具体的一般者の自己限定
- 2025年11月22日
- 読書会だより
前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「三」の第4段落を読了しました。今回のプロトコルはYさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「自同的判断が単なる同語反復にあらざるかぎり、一般者の自己限定でなければならぬ。」(342頁5~6行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「「…実在は現実そのままのものでなければならない」(『善の研究』)― この言葉は西田自身の根本的な基底をなしている。そして、我々にとって、「現実」とは〈日常〉そのものであり、とびっきりな日常も、何気ない日常も、すべてがかけがえのない〈日常〉である。我々は、ここにおいて「唯一なるものの判断的知識」を得る。ところで、その知識の基礎たる「自同的判断」は、更に同一律を基礎とすると思料するのだが、如何だろうか」(199字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
何か補足はありますか?
Y
具体的一般者が直覚と概念との統一だ、という場合に、直観に知的直観、純粋直観、経験(感性)的直観の3つがあることから、具体的一般者に3つのレベルがあるということでしたが、この3つがどのように関わるか、を考えた時に、これらがみな「自同的判断」に基づいているので、さらにその基礎として「同一律」があるのではないか、と考えて見ました。
「同一律」は、「矛盾律」、「排中律」と並ぶ、思考の3原則の一つと考えていいですか?
Y
はい。
西田の「自同的判断」も〈AはAである〉ということですが、「単なる同語反復」ではない、とありますから、Yさんのご提言は西田の「自同的判断」をさらに「単なる同語反復」としての思考法則に還元する、という趣旨になりますね。
R
西田の主張はその逆だと思います。「単なる同語反復」でない「自同的判断」はどれも〈AがAである〉と同時に〈AがAでない〉という矛盾を含んでいて、「同一律」はそこから抽象されたものだと思います。
知的直観における「自同的判断」とは、我々の言い方だと「富士山は富士山である」という、絶句から発したものですね。純粋直観における「自同的判断」とは「5は5である」、「三角形は三角形である」ということになりますが、これも「単なる同語反復」ではなく、直ちに「5は数である」、「三角形は図形である」という判断を含んでいます。経験的(感性的)直観における「自同的判断」とは「これは青い」ということですね。こうした「自同的判断」からそれぞれ「哲学的」な判断(知識・説明)、数学的判断、経験的判断が成立することになります。
Y
それらはどう関わるのですか?
西田はこうした判断の根本に「具体的一般者」を考えますが、本来的なものはやはり「哲学的」な判断の根本となる「具体的一般者」だということになると思います。これが以前の区分で言えば「真の無の場所」において成立するのに対し、数学的判断の場合は「具体的一般者」と言っても、それは数とか図形といった「一般概念」にほかなりません。以前の区分で言えば「有の場所」で、それを前提として成り立つ判断です。経験的判断も最後の所で「これは青い」といった「自同的判断」がなければなりませんが、この「自同的判断」は主客の対立を含んでいます。以前の区分で言えば「対立的無の場所」において成立する判断です。西田は「これは青い」の「述語」が「一般的青ではなくして、個色的青でなければならぬ」と言っていますが、これがもし純然たる個色的青に関する自同的判断だとすれば、知的直観に基づく自同的判断ということになるだろうと思います。経験的判断の場合は、「青い」は「それ自身に於て直覚的」ではないが、「之を包む一般者」、つまり「個色的青」を包む「一般的青」ということになるだろうと思います。この3つの判断のうち、本来的で最も完全な具体的一般者は哲学的な判断のもとになる具体的一般者で、数学的判断と経験的判断のもととなる具体的一般者は前提を持っていますから、不完全な具体的一般者ということになるだろうと思います。
W
そうした3つのレベルの具体的一般者とYさんのいう、現実とか日常とはどう関わりますか?
