変ずるもの/連続的なもの
- 2025年11月1日
- 読書会だより
前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「二」の第5段落337頁7行目「以上論じた所によって、」から338頁9行目「変ずるものとなるのである」までを読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「連続的なるものも個物である、単に自己同一といふより尚一層個物的と考へることができるが、連続的統一とは内に無限なる特殊化を含んだ一般者でなければならぬ、無限なる包摂的関係をその一般的根元に還って見た時、連続的なものが考えられるのである。併しかかる還源的方向を何處までも進めて行って、主語となって述語とならないものと反対に、述語となって主語とならないという意味に於て包摂的関係を超越した述語面に撞着した時、かかる場所に於て変ずるものが見られるのである」(337頁13行目~338頁3行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「337 頁「連続的なもの」としての「個物」があり、338 頁「変ずるもの」としての「個物」が出てくる。「連続的なもの」の方向=一般的根元に還る方向をどこまで進めていっても、「包摂的関係を超越した述語面」に「撞着した時」、かかる場所に於て「変ずるもの」が見られるのであるとされる。ここでは、「連続的なもの」と「変ずるもの」の間に、絶対無の場所への転換と同時にそこに於いてある真の個物が見られる。「連続的なもの」と「変ずるもの」はどう違うのか?それぞれの背後に横たわれる一般的なるもの、或いはそれが於いてある場所は違うのか?」(254字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
「連続的なもの」と「変ずるもの」は別のものとお考えですか?
R
はい。どちらも個物ですが、その背後になるものが異なります。「変ずるもの」としての個物の背後にある一般的なものは絶対無ですが、「連続的なもの」としての個物の背後にある一般的なものは、実体化された絶対無です。
N
「変ずるもの」が個物で、「連続的なもの」が一般的なものではないですか?
普通はそのように考えられますね。そうして「変ずるもの」は「連続的なもの」がなければ考えることはできません。そこで両者がどう関係するかが問題になって来ると思いますが、ここで問題になって来るのが、「主語と述語とは転換する」ということです。Rさんの解釈にはこの視点が欠けているように思われます。通常の包摂的判断では、主語の側に来るのが個物・変ずるもので、述語の側に来るのが一般的なもの・連続的なものです。しかしこの判断が破れる。個物が真に個物となり、変ずるものが真に変ずるものになります(富士山といった実体内の、あるいは色一般といった概念内の変化ではなく、生滅といった徹底した流転になる)。それと同時に、一般的なものも真に一般的なものになります(実体としての富士山や色一般というような抽象的一般者が真の全体としての具体的一般者になる)。こうして連続するものが真に連続するものとなる。さらにそこでは主語と述語が同一となることを通じて転換し、一般者の自己限定として個物が立ち上がることになります。
R
そのことと「変ずるもの」が「絶対無の場所」に「於てある」とはどう関係しますか?
その場合「絶対無」をどう考えるかが問題だと思います。「変ずるもの」を「有」、「絶対無」を「無」と考えると、この「絶対無」は有無対立の無になってしまいますね。
N
この絶対無は、非連続の連続のようなもので、あらゆるものが区別されながら結合子によって繋がって(通じ合って)いるようなそんなあり方ではないでしょうか。
絶対無とは具体的一般者にほかならないと。面白いですね。プロトコルはこのくらいにしてテキストに移りましょう。Aさん、お願いします。
A
読む(「三」第1段落)
「時は変ずるもの」で「変ずるものはすべて時に於て変ずる」とすれば、「時の概念と変ずるものの概念とは如何なる関係に於て立つ」かが問題になる、ということです。ここはそのまま受け取っておきましょう。Bさん、次をお願いします。
B
読む(「三」第2段落)
ここは「二」の最後で言われたことを簡潔に要約した箇所ですね。「変ずるもの」を考えるには「具体的一般者」の概念から出立しなければならない。その「具体的一般者」とは「特殊と一般の系列」、つまり包摂的関係を含んだものだが、それは「主語と述語との判断的関係」を含んでいると。それによって「唯一なるもの」、個物ですね。これが考えられる。「自己に同一なるもの」、「主語となって述語とならない特殊化の尖端」も同じ(個物)です。そうしてこうした「特殊化の尖端にまで達すること」が「具体的一般者が自己自身に還る」ことだと。一般者は抽象的一般者としてはどこまでも特殊(さらには個物)と対立します。しかしそのように特殊(個物)と対立する一般者は特殊と並ぶそれ自身特殊なものであって、真の一般者ではありません。これはヘーゲルに学んだものだと思いますが、一般者が個物になることによって、一般者も真に一般者(具体的一般者)になるということです。ここまでで質問はありますか?
