哲学における独自性とは何か
- 2019年7月20日
- 読書会だより
今回の「哲学的問い」は「西田幾多郎の哲学は『日本独自の哲学を打ち立てようとした』というような日本の特殊性を強調した文脈において語られることがある。哲学が普遍性を志向する(真実か、真実でないかを考える)学問であるとするならば、日本の特殊性をこの普遍性との関係でどのように考えればよいか」でした。
西田哲学は日本独自の哲学とキャッチコピーのように言われますが、西洋との交わりの中で成立したと思います。日本の独自性を強調すれば普遍性は飛んで行ってしまいます。しかし西田は普遍性を追求した、この辺りを考えたいと思います。
日本的西洋的というのは思考プロセスの方法が違うだけで、たどり着くところは同じです。西田は方法を西洋に合わせてやってあげている、付き合ってやっているだけです。西洋文明の言葉で東洋を語ったと言えると思います。
パラダイムという考えがありますね。パラダイムの中にあるものが普遍です。その外は特殊。
パラダイムは転換するだけすね。
そもそも哲学が普遍性を志向すると言えるのか。数学でいう特殊解というのがあるが、哲学はこうした解を求めていくものではないか。
ですが哲学には真実を求めるということがあると思います。本当かどうかということです。ソクラテスもそれで吟味を行った。西田哲学は普遍性を求めているのか、或いは西田哲学に普遍性があるのか、それを考えたいのです。
普遍性とは何ですか。
同じように考えうるということです。
東洋と西洋を統合できたのは西田の哲学が独自だったからです。
東洋と西洋というものが始めからあったわけではないですね。出会いを通じてそれぞれが自らをそのように意識する。それと同時にそこに新たな普遍性というのが生じている。その中に西田は新たな普遍性を発見したのだと言えるのでは。
サイードのことを念頭に置いているのですか。
いえ。西田自身のことを念頭に置いていました。西田は西洋との出会いを通じて、和魂洋才というような折衷ではなく、日本の思想は普遍性を持たなければならないと思っていました。
その普遍性のカギは、西洋でいえば倫理、東洋でいえば道、つまり人間の生き方だと思います。宇宙と生き方の問題に帰ってくると思います。
西田も『善の研究』で「人生の問題が中心であり、終結である」と言っていました。
この後も議論は続きましたが、この辺で今回の読書会だよりの中継を終えたいと思います。どうも司会者の不手際で議論をなかなか深めることができません。