変ずるものに於いて時を考える

岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「三」の第6段落を読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「時は数学的連続から変ずるものに至る限界をなすのである、両者の中間に位するものである。」(344頁8行目)および「真に変ずるものに至っては、性質的なるものが主語的となり形式的なるものが述語的とならねばならぬ」(344頁4〜5行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「西田は、「変ずるもの」という個物的・流動的な具体存在を、我々がどう「考え」語りうるかを問う。彼は、これを固定的な「形式的時」(数学的連続)では捉えられないとし、「時」をそれ自体が「数学的連続から変ずるものに至る限界」として再定義する。つまり、「変ずるもの」そのものと思惟とを結ぶ、動的な「時の形式」によってのみ「変ずるもの」を語り得るのだと説く。この「時」という形式において初めて、「変ずるもの」そのもの(例:読書会という個物)が主語となり、「○時に起こった」という「形式的なるもの」が従う述語となる。これが、直観される「変ずるもの」そのものを概念的思考へと媒介する西田独特な仕組みである。『では、存在そのものの意味は、必ずこの「限界」としての「時」、つまり<流れる思惟形式>を通してしか我々に現れないと言えるのか。この形式を離れた存在の直接的顕現は、原理的に不可能なのか』」(385字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
考察がまずあって二重括弧の部分が問いですね。その部分だけ扱いましょう。問いはさらに「存在そのものの意味は、変ずるものとしてしか現れないのか。存在そのものの知的直観は不可能なのか」と言い換えることができると思います。個物の知的直観から出発し、これを判断にもたらす場合に、主客が分れて、主語である個物が「変ずるもの」という感性的直観となり、述語が「意識」(無の場所)となる、というのがここでの西田の立場です。この場合「変ずるもの」は〇〇である、と積極的に限定することはできません。例えば「現在はいつでも否定的」で、「之を現在として肯定した時、既にそれは過去でなければならない」(345頁14~15行目)、ということになります。人間に知的直観を認めない立場からすれば、こうした立場に立つほかありません。

R

私は「存在そのものの意味」の直接的な顕現をどこまでも求めたいと思います。
佐野
はい、頑張ってください。ところで、私はこの問いで、次のような話を思い出しました。唐代の禅僧に徳山という方がいて、若い頃は『金剛経』に通じていたので「周金剛」とまで呼ばれていました。南の方で禅などというけしからんものが流行っているので、これをとっちめてやろうと、出かけてきたのですが、途中の茶屋で点心を注文したところ、そこの婆やに「『金剛経』には「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という語があるはずだが、お前さんはどの心でそれを食べるのか」と聞かれ、まったく答えられず、後に開悟して、「徳山の棒、臨済の喝」と言われるような有名な禅僧(今でいえば暴力坊主)になった、という話です。

R

「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」とはどういうことですか?
佐野
過去の心は過ぎたものでもう存在しない、未来の心もまだ来ないので存在しない、現在の心はこれだと思った時にはすでにそこにないので存在しない、ということです。ところが我々は現在の心があると思って、その心で食べているつもりになっている。こちらから心を持ち込んで食べに行っている。たとえば点心とはこんな味だ、というような先入見を持ち込んで、それを食べに行っている。これでは他ならぬその点心を食べたことにはならない。Rさんの言葉で言えば、存在そのものの意味に触れたことにはならない。これはどんな場合でも言えますね。話を聞く場合も、こちらから先入見を持ち込んで「聴き」(「聴」という漢字は「耳」を「直」に向ける、「聞きに行く」というつくりになっています)に行っている。そうするとその先入見の網にかかるものしか聞こえません。

T

そう言われると、本当に食べているのかどうか、よく分かりませんね。

N

我々は「変ずるもの」をすでに「生きている」と思います。どうしたら食べられるか、などとへ理屈をこねる前に、とにかく食べている。たしかに我々は思考の補助線に頼らざるを得ないが、それに囚われると、ゼノンのパラドクスや徳山の点心のようになる。それを超えたところに具体的一般者の生き方がある。時間について言えば、時間に縛られるのではなく、むしろ、社会生活を営む上で、これを利用する、というのが大事なのでは?

T

「思考の補助線にすぎない」というのは納得がいきます。過去・現在・未来といった思考の補助線をなくせば、現在しか残りませんが、そうなると現在すらない。
佐野
思考の補助線をなくそうとすること自体、思考ではありませんか?

T

それはそうですが、私は時間だけでなく、知識も人間が自分のために利用するツールになると思います。私はワインのことは詳しくありませんが、ワインを語る言葉に馴染んでいくうちに多彩な味がわかってくるというような。
佐野
以前出て来た、色に関する言葉を三つしか知らないと、色は三色にしか見えないのと同じですね。そうなると結局、そうした知識を先入見として経験している、ということになりませんか?それではやはり、存在そのものの意味に触れているとは言えないのでは?存在そのものの意味に触れる、とはそうした先入観が破れ、例えば何とも形容のできない、言葉にならない味に出会うとか、そういうことになるのでは?しかし、そうした体験はこちらから狙ってできるものではない。とにかく食べる、というような気合いで簡単に突破できるものではないように思えますが。(例えば私は剣道をしていますが、そのつど剣道とはこういうものだ、という投げ入れなしに行為はできません。しかしそれでは剣道における存在そのものの意味に触れてはいない、それは大いに実感するところです。)

T

それでもそこに至るトレーニングのようなものは必要な気がします。

W

こうした問題はすべて食べてしまってから起るものだと思います。食べてしまってから、それがどこまでも言葉にならない経験だということになるのだと思います。ただ同時に我々が日常的に食べているということが、食べるということそのものの意味に届いていない、ということの反省も大切で、そのこともそうした経験には含まれていると思います。
佐野
なかなか面白くなってきましたが、プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(344頁11行目~345頁1行目まで)
佐野
まず「時によって又時に於て変ずるものを考えるのではなく、変ずるものによって又変ずるものに於て時を考えるのである」と、このあたりでの結論がまず述べられます。個物を知的に直観するのは「具体的一般者」においてですが、これを知識(判断)にもたらすためには、主語方面(客観)と述語方面(主観)の対立が不可欠で、この主語方面に「変ずるもの」が、述語方面に「限定することができない」という意味で「否定的な」一般者が成立することになります。この「否定的一般者」は後で出て来ますが「意識面」のことです。次に行きます。「かかる一般者」、つまり「否定的一般者」ですね、これは「唯我々の反省の極致に於てのみ到達し得る」とありますね。「反省の極致」ですから「反省」(主客の対立)が破れたところ、つまり知的直観ですね、「そこに於てのみ到達し得る」と。どういうことかというと、知的直観において成立する「具体的一般者」の述語面が「否定的一般者」だということです。次に「前にも云った如く」と出て来ますが、「前に」とは342頁11行目から15行目を指していると考えられます。この箇所は、数学(幾何学・代数)における「純粋直観」に基づく「先験的知識」との対比で、「経験的直観」に基づく「経験的知識」について論じた箇所です。そうして「此場合に於ては」と続きます。「此」が何を指すかは難しいところですが、知的直観に到達して、なおこれを判断(知識)にもたらすケースを指していると考えられます。その場合には「判断的知識の主語的方面と述語的方面とが分裂し主観と客観とが相対立する」ことになります。そうして「否定的一般者は意識面として唯、反省的にのみ限定せられるのである」と続きます。また「反省」が出て来ましたね。意識面(否定的一般者)は、知的直観において成立する具体的一般者を反省することによって成立する、ということです。次をBさん、お願いします。

B

読む(345頁1行目~9行目)
佐野
まず「私は主語的基体としての一般者と超越的述語面としての一般者としての一般者とを何處までも区別すべきであると思う」と、判断成立に欠かせない主語と述語の対立について述べますが、「主語的基体としての一般者」という表現に驚かされます。「主語的基体」とは「個物」のことですが、それが「一般者」と呼ばれているからです。これは後(347頁15行目~348頁8行目)にも出て来ますが、個物が様々な性質をもちうる、という意味で「一般者」と呼ばれていると考えられます。さて、こうして主語面に「主語となって述語とならないもの」、述語面に「述語となって主語とならないもの」が考えられることになります。次に「具体的一般者の根柢」と出て来ますね。

B

「具体的一般者」のさらに根柢があるということですか?
佐野
一般的な知識の根柢となる部分的な「具体的一般者」、これは後で「構成的一般者」という名で出て来ますが、それならば「さらに」その根柢がありえますが、知的直観の「具体的一般者」の場合は、それ自体が全体ですから、さらなる根柢はありえません。その場合は、「具体的一般者」内での、述語的方面における根柢、というように考える外はないと思います。そうした「具体的一般者の根柢となる一般者」が「限定することのできないものとなる時」、つまり「否定的一般者」になる時、「かかる超越的述語面に於てあるもの」、つまり「個物」ですね、これが「いかなる意味に於ても主語的に限定することはできぬ」ものになる、つまり「経験的(感性的)直観」になる、積極的にこれ、と言えないものになります。例えば「この塩」が知的に直観されていて、これを判断にもたらす場合に、主述が分れる。主語面にどこまでも限定できない「感性的直観」が、述語面にどこまでも限定できない「意識面」(否定的一般者)が成立する、ということです。さきほどと同じことが繰り返し述べられていますが、ここまでで分からないところはありますか?

B

大丈夫です。
佐野
では、そのような個物はどのようにして知識になるか、が次に述べられて行くことになります。まず「唯その否定的一般者即ち所謂意識面に於て(一般概念によって)部分的(主観的・抽象的)に限定し得るのみである」と述べられます。感性的直観としての「この塩」はどこまでも限定できない(述語づけができない、語り尽くせない)ものですが、「色は?」と聞かれれば「それは白い」というように限定できます。この場合の「色」が「一般概念」に当たります。この土俵の上で、カテゴリーによって我々は知識を「構成する」(作り上げる)ことができます。そうしてそれが意識面に映される、つまり地に対する図となって意識される、ということです。ここまでは?

