思惟と意志との関係

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「左右田博士に答う」「二」第2段落、295頁の1行目「cogito ergo sum のsumを存在と考へるならば」から296頁の第4段落終わり「更にその上に直覚といふものも認めなければならぬのである」まで講読しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「A[自覚の3段階]我々の意識の自覚的方向は、意識一般の立場に止まるものではない。その最も深い底は私の所謂真の無の場所たる直覚的自覚にあるのであるが、その中間に於て意志的自覚を見ることができる。意志的自覚は判断的自覚よりも深く、之を内に包んだものである」(295,8-10)、「B[好きなところ]我々が意志することを知るといふから、否直観するといふことをすら知ると考へねばならぬから、理論理性が最高であると云うならば、知識といふ語の意義の問題とならねばならぬ。さういふ場合の知るといふことは、意識一般によって対象を認識するといふこととは違ふのである」(296,3-5)の二カ所でした。そうして「考えたことないし問い」は「わたしが対象を認識することは常に対象を「わたし」の外に置くことだろうか。わたしがあればこその対象であるなら、対象こそがわたしを「わたし」たらしめているのではないか。対象認識なき自覚を区別する立場は「わたし」を喪失した危うい立場にほかならず、そこに居続けることは困難であるにちがいないと考えるがどうか」(149字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。今回はとくに「意識一般」についての創作的対話を加えておきました(ご登場願ったOさん、すみません)。
佐野
「わたし」の問題ですね。括弧のついているのとついていないのとありますが、どのような区別がありますか?

O

特にないようです。
佐野
ここで出て来ている「わたし」はすべて「経験的自我」(経験的統覚)ですね。「意識一般」としての「純粋自我」(超越論的統覚)はこれとは全く異なります。

O

その「意識一般」というのがピンときません。
佐野
ここで出て来ている対象は個々の具体的な対象が念頭に置かれています。このペンであったり、眼鏡であったり。そうした対象の在り方に応じて自分の在り方が、例えば読書会のコーディネーターとして規定されます。その意味で「対象こそがわたしをわたしたらしめている」といえます。経験的自我としての「わたし」は個々の対象同様「空間」の中に存在し、もっと言えば具体的な世界の中に一定の意味、役割をもって実在しています。そうしてそうした意味や役割をもった自我が、そのつど例えば佐野之人というような固有名で名指されることになります。対象も自我も意味や役割としては交換可能(眼鏡も此の眼鏡でなくてもいいし、読書会のコーディネーターは佐野之人でなくてもいい)ですが、そのつどの意味や役割としては交換不可能な個です。ここまで、どうですか?

O

大丈夫です。
佐野
そのつどの対象に応じてそのつどの自分の在り方が反省(内的に感覚)されることになりますが、このようにして意識(自己意識)されるのが「経験的自我」です。状況に没入している時はこんな意識はありませんが、その状況の外に出て、判断を行うことによって、こうした経験的自我がそのつど意識されることになります。ここまでは経験的自我(経験的統覚)の話です。この対象を個々の対象ではなく、対象一般、可能的な対象にいわば一般化する。経験も個々の具体的な経験ではなく、経験一般、可能的経験に一般化する。そうすると、経験的自我や統覚も、純粋自我や超越論的統覚としての、意識一般になります。この「意識一般」は佐野之人ではありません。それは誰の意識でもあって、誰の意識でもない、そうした意識ということになります。どうですか?

T

個々の意識を限りなく一般化するところに意識一般が成立する、ということですか?
佐野
いえ、意識一般は特殊な個々の意識の単なる一般化ではないと思います。そうかといって我々の個々の認識に先立って、そうした枠組みがなければならない、というような、単なる論理的な要請でもないと思います。その場合、そのような一般化を行う意識、あるいは論理的な要請を行う意識が問題となるからです。通常の判断、例えば「これはペンである」の場合、そのように判断しているものは誰か、と問われれば迷うことなく、それは「私だ」ということになり、その「私」とはその状況内での経験的自我が名指されることになります。この時にはペンも私も状況内に取り込まれて解釈されてしまっていますが、対象一般とか意識一般とかが問題になるのは、その一歩手前の所、つまりペンがペンとして、対象が対象として、立ち現れる所です(じつは判断はまずこうした仕方で立ち現れるのですが、我々は大抵ただちにこれを状況内で解釈してしまうのです。また解釈できなければ行動もできません)。これに対応した「意識一般」は未だ状況内で解釈される以前の「私」ということになります。「経験的自我」以前です。このような仕方で対象を対象として語るのが「意識一般」です。その語りは哲学の語りとなります。前回Hさんが関心を日常的な関心と学問的な関心に分けておられましたが、それは経験的自我と意識一般の区別にも関わると思います。

O

なるほど。それにしても「誰でもあって誰でもない意識」というのがピンときません。意識は「この私」の意識ではないのですか?