B
大丈夫です。
そのように「具体的一般者が自己自身に還って見た時」、その時が「一般的なるものが主語となって述語とならない基体として考えられた時」だというのです。「基体」は「主語となって述語とならない」とありますから、さしあたり「個物」でいいと思います。それが同時に「一般的なるもの」であり、そこにおいて「連続的なるもの」が考えられるので「基体」と呼んだのでしょう。いずれにしても具体的一般者のことです。次はちょっと読みにくいですね。何と書いてありますか?
B
「変ずるものの根柢にも、何かの意味に於て連続的なるものがなければならぬ、かかる連続的なるものがもはや抽象的概念として限定することができないと考えられる時、我々は之を変ずるものと考えざるを得ないのである」とあります。
最後の「之」は何を指しますか?
B
「連続的なるもの」ではないでしょうか。
「連続的なるもの」が「変ずる」のですか?まあ、「具体的一般者」ですから結局はそれでもよいことになりますが、もう少し普通に読めないか考えて見ましょう。この文の冒頭にある「変ずるもの」を「一般に変ずるものと考えられているもの」と考えて見ましょう。「変ずるものの根柢にも、何かの意味に於て」とありますから、むしろそのように読んだ方がよいと思います。その場合でも「連続的なるものがなければならぬ」、となります。そうして「かかる連続的なるもの」は通常、富士山というような実体にせよ、色一般にせよ、抽象的概念として考えられているけれども、それがもはやそういうものとして限定することができないと考えられる時、「我々は之を」、すなわち「変ずるもの」(一般に変ずるものと考えられているもの)を〈真に〉「変ずるものと考えざるを得ない」と読むのです。つまり富士山というような実体を持ち込んで、それが初冠雪となったとか、色一般という抽象概念を持ち込んで、色が緑から赤に変わったとか考えるのは、真に変化を考えたことにならないということです。富士山という実体や色一般という変化しないものが残っているからです。Bさんが就職する、というのも一つの変化ですが、その場合Bさんという実体(個体)が変化しないものとして変化の基に置かれています。そうではなく、変化を考えるとはBさんが死ぬということまで含めて考える、徹底した生成変化、流転の中で考えるということでなければ変化を考えたことにはならない、ということだと思います。次へ参りましょう。Cさん、お願いします。
C
読む(「三」第3段落)
「変ずるもの」の根柢に「連続的なるもの」、「一般的なるもの」がなければならないが、それは抽象的な「一般概念」として限定できないものでなければならない、とこれまで述べられたことが繰り返されています。この一般者は「具体的一般者」でなければならない、ということです。さらにこの「一般概念として限定できないもの」が「非合理的なるもの」と呼ばれていますね。これも合理と対立する非合理的なものではないでしょう。そういう「非合理的なるものの合理化」によって「変ずるものの概念」が成立する、とされます。しかしここで西田は次のように問いを立てます。「限定することのできない一般的なるものとは何を意味するか」、「非合理的なるものの合理化とは一種の矛盾ではなかろうか」と。どちらも「具体的一般者」に関わる問いです。前の方の問いは、「具体的一般者へ」の問い、後の方は「具体的一般者から」の問いと言えると思います。そこで西田は「私は是に於て具体的一般者というものについて考えて見なければならない」と述べます。ここまでで何か質問はありますか?
C
特にありません。
それでは次を見て見ましょう。「具体的一般者とは抽象的概念を越えて之を内に包むものである」とあります。「之」とは?
