変ずるもの/連続的なもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「二」の第5段落337頁7行目「以上論じた所によって、」から338頁9行目「変ずるものとなるのである」までを読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「連続的なるものも個物である、単に自己同一といふより尚一層個物的と考へることができるが、連続的統一とは内に無限なる特殊化を含んだ一般者でなければならぬ、無限なる包摂的関係をその一般的根元に還って見た時、連続的なものが考えられるのである。併しかかる還源的方向を何處までも進めて行って、主語となって述語とならないものと反対に、述語となって主語とならないという意味に於て包摂的関係を超越した述語面に撞着した時、かかる場所に於て変ずるものが見られるのである」(337頁13行目~338頁3行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「337 頁「連続的なもの」としての「個物」があり、338 頁「変ずるもの」としての「個物」が出てくる。「連続的なもの」の方向=一般的根元に還る方向をどこまで進めていっても、「包摂的関係を超越した述語面」に「撞着した時」、かかる場所に於て「変ずるもの」が見られるのであるとされる。ここでは、「連続的なもの」と「変ずるもの」の間に、絶対無の場所への転換と同時にそこに於いてある真の個物が見られる。「連続的なもの」と「変ずるもの」はどう違うのか?それぞれの背後に横たわれる一般的なるもの、或いはそれが於いてある場所は違うのか?」(254字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
「連続的なもの」と「変ずるもの」は別のものとお考えですか?

R

はい。どちらも個物ですが、その背後になるものが異なります。「変ずるもの」としての個物の背後にある一般的なものは絶対無ですが、「連続的なもの」としての個物の背後にある一般的なものは、実体化された絶対無です。

N

「変ずるもの」が個物で、「連続的なもの」が一般的なものではないですか?
佐野
普通はそのように考えられますね。そうして「変ずるもの」は「連続的なもの」がなければ考えることはできません。そこで両者がどう関係するかが問題になって来ると思いますが、ここで問題になって来るのが、「主語と述語とは転換する」ということです。Rさんの解釈にはこの視点が欠けているように思われます。通常の包摂的判断では、主語の側に来るのが個物・変ずるもので、述語の側に来るのが一般的なもの・連続的なものです。しかしこの判断が破れる。個物が真に個物となり、変ずるものが真に変ずるものになります(富士山といった実体内の、あるいは色一般といった概念内の変化ではなく、生滅といった徹底した流転になる)。それと同時に、一般的なものも真に一般的なものになります(実体としての富士山や色一般というような抽象的一般者が真の全体としての具体的一般者になる)。こうして連続するものが真に連続するものとなる。さらにそこでは主語と述語が同一となることを通じて転換し、一般者の自己限定として個物が立ち上がることになります。

R

そのことと「変ずるもの」が「絶対無の場所」に「於てある」とはどう関係しますか?
佐野
その場合「絶対無」をどう考えるかが問題だと思います。「変ずるもの」を「有」、「絶対無」を「無」と考えると、この「絶対無」は有無対立の無になってしまいますね。

N

この絶対無は、非連続の連続のようなもので、あらゆるものが区別されながら結合子によって繋がって(通じ合って)いるようなそんなあり方ではないでしょうか。
佐野
絶対無とは具体的一般者にほかならないと。面白いですね。プロトコルはこのくらいにしてテキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(「三」第1段落)
佐野
「時は変ずるもの」で「変ずるものはすべて時に於て変ずる」とすれば、「時の概念と変ずるものの概念とは如何なる関係に於て立つ」かが問題になる、ということです。ここはそのまま受け取っておきましょう。Bさん、次をお願いします。

B

読む(「三」第2段落)
佐野
ここは「二」の最後で言われたことを簡潔に要約した箇所ですね。「変ずるもの」を考えるには「具体的一般者」の概念から出立しなければならない。その「具体的一般者」とは「特殊と一般の系列」、つまり包摂的関係を含んだものだが、それは「主語と述語との判断的関係」を含んでいると。それによって「唯一なるもの」、個物ですね。これが考えられる。「自己に同一なるもの」、「主語となって述語とならない特殊化の尖端」も同じ(個物)です。そうしてこうした「特殊化の尖端にまで達すること」が「具体的一般者が自己自身に還る」ことだと。一般者は抽象的一般者としてはどこまでも特殊(さらには個物)と対立します。しかしそのように特殊(個物)と対立する一般者は特殊と並ぶそれ自身特殊なものであって、真の一般者ではありません。これはヘーゲルに学んだものだと思いますが、一般者が個物になることによって、一般者も真に一般者(具体的一般者)になるということです。ここまでで質問はありますか?

B

大丈夫です。
佐野
そのように「具体的一般者が自己自身に還って見た時」、その時が「一般的なるものが主語となって述語とならない基体として考えられた時」だというのです。「基体」は「主語となって述語とならない」とありますから、さしあたり「個物」でいいと思います。それが同時に「一般的なるもの」であり、そこにおいて「連続的なるもの」が考えられるので「基体」と呼んだのでしょう。いずれにしても具体的一般者のことです。次はちょっと読みにくいですね。何と書いてありますか?

B

「変ずるものの根柢にも、何かの意味に於て連続的なるものがなければならぬ、かかる連続的なるものがもはや抽象的概念として限定することができないと考えられる時、我々は之を変ずるものと考えざるを得ないのである」とあります。
佐野
最後の「之」は何を指しますか?

B

「連続的なるもの」ではないでしょうか。
佐野
「連続的なるもの」が「変ずる」のですか?まあ、「具体的一般者」ですから結局はそれでもよいことになりますが、もう少し普通に読めないか考えて見ましょう。この文の冒頭にある「変ずるもの」を「一般に変ずるものと考えられているもの」と考えて見ましょう。「変ずるものの根柢にも、何かの意味に於て」とありますから、むしろそのように読んだ方がよいと思います。その場合でも「連続的なるものがなければならぬ」、となります。そうして「かかる連続的なるもの」は通常、富士山というような実体にせよ、色一般にせよ、抽象的概念として考えられているけれども、それがもはやそういうものとして限定することができないと考えられる時、「我々は之を」、すなわち「変ずるもの」(一般に変ずるものと考えられているもの)を〈真に〉「変ずるものと考えざるを得ない」と読むのです。つまり富士山というような実体を持ち込んで、それが初冠雪となったとか、色一般という抽象概念を持ち込んで、色が緑から赤に変わったとか考えるのは、真に変化を考えたことにならないということです。富士山という実体や色一般という変化しないものが残っているからです。Bさんが就職する、というのも一つの変化ですが、その場合Bさんという実体(個体)が変化しないものとして変化の基に置かれています。そうではなく、変化を考えるとはBさんが死ぬということまで含めて考える、徹底した生成変化、流転の中で考えるということでなければ変化を考えたことにはならない、ということだと思います。次へ参りましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(「三」第3段落)
佐野
「変ずるもの」の根柢に「連続的なるもの」、「一般的なるもの」がなければならないが、それは抽象的な「一般概念」として限定できないものでなければならない、とこれまで述べられたことが繰り返されています。この一般者は「具体的一般者」でなければならない、ということです。さらにこの「一般概念として限定できないもの」が「非合理的なるもの」と呼ばれていますね。これも合理と対立する非合理的なものではないでしょう。そういう「非合理的なるものの合理化」によって「変ずるものの概念」が成立する、とされます。しかしここで西田は次のように問いを立てます。「限定することのできない一般的なるものとは何を意味するか」、「非合理的なるものの合理化とは一種の矛盾ではなかろうか」と。どちらも「具体的一般者」に関わる問いです。前の方の問いは、「具体的一般者へ」の問い、後の方は「具体的一般者から」の問いと言えると思います。そこで西田は「私は是に於て具体的一般者というものについて考えて見なければならない」と述べます。ここまでで何か質問はありますか?

C

特にありません。
佐野
それでは次を見て見ましょう。「具体的一般者とは抽象的概念を越えて之を内に包むものである」とあります。「之」とは?