B

ついていけています。
佐野
次を読みます。「超越的述語面が主語を包むと考えられる時」、「超越的述語面」の「超越」とは「主語」を超越しているという意味ですが、それが「主語を包む」となると、この一般者は否定的ではなくなって、「具体的一般者」となります。その場合の「包囲面」、つまり限定された範囲が先ほどの例で言えば「色」といった「一般概念」になります。この土俵の上で知識が構成されるので、この一般者が「構成的一般者」と呼ばれます。全体としての具体的一般者の内部に、部分的な具体的一般者ができた形ですね。それ(図)が意識面(地)に映される、つまり意識される。「その背後はいつも否定的一般者たる意識面を以て裏付けられて居る」と述べられることになります。そうして「超越的述語面に於てあるもの」、「個物」ですね、これが「構成的一般者」(一般概念)によって範疇的に構成せられて、これが部分的(主観的・抽象的)に意識面に映される、というわけです。ただそれはどこまでも部分的な知識でしかない。「この塩は白い」という知識はもちろん部分的です。「その物自身」つまり「物自体」の知識ではない。「物自体」は知識的に限定することはできない、ということになります。次をCさん、お願いします。

C

読む(345頁9行目~346頁3行目)
佐野
今度は「時」に話が移ります。まず「我々は直に時の一般者というものを限定することはできない」、つまり「時の一般者」が「否定的一般者」(意識面)であることが述べられます。これを直に限定しょうとするとアンチノミーに陥ります。この辺の叙述は343頁8行目~10行目の繰り返しです。そこで「現在」から出発することになりますが、「現在とは時の一般者に於ての個物」だとされます。ただ「個物」と言ってもここではもはや知的に直観できるものではなく、「感性的直観」になっていますから、どこまでも限定できません。そこで「現在は個物的といっても単に自己に同一なるものではない、否単に特殊化の達することのできない尖端と考えるも尚その意義を尽すことはできない。時の基体となる一般者(「時の一般者」のこと)は否定的なるが故に(否定的一般者、意識面であるが故に)、此に於てあるものは自己同一として肯定的たることはできない」と述べられます。要するに「現在」が「感性的直観」で、「時の一般者」が「意識面」で、どちらも限定できない、ということです。「個物的なるものが自己同一と考えられるには、之を包む一般者が積極的に限定せられたものでなければならぬ」、つまり「具体的一般者」でなければならないが、「現在」の場合はそうなっていない、ということです。ここまでで分からないところはありますか?

C

大丈夫です。
佐野
次を読んで見ましょう。「時の連続の要素たる現在はいつでも否定的である(主語的に積極的に限定できない)、之を現在として肯定した時、既にそれは過去でなければならない、此故に時は流れるものと考えられるのである」。最初に紹介した徳山禅師のことが想起されますね。無心で点心を頂けばよいのですが、それを反省すると、点心を頂けなくなってしまう。現在心というものがどこまでもつかめないからです。「無心で頂けばよい」と思っただけでもう取り逃がしている。我々の行為(意志)は言語による思考(反省)によって成り立っているので、これはもうどうしようもない。気合いでどうにかなるものでもない。むしろ気合いなどは捨ててしまって荘子の「木鶏」のようになった方がよいかもしれない。しかしそれとてすでに頭で考えている。対象化できない、説明的反省的言語以前ものとの、言語による対話をどこまでも深めて行くほかはありませんが、次第にわかってくることは、そもそもどこまでも分からないもの、どうにもならないものを、言葉を通じて自分のものにし、自分の思い通りにしようとする、煩悩というか、思い上がりのようなものが人間の在り方の根本にあるということです。そのことに身が頷くとともに、どこまでも分からないものに対して自然と頭が下がる、こうしたことが起り得る、ということです。だからご飯は餌のように我が物顔にがつがつ食べてはいけない(笑)。もちろんこれもすでに頭で考えていますけれどね。次を読んで見ましょう。どこからでしたか?

C

「形式的時」からです。
佐野
ありがとうございます。さきに「時」が「数学的連続」と「変ずるもの」との中間にあるとされましたが、ここではその「時」がむしろ「形式的時」として述べられています。この「形式的時」とは形式(前後・同時といった数学的連続)が「主」で、性質(内容)が「従」、ないし「述」となっているものでした。これに対し、「真に変ずるもの」が「内容ある時」とされ、そこにおいては性質(内容)が「主」で、形式が「従」ないし「述」になっています。そうして「形式的時」においては空間化された時ですので、「尚現在の方向が唯一的に限定せられない」のに対し、「内容ある時」は「唯一の方向」つまり、過去から未来へと非連続の連続的に流れるものとなります。こうした「変ずるもの」としての「内容ある時」が、「時の範疇」(時の形式)によって、例えば「感覚的性質」というような「一般概念」(「構成的一般者」)の土俵の上で構成され、部分的に意識面に映される(意識される)ことになります。今日はここまでとしましょう。
(第111回)
Tweet about this on TwitterShare on Facebook

「変ずるもの」の形式

岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「三」の第5段落を読了しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「併し判断的知識が成立する限り、特殊化の尖端に於ても一般的なるものが自己自身を失うのではない」(343頁2~3行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「キーセンテンスと同じ段落に「かかる一般的なるものが限定せられるかぎり、判断的知識が成立するのである、之を越ゆれば全然直観の世界に入る。」(342頁10行)、「唯その個物的なるものの尖端においてのみ、自己同一として直覚的と考えられる場合、その述語的一般者は積極的に限定すべからざるものとなる」(342頁12行)とあります。特殊化の尖端においても「判断的知識」は成立し得るのでしょうか」(185字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
テキストに出て来る順で、引用文について確認しておきましょう。まず「かかる一般的なるもの」とは「無限大の一般的なるもの」のことです。これが「限定せられるかぎり」「判断的知識」が成立する。「之を越ゆれば」、これを前回「一般的なるものが限定されない場合は」、と読みました。その場合「無限大の一般的なるもの」がそのまま「直観の世界」になっている、と読めます。この「直観」は「知的直観」です。次の文は、「直観(直覚)」を「個物的なるものの尖端」に限定(極限)する場合ですね。そうなると、それ(個物)を「述語的一般者は積極的に限定できない」ことになります。「直観」が主語(個物)に限定されているからです。この直観は「経験的直観」ですね。これを「述語的一般者」が「積極的に限定できない」とはどういうことかというと、後の表現ではそれが「主観的」、「抽象的一面」にすぎない、ということです。これは普通の判断(普通は自分の判断を「主観的」とも「抽象的」だとも思っていませんが)を反省的に見たものです。「これは青い」と言う場合、これを反省して見ると、「青い」は「主観的」で、しかもそれ以外の性質を捨象した「抽象的」なものと考えられるからです。こうした在り方を「一般的なるもの」が「自己自身を失う」とも言っています。「併し」と来て、キーセンテンスですね。その場合でも「一般的なるもの」は「自己自身を失う」のではなく、「自己自身に還る」、つまり「無限大の一般的なるもの」に還る、と言うのです。そうして「客観的なるもの」つまり「個物」を「包む」とあります。この「一般的なるもの」「述語的一般者」が「意識(面)」と呼ばれ、そこにおいて「具体的一般者」が「抽象的概念として限定される」とされます。どういうことかというと、普通の判断を「反省」の立場を超えて「知的直観」の立場で見ると、じつは「具体的一般者の自己限定」(第5段落冒頭)だというのです。われわれの特殊化の尖端における判断(個物的判断)の根柢に知的直観の世界がある、ということです。逆に言えば、我々の個物に関する判断的知識は、知的直観を根柢にして成り立っている、というのです。例えば「これは青い」というのも、そうした言語化以前の直観の世界が我々に開けていて、そこからの限定として「これは青い」という判断が成り立っている、こう考えるのです。Tさんは経験的直観に基づく判断的知識では、主観的抽象的でしかないのだから、積極的肯定的な仕方では個物に関する判断的知識は成立していない、とされているのに、知的直観の立場からすれば、具体的一般者の抽象的な自己限定として判断的知識が成立している、とされている、そこで改めて「特殊化の尖端における判断的知識は成立するか」と問うた形になります。さてどうなんでしょう。「これは青い」という判断は知的直観に基づいているのでしょうか?

A

基づいている、と思います。

B

私もそう思います。

C

私もです。
佐野
西田派が多いようですが、虹が何色に見えるかは言語文化によって異なる、という知見があります。例えば「青」という言葉を知らなければ「青」は見えない、ということです。我々は言葉を感性的直観の中に投げ入れて認識している、ということです。だとすれば認識の源泉は知的直観のうちにあるのではなく、我々による言葉の投げ入れの方にあることになります。我々は常に世界を自分が生きやすいように理解してしまっており、そうした理解を世界のうちに投げ入れて、それで世界を認識しているつもりになっているのです。つまり判断的知識の源泉は我々の理解の方にあることになります。これを先入見とか偏見と呼ぶならば(自分の認識が先入見であるとか偏見である、とは普通誰も思いませんが)、我々の認識はすべて先入見によって成り立っている、と言えます。こうした先入見によって構成された世界観があるから、逆にそれが揺らいだり、あるいは破れたりする。そこに自分の認識が先入見に基づいていたことが顕わになると同時に「何か」が顕わになっている。西田はその「何か」を「知的に直観している」というように捉えてしまうのです。

O

私は、それはカオスだと思います。判断的知識の根柢になるような確固とした知的直観だとは考えません。
佐野
(Oさんの考えをよく理解できていないのに、一方的な言い方になって心苦しいのですが、)たしかにその「何か」は我々が積極的に直観できるようなものではなく、逆に死の不安のように、我々が見たくないもの、我々が自力では決して見ることのできないもの、かもしれませんね。我々はそこから目を背けて自分の生きやすい世界を構成して、そこで生きている、とも言えます。しかしそれを「カオス」として捉えてしまえば、「カオス」を「カオス」としては捉え損なっており、「カオス」として捉えたところから出立する哲学は、別の仕方ではありますが、西田の知的直観と根本的には同じ立場に立つように思います。言葉以前というか、言葉を超えた世界というのは、それなしには哲学も芸術も宗教も成り立たないものですが、逆にそうである(言葉を超えた世界から芸術、宗教、哲学が成立する)のは、我々が言葉を一歩も出ることができない存在だからとも言えます。

S

しかし「人間」には言葉による「知的」な側面と同時に現に言葉以前を生きているという「動物的」側面があると思います。

T

私は動物も人間とは違う仕方ですが、「知的」な側面を持っていて、判断もしていると思います。
佐野
それは言語的にしか理解することのできない人間が、そうした理解を動物に投影しているに過ぎないのでは?動物が判断しているかどうかは分からないのでは?

