知覚と意志
- 2024年11月2日
- 読書会だより
前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第4段落302頁5行目「厳密に対象自体という如きものから出立すれば」から304頁の11行目「die blosse dogmatische Beschränkung der Erkenntnistheorieではないか」までを読了しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「理論理性の自省である認識論は単に判断意識の自省ではなく、知識自身の自省でなければならない、之を単に形式的なる判断意識に限ろうとするのはdie blosse dogmatische Beschränkung der Erkenntnistheorieではないか。」(304, 8-11)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田は、リッケルトに対して、「リッケルトの認識論は唯、知識の構成原理としての判断意識を明にするに止まる」と批判する。しかし、西田によれば、認識論は「知識自身の自省」(知ることを知る)でなければならない。ここでいわれる「知ることを知る」の「知る」は、「単に形式的なる判断意識」とどのように異なるのか。また、「知識自身の自省」と言うときには、「知識自身の自省」を知る立場に身をおいているように思われるが、いかにしてこの立場は成立するのか。」(217字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
二つ問いがありますね。最初の問いはリッケルトの考える「知る」と、西田の考える「知る」の違いに関する問いですね。大雑把に言えば、リッケルトは対象化されたものしか知り得ない、たとえ「分からないもの」という仕方でもすでに言葉になったものについてしか分かり得ないとする立場だと思います。その意味では何らかの仕方ですでに「知られたもの」しか知り得ない、と言えると思います。最初に「知られたもの」については「与えられた」としか言いようがない。言葉になったところからしか出発のしようがない、というように言えると思います。以上はリッケルトですが、コーエンは「与えられる」ことができるのは、すでにこちらからの思惟の要求があるからだとし、「与えられた」ものは解決すべく「課せられたもの」だとします。これに対し西田は判断や意志も含めて、現在遂行中の「知る」ということを「知る」ことができる、と考えます。後の方の「知る」は「自覚」です。図と地で言えば、リッケルトは図しか知り得ないとするのに対し、西田は地も知りうるとします。どちらも問題を抱えているような気がしますが、それは後で皆さんと一緒に考えましょう。ところでWさん。二番目の問いはどういうことですか?
「知識自身の自省」(知ることを知る)と「言う」(知る)のは判断意識、つまりリッケルトの言う「知る」になっていると思うのです。
なるほど。「言う」が漢字になっているところが重要ですね。これは西田の「知る」(自覚)が抱える問題点ですね。自覚は自覚している、と「言う」ことによって初めて自覚される。しかしその時すでに対象化されてしまっている、対象化されなければ自覚も自覚されない、ということですね。
私たちは、対象化していることすらも意識しない仕方で日常を過ごしています。そういう対象化しているという在り方が照らされて、転換が起り、本当の日常に帰る、ということがあると思います。
そのように「照らされている」と「言う」時に、すでに対象化が起っているのでは?
そのように対象化することも含めて日常へ帰る、ということだと思います。
反省も程度の差ということで、すべてが「純粋経験」となる、「純粋経験」の外に出ることはできない、というような感じですね。「平常心」といいますが、そのように言ったり、意識したりしたらもはや「平常」ではありませんね。しかしそれも含めて「平常」だと。ですがここにも転換はありますね。修行される方の中では絶えずこうしたことが行われていると思いますが。
でも「知る」ということをそのように捉えると、それが前提、底となってしまって、それ以上何も見えなくなってしまうと思います。私としては、「自省」と「言った」瞬間に、もう対象化が起っていて、そこにズレが生じているということの方に興味を感じます。
西田のリッケルト批判が、認識論の独断的な制限ということで、今日の説明では、リッケルトは「知」を対象化されたものの知に制限したということでしたが、そうなると西田は対象化されない知というものもある、ということを主張したことになります。Wさんの問いは、そうした西田の主張する「知」は現実的にあるのか、という問いと同じことでしょうか?
ええ。そうした「知」はあるような気がしますが、それを言葉にしてしまうと、そこにズレが生じてくると思います。
真の平常の立場は、そのズレをも同時に見る、ということだと思います。
そんな立場があるんでしょうか?
