変ずるものに於いて時を考える
- 2026年2月7日
- 読書会だより
岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「三」の第6段落を読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「時は数学的連続から変ずるものに至る限界をなすのである、両者の中間に位するものである。」(344頁8行目)および「真に変ずるものに至っては、性質的なるものが主語的となり形式的なるものが述語的とならねばならぬ」(344頁4〜5行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「西田は、「変ずるもの」という個物的・流動的な具体存在を、我々がどう「考え」語りうるかを問う。彼は、これを固定的な「形式的時」(数学的連続)では捉えられないとし、「時」をそれ自体が「数学的連続から変ずるものに至る限界」として再定義する。つまり、「変ずるもの」そのものと思惟とを結ぶ、動的な「時の形式」によってのみ「変ずるもの」を語り得るのだと説く。この「時」という形式において初めて、「変ずるもの」そのもの(例:読書会という個物)が主語となり、「○時に起こった」という「形式的なるもの」が従う述語となる。これが、直観される「変ずるもの」そのものを概念的思考へと媒介する西田独特な仕組みである。『では、存在そのものの意味は、必ずこの「限界」としての「時」、つまり<流れる思惟形式>を通してしか我々に現れないと言えるのか。この形式を離れた存在の直接的顕現は、原理的に不可能なのか』」(385字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
考察がまずあって二重括弧の部分が問いですね。その部分だけ扱いましょう。問いはさらに「存在そのものの意味は、変ずるものとしてしか現れないのか。存在そのものの知的直観は不可能なのか」と言い換えることができると思います。個物の知的直観から出発し、これを判断にもたらす場合に、主客が分れて、主語である個物が「変ずるもの」という感性的直観となり、述語が「意識」(無の場所)となる、というのがここでの西田の立場です。この場合「変ずるもの」は〇〇である、と積極的に限定することはできません。例えば「現在はいつでも否定的」で、「之を現在として肯定した時、既にそれは過去でなければならない」(345頁14~15行目)、ということになります。人間に知的直観を認めない立場からすれば、こうした立場に立つほかありません。
R
私は「存在そのものの意味」の直接的な顕現をどこまでも求めたいと思います。
はい、頑張ってください。ところで、私はこの問いで、次のような話を思い出しました。唐代の禅僧に徳山という方がいて、若い頃は『金剛経』に通じていたので「周金剛」とまで呼ばれていました。南の方で禅などというけしからんものが流行っているので、これをとっちめてやろうと、出かけてきたのですが、途中の茶屋で点心を注文したところ、そこの婆やに「『金剛経』には「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という語があるはずだが、お前さんはどの心でそれを食べるのか」と聞かれ、まったく答えられず、後に開悟して、「徳山の棒、臨済の喝」と言われるような有名な禅僧(今でいえば暴力坊主)になった、という話です。
R
「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」とはどういうことですか?
過去の心は過ぎたものでもう存在しない、未来の心もまだ来ないので存在しない、現在の心はこれだと思った時にはすでにそこにないので存在しない、ということです。ところが我々は現在の心があると思って、その心で食べているつもりになっている。こちらから心を持ち込んで食べに行っている。たとえば点心とはこんな味だ、というような先入見を持ち込んで、それを食べに行っている。これでは他ならぬその点心を食べたことにはならない。Rさんの言葉で言えば、存在そのものの意味に触れたことにはならない。これはどんな場合でも言えますね。話を聞く場合も、こちらから先入見を持ち込んで「聴き」(「聴」という漢字は「耳」を「直」に向ける、「聞きに行く」というつくりになっています)に行っている。そうするとその先入見の網にかかるものしか聞こえません。
T
そう言われると、本当に食べているのかどうか、よく分かりませんね。
N
我々は「変ずるもの」をすでに「生きている」と思います。どうしたら食べられるか、などとへ理屈をこねる前に、とにかく食べている。たしかに我々は思考の補助線に頼らざるを得ないが、それに囚われると、ゼノンのパラドクスや徳山の点心のようになる。それを超えたところに具体的一般者の生き方がある。時間について言えば、時間に縛られるのではなく、むしろ、社会生活を営む上で、これを利用する、というのが大事なのでは?
T
「思考の補助線にすぎない」というのは納得がいきます。過去・現在・未来といった思考の補助線をなくせば、現在しか残りませんが、そうなると現在すらない。
思考の補助線をなくそうとすること自体、思考ではありませんか?
