なぜ自分が「人間」だと思えるのか

第32回読書会だより
本日よりオン・ラインによる読書会です。「哲学的問い」は「我々は誰しも自分を「人間」だと思っている。では「人間とは何か」と問われると、誰も分からない。では人間は何故自分が「人間」だと思えるのか」でした。それでは最初の方とのやり取りです。その前に次回で取り扱うテキストの箇所を示しておきましょう。5月2日までに「内部知覚について」「七」の第3・4段落。133頁8行目から134頁終わりまでを読んでおいてください。5月2日に「プロトコル」にて佐野の解釈案をアップしたいと思います。いよいよ「内部知覚について」が終わります。

A

お世話になります。プロトコル拝受。あの2つの段落がこれだけの膨らみをもった文書になるとはまずびっくりですね。哲学的問いですが、言い換えたら、「あなたはなぜ、自分を人間だと言えるのか(思えるのか)?」ということでしょうか?
確かに人間とは何か、と問われると答えに窮します。むしろ、「人間だと思う」というより、「他の動物とは違う生き物=人間だ」ということか?小さいころ、美味しいものが盛られた皿を嘗め回していたら、犬猫のようだと言われたことがありました。しかし、それでも犬猫になるわけではない。オオカミに育てられた人間の子どもも、オオカミではない。人間というものの「基体」を有しているということか? あんまり哲学的でもありませんね。もう少し考えてみようと思います。
佐野
この哲学的問いは「映される我」に関連して思いついたのです。映されることによって、自分が自分であると知ることができるということです。「罪を知る」という言葉が『善の研究』にありました(第4編第4章)。これと本質的に同じです。自分の罪を認めることを人間は自力ではできない。だけれど自分を超えた何かに照らされ、それに映し出されることで、自分の罪を受け入れることができる、そんな感じです。どうでしょうか。

A

「映される我」との関連、確かにそうですね。人間らしくない振る舞いをしたとき、そこに映し出された自分を見た時、自分が人間だということを改めて気づかされるような気がします。人間らしくない振る舞いである、ということは、人間らしい振る舞いをする他者の振る舞いから知らされる、ということか?
佐野
「映し出される我」というのは反省とは違うと思うんです。反省というのはどこまでも反省する自分がいて、反省はこの反省する自分には届かないんです。「なんて俺は悪い奴なんだ」と言っている「俺」はいい奴なんです。
この全体がひっくり返る。反省とは違った仕方で身が頷くことがあると思うんです。それは自分より大きい何かに触れたとき、自分の意志ではない仕方で起こるんだと思うんです。それが西田の言う「自覚」であり「直観」ではないだろうか、とこう思うんです。
うまく言えないけれど、どうでしょうか。

A

反省は、自分の中で起きる、いや起こす。しかし、そこには我(自分)は映し出されることはない。我を映し出すのは、自分より大きいものとの出会い、そこには自分の意志はない。直観があるだけ。ということでしょうか?
佐野
そうです。反省が破れたところです。

A

そうなんですね。ところで、「破れる」という言葉ですが、佐野先生の論文などで、「理想を没する」、「自己を滅する」などという「没する」、「滅する」という表現と同義なのでしょうか?それは、「し尽す」という趣旨でいいのでしょうか?「反省」をしてもしてもし尽しても、自己を見つけることが出来ない。自己を見つけるきっかけが「直観」。その直観によって自己が映しだされる空間が「場所」なのでしょうか? 考えれば考えるほどなぞですね。
佐野
理想を没する」というのは『倫理学草案第二』の表現ですが、『倫理学草案第二』の時点では、まだ自我をこちらに立てておいてそれで理想を没した境地を狙うんですね。それで『倫理学草案第二』の立場は躓くんです。しかしその躓くということが大切なんだと思うんです。人間は躓いても、それでも自分を立てて頑張る。それしかできない。し尽そうとする。でもどうしてもそうしようとする「自己」が残ってしまうんですね。どうにもならないんです。それが「機」です。「没する」「滅する」という言葉もどちらかと言うと、こちらから自己を立てて自己を「滅する」「没する」というようになってしまうんです。しかしそこにすでに「没した」「滅した」所がすでにあるではないか、というわけです。「映された自己」とはこうしたいわば目覚めによって見出された自己です。反省された自己ではない。どうでしょうか。少なくとも反省という仕方では、決してわが身がそれである「人間」は見出されないだろうと思うのです。

A

ありがとうございました。こうして、哲学的問いにつながるのですね。自己が、わが身としての「人間」をどのように見出すのか? 反省によっては見出しえないわが身としての「人間」を。もう一度考えてみます。一点だけ、先生が書かれた「機」は、先生からいただいた論文にある「否定的な契機」の「機」ということでしょうか?
佐野
浄土真宗の「機」と「法」の「機」です。調べられたら面白いですよ。