対象化している立場からは見えないと思います。
「対象化している立場からは見えない」ということをどこで言っているか、ということをWさんは言おうとしている。しかしそうした立場をも含んで平常というものが成立している、とRさんはおっしゃる。これはきりがなさそうですね。(「そうした立場をも含んで平常というものが成立している」ということが開ける時、平常に帰るわけですが、それを「平常」と名付ける以前に、そうした瞬間にどこまでも分からないものが立ち現れている、と考えてはどうか、とあとで感じました。そうだとしても、この「自省」の立場はそれだけで自立しているような立場ではなく、つねにそれを「語る(言う)」ということとの関係の中でしか成立しない、ということは言えそうです。直接に立とうと思って立てる立場ではない。)これまでは西田の「知る」について、その問題点を議論しましたが、Wさん、リッケルトのような「知」の見方には問題点を感じませんか?
感じます。所与、あるいは触発されたというところから出発し、そこに判断だけ取り出すのはきわめて歪(いびつ)だと思います。対象化ということは人間に免れないことだと思いますが、対象化がどこから起っているのかが問えない。「分からない」という仕方で対象が与えられたとしても、どうして「分からない」として与えられたかが「分からない」。
そこはもう「問わない」というのがリッケルトの立場だと思いますが、Jさんはリッケルトの立場に賛成ということでしたが、いかがですか?
浮かび上がる前は対象化されない、浮かび上がったら対象化されている、ということでまずはいいと思います。〈想像もできない恐ろしさ〉ということも、「それ」を考えたら「それ」でなくなってしまう。その時に「それ」は対象化されています。でも対象化されないものがどこかにある、と考えるともう対象化されいてる、人間は対象化されたところからしか始められないのではないでしょうか。
意識の次元で考えると、Jさんに納得してしまいますが、「分からない」というように何故対象化されたか、それが「分からない」。「対象化」ということですべてを閉ざしてしまう。「分からない」を成立させるメカニズムに到達しない。「対象化」してしまうことを説明することもできない。
それは問えません。「分からない」は与えられた言葉です。
西田の言う「知る」。そこにすべてがあり、それを言葉にすることで、ズレが生じる、というのは面白いと思います。このズレがあるから「同じものが違って見える」ということも成り立つと思います。知識構成が変わっているんですね。
同じものを見ても見た人にとって見え方は異なる。その人にとっては同じもののその人にとっての「表」しか見えないんですね。「裏」があることは分かるんですが、何かは分からない。対象化できる部分とできない部分がある、ということです。
でも「裏」とか「対象化できない部分がある」と言ったら、それも対象化だ、と言われそうですが。
そういうことになると思ますが、西田の「知る」には動きが認められているのに対して、リッケルトの「知る」はこれを認めていないような気がします。
対象化されたもの、与えられたものから出発することへの疑問ですね。例えば「分からない」という言葉が立ち上がるにしても、それはこちら側から勝手に名付けたものではないと思います。言ってみればあちら側から促されて、あるいは呼び掛けられて、それに応答・呼応する形でぴったりとした言葉を与えようとしつつ、同時にそこにズレが常に意識されている。こうした体験を例えば「分からない」という言葉は含意しています。「分からない」という言葉から出発する、ということは「分からない」という言葉自体を「分かりきったもの」として出発することになりそうです。プロトコルはこの位にして、本日の講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。
読む(304頁12行目~305頁8行目)
「カントは所与の原理として唯知覚作用というものを考えた、所謂自然界の知識構成としてはそれでよいのである」とありますね。「唯」とか「それでよいのである」というところ、なんか物足りなさそうですね。西田は知覚作用のみならず、意志作用も考えるべきだと言おうとしているのです。そうすると、「自然界」のみならず「文化の世界」の知識構成も論じられる、というわけです。次の「思惟の範疇」というのは「カテゴリー」のことです。「直観の形式」は「空間・時間」。それらの結合によってできる「経験界構成の先験的原理」ですが、まず「経験界」は「自然界」と同じ意味です。そして「先験的原理」というのは「超越論的(先験的)原則」のことです。そうして「経験の所与」つまり「知覚」に与えられたものなしに、魂や世界、神といったものに「徒に推理を進め」ても、「誤謬推理」になるか「アンチノミー」に陥ってしまう、というわけです。「併し此場合」と来て、「形式と内容」つまり「原則」と「経験の所与」とを統一して「知識の客観性を樹立する認識主観は何であったか」、そのように西田は問いを立てます。「客観性」というのを西田は「内容と形式の統一」のうちに求めますが、これは独特なカント解釈だということは頭に置いておきましょう。ここまでいかがですか?
