変ぜざるもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「一」の第4段落328頁12行目「以上述べた如く」から「二」の第3段落331頁8行目「変ずるものととなるのである」までを読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「主語となって述語とならないと云ふことによって、我々は所謂特殊化によって達することのできない尖端に達するのである、一般概念を破って外に出るのである」(330頁4~6行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「個物」の概念は、「判断が一般概念を破ってその外に出」て、「具体的一般者」によって成り立つ。つまり、一般概念の特殊化によって達することができない「個物」を、「主語となって述語とならない」と「云う」ことによってである。言い換えれば、「個物」を言い表せないものとして言い表わすことである。しかしこの場合、個物は真に判断の主語となっても、それが何たるか(その内容)を一切表せないように思う。如何にして真に個物の内容を言い表すことができるか」(216字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
「ある」とは言えるのですか?

R

はい。
佐野
そうすると「ある(存在)」とは言えても、その「何であるか(本質)」を言い表すとは言えない、ということですね。「一切」とありますが、原理的に何も言えない、ということですか?

R

現時点では、ということです。
佐野
「一般概念」を破って個物と出会う。そうした出会い(驚き)が絶句をもたらす。そこでは「ある」としか言えない。この出会いが何であるか、それはどこまでも分からないが、それを問い披いていくのが、哲学である、というような感じですね。これは哲学に限らず、宗教についても言えそうです。個物を「十字架上のイエス」とすれば、それとの出会いをどう考えるか、ということによってキリスト教が成立したともいえるからです。その場合、我々人間には神的働き(エネルゲイア)によってその働きの主体としての「神の存在」が何らか証し示されるけれども、その何であるか(本質・実体、ウーシア)はどこまでも謎・神秘に留まる、それを問い披いていくのが「哲学(愛智の営み)」であるという考え方がキリスト教においてもあります(谷隆一郎)。Rさんの問いは「ある」としか言えない個物の内容(何であるか)が「如何にして言い表せるか」ということですか?つまりそれは、根本的な個物との出会いの経験から如何にして哲学が可能となるか、そういうことですか?

R

「全然一般概念を超越するものならば判断の主語となることもできない」とあるのに、「真に判断の主語となるもの」が「具体的一般者」とされています。この「具体的的一般者」が「如何にして」「判断的関係」に入ることができるか、それがここでは示されていないと思います。
佐野
「具体的一般者」は個物を包むことのできるものとして究極的には「絶対無の場所」であると思いますが、それが判断的関係に立つためには、自己限定しなければならない、というように考えてはいかがでしょうか。絶句の後に、それが何であるかを考えるのが哲学ですが、その場合にも哲学の側から勝手に限定し、考えるのではなく、あくまで具体的一般者の側からの自己限定として考える、そういうことではダメですか?

R

ですが、この箇所ではそこまで言えていないと思います。
佐野
テキストの目下の箇所では「変ずるもの」と、その根柢の「変ぜざるもの」との関係から「具体的一般者」が論じられているだけですが、それがどのようにして「意味」や「価値」に発展していくかは、先を読むほかなさそうですね。プロトコルはこの位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(331頁8行目~332頁4行目)
佐野
「最後の種差」(この青とこの青ならざるもの)を加えることで、一方でそこに「個物」(この木の葉)が成立すると同時に、この個物が「唯一の性質」(この青)をもつことになります。それとともに「矛盾なく他の異なれる性質的述語」(この香、この味など)をもつことになりますが、こうした「個物は尚変ずるものではない」とされます。「変ずるものは内に反対を含むものでなければならぬ、変ずるものの根柢にある変ぜざるものは内に反対を含んだものでなければならぬ」からです。

A

前回の講読箇所の最後に、「かかるもの(個物)が又述語的一般者に於てあると考えられた時、変ずるものとなる」(331,7-8)とありましたが。
佐野
その直前に「主語となって述語とならないものに到っても、尚変ずるものではない」とありますね。これを言い換えたものが「個物は尚変ずるものではない」です。そうするとその直後の「かかるもの(個物)が又述語的一般者に於てあると考えられた時、変ずるものとなる」を言い換えたものが、「変ずるものは内に反対を含むものでなければならぬ、変ずるものの根柢にある変ぜざるものは内に反対を含んだものでなければならぬ」であることになります。そのさい「個物」が「変ずるもの」、「述語的一般者」が「変ぜざるもの」の側に来ますが、「物其者が変ずるとは言われない」、「単に一般的なる色や形が変ずるのでもない」、「物の色や形が変ずるのである」(331,4-6)と言われているように、両者が「具体的一般者」として一つとなる所に「変ずるもの」が成立することになります。先程の例で言えば、〈この木の葉〉が〈この青にしてこの青ならざるもの〉に於てある、あるいは〈この木の葉〉が〈この青にしてこの青ならざるもの〉を含む時、「具体的一般者」が成立し、そこにおいて変化が可能となる、ということだと思います。

A

ですが「同一物は赤であると共に直に青であるとは云われない。我々が一つの物を赤であることもでき、青であることもできると考えることができるのは、既に時というものを入れて考えるか、然らざれば見る人の主観性を入れて考えるからである」とありますが。
佐野
そうですね。たしかに我々は赤であると同時に赤でない(青である)、などといわれればどう考えたらよいか分からない。しかし西田は「何故に一つの物が赤であると共に青である(赤でない)ことができないか」、その根源を考えようとします。まず「両者の間に反対性があるから」だ、と。しかしさらに「二つのものが相反するにはその根柢に同一なるものがなければならぬ」と考察を進めます。こうした議論はこれまでも、相異、反対(対立)、矛盾という深化において考察されてきましたね。こうして「同一の類に属して、その種が同じければ同じい程、両者は相反するものとなる」と言われます。

A

どういうことですか?
佐野
まず、類、種、個ということが念頭にあると思います。例えば、人類(類)、日本人(種)、佐野之人(個)ということです。もう一つは、対立は同一なるものがなければ成り立たない、同じ土俵に立つものが対立する、ということがあると思います。

A

分かりました。
佐野
「分かりました」と言われると困りますが。何しろ「どこまでも分からないもの」を相手にしていますから。ですがとりあえずはこれで分かったことにして次に進みましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(332頁4~10行目)
佐野
「述語的一般なるものを何處までもその一般性を失わないで之をその内に特殊化していく」、例えば存在→色→青というように特殊化していく。そうすると「最後の種に於て唯一の種差によって異なれるもの、即ち相反するものを含む」、この青とこの青ならざるものを含む〈青〉ですね。こうした「最後の種」(青)を超越してさらに「個物」(この木の葉)に至る。そのさい、「判断の主語と述語との対立から二つの方向を区別することができる、即ち超越すると云うに二つの意義を考えることができる」とされます。どういうことかというと「一つは所謂主語となって述語とならないと考えること」で、これが「quod in se est(それ自身の内にあるところのもの)」です。もう「一つは述語となって主語とならないと考えること」で、これが「quod per se concipitur(それだけで考えられるところのもの)」です。前者が主語・存在の方向で、後者が述語・思考の方向ですね。

