具体的一般者の自己限定

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「三」の第4段落を読了しました。今回のプロトコルはYさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「自同的判断が単なる同語反復にあらざるかぎり、一般者の自己限定でなければならぬ。」(342頁5~6行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「「…実在は現実そのままのものでなければならない」(『善の研究』)― この言葉は西田自身の根本的な基底をなしている。そして、我々にとって、「現実」とは〈日常〉そのものであり、とびっきりな日常も、何気ない日常も、すべてがかけがえのない〈日常〉である。我々は、ここにおいて「唯一なるものの判断的知識」を得る。ところで、その知識の基礎たる「自同的判断」は、更に同一律を基礎とすると思料するのだが、如何だろうか」(199字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
何か補足はありますか?

Y

具体的一般者が直覚と概念との統一だ、という場合に、直観に知的直観、純粋直観、経験(感性)的直観の3つがあることから、具体的一般者に3つのレベルがあるということでしたが、この3つがどのように関わるか、を考えた時に、これらがみな「自同的判断」に基づいているので、さらにその基礎として「同一律」があるのではないか、と考えて見ました。
佐野
「同一律」は、「矛盾律」、「排中律」と並ぶ、思考の3原則の一つと考えていいですか?

Y

はい。
佐野
西田の「自同的判断」も〈AはAである〉ということですが、「単なる同語反復」ではない、とありますから、Yさんのご提言は西田の「自同的判断」をさらに「単なる同語反復」としての思考法則に還元する、という趣旨になりますね。

R

西田の主張はその逆だと思います。「単なる同語反復」でない「自同的判断」はどれも〈AがAである〉と同時に〈AがAでない〉という矛盾を含んでいて、「同一律」はそこから抽象されたものだと思います。
佐野
知的直観における「自同的判断」とは、我々の言い方だと「富士山は富士山である」という、絶句から発したものですね。純粋直観における「自同的判断」とは「5は5である」、「三角形は三角形である」ということになりますが、これも「単なる同語反復」ではなく、直ちに「5は数である」、「三角形は図形である」という判断を含んでいます。経験的(感性的)直観における「自同的判断」とは「これは青い」ということですね。こうした「自同的判断」からそれぞれ「哲学的」な判断(知識・説明)、数学的判断、経験的判断が成立することになります。

Y

それらはどう関わるのですか?
佐野
西田はこうした判断の根本に「具体的一般者」を考えますが、本来的なものはやはり「哲学的」な判断の根本となる「具体的一般者」だということになると思います。これが以前の区分で言えば「真の無の場所」において成立するのに対し、数学的判断の場合は「具体的一般者」と言っても、それは数とか図形といった「一般概念」にほかなりません。以前の区分で言えば「有の場所」で、それを前提として成り立つ判断です。経験的判断も最後の所で「これは青い」といった「自同的判断」がなければなりませんが、この「自同的判断」は主客の対立を含んでいます。以前の区分で言えば「対立的無の場所」において成立する判断です。西田は「これは青い」の「述語」が「一般的青ではなくして、個色的青でなければならぬ」と言っていますが、これがもし純然たる個色的青に関する自同的判断だとすれば、知的直観に基づく自同的判断ということになるだろうと思います。経験的判断の場合は、「青い」は「それ自身に於て直覚的」ではないが、「之を包む一般者」、つまり「個色的青」を包む「一般的青」ということになるだろうと思います。この3つの判断のうち、本来的で最も完全な具体的一般者は哲学的な判断のもとになる具体的一般者で、数学的判断と経験的判断のもととなる具体的一般者は前提を持っていますから、不完全な具体的一般者ということになるだろうと思います。

W

そうした3つのレベルの具体的一般者とYさんのいう、現実とか日常とはどう関わりますか?
佐野
(以下は後で考えたものです。)数学的判断の基となる具体的一般者によって数学が、経験的判断の基となる具体的一般者によって自然科学が基礎づけられる、これがカントのやったことであると西田は考えていると思います。その後新カント派のバーデン学派が概念構成に「法則定立的」ないし「普遍化的」と、「性格描写的」ないし「個別化的」を区別することによって、自然科学のみならず、歴史学を含む文化科学一般の基礎づけ、総じて学一般の基礎づけを行いますが、こうした基礎づけは「真」という理念(価値)に基づいています。これに対して「善」によって道徳、「美」によって芸術、「聖」によって宗教が基礎づけられることにより、総じて文化一般が新カント派によって基礎づけられます。しかし学にしても文化にしても、一般概念に基づいており、現実そのものではない、そのように西田は考えているのでしょう。こうした一般概念が破れたところ、そこに「現実そのまま」としての「実在」が立ち現れる、しかもそれが「日常」のありのままの姿である、そういうことなんでしょう。さらに我々の日常とは、人生や世界についての何らかの「一般概念」を先入見としてその上に成り立っていますから、それを破るような出来事があると、それを日常でない、事件・事故だと考えます。そうではなく、我々が何も特別なことはないと安穏と考えている日常は、生きるのに都合のよいように作られたものにすぎません。そうした一般概念としての日常が破れて、どのような事件・事故がおこっても、病になることも死ぬことがあっても、何も特別なことはない、それこそが平常・日常の本当の姿なんだ、というような目覚め、そういうことだと思います。ここにも日常は日常でない、それ故に日常である、という即非の論理、単なる同語反復でない「自同的判断」が成り立っていますね。この「現実そのまま」としての「実在」こそ西田が『善の研究』で「純粋経験」という名で名指そうとしていたものだと思います。要するに、知的直観に基づく具体的一般者こそが「現実そのまま」であって、それ以外のものは何らかの「一般概念」の上に成り立つ具体的一般者として、現実そのものからは区別されることになると思います。しかしそうなると「絶対無の哲学」についてもはっきりとさせておかなければならないことがあると思います。

W

どういうことですか?
佐野
絶対無の場所、ないし真の無の場所における知的直観は一般概念化が可能で、それによって哲学が可能となりますが、その時にはすでに「真」を対象とし、思考・思索という方法(その形式が「論理」ですが)によって語らなければならない、という限定された「場所」ないし「一般概念」において哲学が成立している、したがって哲学の場と現実そのものははっきり区別される、ということです。少なくとも「絶対無の哲学」は「絶対無の場所」そのものにおいて成り立つものではない、と言い換えてもいいです。同じことは宗教についても言えて、宗教も現実そのものからは厳密に区別されるべき「聖なる境域」というものをもっていて、それは信仰によって(その形が教、行ですが)問い披かれて行かなければならない境域・場所です。芸術も哲学や宗教と同じ「現実そのまま」の自己限定という仕方で成立しますが、それが成立する場というものがあって、それは「創られた場(言葉という場、音の場、色・形の場)」というような性格をもち、創る(創作する)ということによって(その形・型が技術です)求めていかなければなりません。もちろん人間は何らかの一般概念なしに具体的に行為することも生きることもできませんし、そうした生が「現実そのまま」の自己限定として成り立ってはいますが、「現実そのまま」はあくまでそうした一般概念が破れたところに立ち現れる者だと思います。以上は私見にすぎませんが。

W

また考えて見ます。

S

結局「同一律」は最も根本的な「自同的判断」から抽象されたものということになって、かわいそうな扱いになっていると思います。西田の言いたいことが「自同的判断」だとすると、それを導き出すために「同一律」から出発しながら、それを否定して行く、というような。
佐野
そうですね。矛盾のない所を認めさせておいて、矛盾へと導くという。しかしそもそも「同一律」が思考の原理・原則だとすると、人間の思考は「同一律」に反するような矛盾、Aが同時にAであってAでない、といった事態を考えることができるんでしょうか?

N

できると思います。「矛盾の統一」、とか「包む」といった事態がまさにそれです。
佐野
しかし矛盾の「統一」と言ってしまった時点で、統一と非統一の分別に落ちているだけでなく、統一への固執が見られます。「包む」も同様で、「包まない」との対立に落ちているのと同時に、「包む」への執着が見られるとも言えます。もし矛盾を本当に考えるとすれば、統一と同時に非統一を言わなければならないはずです。人間にはこれが思考できない。「矛盾」が何であるかは分かるのですが(そうでなければ「思考できない」とすら言えないことになります)、それを思考することができない。ちょうど四角い三角形をイメージできないように。ですから「具体的一般者」という言葉にしても、人間的な思考はこれをどうしても「一定の」一般者というように考えざるを得ない。一般「者」という表現がよくないということで、ハイデッガーの存在者(有るもの)と存在(有)の区別のようなものを念頭に置きながら、これを一般「者」ではなく、「一般」と呼んだところで、どうしても一定の一般を考えてしまう。いや、そうではない、それは一定の一般ではなくて、じつは無なのだよ、などと言われても、「無」ということで「何か」を考えざるを得ない。西田は「単なる同語反復」でない「自同的判断」ということで、「同一律」という人間の思考の原理を超えたものを思考しようとしているけれども、思考できている気になっているだけとも言えなくもない。ここには人間の思考ではどうしようもないものが、それでも、というより、どうしようもないということを通じて思考に対して開かれている、ということが重要ではないか、そう思えるのですが。人間はそのようにして開かれたものを、一般者の自己限定と呼ぶより仕方のない、そうした向こう側からの促しに応じて思索して、これを言葉にもたらすのだけれども、そのことと同時に、これも一般者が自らを隠す、としか言いようもない仕方で、どこまでも思考することができない、言い表すことができない、ということが厳然としてある。しかしそのことがさらに新たな開けを導き、それが思索を促す。きわめてハイデッガー的ですが、そういうことが大事なんじゃないかと。プロトコルはこの位にしてテキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

「我々の判断的知識の根柢には具体的一般者がなければならぬ、判断は具体的一般者の自己限定として成立するのである。我々の知識の体系はかかる一般者の無限なる層である。主語的方面に於て無限に深い直覚的なるもの(個物)が見られると共に、述語的方面に於て之(個物)を包む無限大の一般的なるものが認められねばならぬ。かかる一般的なるものが限定せられるかぎり、判断的知識が成立するのである、之を越ゆれば全然直観の世界に入る」(括弧内引用者)。
佐野
ありがとうございます。結論のような感じでよくまとまっていますね。ここでも「個物」とか「無限大の一般的なるもの」がなにか実体のようなものとしてイメージされがちですが、ここではそうしたいわゆる形而上学的な存在が問題になっているのではなく、あくまで開けにおける言葉であるというように読みたいと思います。因みにイデアのようなものも、形而上学的な実体というようにしばしばあしざまに言われますけれども、本当はそうではなく、これも開けの言葉だと私は思うのですが。それはともかく、最後にある「之」とは何を指しますか?

