判断をめぐる主語と述語そして超越の関係

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「二」の第3段落331頁8行目「一般概念を特殊化して行って」から333頁2行目までを読了しました。今回のプロトコルはYさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「一般が述語として特殊なる主語を含むという関係を最後の種にまで進め、之を超越しても尚それが概念的知識であるかぎり、かゝる形に於て超越すると考へねばならぬ」(332頁14~15行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「時において存在するものを判断するとは、「述語となって主語とならない」「述語的一般者」が「主語となって述語とならない」「個物」を含むという統合なされることです。一方、『善の研究』において、判断とは「主客両表象を含む全き表象」が、主語と述語に分析され、統合されることです。本文では、『善の研究』のように、判断の主語と述語に分析されることへの言及がなされていません。これをどのように考えるべきでしょうか」(198字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
どのようにお考えになりますか?

Y

『善の研究』の場合は、純粋経験といった心理学的な全体から出発したのに対して、「知るもの」の場合は、判断の成立という事実から出発するという方法論的な違いがあるように思われます。そのうえで「超越」ということが問題になることも『善の研究』とは異なっているように思われます。
佐野
キーセンテンスにおける「超越」を見る限り、「超越」に関しては「一般が述語として特殊なる主語を含むという関係を最後の種にまで進め、之を超越」するということと、「尚それが概念的知識であるかぎり、かゝる形に於て超越すると考へねばならぬ」という二つのことが言われていますね。最初の「超越」はどういうことですか?

Y

二つの方向があって、一つは主語となって述語とならない個物への超越の方向、もう一つは述語となって主語とならない述語的一般者への超越です。
佐野
そうですね。それでは後の方の「かかる形における超越」とは?

Y

「一般が述語として特殊なる主語を含む」という形での超越です。
佐野
そうですね。それによってこうした超越の領域でも「概念的知識」が成立すると西田は考えているようですね。またそれがないとそもそも「判断的知識」という事実が成り立たない、とも考えていますね。ところで「特殊なる主語を包む一般」とは「具体的一般者」と呼ばれていましたね。テキストでは「総合的全体」とも。

Y

ええ。
佐野
そうなると、「知るもの」でも判断以前の全体が考えられていて、それが「具体的一般者」だと考えることができます。「判断(Urteil)」はそこからの主語と述語への「根源分割(Ur-teilen)」だということになります。そうだとすると、『善の研究』における「純粋経験」は「知るもの」において「具体的一般者」として引き継がれていることになりますね。プロトコルはこれくらいにして、本日の講読箇所に移ろうと思いますが、今回は番外編(Exkurs)としてカントのプロレゴメナ第46節を講読しましょう。講読の詳細は省略しますが、カントは主語となって述語にならない究極的な主語としての個物(物自体)は理念としては認めますが、認識することはできない、とします。同様に西田の言うところの「述語となって主語とならないもの」、これは「自我自体」ということになりますが、これについても理念(統制原理)としては認めますが、認識することはできない、とします。それは「私は考える」と言う場合の「私」、つまり「意識一般」のことですが、それは判断が成立する場合の図に対する地のようなもので、決して対象化できず、したがって認識することはできず、したがって「概念(言葉)」にすることもできません。それは「自己意識」とか「我在り」という「感じ(Gefühl)」といった仕方での「表象」としてか呼べません。ところがデカルトはこの「在り」を「概念」にしてしまい、そこから「我在り」の「我」を実体としたが、これは誤謬推理だとカントは考えます。西田との違いは明らかですが、他方で読書会での議論にもありましたが、カントが「理念」の存在を認識とは別の領域で認めているという点については、カントも西田も同じものを見ているが、その扱い方が異なる、とも言えそうです。どちらか一方で決着を付けようとせず、彼らが語ったところのものではなく、語ろうとしていたもの、見ていたものをこの読書会でも哲学して行こうと思います。これから夏休みにしようと思います。暑い毎日が続きますが、お元気でお過ごしください。再開は9月6日です。ごきげんよう。
(第102回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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