C

「抽象的概念」です。
佐野
そうですね。単に「内に包む」のではなく、「越えて」包む。ここに超越があります。先程の「一般概念」として限定することができない、ということですね。これは単に不可能を言っているのではなく、これまでの一般概念が破れるという体験ですね。こうした体験だからこそ、「自己の内に所与の原理を蔵し自己の内容を与えることを意味する」ということになります。

C

「所与の原理」とは、経験内容は与えられなければならないということですよね。
佐野
そうです。通常は認識主観にとって経験内容はその外から与えられなければならない、という意味です。しかし西田は「所与の原理」ということで、経験内容を与える原理一般を考えているようです。これを、カント的に認識主観の外から与えられる場合と、内から与える場合とに分けて考えていますね。カント的な「所与の原理」は主観と客観の対立を前提していますが、西田は主観と客観が分れる以前の所から考えようとします。もっともカントからすれば、そのように考えようとするところで、主観と客観が分れる以前の所が「与えられたもの」になると思います。これはたんなる立場の違いというのではなくて、人間が一方で思考(「ついての言葉=反省・説明」)以前を生きながら、他方で思考を一歩も出ることができないという、人間そのものが抱える矛盾として考えなければならないと思います。どちらが正しいという問題ではない。

C

ありがとうございます。
佐野
次に行きましょう。具体的一般者が「自己の内に所与の原理を蔵し自己の内容を与える」ということを言い換えて「自己の内に特殊化の原理を含み自己自身の主語となる」と述べています。体験内容を主語として、これに述語を与える、言葉にする。これが「特殊化の原理」と呼ばれています。体験が一般概念を破って(超越して)成立したものですから、一般概念をいわば止揚された仕方で含んでいる。無限なる言葉として蔵している。だから言葉になる、これを「特殊化の原理」を含んでいる、と言っているのだと思います。次に「一般概念」の話が出て来ますね。

C

色と数学ですね。
佐野
そうです。色の場合は「所謂抽象的概念」と呼ばれています。その場合でも「所与の原理」が必要ですが、この「所与の原理」は外から与えられなければならないという意味です。「色の概念的関係を構成するものは客観的に与えられる色自体の体系」だとされます。「色の概念的関係」は主観によって「構成」されますが、そのためには「色自体の体系」が客観的に与えられなければならない、ということです。しかし「色の一般概念が直に色自体ではない」と言われます。例えば「赤」という言葉は一般概念ですが、感覚される赤はどこまでも言葉に言い表すことのできないものです。「数学的概念」の場合はどうですか?

C

「一般概念が同時に自己の特殊的内容を与える」とあります。
佐野
そうですね。「一般概念」が「特殊化の原理」を含むということです。言い換えれば「自己自身が所与の原理となる」ということです。

C

どういうことですか?
佐野
例えば「自然数」という一般概念が直ちに、1,2,3,…という特殊を含む、ないし与える、ということです。

C

次に「斯くあるということと斯くあらねばならぬと云うこととが一である」とあるのもよく分かりません。
佐野
「斯くある」が特殊で、「斯くあらねばならぬ」が一般(概念)です。数学、例えば数の場合は、5(特殊)がそのまま数(一般)です。「この5」というものはありません。「色」の場合は、この赤(斯くある)と「赤」という言葉(斯くあらねばならぬ)は一致しません。

C

分かりました。
佐野
次いで「此故に具体的一般者の根柢には直覚的なものがなければならぬ」とありますが、「此故に」が何を指しているのかはっきりしませんね。「色」のような経験的概念の場合には「感性的直観」、「数学」の場合には「純粋直観」が必要だ、ということ、つまり総じて一般概念の場合でも直観がなければならない、ということを受けているのかもしれません。「具体的一般者」の根柢にある「直覚的なるもの」は「知的直観」ということになると思います。次に「抽象的一般概念」とあるのは、さしあたり「色」の如き、経験的な一般概念のことでしょう。そうした概念から見れば「具体的一般者と考えられるものは既に超越的なるものを含んで居る」とは、経験的な一般概念を破ったところに「具体的一般者」が開ける、ということだと思います。しかし数学的な一般概念といえども限定された一般概念である以上、そうした概念から見れば具体的一般者は超越的なるものを含んでいる、と言えます。そうして「而もそれが概念的と考えられるのは述語的なるものが主語となるが故である」とありますが、「それ」とは?

C

「具体的一般者と考えられるもの」だと思います。
佐野
そうですね。一般的概念を破って開ける具体的一般者は、一般概念を越えるという仕方で一般概念を内に包んでいますから、こうした述語的なるものが主語となることによって、それについて述語することができる、つまり概念的に語ることができる、ということになります。

C

「主語と述語が転換する」ということですね。
佐野
そうです。テキストでは続けて「少くとも直覚的なるものが述語的なるが故である」と書かれてあります。「少くとも」とありますから、これは直覚的なるものが、述語となり得るもの、言葉になりうるものという意味でしょう。直覚をともなう体験には一般概念の言葉がぎっしり詰まっており、それが言葉にされることを待っている、そんな感じですね。逆にそうだからこそ、言葉にするのが難しい、ということもありそうですね。ですがそうだからと言って、この直覚的体験を「全然非合理的として述語することのできないもの」としてしまえば、それは「概念的知識と無関係」となります。そういう立場を掲げる人もいます。

C

どういう人たちですか?
佐野
「宗教の立場」に立つ、と明言(断言)する人たちですが、これはもう時代や宗派を超えて存在しますから、これも「人間」の本質に関わる問題とみてよさそうです。そういう人たちは哲学を宗教より低いものと見て、哲学に敵対的な態度をとるか、哲学を(理屈と見て)見下します。自分が出会ったもの、自分を虜にしたものだけが真実で最高だとする立場ですが、これはもう、宗教に限らず、「人間」にとってどうしようもない問題かもしれません。しかし人間とはそうした存在であること、さらにそうした立場に立つということも分別的な言葉によってそうしている、ということは、そうした人々も自覚すべきだと思います。実際、禅宗の「不立文字」というのもすでに「文字」です。

C

それに対して、西田の立場は次に見られるように「直覚的なもの」は「概念的知識の基礎となる」、つまり直覚的体験は哲学の基礎となる、ということでしょうか?
佐野
哲学から宗教へ、そうして宗教から哲学へ、というような立場だと思いますが、西田自身は宗教の立場に立って哲学を展開するというような、いわゆる「宗教哲学」の立場に立っているとは考えていなかったと思います。あくまで自分は哲学者であると考えていたと思います。その場合の哲学というものが直覚的な体験に基づく哲学、ということになります。ただし西田は根本経験、つまり判断(「についての言葉」=反省・説明)以前の体験の直覚を疑いませんが、ここは難しいと思います。

C

どういうことですか?
佐野
中島敦に『名人伝』というのがありますが、弓の名手が辿り着いた究極的な境地というのが、もはや目の前にある弓を認識できない在り方だというのです。しかし彼に弓を持たせれば、おそらく素晴らしい射を放つと思います。しかしそれについて語れない。体験の根本にはこの「語れない」ということがついて回る。我々がすでにそこを生きているところのものは、決して我々に顕わにならない、という側面が西田の哲学にはあまり感じられない。さらに言えば、人間は自分が生きているところの根本から目を背けるということがあります。日常的な生において我々は常に「死」から目を背けています。これはもうどうしようもない。私は先日交通事故に遭い、脳震盪を起して3時間くらい記憶がなかった。しかし自分で歩いて救急車に乗り、自分の生年月日と自宅の電話番号を正しく救急救命士の方に伝えたというのです。ただまったく記憶がないので、「語れない」。もう名人の境地ですね。それと同時に面白いのは、事故直前、さらにはもう少し前の記憶も消されている、ということです。もうこれはおそらくとしか言いようがありませんが、恐ろしい体験を無意識のうちに封じ込めてしまったと考えられます。封じ込めること自体も無意識ですから、これはもうどうしようもない。こういう生のレベルでの出来事を人間は認識できない。人間の根源的な生は、人間の最高の境地でもあり、痴呆の状態でもあり、人間が決して直視できないものでもあり、これらが一つになっているのですが、西田哲学にはこうした側面があまり語られていないように思われます。まあ、これだけ謎に満ちて危険なものであれば、たしかに見たくなることも、求めてしまう(愛智=哲学)のも分かる気がしますが。脱線はこれ位にしてテキストに戻りましょう。テキストでは段落の最後に、「具体的一般者」と「数学的知識」、経験的な「事実的知識」とが比較されています。「具体的一般者」についてはどう語られていますか?

C

「具体的一般者は自己自身に同一にして自己の内容を与えるという意味に於て直覚的であるが…」。
佐野
まずは、そこまでで考えて見ましょう。「自己の内容を与える」というのは以前、どのような原理と呼ばれていましたか?

C

「所与の原理」です。
佐野
そうですね。因みに西田は「自己自身に同一にして自己の内容を与える」ということを「直覚的」と表現していることがこれで分かります。続いて何と書いてありますか?

C

「自己自身の内容を含み之について述語するという意味に於て一般概念的でなければならぬ」とあります。
佐野
ここで主語と述語が転換しますね。そうしてそこから無限の哲学的語りが可能となるだけでなく、哲学的に語らなければならない、そのように西田は考えます。「数学的知識」については何と書いてありますか?

C

「特殊的内容を与えるものが同時に限定せられた一般概念であると云うことができる」とあります。
佐野
そうですね。特殊的内容、例えば5を与えるものが「数」という「限定せられた一般概念」、あるいは「三角形」を与えるものが「平面図形」という「限定せられた一般概念」だということですね。経験的な「事実的知識」についてはどうですか?