A

「判断的知識」ではないでしょうか。
佐野
そうでしょうね。「知識」を越えた所が「直観の世界」ということでしょうから。問題は、「かかる一般的なるものが限定せられるかぎり、判断的知識が成立するのである、之を越ゆれば全然直観の世界に入る」をどう読むか、です。直前で「述語的方面に於て之(個物)を包む無限大の一般的なるものが認められねばならぬ」とありますから、一方で最も根源からの哲学的思索の可能性を述べていると考えられますが、他方で哲学的思索を越えた「直観の世界」を、例えば宗教のような形で考えているようにも読めます。

A

「限定せられるかぎり、判断的知識が成立する」とありますから、限定されない場合は純粋に直観の世界に入る、という意味ではないでしょうか?
佐野
たしかにそう読めますね。限定せられ得、また実際に限定される場合には哲学となるけれども、限定されない場合もあり、その場合は純然たる直観の世界となる、という意味ですね。この場合「全然」を「越ゆれば」にかけて読むのではなく、「純粋に」と読むことになりますね。この箇所の読みとしてはその方がよいかもしれませんね。高い宗教的な境地を体現してはいるけれども、それを概念的に語ることができない、そういう宗教者はもちろんいますし、そういう人がむしろ純然たる宗教者でしょう。問題は宗教者が自覚的に宗教の立場に立って、哲学を見下し、これを拒否する場合です。もちろん宗教における信仰は体験の事柄であって、概念の事柄ではない。むしろ哲学的な思索は宗教的な体験を妨げるものになります。宗教的な体験に不可欠なのは、教えとその宗教に特有の行です。その限りにおいて、宗教が哲学を拒絶するのは分かります。しかし宗教者が自分の体験を我がものとし、それを振りかざして宗教の立場にから哲学を見下すとき、それは思想によってそうしているのであって、すでに哲学の境域に立ち入っていることをその者は自覚していません。しかもそれは、自らのよって立つ思想を批判吟味することを忘れているという点において哲学としても、そうして(信を我がものとするという点においておそらくは)宗教としても未熟な在り方と言わなければならないと思います。西田の立場は純然たる宗教家の立場を否定するものではなく、そうかといって哲学を宗教より低く見る立場でもないと思います。長くなりました。次をBさん、お願いします。

B

読む(342頁11行目~343頁2行目)
佐野
「右の如き述語的一般者」とありますが、「右」には「述語的一般者」が見当たりませんね。「具体的一般者の自己限定」として成立する「一般者」の「述語的方面」と考える外ありませんね。ここでは具体的には数や空間です。そこでは一般概念と直観が直ちに一つです。数は直ちに5であり、5は直ちに数である、という仕方でどの数においても数は自己同一を保っています。それゆえ数や空間においては「所謂先験的知識」、ここではアプリオリな認識という意味だと思いますが、そうしたものが成立します。次に「唯その個物的なるものの尖端」とありますね。「その」とは「述語的一般者」ですね。数や空間の場合、「特殊」はあっても「個物」はありません。5に「この5」というものはありません。しかし「述語的一般者」がそうした特殊を越えて個物に至る、これを「尖端」と呼んでいますね。そこにおいてのみ「自己同一として直覚的と考えられる場合」とありますが、これはどんな場合ですか?

B

経験的直観の場合だと思います。
佐野
そうですね。「これは青い」という「自同的判断」を念頭に置いています。その場合「その述語的一般者は積極的に限定すべからざるものとなる」、つまり「これこれ」と言ってすますことができない、無限に限定可能なもの、という意味です。「是に於て主観と客観とが相対立し、主語となって述語とならない直覚的方面が客観的と考えられ、述語的なるものが主観的と考えられる」。以前の場所の分類では「対立的な無の場所」ですね。そこでは「主観と客観、知るものと知られるものとを包む類概念はないと考えられ、述語的一般として考えられるものはすべて客観的なるものの抽象的一面にすぎないと考えられる」、つまり主観にとってのものでしかない、ということです。次をCさん、お願いします。

C

読む(343頁2行目~6行目)
佐野
「併し判断的知識が成立するかぎり」とありますね。この「併し」は何を念頭に置いたものでしょうか?

C

まずは経験的知識。その尖端が「これは青い」という自同的判断。しかし経験的知識の場合は、主語と述語が分れて、「青い」が結局抽象的な一般概念としての「青」になってしまう。これをさらに一歩進めて知的直観における判断的知識。ここまでを念頭に置いて、「併し判断的知識が成立するかぎり」、つまり「全然直観の世界」に入らない限り、と言っていると思います。
佐野
なるほど。ずいぶん射程距離の長い「併し」ですが、とても分かりやすいですね。「特殊化の尖端」、「個物」ですね。そこにおいても「一般的なるものが自己自身を失うのではない」。「判断的知識が成立するかぎり」はそうでなければなりませんね。「却って自己自身に還る」。「一般」が真に「一般」になる、真の無となって個物を包むということですね。そこで次に「自己自身が主語となって述語とならない基体となる」とあります。「自己自身」とは「一般的なるもの」のことです。それが自らを無にして「主語となって述語とならない基体」つまり「個物」になるということです。「基体」とは「基に置かれたもの(ヒュポケイメノン)」の訳で、それについて語られるところのもの、それの基に置かれるところのもの、の意味ですが、ここでは個物としての実体を意味しています。「主観的なもの」、つまり「一般的なるもの」が、かえって「客観的なるもの」、つまり「個物」を「包む」ということになります。そうして「此の如き述語的一般の方向に於て我々は意識の概念に到達する」とあります。

C

「意識の概念」とは何ですか?
佐野
「意識」の何であるか、意識の本質、というくらいの意味ではないでしょうか。この「意識の概念」は以前の分類でいえば、「対立的無の場所」としての意識、つまり客観に対立する主観としての意識ではなく、「真の無の場所」としての意識だと思われます。

C

その場合、「意識の概念」は純粋経験としての「意識現象」ということになりますか?
佐野
そうですね。いずれにせよ「後に云う如く」とありますから、そこまで待つことにしましょう。最後に「意識面に於て具体的一般者が抽象的概念として限定せられるのである」とありますが、これも「意識面」=「具体的一般者」の「述語的一般者」、と考えた方がよいと思います。今日はここまでとしましょう。
(第109回)
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具体的一般者(その3つのレベル)

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「三」の第1段落から第3段落までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「具体的一般者は自己自身に同一にして自己の内容を与えるといふ意味に於いて直覚的であるが、自己自身の内容を含み之について述語するといふ意味において一般概念的でなければならぬ」(340頁10行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「変ずるものの根柢にある一般的なるものは、抽象的概念を越えて自己の内に所与の原理を蔵し、自己の内容を与える具体的一般者であるが、ここに二つの個物があるとき、個物1と個物2の根柢にある一般的なるものは具体的一般者1と具体的一般者2になるのではないか。個物1と個物2が(ひいては森羅万象が)、そのまま、ありのままに無限の広がりを持つものと関係するとしたら、それはこの論理においてどのように説明されるか」(197字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
何か補足はありますか?

S

「具体的一般者」が森羅万象で、すべてがその自己限定だとすると、自己限定できない一般者が初めから刷り込まれているのではないか、つまりは「自己限定って何だ?」という問いです。
佐野
面白いですね。一般者とその自己限定とは、ハイデッガーの有(存在)と有るもの(存在者)の関係のようですね。有は有るものを開くと同時に自らを匿う(隠す)のですから。この問題はハイデッガーにおいても有の真性(存在の真理)と非真性(非真理)、あるいはそうした真性が起ることとしての「性起(ereignis)」と「非性起」の関係を問う問題として、最も深いところにある難問だとされます。西田にもそうした側面がありそうですね。テキストでも西田は矛盾したことを言っています。一方で本日のキーセンテンスにあるように、直覚的なものは「一般概念的でなければならぬ」、つまり哲学的な説明が可能でなければならない、と述べる。しかし他方で、例えば「一般的なるものが限定せられるかぎり、判断的知識が成立するのである、之を越ゆれば全然直観の世界に入る」(342,10-11)と判断的知識を越えた直観の領域を認めています。これを具体的一般者そのものとその自己限定の関係に当てはめて考えてよいかどうか。

Y

その場合でも、西田は「ありのまま」の直覚はあり得ると考えていたと思います。
佐野
ハイデッガーの場合には、こちら側の認識能力の問題ではなくて、有(存在)が自らを隠してしまうので、人間に顕わになると言っても、隠されている、という仕方で顕わになることになると思います。それに対して西田の場合は隠れるということも含めて、すべてが顕わになっている(「露堂々」)と。

Y

ええ。そうして西田はそうした直覚が哲学的な説明になり得ると考えていたと思います。そうでなければ一般はその自己限定(特殊)に対立する抽象的な一般者になると思います。

