矛盾を含む同一なるもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「二」の第4段落335頁2行目「一つの系列に従って類を特殊化して行く時」から336頁2行目「転換し得ると考えることができる」までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「唯一なるものが限定せられると考える時、その根柢となる一般者の意味が変わって来なければならぬ」(335頁13行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は二つあって、「問いA」が、「あてはまる述語的一般性が見あたらない個物は自己自身にのみ同一で主語と述語(特殊と一般)が転換可能であることから、これが「変ずる」ときには一般者の意味が変わる(具体的一般者)ことが述べられているが、「特殊と一般」と「主語と述語」が不可分離的(330頁4行目)であるとは、この個物が変ずることによるものか」(150字)で、「問いB」が「種を成すことを拒む個物は具体的一般者に於いてあるよりほかないとされるが、何とも同一でない個物であってもなお「それ以外のもの」に於てあり、むしろ「拒む」のではなくそれ以外のすべてに同一であると言えないか。「AはAであると同時にAでない」という転換ではなく「AはAであると同時に全体でもある」ということになる」(152字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。今回はあとから気づいた部分がありましたので、特に都合によって創作した部分を含んでいます。
佐野
「一般者の意味が変わる」とはキーセンテンスの語句ですね。これは直接には「変ずる」場合のことを言っているのではなくて、「唯一なるものが限定せられると考える時」の話で、個物の限定の場合のことを言っていますね。特殊が一般においてある、という通常の包摂判断における一般者ではない、個物がそこにおいてある場所、つまり超越的述語面とか、絶対無とかいわれる一般者への意味の転換です。

S

その個物の捉え方がもう一つはっきりしないのです。

R

その個物と「変ずる」とはどう関わるのですか?

S

はじめはまず固定的な個物がまずあって、それが変化する、というように考えていたのですが、アレっていうことになって‥‥。まず「特殊と一般」と「主語と述語」が「不可分離的」であるとされながら、「単に之を同一視することはできない」とあるのがよく分かりません。
佐野
330頁4行目ですね。押さえておきましょう。まずは「特殊と一般」の話です。「一般概念を何處まで特殊化して行っても、一般性を脱却することはできない」。これは言葉の世界ですね。言葉はどこまでも一般しか言い表せないからです。ところが西田はこれにアリストテレスの、個物とは主語となって述語とならないものである(『カテゴリアイ』におけるアリストテレス自身の言い方とは異なりますが)、という思想を重ねます。そうしてこの「主語となって述語とならないと云う」ことを附加することによって、「最後の種は個物となるのである」と考えます。一般(類)と特殊(種)という従来の論理学の分類に、アリストテレスの個物概念を重ね、それによって「個物」を把握可能としたところに西田の独創性があるわけですが、当然そこには批判もありえます。西田の場合個物は直観によって捉えることができる、ということになりますが、言葉を介して認識する外ない人間にそのような直観は許されていない、という立場が当然出て来ます。カントはそうした立場に立つと思います。テキストでは包摂判断を念頭に置きつつ、「特殊と一般」が「主語と述語」と「不可分離的」であることを一方で認めながら、他方では「特殊と一般」では到達できない個というものに「主語と述語」が到達できる、という点に単に両者を同一視できない側面を認めます。

R

そのような個物について「主語と述語(特殊と一般)が転換可能」とありますが、これをどのようにお考えですか?

S

個物については「このものはこのものだ」としか言いようがない。そうだとすれば主語と述語は転換可能だ、という意味です。

Y

「あてはまる述語的一般性が見あたらない個物」とありますが、「個物までも含むものはもはや抽象的一般として考えることのできないものであるが、而も尚判断を内に含むという意味に於て述語的一般性を失うたものではない」(333頁1~2行目)とあります。

S

「あてはまる述語的一般性」とは「抽象的一般」としての一般性です。

R

「個物までも含む」、また「判断を内に含む」「述語的一般性」については、「反対を内に包んだものでなければならぬ」(同4行目)とか、「主語的なるものの否定を含むものでなければならぬ」(同7行目)とあります。そうなると「主語と述語(特殊と一般)が転換可能」というのをどう考えていいかますます分かりません。

T

うちで飼っていた白猫(「しろ」)が行方不明になって、数日したら同じような猫が舞い戻ってきた。これを「しろ」と呼んでいいかの問題にも通じると思います。理由を挙げようとすると、結局どこまでも「しろ」であるかどうかは分からないことになるけれども、我々は「直観」で「これは「しろ」だ」と判断している、ということを西田は言いたいのではないでしょうか?
佐野
その場合、時間経過を通じた、個物(物)としての同一性が問題になっていますね。西田がここで問題にしているのは、そうした物的な実体を、それは結局質料ということになりますが、そうした「中間」のものを解消することだと思います。

T

その場合でも、「しろ」を「しろ」と呼ぶことのできる本質のようなものが直観されている、と考えればよいと思います。この本質は時間を越えたものです。
佐野
なるほど。分かりました。しかしテキストでは「個色」が論じられていますから、ここでは分かりやすさのために彼岸花の「この赤」を例にとって考えてみましょう。主語と述語が転換可能だというのは、個物が自己自身に同一で、「この赤はこの赤だ」としか言いようがないからです。しかしこれを文字通り取れば同語反復で、何も言っていません。しかし「この赤はこの赤だ」という言葉が個物(個色)との出会いの言葉だとすれば、そこはどうなっているのか、西田はそれを考えようとしているのだと思います。