C

「経験内容について述語する事実的知識という如きものに至っては、我々は数学的知識の如き意味に於て具体的一般者を限定することはできぬ、具体的一般者に於ける主語的方面と述語的方面とが分裂するのである」とあります。
佐野
そうですね。経験的な事実的知識の場合には、数学と違って「具体的一般者」を対象としているけれども、数学のように純粋直観を用いて(観測するなどの経験によらずに)直ちに知識を得る、というわけにはいかない、経験的直観による外はない、ということですね。

C

「具体的一般者に於ける主語的方面と述語的方面とが分裂する」というのがよく分かりません。
佐野
経験的な事実認識の場合には、主観と客観が分裂し、「主語」となるものは「客観」として与えられなければならず、これについて「主観」が述語するという形で判断が成り立つということだと思います。

C

ありがとうございます。
佐野
どういたしまして。今日はここまでとしましょう。
(第107回)
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矛盾的統一から具体的一般へ

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「二」の第4段落336頁2行目「勿論一般が特殊を含み特殊が一般に於てある」から337頁6行目「具体的一般に転ずるのである」までを読了しました。今回のプロトコルはNさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「包摂的関係から云えば最後の種を尚一歩特殊化の方向に進めたものであるが、矛盾的統一としては種差を含むものとなる。是に於て抽象的一般から具体的一般に転ずるのである」(337頁5~6行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「「包摂的関係」とは、「一般が特殊を含む」ような「抽象的一般」である。この「特殊化の方向」に「主語と述語との関係を結びつけて考えるなら」、その「先端」において「一般と特殊」が「特殊と一般」との関係に「転換し得る」とともに、 両者の立場は「同等」にして「種差を含む」という「矛盾的統一」となる。その上で、「主語的なるものが却って一般的として述語的なるものを包む」。即ち、《特殊がむしろ一般を包み込む》ところの「具体的一般に転ずる」と解してよいか」(219字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
論理的にとても明晰に整理されていますね。こうした整理はかなり読み込まないと出て来ないと思います。抽象的一般(一般・述語>特殊・主語)―矛盾的統一(一般・述語=特殊・主語)―具体的一般(特殊・主語>一般・述語)という3項から成る推理式で、「矛盾的統一」が媒介項となっていますね。皆さん、何か質問がありますか?

Y

その場合、転換を成しうる理由は何ですか?

N

同じであって違うといった矛盾、即非の論理と言ってもよいが、説明できない論理です。

Y

私は転換の論理はまさに「AはAである」という「同一律」だと思います。それによって一般と特殊、述語と主語が転換しうるのですから。

N

いや、A(主語)とA(述語)は違うとも言っている。異なるのに同一だと言っている。これは矛盾で、これを論拠にするのは不完全な論理と言わざるを得ない。

R

抽象的な論理で統一できる矛盾は真の矛盾ではないと思います。ここでは真の矛盾を捉える東洋的な論理が問題になっていると思います。

S

我々が包摂的関係という抽象的な論理でしか考えられない以上、その論理を個物にまで突き詰めていけば、「これはこれだ」としか言えなくなる。これは抽象的な論理からすれば矛盾で、具体的一般への移行は避けられないのでは。ここで問題なのは、このことで西田が何を言おうとしているのか、指示しているものはなにか、といった「効果」だと思います。
佐野
そのためには、抽象的論理にせよ、即非の論理にせよ、そういった論理を予め携えて事柄に当たるのではなく、まずは「転換」という事実そのものに目を向けることが肝要だと思います。我々は通常、〈富士山は山である〉、というような抽象的な判断(包摂的関係)の中で考えています。もう一段階一般的にすると、〈山は地形である〉、という判断が考えられます。その場合、地形が一般で山は特殊になります。地形は山や平地などの特殊(種差)を可能性として矛盾的に含んでいますが、このうち山を取ると、今度は山を一般とした判断が成立することになります。たとえば〈富士山は山である〉がそれです。この場合、富士山は個物ですが、この判断自体は包摂判断です。西田はここをもう一歩先に進めようとします。それが「主語となって述語とならない」です。それによって個物の領域に超越すると言うのです。こうなると〈富士山は〇〇である〉とはもう言えない。どれほど言っても言い尽くせない個物としての〈富士山〉が立ち現れる絶句の瞬間です。その時の我々の言葉が〈富士山は富士山だ〉ということになります。しかしこの言葉はそれだけ取り出せば、何も言っていない。同語反復です。絶句の時の言葉とはこうした無意味な言葉でしかありえない(美しさの原因を美しさそのものに求めて「美しさによって美しいのだ(美しいから美しいのだ)と愚直にも述べたイデア論にも通じるものがあると思います)。しかしそれは個物としての〈富士山〉が立ち現れた感動の言葉です。そこで何が起こっているのか、西田はそこを考えようとしているのだと思います。ここまで、いかがですか?

N

続けてください。
佐野
富士山が〈富士山〉として立ち現れるのは、世界(全体)とともに立ち現れる時です。抽象的な判断が破れて、抽象的な思考の言葉が黙る時、特殊(個)と一般の抽象的な対立も、特殊(個)と他の特殊(個)の抽象的な対立もありませんから、〈富士山〉はそうしたすべてのものとともに、それらと同一でありながら、同時にそれらの否定として立ち現れていることになります。〈即非の論理〉を用いて言えば、〈富士山は富士山でない(富士山でないすべてのものと同一である)、それ故に富士山である〉となります。こうした論理は事実的な経験に基づいたもので、外から当てはめるような論理ではありません。富士山が他のすべてのものに支えられながら、それらの否定として現成している、ということの表現としては、「述語的なものが主語となる」ということになるのでしょう。

N

それは一般者が主語となり、それが自己限定するという意味ですか?そうなると後の〈永遠の今の自己限定〉にも通じそうですね。
佐野
そうですね。一般者の自己限定です。プロトコルはこのくらいにして、本日の講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(337頁7行目~338頁9行目)
佐野
また「変ずるもの」が出て来ましたね。334頁1行目で「変ずるものの根柢にある変ぜざるものとは此の如き一般者でなければならぬ」とあったのに、「例えば」と来て、急に「個色」が話題になったように、ここでもずっと「個色」を例とする非質料的(非実体的)な個物が問題になっていたのに、突然「変ずるもの」と「その背後に横たわる一般的なるもの」に話題が移っています。「変ずるもの」と「個色」は事柄としては一応別物ですが、西田においては切り離せないもののようです。ここからは解釈になりますが、「個色」のような、非質料的(非実体的)な個物は徹底した変化(生成消滅・流転)の中でしか立ち上がらないからでしょう。

B

〈富士山〉が四季を通じていろいろな姿を見せることで、〈富士山は富士山だ〉、ということでしょうか?
佐野
いえ。それでは〈富士山〉という「物」をもち込んでいます。「物」という質料的・実体的なものを「変ぜざるもの」として、その上で変化を考えています。西田はこうした質料的なものを持ち込んでは、真に変ずるものも、真の個というものも成立しないと言おうとしていると思います。〈BさんがBさんである〉ということは、〈Bさん〉そのものが生成消滅する、つまり死ぬということを含んで初めて言えることだと思います。〈Bさん〉が永遠に死なないとしたら、他のものに替えることのできない〈Bさん〉は立ち上がらないでしょう。テキストに戻ります。「変ずるものの背後に横たわる一般的なるもの」とは前段落末にありますように、「具体的一般」です。それが「単なる包摂的関係に於て考えられる一般者」、つまりこれも前段落末の表現を用いれば「抽象的一般」ですが、そうした一般者と「如何なる関係に於て立つかを瞥見し得る」とありますね。どういう関係だと瞥見しますか?

B

「転ずる」という関係でしょうか?
佐野
そうですね。そう書いてあります。「最後の種それ自身の矛盾的統一によって抽象的一般から転じて具体的一般に入る時」とあります。

B

「最後の種それ自身の矛盾的統一によって」というのがよく分かりません。
佐野
〈富士山は山である〉は包摂判断ですね。〈富士山〉は個(特殊)で、〈山〉が一般です。この〈山〉がこの場合「最後の種」になります。〈山〉は〈富士山〉も〈富士山でない山〉も同時に可能性として含んでいますが、これが「最後の種それ自身の矛盾的統一」です。〈5は数である〉という包摂判断の場合には、〈5〉(特殊)がそのまま〈数〉(一般)であることが言われていて、ここに矛盾があるのですが、〈5〉は個物ではありません。〈5〉は〈5〉であって、〈この5〉ということがないからです。したがって矛盾は一般概念内の矛盾です。この矛盾は〈5〉がすべての他の数と同一でありながら、それらの否定として成り立っている、というところにあります。この場合は〈数〉が「最後の種」になっています。ここまではいかがですか?

