
変ぜざるもの
- 2025年6月14日
- 読書会だより
前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「一」の第4段落328頁12行目「以上述べた如く」から「二」の第3段落331頁8行目「変ずるものととなるのである」までを読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「主語となって述語とならないと云ふことによって、我々は所謂特殊化によって達することのできない尖端に達するのである、一般概念を破って外に出るのである」(330頁4~6行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「個物」の概念は、「判断が一般概念を破ってその外に出」て、「具体的一般者」によって成り立つ。つまり、一般概念の特殊化によって達することができない「個物」を、「主語となって述語とならない」と「云う」ことによってである。言い換えれば、「個物」を言い表せないものとして言い表わすことである。しかしこの場合、個物は真に判断の主語となっても、それが何たるか(その内容)を一切表せないように思う。如何にして真に個物の内容を言い表すことができるか」(216字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
「ある」とは言えるのですか?
R
はい。
そうすると「ある(存在)」とは言えても、その「何であるか(本質)」を言い表すとは言えない、ということですね。「一切」とありますが、原理的に何も言えない、ということですか?
R
現時点では、ということです。
「一般概念」を破って個物と出会う。そうした出会い(驚き)が絶句をもたらす。そこでは「ある」としか言えない。この出会いが何であるか、それはどこまでも分からないが、それを問い披いていくのが、哲学である、というような感じですね。これは哲学に限らず、宗教についても言えそうです。個物を「十字架上のイエス」とすれば、それとの出会いをどう考えるか、ということによってキリスト教が成立したともいえるからです。その場合、我々人間には神的働き(エネルゲイア)によってその働きの主体としての「神の存在」が何らか証し示されるけれども、その何であるか(本質・実体、ウーシア)はどこまでも謎・神秘に留まる、それを問い披いていくのが「哲学(愛智の営み)」であるという考え方がキリスト教においてもあります(谷隆一郎)。Rさんの問いは「ある」としか言えない個物の内容(何であるか)が「如何にして言い表せるか」ということですか?つまりそれは、根本的な個物との出会いの経験から如何にして哲学が可能となるか、そういうことですか?
R
「全然一般概念を超越するものならば判断の主語となることもできない」とあるのに、「真に判断の主語となるもの」が「具体的一般者」とされています。この「具体的的一般者」が「如何にして」「判断的関係」に入ることができるか、それがここでは示されていないと思います。
「具体的一般者」は個物を包むことのできるものとして究極的には「絶対無の場所」であると思いますが、それが判断的関係に立つためには、自己限定しなければならない、というように考えてはいかがでしょうか。絶句の後に、それが何であるかを考えるのが哲学ですが、その場合にも哲学の側から勝手に限定し、考えるのではなく、あくまで具体的一般者の側からの自己限定として考える、そういうことではダメですか?
R
ですが、この箇所ではそこまで言えていないと思います。
テキストの目下の箇所では「変ずるもの」と、その根柢の「変ぜざるもの」との関係から「具体的一般者」が論じられているだけですが、それがどのようにして「意味」や「価値」に発展していくかは、先を読むほかなさそうですね。プロトコルはこの位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。
A
読む(331頁8行目~332頁4行目)
「最後の種差」(この青とこの青ならざるもの)を加えることで、一方でそこに「個物」(この木の葉)が成立すると同時に、この個物が「唯一の性質」(この青)をもつことになります。それとともに「矛盾なく他の異なれる性質的述語」(この香、この味など)をもつことになりますが、こうした「個物は尚変ずるものではない」とされます。「変ずるものは内に反対を含むものでなければならぬ、変ずるものの根柢にある変ぜざるものは内に反対を含んだものでなければならぬ」からです。
A
前回の講読箇所の最後に、「かかるもの(個物)が又述語的一般者に於てあると考えられた時、変ずるものとなる」(331,7-8)とありましたが。
その直前に「主語となって述語とならないものに到っても、尚変ずるものではない」とありますね。これを言い換えたものが「個物は尚変ずるものではない」です。そうするとその直後の「かかるもの(個物)が又述語的一般者に於てあると考えられた時、変ずるものとなる」を言い換えたものが、「変ずるものは内に反対を含むものでなければならぬ、変ずるものの根柢にある変ぜざるものは内に反対を含んだものでなければならぬ」であることになります。そのさい「個物」が「変ずるもの」、「述語的一般者」が「変ぜざるもの」の側に来ますが、「物其者が変ずるとは言われない」、「単に一般的なる色や形が変ずるのでもない」、「物の色や形が変ずるのである」(331,4-6)と言われているように、両者が「具体的一般者」として一つとなる所に「変ずるもの」が成立することになります。先程の例で言えば、〈この木の葉〉が〈この青にしてこの青ならざるもの〉に於てある、あるいは〈この木の葉〉が〈この青にしてこの青ならざるもの〉を含む時、「具体的一般者」が成立し、そこにおいて変化が可能となる、ということだと思います。
A
ですが「同一物は赤であると共に直に青であるとは云われない。我々が一つの物を赤であることもでき、青であることもできると考えることができるのは、既に時というものを入れて考えるか、然らざれば見る人の主観性を入れて考えるからである」とありますが。
そうですね。たしかに我々は赤であると同時に赤でない(青である)、などといわれればどう考えたらよいか分からない。しかし西田は「何故に一つの物が赤であると共に青である(赤でない)ことができないか」、その根源を考えようとします。まず「両者の間に反対性があるから」だ、と。しかしさらに「二つのものが相反するにはその根柢に同一なるものがなければならぬ」と考察を進めます。こうした議論はこれまでも、相異、反対(対立)、矛盾という深化において考察されてきましたね。こうして「同一の類に属して、その種が同じければ同じい程、両者は相反するものとなる」と言われます。
A
どういうことですか?