T

それは相手が人間でも同じことだと思います。他者はどこまでも分かりません。
佐野
それはそうですが、少なくとも、観察するかぎり、動物が言語体系に基づいて行動し、判断しているようには見えませんが。

T

ですからあくまでも人間とは異なる仕方で、ということです。

S

判断しているのではなく、(本能的に)反応している、のでは?
佐野
言語化以前のことをどのように語っても、やはり言語を一歩も出ることができないように思えるのですが。

T

発語能力を失った人ともコミュニケーションが取れますから、発語的言語以前の何かはあると思います。
佐野
それはそうだと思いますが、今問題にしているのは発語能力を失った人の中でどうなっているか、ではなく、その人についてそのように観察し、語っている当人です。視点を客観的なものに移してしまうので議論がかみ合わなくなってしまう。科学でも哲学でも、あるいは芸術やスポーツでも「当人」意識を忘れて語る、無心に事柄と一つになって語る、あるいは行為するということがとても重要ですが、それは「人間」の在り方の一面でしかなく、人間は「それについて」知る、つまりそれを言葉にして知る、ということがあります。それがなければ無心の語りや行為自体も顕わになりません。つねに、そうしてすでにそれで「ある(生きている)」、ということと、それについて「知る」ということ、この矛盾が「人間」の本質を成しているように思われます。どちらか一方に還元することはできない。「これは青い」という判断的知識についても、事実(存在)の方から見れば、たとえ逃避的な仕方であっても、事実の方から成立している、と言えますが、「知」の方から見れば、どこまでも分からないものについての、自分に都合のよい、主観的で抽象的な知識にすぎず、しかもそのことすらどこまでも自覚されない。ついつい客観的な知識だと思ってしまう。それがいつまでたってもやめられない。このように日常的には単純に同一だと思われている「知」と「存在」の間にはじつは、最も近いが故の、最も深い断絶があり、それが故に「気づき」も「目覚め」も「学び」も生じうるのではないか、そのように感じているのですが、どうでしょう。プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(343頁7行目~10行目)
佐野
まず「変ずるもの」は「個物的なるもの」だということを押さえておきたいと思います。これは分かりやすいと思います。「すべて具体的概念の如く」とありますが、「具体的概念」とは個物を含む概念のことです。抽象概念ではないもの、例えば「ペン」がそれです。「ペン」の出立点は経験的には「このペン」ですね。ついで「述語的なるものは唯部分的に限定し得るのみである」とありますが、「これ(個物的なるもの)を」を補って読みましょう。個物についての判断はつねに部分的だということ、先に出てきた言葉を用いれば「抽象的」だということです。これも分かりやすい。ついで「時を考えるにも、我々は現在から出立せねばならぬ」とありますね。「時」が「具体的概念」、「現在」が「個物」と対比されていることが分かります。ただ「時の一般者」は「ペン」などの「具体的概念」と異なって、「限定することはできない」とされます。「変ずるもの」は、この「限定することのできない一般者」においてある、ということにも注意しておきたいと思います。そうして「之(時の一般者)を限定しようとすれば所謂アンチノミーに陥る」とあります。ここではカントの『純粋理性批判』における第1アンチノミー「世界に始まりがあるか」を念頭に置いています。そこでは時間と空間の両方に渡ってアンチノミーが展開されていますが、ここでは時間だけを問題にしています。「世界に始まりがない」とするならば、現在の世界に至るまでに無限の時間を経過しなければならず、それは不可能(現在の世界に至ることができない)。ゆえに世界に始まりがある。逆に「世界に始まりがある」とするならば、その始まりの原因が無であることになる。無からは何も生じない。ゆえに世界に始まりはない。こうして「世界」に「始まり」があるともないともいえない、換言すれば、時間は無限であるとも有限であるとも、限定できない、ということになります。テキストでは「こういう意味に於て時も変ずるものである」とありますが、「こういう意味」とは有限とも無限とも限定できない、という意味です。「時の一般者」が「限定できない」が故に「時」が「変ずるもの」だと言われています。この「時」とは、過去から未来へと移り行く「現在」のことを言っています。ただ「現在」とだけ言えば、どこをとっても「現在」ですので、「時」は「変ずるもの」ではないとも考えられますが、これは「変ずるもの」を「数学的連続」のように「形式的」に見ているからだ、と西田は考えます。次を読んで見ましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(343頁10行目~344頁2行目)
佐野
通常、「変ずるものは時に於て又時によって変ずる」と考えられていますが、西田はこれをはっきりと否定します。「時は変ずるものの一種」、否「時は寧ろ変ずるものの形式にすぎないと考えます。カントの場合も、「時間」は「感性の形式」でした。そうしてその「形式」(「時の概念」)がどこから出て来るかと言うと「数学的連続の概念」だというのです。この概念は「考えられたもの」であり、「限定せられた」「一般者」(一般概念)で、本質的にここには「変ずるもの」はありません。そこで西田はどういう時に「時」が「変ずるもの」になるかを考えます。「数学的連続」の場合、連続の一々の点は点という以上にいかなる性質もありませんが、「変ずるもの」の場合、連続の一々の点は更に「性質的に特殊化」できる、とされます。それは「変ずるもの」が単なる点ではなく、個物だからです。個物の性質はどこまでも特殊化できます。その場合の「一般者」は最早数や空間のような限定された一般者ではなく、「限定することのできない一般者」となっています。このように数学的連続の一々の点が個物となる時、「時は変ずるもの」となります。それでは次をCさん、お願いします。

C

読む(344頁2行目~10行目)
佐野
次いで「変ずるもの」となった「時」と、「真に変ずるもの」との関係が述べられます。結論から言うと、一方に「数学的連続」としての純然たる「形式」があり、他方に「真に変ずるもの」があり、その中間に「変ずるもの」としての「時」がある、ということになります。詳しく見て行きましょう。まず「変ずるもの」としての「時」においては、「形式が主」で、「性質的なるものが従」、言い換えると「数学的連続という如きものが主語的」となり、「性質的なるものが述語的」になっていると言います。

C

どういうことですか?私はカレンダーのようなものを思い浮かべましたけれど…
佐野
ええ、いいんじゃないですか。まず時間軸を考え、秒、分、時間、日、月、年で区切り、それを主語と考え、それに出来事を述語する、というようなことですね。こういうやり方は「全然限定せられた一般者の立場を離れていない」、つまり数や〔時〕空間といった「数学的連続」の立場ですね。これに対し「真に変ずるもの」ではこれが逆になります。つまり「性質的なるものが主語的となり形式的なるものが述語的となる」。個物としての出来事が主語となる、ということです。〈〇時〇分に出来事Aがあった〉、ではなく、〈出来事Aは〇時〇分に起こった〉、という言い方になります。後者の言い方だと、まず出来事が「限定することのできない一般者の上に立ち」上がり、ついでそれが「時の形式」という「数学的連続」によって限定されることによって、出来事が時間的に限定され、こうして我々はそれについて「考える」ことができるようになります。「完全なる思惟の性質は限定せられた一般者の上に立つ」とありますね。逆に言えば、我々は空間的にも時間的にも限定されたものについてしか考えることができない。これはカントの『純粋理性批判』の一つの結論でもありましたね。だから我々は「時によって変ずるものを考える」というように思うのであるけれども、実はそうではない。我々は「変ずるもの」つまり「個物」を、「限定することのできない一般者」、つまり「無限大の一般的なるもの」(絶対無の場所)において、知的に直観していて、それについて「考える」際の「形式」が、「数学的連続」の概念を基礎としながら、それ自身「変ずるもの」である「時」だというのです。そうなると「時」とは「数学的連続から変ずるものに至る限界をなす」、言い換えれば「両者の中間に位するもの」ということになります。直観の世界に属する「変ずるもの」から言えば、これについて我々が「考え」ようとする場合に、「何等かの意味に於て」限定して「一般概念」にしなければなりませんが、その際の形式が「時」だというのです。この「時」は単なる「数学的連続」でもなく、「変ずるもの」そのものでもない、その中間のそれ自身「変ずるもの」としての「時」です。

C

その「時」とは、具体的にどういうものですか?
佐野
何とも書いていないので、こちらで考える外はありませんが、まずは過去から未来へと流れていく現在が考えられます。こちらの方は後に「内容ある時」(346頁1~2行目)と呼ばれます。これに対して、「数学的連続」に他ならないような時間軸としての「時」、言わば空間化せられた時、が「形式的時」と呼ばれていて、そこでは「尚現在の方向が唯一的に限定せられない」、つまり流れの方向がない、とされています。「内容」とはこれまでに出て来た言葉としては「性質」に相当しますので、この「変ずるもの」としての「時」とは、時間軸上の点(秒、分、時間、日などの単位)を主語としつつ、過去から未来へと流れる現在であると考えられます。今日はここまでとしましょう。
(第110回)
Tweet about this on TwitterShare on Facebook

具体的一般者の自己限定

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「三」の第4段落を読了しました。今回のプロトコルはYさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「自同的判断が単なる同語反復にあらざるかぎり、一般者の自己限定でなければならぬ。」(342頁5~6行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「「…実在は現実そのままのものでなければならない」(『善の研究』)― この言葉は西田自身の根本的な基底をなしている。そして、我々にとって、「現実」とは〈日常〉そのものであり、とびっきりな日常も、何気ない日常も、すべてがかけがえのない〈日常〉である。我々は、ここにおいて「唯一なるものの判断的知識」を得る。ところで、その知識の基礎たる「自同的判断」は、更に同一律を基礎とすると思料するのだが、如何だろうか」(199字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
何か補足はありますか?