B

後者は「絶対の無」ですか?
佐野
究極的にはそうなると思いますが、ここでは〈この青とこの青ならざるもの〉を含む〈青〉で、しかもこの青が抽象的な一般者としての青ではなく、個物(この木の葉)を包む具体的一般者です。「絶対の無」が自己限定した形と考えることができると思います。同様に前者の「個物」(この木の葉)も述語的一般者(青)に於てある具体的一般者です。つねにセットです。それでは次をCさん、お願いします。

C

読む(332頁10~13行目)

N

「判断が概念的知識たる以上」とあるところから、西田のあくまで哲学に徹する立場がよく表れていると思います。「全然主語となって述語とならないもの即ち全然述語を失ったものは考えることの出来ないものである」と言ってこれに固執するのが宗教だと思いますが、西田はそれで良しとしない。

S

それでも西田には判断のもととなるものが真理であるという前提があるように思います。
佐野
たしかに我々は判断する場合、それが究極的に真理に基づいていることを必ず前提しますが、それは我々の要請でしかないですね。同じことは『善の研究』において、西田が宇宙(=意識現象)の根本をその統一力としての神(=真の自己)に求めたことについても言えるとお考えでしたね。宇宙が統一されているというのは一面的な見方だと。統一の半面には分裂があると言っても、それが統一力をもとに考えられていると。たしかに西田には強く救いを求める宗教的な側面があり、ここにも西田哲学の特徴がありそうです。

R

「判断に於て真に主語となるものは所謂総合的全体という如きものでなければならぬ」とありますが、「総合的全体」とは何のことですか?
佐野
内容的には、第2段落末の「真に判断の主語となるものは所謂命題の主語ではなくして、却って具体的一般者であると云わねばならぬ」と重なると思いますので、「総合的全体」とは「具体的一般者」と考えてよいと思います。ただ何故それを「所謂総合的全体」と呼んだのかが問題となります。おそらくカントの「総合判断」における「総合」を念頭に置いているのではないでしょうか。カントの総合判断はまさに主語と述語を総合するものでした。それでは次をDさん、お願いします。

D

読む(332頁13行目~333頁2行目)
佐野
最初の「此の如き一般者」とあるのは「総合的全体」つまり「具体的一般者」のことですね。それは主語・個物と対立する「単なる抽象的一般概念」ではない、「類概念」ではないとされます。それは「超越的述語面」だとされますが、その「超越」の意味が次に述べられます。何と書いてありますか?

D

「一般が述語として特殊を包むという〔包摂的〕関係を最後の種にまで進め、之を超越しても尚それが概念的知識であるかぎり、かかる形に於て超越すると考えねばならぬ」とあります。
佐野
「かかる形」とは?

D

「一般が述語として特殊なる主語を包む」ということだと思います。
佐野
そうでしょうね。主語の方向に個物へと超越するのと同時に、それに対応して述語の方向に超越して個物を包む「超越的述語面」となる、ということでしょう。最後にこれの述語的一般性の側面が確認されます。「最後の種を特殊化したもの、即ち個物までも含むものはもはや抽象的一般として考えることのできないものであるが、而も尚判断を内に含むという意味に於て述語的一般性を失うたものではない」。今日はここまでとしましょう。
(第101回)
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変ずるもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「一」の第2段落326頁3行目「右の如く」から328頁11行目「主語とするのではない」までを読了しました。今回のプロトコルはKさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「変ずるものの根柢には変ぜざるものがなければならぬ」(326頁12行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「①時其者を考へるとしても、少くも時を固定して見るのである、時を固定せる要素から成り立つものとして、その要素を比較するのである」との記述は、キーセンテンスとして上げた文の説明と理解していいのでしょうか。そうだとすると、②「時を固定する要素」を主観的に選定(=時の背後に置く)し、その条件のもとで行えばいいということでしょうか。③「時の関係において変ぜざるものがあるのか」という疑問を持っているので、このような問いになりました」(209字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
問いが三つありますね。まず①から。これはそのように理解してよいと思います。「固定せる要素から成り立つ」「時」が「変ぜざるもの」です。皆さん、いかがですか?特に異論がないようでしたら②に移ります。「行う」の意味が曖昧ですが、これは「現ずるものの根柢に変ぜざるものを考える」ということでよいと思います。これが、西田が「そのように行えばいい」と言っているのか、という質問だとすれば、それはそうではないでしょう。それでは「時其者を考える」(「時其者・時の変化其者を主語とする)ことにはならない、というのが西田の主張だと思います。この点についても、皆さん、何かご意見はありますか?ないようでしたら、③に移りたいと思います。これはどういうことですか?

K

すべてのものは変化のうちにあり、常住なものは何ひとつない、と思うからです。変化を論ずるには、相対的に静止しているものを設定すればよいですが、絶対的に静止しているものはない、ということです。

T

意味は移り行かないものだと思います。もしそうだとすれば語るということが成り立ちませんし、知識というものも成り立たないと思います。

K

意味というのは時の背後に置かれたもので、それは常住かもしれませんが、ここでは「時其者」を考える場合に、そこに「変ぜざるもの」はあるのかを考えたいのです。
佐野
それはどうもこれから西田が論じようとしていることに関わるようですね。ということで、プロトコルはこれ位にしてテキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(328頁12行目~329頁5行目)
佐野
ここはこれまでのまとめと「二」への移行を論じた部分ですね。少しずつ行きましょう。「時の関係」とは前後・同時・長短のことですね。「その項となるもの」が「性質を有つ」とは、前は青だったが、後は赤である、というようなことです。しかし青や赤は性質であっても「意味」ではない、ということです。価値を含んでいないということだと解釈されます。そうして「意味は他との関係に於て成立するのである」とあるのは、意味は、例えばつねに何々にとってという意味で、他との関係において成立する、ということだと考えられます。ここまでで分からないところはありますか?

