知的自覚、意志的自覚、自分自身を見るもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第4段落313頁15行目「是に於て私は」から314頁1行目「ものでなければならぬ」までを読了しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「右の如き考から、判断といふのは特殊なるものが一般なる場所に於てあると云うこととなる、而して述語となって主語とならない超越的場所の立場からして、それは知るといふこととなる、之が知るといふことの根本義である」(315頁8行目〜10行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田は、判断とは「特殊なるものが一般なる場所に於てある」とし、「超越的場所の立場」からみれば、それは「知る」ということだという。さらに西田によれば、「真の認識主観」は、「超越的場所」あるいは「すべてを包むもの」というようなものでなければならない。しかし、超越的場所の立場から「知る」ということを考えるとき、知っている気になっているだけではないか、という問いにはどのように応答しうるのか。「知る」ということにおいて、超越的場所と個物はどのように接しているのか」(228字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。今回は特に身体を通して出てきた言葉が中心となっており、その一つ一つが味わい深いものでしたので、いつもに増して十分にお伝えすることができていないことをお断りしておきたいと思います。
佐野
何か補足はありますか?

W

問いは二つあって、一つ目は個物という捉えられないものを、捉えられないままに捉えるとはどういうことか、ということ、二つ目は超越的場所と個物がどのように接しているのかということで、以前出てきた「単に映す鏡」ということを念頭に置きながら質問しました。
佐野
二番目の問いは「超越的場所と個物の接し方」という意味では「単に映す鏡」という仕方ですでに答えが出ていますが、この「単に」というところが問題ですね。それがどういう意味なのか、そんなことが可能なのか。最初の問いも「知る」とは「捉えられないものを捉えられないままに捉えること」ということで、同じことを問おうとしていると思いますが、これもそんなことが可能か、ということも含めての問いだと思います。皆さん、どうですか?

S

どこまでも「知っている気になっているだけ」だと思います。

A

私は6歳からバレエをやっていて、ピルレットは「体得」したって感じで、やり方を知っているけれど、知っている気になっているだけで教えられないのです。
佐野
そういうものは一面において人間にはたくさんありますね。生きるとか、知るとか。すでにしているけれど、それが何であるか、それをどうやっているのか分からない(言葉で説明できない)。今のはダンスを専門にされている方のご発言でしたが、常磐津の名取をされているKさん、何かありますか?

K

「捉えられないものを、捉えられないままに捉える」ということで言えば、弟子入りというのがそうした体験だと思います。弟子は師匠という絶対的なものに直面して、無限の広がりの中に突き落とされる。そこはもはや言語化や理解が不可能な境地です。

S

それでも日々の精進の中で、どこかで「できた」という瞬間はありますか?

K

それはあります。レヴェルが上がったといった感じですね。しかしそれがまた慢心につながる。その意味では日々、ダメです。積み重ねというものができない。理解をたえず壊されてしまう。
佐野
その場合「知る」とはどういうことになりますか?

K

言語にするということではなさそうです。
佐野
そうした「言語化できないもの」が「在る」と言ってよいですか?あるいはこれが「知る」ということの根本義だと言ってよいですか?

K

例えばそれを「純粋経験」と呼んでもいいですが、それですべてが言い表わされているとは言えないと思います。ただ言語化できたら、その段階はクリアできたとは言えると思います。

R

その言語化ですが、それは自分の語りが止まった時に、根本から語るということがある、と思います。こちらからは「捉えられない」ということだけが語りうる、それが「場所において知る」ということだと思います。

K

例えば師匠が「力を抜きなさい」と言っても、格が違うから、弟子はその言葉の意味を真に捉えることができない。ただその言葉にならないところを「見て学ぶ」ということがあり、とても大事なことだとされています。

S

根本的な知と、通常の分かっている気になっているだけの知との、中間があるというのが不思議です。ここまではできた、というような。そこには方向のようなものがある気がします。