Y

具体的一般者が直覚と概念との統一だ、という場合に、直観に知的直観、純粋直観、経験(感性)的直観の3つがあることから、具体的一般者に3つのレベルがあるということでしたが、この3つがどのように関わるか、を考えた時に、これらがみな「自同的判断」に基づいているので、さらにその基礎として「同一律」があるのではないか、と考えて見ました。
佐野
「同一律」は、「矛盾律」、「排中律」と並ぶ、思考の3原則の一つと考えていいですか?

Y

はい。
佐野
西田の「自同的判断」も〈AはAである〉ということですが、「単なる同語反復」ではない、とありますから、Yさんのご提言は西田の「自同的判断」をさらに「単なる同語反復」としての思考法則に還元する、という趣旨になりますね。

R

西田の主張はその逆だと思います。「単なる同語反復」でない「自同的判断」はどれも〈AがAである〉と同時に〈AがAでない〉という矛盾を含んでいて、「同一律」はそこから抽象されたものだと思います。
佐野
知的直観における「自同的判断」とは、我々の言い方だと「富士山は富士山である」という、絶句から発したものですね。純粋直観における「自同的判断」とは「5は5である」、「三角形は三角形である」ということになりますが、これも「単なる同語反復」ではなく、直ちに「5は数である」、「三角形は図形である」という判断を含んでいます。経験的(感性的)直観における「自同的判断」とは「これは青い」ということですね。こうした「自同的判断」からそれぞれ「哲学的」な判断(知識・説明)、数学的判断、経験的判断が成立することになります。

Y

それらはどう関わるのですか?
佐野
西田はこうした判断の根本に「具体的一般者」を考えますが、本来的なものはやはり「哲学的」な判断の根本となる「具体的一般者」だということになると思います。これが以前の区分で言えば「真の無の場所」において成立するのに対し、数学的判断の場合は「具体的一般者」と言っても、それは数とか図形といった「一般概念」にほかなりません。以前の区分で言えば「有の場所」で、それを前提として成り立つ判断です。経験的判断も最後の所で「これは青い」といった「自同的判断」がなければなりませんが、この「自同的判断」は主客の対立を含んでいます。以前の区分で言えば「対立的無の場所」において成立する判断です。西田は「これは青い」の「述語」が「一般的青ではなくして、個色的青でなければならぬ」と言っていますが、これがもし純然たる個色的青に関する自同的判断だとすれば、知的直観に基づく自同的判断ということになるだろうと思います。経験的判断の場合は、「青い」は「それ自身に於て直覚的」ではないが、「之を包む一般者」、つまり「個色的青」を包む「一般的青」ということになるだろうと思います。この3つの判断のうち、本来的で最も完全な具体的一般者は哲学的な判断のもとになる具体的一般者で、数学的判断と経験的判断のもととなる具体的一般者は前提を持っていますから、不完全な具体的一般者ということになるだろうと思います。

W

そうした3つのレベルの具体的一般者とYさんのいう、現実とか日常とはどう関わりますか?
佐野
(以下は後で考えたものです。)数学的判断の基となる具体的一般者によって数学が、経験的判断の基となる具体的一般者によって自然科学が基礎づけられる、これがカントのやったことであると西田は考えていると思います。その後新カント派のバーデン学派が概念構成に「法則定立的」ないし「普遍化的」と、「性格描写的」ないし「個別化的」を区別することによって、自然科学のみならず、歴史学を含む文化科学一般の基礎づけ、総じて学一般の基礎づけを行いますが、こうした基礎づけは「真」という理念(価値)に基づいています。これに対して「善」によって道徳、「美」によって芸術、「聖」によって宗教が基礎づけられることにより、総じて文化一般が新カント派によって基礎づけられます。しかし学にしても文化にしても、一般概念に基づいており、現実そのものではない、そのように西田は考えているのでしょう。こうした一般概念が破れたところ、そこに「現実そのまま」としての「実在」が立ち現れる、しかもそれが「日常」のありのままの姿である、そういうことなんでしょう。さらに我々の日常とは、人生や世界についての何らかの「一般概念」を先入見としてその上に成り立っていますから、それを破るような出来事があると、それを日常でない、事件・事故だと考えます。そうではなく、我々が何も特別なことはないと安穏と考えている日常は、生きるのに都合のよいように作られたものにすぎません。そうした一般概念としての日常が破れて、どのような事件・事故がおこっても、病になることも死ぬことがあっても、何も特別なことはない、それこそが平常・日常の本当の姿なんだ、というような目覚め、そういうことだと思います。ここにも日常は日常でない、それ故に日常である、という即非の論理、単なる同語反復でない「自同的判断」が成り立っていますね。この「現実そのまま」としての「実在」こそ西田が『善の研究』で「純粋経験」という名で名指そうとしていたものだと思います。要するに、知的直観に基づく具体的一般者こそが「現実そのまま」であって、それ以外のものは何らかの「一般概念」の上に成り立つ具体的一般者として、現実そのものからは区別されることになると思います。しかしそうなると「絶対無の哲学」についてもはっきりとさせておかなければならないことがあると思います。

W

どういうことですか?
佐野
絶対無の場所、ないし真の無の場所における知的直観は一般概念化が可能で、それによって哲学が可能となりますが、その時にはすでに「真」を対象とし、思考・思索という方法(その形式が「論理」ですが)によって語らなければならない、という限定された「場所」ないし「一般概念」において哲学が成立している、したがって哲学の場と現実そのものははっきり区別される、ということです。少なくとも「絶対無の哲学」は「絶対無の場所」そのものにおいて成り立つものではない、と言い換えてもいいです。同じことは宗教についても言えて、宗教も現実そのものからは厳密に区別されるべき「聖なる境域」というものをもっていて、それは信仰によって(その形が教、行ですが)問い披かれて行かなければならない境域・場所です。芸術も哲学や宗教と同じ「現実そのまま」の自己限定という仕方で成立しますが、それが成立する場というものがあって、それは「創られた場(言葉という場、音の場、色・形の場)」というような性格をもち、創る(創作する)ということによって(その形・型が技術です)求めていかなければなりません。もちろん人間は何らかの一般概念なしに具体的に行為することも生きることもできませんし、そうした生が「現実そのまま」の自己限定として成り立ってはいますが、「現実そのまま」はあくまでそうした一般概念が破れたところに立ち現れる者だと思います。以上は私見にすぎませんが。

W

また考えて見ます。

S

結局「同一律」は最も根本的な「自同的判断」から抽象されたものということになって、かわいそうな扱いになっていると思います。西田の言いたいことが「自同的判断」だとすると、それを導き出すために「同一律」から出発しながら、それを否定して行く、というような。
佐野
そうですね。矛盾のない所を認めさせておいて、矛盾へと導くという。しかしそもそも「同一律」が思考の原理・原則だとすると、人間の思考は「同一律」に反するような矛盾、Aが同時にAであってAでない、といった事態を考えることができるんでしょうか?

N

できると思います。「矛盾の統一」、とか「包む」といった事態がまさにそれです。
佐野
しかし矛盾の「統一」と言ってしまった時点で、統一と非統一の分別に落ちているだけでなく、統一への固執が見られます。「包む」も同様で、「包まない」との対立に落ちているのと同時に、「包む」への執着が見られるとも言えます。もし矛盾を本当に考えるとすれば、統一と同時に非統一を言わなければならないはずです。人間にはこれが思考できない。「矛盾」が何であるかは分かるのですが(そうでなければ「思考できない」とすら言えないことになります)、それを思考することができない。ちょうど四角い三角形をイメージできないように。ですから「具体的一般者」という言葉にしても、人間的な思考はこれをどうしても「一定の」一般者というように考えざるを得ない。一般「者」という表現がよくないということで、ハイデッガーの存在者(有るもの)と存在(有)の区別のようなものを念頭に置きながら、これを一般「者」ではなく、「一般」と呼んだところで、どうしても一定の一般を考えてしまう。いや、そうではない、それは一定の一般ではなくて、じつは無なのだよ、などと言われても、「無」ということで「何か」を考えざるを得ない。西田は「単なる同語反復」でない「自同的判断」ということで、「同一律」という人間の思考の原理を超えたものを思考しようとしているけれども、思考できている気になっているだけとも言えなくもない。ここには人間の思考ではどうしようもないものが、それでも、というより、どうしようもないということを通じて思考に対して開かれている、ということが重要ではないか、そう思えるのですが。人間はそのようにして開かれたものを、一般者の自己限定と呼ぶより仕方のない、そうした向こう側からの促しに応じて思索して、これを言葉にもたらすのだけれども、そのことと同時に、これも一般者が自らを隠す、としか言いようもない仕方で、どこまでも思考することができない、言い表すことができない、ということが厳然としてある。しかしそのことがさらに新たな開けを導き、それが思索を促す。きわめてハイデッガー的ですが、そういうことが大事なんじゃないかと。プロトコルはこの位にしてテキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

「我々の判断的知識の根柢には具体的一般者がなければならぬ、判断は具体的一般者の自己限定として成立するのである。我々の知識の体系はかかる一般者の無限なる層である。主語的方面に於て無限に深い直覚的なるもの(個物)が見られると共に、述語的方面に於て之(個物)を包む無限大の一般的なるものが認められねばならぬ。かかる一般的なるものが限定せられるかぎり、判断的知識が成立するのである、之を越ゆれば全然直観の世界に入る」(括弧内引用者)。
佐野
ありがとうございます。結論のような感じでよくまとまっていますね。ここでも「個物」とか「無限大の一般的なるもの」がなにか実体のようなものとしてイメージされがちですが、ここではそうしたいわゆる形而上学的な存在が問題になっているのではなく、あくまで開けにおける言葉であるというように読みたいと思います。因みにイデアのようなものも、形而上学的な実体というようにしばしばあしざまに言われますけれども、本当はそうではなく、これも開けの言葉だと私は思うのですが。それはともかく、最後にある「之」とは何を指しますか?