B

大丈夫です。
佐野
ところが〈富士山は山である〉という経験的な包摂判断になると事情が異なってきます。〈富士山〉は個物です。〈山〉は一般概念ですから、両者の間に間隙があります。我々はそこに質料というものを持ち込んで、これを個体化の原理とし、この判断に何の矛盾もないように考えます。〈山〉という一般概念(形相)と質料とが一緒になって、個々の山、例えば〈富士山〉が成り立つと考えるのです。しかしこの捉え方は個を個として捉えてはいません。個を一般の方から一般的に捉えているにすぎません。その場合は個も一般概念です。「このもの」といってもどれもみな「このもの」ということになります。こうした抽象的な包摂判断である〈富士山は山である〉を破るのが、「主語となって述語とならない」個物としての〈富士山〉に触れる時です。その時には如何なる述語も成り立たちません。そこで我々は〈富士山は富士山だ〉と、無意味な叫びを発するのですが、そうした叫びのうちに、じつは他のすべての山との同一と同時にそれらの否定として他ならぬ〈富士山〉が立ち現れている、というのはすでに述べた通りです。これはすでに「具体的一般」の領域の話ですが、じつは〈山〉という経験的な一般概念においても、すでに〈富士山〉であることと、〈富士山でない他のすべての山〉という種差が矛盾的に統一されている、と考えるのです。これがテキストでいう所の「最後の種の矛盾的統一」です。「山」という抽象的一般がすでにそうした矛盾を含んでおり、そうしたもともとあるのに気がつかなかった矛盾によって具体的一般へと転じる、そのように言っていると思います。

B

ありがとうございます。さらに考えて見たいと思います。
佐野
テキストに戻ります。「最後の種それ自身の矛盾的統一によって抽象的一般から転じて具体的一般に入る時、かかる一般者の最後の種に当るもの、すなわち最初の具体的というべきものが主語となって述語となることなき個物である」とありますが、読みにくいですね。まず「かかる一般者」とはどの一般者ですか?

C

迷いますが文脈からすれば「抽象的一般」だと思います。
佐野
そうですね。そうすると抽象的一般の最後の種に当るものが、「即ち最初の具体的なもの、であり「個物」だと言っていることになりますが、これはどういうことですか?抽象的一般の最後の種がそのまま個物だということですか?

C

いえ、「当るもの」といっていますから、「そのまま」ではなく、それに相当するものという意味だと思います。
佐野
なるほど。あくまでアナロジーだということですね。抽象的一般の最後の種にすでに矛盾的統一があったが、それはまだ隠れていた。それが最初の具体的なもの、これは具体的一般ですね。そういう仕方で矛盾的統一が顕わになる。そうしてこれが「主語となって述語となることなき個物」だと。ここも難しいですね。

C

具体的一般の自己限定が個物として立ち現れているということではないでしょうか。
佐野
面白いと思います。次を読んで見ましょう。「之より主語と述語とは転換する」とありますね。「之」とは「抽象的一般から転じて具体的一般に入る時」の「時」のことでしょう。そこでは「主語と述語とは転換」し、「包摂的関係は逆になる」、「述語的なるものが主語となる」とあります。どういうことか。さらに次を読んで見ましょう。「斯く包摂的関係を逆にして一般的なるものが主語となる時、かかる一般的なるものが限定し得らるるかぎり、個物は連続的統一となる。連続的なるものも個物である、単に自己同一というより尚一層個物的と考えることもできるが、連続的統一とは内に無限なる特殊化を含んだ一般者でなければならぬ、無限なる包摂的関係をその一般的根元に還って見た時、連続的なるものが考えられるのである」と一気に述べられます。

D

全然イメージできませんが。
佐野
少し前に(357,1)同じ脈絡で「概念の外延」というのがありましたが、それが参考になるかもしれません。〈犬は動物である〉というのは通常の包摂判断ですが、この主語と述語をひっくり返すと、〈動物は犬である〉となりますが、動物は犬だけではありませんから、〈動物は、犬であり、猫であり、猿であり…〉となります。これを個物のレヴェルで考えるのです。〈山は富士山であり、愛鷹山であり、箱根山であり、…〉となりますが、この場合の「山」が個物を含む「具体的一般」です。〈富士山は山である〉というような包摂判断や〈富士山は富士山である〉といった抽象的な同一判断を破るような体験をした時、西田はまず全体が立ち現れると考えているようです。これが「具体的一般」であり、「連続的統一」ないし「矛盾的統一」です。これが「単に自己同一というより尚一層個物的と考えることもできる」とありますが、当たり前のように(単に)〈富士山は富士山である〉と言っているより、「一層個物的」な〈富士山〉が立ち現れている、という意味でしょう。さらにこれは「内に無限なる特殊化を含んだ一般者」とありますから、〈山は富士山であり、愛鷹山であり、箱根山であり、…〉といった「山」に限ったことではなく、その中には川や海や空も含んでいることになります。要するに端的な全体です。抽象的な包摂判断や同一判断が破れた時、まず立ち上がるのはそうした全体です。無にして全体。絶句の瞬間ですね。それをあえて言葉にすれば〈富士山は山ならず〉、〈富士山は(当たり前のように考えられてきた)富士山にあらず〉ということになるでしょう。そうして今度はこの具体的一般が主語となって、個物が述語となります。個物が全体を含んで(他のすべてのものに支えられながら、それらを否定する形で)立ち現れます。その時の言葉が〈富士山は富士山である〉という根源的な同一判断です。これは〈山は山ならず、それ故に山である〉といった即非の論理ですね。西田はこうした矛盾した論理が、こうした個物の領域における根源的な経験のみならず、我々の抽象的な包摂判断や同一判断(同一律)の根本にもあると考えているようです。

E

これを本当に理解して自分の言葉で語るのは相当難しいと思います。
佐野
それが読者の目指すべきところだと思います。同時にどこまで行っても十分に表現できない、というところがあり、その点は西田も同じだろうと思います。次へ参りましょう。もう一度Fさん、次の一文を読んでみて下さい。

F

「併しかかる還源的方向を何處までも進めて行って、主語となって述語とならないものと反対に、述語となって主語とならないという意味に於て包摂的関係を超越した述語面に撞着した時、かかる場所に於て変ずるものが見られるのである」。
佐野
ありがとうございます。「主語となって述語とならないもの」はさしあたり「個物」ですね。それに対し、「述語となって主語とならないもの」は「包摂的関係を超越した述語面」とも呼ばれていますが、これは絶対無ないし真の無の場所ですね。さしあたりそのように言える。しかしそうした個物、絶対無の場所に「撞着」すると、主述の転換が起る、というのがこれまで言われてきたことです。そこにおいて真の個に出会う、そういう脈絡でした。ところがここでは「かかる場所に於て変ずるものが見られるのである」とあります。「かかる場所」とは?

F

「包摂的関係を超越した述語面」です。
佐野
そうですね。ここで見られるものは個物ではなく、「変ずるもの」です。「撞着した時」とありますから、まだ主述の転換が起る以前、真の個物が立ち上がる以前ということになるのかもしれません。あるいはさらに「内に無限なる特殊化を含んだ一般者」としての具体的一般(これが「全体」です)が立ち上がる以前の「無」としての具体的一般、即ち「絶対無の場所」における話ということになるのかもしれません。次に「如何にしても積極的に限定することのできない唯否定的にのみ限定し得る具体的一般者」とあり、これは絶対無の場所だと考えられますから、そうも考えられますが、このように具体的一般を「全体」と「無」とに分けて考えるべきではないでしょう。無即全体、全体即無、具体的一般はそのように考えるべきでしょうね。そうすると真の個がそこにおいて成り立つ具体的一般において、同時に「変ずるもの」が見られると言われていることになります。

G

「如何にしても積極的に限定することのできない唯否定的にのみ限定し得る具体的一般者」をそのように無即全体、全体即無の具体的一般者と考えるにしても、その「種」とはどういうことでしょうか?
佐野
「種」とは「類」に対するもので、「一般」に対する「特殊」のことでしょう。ここでは個と同義です。だとすれば、「具体的一般者の種」とは「具体的一般者に於てあるもの」と同義と見てよいと思います。

G

ありがとうございます。無と全(一切)と一の三つが相即する感じですね。

H

先ほどのお話ですが、真の個が見られることと、変ずるものが見られることとは別のことではないでしょうか?
佐野
事柄としては別ですが、事柄として両者は切り離せない、というのが西田の主張ではないでしょうか。事実、真の個は徹底した変化、生成消滅、流転の中でのみ立ち現れるものだと言えます。逆に真に変ずるものが見られるのは、質料を含め、抽象的な一般、「個色」で言えば、質料的・物的実体や、色一般といった抽象的な一般をさしはさまずに、真の個を問題にする時のみだ、そのように西田は考えているようです。「変ずるものはその反対に変じて行き、相反するものの根柢には両者を包む一般者がなければならぬと考えられるが」、これは西田の主張でもありますね。「かかる一般者が抽象的であって中間的なものを容れる間は変ずるものは成立しない」とあります。「中間的なもの」とは直接的には「質料」のことだと考えられます。