S

そうおっしゃいますが、私は意識一般から個別的な私が出て来るようには思えませんが。
佐野
Oさんにお伺いして見ましょう。「この私」って言っているのは誰ですか?

O

「この私」です。
佐野
しかしそのように「この私」って言っているのは誰か、と訊いているんです。こうなるともはや何とも言えなくなる。これは3月に開催された「饗宴」で伊田君が扱った問題です。池田晶子のテキストをもとして(伊田名央人「私とは何か―池田晶子から考える―」)。池田ははじめ「私」を「誰でもあって誰でもない意識」として捉えたけれども、それでは「他の誰でもない私」を言い表すことができないと考え、後には「魂」から私を捉えようとします。そんな発表でしたね。ですからOさんの今回のプロトコルは「私とは何か」という古くてつねに新しい問いを扱っていることになると思います。それはともかく、「これはペンである」という判断において、ペンをペンとして考察している(私は「これはペンである」と考える)場合には、この「考える(ich denke)」は「意識一般」です。その際「これはペンである」というのは図、「私は考える」は地になります。

O

その場合でも、図だけというのはありえないのでは?
佐野
西田はカントの意識一般を自覚の方向に捉えようとしますから、それだけで成立するように思われますが、カントはただ「〈われ思う(ich denke)〉は、我々のあらゆる表象に伴うことが出来なければならない」とだけ言います。西田の言うように意識一般を自覚の方向だけで考えると、Oさんの言うように、「「わたし」を喪失した危うい立場にほかならず、そこに居続けることは困難であるにちがいない」ということになりそうですが、西田に言わせればそのような経験的自我を喪失してこそ、「真の自己」を直観できる、ということだと思います。カントの意識一般については考え始めるとさらに分からない点も多いのですが、他にご意見はありますか?

W

Oさんの最初に出て来る「わたし」、つまり経験的自我は日常的になされている立場だと思いますが、そうした自己をさらに考える方向がまた自己(経験的自我)喪失の経験になっていて、それが常識的な(経験的自我の)立場と緊張関係を形成すると思います。この関係がどうなっているのかな、と。
佐野
人間が生きるとはどういうことか、という問いになりそうですね。プロトコルはこの位にして本日の講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(「三」冒頭~297頁7行目)
佐野
「知るという中にも、種々の立場の区別をしたい」とありますが、西田はどのような区別を考えていますか?

A

判断すること、意志すること、直観することだと思います。
佐野
そうですね。西田はこうした「知」の区別が「自覚」において可能になると考えているようです。まずは「対象的認識」(判断すること)から出発します。そうしてその「認識主観」が「意識一般」だとされます。そうして「意識一般の立場に於て構成することと、かかることを反省することとは別でなければならぬ」と言います。「かかること」とは?

A

「意識一般の立場に於て構成すること」では?
佐野
そうですね。そうしてさらに「反省する」に二種を区別していますね。何と何ですか?

A

「種々の知識について、単にその対象的形式を明にして行く」ことと「認識作用其者の内に反省して行く」ことです。

B

「種々の知識について、単にその対象的形式を明にして行く」ことと「対象的認識」は同じことですか?
佐野
そうではないでしょう。「対象的認識」とは「種々の知識」のことで、「その対象的形式を明らかにして行く」とは、具体的には対象を可能にする形式、例えば時空といった感性の形式や、カテゴリーという悟性の形式が念頭に置かれていると思います。「反省」の内に可能性の制約を明らかにするという批判哲学と、認識作用そのものの反省を区別しているようです。そうして「意識一般」は後者の意味において「自覚の純化したもの」だとされます。

S

この「純化」の意味が分かりません。
佐野
経験的統覚が含んでいる様々な経験的な内容を純化する、という意味だと思いますが、西田はさらにそれを直観までに純化して考えようとしていると思われます。そうしてこの認識主観其者(意識一般)と「対象的形式、即ち形式其者」とが区別される、そのように言います。

C

この区別がピンときません。
佐野
〈考えることそのもの〉、と考える際の〈考え方〉の区別です。

C

分かりました。
佐野
とりあえずそれでよい、ということにして、それではCさん、次をお願いします。

C

読む(297頁7~13行目)
佐野
「かかる区別は何處から起って来るのであるか」という問いが提出されていますね。さあ、この答えを西田はどのように考えているでしょうか?次を見て見ましょう。もちろん「主観」だ。ではその主観とはどのようなものか?それを「又論理的主観であるとするならば」と来ます。なんだか嫌な感じがしますね。そうなると、そこに「そういう論理的主観」と「肯定と否定」というような「論理の形式」が区別されることになる。そうしてその区別は何處から来るか、という問いがまたしても生じてしまう。きりがない。だから西田は「それは又論理的形式によって認識するとは云われまい」と述べます。ここまで、いかがですか?

C

大丈夫です。
佐野
それは「論理的認識の限界だ」と「云われるかも知れない」とありますが、誰が「云う」のでしょうか?