A

「判断的知識」ではないでしょうか。
佐野
そうでしょうね。「知識」を越えた所が「直観の世界」ということでしょうから。問題は、「かかる一般的なるものが限定せられるかぎり、判断的知識が成立するのである、之を越ゆれば全然直観の世界に入る」をどう読むか、です。直前で「述語的方面に於て之(個物)を包む無限大の一般的なるものが認められねばならぬ」とありますから、一方で最も根源からの哲学的思索の可能性を述べていると考えられますが、他方で哲学的思索を越えた「直観の世界」を、例えば宗教のような形で考えているようにも読めます。

A

「限定せられるかぎり、判断的知識が成立する」とありますから、限定されない場合は純粋に直観の世界に入る、という意味ではないでしょうか?
佐野
たしかにそう読めますね。限定せられ得、また実際に限定される場合には哲学となるけれども、限定されない場合もあり、その場合は純然たる直観の世界となる、という意味ですね。この場合「全然」を「越ゆれば」にかけて読むのではなく、「純粋に」と読むことになりますね。この箇所の読みとしてはその方がよいかもしれませんね。高い宗教的な境地を体現してはいるけれども、それを概念的に語ることができない、そういう宗教者はもちろんいますし、そういう人がむしろ純然たる宗教者でしょう。問題は宗教者が自覚的に宗教の立場に立って、哲学を見下し、これを拒否する場合です。もちろん宗教における信仰は体験の事柄であって、概念の事柄ではない。むしろ哲学的な思索は宗教的な体験を妨げるものになります。宗教的な体験に不可欠なのは、教えとその宗教に特有の行です。その限りにおいて、宗教が哲学を拒絶するのは分かります。しかし宗教者が自分の体験を我がものとし、それを振りかざして宗教の立場にから哲学を見下すとき、それは思想によってそうしているのであって、すでに哲学の境域に立ち入っていることをその者は自覚していません。しかもそれは、自らのよって立つ思想を批判吟味することを忘れているという点において哲学としても、そうして(信を我がものとするという点においておそらくは)宗教としても未熟な在り方と言わなければならないと思います。西田の立場は純然たる宗教家の立場を否定するものではなく、そうかといって哲学を宗教より低く見る立場でもないと思います。長くなりました。次をBさん、お願いします。

B

読む(342頁11行目~343頁2行目)
佐野
「右の如き述語的一般者」とありますが、「右」には「述語的一般者」が見当たりませんね。「具体的一般者の自己限定」として成立する「一般者」の「述語的方面」と考える外ありませんね。ここでは具体的には数や空間です。そこでは一般概念と直観が直ちに一つです。数は直ちに5であり、5は直ちに数である、という仕方でどの数においても数は自己同一を保っています。それゆえ数や空間においては「所謂先験的知識」、ここではアプリオリな認識という意味だと思いますが、そうしたものが成立します。次に「唯その個物的なるものの尖端」とありますね。「その」とは「述語的一般者」ですね。数や空間の場合、「特殊」はあっても「個物」はありません。5に「この5」というものはありません。しかし「述語的一般者」がそうした特殊を越えて個物に至る、これを「尖端」と呼んでいますね。そこにおいてのみ「自己同一として直覚的と考えられる場合」とありますが、これはどんな場合ですか?

B

経験的直観の場合だと思います。
佐野
そうですね。「これは青い」という「自同的判断」を念頭に置いています。その場合「その述語的一般者は積極的に限定すべからざるものとなる」、つまり「これこれ」と言ってすますことができない、無限に限定可能なもの、という意味です。「是に於て主観と客観とが相対立し、主語となって述語とならない直覚的方面が客観的と考えられ、述語的なるものが主観的と考えられる」。以前の場所の分類では「対立的な無の場所」ですね。そこでは「主観と客観、知るものと知られるものとを包む類概念はないと考えられ、述語的一般として考えられるものはすべて客観的なるものの抽象的一面にすぎないと考えられる」、つまり主観にとってのものでしかない、ということです。次をCさん、お願いします。

C

読む(343頁2行目~6行目)
佐野
「併し判断的知識が成立するかぎり」とありますね。この「併し」は何を念頭に置いたものでしょうか?

C

まずは経験的知識。その尖端が「これは青い」という自同的判断。しかし経験的知識の場合は、主語と述語が分れて、「青い」が結局抽象的な一般概念としての「青」になってしまう。これをさらに一歩進めて知的直観における判断的知識。ここまでを念頭に置いて、「併し判断的知識が成立するかぎり」、つまり「全然直観の世界」に入らない限り、と言っていると思います。
佐野
なるほど。ずいぶん射程距離の長い「併し」ですが、とても分かりやすいですね。「特殊化の尖端」、「個物」ですね。そこにおいても「一般的なるものが自己自身を失うのではない」。「判断的知識が成立するかぎり」はそうでなければなりませんね。「却って自己自身に還る」。「一般」が真に「一般」になる、真の無となって個物を包むということですね。そこで次に「自己自身が主語となって述語とならない基体となる」とあります。「自己自身」とは「一般的なるもの」のことです。それが自らを無にして「主語となって述語とならない基体」つまり「個物」になるということです。「基体」とは「基に置かれたもの(ヒュポケイメノン)」の訳で、それについて語られるところのもの、それの基に置かれるところのもの、の意味ですが、ここでは個物としての実体を意味しています。「主観的なもの」、つまり「一般的なるもの」が、かえって「客観的なるもの」、つまり「個物」を「包む」ということになります。そうして「此の如き述語的一般の方向に於て我々は意識の概念に到達する」とあります。

C

「意識の概念」とは何ですか?
佐野
「意識」の何であるか、意識の本質、というくらいの意味ではないでしょうか。この「意識の概念」は以前の分類でいえば、「対立的無の場所」としての意識、つまり客観に対立する主観としての意識ではなく、「真の無の場所」としての意識だと思われます。

C

その場合、「意識の概念」は純粋経験としての「意識現象」ということになりますか?
佐野
そうですね。いずれにせよ「後に云う如く」とありますから、そこまで待つことにしましょう。最後に「意識面に於て具体的一般者が抽象的概念として限定せられるのである」とありますが、これも「意識面」=「具体的一般者」の「述語的一般者」、と考えた方がよいと思います。今日はここまでとしましょう。
(第109回)
Tweet about this on TwitterShare on Facebook

具体的一般者(その3つのレベル)

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「三」の第1段落から第3段落までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「具体的一般者は自己自身に同一にして自己の内容を与えるといふ意味に於いて直覚的であるが、自己自身の内容を含み之について述語するといふ意味において一般概念的でなければならぬ」(340頁10行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「変ずるものの根柢にある一般的なるものは、抽象的概念を越えて自己の内に所与の原理を蔵し、自己の内容を与える具体的一般者であるが、ここに二つの個物があるとき、個物1と個物2の根柢にある一般的なるものは具体的一般者1と具体的一般者2になるのではないか。個物1と個物2が(ひいては森羅万象が)、そのまま、ありのままに無限の広がりを持つものと関係するとしたら、それはこの論理においてどのように説明されるか」(197字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
何か補足はありますか?

S

「具体的一般者」が森羅万象で、すべてがその自己限定だとすると、自己限定できない一般者が初めから刷り込まれているのではないか、つまりは「自己限定って何だ?」という問いです。
佐野
面白いですね。一般者とその自己限定とは、ハイデッガーの有(存在)と有るもの(存在者)の関係のようですね。有は有るものを開くと同時に自らを匿う(隠す)のですから。この問題はハイデッガーにおいても有の真性(存在の真理)と非真性(非真理)、あるいはそうした真性が起ることとしての「性起(ereignis)」と「非性起」の関係を問う問題として、最も深いところにある難問だとされます。西田にもそうした側面がありそうですね。テキストでも西田は矛盾したことを言っています。一方で本日のキーセンテンスにあるように、直覚的なものは「一般概念的でなければならぬ」、つまり哲学的な説明が可能でなければならない、と述べる。しかし他方で、例えば「一般的なるものが限定せられるかぎり、判断的知識が成立するのである、之を越ゆれば全然直観の世界に入る」(342,10-11)と判断的知識を越えた直観の領域を認めています。これを具体的一般者そのものとその自己限定の関係に当てはめて考えてよいかどうか。

Y

その場合でも、西田は「ありのまま」の直覚はあり得ると考えていたと思います。
佐野
ハイデッガーの場合には、こちら側の認識能力の問題ではなくて、有(存在)が自らを隠してしまうので、人間に顕わになると言っても、隠されている、という仕方で顕わになることになると思います。それに対して西田の場合は隠れるということも含めて、すべてが顕わになっている(「露堂々」)と。