A

李禹煥という美術家がいますが、彼は石と銅板といった「関係項」を通じて「関係」そのものをどう感じるかを作品化しています。ハイデッガーの有(存在)と有るもの(存在者)、あるいは西田の一般者とその自己限定にも通じるかも知れません。頭だけでは理解できないものを、身体と頭で掴んでいく。そうしたものが作品を作る際にヒントになっているようです。座禅の際の半眼、これは如来像もそうですが、こうした半眼のコツをつかむことが重要だと思います。
佐野
Sさんのプロトコルではもう一つ問いがありましたね。

S

個物1と個物2に対応して具体的一般者1と具体的一般者2があるのではないか、という問いです。「そんなものはない」と言われるかもしれませんが。
佐野
テキストを読む限り、そんなものはない、と思われる方が多いのでは。西田が個物と個物の相互関係を考えるようになるのは、後に「世界」を弁証法的に考えるようになってからです。因みに既に『善の研究』でも、個物と個物の関係が弁証法的に考えられていました。しかしここではそうした「学者」風の説明に立ち入らずに、何故個物が一つなのか、目下のテキストだけで考えて見たいと思います。何故個物が一つだけなのか。それはおそらく出発点が包摂的判断だからです。一般が特殊を包む。この特殊化をどこまでも推し進めても、一般性を脱することはできません(330,1)。個物に達するには「主語となって述語とならないと云うこと」が附加されなければならない(同)。「富士山!」ですね。こうして個物という尖端に到達する。こういう考察方法では個物は一つとならざるを得ないと思います。

S

なるほど。そうした個物と森羅万象とはどうつながるのでしょうか?
佐野
包摂的判断から個物の先端に到達する時に超越があるのですが、この時に何が起こっているか、が問題になると思います。その場合尖端の個物が特殊化(主語)の方向の方向に見出されるものだとすれば、一般化(述語)の方向に見出されるものが絶対の無ですが、「述語とならない(無)」にとどまれば、個物の世界は直観の世界という外ないことになります。しかし西田はそれが同時に「述語」できるもの、哲学的に説明可能なものでなければならないと考え、その論理を探ります。西田によればここに「転換」があるというのです。まず個物(「富士山!」)は「自己自身に同一なるもの」ですから、これを判断にもたらしても「同一判断(「富士山は富士山である)」にしかならないはずですが、これが無意義な同語反復でないとすれば、そこに「一般者の自己限定」がなければならないと考えます。

S

それはどのようにして、ですか?
佐野
まず個物が質料などの抽象的一般性を拭い去って真の特殊(例えば「個色」)となる時、同時に一般性も特殊と対立する、それ自身特殊であるような、そうした特殊性を拭い去って真の一般となる。そうなるとこの一般者は真の無となると同時に真の特殊(個)を包むことになります。これが具体的一般者です。「富士山!」とか「富士山は富士山である!」という叫びにおいては、絶対無の無限の深みから個物が立ち上がっているのですが、それは同時に絶対無からの無限の自己限定の尖端として、具体的一般者の自己限定として、具体的一般者に包まれつつ立ち上がっている、ということです。一即一切、一切即一と言ってもいいかもしれません。Sさんの言う、森羅万象も個物と個物の相互関係も具体的一般者において生起していて、その自己限定として個物(真の特殊)が成立している、そのように考えて見てはいかがでしょうか。

S

そうした直観からどのように哲学が可能になるのですか?
佐野
すみません。ここで先程でてきた「転換」が問題になります。「自己自身に同一なるもの」(「富士山!」)ないし「同一判断」(「富士山は富士山である」)と言うことで主語と述語が転換可能となり、それを通じて主語(「富士山」)と述語(絶対無・無限な述語・森羅万象)が転換し得る、と言うのです。そうしてこの新たな主語が一般概念的なもの(説明的言語)を含むことによって概念的知識、つまり哲学的な説明が可能になると考えているようです。

S

ありがとうございます。
佐野
プロトコルはこの位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(341頁1行目~342頁6行目)
佐野
この第4段落全体が「経験的知識」に関するものとなっていますね。「具体的一般者」も本来の知的直観におけるものから、数学や経験的知識における一般者まで拡張した意味において用いられています。「経験的知識」の場合、「直覚的方面」(経験的直観(見る)の内容・主語的方面・客観)は外から与えられなければならず、「概念的方面」(考える・述語的方面・主観)と分裂することになりますが、経験的知識として成立するために両方面が総合されなければならないとすれば、概念的方面としての抽象的一般者を一種の「具体的一般者」(「一つの具体的概念」)と考えてもよい、と言おうとしています。次に「上にも云った如く」とありますが、この「上」とはどこですか?

A

340頁1行目の「所謂抽象的概念といえども一方に所与の原理がなければならない」でしょうか?
佐野
そうですね。「所与の原理」とはこの場合、経験的直観の内容が外から与えられなければならない、という意味ですから、「元来直覚的なるもの(経験的直観)との関係なくして成立することはできぬ」と重なりますね。次に「唯、単なる包摂的関係をもってしては〔抽象的概念は〕直覚的なるものに結合することはできない」とは一般の特殊化という仕方でどこまで考えても、経験的直観には結びつかないということです。しかし「特殊と一般との包摂的関係に判断の主語と述語との関係を含めて考えれば」、また出て来ましたね。「主語となって述語とならない」というアリストテレスから学んだ実体概念を西田が独自に解釈したものです。これを付け加えれば、抽象的概念も「直覚的なるものに結合できることができる」、そのように述べます。こうなると、例えば「色の概念」という抽象的概念も、最後の所で(後で出て来ますが)「これは青い」という仕方で、「判断の主語(これ)と述語(青い)との関係を含めた包摂的関係(「これは青い」)を包む一般概念と考えることができ、「具体的概念の一面」と考えることができる、ただ「不完全なもの」だ、そのように述べます。

A

「これは青い」が出て来ると、どうして抽象的概念が具体的概念になるのですか?
佐野
「これは青い」は主語と述語が同一の「自同的判断」です。実際「これ」と「青い」は同一です。「これはAさんです」というのと同じですね。どちらも個(物)です。経験的判断も最後の所でこうした同一判断を抱えている、したがって主述の転換が可能となって、「これ」という語り尽くせないものについて「青い」という仕方で述語づけることができる、そのように述べようとしていると思われます。

A

何故「不完全」なのですか?
佐野
経験内容が外から与えられなければならないからだと思いますが、他にも理由がありそうです。外から与えられた、というように、内外、主客の区別を前提すると、色や青といった抽象的概念(言葉)が破られないままに、与えられたものを主観の側から概念的に「青」というように捉えに行ってしまう、ということが起ります。この場合には直覚との結びつきは不完全なものとなり、さらにはそれを含む一般概念も具体的概念としては不完全なものになります。

A

子供に12色の色鉛筆を与えて色を教えることにも弊害がありそうですね。日本の教育はそこで終わっている場合が多いですが、それで終わりとすれば害があると思います。
佐野
そうですね。ただ言葉がないと、人間は認識もできませんから、そういう言葉と同時に絶えず言葉では言い表すことのできないものに目を向けさせることが大切なんでしょう。次に行きましょう。何と書いてありますか?

A

「直覚的方面と概念的方面とを統一して一つの具体的概念が成立するには、両面を結合する自同的判断がなければならぬ。自同的判断によって直覚的なるものと概念的なるものとが内面的に結合せられるのである。自同的判断の成立するかぎり、具体的一般者が成り立つのである」とあります。
佐野
ありがとうございます。西田は「具体的一般者」に3つのレベルを考えていて、①知的直観と概念との結合によるもの、②数学におけるような、純粋直観と概念の結合によるもの、③経験的知識におけるような、経験的直観と概念との結合によるもの、がそれですが、ここではまず一般的に述べていますね。どの場合にも「自同的判断」が必要だと。①の場合は何度も出て来た「富士山は富士山である!」という絶句体験から発した自同的判断、②の場合には「一般概念なるものが直に直覚的である」という仕方で、数自身、空間自身がすでに「自己自身に同一なるもの」であるため、ことさらに自同的判断をもち出さなくても「自己自身について述語する」ことができる場合、③の場合は「これは青い」という経験的知識における自同的判断です。まずは②から述べられています。空間のようなものについて「我々は容易に之を具体的一般者と考えることができる」とありますが、そうは言ってもこの「具体的一般者」は本来のものではなく、あくまでも限定された一般者、その意味で抽象的一般者です。それに続けて③の場合が述べられます。何と書いてありますか?

A

「之に反し所謂経験的知識という如きものに於ては、我々は空間の場合に於ての如く一般的なるものの直覚(純粋直観)を有つと考えることはできぬ、併し最後の種を越えた個物に於て自己自身に同一なるものの(経験的)直覚を有つのである、(経験的に)直覚的なるものに直接するのである」とあります。
佐野
ありがとうございます。そうしてその例が次に出て来る「これは青い」ですね。そうしてこの「判断が経験的事実(「これ」)を主語として成立するかぎり、その述語は一般的青ではなくして、個色的青でなければならぬ、唯一の青でなければならぬ」と述べられます。経験的な一般概念も最後の所で直覚的な自同的判断に基づいているということですが、この直覚が「経験的直観」として主客の分裂を前提にしている限り、この一般概念は「不完全」なものであることについては、さきほど考察しました。次に「斯く唯一なるものの判断的知識が成立する(言葉にならない直覚について述語できる)かぎり、それ自身に於て直覚的ならずとも之を包む一般者が考えられねばならぬ」とありますが、「之」とは?