(以下は後で考えたものです。)数学的判断の基となる具体的一般者によって数学が、経験的判断の基となる具体的一般者によって自然科学が基礎づけられる、これがカントのやったことであると西田は考えていると思います。その後新カント派のバーデン学派が概念構成に「法則定立的」ないし「普遍化的」と、「性格描写的」ないし「個別化的」を区別することによって、自然科学のみならず、歴史学を含む文化科学一般の基礎づけ、総じて学一般の基礎づけを行いますが、こうした基礎づけは「真」という理念(価値)に基づいています。これに対して「善」によって道徳、「美」によって芸術、「聖」によって宗教が基礎づけられることにより、総じて文化一般が新カント派によって基礎づけられます。しかし学にしても文化にしても、一般概念に基づいており、現実そのものではない、そのように西田は考えているのでしょう。こうした一般概念が破れたところ、そこに「現実そのまま」としての「実在」が立ち現れる、しかもそれが「日常」のありのままの姿である、そういうことなんでしょう。さらに我々の日常とは、人生や世界についての何らかの「一般概念」を先入見としてその上に成り立っていますから、それを破るような出来事があると、それを日常でない、事件・事故だと考えます。そうではなく、我々が何も特別なことはないと安穏と考えている日常は、生きるのに都合のよいように作られたものにすぎません。そうした一般概念としての日常が破れて、どのような事件・事故がおこっても、病になることも死ぬことがあっても、何も特別なことはない、それこそが平常・日常の本当の姿なんだ、というような目覚め、そういうことだと思います。ここにも日常は日常でない、それ故に日常である、という即非の論理、単なる同語反復でない「自同的判断」が成り立っていますね。この「現実そのまま」としての「実在」こそ西田が『善の研究』で「純粋経験」という名で名指そうとしていたものだと思います。要するに、知的直観に基づく具体的一般者こそが「現実そのまま」であって、それ以外のものは何らかの「一般概念」の上に成り立つ具体的一般者として、現実そのものからは区別されることになると思います。しかしそうなると「絶対無の哲学」についてもはっきりとさせておかなければならないことがあると思います。
W
どういうことですか?
絶対無の場所、ないし真の無の場所における知的直観は一般概念化が可能で、それによって哲学が可能となりますが、その時にはすでに「真」を対象とし、思考・思索という方法(その形式が「論理」ですが)によって語らなければならない、という限定された「場所」ないし「一般概念」において哲学が成立している、したがって哲学の場と現実そのものははっきり区別される、ということです。少なくとも「絶対無の哲学」は「絶対無の場所」そのものにおいて成り立つものではない、と言い換えてもいいです。同じことは宗教についても言えて、宗教も現実そのものからは厳密に区別されるべき「聖なる境域」というものをもっていて、それは信仰によって(その形が教、行ですが)問い披かれて行かなければならない境域・場所です。芸術も哲学や宗教と同じ「現実そのまま」の自己限定という仕方で成立しますが、それが成立する場というものがあって、それは「創られた場(言葉という場、音の場、色・形の場)」というような性格をもち、創る(創作する)ということによって(その形・型が技術です)求めていかなければなりません。もちろん人間は何らかの一般概念なしに具体的に行為することも生きることもできませんし、そうした生が「現実そのまま」の自己限定として成り立ってはいますが、「現実そのまま」はあくまでそうした一般概念が破れたところに立ち現れる者だと思います。以上は私見にすぎませんが。
W
また考えて見ます。
S
結局「同一律」は最も根本的な「自同的判断」から抽象されたものということになって、かわいそうな扱いになっていると思います。西田の言いたいことが「自同的判断」だとすると、それを導き出すために「同一律」から出発しながら、それを否定して行く、というような。
そうですね。矛盾のない所を認めさせておいて、矛盾へと導くという。しかしそもそも「同一律」が思考の原理・原則だとすると、人間の思考は「同一律」に反するような矛盾、Aが同時にAであってAでない、といった事態を考えることができるんでしょうか?