Y

ええ。そうして西田はそうした直覚が哲学的な説明になり得ると考えていたと思います。そうでなければ一般はその自己限定(特殊)に対立する抽象的な一般者になると思います。

A

李禹煥という美術家がいますが、彼は石と銅板といった「関係項」を通じて「関係」そのものをどう感じるかを作品化しています。ハイデッガーの有(存在)と有るもの(存在者)、あるいは西田の一般者とその自己限定にも通じるかも知れません。頭だけでは理解できないものを、身体と頭で掴んでいく。そうしたものが作品を作る際にヒントになっているようです。座禅の際の半眼、これは如来像もそうですが、こうした半眼のコツをつかむことが重要だと思います。
佐野
Sさんのプロトコルではもう一つ問いがありましたね。

S

個物1と個物2に対応して具体的一般者1と具体的一般者2があるのではないか、という問いです。「そんなものはない」と言われるかもしれませんが。
佐野
テキストを読む限り、そんなものはない、と思われる方が多いのでは。西田が個物と個物の相互関係を考えるようになるのは、後に「世界」を弁証法的に考えるようになってからです。因みに既に『善の研究』でも、個物と個物の関係が弁証法的に考えられていました。しかしここではそうした「学者」風の説明に立ち入らずに、何故個物が一つなのか、目下のテキストだけで考えて見たいと思います。何故個物が一つだけなのか。それはおそらく出発点が包摂的判断だからです。一般が特殊を包む。この特殊化をどこまでも推し進めても、一般性を脱することはできません(330,1)。個物に達するには「主語となって述語とならないと云うこと」が附加されなければならない(同)。「富士山!」ですね。こうして個物という尖端に到達する。こういう考察方法では個物は一つとならざるを得ないと思います。

S

なるほど。そうした個物と森羅万象とはどうつながるのでしょうか?
佐野
包摂的判断から個物の先端に到達する時に超越があるのですが、この時に何が起こっているか、が問題になると思います。その場合尖端の個物が特殊化(主語)の方向の方向に見出されるものだとすれば、一般化(述語)の方向に見出されるものが絶対の無ですが、「述語とならない(無)」にとどまれば、個物の世界は直観の世界という外ないことになります。しかし西田はそれが同時に「述語」できるもの、哲学的に説明可能なものでなければならないと考え、その論理を探ります。西田によればここに「転換」があるというのです。まず個物(「富士山!」)は「自己自身に同一なるもの」ですから、これを判断にもたらしても「同一判断(「富士山は富士山である)」にしかならないはずですが、これが無意義な同語反復でないとすれば、そこに「一般者の自己限定」がなければならないと考えます。

S

それはどのようにして、ですか?
佐野
まず個物が質料などの抽象的一般性を拭い去って真の特殊(例えば「個色」)となる時、同時に一般性も特殊と対立する、それ自身特殊であるような、そうした特殊性を拭い去って真の一般となる。そうなるとこの一般者は真の無となると同時に真の特殊(個)を包むことになります。これが具体的一般者です。「富士山!」とか「富士山は富士山である!」という叫びにおいては、絶対無の無限の深みから個物が立ち上がっているのですが、それは同時に絶対無からの無限の自己限定の尖端として、具体的一般者の自己限定として、具体的一般者に包まれつつ立ち上がっている、ということです。一即一切、一切即一と言ってもいいかもしれません。Sさんの言う、森羅万象も個物と個物の相互関係も具体的一般者において生起していて、その自己限定として個物(真の特殊)が成立している、そのように考えて見てはいかがでしょうか。

S

そうした直観からどのように哲学が可能になるのですか?
佐野
すみません。ここで先程でてきた「転換」が問題になります。「自己自身に同一なるもの」(「富士山!」)ないし「同一判断」(「富士山は富士山である」)と言うことで主語と述語が転換可能となり、それを通じて主語(「富士山」)と述語(絶対無・無限な述語・森羅万象)が転換し得る、と言うのです。そうしてこの新たな主語が一般概念的なもの(説明的言語)を含むことによって概念的知識、つまり哲学的な説明が可能になると考えているようです。

S

ありがとうございます。
佐野
プロトコルはこの位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(341頁1行目~342頁6行目)
佐野
この第4段落全体が「経験的知識」に関するものとなっていますね。「具体的一般者」も本来の知的直観におけるものから、数学や経験的知識における一般者まで拡張した意味において用いられています。「経験的知識」の場合、「直覚的方面」(経験的直観(見る)の内容・主語的方面・客観)は外から与えられなければならず、「概念的方面」(考える・述語的方面・主観)と分裂することになりますが、経験的知識として成立するために両方面が総合されなければならないとすれば、概念的方面としての抽象的一般者を一種の「具体的一般者」(「一つの具体的概念」)と考えてもよい、と言おうとしています。次に「上にも云った如く」とありますが、この「上」とはどこですか?

A

340頁1行目の「所謂抽象的概念といえども一方に所与の原理がなければならない」でしょうか?
佐野
そうですね。「所与の原理」とはこの場合、経験的直観の内容が外から与えられなければならない、という意味ですから、「元来直覚的なるもの(経験的直観)との関係なくして成立することはできぬ」と重なりますね。次に「唯、単なる包摂的関係をもってしては〔抽象的概念は〕直覚的なるものに結合することはできない」とは一般の特殊化という仕方でどこまで考えても、経験的直観には結びつかないということです。しかし「特殊と一般との包摂的関係に判断の主語と述語との関係を含めて考えれば」、また出て来ましたね。「主語となって述語とならない」というアリストテレスから学んだ実体概念を西田が独自に解釈したものです。これを付け加えれば、抽象的概念も「直覚的なるものに結合できることができる」、そのように述べます。こうなると、例えば「色の概念」という抽象的概念も、最後の所で(後で出て来ますが)「これは青い」という仕方で、「判断の主語(これ)と述語(青い)との関係を含めた包摂的関係(「これは青い」)を包む一般概念と考えることができ、「具体的概念の一面」と考えることができる、ただ「不完全なもの」だ、そのように述べます。

A

「これは青い」が出て来ると、どうして抽象的概念が具体的概念になるのですか?
佐野
「これは青い」は主語と述語が同一の「自同的判断」です。実際「これ」と「青い」は同一です。「これはAさんです」というのと同じですね。どちらも個(物)です。経験的判断も最後の所でこうした同一判断を抱えている、したがって主述の転換が可能となって、「これ」という語り尽くせないものについて「青い」という仕方で述語づけることができる、そのように述べようとしていると思われます。

A

何故「不完全」なのですか?
佐野
経験内容が外から与えられなければならないからだと思いますが、他にも理由がありそうです。外から与えられた、というように、内外、主客の区別を前提すると、色や青といった抽象的概念(言葉)が破られないままに、与えられたものを主観の側から概念的に「青」というように捉えに行ってしまう、ということが起ります。この場合には直覚との結びつきは不完全なものとなり、さらにはそれを含む一般概念も具体的概念としては不完全なものになります。

A

子供に12色の色鉛筆を与えて色を教えることにも弊害がありそうですね。日本の教育はそこで終わっている場合が多いですが、それで終わりとすれば害があると思います。
佐野
そうですね。ただ言葉がないと、人間は認識もできませんから、そういう言葉と同時に絶えず言葉では言い表すことのできないものに目を向けさせることが大切なんでしょう。次に行きましょう。何と書いてありますか?

A

「直覚的方面と概念的方面とを統一して一つの具体的概念が成立するには、両面を結合する自同的判断がなければならぬ。自同的判断によって直覚的なるものと概念的なるものとが内面的に結合せられるのである。自同的判断の成立するかぎり、具体的一般者が成り立つのである」とあります。
佐野
ありがとうございます。西田は「具体的一般者」に3つのレベルを考えていて、①知的直観と概念との結合によるもの、②数学におけるような、純粋直観と概念の結合によるもの、③経験的知識におけるような、経験的直観と概念との結合によるもの、がそれですが、ここではまず一般的に述べていますね。どの場合にも「自同的判断」が必要だと。①の場合は何度も出て来た「富士山は富士山である!」という絶句体験から発した自同的判断、②の場合には「一般概念なるものが直に直覚的である」という仕方で、数自身、空間自身がすでに「自己自身に同一なるもの」であるため、ことさらに自同的判断をもち出さなくても「自己自身について述語する」ことができる場合、③の場合は「これは青い」という経験的知識における自同的判断です。まずは②から述べられています。空間のようなものについて「我々は容易に之を具体的一般者と考えることができる」とありますが、そうは言ってもこの「具体的一般者」は本来のものではなく、あくまでも限定された一般者、その意味で抽象的一般者です。それに続けて③の場合が述べられます。何と書いてありますか?

A

「之に反し所謂経験的知識という如きものに於ては、我々は空間の場合に於ての如く一般的なるものの直覚(純粋直観)を有つと考えることはできぬ、併し最後の種を越えた個物に於て自己自身に同一なるものの(経験的)直覚を有つのである、(経験的に)直覚的なるものに直接するのである」とあります。
佐野
ありがとうございます。そうしてその例が次に出て来る「これは青い」ですね。そうしてこの「判断が経験的事実(「これ」)を主語として成立するかぎり、その述語は一般的青ではなくして、個色的青でなければならぬ、唯一の青でなければならぬ」と述べられます。経験的な一般概念も最後の所で直覚的な自同的判断に基づいているということですが、この直覚が「経験的直観」として主客の分裂を前提にしている限り、この一般概念は「不完全」なものであることについては、さきほど考察しました。次に「斯く唯一なるものの判断的知識が成立する(言葉にならない直覚について述語できる)かぎり、それ自身に於て直覚的ならずとも之を包む一般者が考えられねばならぬ」とありますが、「之」とは?