まず、類、種、個ということが念頭にあると思います。例えば、人類(類)、日本人(種)、佐野之人(個)ということです。もう一つは、対立は同一なるものがなければ成り立たない、同じ土俵に立つものが対立する、ということがあると思います。
A
分かりました。
「分かりました」と言われると困りますが。何しろ「どこまでも分からないもの」を相手にしていますから。ですがとりあえずはこれで分かったことにして次に進みましょう。Bさん、お願いします。
B
読む(332頁4~10行目)
「述語的一般なるものを何處までもその一般性を失わないで之をその内に特殊化していく」、例えば存在→色→青というように特殊化していく。そうすると「最後の種に於て唯一の種差によって異なれるもの、即ち相反するものを含む」、この青とこの青ならざるものを含む〈青〉ですね。こうした「最後の種」(青)を超越してさらに「個物」(この木の葉)に至る。そのさい、「判断の主語と述語との対立から二つの方向を区別することができる、即ち超越すると云うに二つの意義を考えることができる」とされます。どういうことかというと「一つは所謂主語となって述語とならないと考えること」で、これが「quod in se est(それ自身の内にあるところのもの)」です。もう「一つは述語となって主語とならないと考えること」で、これが「quod per se concipitur(それだけで考えられるところのもの)」です。前者が主語・存在の方向で、後者が述語・思考の方向ですね。
B
後者は「絶対の無」ですか?
究極的にはそうなると思いますが、ここでは〈この青とこの青ならざるもの〉を含む〈青〉で、しかもこの青が抽象的な一般者としての青ではなく、個物(この木の葉)を包む具体的一般者です。「絶対の無」が自己限定した形と考えることができると思います。同様に前者の「個物」(この木の葉)も述語的一般者(青)に於てある具体的一般者です。つねにセットです。それでは次をCさん、お願いします。
C
読む(332頁10~13行目)
N
「判断が概念的知識たる以上」とあるところから、西田のあくまで哲学に徹する立場がよく表れていると思います。「全然主語となって述語とならないもの即ち全然述語を失ったものは考えることの出来ないものである」と言ってこれに固執するのが宗教だと思いますが、西田はそれで良しとしない。
S
それでも西田には判断のもととなるものが真理であるという前提があるように思います。
たしかに我々は判断する場合、それが究極的に真理に基づいていることを必ず前提しますが、それは我々の要請でしかないですね。同じことは『善の研究』において、西田が宇宙(=意識現象)の根本をその統一力としての神(=真の自己)に求めたことについても言えるとお考えでしたね。宇宙が統一されているというのは一面的な見方だと。統一の半面には分裂があると言っても、それが統一力をもとに考えられていると。たしかに西田には強く救いを求める宗教的な側面があり、ここにも西田哲学の特徴がありそうです。
R
「判断に於て真に主語となるものは所謂総合的全体という如きものでなければならぬ」とありますが、「総合的全体」とは何のことですか?
内容的には、第2段落末の「真に判断の主語となるものは所謂命題の主語ではなくして、却って具体的一般者であると云わねばならぬ」と重なると思いますので、「総合的全体」とは「具体的一般者」と考えてよいと思います。ただ何故それを「所謂総合的全体」と呼んだのかが問題となります。おそらくカントの「総合判断」における「総合」を念頭に置いているのではないでしょうか。カントの総合判断はまさに主語と述語を総合するものでした。それでは次をDさん、お願いします。
D
読む(332頁13行目~333頁2行目)
最初の「此の如き一般者」とあるのは「総合的全体」つまり「具体的一般者」のことですね。それは主語・個物と対立する「単なる抽象的一般概念」ではない、「類概念」ではないとされます。それは「超越的述語面」だとされますが、その「超越」の意味が次に述べられます。何と書いてありますか?
D
「一般が述語として特殊を包むという〔包摂的〕関係を最後の種にまで進め、之を超越しても尚それが概念的知識であるかぎり、かかる形に於て超越すると考えねばならぬ」とあります。
「かかる形」とは?
D
「一般が述語として特殊なる主語を包む」ということだと思います。
そうでしょうね。主語の方向に個物へと超越するのと同時に、それに対応して述語の方向に超越して個物を包む「超越的述語面」となる、ということでしょう。最後にこれの述語的一般性の側面が確認されます。「最後の種を特殊化したもの、即ち個物までも含むものはもはや抽象的一般として考えることのできないものであるが、而も尚判断を内に含むという意味に於て述語的一般性を失うたものではない」。今日はここまでとしましょう。
(第101回)