I

どういうことですか?
佐野
これまでも何度か西田は質料のことを「中間的なもの」と呼んでいますが、例えばヘルメスとアテナは形相で、大理石は質料で、大理石はヘルメスでもアテナでもない「中間的なもの」という意味です。

I

分かりました。
佐野
ここでは「抽象的」な「一般者」として「中間的なものを容れる」場合だけを考えていますが、例えば「この色」に対する「色」一般のような抽象的一般者を考えても、そこから変ずるものは説明できませんから、そうした抽象的一般者も入れて考えた方がよいと思います。西田は変ずるものの根柢にある「一般者」を、そうした「物(質料)」とか「抽象的一般者」ではなく、「具体的一般者」ないし「場所」だと考えようとします。「それ(一般者)に於て反対は同時に矛盾でなければならぬ」。物における「相異」(色と形など)ではなく、物や抽象的一般(色一般など)における、「時」を入れた「対立」における変化ではなく、そうした「物」や「抽象的一般」を取り払った変化の刹那の「矛盾」を考えようとします。それはまさに有即無、生即死の矛盾です。「それは質料なき形相でなければならぬ、矛盾を含む一般者でなければならない、矛盾的統一の背後に考えられた一般者でなければならぬ。無質料として有と無とが一つの概念となる時、矛盾の統一として変ずるものとなるのである」と述べられます。「背後」とありますが、これは矛盾を統一する何らかの実体としての一般者という意味ではないでしょう。それではまたしても質料的な物を容れることになってしまうでしょうから。矛盾的統一そのものとしての一般者という意味だと思います。

J

形相が変ずるものだということですか?
佐野
形相自体は変ずるものではないのですが、それらが相互に矛盾するために変ずるものとなる、ということだと思いますが、ここにはどうしても「時」という概念が入って来なければならないと思います。それについては「三」で考察されます。今日はここまでとしましょう。
(第106回)
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矛盾を含む同一なるもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「二」の第4段落335頁2行目「一つの系列に従って類を特殊化して行く時」から336頁2行目「転換し得ると考えることができる」までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「唯一なるものが限定せられると考える時、その根柢となる一般者の意味が変わって来なければならぬ」(335頁13行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は二つあって、「問いA」が、「あてはまる述語的一般性が見あたらない個物は自己自身にのみ同一で主語と述語(特殊と一般)が転換可能であることから、これが「変ずる」ときには一般者の意味が変わる(具体的一般者)ことが述べられているが、「特殊と一般」と「主語と述語」が不可分離的(330頁4行目)であるとは、この個物が変ずることによるものか」(150字)で、「問いB」が「種を成すことを拒む個物は具体的一般者に於いてあるよりほかないとされるが、何とも同一でない個物であってもなお「それ以外のもの」に於てあり、むしろ「拒む」のではなくそれ以外のすべてに同一であると言えないか。「AはAであると同時にAでない」という転換ではなく「AはAであると同時に全体でもある」ということになる」(152字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。今回はあとから気づいた部分がありましたので、特に都合によって創作した部分を含んでいます。
佐野
「一般者の意味が変わる」とはキーセンテンスの語句ですね。これは直接には「変ずる」場合のことを言っているのではなくて、「唯一なるものが限定せられると考える時」の話で、個物の限定の場合のことを言っていますね。特殊が一般においてある、という通常の包摂判断における一般者ではない、個物がそこにおいてある場所、つまり超越的述語面とか、絶対無とかいわれる一般者への意味の転換です。

S

その個物の捉え方がもう一つはっきりしないのです。

R

その個物と「変ずる」とはどう関わるのですか?

S

はじめはまず固定的な個物がまずあって、それが変化する、というように考えていたのですが、アレっていうことになって‥‥。まず「特殊と一般」と「主語と述語」が「不可分離的」であるとされながら、「単に之を同一視することはできない」とあるのがよく分かりません。
佐野
330頁4行目ですね。押さえておきましょう。まずは「特殊と一般」の話です。「一般概念を何處まで特殊化して行っても、一般性を脱却することはできない」。これは言葉の世界ですね。言葉はどこまでも一般しか言い表せないからです。ところが西田はこれにアリストテレスの、個物とは主語となって述語とならないものである(『カテゴリアイ』におけるアリストテレス自身の言い方とは異なりますが)、という思想を重ねます。そうしてこの「主語となって述語とならないと云う」ことを附加することによって、「最後の種は個物となるのである」と考えます。一般(類)と特殊(種)という従来の論理学の分類に、アリストテレスの個物概念を重ね、それによって「個物」を把握可能としたところに西田の独創性があるわけですが、当然そこには批判もありえます。西田の場合個物は直観によって捉えることができる、ということになりますが、言葉を介して認識する外ない人間にそのような直観は許されていない、という立場が当然出て来ます。カントはそうした立場に立つと思います。テキストでは包摂判断を念頭に置きつつ、「特殊と一般」が「主語と述語」と「不可分離的」であることを一方で認めながら、他方では「特殊と一般」では到達できない個というものに「主語と述語」が到達できる、という点に単に両者を同一視できない側面を認めます。

R

そのような個物について「主語と述語(特殊と一般)が転換可能」とありますが、これをどのようにお考えですか?

S

個物については「このものはこのものだ」としか言いようがない。そうだとすれば主語と述語は転換可能だ、という意味です。

Y

「あてはまる述語的一般性が見あたらない個物」とありますが、「個物までも含むものはもはや抽象的一般として考えることのできないものであるが、而も尚判断を内に含むという意味に於て述語的一般性を失うたものではない」(333頁1~2行目)とあります。

S

「あてはまる述語的一般性」とは「抽象的一般」としての一般性です。

R

「個物までも含む」、また「判断を内に含む」「述語的一般性」については、「反対を内に包んだものでなければならぬ」(同4行目)とか、「主語的なるものの否定を含むものでなければならぬ」(同7行目)とあります。そうなると「主語と述語(特殊と一般)が転換可能」というのをどう考えていいかますます分かりません。

T

うちで飼っていた白猫(「しろ」)が行方不明になって、数日したら同じような猫が舞い戻ってきた。これを「しろ」と呼んでいいかの問題にも通じると思います。理由を挙げようとすると、結局どこまでも「しろ」であるかどうかは分からないことになるけれども、我々は「直観」で「これは「しろ」だ」と判断している、ということを西田は言いたいのではないでしょうか?
佐野
その場合、時間経過を通じた、個物(物)としての同一性が問題になっていますね。西田がここで問題にしているのは、そうした物的な実体を、それは結局質料ということになりますが、そうした「中間」のものを解消することだと思います。

T

その場合でも、「しろ」を「しろ」と呼ぶことのできる本質のようなものが直観されている、と考えればよいと思います。この本質は時間を越えたものです。
佐野
なるほど。分かりました。しかしテキストでは「個色」が論じられていますから、ここでは分かりやすさのために彼岸花の「この赤」を例にとって考えてみましょう。主語と述語が転換可能だというのは、個物が自己自身に同一で、「この赤はこの赤だ」としか言いようがないからです。しかしこれを文字通り取れば同語反復で、何も言っていません。しかし「この赤はこの赤だ」という言葉が個物(個色)との出会いの言葉だとすれば、そこはどうなっているのか、西田はそれを考えようとしているのだと思います。

S

判断は大抵これまでの経験に基づいてなされますから、そうした個物との出会いはきわめてまれな出来事だと思います。
佐野
その意味では、「この赤」との出会いは判断やこれまでの経験を破って、絶句し、「この赤はこの赤だ」と無意味な言葉を叫ぶほかない経験だと言えると思います。この経験が概念的知識になってそれについて哲学することができるためには、そこに述語的一般者がなければならない、と西田は考えるのだと思います。そうするとこの問題はSさんの「問いB」に関わってくることになります。「この赤はこの赤だ」と言った時に、「この赤」が同時に他のすべての存在の否定の中で立ち上がってきているということです。否定即肯定と言ってもいいし、これを一即一切、一切即一と言ってもいい。こういう体験として、主語と述語は転換可能となり、判断以前の所でいわば主語と述語がピタッと一つになっていると言えると思います。まさに純粋経験ですね。「個色」を述べた箇所に面白いことが書かれています。334頁7~8行目をSさん、読んでみて下さい。

S

「個色とは如何なるものであるか。それは他の何の色とも異なったものでなければならぬ、此意味に於て他の色との関係が含まれて居ると云うことができる」とあります。
佐野
ありがとうございます。個が個であればあるほど、全体との関係を含むことになります。だから一面で個はどこまでも語り尽くすことができない一方で、他方でそれについて語られるものとして、その個は直観されていなければならない、ということになります。もう一言だけ付け加えれば、我々は「個(色)」というものを固定したものとして捉え、変化はこれとは別の事柄であるというようにイメージしやすいですが、「個(色)」が「個(色)」として立ち現れるのは、徹底した流転(変化)の中でのみです。