A

「直覚的(なもの)」でしょうか?
佐野
そうですね。直覚的なものを包む一般者、つまり「一つの具体的一般者」ですね。そうして「単なる包摂的関係から見れば(直覚的なるもの・経験的直観)は概念的関係の外に出ると考えられるであろう。しかし(主述の)判断的関係を含めた包摂的関係から云えば、(直覚的なるものは)、尚述語的一般者(概念的なもの)に於てあると考えることができる」と述べられます。このように直覚的なるものを包む「述語的一般者」が「具体的一般者」で、「これは青い」という場合には、主語と述語が転換して、この「述語的一般者」が主語(これ)となって、それについて述語する、という形を取ります。これは「一般者の自己限定」ですから、「これは青い」という「自同的判断が単なる同語反復にあらざるかぎり、一般者の自己限定でなければならぬ」と述べられることになります。今日はここまでとしましょう。
(第108回)
Tweet about this on TwitterShare on Facebook

変ずるもの/連続的なもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「二」の第5段落337頁7行目「以上論じた所によって、」から338頁9行目「変ずるものとなるのである」までを読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「連続的なるものも個物である、単に自己同一といふより尚一層個物的と考へることができるが、連続的統一とは内に無限なる特殊化を含んだ一般者でなければならぬ、無限なる包摂的関係をその一般的根元に還って見た時、連続的なものが考えられるのである。併しかかる還源的方向を何處までも進めて行って、主語となって述語とならないものと反対に、述語となって主語とならないという意味に於て包摂的関係を超越した述語面に撞着した時、かかる場所に於て変ずるものが見られるのである」(337頁13行目~338頁3行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「337 頁「連続的なもの」としての「個物」があり、338 頁「変ずるもの」としての「個物」が出てくる。「連続的なもの」の方向=一般的根元に還る方向をどこまで進めていっても、「包摂的関係を超越した述語面」に「撞着した時」、かかる場所に於て「変ずるもの」が見られるのであるとされる。ここでは、「連続的なもの」と「変ずるもの」の間に、絶対無の場所への転換と同時にそこに於いてある真の個物が見られる。「連続的なもの」と「変ずるもの」はどう違うのか?それぞれの背後に横たわれる一般的なるもの、或いはそれが於いてある場所は違うのか?」(254字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
「連続的なもの」と「変ずるもの」は別のものとお考えですか?

R

はい。どちらも個物ですが、その背後になるものが異なります。「変ずるもの」としての個物の背後にある一般的なものは絶対無ですが、「連続的なもの」としての個物の背後にある一般的なものは、実体化された絶対無です。

N

「変ずるもの」が個物で、「連続的なもの」が一般的なものではないですか?
佐野
普通はそのように考えられますね。そうして「変ずるもの」は「連続的なもの」がなければ考えることはできません。そこで両者がどう関係するかが問題になって来ると思いますが、ここで問題になって来るのが、「主語と述語とは転換する」ということです。Rさんの解釈にはこの視点が欠けているように思われます。通常の包摂的判断では、主語の側に来るのが個物・変ずるもので、述語の側に来るのが一般的なもの・連続的なものです。しかしこの判断が破れる。個物が真に個物となり、変ずるものが真に変ずるものになります(富士山といった実体内の、あるいは色一般といった概念内の変化ではなく、生滅といった徹底した流転になる)。それと同時に、一般的なものも真に一般的なものになります(実体としての富士山や色一般というような抽象的一般者が真の全体としての具体的一般者になる)。こうして連続するものが真に連続するものとなる。さらにそこでは主語と述語が同一となることを通じて転換し、一般者の自己限定として個物が立ち上がることになります。

R

そのことと「変ずるもの」が「絶対無の場所」に「於てある」とはどう関係しますか?
佐野
その場合「絶対無」をどう考えるかが問題だと思います。「変ずるもの」を「有」、「絶対無」を「無」と考えると、この「絶対無」は有無対立の無になってしまいますね。

N

この絶対無は、非連続の連続のようなもので、あらゆるものが区別されながら結合子によって繋がって(通じ合って)いるようなそんなあり方ではないでしょうか。
佐野
絶対無とは具体的一般者にほかならないと。面白いですね。プロトコルはこのくらいにしてテキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(「三」第1段落)
佐野
「時は変ずるもの」で「変ずるものはすべて時に於て変ずる」とすれば、「時の概念と変ずるものの概念とは如何なる関係に於て立つ」かが問題になる、ということです。ここはそのまま受け取っておきましょう。Bさん、次をお願いします。

B

読む(「三」第2段落)
佐野
ここは「二」の最後で言われたことを簡潔に要約した箇所ですね。「変ずるもの」を考えるには「具体的一般者」の概念から出立しなければならない。その「具体的一般者」とは「特殊と一般の系列」、つまり包摂的関係を含んだものだが、それは「主語と述語との判断的関係」を含んでいると。それによって「唯一なるもの」、個物ですね。これが考えられる。「自己に同一なるもの」、「主語となって述語とならない特殊化の尖端」も同じ(個物)です。そうしてこうした「特殊化の尖端にまで達すること」が「具体的一般者が自己自身に還る」ことだと。一般者は抽象的一般者としてはどこまでも特殊(さらには個物)と対立します。しかしそのように特殊(個物)と対立する一般者は特殊と並ぶそれ自身特殊なものであって、真の一般者ではありません。これはヘーゲルに学んだものだと思いますが、一般者が個物になることによって、一般者も真に一般者(具体的一般者)になるということです。ここまでで質問はありますか?

B

大丈夫です。
佐野
そのように「具体的一般者が自己自身に還って見た時」、その時が「一般的なるものが主語となって述語とならない基体として考えられた時」だというのです。「基体」は「主語となって述語とならない」とありますから、さしあたり「個物」でいいと思います。それが同時に「一般的なるもの」であり、そこにおいて「連続的なるもの」が考えられるので「基体」と呼んだのでしょう。いずれにしても具体的一般者のことです。次はちょっと読みにくいですね。何と書いてありますか?

B

「変ずるものの根柢にも、何かの意味に於て連続的なるものがなければならぬ、かかる連続的なるものがもはや抽象的概念として限定することができないと考えられる時、我々は之を変ずるものと考えざるを得ないのである」とあります。
佐野
最後の「之」は何を指しますか?

B

「連続的なるもの」ではないでしょうか。
佐野
「連続的なるもの」が「変ずる」のですか?まあ、「具体的一般者」ですから結局はそれでもよいことになりますが、もう少し普通に読めないか考えて見ましょう。この文の冒頭にある「変ずるもの」を「一般に変ずるものと考えられているもの」と考えて見ましょう。「変ずるものの根柢にも、何かの意味に於て」とありますから、むしろそのように読んだ方がよいと思います。その場合でも「連続的なるものがなければならぬ」、となります。そうして「かかる連続的なるもの」は通常、富士山というような実体にせよ、色一般にせよ、抽象的概念として考えられているけれども、それがもはやそういうものとして限定することができないと考えられる時、「我々は之を」、すなわち「変ずるもの」(一般に変ずるものと考えられているもの)を〈真に〉「変ずるものと考えざるを得ない」と読むのです。つまり富士山というような実体を持ち込んで、それが初冠雪となったとか、色一般という抽象概念を持ち込んで、色が緑から赤に変わったとか考えるのは、真に変化を考えたことにならないということです。富士山という実体や色一般という変化しないものが残っているからです。Bさんが就職する、というのも一つの変化ですが、その場合Bさんという実体(個体)が変化しないものとして変化の基に置かれています。そうではなく、変化を考えるとはBさんが死ぬということまで含めて考える、徹底した生成変化、流転の中で考えるということでなければ変化を考えたことにはならない、ということだと思います。次へ参りましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(「三」第3段落)
佐野
「変ずるもの」の根柢に「連続的なるもの」、「一般的なるもの」がなければならないが、それは抽象的な「一般概念」として限定できないものでなければならない、とこれまで述べられたことが繰り返されています。この一般者は「具体的一般者」でなければならない、ということです。さらにこの「一般概念として限定できないもの」が「非合理的なるもの」と呼ばれていますね。これも合理と対立する非合理的なものではないでしょう。そういう「非合理的なるものの合理化」によって「変ずるものの概念」が成立する、とされます。しかしここで西田は次のように問いを立てます。「限定することのできない一般的なるものとは何を意味するか」、「非合理的なるものの合理化とは一種の矛盾ではなかろうか」と。どちらも「具体的一般者」に関わる問いです。前の方の問いは、「具体的一般者へ」の問い、後の方は「具体的一般者から」の問いと言えると思います。そこで西田は「私は是に於て具体的一般者というものについて考えて見なければならない」と述べます。ここまでで何か質問はありますか?

C

特にありません。
佐野
それでは次を見て見ましょう。「具体的一般者とは抽象的概念を越えて之を内に包むものである」とあります。「之」とは?