A

「直覚的(なもの)」でしょうか?
佐野
そうですね。直覚的なものを包む一般者、つまり「一つの具体的一般者」ですね。そうして「単なる包摂的関係から見れば(直覚的なるもの・経験的直観)は概念的関係の外に出ると考えられるであろう。しかし(主述の)判断的関係を含めた包摂的関係から云えば、(直覚的なるものは)、尚述語的一般者(概念的なもの)に於てあると考えることができる」と述べられます。このように直覚的なるものを包む「述語的一般者」が「具体的一般者」で、「これは青い」という場合には、主語と述語が転換して、この「述語的一般者」が主語(これ)となって、それについて述語する、という形を取ります。これは「一般者の自己限定」ですから、「これは青い」という「自同的判断が単なる同語反復にあらざるかぎり、一般者の自己限定でなければならぬ」と述べられることになります。今日はここまでとしましょう。
(第108回)
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変ずるもの/連続的なもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「二」の第5段落337頁7行目「以上論じた所によって、」から338頁9行目「変ずるものとなるのである」までを読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「連続的なるものも個物である、単に自己同一といふより尚一層個物的と考へることができるが、連続的統一とは内に無限なる特殊化を含んだ一般者でなければならぬ、無限なる包摂的関係をその一般的根元に還って見た時、連続的なものが考えられるのである。併しかかる還源的方向を何處までも進めて行って、主語となって述語とならないものと反対に、述語となって主語とならないという意味に於て包摂的関係を超越した述語面に撞着した時、かかる場所に於て変ずるものが見られるのである」(337頁13行目~338頁3行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「337 頁「連続的なもの」としての「個物」があり、338 頁「変ずるもの」としての「個物」が出てくる。「連続的なもの」の方向=一般的根元に還る方向をどこまで進めていっても、「包摂的関係を超越した述語面」に「撞着した時」、かかる場所に於て「変ずるもの」が見られるのであるとされる。ここでは、「連続的なもの」と「変ずるもの」の間に、絶対無の場所への転換と同時にそこに於いてある真の個物が見られる。「連続的なもの」と「変ずるもの」はどう違うのか?それぞれの背後に横たわれる一般的なるもの、或いはそれが於いてある場所は違うのか?」(254字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
「連続的なもの」と「変ずるもの」は別のものとお考えですか?

R

はい。どちらも個物ですが、その背後になるものが異なります。「変ずるもの」としての個物の背後にある一般的なものは絶対無ですが、「連続的なもの」としての個物の背後にある一般的なものは、実体化された絶対無です。

N

「変ずるもの」が個物で、「連続的なもの」が一般的なものではないですか?
佐野
普通はそのように考えられますね。そうして「変ずるもの」は「連続的なもの」がなければ考えることはできません。そこで両者がどう関係するかが問題になって来ると思いますが、ここで問題になって来るのが、「主語と述語とは転換する」ということです。Rさんの解釈にはこの視点が欠けているように思われます。通常の包摂的判断では、主語の側に来るのが個物・変ずるもので、述語の側に来るのが一般的なもの・連続的なものです。しかしこの判断が破れる。個物が真に個物となり、変ずるものが真に変ずるものになります(富士山といった実体内の、あるいは色一般といった概念内の変化ではなく、生滅といった徹底した流転になる)。それと同時に、一般的なものも真に一般的なものになります(実体としての富士山や色一般というような抽象的一般者が真の全体としての具体的一般者になる)。こうして連続するものが真に連続するものとなる。さらにそこでは主語と述語が同一となることを通じて転換し、一般者の自己限定として個物が立ち上がることになります。

R

そのことと「変ずるもの」が「絶対無の場所」に「於てある」とはどう関係しますか?
佐野
その場合「絶対無」をどう考えるかが問題だと思います。「変ずるもの」を「有」、「絶対無」を「無」と考えると、この「絶対無」は有無対立の無になってしまいますね。

N

この絶対無は、非連続の連続のようなもので、あらゆるものが区別されながら結合子によって繋がって(通じ合って)いるようなそんなあり方ではないでしょうか。
佐野
絶対無とは具体的一般者にほかならないと。面白いですね。プロトコルはこのくらいにしてテキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(「三」第1段落)
佐野
「時は変ずるもの」で「変ずるものはすべて時に於て変ずる」とすれば、「時の概念と変ずるものの概念とは如何なる関係に於て立つ」かが問題になる、ということです。ここはそのまま受け取っておきましょう。Bさん、次をお願いします。

B

読む(「三」第2段落)
佐野
ここは「二」の最後で言われたことを簡潔に要約した箇所ですね。「変ずるもの」を考えるには「具体的一般者」の概念から出立しなければならない。その「具体的一般者」とは「特殊と一般の系列」、つまり包摂的関係を含んだものだが、それは「主語と述語との判断的関係」を含んでいると。それによって「唯一なるもの」、個物ですね。これが考えられる。「自己に同一なるもの」、「主語となって述語とならない特殊化の尖端」も同じ(個物)です。そうしてこうした「特殊化の尖端にまで達すること」が「具体的一般者が自己自身に還る」ことだと。一般者は抽象的一般者としてはどこまでも特殊(さらには個物)と対立します。しかしそのように特殊(個物)と対立する一般者は特殊と並ぶそれ自身特殊なものであって、真の一般者ではありません。これはヘーゲルに学んだものだと思いますが、一般者が個物になることによって、一般者も真に一般者(具体的一般者)になるということです。ここまでで質問はありますか?

B

大丈夫です。
佐野
そのように「具体的一般者が自己自身に還って見た時」、その時が「一般的なるものが主語となって述語とならない基体として考えられた時」だというのです。「基体」は「主語となって述語とならない」とありますから、さしあたり「個物」でいいと思います。それが同時に「一般的なるもの」であり、そこにおいて「連続的なるもの」が考えられるので「基体」と呼んだのでしょう。いずれにしても具体的一般者のことです。次はちょっと読みにくいですね。何と書いてありますか?

B

「変ずるものの根柢にも、何かの意味に於て連続的なるものがなければならぬ、かかる連続的なるものがもはや抽象的概念として限定することができないと考えられる時、我々は之を変ずるものと考えざるを得ないのである」とあります。
佐野
最後の「之」は何を指しますか?

B

「連続的なるもの」ではないでしょうか。
佐野
「連続的なるもの」が「変ずる」のですか?まあ、「具体的一般者」ですから結局はそれでもよいことになりますが、もう少し普通に読めないか考えて見ましょう。この文の冒頭にある「変ずるもの」を「一般に変ずるものと考えられているもの」と考えて見ましょう。「変ずるものの根柢にも、何かの意味に於て」とありますから、むしろそのように読んだ方がよいと思います。その場合でも「連続的なるものがなければならぬ」、となります。そうして「かかる連続的なるもの」は通常、富士山というような実体にせよ、色一般にせよ、抽象的概念として考えられているけれども、それがもはやそういうものとして限定することができないと考えられる時、「我々は之を」、すなわち「変ずるもの」(一般に変ずるものと考えられているもの)を〈真に〉「変ずるものと考えざるを得ない」と読むのです。つまり富士山というような実体を持ち込んで、それが初冠雪となったとか、色一般という抽象概念を持ち込んで、色が緑から赤に変わったとか考えるのは、真に変化を考えたことにならないということです。富士山という実体や色一般という変化しないものが残っているからです。Bさんが就職する、というのも一つの変化ですが、その場合Bさんという実体(個体)が変化しないものとして変化の基に置かれています。そうではなく、変化を考えるとはBさんが死ぬということまで含めて考える、徹底した生成変化、流転の中で考えるということでなければ変化を考えたことにはならない、ということだと思います。次へ参りましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(「三」第3段落)
佐野
「変ずるもの」の根柢に「連続的なるもの」、「一般的なるもの」がなければならないが、それは抽象的な「一般概念」として限定できないものでなければならない、とこれまで述べられたことが繰り返されています。この一般者は「具体的一般者」でなければならない、ということです。さらにこの「一般概念として限定できないもの」が「非合理的なるもの」と呼ばれていますね。これも合理と対立する非合理的なものではないでしょう。そういう「非合理的なるものの合理化」によって「変ずるものの概念」が成立する、とされます。しかしここで西田は次のように問いを立てます。「限定することのできない一般的なるものとは何を意味するか」、「非合理的なるものの合理化とは一種の矛盾ではなかろうか」と。どちらも「具体的一般者」に関わる問いです。前の方の問いは、「具体的一般者へ」の問い、後の方は「具体的一般者から」の問いと言えると思います。そこで西田は「私は是に於て具体的一般者というものについて考えて見なければならない」と述べます。ここまでで何か質問はありますか?

C

特にありません。
佐野
それでは次を見て見ましょう。「具体的一般者とは抽象的概念を越えて之を内に包むものである」とあります。「之」とは?