A

ありがとうございます。調べてみます。
佐野
それでは次の方とのやり取りです。

B

夜分にすみません。昼はずっと子供と山や外で遊んで、夜は仕事をしていたので、ようやくプロトコルが読めました。
哲学的問に考え込んでしまいました。ふっと金子みすゞの詩の一節が浮かびました。
わたしは不思議でたまらない
誰に聞いてもわらってて
あたりまえだということが
私たちは当たり前に自分を人間だと思っていますがそれは果たして本当だろうか。などと思っているうちに眠くなってきました。
また、プロトコルの質問をさせていただけますか。
佐野
はい。大歓迎です。

B

こんにちは。プロトコルの質問させてください。
すべて知るということは、自己の中に自己を映すということである。
自己が自己を見るという事である。それが知るということの最も完全な姿である。
とあります。我は映すと共にうつされる存在であり、「うつされた我」もそれを見ている「映す我」も同一のものと考えられますか。つまり、鏡に映った世界は我々個々人が特殊化した世界であり、その中にいる間は決して見ることのできないが、何等かの契機により「映す我」と成ることができる可能性を孕んだもの。鏡に映された我とともにあるのが『善の研究』でいわれるところの直接経験つまり内部知覚ならば 鏡の前の我が見るものを「眞に対象其物に合一した内部知覚」と考え「此立場」、それは『善の研究』でいわれる内部知覚よりもより深いレベルにいたったものと考えてもよいのでしょうか。
先生のプロトコルに「直接経験は結局のところ反省なのである。」とあるということは善の研究に於ける直接経験とこの『内部知覚について』における「眞に対象其の物に合一した内部知覚」「此立場」を別のものと考えたほうがよいのでしょうか。
あともう一点、
我々は全然我を没し尽くして、主客合一となる所に有をみる
とありますがこの「所」を「場所」と考えてよいのでしょうか。
すみません長くなりました。
佐野
やはり、核心部分にズバッと来ましたね。
「映す我」(132頁)は「我を超越したもの」「我を包むもの」(127頁)と同じと考えます。そこではそれが「我自身」とされていました。ですから「映す我」と「映された我」は「同一」です。しかしこの同一をどう考えるかです。「映された我」を「映す我」になる「可能性を孕んだもの」と捉えて果たして良いものかどうか。
可能性から現実性という考え方は「キーネーシス」の見方を持ち込むことです。両者の「同一」を単純にそのように捉えていいものかどうか。こうした考えを仮に「映されて」いない「我」が抱くとすると、自分にはその内仏になる可能性(仏性)がある、という慢心に繋がっていきます。(もっとも人間はそれしかできませんが)
そうではなく「映された我」は「映す我」によって映されて初めて「映された我」となり、「映す我」も「映された我」を見出すことによって初めて「映す我」になる、そんな「同一」の関係がここにあるのではないでしょうか。
始めから衆生と如来がまずいるのではない。
衆生・凡夫はそれが自分のことであることを知るためには、如来に見出され、照らされなければならない。
逆に如来も衆生・凡夫を見出すことによって初めて如来となる。
同じ関係が神と現在を抱えた人間との関係について言えると思います。
まず人間と神がそれぞれいるのではない。『善の研究』で言えば「宗教的要求」、その中で始めて人間は自らの有限性(罪)を自覚して、人間となり、神も自らの愛を顕わして神となる、そういう関係がこの「映された我」と「映す我」の関係にもあるのではないか、
そのように思うのです。
ただこの「内部知覚について」では、まだこうした神の側からの自己否定は明確になっていないように思います。
次の点です。「内部知覚について」における「内部知覚」はほぼ『善の研究』の直接経験と重ねてよいと考えています。「初めて読む人」(『善の研究』序)において直接経験は「想起」の対象であり、反省の立場において成立しているにも拘らず、そのことを自覚しない立場です。つまり有限性を自覚していない。
これに対し第1編の「純粋経験」は「内部知覚について」における「映す我」と「映された我」が「同一」である在り方に対応していると考えています。「真に対象其者に合一した内部知覚」はすでに単なる「内部知覚」ではありません。「省みられた自己を離れた立場」(133頁)とあります。
最後の点です。「我々はいつでも全然我を没し尽して、主客合一となる所に有を見るのである」(107-108頁)の「有」を見るところが「場所」ではないか、ということですね。
この「見る」は外から見るということではなく、直観ないし自覚という意味での「知る」ということです。「自覚」とは「知る我と、知られる我と、我が我を知る場所とが一つであること」(127頁)とされていました。
「有」という判断の主語に成り切る(主客合一)ところで、我が我を知る、ということです。ですから「有を見る」所は同時に有と一つになって、我が我を見る所即ち「場所」です。
「花が赤い」は最早外から見られた認識ではない。自らが花になって、花が赤い、自分が赤い、ということだと思います。
長くなってすみません。

