「変ずるもの」の形式

岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「三」の第5段落を読了しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「併し判断的知識が成立する限り、特殊化の尖端に於ても一般的なるものが自己自身を失うのではない」(343頁2~3行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「キーセンテンスと同じ段落に「かかる一般的なるものが限定せられるかぎり、判断的知識が成立するのである、之を越ゆれば全然直観の世界に入る。」(342頁10行)、「唯その個物的なるものの尖端においてのみ、自己同一として直覚的と考えられる場合、その述語的一般者は積極的に限定すべからざるものとなる」(342頁12行)とあります。特殊化の尖端においても「判断的知識」は成立し得るのでしょうか」(185字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
テキストに出て来る順で、引用文について確認しておきましょう。まず「かかる一般的なるもの」とは「無限大の一般的なるもの」のことです。これが「限定せられるかぎり」「判断的知識」が成立する。「之を越ゆれば」、これを前回「一般的なるものが限定されない場合は」、と読みました。その場合「無限大の一般的なるもの」がそのまま「直観の世界」になっている、と読めます。この「直観」は「知的直観」です。次の文は、「直観(直覚)」を「個物的なるものの尖端」に限定(極限)する場合ですね。そうなると、それ(個物)を「述語的一般者は積極的に限定できない」ことになります。「直観」が主語(個物)に限定されているからです。この直観は「経験的直観」ですね。これを「述語的一般者」が「積極的に限定できない」とはどういうことかというと、後の表現ではそれが「主観的」、「抽象的一面」にすぎない、ということです。これは普通の判断(普通は自分の判断を「主観的」とも「抽象的」だとも思っていませんが)を反省的に見たものです。「これは青い」と言う場合、これを反省して見ると、「青い」は「主観的」で、しかもそれ以外の性質を捨象した「抽象的」なものと考えられるからです。こうした在り方を「一般的なるもの」が「自己自身を失う」とも言っています。「併し」と来て、キーセンテンスですね。その場合でも「一般的なるもの」は「自己自身を失う」のではなく、「自己自身に還る」、つまり「無限大の一般的なるもの」に還る、と言うのです。そうして「客観的なるもの」つまり「個物」を「包む」とあります。この「一般的なるもの」「述語的一般者」が「意識(面)」と呼ばれ、そこにおいて「具体的一般者」が「抽象的概念として限定される」とされます。どういうことかというと、普通の判断を「反省」の立場を超えて「知的直観」の立場で見ると、じつは「具体的一般者の自己限定」(第5段落冒頭)だというのです。われわれの特殊化の尖端における判断(個物的判断)の根柢に知的直観の世界がある、ということです。逆に言えば、我々の個物に関する判断的知識は、知的直観を根柢にして成り立っている、というのです。例えば「これは青い」というのも、そうした言語化以前の直観の世界が我々に開けていて、そこからの限定として「これは青い」という判断が成り立っている、こう考えるのです。Tさんは経験的直観に基づく判断的知識では、主観的抽象的でしかないのだから、積極的肯定的な仕方では個物に関する判断的知識は成立していない、とされているのに、知的直観の立場からすれば、具体的一般者の抽象的な自己限定として判断的知識が成立している、とされている、そこで改めて「特殊化の尖端における判断的知識は成立するか」と問うた形になります。さてどうなんでしょう。「これは青い」という判断は知的直観に基づいているのでしょうか?

A

基づいている、と思います。

B

私もそう思います。

C

私もです。
佐野
西田派が多いようですが、虹が何色に見えるかは言語文化によって異なる、という知見があります。例えば「青」という言葉を知らなければ「青」は見えない、ということです。我々は言葉を感性的直観の中に投げ入れて認識している、ということです。だとすれば認識の源泉は知的直観のうちにあるのではなく、我々による言葉の投げ入れの方にあることになります。我々は常に世界を自分が生きやすいように理解してしまっており、そうした理解を世界のうちに投げ入れて、それで世界を認識しているつもりになっているのです。つまり判断的知識の源泉は我々の理解の方にあることになります。これを先入見とか偏見と呼ぶならば(自分の認識が先入見であるとか偏見である、とは普通誰も思いませんが)、我々の認識はすべて先入見によって成り立っている、と言えます。こうした先入見によって構成された世界観があるから、逆にそれが揺らいだり、あるいは破れたりする。そこに自分の認識が先入見に基づいていたことが顕わになると同時に「何か」が顕わになっている。西田はその「何か」を「知的に直観している」というように捉えてしまうのです。

O

私は、それはカオスだと思います。判断的知識の根柢になるような確固とした知的直観だとは考えません。
佐野
(Oさんの考えをよく理解できていないのに、一方的な言い方になって心苦しいのですが、)たしかにその「何か」は我々が積極的に直観できるようなものではなく、逆に死の不安のように、我々が見たくないもの、我々が自力では決して見ることのできないもの、かもしれませんね。我々はそこから目を背けて自分の生きやすい世界を構成して、そこで生きている、とも言えます。しかしそれを「カオス」として捉えてしまえば、「カオス」を「カオス」としては捉え損なっており、「カオス」として捉えたところから出立する哲学は、別の仕方ではありますが、西田の知的直観と根本的には同じ立場に立つように思います。言葉以前というか、言葉を超えた世界というのは、それなしには哲学も芸術も宗教も成り立たないものですが、逆にそうである(言葉を超えた世界から芸術、宗教、哲学が成立する)のは、我々が言葉を一歩も出ることができない存在だからとも言えます。