C

「抽象的概念」です。
佐野
そうですね。単に「内に包む」のではなく、「越えて」包む。ここに超越があります。先程の「一般概念」として限定することができない、ということですね。これは単に不可能を言っているのではなく、これまでの一般概念が破れるという体験ですね。こうした体験だからこそ、「自己の内に所与の原理を蔵し自己の内容を与えることを意味する」ということになります。

C

「所与の原理」とは、経験内容は与えられなければならないということですよね。
佐野
そうです。通常は認識主観にとって経験内容はその外から与えられなければならない、という意味です。しかし西田は「所与の原理」ということで、経験内容を与える原理一般を考えているようです。これを、カント的に認識主観の外から与えられる場合と、内から与える場合とに分けて考えていますね。カント的な「所与の原理」は主観と客観の対立を前提していますが、西田は主観と客観が分れる以前の所から考えようとします。もっともカントからすれば、そのように考えようとするところで、主観と客観が分れる以前の所が「与えられたもの」になると思います。これはたんなる立場の違いというのではなくて、人間が一方で思考(「ついての言葉=反省・説明」)以前を生きながら、他方で思考を一歩も出ることができないという、人間そのものが抱える矛盾として考えなければならないと思います。どちらが正しいという問題ではない。

C

ありがとうございます。
佐野
次に行きましょう。具体的一般者が「自己の内に所与の原理を蔵し自己の内容を与える」ということを言い換えて「自己の内に特殊化の原理を含み自己自身の主語となる」と述べています。体験内容を主語として、これに述語を与える、言葉にする。これが「特殊化の原理」と呼ばれています。体験が一般概念を破って(超越して)成立したものですから、一般概念をいわば止揚された仕方で含んでいる。無限なる言葉として蔵している。だから言葉になる、これを「特殊化の原理」を含んでいる、と言っているのだと思います。次に「一般概念」の話が出て来ますね。

C

色と数学ですね。
佐野
そうです。色の場合は「所謂抽象的概念」と呼ばれています。その場合でも「所与の原理」が必要ですが、この「所与の原理」は外から与えられなければならないという意味です。「色の概念的関係を構成するものは客観的に与えられる色自体の体系」だとされます。「色の概念的関係」は主観によって「構成」されますが、そのためには「色自体の体系」が客観的に与えられなければならない、ということです。しかし「色の一般概念が直に色自体ではない」と言われます。例えば「赤」という言葉は一般概念ですが、感覚される赤はどこまでも言葉に言い表すことのできないものです。「数学的概念」の場合はどうですか?

C

「一般概念が同時に自己の特殊的内容を与える」とあります。
佐野
そうですね。「一般概念」が「特殊化の原理」を含むということです。言い換えれば「自己自身が所与の原理となる」ということです。

C

どういうことですか?
佐野
例えば「自然数」という一般概念が直ちに、1,2,3,…という特殊を含む、ないし与える、ということです。

C

次に「斯くあるということと斯くあらねばならぬと云うこととが一である」とあるのもよく分かりません。
佐野
「斯くある」が特殊で、「斯くあらねばならぬ」が一般(概念)です。数学、例えば数の場合は、5(特殊)がそのまま数(一般)です。「この5」というものはありません。「色」の場合は、この赤(斯くある)と「赤」という言葉(斯くあらねばならぬ)は一致しません。

C

分かりました。
佐野
次いで「此故に具体的一般者の根柢には直覚的なものがなければならぬ」とありますが、「此故に」が何を指しているのかはっきりしませんね。「色」のような経験的概念の場合には「感性的直観」、「数学」の場合には「純粋直観」が必要だ、ということ、つまり総じて一般概念の場合でも直観がなければならない、ということを受けているのかもしれません。「具体的一般者」の根柢にある「直覚的なるもの」は「知的直観」ということになると思います。次に「抽象的一般概念」とあるのは、さしあたり「色」の如き、経験的な一般概念のことでしょう。そうした概念から見れば「具体的一般者と考えられるものは既に超越的なるものを含んで居る」とは、経験的な一般概念を破ったところに「具体的一般者」が開ける、ということだと思います。しかし数学的な一般概念といえども限定された一般概念である以上、そうした概念から見れば具体的一般者は超越的なるものを含んでいる、と言えます。そうして「而もそれが概念的と考えられるのは述語的なるものが主語となるが故である」とありますが、「それ」とは?

C

「具体的一般者と考えられるもの」だと思います。
佐野
そうですね。一般的概念を破って開ける具体的一般者は、一般概念を越えるという仕方で一般概念を内に包んでいますから、こうした述語的なるものが主語となることによって、それについて述語することができる、つまり概念的に語ることができる、ということになります。

C

「主語と述語が転換する」ということですね。
佐野
そうです。テキストでは続けて「少くとも直覚的なるものが述語的なるが故である」と書かれてあります。「少くとも」とありますから、これは直覚的なるものが、述語となり得るもの、言葉になりうるものという意味でしょう。直覚をともなう体験には一般概念の言葉がぎっしり詰まっており、それが言葉にされることを待っている、そんな感じですね。逆にそうだからこそ、言葉にするのが難しい、ということもありそうですね。ですがそうだからと言って、この直覚的体験を「全然非合理的として述語することのできないもの」としてしまえば、それは「概念的知識と無関係」となります。そういう立場を掲げる人もいます。

C

どういう人たちですか?
佐野
「宗教の立場」に立つ、と明言(断言)する人たちですが、これはもう時代や宗派を超えて存在しますから、これも「人間」の本質に関わる問題とみてよさそうです。そういう人たちは哲学を宗教より低いものと見て、哲学に敵対的な態度をとるか、哲学を(理屈と見て)見下します。自分が出会ったもの、自分を虜にしたものだけが真実で最高だとする立場ですが、これはもう、宗教に限らず、「人間」にとってどうしようもない問題かもしれません。しかし人間とはそうした存在であること、さらにそうした立場に立つということも分別的な言葉によってそうしている、ということは、そうした人々も自覚すべきだと思います。実際、禅宗の「不立文字」というのもすでに「文字」です。

C

それに対して、西田の立場は次に見られるように「直覚的なもの」は「概念的知識の基礎となる」、つまり直覚的体験は哲学の基礎となる、ということでしょうか?
佐野
哲学から宗教へ、そうして宗教から哲学へ、というような立場だと思いますが、西田自身は宗教の立場に立って哲学を展開するというような、いわゆる「宗教哲学」の立場に立っているとは考えていなかったと思います。あくまで自分は哲学者であると考えていたと思います。その場合の哲学というものが直覚的な体験に基づく哲学、ということになります。ただし西田は根本経験、つまり判断(「についての言葉」=反省・説明)以前の体験の直覚を疑いませんが、ここは難しいと思います。

C

どういうことですか?
佐野
中島敦に『名人伝』というのがありますが、弓の名手が辿り着いた究極的な境地というのが、もはや目の前にある弓を認識できない在り方だというのです。しかし彼に弓を持たせれば、おそらく素晴らしい射を放つと思います。しかしそれについて語れない。体験の根本にはこの「語れない」ということがついて回る。我々がすでにそこを生きているところのものは、決して我々に顕わにならない、という側面が西田の哲学にはあまり感じられない。さらに言えば、人間は自分が生きているところの根本から目を背けるということがあります。日常的な生において我々は常に「死」から目を背けています。これはもうどうしようもない。私は先日交通事故に遭い、脳震盪を起して3時間くらい記憶がなかった。しかし自分で歩いて救急車に乗り、自分の生年月日と自宅の電話番号を正しく救急救命士の方に伝えたというのです。ただまったく記憶がないので、「語れない」。もう名人の境地ですね。それと同時に面白いのは、事故直前、さらにはもう少し前の記憶も消されている、ということです。もうこれはおそらくとしか言いようがありませんが、恐ろしい体験を無意識のうちに封じ込めてしまったと考えられます。封じ込めること自体も無意識ですから、これはもうどうしようもない。こういう生のレベルでの出来事を人間は認識できない。人間の根源的な生は、人間の最高の境地でもあり、痴呆の状態でもあり、人間が決して直視できないものでもあり、これらが一つになっているのですが、西田哲学にはこうした側面があまり語られていないように思われます。まあ、これだけ謎に満ちて危険なものであれば、たしかに見たくなることも、求めてしまう(愛智=哲学)のも分かる気がしますが。脱線はこれ位にしてテキストに戻りましょう。テキストでは段落の最後に、「具体的一般者」と「数学的知識」、経験的な「事実的知識」とが比較されています。「具体的一般者」についてはどう語られていますか?

C

「具体的一般者は自己自身に同一にして自己の内容を与えるという意味に於て直覚的であるが…」。
佐野
まずは、そこまでで考えて見ましょう。「自己の内容を与える」というのは以前、どのような原理と呼ばれていましたか?

C

「所与の原理」です。
佐野
そうですね。因みに西田は「自己自身に同一にして自己の内容を与える」ということを「直覚的」と表現していることがこれで分かります。続いて何と書いてありますか?

C

「自己自身の内容を含み之について述語するという意味に於て一般概念的でなければならぬ」とあります。
佐野
ここで主語と述語が転換しますね。そうしてそこから無限の哲学的語りが可能となるだけでなく、哲学的に語らなければならない、そのように西田は考えます。「数学的知識」については何と書いてありますか?

C

「特殊的内容を与えるものが同時に限定せられた一般概念であると云うことができる」とあります。
佐野
そうですね。特殊的内容、例えば5を与えるものが「数」という「限定せられた一般概念」、あるいは「三角形」を与えるものが「平面図形」という「限定せられた一般概念」だということですね。経験的な「事実的知識」についてはどうですか?