C

「抽象的概念」です。
佐野
そうですね。単に「内に包む」のではなく、「越えて」包む。ここに超越があります。先程の「一般概念」として限定することができない、ということですね。これは単に不可能を言っているのではなく、これまでの一般概念が破れるという体験ですね。こうした体験だからこそ、「自己の内に所与の原理を蔵し自己の内容を与えることを意味する」ということになります。

C

「所与の原理」とは、経験内容は与えられなければならないということですよね。
佐野
そうです。通常は認識主観にとって経験内容はその外から与えられなければならない、という意味です。しかし西田は「所与の原理」ということで、経験内容を与える原理一般を考えているようです。これを、カント的に認識主観の外から与えられる場合と、内から与える場合とに分けて考えていますね。カント的な「所与の原理」は主観と客観の対立を前提していますが、西田は主観と客観が分れる以前の所から考えようとします。もっともカントからすれば、そのように考えようとするところで、主観と客観が分れる以前の所が「与えられたもの」になると思います。これはたんなる立場の違いというのではなくて、人間が一方で思考(「ついての言葉=反省・説明」)以前を生きながら、他方で思考を一歩も出ることができないという、人間そのものが抱える矛盾として考えなければならないと思います。どちらが正しいという問題ではない。

C

ありがとうございます。
佐野
次に行きましょう。具体的一般者が「自己の内に所与の原理を蔵し自己の内容を与える」ということを言い換えて「自己の内に特殊化の原理を含み自己自身の主語となる」と述べています。体験内容を主語として、これに述語を与える、言葉にする。これが「特殊化の原理」と呼ばれています。体験が一般概念を破って(超越して)成立したものですから、一般概念をいわば止揚された仕方で含んでいる。無限なる言葉として蔵している。だから言葉になる、これを「特殊化の原理」を含んでいる、と言っているのだと思います。次に「一般概念」の話が出て来ますね。

C

色と数学ですね。
佐野
そうです。色の場合は「所謂抽象的概念」と呼ばれています。その場合でも「所与の原理」が必要ですが、この「所与の原理」は外から与えられなければならないという意味です。「色の概念的関係を構成するものは客観的に与えられる色自体の体系」だとされます。「色の概念的関係」は主観によって「構成」されますが、そのためには「色自体の体系」が客観的に与えられなければならない、ということです。しかし「色の一般概念が直に色自体ではない」と言われます。例えば「赤」という言葉は一般概念ですが、感覚される赤はどこまでも言葉に言い表すことのできないものです。「数学的概念」の場合はどうですか?

C

「一般概念が同時に自己の特殊的内容を与える」とあります。
佐野
そうですね。「一般概念」が「特殊化の原理」を含むということです。言い換えれば「自己自身が所与の原理となる」ということです。

C

どういうことですか?
佐野
例えば「自然数」という一般概念が直ちに、1,2,3,…という特殊を含む、ないし与える、ということです。

C

次に「斯くあるということと斯くあらねばならぬと云うこととが一である」とあるのもよく分かりません。
佐野
「斯くある」が特殊で、「斯くあらねばならぬ」が一般(概念)です。数学、例えば数の場合は、5(特殊)がそのまま数(一般)です。「この5」というものはありません。「色」の場合は、この赤(斯くある)と「赤」という言葉(斯くあらねばならぬ)は一致しません。

C

分かりました。
佐野
次いで「此故に具体的一般者の根柢には直覚的なものがなければならぬ」とありますが、「此故に」が何を指しているのかはっきりしませんね。「色」のような経験的概念の場合には「感性的直観」、「数学」の場合には「純粋直観」が必要だ、ということ、つまり総じて一般概念の場合でも直観がなければならない、ということを受けているのかもしれません。「具体的一般者」の根柢にある「直覚的なるもの」は「知的直観」ということになると思います。次に「抽象的一般概念」とあるのは、さしあたり「色」の如き、経験的な一般概念のことでしょう。そうした概念から見れば「具体的一般者と考えられるものは既に超越的なるものを含んで居る」とは、経験的な一般概念を破ったところに「具体的一般者」が開ける、ということだと思います。しかし数学的な一般概念といえども限定された一般概念である以上、そうした概念から見れば具体的一般者は超越的なるものを含んでいる、と言えます。そうして「而もそれが概念的と考えられるのは述語的なるものが主語となるが故である」とありますが、「それ」とは?

C

「具体的一般者と考えられるもの」だと思います。
佐野
そうですね。一般的概念を破って開ける具体的一般者は、一般概念を越えるという仕方で一般概念を内に包んでいますから、こうした述語的なるものが主語となることによって、それについて述語することができる、つまり概念的に語ることができる、ということになります。

C

「主語と述語が転換する」ということですね。
佐野
そうです。テキストでは続けて「少くとも直覚的なるものが述語的なるが故である」と書かれてあります。「少くとも」とありますから、これは直覚的なるものが、述語となり得るもの、言葉になりうるものという意味でしょう。直覚をともなう体験には一般概念の言葉がぎっしり詰まっており、それが言葉にされることを待っている、そんな感じですね。逆にそうだからこそ、言葉にするのが難しい、ということもありそうですね。ですがそうだからと言って、この直覚的体験を「全然非合理的として述語することのできないもの」としてしまえば、それは「概念的知識と無関係」となります。そういう立場を掲げる人もいます。

C

どういう人たちですか?
佐野
「宗教の立場」に立つ、と明言(断言)する人たちですが、これはもう時代や宗派を超えて存在しますから、これも「人間」の本質に関わる問題とみてよさそうです。そういう人たちは哲学を宗教より低いものと見て、哲学に敵対的な態度をとるか、哲学を(理屈と見て)見下します。自分が出会ったもの、自分を虜にしたものだけが真実で最高だとする立場ですが、これはもう、宗教に限らず、「人間」にとってどうしようもない問題かもしれません。しかし人間とはそうした存在であること、さらにそうした立場に立つということも分別的な言葉によってそうしている、ということは、そうした人々も自覚すべきだと思います。実際、禅宗の「不立文字」というのもすでに「文字」です。

C

それに対して、西田の立場は次に見られるように「直覚的なもの」は「概念的知識の基礎となる」、つまり直覚的体験は哲学の基礎となる、ということでしょうか?
佐野
哲学から宗教へ、そうして宗教から哲学へ、というような立場だと思いますが、西田自身は宗教の立場に立って哲学を展開するというような、いわゆる「宗教哲学」の立場に立っているとは考えていなかったと思います。あくまで自分は哲学者であると考えていたと思います。その場合の哲学というものが直覚的な体験に基づく哲学、ということになります。ただし西田は根本経験、つまり判断(「についての言葉」=反省・説明)以前の体験の直覚を疑いませんが、ここは難しいと思います。

C

どういうことですか?
佐野
中島敦に『名人伝』というのがありますが、弓の名手が辿り着いた究極的な境地というのが、もはや目の前にある弓を認識できない在り方だというのです。しかし彼に弓を持たせれば、おそらく素晴らしい射を放つと思います。しかしそれについて語れない。体験の根本にはこの「語れない」ということがついて回る。我々がすでにそこを生きているところのものは、決して我々に顕わにならない、という側面が西田の哲学にはあまり感じられない。さらに言えば、人間は自分が生きているところの根本から目を背けるということがあります。日常的な生において我々は常に「死」から目を背けています。これはもうどうしようもない。私は先日交通事故に遭い、脳震盪を起して3時間くらい記憶がなかった。しかし自分で歩いて救急車に乗り、自分の生年月日と自宅の電話番号を正しく救急救命士の方に伝えたというのです。ただまったく記憶がないので、「語れない」。もう名人の境地ですね。それと同時に面白いのは、事故直前、さらにはもう少し前の記憶も消されている、ということです。もうこれはおそらくとしか言いようがありませんが、恐ろしい体験を無意識のうちに封じ込めてしまったと考えられます。封じ込めること自体も無意識ですから、これはもうどうしようもない。こういう生のレベルでの出来事を人間は認識できない。人間の根源的な生は、人間の最高の境地でもあり、痴呆の状態でもあり、人間が決して直視できないものでもあり、これらが一つになっているのですが、西田哲学にはこうした側面があまり語られていないように思われます。まあ、これだけ謎に満ちて危険なものであれば、たしかに見たくなることも、求めてしまう(愛智=哲学)のも分かる気がしますが。脱線はこれ位にしてテキストに戻りましょう。テキストでは段落の最後に、「具体的一般者」と「数学的知識」、経験的な「事実的知識」とが比較されています。「具体的一般者」についてはどう語られていますか?

C

「具体的一般者は自己自身に同一にして自己の内容を与えるという意味に於て直覚的であるが…」。
佐野
まずは、そこまでで考えて見ましょう。「自己の内容を与える」というのは以前、どのような原理と呼ばれていましたか?

C

「所与の原理」です。
佐野
そうですね。因みに西田は「自己自身に同一にして自己の内容を与える」ということを「直覚的」と表現していることがこれで分かります。続いて何と書いてありますか?

C

「自己自身の内容を含み之について述語するという意味に於て一般概念的でなければならぬ」とあります。
佐野
ここで主語と述語が転換しますね。そうしてそこから無限の哲学的語りが可能となるだけでなく、哲学的に語らなければならない、そのように西田は考えます。「数学的知識」については何と書いてありますか?

C

「特殊的内容を与えるものが同時に限定せられた一般概念であると云うことができる」とあります。
佐野
そうですね。特殊的内容、例えば5を与えるものが「数」という「限定せられた一般概念」、あるいは「三角形」を与えるものが「平面図形」という「限定せられた一般概念」だということですね。経験的な「事実的知識」についてはどうですか?

C

「経験内容について述語する事実的知識という如きものに至っては、我々は数学的知識の如き意味に於て具体的一般者を限定することはできぬ、具体的一般者に於ける主語的方面と述語的方面とが分裂するのである」とあります。
佐野
そうですね。経験的な事実的知識の場合には、数学と違って「具体的一般者」を対象としているけれども、数学のように純粋直観を用いて(観測するなどの経験によらずに)直ちに知識を得る、というわけにはいかない、経験的直観による外はない、ということですね。

C

「具体的一般者に於ける主語的方面と述語的方面とが分裂する」というのがよく分かりません。
佐野
経験的な事実認識の場合には、主観と客観が分裂し、「主語」となるものは「客観」として与えられなければならず、これについて「主観」が述語するという形で判断が成り立つということだと思います。

C

ありがとうございます。
佐野
どういたしまして。今日はここまでとしましょう。
(第107回)
Tweet about this on TwitterShare on Facebook

著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

年別アーカイブ

カテゴリー

場所
index

rss feed