変ずるもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「一」の第2段落326頁3行目「右の如く」から328頁11行目「主語とするのではない」までを読了しました。今回のプロトコルはKさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「変ずるものの根柢には変ぜざるものがなければならぬ」(326頁12行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「①時其者を考へるとしても、少くも時を固定して見るのである、時を固定せる要素から成り立つものとして、その要素を比較するのである」との記述は、キーセンテンスとして上げた文の説明と理解していいのでしょうか。そうだとすると、②「時を固定する要素」を主観的に選定(=時の背後に置く)し、その条件のもとで行えばいいということでしょうか。③「時の関係において変ぜざるものがあるのか」という疑問を持っているので、このような問いになりました」(209字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
問いが三つありますね。まず①から。これはそのように理解してよいと思います。「固定せる要素から成り立つ」「時」が「変ぜざるもの」です。皆さん、いかがですか?特に異論がないようでしたら②に移ります。「行う」の意味が曖昧ですが、これは「現ずるものの根柢に変ぜざるものを考える」ということでよいと思います。これが、西田が「そのように行えばいい」と言っているのか、という質問だとすれば、それはそうではないでしょう。それでは「時其者を考える」(「時其者・時の変化其者を主語とする)ことにはならない、というのが西田の主張だと思います。この点についても、皆さん、何かご意見はありますか?ないようでしたら、③に移りたいと思います。これはどういうことですか?

K

すべてのものは変化のうちにあり、常住なものは何ひとつない、と思うからです。変化を論ずるには、相対的に静止しているものを設定すればよいですが、絶対的に静止しているものはない、ということです。

T

意味は移り行かないものだと思います。もしそうだとすれば語るということが成り立ちませんし、知識というものも成り立たないと思います。

K

意味というのは時の背後に置かれたもので、それは常住かもしれませんが、ここでは「時其者」を考える場合に、そこに「変ぜざるもの」はあるのかを考えたいのです。
佐野
それはどうもこれから西田が論じようとしていることに関わるようですね。ということで、プロトコルはこれ位にしてテキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(328頁12行目~329頁5行目)
佐野
ここはこれまでのまとめと「二」への移行を論じた部分ですね。少しずつ行きましょう。「時の関係」とは前後・同時・長短のことですね。「その項となるもの」が「性質を有つ」とは、前は青だったが、後は赤である、というようなことです。しかし青や赤は性質であっても「意味」ではない、ということです。価値を含んでいないということだと解釈されます。そうして「意味は他との関係に於て成立するのである」とあるのは、意味は、例えばつねに何々にとってという意味で、他との関係において成立する、ということだと考えられます。ここまでで分からないところはありますか?

A

大丈夫です。
佐野
次に「併し時の関係は之を性質的に区別することすらできない」と来ます。正しくは「時の関係に於てその項となるものは之を性質的に区別することすらできない」ということでしょう。前後・同時といった関係のうちにあるものはすべて〈今、今、今…〉ないし〈時、時、時…〉というように同質だからだと思われます。これを言い換えて「時に於ける変化を区別するものはその背後に考えられた性質的一般者か、然らざれば時を超越した概念的統一にすぎない」と言われます。327頁7~9行目では「性質的一般者」と「類概念的なるもの」とが同じ意味で用いられていましたが、ここでは「性質的一般者」は「背後」、「概念的統一」は「超越」というように分けて述べられていますね。「性質的一般者」ということで「色」のようなものを考え、「概念的統一」ということでもっと抽象的な、「時の類概念」(328,2)とか、「時間空間質量の数学的函数」としての「力」(327,6)を考えているのかもしれません。確かにこうしたものを置けば、例えば色が青から赤に変わったというように、変化を区別することはできるでしょう。しかしそれでは「時其者を主語として之に述語的性質を加えることはできない」とされます。「性質時」になっていない、ということです。そうして「時の長短否前後ということすら、時の要素について述語するのである」と来ます。

A

この「時の要素」とは前の段落にあった「時の要素を固定して居る」と言われたものですか?
佐野
そうですね。「固定」せる「時の要素」です。

K

いまひとつイメージできませんが。
佐野
前回は時の空間化ということを申し上げましたが、時間軸などにおける各点、時計版における、何時何分といった各点、あるいはカレンダーの日付も考えられると思います。これらについて「時の長短・前後」が述語される、というわけです。

