知識を批評する知識の立場

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」の第4段落288頁7行目「単に限定せられた述語面は」から289頁の最後までを講読しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「一般的述語がその極限に達することは特殊的主語がその極限に達することであり、主語が主語自身となることである。」(288, 15-289, 2)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「一般的述語がその極限に達すること」は、限定せられた場所の外に出続け、場所そのものが真の無となることであろう。西田によれば、これは同時に「特殊的主語がその極限に達すること」であり、「主語が主語自身となること」である。一見するとこれら三つのことは同時に成立しないように思える。これら三つのことはいかにして同時に成立するのだろうか。また、「主語が主語自身となること」は「単に自己自身を直観するものとなる」ことなのか」(205字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります(今回はさらに左右田喜一郎の論文内容を加味して構成してあります)。
佐野
「三つのこと」とは?

W

「一般的述語がその極限に達すること」と「特殊的主語がその極限に達すること」と「主語が主語自身になること」です。
佐野
だとすれば「一般が一般自身になること」というのも隠れていそうですね(283,15-284,2参照)。ところで、これら三つが「同時に成立しない」とは、時間差があるということですか?啐啄同時と言いますが、実はそこには、真の無がまず現成して、そこから主語(個物、働くもの)が立ち上がるのか、主語が立ち現れることで、真の無が現成するのか、といった時間の差があるのではないか、という・・・

W

いえ。三つのことは別のことを言っているように思えるのに、それが同時に成り立つのはどういうことなのかなあ、ということです。西田を読んでいるとここで書いてあることもそんな気になるけれど、本当にそうかなあ、ということです。
佐野
我々は通常「一般概念(有の場所)」の中で当たり前のように分かった気になって生きているけれども、それが破れる刹那、無限に深い真の無の場所が開けると同時に、そこに一切の述語づけを拒むような主語が立ちあがる(「主語が主語自身となる」)、そこにおいて物(主語)となって見る(「単に自己自身を直観するものとなる」)というような境位が開ける、こういう体験の事柄としてこの箇所を読みたくなりますね。そうして何となく分かった気になってしまう。そこに違和感があると。

S

見え方が違ってくるということでは?対象物を見ているのではなく、もっと深いもの、実在を見ている、ということではないでしょうか?

W

そこなんですが、実在が見えていると言うと、それ以上の見方ができなくなってしまうように思うのです。

N

西田はそうした実在、物自体というか、そういうものを体験によって把握したのだと思います。やったーという感じではないでしょうか。

R

たしかに一般概念が破れ、言葉にならないものに出会えば、余裕はなくなりますが、西田はそれを論理化し得たという意味では、やったーという感じかもしれません。

W

一般概念が破れるうちは、見え方はどこまでも変わるのでは?有るがままの世界の景色は「それ」としか言えないと思いますが、「それ」ってどういうことでしょうか?
佐野
たしかに「それ」を把握して、これこそ実在だ、と言ってしまうともう違っていますね。私も音楽や剣道で、体験を通じて今度こそこれが音楽だ、これが剣道だという原点に到達した気にしょっちゅうになりますが、すぐに全部覆されますね。そんなことの繰り返しです。掴んだと思ったものは全部嘘だというのはよくわかる気がします。

K

主語が主語自身になる前の主語と、主語自身になった時の主語との関係はどうなるのでしょうか?主語が主語自身になる前の主語は「一般概念」に包まれているけれども、主語が主語自身になるとそうしたものがない、「真の無の場所」に包まれているということですよね。

S

最近、「今が大事」とか「今でいい」という言い方がよくなされますが、そういう感じで理解されていますか?僕は違和感がありますけど。
佐野
だいぶ時間が押してきたので、プロトコルはこの位にしたいと思います。感想ですが、言葉にならないような何かに出会った刹那、我々はそれでもそれを言葉にしなければまったく理解できません。その意味ではすべてが言葉であり、理解なのですが、それを破るような体験があるということも、言葉の領域においてであるにせよ、厳然とあります。それはあらゆる理解や分別を超えています。ですからそれを我々の「理解」と対立する「実在」とするのも、過去や未来と区別された「今」と理解することも、すでに分別が入っていると考えなければならないだろうということです。