W

その場合でも、その「梯子」を外す、ということ、認識を崩すということが必要だと思います。ただ「方向」ということでそれを「真の認識」に結び付けると、そうした観念が邪魔になると思います。例えばそのつど体得した(ダンスの)「回り方」は西田の言う「一般概念」だと思います。そうした一般概念の「梯子」は外さなければなりません。

A

ただ踊る、にはこうやると、というのがない。このことは子どもの頃については特に言えると思います。ただ大学生に教えるときには言葉で教える方がうまくいくことが多いです。ただその場合、回ってはいるけれど綺麗でない。その側面から考えると、「知る」とは修行の側面を言い表していると思います。
佐野
私が昔習った剣道の先生はよく「意識したものしか無意識にできるようにならない」とおっしゃっていましたが、いまの「知」はそうした側面だと思います。習慣化(修練)の方向です。

J

無になるレヴェルは人によっても、同一人物の段階によっても違うと思います。私は泳げなかったのですが、ある時浮かぶことができて、そうすると、溺れるかもしれないという怖さがなくなって(無)、泳ぐということのコツをつかんだ気がします。
佐野
こうした「知」は西田が『善の研究』で「知的直観」と呼んだものですが、その究極的なところ、今回のプロトコルでは「個物」といったどこまでも「捉えられないもの」、これは最終的な知的直観によって、捉えることができるのでしょうか?

R

こちら側からは捉えられない、というところで、個物がただ立ち上がってくるということがあると思います。
佐野
そうした言説がすでに、こちら側から捉える、という捉え方に対する捉え方として、すでにこちら側から一般概念化してしまっているように思われます。もちろん、それをも破るということがおっしゃりたいのでしょうけれども。プロトコルはこの位にして、今日の講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(316頁2行目~8行目)
佐野
まず「右の如く包摂判断の述語面が述語となって主語とならないと考えられた時、それが私の所謂場所として意識面であり、之に於てあることが知るということである云うのが、私が「場所」の論文に於て到達した最後の考である」と簡潔に述べられています。初めての方がいらっしゃいますので、少し説明しておきます。包摂判断とは、例えば「犬は動物である」というものです。この場合「犬」が「主語」、「動物」が「述語」です。「主語」は「特殊」で、「述語」は「一般」です。そうして述語(一般)が主語(特殊)を包むので、包摂判断です。ここまではいいですか?

A

大丈夫です。
佐野
ところが主語の方向はさらに、「秋田犬」というように限定できます。とはいえそれはあくまで「一般概念」です。しかしそれをどこまでも限定していくと、最後にどこまでも限定できない、という仕方で「個物」が立ち現れます。ここには「一般概念」としての「特殊」を越えるといった、超越があります。そうしてこの「個物」が「主語となって述語とならないもの」と言われます。例えば佐野之人はつねに主語になります。しかし決して述語の側には来ません。「これは佐野之人です」というのは包摂判断ではありません。ここまでで質問はありますか?

A

特にありません。
佐野
逆に、述語の「動物」というのをさらに一般化して行きます。そうすると例えば「生物」になります。しかしこれもすでに限定された特殊な「一般」です。こうした限定を一切なくしてしまえば、もはや何とも言えないものになってしまいますが、これが「(無の)場所」であり、「意識(面)」だと西田は言います。ここにも超越があります。そうしてこの「無の場所」に「個物」が於てあることになります。ここまで大丈夫ですか?

A

はい。
佐野
これまで、西田は「場所」に「有の場所」、「対立的無の場所」、「真の無の場所」の三つを区別しています。「有の場所」とは先程の、超越以前の包摂判断における述語です。「犬は動物である」の「動物」がそれにあたります。これに対して「対立的無の場所」とは、「個物」に対立する、と考えられた限りでの「無の場所」です。これに対して、こうした「個物」を包み、そうした「個物」がおいてある「場所」が「真の無の場所」です。ここまでは?

