内在的超越/超越的内在
- 2025年2月1日
- 読書会だより
前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第2段落311頁2行目「認識論が真に知識の成立を明にしようと思ふなら」から、同段落の最後312頁6行目「カントのカントに還って尚一応考へて見たい」までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「自覚的主観は何処までも内在的でなければならぬ、内在的でない自覚的主観といふ如きことは自家撞着 である」(311頁5行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「自」覚にも「ich bin ich」にも初めから「私(自)」がある。(自)覚的主観ではなぜいけないのか。自覚的主観が内在的だとあるが直覚(そのようなものがあるならば)の内にあるのはありのままの事実 で、思惟にとっては何か分からないものだけではないか。そもそも「私」は内在しないのではないか」(136字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
何か補足はありますか?
S
まず、「内在」という言葉に疑念があります。外からでないから「内在」ですよね。ですが、そう言った時、すでに外に対する内を立てていると思います。これはすでに外も内も立てている形而上学ではないでしょうか?言い方を変えれば、内と外という分別がここにはあるような気がします。
R
西田は新しい形而上学を始めようとしていたと思います。それは外ではなく、内への超越ということですが、その超越は、外に対する内ではなく、絶対無の方向への超越だと思います。
外に対する内でない、とした時にすでに分別が働いていて、その全体が内だということはありませんか?
R
西田の言う「内」とか「内在」は閉じたものではありません。むしろそのように閉じたものが破られた時に開けるものです。深みといってもいい。そうは言っても、西田にはそうした深みのようなもの、そうしたものが内にあるという確信があったと思います。
根本経験のようなもの、ですか?
R
ええ。そうした経験に基づいて、自覚的な主観、つまり直覚ですが、それが前提とされていたと思います。
W
「悟る」、と言っても(純粋に)何かを「する」と言ってもいいですが(「根本経験」という言葉はあまり使いたくないので)、とにかくそうしたものの内にあるようなもののことを西田は「内在」と言いたいわけで、これは「内」を作るような「外」を立ててはいけない、ということが言いたいのではないでしょうか。つまり、自覚するという方向を深めて行くという。
S
しかしそういう立場を立ててしまうというのが問題ではないでしょうか。とはいえ、それが絶対無の方向と言われると、内と外というような次元を超えて行くような気もします。その点では、内と外の対立が問題にならないカントの純粋自我のままで止めておけばよかったと思います。
カントの純粋自我は「自己意識(Selbstbewußtsein)」と言われますが、これを新カント派は論理的になければならないものとして考えます。自我自体の直観ができない、というカントの説を踏まえてのことです。これに対してフィヒテは、自我の知的直観はなければならない、との立場から、この「自己意識」を自己の直観に基礎づけます。その場合は西田の言う「自覚」の意味に近くなります。しかしどちらの場合も、自我(ich)と呼ばれるものは、デカルトの「我」もそうですが、誰でもなく誰でもあるような我です。そこには例えば佐野之人、というような個人はいません。その意味では本日のプロトコルの言うように、そこには「私」は内在していません。ではそこで言われているような「私」はどのようにして生ずるのでしょうか?
R
西田の自覚には地と図における、地がその、誰でもなく誰でもあるような私に相当し、所謂「私」は図として、自覚のうちに含まれていると思います。
S
そうした自覚を自覚として語る個人がいるわけで、そうした個人が消えたわけでわけではないと思います。
そのように語る者は「個人」ですか?むしろ誰でもなく誰でもあるような自我では?ここで問題にしたいのは、そのような「誰でもなく誰でもある」ような「自我」ではなく、他ならぬこの佐野之人というような、「他ならぬ自己」がどのようにして生ずるか、ということです。
R
西田において「自己」には二つに区別されていると思います。一つは「意識的自己」。これはいわば揺れやすい自己で、偽我でありながら、自分を真の自己と思い込んでいる自己です。もう一つは「他ならぬ自己」。これは揺れない自己で、真の自己と言えるものです。
二つの自己の関係がよく分かりませんが。
K
「真の自己」はあると思いますが、どう説明するかが分かりません。動物は外にしか視線が向いていませんが、人間だけが、鏡を見るように自分を内に見る視線というものを持っています。そうなると、その中心の核となるものを証明しなくてはならなくなる。それが難しい。
S
大方の偽我は関係で把握しています。
例えば、教師であるとか、学生であるとか、という役割で自分を押さえているということですね。
S
そうです。ですが、そうした関係なしに自分を認識することができるのか、それが疑問です。
K
私は今、音楽を作っていますが、百作ったとしてそのうちの九十九は他からの影響の中で作ったもので、つまらないものです。ですが、まれに自分がないという所、作っているということも忘れた所、勝手にできる、内から降ってくるという感じ、これもあとからの説明でしかないのですが、そこに「真の自己」というようなものを感じます。
S
でもそうした状態から「我」に帰るでしょう?