T
それはそうですが、私は時間だけでなく、知識も人間が自分のために利用するツールになると思います。私はワインのことは詳しくありませんが、ワインを語る言葉に馴染んでいくうちに多彩な味がわかってくるというような。
以前出て来た、色に関する言葉を三つしか知らないと、色は三色にしか見えないのと同じですね。そうなると結局、そうした知識を先入見として経験している、ということになりませんか?それではやはり、存在そのものの意味に触れているとは言えないのでは?存在そのものの意味に触れる、とはそうした先入観が破れ、例えば何とも形容のできない、言葉にならない味に出会うとか、そういうことになるのでは?しかし、そうした体験はこちらから狙ってできるものではない。とにかく食べる、というような気合いで簡単に突破できるものではないように思えますが。(例えば私は剣道をしていますが、そのつど剣道とはこういうものだ、という投げ入れなしに行為はできません。しかしそれでは剣道における存在そのものの意味に触れてはいない、それは大いに実感するところです。)
T
それでもそこに至るトレーニングのようなものは必要な気がします。
W
こうした問題はすべて食べてしまってから起るものだと思います。食べてしまってから、それがどこまでも言葉にならない経験だということになるのだと思います。ただ同時に我々が日常的に食べているということが、食べるということそのものの意味に届いていない、ということの反省も大切で、そのこともそうした経験には含まれていると思います。
なかなか面白くなってきましたが、プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。
A
読む(344頁11行目~345頁1行目まで)
まず「時によって又時に於て変ずるものを考えるのではなく、変ずるものによって又変ずるものに於て時を考えるのである」と、このあたりでの結論がまず述べられます。個物を知的に直観するのは「具体的一般者」においてですが、これを知識(判断)にもたらすためには、主語方面(客観)と述語方面(主観)の対立が不可欠で、この主語方面に「変ずるもの」が、述語方面に「限定することができない」という意味で「否定的な」一般者が成立することになります。この「否定的一般者」は後で出て来ますが「意識面」のことです。次に行きます。「かかる一般者」、つまり「否定的一般者」ですね、これは「唯我々の反省の極致に於てのみ到達し得る」とありますね。「反省の極致」ですから「反省」(主客の対立)が破れたところ、つまり知的直観ですね、「そこに於てのみ到達し得る」と。どういうことかというと、知的直観において成立する「具体的一般者」の述語面が「否定的一般者」だということです。次に「前にも云った如く」と出て来ますが、「前に」とは342頁11行目から15行目を指していると考えられます。この箇所は、数学(幾何学・代数)における「純粋直観」に基づく「先験的知識」との対比で、「経験的直観」に基づく「経験的知識」について論じた箇所です。そうして「此場合に於ては」と続きます。「此」が何を指すかは難しいところですが、知的直観に到達して、なおこれを判断(知識)にもたらすケースを指していると考えられます。その場合には「判断的知識の主語的方面と述語的方面とが分裂し主観と客観とが相対立する」ことになります。そうして「否定的一般者は意識面として唯、反省的にのみ限定せられるのである」と続きます。また「反省」が出て来ましたね。意識面(否定的一般者)は、知的直観において成立する具体的一般者を反省することによって成立する、ということです。次をBさん、お願いします。
B
読む(345頁1行目~9行目)
まず「私は主語的基体としての一般者と超越的述語面としての一般者としての一般者とを何處までも区別すべきであると思う」と、判断成立に欠かせない主語と述語の対立について述べますが、「主語的基体としての一般者」という表現に驚かされます。「主語的基体」とは「個物」のことですが、それが「一般者」と呼ばれているからです。これは後(347頁15行目~348頁8行目)にも出て来ますが、個物が様々な性質をもちうる、という意味で「一般者」と呼ばれていると考えられます。さて、こうして主語面に「主語となって述語とならないもの」、述語面に「述語となって主語とならないもの」が考えられることになります。次に「具体的一般者の根柢」と出て来ますね。
B
「具体的一般者」のさらに根柢があるということですか?
一般的な知識の根柢となる部分的な「具体的一般者」、これは後で「構成的一般者」という名で出て来ますが、それならば「さらに」その根柢がありえますが、知的直観の「具体的一般者」の場合は、それ自体が全体ですから、さらなる根柢はありえません。その場合は、「具体的一般者」内での、述語的方面における根柢、というように考える外はないと思います。そうした「具体的一般者の根柢となる一般者」が「限定することのできないものとなる時」、つまり「否定的一般者」になる時、「かかる超越的述語面に於てあるもの」、つまり「個物」ですね、これが「いかなる意味に於ても主語的に限定することはできぬ」ものになる、つまり「経験的(感性的)直観」になる、積極的にこれ、と言えないものになります。例えば「この塩」が知的に直観されていて、これを判断にもたらす場合に、主述が分れる。主語面にどこまでも限定できない「感性的直観」が、述語面にどこまでも限定できない「意識面」(否定的一般者)が成立する、ということです。さきほどと同じことが繰り返し述べられていますが、ここまでで分からないところはありますか?
B
大丈夫です。
では、そのような個物はどのようにして知識になるか、が次に述べられて行くことになります。まず「唯その否定的一般者即ち所謂意識面に於て(一般概念によって)部分的(主観的・抽象的)に限定し得るのみである」と述べられます。感性的直観としての「この塩」はどこまでも限定できない(述語づけができない、語り尽くせない)ものですが、「色は?」と聞かれれば「それは白い」というように限定できます。この場合の「色」が「一般概念」に当たります。この土俵の上で、カテゴリーによって我々は知識を「構成する」(作り上げる)ことができます。そうしてそれが意識面に映される、つまり地に対する図となって意識される、ということです。ここまでは?