K

分かりました。
佐野
ここからは次の「二」への導入です。「然らば我々が時の変化其者を主語として考える時」、つまり例えば「性質的一般者」を背後に置いてこれについて述語するのでなく、ということですね。その時に「如何なるものを考えて居るのであるか」。次に「如何にして性質時という如きものを考え得るのであるか」とあるのは言い換えですね。ここには、我々が「性質的一般者」や「概念的統一」を背後に置かずに「時其者(時の変化其者)を主語として考える」ことができる、という前提があります。これについては追々考えていくことにしましょう。その場合「時が内面的に性質的区別を有つと云うには、我々が時と考えるものを類として之を分化することができねばならぬ。併し一度的と考えられる時は更に分化することのできないものでなければならぬ、時を内に包み尚之を分化する一般者とは如何なるものであろうか」と述べられて、「二」に移ることになります(後に出てくるように、この「一般者」とは「具体的一般者」であると考えられます)。それでは次をBさん、お願いします。

B

読む(329頁7~13行目)
佐野
初めに「すべて存在するものは時に於てある」とありますが、この「存在するもの」は意味的・価値的な存在ではありませんね。「時に於てある」ような「存在」です。それでは「時とは如何なるものであるか、如何にして我々は時というものを考えることができるか」が次に問題になります。そうして「時を考えるには先ず連続ということを考えねばなるまい」と来ます。さらに「連続というものを考えるには、数学者の所謂集合の概念を基とせねばならぬ」とされます。そうして「連続の概念の根柢に類概念がなければなら」ず、それを数学者は「集合の概念」だとし、そこから「完全集合」として「連続」を定義する、と述べられます。この完全集合は「カントール集合」と呼ばれるそうですが、ここでは立ち入ることはできません。いずれにせよ「併し時は連続の一種であるとしても連続は即ち時ではない」というように、連続から時を考えるやり方は却下されます。「線の如きものでも、一種の連続である」とあるように、空間化された時は時ではない、とされます。そうして「時は変ずるものでなければならぬ」とされ、それでは「変ずるものとは如何なるものであるか」と、再び「変ずるもの」が問題になります。それでは次をCさん、お願いします。

C

読む(329頁14行目~330頁8行目)
佐野
「類概念」をどこまでも特殊化すると「最後の種」に達するが、それはまだ「個物」ではない、それが「真に個物」となるには「主語となって述語とならない」と云うことが「附加」されなければならない、と言われていますね。「佐野之人」は個人(個物)ですが、これは決して述語にはなりません。「佐野之人は〇〇である」とは言えても、「〇〇は佐野之人である」とは言えない。もちろん「2025年6月に山口西田読書会の進行役をしているのは佐野之人である」というように、個人を特定することはできますが、それは「佐野之人」の一面にすぎません。「〇〇は佐野之人である」と言えるためには、「佐野之人は〇〇である」という言明に無限の述語が可能である(語り尽くせない)のと同様に、無限の主語を必要とすることになりますから、「〇〇は佐野之人である」とは言えない、ということになります。

T

名前があれば個物を言い表せる、ということですか?
佐野
名前で呼ぶことによって、相手を個人(唯一無二)として扱うということはありますが、名前が個物そのものではないでしょう。名前は「私(これ)は佐野之人です」というように、述語の側に来ますから。「私(これ)」の「〔一つの〕名前」という側面にすぎません。この場合の個物はまさに主語の「私(これ)」です。ですが「私」と言えば誰もが「私」ですし、「これ」と言えばどれも「これ」です。言葉は一般的なものしか言い表すことができません。「唯一無二の私(これ)」と言っても、どれも皆「唯一無二の私(これ)」です。こうした〈一般としての個〉に対して、〈個としての個〉と言っても、やはりどれも皆〈個としての個〉です。言い表せません。我々はこうした個に出会うときには、絶句(言葉を失う)ほかはないことになります。「主語となって述語とならない」には「言い表せない」ものが立ち現れている、という絶句の事態が籠められています。テキストに「主語となって述語とならないと『云う』ことが附加せられねばならない」とありますが、これはまさに絶句の事態を敢えて言葉にしたものと考えることができます。「是に於て最後の種は即ち個物となるのである」とありますが、これは単に「主語となって述語とならないと云うこと」を「附加」すればそうなる、というような操作を言っているのではないと思います。次に「概念の特殊と一般との関係」とありますが、これは論理的な関係ですね。それと「判断の主語と述語との関係とは不可分離的であると共に、単に之を同一視することはできない」とあります。その理由が次に述べられていると考えられます。何とありますか?