A

大丈夫です。
佐野
次に「併し時の関係は之を性質的に区別することすらできない」と来ます。正しくは「時の関係に於てその項となるものは之を性質的に区別することすらできない」ということでしょう。前後・同時といった関係のうちにあるものはすべて〈今、今、今…〉ないし〈時、時、時…〉というように同質だからだと思われます。これを言い換えて「時に於ける変化を区別するものはその背後に考えられた性質的一般者か、然らざれば時を超越した概念的統一にすぎない」と言われます。327頁7~9行目では「性質的一般者」と「類概念的なるもの」とが同じ意味で用いられていましたが、ここでは「性質的一般者」は「背後」、「概念的統一」は「超越」というように分けて述べられていますね。「性質的一般者」ということで「色」のようなものを考え、「概念的統一」ということでもっと抽象的な、「時の類概念」(328,2)とか、「時間空間質量の数学的函数」としての「力」(327,6)を考えているのかもしれません。確かにこうしたものを置けば、例えば色が青から赤に変わったというように、変化を区別することはできるでしょう。しかしそれでは「時其者を主語として之に述語的性質を加えることはできない」とされます。「性質時」になっていない、ということです。そうして「時の長短否前後ということすら、時の要素について述語するのである」と来ます。

A

この「時の要素」とは前の段落にあった「時の要素を固定して居る」と言われたものですか?
佐野
そうですね。「固定」せる「時の要素」です。

K

いまひとつイメージできませんが。
佐野
前回は時の空間化ということを申し上げましたが、時間軸などにおける各点、時計版における、何時何分といった各点、あるいはカレンダーの日付も考えられると思います。これらについて「時の長短・前後」が述語される、というわけです。

K

分かりました。
佐野
ここからは次の「二」への導入です。「然らば我々が時の変化其者を主語として考える時」、つまり例えば「性質的一般者」を背後に置いてこれについて述語するのでなく、ということですね。その時に「如何なるものを考えて居るのであるか」。次に「如何にして性質時という如きものを考え得るのであるか」とあるのは言い換えですね。ここには、我々が「性質的一般者」や「概念的統一」を背後に置かずに「時其者(時の変化其者)を主語として考える」ことができる、という前提があります。これについては追々考えていくことにしましょう。その場合「時が内面的に性質的区別を有つと云うには、我々が時と考えるものを類として之を分化することができねばならぬ。併し一度的と考えられる時は更に分化することのできないものでなければならぬ、時を内に包み尚之を分化する一般者とは如何なるものであろうか」と述べられて、「二」に移ることになります(後に出てくるように、この「一般者」とは「具体的一般者」であると考えられます)。それでは次をBさん、お願いします。

B

読む(329頁7~13行目)
佐野
初めに「すべて存在するものは時に於てある」とありますが、この「存在するもの」は意味的・価値的な存在ではありませんね。「時に於てある」ような「存在」です。それでは「時とは如何なるものであるか、如何にして我々は時というものを考えることができるか」が次に問題になります。そうして「時を考えるには先ず連続ということを考えねばなるまい」と来ます。さらに「連続というものを考えるには、数学者の所謂集合の概念を基とせねばならぬ」とされます。そうして「連続の概念の根柢に類概念がなければなら」ず、それを数学者は「集合の概念」だとし、そこから「完全集合」として「連続」を定義する、と述べられます。この完全集合は「カントール集合」と呼ばれるそうですが、ここでは立ち入ることはできません。いずれにせよ「併し時は連続の一種であるとしても連続は即ち時ではない」というように、連続から時を考えるやり方は却下されます。「線の如きものでも、一種の連続である」とあるように、空間化された時は時ではない、とされます。そうして「時は変ずるものでなければならぬ」とされ、それでは「変ずるものとは如何なるものであるか」と、再び「変ずるもの」が問題になります。それでは次をCさん、お願いします。

C

読む(329頁14行目~330頁8行目)
佐野
「類概念」をどこまでも特殊化すると「最後の種」に達するが、それはまだ「個物」ではない、それが「真に個物」となるには「主語となって述語とならない」と云うことが「附加」されなければならない、と言われていますね。「佐野之人」は個人(個物)ですが、これは決して述語にはなりません。「佐野之人は〇〇である」とは言えても、「〇〇は佐野之人である」とは言えない。もちろん「2025年6月に山口西田読書会の進行役をしているのは佐野之人である」というように、個人を特定することはできますが、それは「佐野之人」の一面にすぎません。「〇〇は佐野之人である」と言えるためには、「佐野之人は〇〇である」という言明に無限の述語が可能である(語り尽くせない)のと同様に、無限の主語を必要とすることになりますから、「〇〇は佐野之人である」とは言えない、ということになります。

T

名前があれば個物を言い表せる、ということですか?
佐野
名前で呼ぶことによって、相手を個人(唯一無二)として扱うということはありますが、名前が個物そのものではないでしょう。名前は「私(これ)は佐野之人です」というように、述語の側に来ますから。「私(これ)」の「〔一つの〕名前」という側面にすぎません。この場合の個物はまさに主語の「私(これ)」です。ですが「私」と言えば誰もが「私」ですし、「これ」と言えばどれも「これ」です。言葉は一般的なものしか言い表すことができません。「唯一無二の私(これ)」と言っても、どれも皆「唯一無二の私(これ)」です。こうした〈一般としての個〉に対して、〈個としての個〉と言っても、やはりどれも皆〈個としての個〉です。言い表せません。我々はこうした個に出会うときには、絶句(言葉を失う)ほかはないことになります。「主語となって述語とならない」には「言い表せない」ものが立ち現れている、という絶句の事態が籠められています。テキストに「主語となって述語とならないと『云う』ことが附加せられねばならない」とありますが、これはまさに絶句の事態を敢えて言葉にしたものと考えることができます。「是に於て最後の種は即ち個物となるのである」とありますが、これは単に「主語となって述語とならないと云うこと」を「附加」すればそうなる、というような操作を言っているのではないと思います。次に「概念の特殊と一般との関係」とありますが、これは論理的な関係ですね。それと「判断の主語と述語との関係とは不可分離的であると共に、単に之を同一視することはできない」とあります。その理由が次に述べられていると考えられます。何とありますか?

C

「主語となって述語とならないと云うことによって、我々は所謂特殊化によって達することの出来ない尖端に達するのである、一般概念を破って外に出るのである」とあります。
佐野
概念の特殊と一般との関係では達することの出来ない「尖端」に、判断の主語と述語の関係が到達できる、というのです。それはまさに「云う」ということ、述語できない(語れない)と「云う(語る)」ということによってだ、ということです。ここには明らかに突破・超越がありますね。そうして「斯くして個物の概念に達した時、一般的なるものは個物の属性として此に於てあるものとなる。縦、ソクラテスの性質は他と共通なるものであっても、それはソクラテスの性質として唯一のものでなければならぬ」と言われます。塩も砂糖も白い、その意味で「白さ」は一般的ですが、「この塩の白さ」は砂糖の白さとも、他の塩の白さとも異なる個別的なものになります。それでは次をⅮさん、お願いします。

D

読む(330頁8~13行目)
佐野
ここでは「個物というものを考えるには、之を一般概念の埒外にまで進めねばならぬ」が、「併し判断が如何にして一般概念を破ってその外に出ることができるであろうか」と、上で述べられたことが改めて問いとなっています。上ではそれを判断の突破・超越と解釈しました。次いで「全然一般概念を超越するならば判断の主語となることもできない、何等の意味に於ても判断的関係に入ることはできない」とあります。まさに「絶句」ですね。たんなる判断の突破・超越では絶句にしかならない、ということでしょう。そこで「真に判断の主語となるものは所謂命題の主語ではなくして」、つまり「概念の特殊」ではなくして、「却って具体的一般者であると云わねばならぬ」。出て来ました。「具体的一般者」ですね。特殊と対立するのでなく、特殊を包む一般者のことです。ここでは「主語となって述語とならない個物を包む一般者」のことですね。先程の話で言えば、「主語となって述語とならない(言い表せない)と『云う』」ことによって、そうした真の判断の主語が具体的一般者として立ち現れていることになります。一旦判断の外に出て、改めて(別の)判断に戻ってきた形です。そうして西田としては、この「真の判断の主語」がその他のすべての判断の根柢にあることになります。こうして「個物」は語り尽くせないものとして立ち現れることになります。次をEさん、お願いします。