N

ここには日本文化の特質が現れていると思います。「ものづくり」において「もの」となって考え行動する、といった…。多くの人が判断以前に、直観でものをバチっと認識している、という根本思想がありますね。

T

なんか安心しますね。判断の領域ではどこまでも確かなことは言えませんから。
佐野
西田の思想はオメデタイと。

N

ええ。極めて楽観的です。

T

救いだと思います。
佐野
プロトコルはこのくらいにして、講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(336頁2~6行目)
佐野
ここも「主語と述語との転換に特殊と一般との転換の意味が含まれて来なければならない」ことが述べられていますね。次を読んで見ましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(336頁6~11行目)
佐野
ここも「同一なるもの」つまり「個物」を考えることができるためには、「述語」がなければならないけれども、それは「単なる包摂判断の述語とはその性質を異にするものでなければならぬ」ことが述べられています。そうして「包摂的関係に於ける述語的なるものが主語となるのである、特殊が一般となるのである」と転換について述べられています。次を読んで見ましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(336頁11~15行目)
佐野
ちょっと読むと矛盾したことが書かれていますね。「甲が甲である」という「同一判断」によって「同一なるもの」(個物)が限定せられる時、「その主語と述語とは判断の主語と述語との関係に於ては異なったものでなければならぬ」とまずは言われます。前の「甲」と後の「甲」が異なるということです。しかしすぐに続けて「而も此判断によって言い表されるものが一なるが故に、主語と述語とを転換することができる、この判断の主語となるものに於て主語と述語と同等となる」とあります。今度は前の「甲」と後の「甲」が同じだ、と言っています。これをどう考えるか。

K

即非の論理のようなものを考えていると思います。
佐野
なるほど。面白くなってきましたね。それではDさん、次をお願いします。

D

読む(336頁15行目~337頁6行目)
佐野
「概念の外延」という言葉が出て来ましたね。それを考える時、「既にかかる意味が含まれて居る」とありますが、「かかる意味」とは?

D

前文の「主語的なるものが却って一般的として述語的なるものを包む」という意味だと思います。
佐野
そうですね。これを「概念の外延」と結びつけて説明してみてください。

D

「動物は生物である」という通常の包摂判断の主語と述語を転換して、「生物は動物である、植物である」というように、外延を並べる仕方で考えることではないでしょうか。
佐野
よく分かりました。さてテキストには「最後の種が矛盾的種差によって更に自己自身を限定しようとする時、それが単に限定し得ざるものとして概念の外に出ていかない限り」とありますね。個物を哲学することができる限り、ということですね。その場合は、最後の種は「自己自身の内に矛盾を含む同一なるものとならねばならぬ」とされます。「この赤」が同時に「この赤でない」という矛盾を含んだ、「この赤」でなければならない、ということですから、まさに即非の論理ですね。そうして「最後の種が自己同一なる個物となるには、一般的述語性を否定することによって自己自身を肯定するのである、肯定即否定となるのである」とあります。ここでは個が一般との関係において述べられていますね。一般性の否定とは言語の否定ということになります。ここでは他の個物の否定は述べられてはいませんが、個物の肯定には、当然一般者の否定と同時に、他のすべての個物の否定が含まれます。最後に「〔個物は〕包摂的関係から云えば最後の種を尚一歩特殊化の方向に進めたものであるが、矛盾的統一としては種差を含むものとなる」とあるのは、「この赤」が「この赤ならざるもの」を含むということです。ここも即非の論理です。そうして「是に於て抽象的一般から具体的一般に転ずるのである」とされます。今日はここまでとしましょう。
(第105回)
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中間のもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「二」の第4段落333頁3行目「判断的関係を内に含むと考えられる」から335頁1行目「ければならぬ」までを読了しました。今回のプロトコルもYさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「最後の種に於て或一つの種差を有つか有たないかと云ふことは、述語的方向に於ては直に矛盾的対立を意味するのである、その「中間のもの」といふは主語的方向に於て考へられるのである」(334頁4~6行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「個物は質料と形相によって現成され、「若し主語となって述語とならないといふ主語的方向に於て全然述語を超越したものならば、それが変ずるとは云われない。」(331,3-4)― 個物が変ずるとは、その述語性の否定を否定することです。ところで、「中間のもの」を形相と対立する質料とするならば、可能態から現実態への移行(運動)が考えられます。ならば、なぜ「中間のもの」は「変ずる」ものとはならないのでしょうか」(193字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
「個物が変ずるとは、その述語性の否定を否定することです」とありますが、「述語性の否定」とは個物が「主語方向に於て全然述語を超越すること」という意味で、こうした個物は「変ずる」とは言われないので、それを否定することで、個物は変ずるものとなる、という意味でよいですか?

Y

はい。
佐野
「質料」とは素材のことで、例えばヘルメス像が大理石からできていれば、大理石が質料です。大理石はヘルメス像にもなれば、アテナ像にもなる。そうした意味で「中間のもの」です。これが「変ずる」とはどういうことですか?

Y

可能態から現実態に移行することです。
佐野
それは質料と形相とからなる実体としての個物が「変ずる」のであって、質料が変じているのではないのでは?先程の例で言えば、ヘルメス像は可能態から現実態に移行しても、大理石からできていることに変わりはありません。

Y

分かりました。
佐野
さらに考えるといろいろ難しいと思いますが、プロトコルはこのくらいにして、講読に移りましょう。それではAさん、お願いします。

A

読む(335頁1~8行目)
佐野
少しずつ行きましょう。「一つの系列に従って類を特殊化していく時、最後の種に至るまで、すべて相反する種差を含んだものである」とあります。例えば〈感覚的性質〉という類は〈色〉と〈色でないもの〉という「相反する種差」を含んでいますが、このうち〈色〉を取ればそこに特殊化が成立します。ついで〈色〉という種は〈赤〉と〈赤ならざる色〉という「相反する種差」を含み、このうち〈赤〉を取ればそこに特殊化が成立する。そうしてこの〈赤〉が「最後の種」になります。この〈赤〉は〈この赤〉と〈この赤ならざる赤〉という「相反する種差」を含みますが、そのうち〈この赤〉を取れば、それが「唯一のもの」(個色)となります。それは「それ以前のものが種に於てあると云う意味に於てあるのではない」とされます。〈赤〉という最後の種において〈この赤〉と〈この赤ならざる赤〉とが含まれていましたが、「唯一のもの」はこの「最後の種」における可能性としての〈この赤〉ではない、ということです。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
次いで「相反するものはひとつの種を成すことを拒むものである」とありますが、〈この赤〉と〈この赤ならざる赤〉は「最後の種」である〈赤〉を成していますから、この文は「種」の領域の話をしているのではないことになります。「個」の領域の話だということになります。〈この赤〉と〈この赤ならざる赤〉が同時に成り立つことを拒む、という意味でしょう。そこに〈時〉の考えを入れて変化を考えなければ成り立たないことでしょう。さらに続けて「二つの相矛盾するものの間には之を統一する類概念はないと考えられる」とあります。

A

「相反する」と「相矛盾する」とは同じことですか?
佐野
文脈で考えなければなりませんが、これまで西田は「相異」、「相反」、「矛盾」を分けて論じています(「働くもの」191,9-193,9)。「相異」とは、例えば音と色。これについては「一つの物」が両方持つことができるし、両者は「感覚的性質」という「一つの類概念」に属する、とされます。「相反」とは、例えば赤と赤でない色。これについては「時の考を入れない以上、一つの物に結合することはできない」が、「相反すれば反する程、明に一つの類概念に統一せられねばならぬ」とされます。赤い物は変化によって赤でなくなりますし、赤と赤でない色はともに色という類概念に統一されます。これに対し「相矛盾する二つの概念に至っては、之を統一するに所謂類概念を以てすることもできない、又、その背後に物という如きものを考えることもできない」とされます。そうして「矛盾概念を統一するものは、生物の死することが生まれることである如く、否定することが肯定することであるものでなければならぬ、概念の生滅する場所の如きものでなければならぬ、無にして有を成立せしめるものでなければならぬ」(以上、191,10-192,5)とされます。これを読むと、「矛盾」とは、生即死、否定即肯定、無即有、といった「概念の生滅」のことであり、それを統一するのは「類概念」でも「物」でもなく、「場所」だ、ということになりそうです。

A

よく分かりました。
佐野
もう少し続きがあります。西田は特殊と一般の矛盾を考え、この矛盾の統一が「数理」の対象界、「経験」界、「矛盾的限定によって構成せられたる対象界」でどうなっているかを論じます。数の対象界には「矛盾律」が成立しているけれども、その根柢に類概念があり、そこに矛盾の統一が見られる、とします。特殊と特殊の間には矛盾律が成り立つ(5≠~5(5でないもの))けれども、特殊と一般の間に矛盾の統一が見られる(5は数である。特殊=一般)ということだと思います。「経験的一般概念」の場合は、「一般と特殊との間に間隙がある」とされ、この間隙を充填するために「基体」が考えられる、とされます。〈赤〉が〈この赤〉になるためには「基体」が必要だ、ということです。「経験」界の場合は、特殊と一般の矛盾を統一するのは「基体」だということになります。最後に「矛盾的限定によって構成せられたる対象界」の場合は、一般即特殊で、「その間に基体の如きものを容れる余地はない」、とされます。「一般的なるものは特殊なるものを成立せしめる場所」で、この「矛盾的統一の対象界に於て始めて全体と部分との関係を見、更に進んで個物的なるものを見ることができる。モナドの世界に於ての如く、各自唯一の個体となることによって、全体の統一が成り立つ、たんに一般的なるものは予定調和の役目を演ずるに過ぎない」とされます。これを読むと、「矛盾的統一の対象界」とは直観の世界であり、個物の世界であることが分かります。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。よく整理ができました。「数理」の対象界の場合は、類概念自体が〈特殊=一般〉という矛盾の統一が成立する場所で、「経験」界の場合は、基体が矛盾統一の場所、直観ないし個物の世界の場合には個物を成立させる一般者が矛盾統一の場所になる、という理解でいいでしょうか?この一般者は述語面に成立すると考えてよいですか?
佐野
ええ。そういうことになるとも思います。それでは講読箇所に戻りましょう。どこまで行きましたっけ?