そうですが、そうした「我」はKさんにとっては「真の自己」ではないのでしょう。
W
「作る」自分がある、後はアイデンティティで押さえる。「ただ」作る、という次元が人間にはあると思います。
S
その場合でも「真の自己」が肯定的に捉えられていますね。しかし「真の自己」というのは直視できないようなものかもしれない。
どうやら、自己に「誰でもなく誰でもあるような自己」と、「真の自己」と日常的な「偽我」の三つがあるようで、このうち、「真の自己」は知的直観を認める側からすれば、肯定的に捉えられるけれど、そうしたものを持ちえないとする立場、思惟の立場からはどこまでも分からないもので、かえって恐ろしいものだという考えがありそうですね。プロトコルはこの位にして、テキストに入りましょう。それではAさん、お願いします。
A
読む(312頁7行目~13行目)。
A
「広義に於ける直覚」とありますが、具体的には何ですか?
狭義における直覚という場合は?
A
知覚的な直覚だと思います。
そうですね。カントはそう考えた。しかし西田はそれに加えて、「意志的直覚」というものを考えている。305頁11行目をご覧ください。「意志的意識の所与は知覚によって与えられるものではない」とありますね。注意しなければならないのは、西田が、この直覚とか所与と言っているものは、言葉以前だということです。言葉以前のものが直覚として与えられている、というのが西田の根本にあります。カントの知覚は所与と言っても、すでに時空によって形式づけられています。この点を西田はあまり重視していません。新カント派にとって所与はすでに、所与のカテゴリーによって整理されており、それがさらに時空と因果によって整理され、これが判断にとって与えられたものとなります。こうした実在を様々な立場から判断する、ということになります。すべては言葉になったところから論じ、言葉以前というものを問題にしません。ところでテキストでは「真の知識は形式と内容との統一にある」と言っていますね。この形式と内容とは、前の文では何に相当すると思いますか?
A
形式が「思惟」で、内容が「広義に於ける直覚」です。
そうですね。そうして両者を統一する「真の認識主観」は「リッケルトの云う如き単なる形式的主観ではなく」とありますね。リッケルトはカントの「純粋統覚(自己意識)」を、内容的には(言語的に)すべて与えられているところに成立する主観と考えた、ということが西田の念頭にあるのでしょう。しかし西田はそうは考えません。言葉にならない知覚的・意志的直観に形式(言葉)を与えるのは「自覚的主観」であるとします。ここには言葉にならないものを直覚できるという前提があります。ここは大変に難しいところです。「言葉にならないもの」というのは一方で、文字通り「言葉」の否定ですが、それが同時にすでに「言葉」だからです。言葉にならないものを論じることができるとする立場、論じることはできないとする立場、これらの立場をいずれの一方に定めることも独断の誹りを受けることになるでしょう。西田は言葉にならないものの直覚を、自覚のうちに積極的に認めます。「自覚的主観」における、図に対する地として、すでに与えられ、かつ統一されているではないか、というわけです。我々は確かに判断以前、言葉以前に物事をありのままに見ている、そのように信じていますが、本当にそうか、本当に難しいところです。ともかく、西田はそのように考えた。そうしてカントも「知覚と思惟との統一」を「自覚」に求めたと主張し、フィヒテは「更に此点を深めて事行の考に到達した」と積極的に評価します。ここまで、いかがでしょうか。
A
はい。大丈夫です。
ついで今、「独逸唯心論(ドイツ観念論)の批評に入り込む暇はない」とした上で、「何處までもカントの認識論的立場を維持して形而上学に陥るを避けるためには、認識主観の意義を失わないことを務めねばならぬ」とされます。自分こそがカントの認識論的立場を維持しているが、その後のドイツ観念論は形而上学に陥る傾向があった、と言いたいわけです。そうして「自覚の背後に存在的自己を考える」のはもちろんのこと、自覚(認識主観)を「純なる作用」と考えるのも、「認識主観の意義を失う恐れ」があると言い、これを成したのがフィヒテであり、その後のドイツ観念論だというわけです。
A
「純なる作用」が何故形而上学につながるのですか?
