「働くものを知る」ことができたと思う瞬間
- 2020年1月25日
- 読書会だより
第27回読書会だより
本日の哲学的問は「『働くものを知る』ことができたと思う瞬間について」です。
出題の背景とかありますか?
そういう瞬間はありそうだと思って…
目的が内部にある(アリストテレスのエネルゲイアのような)行為は思いつきます。例えば(この読書会で)西田を読むのはそうです。これに対しレポートを提出するために読むとなれば、目的が外にあることになります。また答えを求めていなお喋りなども目的は内にあります。結論を出す場合はそうではありません。しかしその場合個々の行為を動かしているものが何かと言われると思い当たりません。西田はそれを知ることができると言っていますが、そのように言われれば納得します。しかし頭では分かりますが実感はありません。身は頷きません。
宗教的儀式のようなもので意識的にトランス状態を作るということですか?
それは違うでしょう。そんなことはどこにも書いてありません。『善の研究』の「見神の事実」に近いものでしょう。
パーッとなる時が時々あるんですが、そういうことではないでしょうか。皆さんもそういうことよくありませんか?
ないと思います。アリストテレスでも人間にはわずかの間しかあずかれないとされていましたから。
犬の散歩をしている時に、自分が犬になって…
犬は常にエネルゲイアです。幸福な状態なんです。でもテオリアはない。人間にはそれができる可能性があるんです。そうして犬の境地から神の境地に至る、そのどの点をとっても程度の差にすぎません。
難しい話になりましたね。他にはありませんか。
エネルゲイアは魂の活動ですよね。物の運動とは区別されて。この魂は理性でいいんですよね。「働きを知る」状態があって、そこから出て反省をする。だけど気を失っているのではないですから、説明ができる。そこに理性を保つということがあると思うんです。
その場合、反省と反省以前を理性がどう貫くのかが問題となりますね。
そういう状態はあると言えばあるし、ないと言えばない。あってほしいという願いにすぎないのかもしれない。
哲学的問が「働くものを知る」ことができ「た」、となっていますね。
「働くもの」を知っ「た」とすることで、もう分からないものになっている。これは『善の研究』の純粋経験と同じ構造ではないか。
私は「働くもの」というのが分かりません。視覚作用においては「色一般の体系がそれ自身を発展する作用」が「働くもの」とされているんです。アリストテレスは四原因、質料因、形相因、作用因、目的因から考えていて、そこから「働くもの」を考えているんだと思います。これに対し「知る」とは「我」が知るということではないか。
アリストテレスのテオリアの場合でも対象になりきるということがあると思いますが。今日はこの程度にしてテキストに入りましょう。
(第27回)