B
ついていけています。
次を読みます。「超越的述語面が主語を包むと考えられる時」、「超越的述語面」の「超越」とは「主語」を超越しているという意味ですが、それが「主語を包む」となると、この一般者は否定的ではなくなって、「具体的一般者」となります。その場合の「包囲面」、つまり限定された範囲が先ほどの例で言えば「色」といった「一般概念」になります。この土俵の上で知識が構成されるので、この一般者が「構成的一般者」と呼ばれます。全体としての具体的一般者の内部に、部分的な具体的一般者ができた形ですね。それ(図)が意識面(地)に映される、つまり意識される。「その背後はいつも否定的一般者たる意識面を以て裏付けられて居る」と述べられることになります。そうして「超越的述語面に於てあるもの」、「個物」ですね、これが「構成的一般者」(一般概念)によって範疇的に構成せられて、これが部分的(主観的・抽象的)に意識面に映される、というわけです。ただそれはどこまでも部分的な知識でしかない。「この塩は白い」という知識はもちろん部分的です。「その物自身」つまり「物自体」の知識ではない。「物自体」は知識的に限定することはできない、ということになります。次をCさん、お願いします。
C
読む(345頁9行目~346頁3行目)
今度は「時」に話が移ります。まず「我々は直に時の一般者というものを限定することはできない」、つまり「時の一般者」が「否定的一般者」(意識面)であることが述べられます。これを直に限定しょうとするとアンチノミーに陥ります。この辺の叙述は343頁8行目~10行目の繰り返しです。そこで「現在」から出発することになりますが、「現在とは時の一般者に於ての個物」だとされます。ただ「個物」と言ってもここではもはや知的に直観できるものではなく、「感性的直観」になっていますから、どこまでも限定できません。そこで「現在は個物的といっても単に自己に同一なるものではない、否単に特殊化の達することのできない尖端と考えるも尚その意義を尽すことはできない。時の基体となる一般者(「時の一般者」のこと)は否定的なるが故に(否定的一般者、意識面であるが故に)、此に於てあるものは自己同一として肯定的たることはできない」と述べられます。要するに「現在」が「感性的直観」で、「時の一般者」が「意識面」で、どちらも限定できない、ということです。「個物的なるものが自己同一と考えられるには、之を包む一般者が積極的に限定せられたものでなければならぬ」、つまり「具体的一般者」でなければならないが、「現在」の場合はそうなっていない、ということです。ここまでで分からないところはありますか?
C
大丈夫です。
次を読んで見ましょう。「時の連続の要素たる現在はいつでも否定的である(主語的に積極的に限定できない)、之を現在として肯定した時、既にそれは過去でなければならない、此故に時は流れるものと考えられるのである」。最初に紹介した徳山禅師のことが想起されますね。無心で点心を頂けばよいのですが、それを反省すると、点心を頂けなくなってしまう。現在心というものがどこまでもつかめないからです。「無心で頂けばよい」と思っただけでもう取り逃がしている。我々の行為(意志)は言語による思考(反省)によって成り立っているので、これはもうどうしようもない。気合いでどうにかなるものでもない。むしろ気合いなどは捨ててしまって荘子の「木鶏」のようになった方がよいかもしれない。しかしそれとてすでに頭で考えている。対象化できない、説明的反省的言語以前ものとの、言語による対話をどこまでも深めて行くほかはありませんが、次第にわかってくることは、そもそもどこまでも分からないもの、どうにもならないものを、言葉を通じて自分のものにし、自分の思い通りにしようとする、煩悩というか、思い上がりのようなものが人間の在り方の根本にあるということです。そのことに身が頷くとともに、どこまでも分からないものに対して自然と頭が下がる、こうしたことが起り得る、ということです。だからご飯は餌のように我が物顔にがつがつ食べてはいけない(笑)。もちろんこれもすでに頭で考えていますけれどね。次を読んで見ましょう。どこからでしたか?
C
「形式的時」からです。
ありがとうございます。さきに「時」が「数学的連続」と「変ずるもの」との中間にあるとされましたが、ここではその「時」がむしろ「形式的時」として述べられています。この「形式的時」とは形式(前後・同時といった数学的連続)が「主」で、性質(内容)が「従」、ないし「述」となっているものでした。これに対し、「真に変ずるもの」が「内容ある時」とされ、そこにおいては性質(内容)が「主」で、形式が「従」ないし「述」になっています。そうして「形式的時」においては空間化された時ですので、「尚現在の方向が唯一的に限定せられない」のに対し、「内容ある時」は「唯一の方向」つまり、過去から未来へと非連続の連続的に流れるものとなります。こうした「変ずるもの」としての「内容ある時」が、「時の範疇」(時の形式)によって、例えば「感覚的性質」というような「一般概念」(「構成的一般者」)の土俵の上で構成され、部分的に意識面に映される(意識される)ことになります。今日はここまでとしましょう。
(第111回)

