読書会だより

真にあると言えるものは何であるか

今回の「哲学的問い」は「真にあると言えるものは何であるか」でした。

A

どういう意味ですか。例えば死とか。
佐野
そういうことじゃなくて、そもそも「ある」とはどういうことか、ということです。例えばプラトンはイデアを真に「ある」ものと考え、『善の研究』のころの西田だったら純粋経験がそうであるように。

A

じゃあ、私は純粋経験です。
佐野
その純粋経験とは何かが問われますね。

A

意識の根本で、始めであり終わりであり、誰にも分からない・・・
佐野
困りましたね。

B

終わりって何ですか。

A

どこまでも発展するんですが、最後の最後から見ると現在に達するんです。終わりも始まりもないんですが、達観に達するんです。
佐野
そのような純粋経験を「ある」と言っていいんですか。

A

「ある」と言ったらもう純粋経験ではありません。
佐野
では真に「ある」と言えるものは純粋経験ではないんですか。

C

真に「ある」というのは不変ということです。それは「ある」とも「ない」とも言えないものです。言語化されないものです。

D

「ある」とも「ない」とも言えないものが「ある」がと言えるのですか。

C

(沈黙)
佐野
この沈黙が答えなのかもしれませんね。これは体験の事柄だと。

E

直接経験というのは事実であって、疑いようがない。取り扱いに困っているだけではないのか。

D

それは仮定とか、「ある」ことが必要とされているということで、結局あってほしいということではないですか。

F

「ない」が真にあるのかもしれない。

E

「ない」というのが間違いであって、「ないものはない」が正しいんです。
佐野
パルメニデスのようですね。真実には「ある」しかないのだと。

B

「無」が「ある」とはどういうことですか。

F

「ある」の中に無が含まれているということです。生の中に死が含まれているように。
佐野
それは「ある」と「ない」を内に含んだものですね。そうすると〈「ある」とも「ない」ものとも言えないもの〉を真に「ある」としたC説に近くなりますね。

E

人間は「ある」の中でしか生きられないと思います。
佐野
確かにそうですね。人間は「ある」と思っているものの中でしか生きられませんね。しかしその「あると思っているもの」が仮初で、必ず崩れる。真実の支えにならない。そこに人間の苦しみや悲しみがある。先程〈「ある」とも「ない」とも言えないもの〉が真に「ある」とされました。それに対し「ある」と「ない」はそうではないと。前者は言葉で言い表せない真実の「ある」だとすれば後者は仮、真実には「ない」ということになります。今度はここに新たな「ある」と「ない」の対立が生じていることが分かります。そうするとこの対立も言葉で言い表したものですから、真実ではないことになります。私たちはこのような仮初のもので自分を支えることはできません。しかし我々は真に「ある」ということを知っている。だから決して「ある」ということを手放したりはしません。しかし言葉で言い表された「ある」はすべて仮初です。この矛盾の中に「人間」が置かれているように思われます。
佐野
それにしても皆さんはずいぶん変わっていますね。「真にあるもの」ということでまず出てくるのは「目に見えるもの、手でつかめるもの」というのが出るとおもっていましたよ。

G

ここが西田読書会だからじゃないですか。
(笑い)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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