哲学体系を用いて思想を語る不自由
- 2019年7月27日
- 読書会だより
今回の「哲学的問い」は「西田が西欧の哲学体系を用いて己の思想を語るとき、語りえないことや不自由さに直面しなかったのだろうか」でした。
西田への質問ですか。もう少し説明してください。
エイドス、ヒューレーなどこれまでになかった新しい概念に出会ってこれをストンと分かることなどあるのだろうか。しかも西田はそれらを自由に使いこなし、自分流に理解してそれで自分の思想を展開している。文学ではとてもあり得ないことだ。やはり西田は天才ではないだろうか、そういう質問です。
それでは、西田が西洋の思想に直面して不自由を感じなかったか、その辺から議論を始めましょう。
不自由に直面していたと思います。だからこそ今読んでいる「内部知覚について」でもアリストテレス解釈で苦労しているんだと思います。西田哲学の根本は禅だという人に対して西田は強い口調で否定したそうです。西田は自分の思想に禅でもない、西洋でもない独自のものを見ていたんだと思います。
ならば批判してしかるべきでしょう。ところが西田はアリストテレス批判を行ってはいませんね。むしろアリストテレスの土俵の中に入って行って、それを自分の土俵の中に取り込んでしまうような、そんな感じです。
夏目漱石はoccupyという語に接し、それを深く考え込んでしまった。所有についての日本人の甘い考えを思い知らされたんです。異質なものに接するとそういう問題にぶつかるはずですが、西田にはそれが感じられない。
確かにそれは言えますね。西田はたとえばアリストテレスの思想の中に自分が考えるべきものを見ていたのではないでしょうか。自分が考えるべきもの、それが何であるか、西田自身にも分からない。アリストテレスの思想が何であるか、それも分からない。ですがそこに何かが見えていた。
ミュージシャンが新しい曲を作るとき、ディレクターならば何々みたいな曲、と言ってしまうところを、そういうものにとらわれずにストレートに反応するんですね。それに近いものを感じます。
それでは、今日はあまり時間もありませんから、さっそくその西田が見ていたものを考えることにしましょう。