A

「二つの相矛盾するものの間には之を統一する類概念はない」までです。
佐野
ありがとうございます。「二つの相矛盾するもの」の例として、さきほどは生死、肯定と否定、それから有と無が挙がっていましたが、それを個物の世界で考えなければならない、ということになりそうです。この世界では一般即特殊(個)という形で一般と特殊の間に矛盾が成立するのみならず、それを通じて〈このA〉と〈このAならざるもの〉とが、つまり特殊と特殊とが、矛盾的に統一されていると考えられますが、ここでも「二つの相矛盾するもの」ということで念頭に置かれているのは、特殊と特殊の矛盾です。それを「統一する類概念がない」とは、それらを一般(類)概念によって統一することはできない、そんなことをすれば矛盾概念が矛盾概念でなくなってしまうということです。例えば〈この赤〉と〈この赤ならざる赤〉は〈赤〉一般という類概念によって統一できるように考えられますが、そういう類ないし種の領域における統一が問題になっているのではない、ということです。あくまで個の領域における統一が問題だ、ということでしょう。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
「併し」と来て、「我々が最も厳密に類概念を分けるには矛盾するものに分けて行くのである」と、今度は類、つまり一般の領域の話になります。そこでも実は矛盾するものに分けているのだ、というのです。例えば〈色〉を〈赤〉と〈赤ならざる色〉とに分ける場合、じつは〈色〉そのものが一般と特殊、特殊と特殊の間にすでに矛盾を含んでおり、この矛盾に即して「分ける」ということ、つまり特殊化が行われる、ということだと考えられます。そうして「最後の種」に至る。「最後の種に於て尚之を相矛盾する種差によって唯一のものが限定せられる時、最後の種は相矛盾するものに分たれると考えねばならぬ」とされます。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
ここでまた「中間のもの」、つまり「質料」が出て来ます。「中間のものはなくならねばならぬ。中間のものがなくなると云うことは質料がなくなると云うことを意味する、即ち質料としての類概念の意味はなくなるのである」と、こう言われます。

A

質料は類概念ですか?
佐野
普通そうは言いませんが、相矛盾(相反、相異も根本的には相矛盾を含むというのが西田の考えです)する特殊と特殊を統一的に考えるために、いわゆる一般概念の他に物ないし質料が考えられるからだと思います。

A

質料としての類概念がなくなる、ということは〈個物の世界〉と言っても、その個物は質料を含まない、ということですか?
佐野
そうなりますね。物的な実体の解消です。次へ参りましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(335頁8~11行目)
佐野
「こういう意味に於て」とはどういう意味ですか?

B

「質料としての類概念の意味はなくなる」という意味だと思います。
佐野
そうでしょうね。そういう意味において「個物は特殊と一般との関係の外に出て而も判断的関係によって限定せられると云うことができる、質料なき純粋形相概念に於て限定せられ得る特殊でなければならぬ」とされます。個物は質料なき純粋形相概念になってしまいました。まさに物的実体の解消ですね。

B

はい。
佐野
次いで「矛盾概念を包む類概念はないと考えられるかも知らぬが、両者を統一するものがなければ両者を矛盾として分つことはできない」と述べられます。「矛盾概念を包む類概念はないと考えられる」については先程考察しました。矛盾概念を上位概念によって統一してしまうと矛盾概念ではなくなってしまう、ということでした。ここではその主張を否定するのではなく、矛盾概念を矛盾概念のまま統一することが問題になっています。「両者を統一するものがなければ両者を矛盾として分つことはできない」と述べられます。我々が〈色〉を〈赤〉と〈赤ならざるもの〉とに分けることができるのは、〈色〉においてすでに矛盾が統一されているからだ、ということになります。さらに言えば、我々が矛盾を意識できるのは、すでに矛盾的統一を知っているからだ、ということになると思います。ここまでいかがですか?

B

大丈夫です。
佐野
それでは次に参りましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(335頁11行目~336頁2行目)
佐野
「両者の背後に限定せられた類概念が考え得らるれば得らるる程、矛盾的統一は明になるのである」とありますね。この「背後」とは上位概念という意味ではありませんね。「数学」が「好適例」だとされています。どなたか説明してください。

Y

リーマン空間とユークリッド空間の背後の「空間」そのものはどうですか?
佐野
なるほど。三角形と円の背後の平面、5と~5(5ならざるもの)の背後の数、も行けそうですね。これらの例における空間、平面、数が「類概念」になります。そこにおける「矛盾的統一」とはまずは、特殊と一般の統一です。5がそのまま数とされている。これは一即一切、一切即一と言ってもいいと思いますが、そのうえで、5と~5とが矛盾的に統一されているということですね。通常は5と~5は矛盾律によって分かたれていると考えますが、そのように分かたれるのは、そもそも矛盾的に統一されているからだ、そのように西田は考えます。文章が切り詰められているので分かりづらいですが、「働くもの」における叙述などを参考にすればそういうことになると思います。ここまでは?

C

大丈夫です。
佐野
次いで「之に反し個色という如きものは実際に於ては限定することはできない」とありますね。これは先程の話で言えば「経験」界の話です。どこまでも個に到達できない、ということです。しかしこれを超えて直観の世界・個の世界に入る。そうなると「唯一なるものが限定せられると考える時、その根柢となる一般者の意味が変わって来なければならぬ」とありますが、どう変わるのですか。

C

具体的一般者になる、ということではないでしょうか。
佐野
そうでしょうね。抽象的に一般と特殊を分けて考えて来た者にとってはそうした意味の転換が起りますね。しかし個の世界だけでなく、じつは一般の世界もこうした矛盾の統一によって貫かれているというのが西田の考えのようです。次いで「唯一なるものは自己自身に同一なるものでなければならぬ」、〈この赤はこの赤である〉、ということですね。しかし「自己自身に同一なるものは主語と述語と転換し得るものでなければならぬ」とされます。これはたんに〈この赤はこの赤である〉の主語と述語を転換できるという意味ではなさそうです。次に「一般なるものを特殊化して行って、その尖端に於て一般と特殊とが転換し得ると考えることができる」とあります。〈赤〉を〈この赤〉にまで特殊化する時、同時に〈〈この赤ならざる赤〉でない〉として、〈この赤〉は〈この赤ならざる赤〉を含みます。そういう仕方で、主語的なもの(〈この赤〉)は述語的なるもの〈赤〉一般を、個の領域で包むことになります。まさに一即一切、一切即一ということですね。今日はここまでとしましょう。
(第104回)
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変ずるもの―特殊化の原理

前回は番外編(Exkurs)としてカントのプロレゴメナ第46節を講読しました。プロトコルはありません。それではさっそく今回の講読箇所に入りましょう。
佐野
それではAさんお願いします。

A

読む(333頁3行目~12行目)

A

「判断的関係を内に含むと考えられる一般的なるもの」とは「具体的一般者」のことですか?
佐野
そうだと思います。特殊化の原理を含む一般者ですから。そうした「一般者が最後の種を越える」とありますね。たとえば〈赤は色である〉という判断において、〈色〉に〈赤〉と〈赤ならざるもの〉という種差がありえますが、このうち〈赤〉を取れば〈色〉は〈赤〉となり、〈赤は色である〉が成り立ちます。ここでもう一歩進むと、「最後の種」として〈赤〉を考えることになります。この先は「種」ではなく「個」の世界だからです。それを超えて見ましょう。〈この赤は赤である〉という判断において、〈赤〉に〈この赤〉と〈この赤ならざるもの〉という種差が含まれていますが、このうち〈この赤〉を取れば、〈赤〉は〈この赤〉となり、〈この赤は赤である〉という判断が成り立ちます。この判断はすでに「個」の領域で成り立っています。その場合、〈この赤〉が主語で、〈赤〉が述語です。この〈赤〉は先程の「最後の種」とは異なります。「最後の種」はなお一般の領域だからです。〈個〉の領域における述語としての〈赤〉が今問題になっています。テキストでは「最後の種を越えて尚述語的一般性を維持する」と表現されています。この「述語的一般性」は〈個〉の領域で成り立つものです。そうしたものは「反対を内に包んだもの」だとされます。「反対」とは、先の例で言えばどういうことになりますか?