C
「抽象的概念」です。
そうですね。単に「内に包む」のではなく、「越えて」包む。ここに超越があります。先程の「一般概念」として限定することができない、ということですね。これは単に不可能を言っているのではなく、これまでの一般概念が破れるという体験ですね。こうした体験だからこそ、「自己の内に所与の原理を蔵し自己の内容を与えることを意味する」ということになります。
C
「所与の原理」とは、経験内容は与えられなければならないということですよね。
そうです。通常は認識主観にとって経験内容はその外から与えられなければならない、という意味です。しかし西田は「所与の原理」ということで、経験内容を与える原理一般を考えているようです。これを、カント的に認識主観の外から与えられる場合と、内から与える場合とに分けて考えていますね。カント的な「所与の原理」は主観と客観の対立を前提していますが、西田は主観と客観が分れる以前の所から考えようとします。もっともカントからすれば、そのように考えようとするところで、主観と客観が分れる以前の所が「与えられたもの」になると思います。これはたんなる立場の違いというのではなくて、人間が一方で思考(「ついての言葉=反省・説明」)以前を生きながら、他方で思考を一歩も出ることができないという、人間そのものが抱える矛盾として考えなければならないと思います。どちらが正しいという問題ではない。
C
ありがとうございます。
次に行きましょう。具体的一般者が「自己の内に所与の原理を蔵し自己の内容を与える」ということを言い換えて「自己の内に特殊化の原理を含み自己自身の主語となる」と述べています。体験内容を主語として、これに述語を与える、言葉にする。これが「特殊化の原理」と呼ばれています。体験が一般概念を破って(超越して)成立したものですから、一般概念をいわば止揚された仕方で含んでいる。無限なる言葉として蔵している。だから言葉になる、これを「特殊化の原理」を含んでいる、と言っているのだと思います。次に「一般概念」の話が出て来ますね。
C
色と数学ですね。
そうです。色の場合は「所謂抽象的概念」と呼ばれています。その場合でも「所与の原理」が必要ですが、この「所与の原理」は外から与えられなければならないという意味です。「色の概念的関係を構成するものは客観的に与えられる色自体の体系」だとされます。「色の概念的関係」は主観によって「構成」されますが、そのためには「色自体の体系」が客観的に与えられなければならない、ということです。しかし「色の一般概念が直に色自体ではない」と言われます。例えば「赤」という言葉は一般概念ですが、感覚される赤はどこまでも言葉に言い表すことのできないものです。「数学的概念」の場合はどうですか?
C
「一般概念が同時に自己の特殊的内容を与える」とあります。
そうですね。「一般概念」が「特殊化の原理」を含むということです。言い換えれば「自己自身が所与の原理となる」ということです。
C
どういうことですか?
例えば「自然数」という一般概念が直ちに、1,2,3,…という特殊を含む、ないし与える、ということです。
C
次に「斯くあるということと斯くあらねばならぬと云うこととが一である」とあるのもよく分かりません。
「斯くある」が特殊で、「斯くあらねばならぬ」が一般(概念)です。数学、例えば数の場合は、5(特殊)がそのまま数(一般)です。「この5」というものはありません。「色」の場合は、この赤(斯くある)と「赤」という言葉(斯くあらねばならぬ)は一致しません。
C
分かりました。
次いで「此故に具体的一般者の根柢には直覚的なものがなければならぬ」とありますが、「此故に」が何を指しているのかはっきりしませんね。「色」のような経験的概念の場合には「感性的直観」、「数学」の場合には「純粋直観」が必要だ、ということ、つまり総じて一般概念の場合でも直観がなければならない、ということを受けているのかもしれません。「具体的一般者」の根柢にある「直覚的なるもの」は「知的直観」ということになると思います。次に「抽象的一般概念」とあるのは、さしあたり「色」の如き、経験的な一般概念のことでしょう。そうした概念から見れば「具体的一般者と考えられるものは既に超越的なるものを含んで居る」とは、経験的な一般概念を破ったところに「具体的一般者」が開ける、ということだと思います。しかし数学的な一般概念といえども限定された一般概念である以上、そうした概念から見れば具体的一般者は超越的なるものを含んでいる、と言えます。そうして「而もそれが概念的と考えられるのは述語的なるものが主語となるが故である」とありますが、「それ」とは?
C
「具体的一般者と考えられるもの」だと思います。
そうですね。一般的概念を破って開ける具体的一般者は、一般概念を越えるという仕方で一般概念を内に包んでいますから、こうした述語的なるものが主語となることによって、それについて述語することができる、つまり概念的に語ることができる、ということになります。
C
「主語と述語が転換する」ということですね。
そうです。テキストでは続けて「少くとも直覚的なるものが述語的なるが故である」と書かれてあります。「少くとも」とありますから、これは直覚的なるものが、述語となり得るもの、言葉になりうるものという意味でしょう。直覚をともなう体験には一般概念の言葉がぎっしり詰まっており、それが言葉にされることを待っている、そんな感じですね。逆にそうだからこそ、言葉にするのが難しい、ということもありそうですね。ですがそうだからと言って、この直覚的体験を「全然非合理的として述語することのできないもの」としてしまえば、それは「概念的知識と無関係」となります。そういう立場を掲げる人もいます。
C
どういう人たちですか?
「宗教の立場」に立つ、と明言(断言)する人たちですが、これはもう時代や宗派を超えて存在しますから、これも「人間」の本質に関わる問題とみてよさそうです。そういう人たちは哲学を宗教より低いものと見て、哲学に敵対的な態度をとるか、哲学を(理屈と見て)見下します。自分が出会ったもの、自分を虜にしたものだけが真実で最高だとする立場ですが、これはもう、宗教に限らず、「人間」にとってどうしようもない問題かもしれません。しかし人間とはそうした存在であること、さらにそうした立場に立つということも分別的な言葉によってそうしている、ということは、そうした人々も自覚すべきだと思います。実際、禅宗の「不立文字」というのもすでに「文字」です。
C
それに対して、西田の立場は次に見られるように「直覚的なもの」は「概念的知識の基礎となる」、つまり直覚的体験は哲学の基礎となる、ということでしょうか?