E

読む(330頁14行目~331頁)
佐野
西田はこの「具体的一般者」という「右の如き考」から「変ずるものというものを考えることができる」と考えているようです。その内実はまだ分かりません。見て行きましょう。「変ずるものは反対に移り行かなければならぬ」が、「変ずるということ」の「根柢に変ぜざるものがなければならぬ」と以前述べられたことが繰り返されますが、この「変ぜざるもの」こそが「具体的一般者」だというのでしょう。しかしどういうことか、慎重に見て行きましょう。具体例が出ていますね。どうなっていますか。

E

「赤が青に変ずると云っても、赤其者が青となるのではない、色が変ずるのである、色が変ずると云っても、色の一般概念が変ずると云うのではない」とあります。
佐野
では何が変ずるというのでしょう。読者のはやる気持ちを抑えるように、まず何でないかが語られます。最初は主語的方向に「物其者」を考え、次いで述語的方向に「一般的なる色や形」を考え、どちらも「変ずるもの」ではない、と却下します。そうして「物の色や形が変ずるのである」と述べます。これは納得できますね。次いでこれを言い換えて「主語となって述語とならないもの」すなわち「個物」が「又述語的一般者に於てあると考えられた時、変ずるものとなるのである」と述べられることになります。これはまさに個物を包む一般者ですから、具体的一般者ということになるでしょう。今日はここまでとします。
(第100回)
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時に於いてあるもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」より前文と「一」の第2段落326頁3行目「意味するのである」までを読了しました。今回のプロトコルはNさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「所謂知的作用は却って意識作用の一種と考えることができるであろう」(324頁最終行)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「知的作用」とは所謂「意識作用」であり、「狭義」には「判断」や「認識作用」等が該当するが、「之に反し広く云えば」、知がいわば知情意全体の「意識作用」を含むようにもなる。しかも、それが前掲文の「却って」云々という独特の書法で強調されている。一体これはどういう事態であるのか?」(136字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。

R

「却って」が「独特の書法で強調されている」とありますが、どういうことですか?

N

一つには、通常、知と情意は別だと思われているが、実は一つであること、もう一つは情意も知に入るという、知性の専制主義がそこにある、ということです。つまり知が情意を仕切っているのです。この知は西田の言う知で、『善の研究』で言う、「夜の見方」に対する「昼の見方」です。夜の見方とは自然科学的な見方ですが、これを克服して事物をありのままに見るには西洋的な知を転換しなければならない。直観的な知ですが、抽象的な知をもそこに含めようとした、それが西田の言う知です。

Y

「知性の専制主義」が西田の立場だということですか?

N

そうです。この知は直観、自覚、反省すべてを仕切るものです。

Y

体験・経験が重視されていない、ということですか?

N

それも直観される、ということです。

T

知が上にある、ということですか?

N

そうです。

T

(西田の場合、知よりも情意を上に置く傾向があると思うので)ここではそうした上下ではなく、広い意味の知とはすべてが「意識される」という意味で知である、という範囲の問題ではないですか?

N

いや、知が上から、かつ底からという意味で「知性の専制主義」です。知を意識と言い換えて「意識の専制主義」と言ってもよいが、その場合無意識をも意識化しようという気合があります。物自体をも認識するくらいの気合です。
佐野
「知性の専制主義」に対するアンチテーゼは何ですか?

N

一つにはヒュームが「知性は情念の奴隷である」と言ったように、「懐疑主義」があります。もう一つは知性で表現できないものとして、夢や神話、恋心などを重視した「ロマン主義」があります。もう一つ付け加えるならば、「支離滅裂」です。私はこれを先日の「3.11.のマーラー」で経験しました。ここにはベートーヴェン的な、最後は歓喜と言ったようなものは一切ない。
佐野
西田哲学には最後の所で歓喜がある、ということですか?

N

救い・歓喜があります。

W

私は最近「我を忘れる」という事態をどう考えたらよいか、考えているのですが。

N

そこにも知性が働いている、というのが西田の「知性の専制主義」ですが、同時に西田の知性は、悩み、考え、組み替え、それを読者にぶつけるという仕方で真理を明らかにしようとする、謙虚な専制主義です。

T

だとすると、先ほど挙げられた「懐疑主義」、「ロマン主義」、「支離滅裂」といったアンチテーゼも知性に取り込まれてしまいませんか?

N

西田は取り込んでいると思っていたかもしれない。懐疑主義における懐疑も、懐疑のための懐疑ではなく、そこには真理を知りたいということがある。ロマン主義にしても、デカダンスにしても、その根底にはやはり真理を知りたい、ということがある。
佐野
そうなると改めて「知性の専制主義」に対するアンチテーゼが何か、が問題になりますね。

N

中原中也のような。
佐野
芸術ですか?

N

そうです。芸術です。
佐野
哲学に対するものとして、芸術とならんで宗教も挙げられますが。

N

宗教は(現実的な勢力としては)いかさまが多い。金を集める、票にするといったことを目的とする側面があるので、私は「知性の専制主義」に対するアンチテーゼとしては、宗教は留保したい。
佐野
しかし、それはさておいても、哲学、芸術、宗教というように分けるのも、またしても知性(哲学)だということになってしまいそうですね。プロトコルはここまでとして、講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(326頁3~10行目)
佐野
ここでは「時に於てあるものが如何にして時を超越する意味を含むことができるか」(325,3-4)が問題になっています。物理現象から(生命現象を経て)意識現象がどのように成立するかを論じているように見えますが、そうだとすれば難しい(無理だという)感じがしますね。それはともかく、まず「右の如くに考え得る」とあるのは「論理的に」(325,15)ということですね。つまり判断論的・言語的ということです。その場合には「時に於てあるもの」と「時の関係」がなければならないことになりますが、そうすると「時に於てあるもの」が「意味を含むと云うことはできない」とされます。この「意味」というのが何を意味するかは文脈で考えるほかないのですが、とりあえず例えば「仏像」を物理現象として見るか価値(信仰の対象、鑑賞の対象)と見るかに違いがあるとすれば、意味とはこうした価値のことである、としておいて読み進めてみようと思います。ここまでで質問はありますか?