C

「経験内容について述語する事実的知識という如きものに至っては、我々は数学的知識の如き意味に於て具体的一般者を限定することはできぬ、具体的一般者に於ける主語的方面と述語的方面とが分裂するのである」とあります。
佐野
そうですね。経験的な事実的知識の場合には、数学と違って「具体的一般者」を対象としているけれども、数学のように純粋直観を用いて(観測するなどの経験によらずに)直ちに知識を得る、というわけにはいかない、経験的直観による外はない、ということですね。

C

「具体的一般者に於ける主語的方面と述語的方面とが分裂する」というのがよく分かりません。
佐野
経験的な事実認識の場合には、主観と客観が分裂し、「主語」となるものは「客観」として与えられなければならず、これについて「主観」が述語するという形で判断が成り立つということだと思います。

C

ありがとうございます。
佐野
どういたしまして。今日はここまでとしましょう。
(第107回)
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矛盾的統一から具体的一般へ

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「二」の第4段落336頁2行目「勿論一般が特殊を含み特殊が一般に於てある」から337頁6行目「具体的一般に転ずるのである」までを読了しました。今回のプロトコルはNさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「包摂的関係から云えば最後の種を尚一歩特殊化の方向に進めたものであるが、矛盾的統一としては種差を含むものとなる。是に於て抽象的一般から具体的一般に転ずるのである」(337頁5~6行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「「包摂的関係」とは、「一般が特殊を含む」ような「抽象的一般」である。この「特殊化の方向」に「主語と述語との関係を結びつけて考えるなら」、その「先端」において「一般と特殊」が「特殊と一般」との関係に「転換し得る」とともに、 両者の立場は「同等」にして「種差を含む」という「矛盾的統一」となる。その上で、「主語的なるものが却って一般的として述語的なるものを包む」。即ち、《特殊がむしろ一般を包み込む》ところの「具体的一般に転ずる」と解してよいか」(219字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
論理的にとても明晰に整理されていますね。こうした整理はかなり読み込まないと出て来ないと思います。抽象的一般(一般・述語>特殊・主語)―矛盾的統一(一般・述語=特殊・主語)―具体的一般(特殊・主語>一般・述語)という3項から成る推理式で、「矛盾的統一」が媒介項となっていますね。皆さん、何か質問がありますか?

Y

その場合、転換を成しうる理由は何ですか?

N

同じであって違うといった矛盾、即非の論理と言ってもよいが、説明できない論理です。

Y

私は転換の論理はまさに「AはAである」という「同一律」だと思います。それによって一般と特殊、述語と主語が転換しうるのですから。

N

いや、A(主語)とA(述語)は違うとも言っている。異なるのに同一だと言っている。これは矛盾で、これを論拠にするのは不完全な論理と言わざるを得ない。

R

抽象的な論理で統一できる矛盾は真の矛盾ではないと思います。ここでは真の矛盾を捉える東洋的な論理が問題になっていると思います。

S

我々が包摂的関係という抽象的な論理でしか考えられない以上、その論理を個物にまで突き詰めていけば、「これはこれだ」としか言えなくなる。これは抽象的な論理からすれば矛盾で、具体的一般への移行は避けられないのでは。ここで問題なのは、このことで西田が何を言おうとしているのか、指示しているものはなにか、といった「効果」だと思います。
佐野
そのためには、抽象的論理にせよ、即非の論理にせよ、そういった論理を予め携えて事柄に当たるのではなく、まずは「転換」という事実そのものに目を向けることが肝要だと思います。我々は通常、〈富士山は山である〉、というような抽象的な判断(包摂的関係)の中で考えています。もう一段階一般的にすると、〈山は地形である〉、という判断が考えられます。その場合、地形が一般で山は特殊になります。地形は山や平地などの特殊(種差)を可能性として矛盾的に含んでいますが、このうち山を取ると、今度は山を一般とした判断が成立することになります。たとえば〈富士山は山である〉がそれです。この場合、富士山は個物ですが、この判断自体は包摂判断です。西田はここをもう一歩先に進めようとします。それが「主語となって述語とならない」です。それによって個物の領域に超越すると言うのです。こうなると〈富士山は〇〇である〉とはもう言えない。どれほど言っても言い尽くせない個物としての〈富士山〉が立ち現れる絶句の瞬間です。その時の我々の言葉が〈富士山は富士山だ〉ということになります。しかしこの言葉はそれだけ取り出せば、何も言っていない。同語反復です。絶句の時の言葉とはこうした無意味な言葉でしかありえない(美しさの原因を美しさそのものに求めて「美しさによって美しいのだ(美しいから美しいのだ)と愚直にも述べたイデア論にも通じるものがあると思います)。しかしそれは個物としての〈富士山〉が立ち現れた感動の言葉です。そこで何が起こっているのか、西田はそこを考えようとしているのだと思います。ここまで、いかがですか?

N

続けてください。
佐野
富士山が〈富士山〉として立ち現れるのは、世界(全体)とともに立ち現れる時です。抽象的な判断が破れて、抽象的な思考の言葉が黙る時、特殊(個)と一般の抽象的な対立も、特殊(個)と他の特殊(個)の抽象的な対立もありませんから、〈富士山〉はそうしたすべてのものとともに、それらと同一でありながら、同時にそれらの否定として立ち現れていることになります。〈即非の論理〉を用いて言えば、〈富士山は富士山でない(富士山でないすべてのものと同一である)、それ故に富士山である〉となります。こうした論理は事実的な経験に基づいたもので、外から当てはめるような論理ではありません。富士山が他のすべてのものに支えられながら、それらの否定として現成している、ということの表現としては、「述語的なものが主語となる」ということになるのでしょう。

N

それは一般者が主語となり、それが自己限定するという意味ですか?そうなると後の〈永遠の今の自己限定〉にも通じそうですね。
佐野
そうですね。一般者の自己限定です。プロトコルはこのくらいにして、本日の講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(337頁7行目~338頁9行目)
佐野
また「変ずるもの」が出て来ましたね。334頁1行目で「変ずるものの根柢にある変ぜざるものとは此の如き一般者でなければならぬ」とあったのに、「例えば」と来て、急に「個色」が話題になったように、ここでもずっと「個色」を例とする非質料的(非実体的)な個物が問題になっていたのに、突然「変ずるもの」と「その背後に横たわる一般的なるもの」に話題が移っています。「変ずるもの」と「個色」は事柄としては一応別物ですが、西田においては切り離せないもののようです。ここからは解釈になりますが、「個色」のような、非質料的(非実体的)な個物は徹底した変化(生成消滅・流転)の中でしか立ち上がらないからでしょう。

B

〈富士山〉が四季を通じていろいろな姿を見せることで、〈富士山は富士山だ〉、ということでしょうか?
佐野
いえ。それでは〈富士山〉という「物」をもち込んでいます。「物」という質料的・実体的なものを「変ぜざるもの」として、その上で変化を考えています。西田はこうした質料的なものを持ち込んでは、真に変ずるものも、真の個というものも成立しないと言おうとしていると思います。〈BさんがBさんである〉ということは、〈Bさん〉そのものが生成消滅する、つまり死ぬということを含んで初めて言えることだと思います。〈Bさん〉が永遠に死なないとしたら、他のものに替えることのできない〈Bさん〉は立ち上がらないでしょう。テキストに戻ります。「変ずるものの背後に横たわる一般的なるもの」とは前段落末にありますように、「具体的一般」です。それが「単なる包摂的関係に於て考えられる一般者」、つまりこれも前段落末の表現を用いれば「抽象的一般」ですが、そうした一般者と「如何なる関係に於て立つかを瞥見し得る」とありますね。どういう関係だと瞥見しますか?

B

「転ずる」という関係でしょうか?
佐野
そうですね。そう書いてあります。「最後の種それ自身の矛盾的統一によって抽象的一般から転じて具体的一般に入る時」とあります。

B

「最後の種それ自身の矛盾的統一によって」というのがよく分かりません。
佐野
〈富士山は山である〉は包摂判断ですね。〈富士山〉は個(特殊)で、〈山〉が一般です。この〈山〉がこの場合「最後の種」になります。〈山〉は〈富士山〉も〈富士山でない山〉も同時に可能性として含んでいますが、これが「最後の種それ自身の矛盾的統一」です。〈5は数である〉という包摂判断の場合には、〈5〉(特殊)がそのまま〈数〉(一般)であることが言われていて、ここに矛盾があるのですが、〈5〉は個物ではありません。〈5〉は〈5〉であって、〈この5〉ということがないからです。したがって矛盾は一般概念内の矛盾です。この矛盾は〈5〉がすべての他の数と同一でありながら、それらの否定として成り立っている、というところにあります。この場合は〈数〉が「最後の種」になっています。ここまではいかがですか?

B

大丈夫です。
佐野
ところが〈富士山は山である〉という経験的な包摂判断になると事情が異なってきます。〈富士山〉は個物です。〈山〉は一般概念ですから、両者の間に間隙があります。我々はそこに質料というものを持ち込んで、これを個体化の原理とし、この判断に何の矛盾もないように考えます。〈山〉という一般概念(形相)と質料とが一緒になって、個々の山、例えば〈富士山〉が成り立つと考えるのです。しかしこの捉え方は個を個として捉えてはいません。個を一般の方から一般的に捉えているにすぎません。その場合は個も一般概念です。「このもの」といってもどれもみな「このもの」ということになります。こうした抽象的な包摂判断である〈富士山は山である〉を破るのが、「主語となって述語とならない」個物としての〈富士山〉に触れる時です。その時には如何なる述語も成り立たちません。そこで我々は〈富士山は富士山だ〉と、無意味な叫びを発するのですが、そうした叫びのうちに、じつは他のすべての山との同一と同時にそれらの否定として他ならぬ〈富士山〉が立ち現れている、というのはすでに述べた通りです。これはすでに「具体的一般」の領域の話ですが、じつは〈山〉という経験的な一般概念においても、すでに〈富士山〉であることと、〈富士山でない他のすべての山〉という種差が矛盾的に統一されている、と考えるのです。これがテキストでいう所の「最後の種の矛盾的統一」です。「山」という抽象的一般がすでにそうした矛盾を含んでおり、そうしたもともとあるのに気がつかなかった矛盾によって具体的一般へと転じる、そのように言っていると思います。

B

ありがとうございます。さらに考えて見たいと思います。
佐野
テキストに戻ります。「最後の種それ自身の矛盾的統一によって抽象的一般から転じて具体的一般に入る時、かかる一般者の最後の種に当るもの、すなわち最初の具体的というべきものが主語となって述語となることなき個物である」とありますが、読みにくいですね。まず「かかる一般者」とはどの一般者ですか?