先を読んで見ましょう。Bさん、お願いします。
B
読む(312頁14行目~313頁5行目)
「フィヒテの働くことが知ることである」の「働くこと」が先の「純なる作用」ですね。そのことを確認したうえで、それが一方で「無論内在的自覚の深い意義を云い顕したもの」として評価しつつ、他方で「客観界の構成主観としてのカントの認識主観の意義を徹底した結果、その主観的判断主観の意義を失う」傾向を生じたのではないか、と疑問を呈します。
B
よく分かりませんが。
「認識主観」を「客観界」の「構成主観」とすることで、「認識主観」自体が客観化・実体化され、「客観的思惟」、「客観的精神」となった、と読めますね。もちろん西田の批評ですが。フィヒテの「我」はそうした「客観的思惟」に「反省的思惟」(「主観的思惟」)の「契機」を含ませてはいるものの、やはり「客観的精神」として「形而上学的傾向を帯び来る嫌を生ずるを免れない」とされます。「嫌」とは「よくない傾向」のことです。
B
何とか、理解できました。
西田は続けて「意識の背後には何物をも考えられない、何物かの上に立つならば意識でない、意識は何處までも直接でなければならぬ。何等かの意味において対象化せられたものは意識ではない、心理学的意識の如きは意識せられたものに過ぎない」と畳みかけます。フィヒテがそれをやった、という批判ですね。次をCさん、お願いします。
C
読む(313頁5行目~14行目)
「事即行」とありますね。これが出てきたら、例の英国にいて、英国の完全なる地図を描く、というのを想い起すとよいと思います。完全なる地図ですから描いている自分も描かなければならない。描き終えた時には描き終えた自分を書かなければならない、というわけでどこまでも描き続けることになる。その際、描くことが出来るのは、描くべきものが見えているから描ける、と考えられます。見えている、これが直観。これを反省することが地図を描くことで、両者が「自覚」のうちに成り立っています。事行で言えば、描かれた地図が「事」、見つつ描く行為が「行」です。今日は初めての方もいらっしゃいますので丁寧に説明して見ました。
K
ありがとうございます。
次に行きますね。「事即行にして無限の過程と考えられるフィヒテの事行は」、ここまではよろしいですね。「客観的思惟としての自覚の構成作用を言い表すに十分であろう」。「客観的思惟」がまた出て来ました。「対象化」・実体化された「自覚」です。そうして「而してそれ」、「フィヒテの事行」ですね。「それが自覚的なるが故に反省作用という如きものを含むことができる」、ここもよろしいですね。「自覚」は直観と「反省作用」を含みます。「併し」と来て、それは「真に直接なる反省的意識其者を含むということはできぬ」と言われます。「真に直接なる反省的意識其者」が西田の立場です。対象化されていない反省です。フィヒテの場合はこの反省が作用として、それ自体が対象化されている、と言いたいのです。ここまではいかがですか?
C
大丈夫です。
次に行きます。「純論理的ではなるが」とありますが、これはフィヒテだけでなく、新カント派も念頭に置いているのでしょう。「動的なる過程」、先に出てきた「無限の過程」ですね。こういうものが「考えられる時、すでに対象化せられたと云うことができる」、ということになるわけです。
W
「考えられた」というところが大事ですね。西田は「考える」というところにどこまでも止まろう、と。
そうですね。そうした立場だと思いますが、哲学としてそれをどう語るか、が問題になりますね。外から対象化してそれに「ついて」語る、というのではだめでしょう。みずからが体験した、あるいは体験している事柄を、言葉にせよ、という内面からの促しに応答しつつ、言葉にしてはそれを吟味して行く、こんな営みにならざるを得ない気がします。次に参ります。「此故にかかる立場」、フィヒテや場合によっては新カント派の立場ですね。こういう「立場から厳密に論ずるならば、真の意志の自由という如きものは出て来ない」とありますが、何故そうなるかは書いてありませんね。
C
「意志の自由」とは「内面的性質」に従うことだからではないでしょか。
なるほど。そんな感じがしますね。そうして次に「我々に真に直接なる反省的意識は、かかる意味に於ける作用的なるものをも越えて、無限に深い奥に還らねばならない」とあります。ここでまた「作用」が出て来ます。フィヒテや新カント派の「思惟」が対象化された「作用」だということが、ここでの文脈ですが、ここではさらにそれを超えて、「作用」として意識されるもの一般、反省作用も意志作用も、それが作用として意識され、対象化されたものである限り、「無限に深い奥に還らねばならない」、そのように言っていると思います。以前、意志に「作用としての意志」と「状態としての意志」が区別されましたが、そのことにも関わるでしょう。ここまではいかがですか?