N
できると思います。「矛盾の統一」、とか「包む」といった事態がまさにそれです。
しかし矛盾の「統一」と言ってしまった時点で、統一と非統一の分別に落ちているだけでなく、統一への固執が見られます。「包む」も同様で、「包まない」との対立に落ちているのと同時に、「包む」への執着が見られるとも言えます。もし矛盾を本当に考えるとすれば、統一と同時に非統一を言わなければならないはずです。人間にはこれが思考できない。「矛盾」が何であるかは分かるのですが(そうでなければ「思考できない」とすら言えないことになります)、それを思考することができない。ちょうど四角い三角形をイメージできないように。ですから「具体的一般者」という言葉にしても、人間的な思考はこれをどうしても「一定の」一般者というように考えざるを得ない。一般「者」という表現がよくないということで、ハイデッガーの存在者(有るもの)と存在(有)の区別のようなものを念頭に置きながら、これを一般「者」ではなく、「一般」と呼んだところで、どうしても一定の一般を考えてしまう。いや、そうではない、それは一定の一般ではなくて、じつは無なのだよ、などと言われても、「無」ということで「何か」を考えざるを得ない。西田は「単なる同語反復」でない「自同的判断」ということで、「同一律」という人間の思考の原理を超えたものを思考しようとしているけれども、思考できている気になっているだけとも言えなくもない。ここには人間の思考ではどうしようもないものが、それでも、というより、どうしようもないということを通じて思考に対して開かれている、ということが重要ではないか、そう思えるのですが。人間はそのようにして開かれたものを、一般者の自己限定と呼ぶより仕方のない、そうした向こう側からの促しに応じて思索して、これを言葉にもたらすのだけれども、そのことと同時に、これも一般者が自らを隠す、としか言いようもない仕方で、どこまでも思考することができない、言い表すことができない、ということが厳然としてある。しかしそのことがさらに新たな開けを導き、それが思索を促す。きわめてハイデッガー的ですが、そういうことが大事なんじゃないかと。プロトコルはこの位にしてテキストに移りましょう。Aさん、お願いします。
A
「我々の判断的知識の根柢には具体的一般者がなければならぬ、判断は具体的一般者の自己限定として成立するのである。我々の知識の体系はかかる一般者の無限なる層である。主語的方面に於て無限に深い直覚的なるもの(個物)が見られると共に、述語的方面に於て之(個物)を包む無限大の一般的なるものが認められねばならぬ。かかる一般的なるものが限定せられるかぎり、判断的知識が成立するのである、之を越ゆれば全然直観の世界に入る」(括弧内引用者)。
ありがとうございます。結論のような感じでよくまとまっていますね。ここでも「個物」とか「無限大の一般的なるもの」がなにか実体のようなものとしてイメージされがちですが、ここではそうしたいわゆる形而上学的な存在が問題になっているのではなく、あくまで開けにおける言葉であるというように読みたいと思います。因みにイデアのようなものも、形而上学的な実体というようにしばしばあしざまに言われますけれども、本当はそうではなく、これも開けの言葉だと私は思うのですが。それはともかく、最後にある「之」とは何を指しますか?
A
「判断的知識」ではないでしょうか。
そうでしょうね。「知識」を越えた所が「直観の世界」ということでしょうから。問題は、「かかる一般的なるものが限定せられるかぎり、判断的知識が成立するのである、之を越ゆれば全然直観の世界に入る」をどう読むか、です。直前で「述語的方面に於て之(個物)を包む無限大の一般的なるものが認められねばならぬ」とありますから、一方で最も根源からの哲学的思索の可能性を述べていると考えられますが、他方で哲学的思索を越えた「直観の世界」を、例えば宗教のような形で考えているようにも読めます。
A
「限定せられるかぎり、判断的知識が成立する」とありますから、限定されない場合は純粋に直観の世界に入る、という意味ではないでしょうか?
たしかにそう読めますね。限定せられ得、また実際に限定される場合には哲学となるけれども、限定されない場合もあり、その場合は純然たる直観の世界となる、という意味ですね。この場合「全然」を「越ゆれば」にかけて読むのではなく、「純粋に」と読むことになりますね。この箇所の読みとしてはその方がよいかもしれませんね。高い宗教的な境地を体現してはいるけれども、それを概念的に語ることができない、そういう宗教者はもちろんいますし、そういう人がむしろ純然たる宗教者でしょう。問題は宗教者が自覚的に宗教の立場に立って、哲学を見下し、これを拒否する場合です。もちろん宗教における信仰は体験の事柄であって、概念の事柄ではない。むしろ哲学的な思索は宗教的な体験を妨げるものになります。宗教的な体験に不可欠なのは、教えとその宗教に特有の行です。その限りにおいて、宗教が哲学を拒絶するのは分かります。しかし宗教者が自分の体験を我がものとし、それを振りかざして宗教の立場にから哲学を見下すとき、それは思想によってそうしているのであって、すでに哲学の境域に立ち入っていることをその者は自覚していません。しかもそれは、自らのよって立つ思想を批判吟味することを忘れているという点において哲学としても、そうして(信を我がものとするという点においておそらくは)宗教としても未熟な在り方と言わなければならないと思います。西田の立場は純然たる宗教家の立場を否定するものではなく、そうかといって哲学を宗教より低く見る立場でもないと思います。長くなりました。次をBさん、お願いします。
B
読む(342頁11行目~343頁2行目)
「右の如き述語的一般者」とありますが、「右」には「述語的一般者」が見当たりませんね。「具体的一般者の自己限定」として成立する「一般者」の「述語的方面」と考える外ありませんね。ここでは具体的には数や空間です。そこでは一般概念と直観が直ちに一つです。数は直ちに5であり、5は直ちに数である、という仕方でどの数においても数は自己同一を保っています。それゆえ数や空間においては「所謂先験的知識」、ここではアプリオリな認識という意味だと思いますが、そうしたものが成立します。次に「唯その個物的なるものの尖端」とありますね。「その」とは「述語的一般者」ですね。数や空間の場合、「特殊」はあっても「個物」はありません。5に「この5」というものはありません。しかし「述語的一般者」がそうした特殊を越えて個物に至る、これを「尖端」と呼んでいますね。そこにおいてのみ「自己同一として直覚的と考えられる場合」とありますが、これはどんな場合ですか?