A

大丈夫です。
佐野
「時の関係」とは前後・同時ということですが、ここには意味(価値)は含まれない、ということですね。そこに「於てあるもの」つまり「物」には赤とか青という「性質」はあるだろうが、これもそれだけ取ってみれば意味(価値)を含んでいない、と述べられます。時の関係(前後・同時)を「物に附けて先在性、後在性、同時性といえば、意味ではなくその物の属性となる」とありますね。

A

人間を物のように考えれば、兄か弟か双子か、ということですね。
佐野
そうですね。人間の場合は意味が出て来てしまいますが、物の属性としての先在性・後在性・同時性などには意味はない、ということです。最後の「時に於てあるものが意味を含むと云うことができないとすれば、時以外の関係に於て〔意味を含むと〕云うのであるか、又は時の関係其者に属すると考えるの外ないであろう」というのは読みにくいですが、ここでの問いが「時に於てあるものが如何にして時を超越する意味を含むことができるか」であることを考えると、「時以外の関係」に意味を含むと言っても問いに答えたことにならないだろうし、「時の関係其者」に意味が属するなどと言えば不合理なことを言うことになるだろう、ということでどちらも〈ありえない〉ということだと思います。次をBさん、お願いします。

B

読む(326頁11~15行目)
佐野
今度は「時に於ける変化が意味を含むと云うことができるであろうか」と来ますが、何かこれも無理そうな感じがしますね。しかしまあ読んで見ましょう。まず「変ずるものの根柢には変ぜざるものがなければならぬ」とされます。「変ぜざるもの」は「時の背後」になければならないことになりますが、その例が「物」だとされます。しかし「物」は「性質」をもつことはできても、「意味を含む」とは言われない。また「物は既に時の外にあるもの」であるから、仮に意味を含むとしても、上の問いに答えることはできません。結局「時の背後」の「物」は却下です。次をCさん、お願いします。

C

読む(327頁1~4行目)
佐野
今度は「時の背後」ではなく、「時に於て現れる連続的要素」つまり「変ずるもの」そのものの「中に」「不変なるもの」がないか、が考察されます。例えば木の葉が青から赤に変わったとして、「木の葉」を置くのは先の「物」を置く立場ですが、今度のはそういうものを置かずに、青から赤に変わった、というところだけ見る。そうするとそこにおける「不変なるもの」とは「色」だということになる。しかし「色」は「木の葉」が「物」という主語的(それが様々な色を担うという意味で)一般者だとすれば、「述語的一般者」だということになりますが、これは「類概念的統一」で、こうした統一をしているのは主観ということで、「主観的統一」に過ぎない、ということになってこれも却下です。次をDさん、お願いします。

D

読む(327頁4~7行目)
佐野
以上は「物」関連です。その前半が物・主語で後半が性質・述語です。それに対し今度は「力」です。「力」を「時の背後」に置けば「物」と一緒ですし、「変ずるもの」の中に、例えばf=mαのように、「時間空間質量の数学的函数」を置けば、これらはみな概念ですから、この函数もやはり「主観的統一」ということになって、「力」も却下。次をEさん、お願いします。

E

読む(327頁7行目~328頁11行目)
佐野
今度は「時に於て変ずるもの其者」において「不変的なるもの」を求める場合です。「物」を外に置かずに、「性質的一般者が内に時の変化を包む」と考える場合です。

E

この「性質的一般者」というのは先程出てきた「述語的一般者」と同じと見ていいですか?
佐野
私もそうではないか、と思っています。皆さん、いい感じで文脈の中で考えておられますね。

E

そうでないと読めませんから。
佐野
それはともかく、もう一つの考え方がありますね。

E

「時其者を性質的と見て性質時というものを考える」場合です。
佐野
そうですね。前者が主観的なものから客観的な変化が出て来ないかを論ずるもの、後者が客観的な、「不変的なるもの=性質時」から変化が出て来ないかを論ずるものです。これは、「時其者」を不変な「物」のように考え、それが「性質」をもつことによって変化を説明する、という立場です。前者から見て行きましょう。まず「性質的一般者」が「類概念的なるもの」と言い換えられていますね。主観的だということです。

E

類概念がどうして主観的だということになるのですか。
佐野
これも文脈で考えるとそうなるということです。深く考えればいろいろ考えられると思いますが、まずは文脈に沿って相手の言うことを理解しましょう。今の場合、例えばこの犬やあの犬は客観的で、歩いていますが、類概念である犬一般は歩いていませんね。その程度の意味だと思います。次に行きますが、テキストではそれ(「類概念的なるもの」)は「時を離れたもの」、「意味に属するもの」でなければならない、とされています。

E

この「類概念」は「時」に関するものですから、「価値」とは異なるように思いますが。
佐野
そうですね。しかし西田は概念(言葉)に関するものはすべて価値を志向している、と考えていて、その価値は善美のみならず、真(真理)をも含むと考えればどうでしょう?

E

考えて見ます。
佐野
類概念的な時は「意味」に属するもので、客観的な時を離れているが、これがどのようにして時そのもの、あるいは時に於てあるもの(個物:この〇〇)に到達するか、これが問題になっています。「類概念的統一は述語的統一である」と述べられていますね。ここでは主語=客観的、述語=主観的という図式で考えられていますから、「述語的統一」は「主観的統一」と同義です。そうして「一般概念を如何に分化していっても個物に達することはできない、即ち時に於てあるものに到達することはできない」とされます。「最後の種」もなお「一般的」であると。個物、あるいは時そのものに達するには超越・飛躍が必要みたいですね。ここまでで質問はありますか?

E

大丈夫です。
佐野
次ははじめに「〔一般〕概念を」を補うと読みやすいと思います。直前に「最後の種」と出て来ましたが、そこからどのようにして個物に至るかを考える場合に、「概念自身の中に矛盾発展を含む」と考えたらどうか、というわけです。概念が特殊と一般の矛盾を含む場合、それは「特殊は一般である」という矛盾にまで発展しますが、これが判断だというのです。その場合この「特殊」は「個」になりますから(「ソクラテスは人間である」)、こうして個物にまで達するではないか、というわけです。しかしこれはなお「判断的関係」であって「判断作用」ではない、そう西田は言います。

E

「判断作用にまで達することはできない」とはどういうことですか?
佐野
「判断的関係」は時間の中にありません。例えば「ソクラテスは人間である」は時間を超えて成り立つ真理です。これに対し「判断作用」は時間のうちに生滅する出来事です。

E

分かりました。
佐野
ここまでが「変ずるもの其者」において「性質的一般者」を「不変的なるもの」と見る見方ですが、これでは「変ずるもの」が出て来ない、ということでこれも却下です。ここからは「時其者」を「物」のように考えて、それが「性質を有つ」と考えるやり方(「性質時」)です。ここも、我々は通常そのように時間を見ていない、ということで通常の見方としては却下されます。「性質時」を考えるためには、「時其者」を主語として、そこに「一度的と考えられる時」を性質的に区別・述語する、ということが成り立たなければならないけれども実際にはそうなっていない。どうしているかと言えば、まず「時の種々なる差別」を包む「時の類概念」という「単に性質的一般者」を「時の背後に置いて見ている」のであって、その時には「時其者を主語として居る」のではなく、「唯種々なる変化を考えて居る」のだとされます。どういうことかというと、「時其者の性質」の区別としては長短と前後(・同時)が考えられるけれども、まずは「長短」が取り上げられています。その場合「時に於てあるもの」を「同質的」と見て、それによって「時の長短を比較」しているというのです。どういうことでしょう?