S

判断は大抵これまでの経験に基づいてなされますから、そうした個物との出会いはきわめてまれな出来事だと思います。
佐野
その意味では、「この赤」との出会いは判断やこれまでの経験を破って、絶句し、「この赤はこの赤だ」と無意味な言葉を叫ぶほかない経験だと言えると思います。この経験が概念的知識になってそれについて哲学することができるためには、そこに述語的一般者がなければならない、と西田は考えるのだと思います。そうするとこの問題はSさんの「問いB」に関わってくることになります。「この赤はこの赤だ」と言った時に、「この赤」が同時に他のすべての存在の否定の中で立ち上がってきているということです。否定即肯定と言ってもいいし、これを一即一切、一切即一と言ってもいい。こういう体験として、主語と述語は転換可能となり、判断以前の所でいわば主語と述語がピタッと一つになっていると言えると思います。まさに純粋経験ですね。「個色」を述べた箇所に面白いことが書かれています。334頁7~8行目をSさん、読んでみて下さい。

S

「個色とは如何なるものであるか。それは他の何の色とも異なったものでなければならぬ、此意味に於て他の色との関係が含まれて居ると云うことができる」とあります。
佐野
ありがとうございます。個が個であればあるほど、全体との関係を含むことになります。だから一面で個はどこまでも語り尽くすことができない一方で、他方でそれについて語られるものとして、その個は直観されていなければならない、ということになります。もう一言だけ付け加えれば、我々は「個(色)」というものを固定したものとして捉え、変化はこれとは別の事柄であるというようにイメージしやすいですが、「個(色)」が「個(色)」として立ち現れるのは、徹底した流転(変化)の中でのみです。

N

ここには日本文化の特質が現れていると思います。「ものづくり」において「もの」となって考え行動する、といった…。多くの人が判断以前に、直観でものをバチっと認識している、という根本思想がありますね。

T

なんか安心しますね。判断の領域ではどこまでも確かなことは言えませんから。
佐野
西田の思想はオメデタイと。

N

ええ。極めて楽観的です。

T

救いだと思います。
佐野
プロトコルはこのくらいにして、講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(336頁2~6行目)
佐野
ここも「主語と述語との転換に特殊と一般との転換の意味が含まれて来なければならない」ことが述べられていますね。次を読んで見ましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(336頁6~11行目)
佐野
ここも「同一なるもの」つまり「個物」を考えることができるためには、「述語」がなければならないけれども、それは「単なる包摂判断の述語とはその性質を異にするものでなければならぬ」ことが述べられています。そうして「包摂的関係に於ける述語的なるものが主語となるのである、特殊が一般となるのである」と転換について述べられています。次を読んで見ましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(336頁11~15行目)
佐野
ちょっと読むと矛盾したことが書かれていますね。「甲が甲である」という「同一判断」によって「同一なるもの」(個物)が限定せられる時、「その主語と述語とは判断の主語と述語との関係に於ては異なったものでなければならぬ」とまずは言われます。前の「甲」と後の「甲」が異なるということです。しかしすぐに続けて「而も此判断によって言い表されるものが一なるが故に、主語と述語とを転換することができる、この判断の主語となるものに於て主語と述語と同等となる」とあります。今度は前の「甲」と後の「甲」が同じだ、と言っています。これをどう考えるか。

K

即非の論理のようなものを考えていると思います。
佐野
なるほど。面白くなってきましたね。それではDさん、次をお願いします。

D

読む(336頁15行目~337頁6行目)
佐野
「概念の外延」という言葉が出て来ましたね。それを考える時、「既にかかる意味が含まれて居る」とありますが、「かかる意味」とは?

D

前文の「主語的なるものが却って一般的として述語的なるものを包む」という意味だと思います。
佐野
そうですね。これを「概念の外延」と結びつけて説明してみてください。

D

「動物は生物である」という通常の包摂判断の主語と述語を転換して、「生物は動物である、植物である」というように、外延を並べる仕方で考えることではないでしょうか。
佐野
よく分かりました。さてテキストには「最後の種が矛盾的種差によって更に自己自身を限定しようとする時、それが単に限定し得ざるものとして概念の外に出ていかない限り」とありますね。個物を哲学することができる限り、ということですね。その場合は、最後の種は「自己自身の内に矛盾を含む同一なるものとならねばならぬ」とされます。「この赤」が同時に「この赤でない」という矛盾を含んだ、「この赤」でなければならない、ということですから、まさに即非の論理ですね。そうして「最後の種が自己同一なる個物となるには、一般的述語性を否定することによって自己自身を肯定するのである、肯定即否定となるのである」とあります。ここでは個が一般との関係において述べられていますね。一般性の否定とは言語の否定ということになります。ここでは他の個物の否定は述べられてはいませんが、個物の肯定には、当然一般者の否定と同時に、他のすべての個物の否定が含まれます。最後に「〔個物は〕包摂的関係から云えば最後の種を尚一歩特殊化の方向に進めたものであるが、矛盾的統一としては種差を含むものとなる」とあるのは、「この赤」が「この赤ならざるもの」を含むということです。ここも即非の論理です。そうして「是に於て抽象的一般から具体的一般に転ずるのである」とされます。今日はここまでとしましょう。
(第105回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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