C

左右田博士、ですか?
佐野
そうでしょうね。西田想定の。左右田は「知ることを知る」ことはできない、と考えますから。しかし西田はそのように理論理性の限界を認めることは「一層高次的なる立場を認めることによって可能となる」、そのように言います。そうして「始から知るということと、知ることを知るということとの区別を明にしないため、かかる自家撞着を生ずるのである」とバッサリやります。要するに意識一般と形式(時空やカテゴリー)を区別するのは「知ることを知る」「自覚」の立場だ、と言いたいのです。もちろん左右田はこんな立場は認めないでしょう。それでは次をDさん、お願いします。

D

読む(297頁14行目~298頁8行目)

D

「意識一般というのは我々の主観を極限にまで推し進めたものでなければならぬ」というのがよく分かりません。
佐野
先程の「純化」と同じで、経験的なものを一掃したということでしょう。もはやだれでもなく誰でもあるような、そうした主観まで純化した、そういう意味だと思います。次に「全然心理的主観の意義を没却したものでなければならない」も同義で、「心理的主観」とは「経験的自我」、つまり対象化された個々の自我のことだと思われます。そうした「心理的主観の意義を没却したもの」(意識一般)は当然のごとく(「無論」)対象的・実体的に「存在するものではない」。これは形而上学的な実体としての自我ではない、ということを念頭に置いているのだと思います。

D

分かりました。
佐野
とりあえずそれで分かったとして、次を読んで見ましょう。「併し主観の性質的差別は極限に至っても消え失せるとは云われない」とあります。「主観の性質的差別」は次に「然らざれば論理的規範意識と倫理的規範意識と区別することもできない」とありますから、例えば理論理性と実践理性、あるいは思惟と意志の差別のことでしょう。「意識一般」を広く取ってこれを極限にまで推し進めても、思惟と意志の差別はなくならない、区別はできるということです。ここまで、どうでしょうか?

D

大丈夫です。
佐野
次を読みます。「元来両者共に我々の自覚の意識から出立したものと考えるの外ないが」とありますが、「両者」とは?

D

「論理的規範意識と倫理的規範意識」です。
佐野
そうですね。思惟と意志と言い換えてもいいと思います。それらが「共に我々の自覚の意識から出立した」とは、思惟について言えば、「私は考える」ということが判断に伴って意識されるという事実、意志について言えば、「私は意志する」ということが意志に伴って意識されるという事実から、思惟も意志も出発しているということだと思います。そのように考えるほかないけれども、「その極限に至って各自別個の主観となるのであるか」というように、西田は読者に問いかけますが、まず「その極限」の「その」とは何を指しますか?

D

・・・・・
佐野
「我々の自覚の意識」ではないでしょうか。そこから出立してそこへと至る「極限」。その極限において思惟と意志は「各自別個の主観となるか」と問うているわけです。

N

それは純粋理論理性と純粋実践理性と考えてもよろしいでしょうか?
佐野
よいのではないでしょうか。それにしてもこの問いはどのように受け取ればよいでしょうか?別個の主観となるのであれば、それを区別する主観が必要になるように思われますね。続いて「主観を何處まで推し進めて行っても、主観とか意識とかいう意義を脱することはできない。苟も主観とか意識とかいう意義を脱する能わざるかぎり、主観と主観との関係が極限に至るの故を以て変ずると考え得るであろうか」とあります。「主観と主観の関係」というように主観が二つ出て来ますが、これは?

D

思惟と意志、ですか?
佐野
そうでしょうね。思惟と意志との関係が変じてどちらかが他方を包む、従属する形になるのか、ということでしょう。そこで思惟が意志を包む場合を考えて見る。おそらくこれは左右田の立場でしょう。しかし西田はそれに対して、「対象認識の論理的主観を何處まで推し進めても、意志主観がその下に入って来るとは考えられない」、あるいは同じことですが「判断主観の下に意志主観が従属する様になるとは考えられない」と、思惟が意志を包んで、これを従属させる、ということはない、と主張します。そうして意志主観が思惟主観(論理的主観)を包むかどうかの議論はさしあたり措いておき、「意志主観及びその対象界をも包むと考えられるものは、実は判断主観という如きものではなくして、主観其者即ち自覚という如きものではなかろうか」と述べます。「主観其者」が「意志主観」を包む、ということです。判断主観はどうなるのか?300頁の注を見ると「意志は単に働くものでない、働くことを知るものである。自己は単に存在するものでない、存在することを知るものである、認識主観の外にあるのではないが、認識主観が之に於てあるのである」とあります。この「認識主観」は「判断主観」とおそらく同義でしょうから、「自己」即ち「主観其者」が「判断主観」を包むと考えてよいでしょう。こうして「自己」ないし「主観其者」が「自覚」において、思惟と意志を包み、かつ両者を区別している、こう西田は言いたいのだと思います。今日はここまでにしましょう。
(第79回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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