E

例えば、地球の自転公転ではないでしょうか?
佐野
そうですね。まさに「時に於てあるもの(地球)」の「種々なる変化(自転公転)」を考えていることになりますね。その変化を「同質的」と見て、そこから「時の長短を比較し」て、「時の類概念(性質的一般者)」という主観的なものを考えて、これを「時の背後」に置く、ということでしょう。これは「時其者」を主語として考えているのではない、ということになります。次いで時の前後に関して、「時其者を考える」場合が論じられています。その場合、「時を固定」して見ている、というのです。時の空間化ですね。つまり「時を固定せる要素から成り立つものとして、その要素を比較する」というのです。これも主観的な時ですね。こうして「いづれにしても長短とか前後とかいうことは時の変化其者を主語とするのでない」と結論付けられます。通常の見方では時其者を主語として見る見方は出てきそうもありませんね。今日はここまでとしましょう。
(第99回)
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知るもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第8段落320頁14行目「カントの認識主観については」から323頁4行目「空しくせざらんことを」までを読了しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「私は単に無の概念を弄して居るのではなく、述語面を意識面と考へ、概念的に限定することのできない最終の述語面が所謂直覚的意識面であって、之に於てあるものを自己自身を見るもの、所謂主客合一なるものと云うのである」(322頁10~12行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田によれば、「無の場所といふのは、一般概念として限定せられないといふ意味に過ぎない」(322, 9)。このように一般概念によって限定され得ない述語面こそが、西田のいう「直覚的意識面」である。これにおいてあるものは「自己自身を見るもの」、すなわち「主客合一なるもの」といわれ(322, 12)、これにおいてあると云うことが「知る」ということである(316, 2)。しかし、無の場所において「ある」ということと、これにおいてあると「云う」こととの間には、どこまでも埋められない間隙が生じるように思われる。「自己自身を見るもの」と「知る」ということは、無の場所において、どのように関係しているのだろうか」(285字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
「意識面に於てあると云うこと」ないし「自己自身を見るもの」、「所謂主客合一なるもの」は直観と言い換えることができますね。それと「知る」ということの間には「どこまでも埋められない間隙が生ずる」と。しかし西田は根本的には「知る」とは「直観」と同一で、それは「無の場所」に於てある、と考えていると思いますが。

W

「直観」とは「無の場所」に「ありのままに映す」ということだと思いますが、そうしたものを根本に据え、前提すると、それ以外の見え方がありえなくなってしまうと思うのです。
佐野
それは直観に関することですね。それと「知る」との関係は?

W

「ある」というのは驚きだと思います。それと「知る」ということの間に間隙・ズレがから驚きというものもあるのだと思います。
佐野
「知る」ということと「云うこと」が関係してきますね。西洋哲学の伝統には言葉にすることができなければ知っているとは言えない、という思想があります。そういう問題ですか?

W

言葉の問題というよりは、「ある=知る」としてしまえば、そこが到達点となって、それで終わってしまうと思うのです。
佐野
驚きにレベルの差があるということですか?

N

あると思います。実在=直覚は測り知れないものであり、そこに知るとあるとの間の間隙がある。間隙を超えた間隙をつねに感じる。それを言葉にしていくのが哲学だと思います。無知の知というより、不知の知をつねに感じ、これを死ぬまでやる。

S

「知る=ある」を完全なものと考えなくてもよいのでは?「ありのままを見ている」ということを完全だという必要はない。「ああ、そういうことか」、それだけということの方が大事で、それを西田が言いたかったのでは?

N

いや、西田には完全でなければ済まない、というところが根底にあり、それが彼の哲学を押し進めている。

S

そこを離れる見え方がある、西田はそれが言いたかったのではないでしょうか?

N

人間は執着を離れられるものではない。だからこそそのつどの驚きがあり、常に間隙を生ずる。こうした不知の知が哲学の節度というもので、哲学はそれを言葉にしていく。これに対し、宗教は涅槃、成仏、悟りといったように到達点がある。そうしてそれを伝えるのに言葉は不可欠というわけではない。
佐野
話がとても面白いところに来ていますが、プロトコル担当者に一旦お返ししましょう。

W

純粋経験から様々な見え方が分岐していくるわけで、そうした見え方の手前に直観、「知る=ある」ということがある。だけどそれは上がりのようなもので、そうなると驚きがなくなってしまうと思うのです。
佐野
むしろ「知る=ある」ということこそが「驚き」なのでは?「知る=ある」を「上がり」だとするのはすでに反省の立場で、同様に「驚き」にレベルがあるというのも驚きを反省したもので、その時点ではすでに驚いてはいません。「知る=ある」ということを反省して、「自分の体験」というようにすると、そこにはまだまだ、というようなことが出てくるでしょうが、「知る=ある」の直観をどこまでも「自分の」理解を破るという仕方で与えられたものと考えるならば、そこにレベルの差はありえないと思います。

W

西田にはそうした純粋経験を前提とするところがあるような気がします。

R

純粋経験は前提ではないと思います。純粋経験と間隙は同時だと思います。純粋経験や直観を前提(根本)に置くというのは、西田の『善の研究』以後の中期の立場に見られるものですが、人間は直接にそうした立場に立つことができません。そうした自分の在り方、ありのままを見ることができない自分というものが見えてくるのが直観だと思います。
佐野
まだまだ続きそうですが、プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(「知るもの」前書き)
佐野
これはそのまま受け取る他はないですが、「具体的一般者」について確認しておきましょう。特殊と一般が対立するのが「抽象的一般者」です。その場合、一般は特殊と同列になり、それ自身が特殊になってしまう。そうでないのが「具体的一般者」で、この場合は、一般が特殊を包むことになります。ここではその特殊と一般の関係が主語と述語の関係を含み、その結果「主語となって述語とならない個物的なるもの」を包むものが「判断的一般者」とされていますが、この説明自体は「具体的一般者」の説明になると思います。この「具体的一般者」を「此論文の前半」では「単に判断的一般者」と考えた、というわけです。しかし「四」の終わりにおいて、「具体的一般者」を「推論式的一般者」と考えるようになった、そういうことだと思います。それでは次をBさん、お願いします。

B

読む(「一」の初めから324頁終わりまで)
佐野
ここはとりあえず分かりやすいですね。「知る」ということに広狭あり、狭義の「知る」が、「判断」「認識作用」で、広義の「知る」が「意識作用」で、これは「知情意」を含むということですね。だから「知る」といっても広義の「知る」は、知情意の一部ではなく「却って」それらを含む「意識作用」だと言うのでしょう。次をCさん、お願いします。