C

迷いますが文脈からすれば「抽象的一般」だと思います。
佐野
そうですね。そうすると抽象的一般の最後の種に当るものが、「即ち最初の具体的なもの、であり「個物」だと言っていることになりますが、これはどういうことですか?抽象的一般の最後の種がそのまま個物だということですか?

C

いえ、「当るもの」といっていますから、「そのまま」ではなく、それに相当するものという意味だと思います。
佐野
なるほど。あくまでアナロジーだということですね。抽象的一般の最後の種にすでに矛盾的統一があったが、それはまだ隠れていた。それが最初の具体的なもの、これは具体的一般ですね。そういう仕方で矛盾的統一が顕わになる。そうしてこれが「主語となって述語となることなき個物」だと。ここも難しいですね。

C

具体的一般の自己限定が個物として立ち現れているということではないでしょうか。
佐野
面白いと思います。次を読んで見ましょう。「之より主語と述語とは転換する」とありますね。「之」とは「抽象的一般から転じて具体的一般に入る時」の「時」のことでしょう。そこでは「主語と述語とは転換」し、「包摂的関係は逆になる」、「述語的なるものが主語となる」とあります。どういうことか。さらに次を読んで見ましょう。「斯く包摂的関係を逆にして一般的なるものが主語となる時、かかる一般的なるものが限定し得らるるかぎり、個物は連続的統一となる。連続的なるものも個物である、単に自己同一というより尚一層個物的と考えることもできるが、連続的統一とは内に無限なる特殊化を含んだ一般者でなければならぬ、無限なる包摂的関係をその一般的根元に還って見た時、連続的なるものが考えられるのである」と一気に述べられます。

D

全然イメージできませんが。
佐野
少し前に(357,1)同じ脈絡で「概念の外延」というのがありましたが、それが参考になるかもしれません。〈犬は動物である〉というのは通常の包摂判断ですが、この主語と述語をひっくり返すと、〈動物は犬である〉となりますが、動物は犬だけではありませんから、〈動物は、犬であり、猫であり、猿であり…〉となります。これを個物のレヴェルで考えるのです。〈山は富士山であり、愛鷹山であり、箱根山であり、…〉となりますが、この場合の「山」が個物を含む「具体的一般」です。〈富士山は山である〉というような包摂判断や〈富士山は富士山である〉といった抽象的な同一判断を破るような体験をした時、西田はまず全体が立ち現れると考えているようです。これが「具体的一般」であり、「連続的統一」ないし「矛盾的統一」です。これが「単に自己同一というより尚一層個物的と考えることもできる」とありますが、当たり前のように(単に)〈富士山は富士山である〉と言っているより、「一層個物的」な〈富士山〉が立ち現れている、という意味でしょう。さらにこれは「内に無限なる特殊化を含んだ一般者」とありますから、〈山は富士山であり、愛鷹山であり、箱根山であり、…〉といった「山」に限ったことではなく、その中には川や海や空も含んでいることになります。要するに端的な全体です。抽象的な包摂判断や同一判断が破れた時、まず立ち上がるのはそうした全体です。無にして全体。絶句の瞬間ですね。それをあえて言葉にすれば〈富士山は山ならず〉、〈富士山は(当たり前のように考えられてきた)富士山にあらず〉ということになるでしょう。そうして今度はこの具体的一般が主語となって、個物が述語となります。個物が全体を含んで(他のすべてのものに支えられながら、それらを否定する形で)立ち現れます。その時の言葉が〈富士山は富士山である〉という根源的な同一判断です。これは〈山は山ならず、それ故に山である〉といった即非の論理ですね。西田はこうした矛盾した論理が、こうした個物の領域における根源的な経験のみならず、我々の抽象的な包摂判断や同一判断(同一律)の根本にもあると考えているようです。

E

これを本当に理解して自分の言葉で語るのは相当難しいと思います。
佐野
それが読者の目指すべきところだと思います。同時にどこまで行っても十分に表現できない、というところがあり、その点は西田も同じだろうと思います。次へ参りましょう。もう一度Fさん、次の一文を読んでみて下さい。

F

「併しかかる還源的方向を何處までも進めて行って、主語となって述語とならないものと反対に、述語となって主語とならないという意味に於て包摂的関係を超越した述語面に撞着した時、かかる場所に於て変ずるものが見られるのである」。
佐野
ありがとうございます。「主語となって述語とならないもの」はさしあたり「個物」ですね。それに対し、「述語となって主語とならないもの」は「包摂的関係を超越した述語面」とも呼ばれていますが、これは絶対無ないし真の無の場所ですね。さしあたりそのように言える。しかしそうした個物、絶対無の場所に「撞着」すると、主述の転換が起る、というのがこれまで言われてきたことです。そこにおいて真の個に出会う、そういう脈絡でした。ところがここでは「かかる場所に於て変ずるものが見られるのである」とあります。「かかる場所」とは?

F

「包摂的関係を超越した述語面」です。
佐野
そうですね。ここで見られるものは個物ではなく、「変ずるもの」です。「撞着した時」とありますから、まだ主述の転換が起る以前、真の個物が立ち上がる以前ということになるのかもしれません。あるいはさらに「内に無限なる特殊化を含んだ一般者」としての具体的一般(これが「全体」です)が立ち上がる以前の「無」としての具体的一般、即ち「絶対無の場所」における話ということになるのかもしれません。次に「如何にしても積極的に限定することのできない唯否定的にのみ限定し得る具体的一般者」とあり、これは絶対無の場所だと考えられますから、そうも考えられますが、このように具体的一般を「全体」と「無」とに分けて考えるべきではないでしょう。無即全体、全体即無、具体的一般はそのように考えるべきでしょうね。そうすると真の個がそこにおいて成り立つ具体的一般において、同時に「変ずるもの」が見られると言われていることになります。

G

「如何にしても積極的に限定することのできない唯否定的にのみ限定し得る具体的一般者」をそのように無即全体、全体即無の具体的一般者と考えるにしても、その「種」とはどういうことでしょうか?
佐野
「種」とは「類」に対するもので、「一般」に対する「特殊」のことでしょう。ここでは個と同義です。だとすれば、「具体的一般者の種」とは「具体的一般者に於てあるもの」と同義と見てよいと思います。

G

ありがとうございます。無と全(一切)と一の三つが相即する感じですね。

H

先ほどのお話ですが、真の個が見られることと、変ずるものが見られることとは別のことではないでしょうか?
佐野
事柄としては別ですが、事柄として両者は切り離せない、というのが西田の主張ではないでしょうか。事実、真の個は徹底した変化、生成消滅、流転の中でのみ立ち現れるものだと言えます。逆に真に変ずるものが見られるのは、質料を含め、抽象的な一般、「個色」で言えば、質料的・物的実体や、色一般といった抽象的な一般をさしはさまずに、真の個を問題にする時のみだ、そのように西田は考えているようです。「変ずるものはその反対に変じて行き、相反するものの根柢には両者を包む一般者がなければならぬと考えられるが」、これは西田の主張でもありますね。「かかる一般者が抽象的であって中間的なものを容れる間は変ずるものは成立しない」とあります。「中間的なもの」とは直接的には「質料」のことだと考えられます。

I

どういうことですか?
佐野
これまでも何度か西田は質料のことを「中間的なもの」と呼んでいますが、例えばヘルメスとアテナは形相で、大理石は質料で、大理石はヘルメスでもアテナでもない「中間的なもの」という意味です。

I

分かりました。
佐野
ここでは「抽象的」な「一般者」として「中間的なものを容れる」場合だけを考えていますが、例えば「この色」に対する「色」一般のような抽象的一般者を考えても、そこから変ずるものは説明できませんから、そうした抽象的一般者も入れて考えた方がよいと思います。西田は変ずるものの根柢にある「一般者」を、そうした「物(質料)」とか「抽象的一般者」ではなく、「具体的一般者」ないし「場所」だと考えようとします。「それ(一般者)に於て反対は同時に矛盾でなければならぬ」。物における「相異」(色と形など)ではなく、物や抽象的一般(色一般など)における、「時」を入れた「対立」における変化ではなく、そうした「物」や「抽象的一般」を取り払った変化の刹那の「矛盾」を考えようとします。それはまさに有即無、生即死の矛盾です。「それは質料なき形相でなければならぬ、矛盾を含む一般者でなければならない、矛盾的統一の背後に考えられた一般者でなければならぬ。無質料として有と無とが一つの概念となる時、矛盾の統一として変ずるものとなるのである」と述べられます。「背後」とありますが、これは矛盾を統一する何らかの実体としての一般者という意味ではないでしょう。それではまたしても質料的な物を容れることになってしまうでしょうから。矛盾的統一そのものとしての一般者という意味だと思います。

J

形相が変ずるものだということですか?
佐野
形相自体は変ずるものではないのですが、それらが相互に矛盾するために変ずるものとなる、ということだと思いますが、ここにはどうしても「時」という概念が入って来なければならないと思います。それについては「三」で考察されます。今日はここまでとしましょう。
(第106回)
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矛盾を含む同一なるもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「二」の第4段落335頁2行目「一つの系列に従って類を特殊化して行く時」から336頁2行目「転換し得ると考えることができる」までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「唯一なるものが限定せられると考える時、その根柢となる一般者の意味が変わって来なければならぬ」(335頁13行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は二つあって、「問いA」が、「あてはまる述語的一般性が見あたらない個物は自己自身にのみ同一で主語と述語(特殊と一般)が転換可能であることから、これが「変ずる」ときには一般者の意味が変わる(具体的一般者)ことが述べられているが、「特殊と一般」と「主語と述語」が不可分離的(330頁4行目)であるとは、この個物が変ずることによるものか」(150字)で、「問いB」が「種を成すことを拒む個物は具体的一般者に於いてあるよりほかないとされるが、何とも同一でない個物であってもなお「それ以外のもの」に於てあり、むしろ「拒む」のではなくそれ以外のすべてに同一であると言えないか。「AはAであると同時にAでない」という転換ではなく「AはAであると同時に全体でもある」ということになる」(152字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。今回はあとから気づいた部分がありましたので、特に都合によって創作した部分を含んでいます。
佐野
「一般者の意味が変わる」とはキーセンテンスの語句ですね。これは直接には「変ずる」場合のことを言っているのではなくて、「唯一なるものが限定せられると考える時」の話で、個物の限定の場合のことを言っていますね。特殊が一般においてある、という通常の包摂判断における一般者ではない、個物がそこにおいてある場所、つまり超越的述語面とか、絶対無とかいわれる一般者への意味の転換です。

S

その個物の捉え方がもう一つはっきりしないのです。

R

その個物と「変ずる」とはどう関わるのですか?