大丈夫です。
先の問いに対して、西田は、それは「意識一般」であるが、それはリッケルトの言うような「単なる判断主観」ではない、そのように言います。「内容と形式」を統一するものは「構成的主観」でなければならないと考えるからです。そうして西田はそうした主観を、カントは「知的自覚」に求めた、そのように言います。「カント哲学の真髄は此にあると思う」とまで言います。そうして「我々の自覚というのは作用と作用との直接結合の意識である」と言います。「知る(知覚)ことを知る(判断)」ということです。これによって「判断と知覚」が「私は考える」という自覚によって直接に結合している、このように考えます。それでは次をBさん、お願いします。
読む(305頁8行目~306頁7行目)
ここで「所与の原理」として、「知覚作用」のほかに「意志作用」が加わってきます。そうして意志が知覚とは異なる「直接の意識内容」を持っていることが強調されます。後で出て来ますが、「知覚」の場合、対象は「前から与えられ」、「意志」の場合、対象は「背後から与えられ」ます。「見る」と「する」の違い、「ある」と「あるべし」の違いと言ってもいいかと思います。
意志も知覚されませんか?
内的感覚として知覚される、と言ってもいいと思いますが、与えられ方が違うと思います。西田は意志の例として、その初期の形態である「衝動」について述べていますね。例えば「水が飲みたい」という言葉が出てくるもととなる感覚です。これについて西田は「衝動という如きものであっても既に知覚ではない」と述べています。
衝動のような原始的なものは知覚と区別できないように思います。お金が欲しい、というような欲求は明らかに区別できますけれど。
そうですね。(西田が『善の研究』でそれについて述べている箇所がありますので、岩波文庫改版136頁11行目から137頁10行目をご参照ください。)次いで「リップスの所謂感情移入の対象界」というのが出て来ます。これについては298頁13行目に「人と人とが互いに直感する感情移入の如き直接所与」という形で出ていましたね。その際にまず自我があってその感情を他我に移入するのではないことが注意されました。ここまでいかがですか。
とりあえず理解できました。
次いで「知覚」や「意志」がそのまま「概念的知識」になるのではなく、そうした「所与の内容」と「判断形式」(カテゴリー)との結合によって「知識の客観性」が成立する、ということであれば、「知覚的所与」との結合によって「自然界」が構成されるだけでなく、「意志的所与」との結合によって「文化の世界」が構成される、したがって「自然科学」に対立する「文化科学」が成立する、そのように西田は述べます。次の文章が少し難しいかもしれません。「カントの意識一般は思惟と知覚との結合であった」。これによって成立するのは「自然界」だけです。「之を知覚の結合から自由にするのは、私の同意する所である」とありますが、「之」とは何を指しますか?
カントの意識一般ではないでしょうか。
そうですね。それではカントの意識一般を知覚の結合から自由にしたのは、誰ですか?西田はこれに同意すると言っていますけれど。
新カント学派、ですか?
だと思います。ここでとくに念頭に置いているのはリッケルトでしょう。
自由にするとありますが、意識一般が所与の内容から解放される、ということですか?
そうではなくて、知覚という所与だけに縛られずに、意志的所与とも結合できる、選択肢が増えるということでしょう。しかしリッケルトに対する同意はそこまでで、「併し之を」とありますが、「之」とは?