A

〈この赤〉と〈この赤ならざるもの〉です。
佐野
そうですね。この〈個〉の領域における「述語的一般性」は〈この赤にしてこの赤でない〉という矛盾を含んだものです。続いて「最後の種に於て既に反対(唯一の個物的種差を有つものと然らざるものと)を内に包むと考え得るが」とありますが、これは繰り返しですね。「種」の領域の話です。〈赤〉という種が可能性として〈この赤〉と〈この赤ならざる〉という反対を含むということです。ここから「更に特殊化の方向を進めて」行きます。〈個〉の領域に入ります。「主語となって述語とならないと云う意味に於て限定せられたもの」、つまり〈個物〉ですね。「所謂一般概念を越えたもの」と言い換えられています。こうした〈個物〉を包む「述語的なるもの」、出ましたね。〈個〉の領域における「述語的一般性」です。それは「主語的なるものの否定を含むものでなければならぬ」とされます。「述語」ですから「主語」ではない。その意味で「主語的なるものの否定を含むものでなければならない」と言われていると思われますが、この「主語的なるものの否定」には、後で出て来る「質料」がなくなる、ということに関わっているようです。端的に言えば主語として立てられた〈物的実体〉の解消です。すべてを形相として見ると言ってもいいです。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
「最後の種に於て相反する種差が含まれると考えられるが、之を超越したものに於ては(それが超越的述語に於てあると考えられるかぎり)」と、また同じことが繰り返し述べられています。「超越的述語」とは〈個〉の領域における「述語」ですね。そうした「述語」には「相反する判断的対象が含まれる」とされます。この「相反する判断的対象」とは?

A

〈この赤〉と〈この赤ならざるもの〉です。
佐野
そうですね。それでは次をBさん、お願いします。

B

読む(333頁9行目~12行目)
佐野
ギリシャ哲学が出て来ましたね。アリストテレスが念頭に置かれています。すべてのものが形相と質料から成る。「質料」は素材です。ヘルメス像で言えば、その形が「形相」で、その素材となる、例えば大理石が質料です。「中間的なるものは質料に属する」とありますね。大理石はヘルメス像にもなれば、別の像(たとえばアテナ像)にもなり得る、どちらでもありえる「中間的なもの」です。これに対し「形相」の方は、ヘルメス像であるか、ヘルメス像でないかのどちらかですから、「常に対立をなす」ものです。「単なる質料」は「これこれ」と言えないものですから、その意味で「無」です。ここまではいかがですか?

B

大丈夫です。
佐野
「形相は質料に先立ち之を内に含むと考えるならば」とありますね。これはすべてを「形相」から見る場合のことです。物の見方に二種類あって、質料から見て行く場合と、形相から見て行く場合があります。質料から見て行く場合には、すべては可能態(質料)から現実態(形相)への「運動(キーネーシス)」となりますが、形相から見て行く場合はつねに「現実活動態」(エネルゲイア)となります。後の方の見方が「観想的生」につながります。ここでは後の方の見方がとられています。こうした「形相」における「最後の種」となるものは〈このヘルメス像〉か〈このヘルメス像でない〉かのいずれかですから、「反対を含むもの」です。次をCさん、お願いします。

C

読む(333頁12行目~334頁1行目)
佐野
「主語となって述語とならないと考えられるもの」、「個物」ですね。「それが判断的知識に属するかぎり、述語的なるものに於てあると考えなければならぬ」、同じことの繰り返しですね。この「述語的なるもの」は〈個〉の領域におけるものです。こうした「述語的一般者に於てあるもの」は、もちろん個物ですが、それが「肯定的であると共に否定的でなければならぬ」とされ、それが「変ずるもの」だとされるところは少しわかりにくいですね。

C

たしかに。どうして個物が「変ずるもの」になるのですか?
佐野
個物は捉えられず、常に変じている、ということでしょうね。

C

描かれた絵の色は変わらないと思いますが。
佐野
光の具合によって変わるでしょうし、こちらの状態によっても変わるでしょう。どうやら西田は、ヘーゲルが『精神の現象学』でやったように、個物は捉えられない、と考えているようです。ただヘーゲルが捉えられるのは普遍だけだ、とするのに対し、西田は「変ずるもの」のみ捉えられる、と考えているようです。そうして「変ずるものの根柢にある変ぜざるものとは此の如き一般者でなければならぬ」と言います。「此の如き」とは〈個〉の領域で「相反する種差を含む」ような「述語的一般者」ということでしょう。次をⅮさん、お願いします。

D

読む(334頁1行目~6行目)
佐野
色の例で説明していますね。「個色」というのが出て来ますが、西田は後で「個色という如きものは実際に於ては限定することができない」(335,13)と述べているように、実際には「変ずるもの」としてしかとらえることはできない、と考えているようです。さて「色の性質を分けて行って限定せられた唯一の色というものが種々なる色の系列に於て定まるには、最後の種差というものが加わると考えねばならぬ」とありますね。「最後の種差」とは〈赤〉の場合何ですか?

D

〈この赤〉と〈この赤ならざるもの〉です。
佐野
そうですね。次にはこう書いてありますね。「種々なる系列によって分けられた後、最後の系列に於て或一つの性質を有つか有たないかと云うことによって個色が限定せられるのである」。「或一つの性質」が〈この赤〉です。そうしてその後大事なことが書かれてありますね。「最後の種に於て或一つの種差を有つか有たないかと云うことは、述語的方向に於ては直に矛盾的対立を意味するのである、その「中間のもの」というは主語的方向に於て考えられるのである」。「中間のもの」とは以前出て来た「中間的なるもの」つまり「質料」のことです。つまり〈物的実体〉としての「個物」のことです。西田はこういう意味での個物を解消しようとしているようです。次をEさん、お願いします。

E

読む(334頁6行目~335頁1頁)
佐野
「個色」とは何かが述べられていますね。①「他の何の色とも異なったもの」(したがって他の色との関係が含まれて居る)、②「種々なる系列の関係に於て秩序的に限定せられた最終のもの」、③「その色を有つ或物と考えることもできない」、すなわち「色の一種でなければならない」、④「述語的一般性を超越したものでなければならぬ」、以上の四点が述べられています。最後の「述語的一般者」は、難しいですが、〈個〉の領域における「述語的一般者」と考えておきます(後に「甲は甲であるという同一判断によって同一なるものが限定せられる時、その主語と述語とは判断の主語と述語との関係に於ては異なったものでなければならぬ」(336,11-13)とあります。この「異なった」というところがここでは「超越」と語られていると考えられます)。そうしてこの「個色」について「唯自己自身の述語となる」とされています。これは<この赤>ではどのようなことですか?

E

<この赤〉は<この赤〉である、ということです。
佐野
そうですね。それに続く文の中に出て来る「自己自身に同一なるもの」も同じ意味ですね。

E

この「同一」は「絶対矛盾的自己同一」の「同一」ですか?
佐野
さしあたり、ここを読むだけならそこまで考えなくても、同語反復のことを言っているということで十分ですが、「自己自身に同一なるもの」(この赤はこの赤である)は、そうしたものがそこに於てある「述語的一般者」(〈この赤〉にして〈この赤ならざるもの〉)を必要とし、じつはこうした述語との同一が言われているのだと思われます。先程引用した後の文では、「〔(主語と述語が)異なったものでなければならぬ、〕而も此判断によって言い表されるものが一なるが故に、主語と述語を転換することができる」(336,13-14)と言われています。そうなると「絶対矛盾的自己同一」ということになりそうです。〈山は山である〉は〈山は山でない〉をくぐって言われている。絶対的矛盾をくぐって〈山は是山〉と言われています。しかしそのことは同時に最初に常識的に〈山は是山〉と言ったのとは別の意味が出て来ています。つまり〈山は是山〉において直ちに〈山は山ならず〉ということが現成している。それがここでは、個色が直ちに「変ずるもの」という仕方で主張されていると考えられるのです。先程、「個色」の①の所で、「個色」が「他の何の色とも異なったもの」であるとされた時に、同時に「他の色との関係が含まれて居る」とありましたが、「この赤はこの赤である」が同語反復(つまり無意味)以上の意味を持つとすれば、〈個〉の領域における「述語的一般者」(〈この赤〉にして〈この赤でない〉、「他の色との関係」)をくぐっていなければならないのです。今日はここまでとしましょう。
(第103回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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