B
経験的直観の場合だと思います。
そうですね。「これは青い」という「自同的判断」を念頭に置いています。その場合「その述語的一般者は積極的に限定すべからざるものとなる」、つまり「これこれ」と言ってすますことができない、無限に限定可能なもの、という意味です。「是に於て主観と客観とが相対立し、主語となって述語とならない直覚的方面が客観的と考えられ、述語的なるものが主観的と考えられる」。以前の場所の分類では「対立的な無の場所」ですね。そこでは「主観と客観、知るものと知られるものとを包む類概念はないと考えられ、述語的一般として考えられるものはすべて客観的なるものの抽象的一面にすぎないと考えられる」、つまり主観にとってのものでしかない、ということです。次をCさん、お願いします。
C
読む(343頁2行目~6行目)
「併し判断的知識が成立するかぎり」とありますね。この「併し」は何を念頭に置いたものでしょうか?
C
まずは経験的知識。その尖端が「これは青い」という自同的判断。しかし経験的知識の場合は、主語と述語が分れて、「青い」が結局抽象的な一般概念としての「青」になってしまう。これをさらに一歩進めて知的直観における判断的知識。ここまでを念頭に置いて、「併し判断的知識が成立するかぎり」、つまり「全然直観の世界」に入らない限り、と言っていると思います。
なるほど。ずいぶん射程距離の長い「併し」ですが、とても分かりやすいですね。「特殊化の尖端」、「個物」ですね。そこにおいても「一般的なるものが自己自身を失うのではない」。「判断的知識が成立するかぎり」はそうでなければなりませんね。「却って自己自身に還る」。「一般」が真に「一般」になる、真の無となって個物を包むということですね。そこで次に「自己自身が主語となって述語とならない基体となる」とあります。「自己自身」とは「一般的なるもの」のことです。それが自らを無にして「主語となって述語とならない基体」つまり「個物」になるということです。「基体」とは「基に置かれたもの(ヒュポケイメノン)」の訳で、それについて語られるところのもの、それの基に置かれるところのもの、の意味ですが、ここでは個物としての実体を意味しています。「主観的なもの」、つまり「一般的なるもの」が、かえって「客観的なるもの」、つまり「個物」を「包む」ということになります。そうして「此の如き述語的一般の方向に於て我々は意識の概念に到達する」とあります。
C
「意識の概念」とは何ですか?
「意識」の何であるか、意識の本質、というくらいの意味ではないでしょうか。この「意識の概念」は以前の分類でいえば、「対立的無の場所」としての意識、つまり客観に対立する主観としての意識ではなく、「真の無の場所」としての意識だと思われます。
C
その場合、「意識の概念」は純粋経験としての「意識現象」ということになりますか?
そうですね。いずれにせよ「後に云う如く」とありますから、そこまで待つことにしましょう。最後に「意識面に於て具体的一般者が抽象的概念として限定せられるのである」とありますが、これも「意識面」=「具体的一般者」の「述語的一般者」、と考えた方がよいと思います。今日はここまでとしましょう。
(第109回)