R

主語自身としての主語とか、真の無という根底を何故「ある」と言えるのですか?
佐野
一つには、我々が日常的になしている判断、その可能性の根拠を求めていくと、矛盾的統一はそこまで徹底しなければならない、その意味でそうしたものがなければならない、ということがあると思います。もう一つは体験が基になっているということがあると思います。ですが、こうした体験は「ある」とも「ない」とも言えないものです。「ある」と聞けば安心するのはすでに有無の中で考えているからです。それでは今日の講読箇所に移りましょう。今日から「左右田博士に答う」ですね。左右田は経済学(経済哲学)者で、実業家でもありました。リッケルトのもとで新カント学派の哲学を学んでいます。ネットでご確認ください。また「左右田喜一郎 西田哲学の方法について」で検索すれば、目下の西田の論文のもととなった、左右田の論文を読むことができます。新カント学派の立場からの西田哲学の方法を批判したものになっています。30頁の論文ですので、関心ある方は各自でお読みください。西田の「働くもの」と「場所」から、そこに表出した「西田哲学(この呼称は左右田が初めて用いたものです)」の核心を要約し、更にその根本的な問題点を五つに分けて述べたもので、実に充実したものとなっています。この読書会では時間の都合上、残念ですが扱いません。それではAさん、お願いします。

A

読む(290頁1行目~7行目)
佐野
左右田博士の論文は批判哲学の立場からの手厳しい批判になっていますが、それを「近頃初めて理解あり、権威ある批評を得たかに思う」と西田が思うほどに、西田哲学を本質的に理解し、その上で内在的に批判したことが西田には余程嬉しかったのでしょう。「「場所」の終に於て、私は多少従来と異なった考に達し得たかと思う」とありますが、この「終」を具体的にどこと取るかは議論のあるところでしょう。もちろん一番最後の部分(第4段落末)を挙げることもできますが、ここはペンディングにしておきましょう。次をBさんお願いします。

B

読む(290頁8行目~291頁1行目)
佐野
知識とそれについての知識の二種を区別できるということですが、これについて「眼は眼を見ることはできない」という立場(反論)が考えられます。じつはこうした批評を左右田は西田哲学に対してしています。「知識が知識自らを解せんとする場合には知識を超えんことを要求するは、知識の範囲内に於て妥当する知識にとって必要且つ当然の歩みに過ぎない」(左右田24頁)が、その要求を西田は「理論理性の僭越を敢えてして居る」(同26頁)というのが左右田の西田批判の根本にあります。左右田にとっては、西田は眼を見ることができると主張していることになります。これに対し、西田はここで「知識」に「少なくとも種々の種類があり、種々の次位を区別し得る」と考えます。それでは次をCさん、お願いします。

C

読む(291頁1行目~5行目)
佐野
まず西田は「客観的対象を認識する」ことと、「主観的作用を反省する」ことを区別します。後者には「反省的知識の対象として之を知る」という立場が考えられます。前者には所謂自然科学、後者には内観法による心理学が念頭に置かれていると思われます。それでは次をDさん、お願いします。

D

読む(291頁5行目~11行目)
佐野
ここでは後者の中でもさらに高い立場に立つものとして「批評哲学」(批判哲学)が挙げられています。ここには心理主義への批判が念頭に置かれていると考えられます。心理主義は哲学的な認識の基礎に経験的な心理学を置こうとするものとして、新カント学派などによって厳しく批判されたものです。そうした心理主義を超える立場が「批評哲学」で、カントや新カント学派の立場です。しかし西田はこの立場をさらに「知識が知識自身を越えて何處までも深い立場に立つ」ことでなければならない、と考えます。こうして西田は意志や直観の立場に深まっていきますが、こうしたやり方に左右田は「「哲学の方法」としては余は力一杯反対したい」(左右田27頁)というのです。こうした批判は左右田が学んだ新カント学派の「批評主義」の立場からのものですが、西田からすれば自分こそが「徹底的批評主義」(旧全集第5巻184頁13行目)であると考えています。こうして西田は「知識」に「種々の次位」を認めます。その場合「知識自身を反省し批判する知識」はいかなる意味で「知識」と言えるのか、一層深いとか高いと言われる「批評哲学」の高さや深さがどこから来るかを問題にしようとします。それでは次をEさん、お願いします。

E

読む(291頁12行目~292頁7行目)
佐野
13行目に「避くべからざる循環」とありますが、どういう循環でしょうか?