S

はじめはまず固定的な個物がまずあって、それが変化する、というように考えていたのですが、アレっていうことになって‥‥。まず「特殊と一般」と「主語と述語」が「不可分離的」であるとされながら、「単に之を同一視することはできない」とあるのがよく分かりません。
佐野
330頁4行目ですね。押さえておきましょう。まずは「特殊と一般」の話です。「一般概念を何處まで特殊化して行っても、一般性を脱却することはできない」。これは言葉の世界ですね。言葉はどこまでも一般しか言い表せないからです。ところが西田はこれにアリストテレスの、個物とは主語となって述語とならないものである(『カテゴリアイ』におけるアリストテレス自身の言い方とは異なりますが)、という思想を重ねます。そうしてこの「主語となって述語とならないと云う」ことを附加することによって、「最後の種は個物となるのである」と考えます。一般(類)と特殊(種)という従来の論理学の分類に、アリストテレスの個物概念を重ね、それによって「個物」を把握可能としたところに西田の独創性があるわけですが、当然そこには批判もありえます。西田の場合個物は直観によって捉えることができる、ということになりますが、言葉を介して認識する外ない人間にそのような直観は許されていない、という立場が当然出て来ます。カントはそうした立場に立つと思います。テキストでは包摂判断を念頭に置きつつ、「特殊と一般」が「主語と述語」と「不可分離的」であることを一方で認めながら、他方では「特殊と一般」では到達できない個というものに「主語と述語」が到達できる、という点に単に両者を同一視できない側面を認めます。

R

そのような個物について「主語と述語(特殊と一般)が転換可能」とありますが、これをどのようにお考えですか?

S

個物については「このものはこのものだ」としか言いようがない。そうだとすれば主語と述語は転換可能だ、という意味です。

Y

「あてはまる述語的一般性が見あたらない個物」とありますが、「個物までも含むものはもはや抽象的一般として考えることのできないものであるが、而も尚判断を内に含むという意味に於て述語的一般性を失うたものではない」(333頁1~2行目)とあります。

S

「あてはまる述語的一般性」とは「抽象的一般」としての一般性です。

R

「個物までも含む」、また「判断を内に含む」「述語的一般性」については、「反対を内に包んだものでなければならぬ」(同4行目)とか、「主語的なるものの否定を含むものでなければならぬ」(同7行目)とあります。そうなると「主語と述語(特殊と一般)が転換可能」というのをどう考えていいかますます分かりません。

T

うちで飼っていた白猫(「しろ」)が行方不明になって、数日したら同じような猫が舞い戻ってきた。これを「しろ」と呼んでいいかの問題にも通じると思います。理由を挙げようとすると、結局どこまでも「しろ」であるかどうかは分からないことになるけれども、我々は「直観」で「これは「しろ」だ」と判断している、ということを西田は言いたいのではないでしょうか?
佐野
その場合、時間経過を通じた、個物(物)としての同一性が問題になっていますね。西田がここで問題にしているのは、そうした物的な実体を、それは結局質料ということになりますが、そうした「中間」のものを解消することだと思います。

T

その場合でも、「しろ」を「しろ」と呼ぶことのできる本質のようなものが直観されている、と考えればよいと思います。この本質は時間を越えたものです。
佐野
なるほど。分かりました。しかしテキストでは「個色」が論じられていますから、ここでは分かりやすさのために彼岸花の「この赤」を例にとって考えてみましょう。主語と述語が転換可能だというのは、個物が自己自身に同一で、「この赤はこの赤だ」としか言いようがないからです。しかしこれを文字通り取れば同語反復で、何も言っていません。しかし「この赤はこの赤だ」という言葉が個物(個色)との出会いの言葉だとすれば、そこはどうなっているのか、西田はそれを考えようとしているのだと思います。

S

判断は大抵これまでの経験に基づいてなされますから、そうした個物との出会いはきわめてまれな出来事だと思います。
佐野
その意味では、「この赤」との出会いは判断やこれまでの経験を破って、絶句し、「この赤はこの赤だ」と無意味な言葉を叫ぶほかない経験だと言えると思います。この経験が概念的知識になってそれについて哲学することができるためには、そこに述語的一般者がなければならない、と西田は考えるのだと思います。そうするとこの問題はSさんの「問いB」に関わってくることになります。「この赤はこの赤だ」と言った時に、「この赤」が同時に他のすべての存在の否定の中で立ち上がってきているということです。否定即肯定と言ってもいいし、これを一即一切、一切即一と言ってもいい。こういう体験として、主語と述語は転換可能となり、判断以前の所でいわば主語と述語がピタッと一つになっていると言えると思います。まさに純粋経験ですね。「個色」を述べた箇所に面白いことが書かれています。334頁7~8行目をSさん、読んでみて下さい。

S

「個色とは如何なるものであるか。それは他の何の色とも異なったものでなければならぬ、此意味に於て他の色との関係が含まれて居ると云うことができる」とあります。
佐野
ありがとうございます。個が個であればあるほど、全体との関係を含むことになります。だから一面で個はどこまでも語り尽くすことができない一方で、他方でそれについて語られるものとして、その個は直観されていなければならない、ということになります。もう一言だけ付け加えれば、我々は「個(色)」というものを固定したものとして捉え、変化はこれとは別の事柄であるというようにイメージしやすいですが、「個(色)」が「個(色)」として立ち現れるのは、徹底した流転(変化)の中でのみです。

N

ここには日本文化の特質が現れていると思います。「ものづくり」において「もの」となって考え行動する、といった…。多くの人が判断以前に、直観でものをバチっと認識している、という根本思想がありますね。

T

なんか安心しますね。判断の領域ではどこまでも確かなことは言えませんから。
佐野
西田の思想はオメデタイと。

N

ええ。極めて楽観的です。

T

救いだと思います。
佐野
プロトコルはこのくらいにして、講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(336頁2~6行目)
佐野
ここも「主語と述語との転換に特殊と一般との転換の意味が含まれて来なければならない」ことが述べられていますね。次を読んで見ましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(336頁6~11行目)
佐野
ここも「同一なるもの」つまり「個物」を考えることができるためには、「述語」がなければならないけれども、それは「単なる包摂判断の述語とはその性質を異にするものでなければならぬ」ことが述べられています。そうして「包摂的関係に於ける述語的なるものが主語となるのである、特殊が一般となるのである」と転換について述べられています。次を読んで見ましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(336頁11~15行目)
佐野
ちょっと読むと矛盾したことが書かれていますね。「甲が甲である」という「同一判断」によって「同一なるもの」(個物)が限定せられる時、「その主語と述語とは判断の主語と述語との関係に於ては異なったものでなければならぬ」とまずは言われます。前の「甲」と後の「甲」が異なるということです。しかしすぐに続けて「而も此判断によって言い表されるものが一なるが故に、主語と述語とを転換することができる、この判断の主語となるものに於て主語と述語と同等となる」とあります。今度は前の「甲」と後の「甲」が同じだ、と言っています。これをどう考えるか。

K

即非の論理のようなものを考えていると思います。
佐野
なるほど。面白くなってきましたね。それではDさん、次をお願いします。

D

読む(336頁15行目~337頁6行目)
佐野
「概念の外延」という言葉が出て来ましたね。それを考える時、「既にかかる意味が含まれて居る」とありますが、「かかる意味」とは?

D

前文の「主語的なるものが却って一般的として述語的なるものを包む」という意味だと思います。
佐野
そうですね。これを「概念の外延」と結びつけて説明してみてください。

D

「動物は生物である」という通常の包摂判断の主語と述語を転換して、「生物は動物である、植物である」というように、外延を並べる仕方で考えることではないでしょうか。
佐野
よく分かりました。さてテキストには「最後の種が矛盾的種差によって更に自己自身を限定しようとする時、それが単に限定し得ざるものとして概念の外に出ていかない限り」とありますね。個物を哲学することができる限り、ということですね。その場合は、最後の種は「自己自身の内に矛盾を含む同一なるものとならねばならぬ」とされます。「この赤」が同時に「この赤でない」という矛盾を含んだ、「この赤」でなければならない、ということですから、まさに即非の論理ですね。そうして「最後の種が自己同一なる個物となるには、一般的述語性を否定することによって自己自身を肯定するのである、肯定即否定となるのである」とあります。ここでは個が一般との関係において述べられていますね。一般性の否定とは言語の否定ということになります。ここでは他の個物の否定は述べられてはいませんが、個物の肯定には、当然一般者の否定と同時に、他のすべての個物の否定が含まれます。最後に「〔個物は〕包摂的関係から云えば最後の種を尚一歩特殊化の方向に進めたものであるが、矛盾的統一としては種差を含むものとなる」とあるのは、「この赤」が「この赤ならざるもの」を含むということです。ここも即非の論理です。そうして「是に於て抽象的一般から具体的一般に転ずるのである」とされます。今日はここまでとしましょう。
(第105回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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