C
大丈夫です。
次いで「無論フィヒテは既に事行の立場を越えて、シェルリングに近い知的直観の立場に進んだと云うことができるであろう」と、ちょっと持ち上げておいて、「併しシェルリングの知的直観であっても主客合一と考えられるかぎり、尚対象的意義を脱し得たということはできない」と批判されます。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルが、「ドイツ観念論(独逸唯心論)」の代表的な思想家ですが、まずフィヒテが「自我」の哲学を構想し、次いでシェリングがそれに対置される「自然哲学」、さらには自我と自然の同一(「主客合一」)としての「絶対者」の哲学を構想する。そうしてこの「同一」としての絶対者をさらに、「同一と非同一との同一」として、つまり動的(弁証法的)なものとして考えようとしたのがヘーゲルです。このうちフィヒテとシェリングは「知的直観」を認めましたが、ヘーゲルはそのように絶対者を一挙に捉える知的直観は認めません。あくまで知(Wissen)は弁証法的な運動を通して形成される学的体系(Wissenschaft)でなければならないと考えます。ところが西田はこれらの思想家の考えようとしたものが、すべて「対象的意義」を脱していない、つまり実体化されてしまっている、と批判するのです。
W
ここでも「考えられるかぎり」と出て来ますね。
そうです。ドイツ観念論の思想家たちが考えようとしたものはすでに「考えられたもの」にすぎない、ということです。これはもちろん西田の解釈であり、彼らの思想自体がどうであったかは別の問題です。今日のプロトコルでも話題になりましたが、西田は形而上学の外的超越に対して自らの新しい形而上学の立場である内在的超越、つまり対象化できないものへ、彼方ではなく此方への超越を主張します。最晩年の『場所的論理と宗教的世界観』においても、「内在即超越、超越即内在の絶対矛盾的自己同一の立場に於て、宗教と云うものがある」(Ⅺ,459,8-10)と言いながら、結局は「内在的超越」と「超越的内在」とを並べておいて、「私は将来の宗教としては、超越的内在より内在的超越の方向にあると考える」(Ⅺ,463,1-2)と言ってしまいます。ここではキリスト教(超越的内在)と仏教(内在的超越)の対比が念頭に置かれていますが、ちょっと考えただけでも、アンバランスは明らかで、超越的内在即内在的超越が真の宗教となるはずがそうなっていない。このまましゃべってもいいですか?
C
お願いします。
そもそも『善の研究』において、「宗教的覚悟」としての「純粋経験」が成立したのも、神の自己否定(「神はその最深なる統一を現わすには先ず大に分裂せねばならぬ」(岩波文庫改版254,2-3))、つまり「超越的内在」の契機が不可欠であったにもかかわらず、そうした「純粋経験」の立場が「根本的な立場」となることによって、「超越的内在」の契機をすっかり忘れてしまい、直接にそうした立場、直観の立場に立とうとする、あるいは立ち得た、と考えるようになっているように思います。これは新カント派との出会いによって、それに対して自らの立場を主張せざるを得なくなった、という外的な事情も大きく関わっているでしょう。その後の「自覚」の立場にしても「場所」の立場にしても、どれも対象化(言語化)されない次元の事柄を考えようとしていますが、そこに絶対的他者としての絶対者は出て来ません。つまり「内在的超越」はあっても、「超越的内在」の契機が出て来ません。こうした事態は「場所」が「弁証法的世界」となって具体化されても変わりません。ようやく最晩年の『場所的論理と宗教的世界観』になって「逆対応」ということが言われて、絶対者の自己否定(神のケノシス)が出て来ます。『善の研究』で垣間見られたものが長いブランクを経て、ようやく日の目を見た、というような感じがします。それにもかかわらず、「超越的内在」と「内在的超越」を並べて、「内在的超越」を選んでしまう。ここには『善の研究』以後に起こったこと、つまり神の自己否定を契機にして成立した「純粋経験」が、その契機を忘れて、すべてを「純粋経験」に回収し、そうして直接に「そこ」に立とうとしたこと、このことが、最晩年の西田においても「逆対応」を忘れて、すべてを「平常底」に回収してそこに直接立とうとする、ということが繰り返し起ころうとしているような気がするのですが。どうでしょうか?
(第91回)