C

読む(325頁1~7行目)
佐野
前段落で、「意識作用」が出てきたところで、それがどういうものかを述べようとしています。作用とは一般に「時に於て生滅する出来事」であるが、そのうち意味を含むものが「意識作用」、含まないものが物理現象、そう言っているように読めますね。そうして「意味とは時を超越したものでなければならぬ」とされ、「時に於てあるものが如何にして時を超越する意味を含むことができるか」と、改めて「意識作用」が如何にして可能かが問われています。

C

意味が時を超越する、とはどういうことですか?
佐野
この「意味」がどういう意味かは文脈で考えるしかありませんが、初めはいろいろな可能性を考えて置き、それらを括弧に入れて読み進めるというのがいいと思います。例えば「意味」は「存在」と対比させて考えることもできます。新カント派のリッケルトは「意味あるいは価値があらゆる存在の前に、あるいは上にある」と言いましたが、その場合「ある」というのも、言葉を離れた現実の「存在」ではなく、言葉の「意味」だということになります。この立場だとあらゆるものが言語であるということになりますが、ここでの西田はそうした立場を取っていないようです。意味を含む意識作用の他に意味を含まない物理現象を考えているからです。いろいろな可能性がありますが、これ位にしておいて次を見てみましょう。「時に於てある」とは「時に於て現れるものが前後とか同時とかいう如き時の関係によって統一せられると云うこと」だとされます。そうしてこういう意味において「厳密に時に於てあるもの」とは「無意義なる要素の外面的結合」という如きもの以外にない、と言います。「無意義」とは「無意味」と同じと考えてよいと思います。例えば仏像を単に物体と見る場合などが考えられます。そして改めて「物理現象の如きもののみ時に於てあると云うことができる」とされます。そうなると上の問いは、「意識作用」も作用としては物理現象であるが、それが如何にして「意味」を含むのか、という問いになりそうですね。次をDさん、お願いします。

D

読む(325頁7行目~326頁3行目)
佐野
赤、青といった「物」の「性質」と、(空間的)前後左右(あるいは時間的)前後同時と言った「物」の「関係」とが区別して論じられています。「性質的異同」、つまり性質的な関係(赤と青は異なるなど)において、性質は物に属するから、性質的な関係は物から切り離して考えることはできないけれども、上記の空間的時間的「関係」は物から切り離して考えることができる、と述べられます。

D

次の「無論」から「考えることができるでもあろう」までの一文は西田の主張ではないですね。
佐野
そうですね。カッコに入れて読むといいと思います。それにしても読みにくいですね。「之に反し」の前後で対立する考え方が述べられることになります。前半は「物」を解消し、赤や青といった色を含め、性質をすべて「関係」に還元する立場ですが、具体的にどういう立場を念頭に置いているか分かりません。後半は空間的時間的関係をも含めてすべてを物の性質(さらには物)に還元する立場で、これは「ある物理現象について論ずる時、物理的世界を主語として述語する」とされた「ロッチェ」(ロッツェ、120頁)が念頭に置かれていると思われます。物理的世界を一つの「物」と考える立場です。ですがここではどちらの立場も取られません。〈物なくして関係なし、関係なくして物なし〉、という立場が取られることになります。そこで「併し我々が論理的に考える時」と続きます。

D

「論理的」とはどういう意味ですか?
佐野
これも文脈で理解しないといけませんが、後を読むと「判断的知識」の立場で論じていますから、「論理的」とはロゴス的つまり「言語的」ということかもしれませんね。「関係の項」(物)なくして関係なし、「対立」(関係)なくして物なし、ということで、「判断的知識とは物と物との関係の知識である」とされます。そうして「主語」が関係の項、「述語」が関係を意味する、とされます。今日はここまでとしましょう。
(第98回)
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具体的一般者、反省的一般者(抽象的一般)

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第7段落319頁15行目「以上述べた如く」から320頁13行目「含まれて居なければならない」までを読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「自己の中に自己を映す鏡」(320頁 12行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「その場合、絶対無(場所)も個物(認識対象)も認識主観も同一で自己そのものであるが、絶対無・一般が自己否定して個物・有となるには、自己だけではなく、他者がそこに入るのではないか」(87字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
認識主観を絶対無と見て、すべてが認識主観内の出来事とお考えのようですね。そこには他者が出て来ないと。

R

そうです。
佐野
限定された一般者(認識主観)が絶対無へと超越する場合に、限定された一般者の破れがあるわけですが、そこには限定された認識主観にとっての他者が必要だということですね。

R

はい。
佐野
そうだとすると、認識主観に限定された一般者と絶対無を区別しなければなりませんね。

S

この他者は弥陀の本願みたいですね。限定せられた認識主観が衆生で。
佐野
そうですね。これは絶対者と絶対無の問題になりそうですね。『善の研究』ではその第4編で絶対者と我々の自己との関係が問題になり、両者の逆対応的な関係から両者の合一がなされています。そうした宗教的覚悟を受けて、と私は解釈していますが、第1編冒頭の純粋経験が事実ありのままの知として立ち上がってきます。ここには逆対応を受けての平常底のようなものが見られます。このように『善の研究』と晩年の『宗教論』には、我々の自己と、それに対する他者との関係が出て来ますが、『善の研究』以後の、自覚、場所といった西田の思想的展開の中に他者は出て来ずに、西田は直接に純粋経験、自覚、場所の立場に立ってそこから哲学しようとしている傾向はあると思います。その意味でRさんのご質問は何となく理解できますが、大きな問題になりますね。プロトコルはこの位にして講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(320頁14行目~321頁8行目)
佐野
カントの認識主観では純粋統覚(統一作用)と意識一般(図に対する地)が一つになっていましたが、リッケルトは明確に認識主観を作用に限定した、そう西田は批判します。そこで「むしろカント自身の考を維持したい」と言いつつ、「唯カントも主客の対立を基とし、知ることを作用と考えることから出立した」と批判します。「尚一層深く広い立場から出立したいと考える」とあるのは、「意識一般」から出立したい、ということでしょう。またリッケルトが「所与の原理」を認めなかったのに対し、カントが『純粋理性批判』において感性的な所与(知覚の所与)を認めたことを一方で評価しつつ、「カントの如く所与の原理を単に知覚に限りたくない」とカントを批判しますが、カントの立場から言えば、『実践理性批判』を考慮に入れていない、ということになると思います。その場合感性的なもの以外の所与とは道徳律、つまり「善を為せ」という命令です。所与といっても実践理性が感性的な存在でもある人間に課すものです。これを人間はつねに自分にとっての善にしてしまいますが、これが通常の我々の意志です。ですからカントは所与を知覚に限ったというのは正確ではないと思います。ここまではいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
次にフィヒテ以降の「独逸唯心論」つまり「ドイツ観念論」の傾向について述べられていますね。新カント派はこれを「形而上学的」だと言って排斥した、と書かれています。この「形而上学的」の意味を西田は、「客観的思惟の方面を基として、主観的思惟をその一面とのみ考えた所」に認めています。西田からすればカントの統覚も作用として、すでに対象化されたものです。それを受けてフィヒテはこれを「自我」というように実体化し、さらにシェリング、ヘーゲルは「絶対者」とした、これが「客観的思惟」の意味だと思いいます。客観的と言ってももちろん「思惟」ですから、「主観的思惟をその一面」と考えることになります。「自我」ないし「絶対者」が思惟をもつ、ということです。