これも「意識一般」だとおもいます。
そうですね。意識一般を「単なる判断主観とするならば」、とありますが、そのようにしたのは?
リッケルトです。
そうでしょうね。そうなると意識一般が持つ「客観的知識の主観たる意味」が失われてしまう、とあります。西田によれば、カントの「客観的」とは内容と形式の統一によるものです。内容を構成しない、単に主観的な判断に留まる「判断主観」は意識一般たりえない、そう言いたいのです。それでは次をCさん、お願いします。
読む(306頁8行目~307頁12行目)
「右の如く意志的体験も知覚と同列的に所与の意識として、判断主観に対して質料を与えると云うのみならば」とありますが、そのように「云う」のは誰ですか?
リッケルトではないでしょうか?
そうだと思います。カントは第一批判で「真」、第二批判で「善」、第三批判で「美」を扱いましたが、そのうち第二批判の実践理性に優位を認めていました(「意志の優位」)。しかしリッケルトは真善美を価値、当為とし、これを一列に判断意識の対象として扱っていますから、その点を西田は批判しているのです。これに対して西田の「真の認識主観の立場」、つまり「私の所謂自覚的立場」ではどうなるか、それをこれから考える、というのです。ここまでで何か分からないところはありますか?
大丈夫です。
まずリッケルトは判断主観が知覚に結合する場合と、意志に結合する場合を同列に扱っている点を、リッケルト自身の立場(「判断主観其者の立場」)に即しながら批判します。カントは「限定的判断作用」と「反省的判断作用」を区別しましたが、これはどうなっているんだ、というわけです。「限定(規定)的判断」とは、「普遍(一般)」が与えられていて、そこから「特殊」を規定する判断の在り方です。カントの場合自然界において、「原則」がこの「普遍」にあたります。これによって知覚内容が構成されます。「原則」は内容の「構成原理」となります。それに対し、「反省的判断」とは逆に特殊から普遍(一般)を求める判断の在り方です。この場合、普遍は与えられていませんから、それによって知覚内容は構成されずに、あたかも何々であるかのように、という仕方で普遍は統制的に用いられることになります。つまり「普遍」は「構成原理」ではなく、「統制原理」ということになります。例えば「有機体(生物)」の概念はこうした「統制原理」になります。その場合生命現象について語る場合には、あたかも生命があるかのように語ることになり、そうした語りは厳密な「知識」にはなりません。西田は「意志的体験の内容」も同様に厳密な厳密な「知識」にはならない、と考えます(「論理によって限定せられるものではない」=「一般概念的に限定」されない=知識でない)。こうしたカントの「限定的判断」と「反省的判断」の区別によるならば、「自然科学」は知識だけれども、「文化科学」は知識でない、ということになり、「自然科学」と「文化科学」を同列に扱うのはおかしい、ということになります。ただしリッケルトは意識一般を構成主観とせずに、「判断主観」に限定し、それが「真善美」といった価値・当為を求めるという立場に立ちますから、両科学は同列だということになります(「単に判断意識の内に閉じ籠って内容との関係を顧慮せなければ、二種の科学が同様に見られるかも知らぬ」)。ここまで、少し難しいですが、大筋はいかがでしょうか?
多分、何とかついて行けたと思います。
そうして今度は西田自身の立場が表明されます。「私はカントの認識主観の意義を判断主観に狭めることによって、知覚との結合から自由にする」、これをやったのがリッケルトですね、そういう仕方で「自由にするのではなく、寧ろ之を広めることによって文化科学を客観的知識と考えたいのである」。「之を広める」の「之」は?
カントの認識主観の意義、だと思います。
そうですね。リッケルトはカントの認識主観(意識一般)を「判断主観」に狭めることで、カントにおける知覚との結合から自由になり、自然科学と文化科学を同列に扱い得た。これに対し、西田はカントの認識主観の意義を「自覚」にまで広め、自然科学のみならず、「文化科学をも客観的知識と考えたい」と述べます。どうして客観的と言えるのか、気になりますが、今日はここまでとしましょう。
(第87回)