E

一般的に言っているように思いますが。
佐野
さしあたりはそうだと思いますが、前文との関係ではどうなるでしょうか。前文は「理論理性によって知るということと、理論理性が自己自身を反省するということとは同一でない」となっていますね。それに続いて「避くべからざる循環と云っても、避くべからざる循環と知った時、それは単に同じ所に還ったということではない」と言われていますから、「避くべからざる循環」とは、「理論理性によって〔理論理性を〕知る」(眼が眼を見る)ということではないでしょうか。そうして「理論理性が自己自身を反省するということ」が「避くべからざる循環と知った時」に対応するのでしょう。

F

「批評哲学といえども、それ自身の内容を有って居なければならない。知識の形式を批評するという時、既に形式が内容となって居る」というのがよく分かりません。
佐野
通常知識は、形式と内容によって成り立つ、と考えられます。この場合の形式とは、空間・時間という感性の形式と、カテゴリーという悟性の形式で、内容とは感性的な質料(素材)です。批評哲学(批判哲学)はこうした知識の枠組み自体(知識の形式)を問題にします。そうなると批評哲学は「知識の形式」自体を内容として、これを批判吟味することになります。

F

何故そのような吟味が必要ですか?
佐野
我々は一定の枠組みに基づいて認識しています。しかしそれがたんなる先入見(偏見)であれば我々は物事を正しく認識することはできません。そこでそうした枠組みの批判吟味が必要になります。その上で我々はそうした枠組みを正しく用いなければならない、ということになるからです。

F

でも我々の用いる形式は「論理の形式」しかないのでは?批判吟味もそうした形式によって行うほかないのでは?
佐野
そこなんです。西田が今問題にしようとしていることは。「無論、論理の形式以上の形式があると云うのではない。併し形式によって考えるということと、形式自身の自省ということとは同一でない」と西田は考えます。そこに「新しい知識の意味」が加わると考えます。そうしてこれがおそらく、意志とか直観ということになるのですが、これに左右田が反発するのです。左右田からすればすべては知識であり、我々は知識を越えることはできない。それを越えて意志や直観を論ずることは理性の僭越・越権だというわけです。西田にしてみれば、すべてが知識だということは認めるにしても、そこに「次位」(判断、意志、直観)があるはずだ、というわけです。ここをどう考えるかはとても重要だと思いますが、先に進みましょう。Fさん、お願いします。

F

読む(292頁7行目~11行目)
佐野
ここで「自覚」という言葉が出て来ます。批評哲学」の「知識を批評する知識の立場」は「自覚的立場」であり、それは「積極的立場」をもっていなければならない、西田はそう考えます。そうして「その立場は単に形式によって対象を構成するという知識の立場ではない」、そのように言います。自我自体の認識を認めない(眼は眼を見ない)批判哲学の立場からすれば、「自覚的立場」の「積極的」な意義をこのように主張することは、やはり理性の越権だということになるだろうと思います。そこのところは措いておいて、次をGさん、お願いします。

G

読む(292頁11行目~293頁2行目)
佐野
ここで「真の自覚」が出て来ますね。西田が本当に言いたいことです。「自覚は自覚自身の内に深く反省して見なければならぬ」と西田は言います。後には「認識以前」の「体験」の語も出て来ます(293頁6行目)。そうしてこうした「体験」としての「理論理性の自省そのもの」の上に「批評哲学」の知識が立てられなければならない、西田はそのように考えます。その際、こうした「自省」ないし「自覚」を論ずるには、さらなる「自覚」(「自覚の自覚」)がなければならない、と考えられるかもしれないが、それはすでに「自覚」を対象化している、「自覚を対象的知識と同一と考え」ており、それは「空虚なる言辞に過ぎない」と断じます。左右田からすれば、対象化しないでどのように知るのだ、ということになると思います。今日はここまでとします。
(第76回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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