知るもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第8段落320頁14行目「カントの認識主観については」から323頁4行目「空しくせざらんことを」までを読了しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「私は単に無の概念を弄して居るのではなく、述語面を意識面と考へ、概念的に限定することのできない最終の述語面が所謂直覚的意識面であって、之に於てあるものを自己自身を見るもの、所謂主客合一なるものと云うのである」(322頁10~12行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田によれば、「無の場所といふのは、一般概念として限定せられないといふ意味に過ぎない」(322, 9)。このように一般概念によって限定され得ない述語面こそが、西田のいう「直覚的意識面」である。これにおいてあるものは「自己自身を見るもの」、すなわち「主客合一なるもの」といわれ(322, 12)、これにおいてあると云うことが「知る」ということである(316, 2)。しかし、無の場所において「ある」ということと、これにおいてあると「云う」こととの間には、どこまでも埋められない間隙が生じるように思われる。「自己自身を見るもの」と「知る」ということは、無の場所において、どのように関係しているのだろうか」(285字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
「意識面に於てあると云うこと」ないし「自己自身を見るもの」、「所謂主客合一なるもの」は直観と言い換えることができますね。それと「知る」ということの間には「どこまでも埋められない間隙が生ずる」と。しかし西田は根本的には「知る」とは「直観」と同一で、それは「無の場所」に於てある、と考えていると思いますが。

W

「直観」とは「無の場所」に「ありのままに映す」ということだと思いますが、そうしたものを根本に据え、前提すると、それ以外の見え方がありえなくなってしまうと思うのです。
佐野
それは直観に関することですね。それと「知る」との関係は?

W

「ある」というのは驚きだと思います。それと「知る」ということの間に間隙・ズレがから驚きというものもあるのだと思います。
佐野
「知る」ということと「云うこと」が関係してきますね。西洋哲学の伝統には言葉にすることができなければ知っているとは言えない、という思想があります。そういう問題ですか?

W

言葉の問題というよりは、「ある=知る」としてしまえば、そこが到達点となって、それで終わってしまうと思うのです。
佐野
驚きにレベルの差があるということですか?

N

あると思います。実在=直覚は測り知れないものであり、そこに知るとあるとの間の間隙がある。間隙を超えた間隙をつねに感じる。それを言葉にしていくのが哲学だと思います。無知の知というより、不知の知をつねに感じ、これを死ぬまでやる。

S

「知る=ある」を完全なものと考えなくてもよいのでは?「ありのままを見ている」ということを完全だという必要はない。「ああ、そういうことか」、それだけということの方が大事で、それを西田が言いたかったのでは?

N

いや、西田には完全でなければ済まない、というところが根底にあり、それが彼の哲学を押し進めている。

S

そこを離れる見え方がある、西田はそれが言いたかったのではないでしょうか?

N

人間は執着を離れられるものではない。だからこそそのつどの驚きがあり、常に間隙を生ずる。こうした不知の知が哲学の節度というもので、哲学はそれを言葉にしていく。これに対し、宗教は涅槃、成仏、悟りといったように到達点がある。そうしてそれを伝えるのに言葉は不可欠というわけではない。
佐野
話がとても面白いところに来ていますが、プロトコル担当者に一旦お返ししましょう。

W

純粋経験から様々な見え方が分岐していくるわけで、そうした見え方の手前に直観、「知る=ある」ということがある。だけどそれは上がりのようなもので、そうなると驚きがなくなってしまうと思うのです。
佐野
むしろ「知る=ある」ということこそが「驚き」なのでは?「知る=ある」を「上がり」だとするのはすでに反省の立場で、同様に「驚き」にレベルがあるというのも驚きを反省したもので、その時点ではすでに驚いてはいません。「知る=ある」ということを反省して、「自分の体験」というようにすると、そこにはまだまだ、というようなことが出てくるでしょうが、「知る=ある」の直観をどこまでも「自分の」理解を破るという仕方で与えられたものと考えるならば、そこにレベルの差はありえないと思います。

W

西田にはそうした純粋経験を前提とするところがあるような気がします。

R

純粋経験は前提ではないと思います。純粋経験と間隙は同時だと思います。純粋経験や直観を前提(根本)に置くというのは、西田の『善の研究』以後の中期の立場に見られるものですが、人間は直接にそうした立場に立つことができません。そうした自分の在り方、ありのままを見ることができない自分というものが見えてくるのが直観だと思います。
佐野
まだまだ続きそうですが、プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(「知るもの」前書き)
佐野
これはそのまま受け取る他はないですが、「具体的一般者」について確認しておきましょう。特殊と一般が対立するのが「抽象的一般者」です。その場合、一般は特殊と同列になり、それ自身が特殊になってしまう。そうでないのが「具体的一般者」で、この場合は、一般が特殊を包むことになります。ここではその特殊と一般の関係が主語と述語の関係を含み、その結果「主語となって述語とならない個物的なるもの」を包むものが「判断的一般者」とされていますが、この説明自体は「具体的一般者」の説明になると思います。この「具体的一般者」を「此論文の前半」では「単に判断的一般者」と考えた、というわけです。しかし「四」の終わりにおいて、「具体的一般者」を「推論式的一般者」と考えるようになった、そういうことだと思います。それでは次をBさん、お願いします。