A

大丈夫です。
佐野
通常、特殊と一般は対立概念と考えられますが、このように特殊と対立する一般は真の一般ではない、真の一般は特殊を含む一般でなければならない、と考え、特殊に対立する抽象的な一般に対して、特殊を含む一般を西田は「具体的一般者」と呼びました。先の例で言えば「犬」をみずからのうちに包む「動物」が「具体的一般者」です。この関係がさらに超越的述語である「真の無の場所」にも言えて、こうした超越的述語は超越的主語である「個物」を包むと考えられます。そうしてこちらの方が根源的だと西田は考え、「場所に於てある」とか「知る」ということの根本義をここに認めます。これまでのところで何か質問はありますか?

A

何とか分かりました。
佐野
次に参りましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(316頁4行~8行目)
佐野
「種々なる知るということの意義及びそれぞれの対象界は、此の場所の意義によって定まって来るのである」と一般的に述べられます。そうしてまず二側面に分けて述べられます。「場所が何等かの意味に於て判断の述語として限定せられ得るかぎり、即ち一般的なるものが限定せられるかぎり」とは、先程の分類でいえば「有の場所」のことです。通常の包摂判断が成り立つ場合です。その場合には「我々の意識面に於て判断的知識即ち所謂知識が成り立つことができる」ということになります。そうして「之を越えれば直観の世界に入る、私の真の無の場所というのはかかるものを意味するに外ならない」と述べられます。ここでは「知る」ということの意義が、「有の場所」と「真の無の場所」という二つの場所の意義に従って、「所謂知識」と「直観」とに分けて説明されています。ここまでで何か質問はありますか?

B

大丈夫です。
佐野
それでは次に参りましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(316頁8行目~317頁2行目)
佐野
強烈に難しいですね。西田の良くないところは読者のことを考えないことだと思います。『善の研究』ではそうではありませんでしたが。とにかく頑張って解釈して見ましょう。西田はここで先程二つにまずは分けて考えたものを三つに分けようとしています。通常の判断、例えば「犬は動物である」という判断の場合でも、そこには「私は『犬は動物である』と考える」というように、「私は考える」という自覚が伴います。もちろんそうした「知的自覚」は判断をしている時には意識されません。「犬は動物である」という判断内容は「図」に当たり、「私は考える」は「地」に当たります。しかしこの「私は考える」という「知的自覚」が対象化され、「判断の主語として考えられる場合」、つまり地が図になって、「或限定せられた述語的一般者」つまり「有の場所」に於てあると考えられることによって、「知的自覚」は(知的ないし判断)「作用」になるというのです。もちろん「『働くもの』において論じ」られた「作用という考」は力の作用をも含んでおり、判断作用に限りませんが、ここで念頭に置かれているのは知的作用ないし判断作用です。ここまで大丈夫ですか?

C

はい。
佐野
「更に」と来て、「それが」とあります。この「それ」とは「主語」となった「或限定せられた述語的一般者」、つまり「(知的ないし判断)作用」のことですね。これが「述語となって主語とならない」、つまり決して対象化できないと「考えられた時、即ち単に限定せられた場所と考えられた時、それが意識面となる」とあります。この「単に限定せられた場所」は先程の「或限定せられた場所」との対ですね。後者は「有の場所」で、前者が「対立的無の場所」です。「単に」とあるのは、「何か」によって限定されてはいないけれども、「個物」と対立している、という意味で限定されている、という意味だと考えられます。先程「作用」として対象的に考えられたものが決して対象化できないものとして考えられた場合に「意識面」となる、ということです。(まあ、すでに「考えられた」ものになってしまっているということはありますが、西田はそのことはあまり問題にしないようです)。つまり、「意識面」とは「対立的無の場所」のことです。ここまではいかがですか?