C

「主語となって述語とならないと云うことによって、我々は所謂特殊化によって達することの出来ない尖端に達するのである、一般概念を破って外に出るのである」とあります。
佐野
概念の特殊と一般との関係では達することの出来ない「尖端」に、判断の主語と述語の関係が到達できる、というのです。それはまさに「云う」ということ、述語できない(語れない)と「云う(語る)」ということによってだ、ということです。ここには明らかに突破・超越がありますね。そうして「斯くして個物の概念に達した時、一般的なるものは個物の属性として此に於てあるものとなる。縦、ソクラテスの性質は他と共通なるものであっても、それはソクラテスの性質として唯一のものでなければならぬ」と言われます。塩も砂糖も白い、その意味で「白さ」は一般的ですが、「この塩の白さ」は砂糖の白さとも、他の塩の白さとも異なる個別的なものになります。それでは次をⅮさん、お願いします。

D

読む(330頁8~13行目)
佐野
ここでは「個物というものを考えるには、之を一般概念の埒外にまで進めねばならぬ」が、「併し判断が如何にして一般概念を破ってその外に出ることができるであろうか」と、上で述べられたことが改めて問いとなっています。上ではそれを判断の突破・超越と解釈しました。次いで「全然一般概念を超越するならば判断の主語となることもできない、何等の意味に於ても判断的関係に入ることはできない」とあります。まさに「絶句」ですね。たんなる判断の突破・超越では絶句にしかならない、ということでしょう。そこで「真に判断の主語となるものは所謂命題の主語ではなくして」、つまり「概念の特殊」ではなくして、「却って具体的一般者であると云わねばならぬ」。出て来ました。「具体的一般者」ですね。特殊と対立するのでなく、特殊を包む一般者のことです。ここでは「主語となって述語とならない個物を包む一般者」のことですね。先程の話で言えば、「主語となって述語とならない(言い表せない)と『云う』」ことによって、そうした真の判断の主語が具体的一般者として立ち現れていることになります。一旦判断の外に出て、改めて(別の)判断に戻ってきた形です。そうして西田としては、この「真の判断の主語」がその他のすべての判断の根柢にあることになります。こうして「個物」は語り尽くせないものとして立ち現れることになります。次をEさん、お願いします。

E

読む(330頁14行目~331頁)
佐野
西田はこの「具体的一般者」という「右の如き考」から「変ずるものというものを考えることができる」と考えているようです。その内実はまだ分かりません。見て行きましょう。「変ずるものは反対に移り行かなければならぬ」が、「変ずるということ」の「根柢に変ぜざるものがなければならぬ」と以前述べられたことが繰り返されますが、この「変ぜざるもの」こそが「具体的一般者」だというのでしょう。しかしどういうことか、慎重に見て行きましょう。具体例が出ていますね。どうなっていますか。

E

「赤が青に変ずると云っても、赤其者が青となるのではない、色が変ずるのである、色が変ずると云っても、色の一般概念が変ずると云うのではない」とあります。
佐野
では何が変ずるというのでしょう。読者のはやる気持ちを抑えるように、まず何でないかが語られます。最初は主語的方向に「物其者」を考え、次いで述語的方向に「一般的なる色や形」を考え、どちらも「変ずるもの」ではない、と却下します。そうして「物の色や形が変ずるのである」と述べます。これは納得できますね。次いでこれを言い換えて「主語となって述語とならないもの」すなわち「個物」が「又述語的一般者に於てあると考えられた時、変ずるものとなるのである」と述べられることになります。これはまさに個物を包む一般者ですから、具体的一般者ということになるでしょう。今日はここまでとします。
(第100回)
Tweet about this on TwitterShare on Facebook

著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

年別アーカイブ

カテゴリー

場所
index

rss feed