B

大変丁寧にお返事いただきありがとうございます。
「映された我」は「映す我」によって初めて「映された我」となり、「映す我」も「映された我」を見出すことによって初めて「映す我」になる。
というのは他者の存在があってはじめて我の存在を見出すことであるともいえるのかもしれません。
キーネーシスの見方を持ち込むとはつまり「映す我」をエネルゲイア「映された我」をキーネーシスと捉えるということでしょうか。
しかし、「映された我」を「映す我」になる可能性を孕んだものとして考える私のその考えこそ既に何らかの慢心を含んでいるのでしょう。
それが私の私が人間だといえる所以です。
今回の哲学的問の答えかなあ。
先生ありがとうございました。
佐野
「他者」として念頭に置いたのはもちろん「絶対的他者」、神のことです。これがまた面白い。我がいて他者(神)がいる、というのではないんです。これだと「相対的他者」ですね。相対以前です。「映す我」「映された我」の同一をここで考えたいのです。我と神が相対的に対立する以前です。
蛙が池に飛び込んだ、その驚きは、静かさの気づきであり、自らがそうした静かさと一体になると同時に、そこに映された自分の発見、即ち反省に囚われていた自分の発見です。これが「映された我」です。
すべては体験の事柄です。しかしそれと同時にどうしても言っておきたいことは、この体験は、神が我々の体験に関わらず常に我々のもとに届いていたということの体験でもあるということです。体験に関わらないということです。静かさが我々の気づきに関わらずすでに我々に届いていたように。この静かさが「動かぬもの」であり「場所」ではないかと思うのです。
キーネーシスの考え方を持ち込むということは、目的を外に置くということです。
湯田温泉駅に着くことを目的にすると同じことです(笑)。

B

とても寒い一日でした。お返事ありがとうございます。
先生の「映す我」と「映された我」の解釈は私にはとうてい考えも及ばないことで新鮮な驚きです。
我々のもとに既にそして常に届いていた静かさを動かぬもの「場所」というならそれは私がずっと求めてやまなかったもののように思います。「場所」をイメージする時本当に心が満たされる感じがあります。それに言葉を与えることはできないけれど今、それを言葉にするなら先生の言われたことだと思います。
しかし、場所の考はまだ始まったばかりなのでもしかしたら新しい言葉が与えられるかもしれません。もしかしたら言葉を失うかもしれません。よくわからないけれど一生かけてもわからないものに出会えて私はワクワクしているのです。
佐野
続いて三番目の方です。この方は反省と直観の統一に関心があるようです。

C

「反省」の在り方から「直観」の在り方に転ずるという「分別と無分別の無分別」ではなく、「何処までも現実的なるものと、何処までも超越的なるものと一つである。一般的なるものと特殊的なるものとが一つである」と言われるように「反省」と「直観」の合一である「自覚」でしようか。
佐野
反省から直観へ転ずるということで、反省がなくなってしまうということをお考えですね。そうではなく、「現実的なるもの」(これを反省とお考えですね)と「超越的なるもの」(これが直観ですね)が一つだと、そういうことがおっしゃりたいのですね。それは私もそうだと思います。有限なるものが無限になって無限に合一するのではなく、有限が有限のままに無限に合一するということだと思います。問題はこの「合一」をどう考えるかということです。

C

これ(「客観的なるものと合一する」)は「善の研究」において、主観的自己が破られる所で、客観的実在・神と合一すると共に、この自己の有限性を知ると同様な主旨を持っているのではないか。
佐野
ええ。ですが『善の研究』においてはそのことに西田が十分に自覚的ではなかったと思います。まだ「思考の奥底に潜」んでいたと考えられます。

C

両者の関係を「矛盾的自己同一」と言っていいでしょうか。
佐野
いいですが、それで何が分かったことになるのでしょうか。そこを考えることの方が重要であるように思います。

C

西田の思索全体の根柢(奥底)には「他力宗教的」なものは終始一貫しているでしょうか?
佐野
『善の研究』以降はそうだと思います。しかしそれはまさに「奥底」であり、そうしたものの明確な自覚に至るのに『宗教論』を待たねばならなかった、と今のところ考えています。
(第32回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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