C

大丈夫です。
佐野
次いで「故に意識面は、常に作用を包んだものである、具体的一般者を包む反省的一般者が意識面である」とあります。「作用」が「具体的一般者」に換言されていると考えられますね。意識(知的・判断)作用が内容としての主語的なものを形式によって統一するものとして、主語的なものを含むために、「具体的一般者」と呼ばれていると考えらます。ところでこうした「作用」としての「具体的一般者」を「意識面」が完全に包んでしまえば、「意識面」はすでに「対立的無の場所」ではなく、「具体的一般者」だということになりますが、ここでは単に「対立的無の場所」に過ぎない「意識面」が、どこまでも作用を包んで行くべきもの、本来の「真の無の場所」に進み行くべきものであることが言われていると考えられます。明らかに言葉足らずなのですが、ここで西田は「知的自覚」から「意志的自覚」への移行を考えているようです。知的自覚を対象化して、知的作用とし、そうした作用をも包む知的自覚を、意志的自覚と考えているようです(例の英国にいて、その地図を描いている自分をも描くような完全なる地図を描く、ということを思い出してください)。つまりカントの「意識一般」(知的自覚)からフィヒテの「事行」(意志的自覚)までの奥行きを有するものをここで「意識面」と呼んでいるようです。そうして次に「意志『作用』」が問題となります。ここまでいかがですか?

C

何とかついていけています。
佐野
今度はそうした「知的自覚」の根柢にある「意志的自覚」が対象化されて、「意志作用」となります。それは「述語的一般者によって限定せられると云い得る最後の場所、即ち最後の知識の場所に於て、かかる場所をも越えた真の無の場所に於てあるものを見たものである」とあります。難しいですね。まず「述語的一般者によって限定せられると云い得る最後の場所、即ち最後の知識の場所」とは「対立的無の場所」のことだと考えられます。それも「最後の」とあることに注意しなければなりません。これを越えたら知識ではなくなる、そうした「対立的無の場所」だということです。意志的自覚の立場は無限に自らを対象化して意識作用とし、その根底にさらに意志的自覚を見るものです。この過程は無限進行となります。それを(どのようにしてかは書かれてありませんが)超越したところに「真の無の場所」があり、そこに「主客合一者、即ち自己自身を見るもの」があると言うのです。これはまさに「直覚(直観)」ですね。見られた「意志作用」でなく、意志そのもの、以前の言葉で言えば「状態としての意志」です。そうしたものが「カントの意識一般の対象界という如きものに映されたものが意志である」とありますが、「カントの意識一般の対象界という如きもの」とは「対立的無の場所」のことです。そうしてそこに映されたものとしての「意志」とあるのも、「意志作用」のことです。ここまでで質問はありますか?

C

何とかついていけています。
佐野
そうして「故に知的自覚の底には意志的自覚が見られ意志的自覚の奥には自己自身を見るものがある」と来ます。西田はこれが言いたかったのです。「底」とか「奥」とか言われていますが、そのつどそこには超越(転換)があります。まず対象を客観的にどこまでも見、判断・限定しようとする知的な立場あります。しかしこうしたやり方ではどこまで行っても対象を限定することはできない。ここで超越が起って、こうした無限進行のうちに、この対象を価値的な対象(真・善・美)と考え、これを実現するという意志的な立場が出て来ます。ですがこうした実現も無限進行になります。こうしてここでも超越(転換)が起り、「真の無の場所」に於て「個物」(真の自己=状態としての意志をも含めて)を見る「直観」が成立することになります。ここまではどうですか?

C

続けてください。後で考えてみます。
佐野
はい。テキストでは最後に「論理的に云えば、全然意識一般の立場」(「対立的無の場所」のことです)、そうした立場を「越えたもの」、「即ち自己自身を見るもの」(「直観」のことです)、それが、「意識一般の立場」(「対立的無の場所」のことです)、そこに於て「述語を有つ時」、「意志というものが考えられるのである」とされます。この「意志」も「意志作用」のことです。今日はここまでとしましょう。お疲れさまでした。
(第93回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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