の当たりにしてそのように言えるか、ということがありますね。
悪については起こっていることと、その意味を区別すべきなのに、ここではそれがなされていないし、内心の善と外に現われた善との区別もないように思われます。
西田は区別していますね。起こっていること、これは原因結果によって起こります。しかし価値はそうではない。よく例に上がるのが彫像や画です。物質的に出来上がっているものの内に理想を見る目を養うことが問題となります。そういう目には世の中に悪はない、ということになります。それと内心の善と外面の善ですが、西田は道徳としては内面の善しか問題にしません。たとえ内面は自分のことを考えていても人の為になったというのは道徳ではないと。つまり至誠だけが問題なんです。ですが自分が至誠であったかについて、イエスと答えることができるのか、そうした問題です。
イエスともノーとも言った段階で至誠ではありませんね。だからこの世は悪しかない。
悪を目的とするのではないけれども、それでもぶつかってしまうのが悪で、それを克服することで至誠に至れる、と考えていた時期がありました。実在が矛盾衝突を通して発展すると書いてありましたので。でも今読んでみるとどうも納得ができない。
今の関心で読むしかないですからね。それにもっともらしい答えが出るといかがわしく思うというのもありますよね。今日はこのくらいにしておきましょう。