B

読む(「一」の初めから324頁終わりまで)
佐野
ここはとりあえず分かりやすいですね。「知る」ということに広狭あり、狭義の「知る」が、「判断」「認識作用」で、広義の「知る」が「意識作用」で、これは「知情意」を含むということですね。だから「知る」といっても広義の「知る」は、知情意の一部ではなく「却って」それらを含む「意識作用」だと言うのでしょう。次をCさん、お願いします。

C

読む(325頁1~7行目)
佐野
前段落で、「意識作用」が出てきたところで、それがどういうものかを述べようとしています。作用とは一般に「時に於て生滅する出来事」であるが、そのうち意味を含むものが「意識作用」、含まないものが物理現象、そう言っているように読めますね。そうして「意味とは時を超越したものでなければならぬ」とされ、「時に於てあるものが如何にして時を超越する意味を含むことができるか」と、改めて「意識作用」が如何にして可能かが問われています。

C

意味が時を超越する、とはどういうことですか?
佐野
この「意味」がどういう意味かは文脈で考えるしかありませんが、初めはいろいろな可能性を考えて置き、それらを括弧に入れて読み進めるというのがいいと思います。例えば「意味」は「存在」と対比させて考えることもできます。新カント派のリッケルトは「意味あるいは価値があらゆる存在の前に、あるいは上にある」と言いましたが、その場合「ある」というのも、言葉を離れた現実の「存在」ではなく、言葉の「意味」だということになります。この立場だとあらゆるものが言語であるということになりますが、ここでの西田はそうした立場を取っていないようです。意味を含む意識作用の他に意味を含まない物理現象を考えているからです。いろいろな可能性がありますが、これ位にしておいて次を見てみましょう。「時に於てある」とは「時に於て現れるものが前後とか同時とかいう如き時の関係によって統一せられると云うこと」だとされます。そうしてこういう意味において「厳密に時に於てあるもの」とは「無意義なる要素の外面的結合」という如きもの以外にない、と言います。「無意義」とは「無意味」と同じと考えてよいと思います。例えば仏像を単に物体と見る場合などが考えられます。そして改めて「物理現象の如きもののみ時に於てあると云うことができる」とされます。そうなると上の問いは、「意識作用」も作用としては物理現象であるが、それが如何にして「意味」を含むのか、という問いになりそうですね。次をDさん、お願いします。

D

読む(325頁7行目~326頁3行目)
佐野
赤、青といった「物」の「性質」と、(空間的)前後左右(あるいは時間的)前後同時と言った「物」の「関係」とが区別して論じられています。「性質的異同」、つまり性質的な関係(赤と青は異なるなど)において、性質は物に属するから、性質的な関係は物から切り離して考えることはできないけれども、上記の空間的時間的「関係」は物から切り離して考えることができる、と述べられます。

D

次の「無論」から「考えることができるでもあろう」までの一文は西田の主張ではないですね。
佐野
そうですね。カッコに入れて読むといいと思います。それにしても読みにくいですね。「之に反し」の前後で対立する考え方が述べられることになります。前半は「物」を解消し、赤や青といった色を含め、性質をすべて「関係」に還元する立場ですが、具体的にどういう立場を念頭に置いているか分かりません。後半は空間的時間的関係をも含めてすべてを物の性質(さらには物)に還元する立場で、これは「ある物理現象について論ずる時、物理的世界を主語として述語する」とされた「ロッチェ」(ロッツェ、120頁)が念頭に置かれていると思われます。物理的世界を一つの「物」と考える立場です。ですがここではどちらの立場も取られません。〈物なくして関係なし、関係なくして物なし〉、という立場が取られることになります。そこで「併し我々が論理的に考える時」と続きます。

D

「論理的」とはどういう意味ですか?
佐野
これも文脈で理解しないといけませんが、後を読むと「判断的知識」の立場で論じていますから、「論理的」とはロゴス的つまり「言語的」ということかもしれませんね。「関係の項」(物)なくして関係なし、「対立」(関係)なくして物なし、ということで、「判断的知識とは物と物との関係の知識である」とされます。そうして「主語」が関係の項、「述語」が関係を意味する、とされます。今日はここまでとしましょう。
(第98回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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