A

神が考える、というようなことですね。
佐野
そうです。これに対し西田はこうした客観化・対象化をしないで、どこまでも「判断意識」つまり「意識一般」の立場を離れないで、具体的一般の背後にも場所として抽象的一般を考えることによって、認識論的立場を維持したいと思う」とします。自分は「形而上学」をやっていない、ということです。

A

「具体的一般」とは何ですか?
佐野
「具体的一般者」ないし「具体的一般」の概念は西田の中で変遷がありますので、そのつどのコンテクストから読み取らなければなりません。以前(316頁11行目)にも出て来ましたが、ここでは意識作用と意志作用です。対象的・主語的なものです。「背後」とは「述語」つまり対象化されないものことです。前者を図、後者を地といってもよいと思います。具体的一般とは特殊を含む一般のことです。自己限定して特殊になる一般のことです。これに対して、特殊に対してあくまで一般であるのが「抽象的一般」です。先に「一般が特殊を自己自身の限定として、之を自己の内に成立せしめると共に、特殊に対しては何處までも一般其者として特殊とはならない、単に特殊が之に於てある無なる場所となる」(320頁10~11行目)とありました。ですから「抽象的一般」とは「無の場所」のことです。

A

分かりました。
佐野
西田は自分は「形而上学」をやっていないが、左右田博士は「die blosse metaphysische Übertragung der Erkenntnislehre(認識論の単なる形而上学的転移)」と言って自分を批判するけれども、リッケルトの立場以外を形而上学と呼ぶんだったら、そう呼んでもかまわない、そう言っていますね。それでは「六」に入りましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(321頁10行目~322頁終わり)
佐野
まとめですね。西田は自分の「場所」が対象化されないものであることを主張します。左右田博士が「場所」は「有とは考えられないか」とか「有でも無でも正しいとは思われない」と言っているのは、私のいう所の「場所」を対象化(=形而上学化)しているからだろう、というわけです。しかし左右田博士からすれば、「無の場所」と言った時点で対象化されてしまっている、と言いたいわけで、これはこれでもっともな言い分だと思います。人間は対象化されない領域(生の領域)に生き(存在し)ながら、「知」としては対象化しかできないし、そこを一歩も出ることもできない。こうした矛盾を抱えているが故に、そうした知の領域が破られる、ということが起こりうる、そうした存在だと思います。それはともかく、テキストで何か分からないところはありますか?

B

大丈夫です。
佐野
「私の場所というのは判断的知識の由って成立する一般者という如きものであって」とありますが、「判断的知識」は図ですね。それの背後にある一般者とは「意識一般(私は考える)」つまり地です。そうした地としての「意識一般」が「具体的一般者」と考えられる、とは意識を「意識作用」と考えることです。そうした場合にそれは「主語的であり、対象的」であることになります。そうして「具体的一般者の背後に反省的一般者がなければならない」ことになります。この「反省的一般者」は前には「抽象的一般」と呼ばれていましたね。

B

なぜ「反省的一般者」と呼んだのでしょうか?
佐野
ここだけでは分かりませんね。後に「判断としては、述語面は何處までも主語面を包むものであり、客観的思惟の背後にも反省的主観がなければならない」とあり、「客観的思惟」が、先に出てきたように、対象化された意識作用(統覚)と考えれば、「反省的主観」とは「意識一般」つまり、「私は考える」という「自己意識(自覚)」だということになります。そうすると、「自己意識」のことを「反省」と呼んだと考えることができますね。実際西田はそのあとで、「どこまでも判断的知識の背後に見られねばならない述語面という如きものが、私の所謂場所であって、それはカント学者の認識主観に相当するものと云ってよい」と述べ、この「認識主観」とは「意識一般(自己意識)」のことだと考えられますから、そういうことかもしれません。ただしこの「認識主観」は新カント派のいうような作用の「統一点」ではなく、於てある場所として「包容面」だ、という注意も西田は忘れません。ここまで、いかがですか?

B

大丈夫です。
佐野
「之」つまり「場所」「について、それが有であるとか無であるとかを論ずるのは、〔対象化できない〕認識主観について、それが有であるとか無であるとかを論ずるのと同様である」、とあるのは先にも述べましたが、左右田博士がそうした批判をしているからです。そうして「私が無の場所というのは、〔対象化できないので〕一般概念として限定せられないという意味に過ぎない」と述べます。対象化された無の場所を前提として「真の無の又無がないか」という質問には答えることができない、とします。そうして「述語面」を「意識面」と考え、その「最終の述語面」が「直覚的意識面」だとします。これが「真の無の場所」ですね。「無の場所」において「直覚」が成り立つということです。対象化できないものを知る仕方が「〔知的〕直観・直覚」です。もちろん左右田博士や、あるいはカントですらこんなものは認めません。それはもはや哲学ではない、と考えるからです。ですが西田は「自己自身を見るもの」「主客合一なるもの」を認めます。桜の花(客)が自分(主)であり、そうした桜の花の内に自分自身を見る、こうしたことのうちに絶対無が自己限定して特殊となりつつ、絶対無そのものとしてそれを自らのうちに映す、という事態を見て取っているのです。最後に残ったところ、Cさん、お願いします。

C

読む(323頁)
佐野
「千金死馬を買う」については、各自ネットで調べてください。「日暮れて途遠きもの」(老齢になったにもかかわらず、哲学はまだまだだ)である自分を「死馬」に喩えたものでしょう。哲学や芸術、宗教は、天才ならいざ知らず、一般の人間にとっては、50,60ははなたれ小僧、でいいと思います。80を過ぎてから本物の哲学をする、くらいがちょうどよいのではないか、と思います。それでないと生涯続けることができない。最近は哲学も「役に立つ」ということが要求され、したがって哲学する者も専門家であることが要求されます。当然のことながら、速成が期されますから、若い人は哲学の或る狭い範囲の専門家になろうとします。年輩になると広範囲の知識の所有者になろうとします。これが昨今の哲学研究です。これが哲学の本来あるべき姿でないのは明らかですが、どうにもならない。「日暮れて途遠し」、哲学とは生涯続くものであり、本来そうしたものだと思います。次回より第4巻の最後の論文、「知るもの」に入ります。
(第97回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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