哲学から宗教へ、そうして宗教から哲学へ、というような立場だと思いますが、西田自身は宗教の立場に立って哲学を展開するというような、いわゆる「宗教哲学」の立場に立っているとは考えていなかったと思います。あくまで自分は哲学者であると考えていたと思います。その場合の哲学というものが直覚的な体験に基づく哲学、ということになります。ただし西田は根本経験、つまり判断(「についての言葉」=反省・説明)以前の体験の直覚を疑いませんが、ここは難しいと思います。
C
どういうことですか?
中島敦に『名人伝』というのがありますが、弓の名手が辿り着いた究極的な境地というのが、もはや目の前にある弓を認識できない在り方だというのです。しかし彼に弓を持たせれば、おそらく素晴らしい射を放つと思います。しかしそれについて語れない。体験の根本にはこの「語れない」ということがついて回る。我々がすでにそこを生きているところのものは、決して我々に顕わにならない、という側面が西田の哲学にはあまり感じられない。さらに言えば、人間は自分が生きているところの根本から目を背けるということがあります。日常的な生において我々は常に「死」から目を背けています。これはもうどうしようもない。私は先日交通事故に遭い、脳震盪を起して3時間くらい記憶がなかった。しかし自分で歩いて救急車に乗り、自分の生年月日と自宅の電話番号を正しく救急救命士の方に伝えたというのです。ただまったく記憶がないので、「語れない」。もう名人の境地ですね。それと同時に面白いのは、事故直前、さらにはもう少し前の記憶も消されている、ということです。もうこれはおそらくとしか言いようがありませんが、恐ろしい体験を無意識のうちに封じ込めてしまったと考えられます。封じ込めること自体も無意識ですから、これはもうどうしようもない。こういう生のレベルでの出来事を人間は認識できない。人間の根源的な生は、人間の最高の境地でもあり、痴呆の状態でもあり、人間が決して直視できないものでもあり、これらが一つになっているのですが、西田哲学にはこうした側面があまり語られていないように思われます。まあ、これだけ謎に満ちて危険なものであれば、たしかに見たくなることも、求めてしまう(愛智=哲学)のも分かる気がしますが。脱線はこれ位にしてテキストに戻りましょう。テキストでは段落の最後に、「具体的一般者」と「数学的知識」、経験的な「事実的知識」とが比較されています。「具体的一般者」についてはどう語られていますか?
C
「具体的一般者は自己自身に同一にして自己の内容を与えるという意味に於て直覚的であるが…」。
まずは、そこまでで考えて見ましょう。「自己の内容を与える」というのは以前、どのような原理と呼ばれていましたか?
C
「所与の原理」です。
そうですね。因みに西田は「自己自身に同一にして自己の内容を与える」ということを「直覚的」と表現していることがこれで分かります。続いて何と書いてありますか?
C
「自己自身の内容を含み之について述語するという意味に於て一般概念的でなければならぬ」とあります。
ここで主語と述語が転換しますね。そうしてそこから無限の哲学的語りが可能となるだけでなく、哲学的に語らなければならない、そのように西田は考えます。「数学的知識」については何と書いてありますか?
C
「特殊的内容を与えるものが同時に限定せられた一般概念であると云うことができる」とあります。
そうですね。特殊的内容、例えば5を与えるものが「数」という「限定せられた一般概念」、あるいは「三角形」を与えるものが「平面図形」という「限定せられた一般概念」だということですね。経験的な「事実的知識」についてはどうですか?
C
「経験内容について述語する事実的知識という如きものに至っては、我々は数学的知識の如き意味に於て具体的一般者を限定することはできぬ、具体的一般者に於ける主語的方面と述語的方面とが分裂するのである」とあります。
そうですね。経験的な事実的知識の場合には、数学と違って「具体的一般者」を対象としているけれども、数学のように純粋直観を用いて(観測するなどの経験によらずに)直ちに知識を得る、というわけにはいかない、経験的直観による外はない、ということですね。
C
「具体的一般者に於ける主語的方面と述語的方面とが分裂する」というのがよく分かりません。
経験的な事実認識の場合には、主観と客観が分裂し、「主語」となるものは「客観」として与えられなければならず、これについて「主観」が述語するという形で判断が成り立つということだと思います。
C
ありがとうございます。
どういたしまして。今日はここまでとしましょう。
(第107回)