S

しかし「人間」には言葉による「知的」な側面と同時に現に言葉以前を生きているという「動物的」側面があると思います。

T

私は動物も人間とは違う仕方ですが、「知的」な側面を持っていて、判断もしていると思います。
佐野
それは言語的にしか理解することのできない人間が、そうした理解を動物に投影しているに過ぎないのでは?動物が判断しているかどうかは分からないのでは?

T

それは相手が人間でも同じことだと思います。他者はどこまでも分かりません。
佐野
それはそうですが、少なくとも、観察するかぎり、動物が言語体系に基づいて行動し、判断しているようには見えませんが。

T

ですからあくまでも人間とは異なる仕方で、ということです。

S

判断しているのではなく、(本能的に)反応している、のでは?
佐野
言語化以前のことをどのように語っても、やはり言語を一歩も出ることができないように思えるのですが。

T

発語能力を失った人ともコミュニケーションが取れますから、発語的言語以前の何かはあると思います。
佐野
それはそうだと思いますが、今問題にしているのは発語能力を失った人の中でどうなっているか、ではなく、その人についてそのように観察し、語っている当人です。視点を客観的なものに移してしまうので議論がかみ合わなくなってしまう。科学でも哲学でも、あるいは芸術やスポーツでも「当人」意識を忘れて語る、無心に事柄と一つになって語る、あるいは行為するということがとても重要ですが、それは「人間」の在り方の一面でしかなく、人間は「それについて」知る、つまりそれを言葉にして知る、ということがあります。それがなければ無心の語りや行為自体も顕わになりません。つねに、そうしてすでにそれで「ある(生きている)」、ということと、それについて「知る」ということ、この矛盾が「人間」の本質を成しているように思われます。どちらか一方に還元することはできない。「これは青い」という判断的知識についても、事実(存在)の方から見れば、たとえ逃避的な仕方であっても、事実の方から成立している、と言えますが、「知」の方から見れば、どこまでも分からないものについての、自分に都合のよい、主観的で抽象的な知識にすぎず、しかもそのことすらどこまでも自覚されない。ついつい客観的な知識だと思ってしまう。それがいつまでたってもやめられない。このように日常的には単純に同一だと思われている「知」と「存在」の間にはじつは、最も近いが故の、最も深い断絶があり、それが故に「気づき」も「目覚め」も「学び」も生じうるのではないか、そのように感じているのですが、どうでしょう。プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(343頁7行目~10行目)
佐野
まず「変ずるもの」は「個物的なるもの」だということを押さえておきたいと思います。これは分かりやすいと思います。「すべて具体的概念の如く」とありますが、「具体的概念」とは個物を含む概念のことです。抽象概念ではないもの、例えば「ペン」がそれです。「ペン」の出立点は経験的には「このペン」ですね。ついで「述語的なるものは唯部分的に限定し得るのみである」とありますが、「これ(個物的なるもの)を」を補って読みましょう。個物についての判断はつねに部分的だということ、先に出てきた言葉を用いれば「抽象的」だということです。これも分かりやすい。ついで「時を考えるにも、我々は現在から出立せねばならぬ」とありますね。「時」が「具体的概念」、「現在」が「個物」と対比されていることが分かります。ただ「時の一般者」は「ペン」などの「具体的概念」と異なって、「限定することはできない」とされます。「変ずるもの」は、この「限定することのできない一般者」においてある、ということにも注意しておきたいと思います。そうして「之(時の一般者)を限定しようとすれば所謂アンチノミーに陥る」とあります。ここではカントの『純粋理性批判』における第1アンチノミー「世界に始まりがあるか」を念頭に置いています。そこでは時間と空間の両方に渡ってアンチノミーが展開されていますが、ここでは時間だけを問題にしています。「世界に始まりがない」とするならば、現在の世界に至るまでに無限の時間を経過しなければならず、それは不可能(現在の世界に至ることができない)。ゆえに世界に始まりがある。逆に「世界に始まりがある」とするならば、その始まりの原因が無であることになる。無からは何も生じない。ゆえに世界に始まりはない。こうして「世界」に「始まり」があるともないともいえない、換言すれば、時間は無限であるとも有限であるとも、限定できない、ということになります。テキストでは「こういう意味に於て時も変ずるものである」とありますが、「こういう意味」とは有限とも無限とも限定できない、という意味です。「時の一般者」が「限定できない」が故に「時」が「変ずるもの」だと言われています。この「時」とは、過去から未来へと移り行く「現在」のことを言っています。ただ「現在」とだけ言えば、どこをとっても「現在」ですので、「時」は「変ずるもの」ではないとも考えられますが、これは「変ずるもの」を「数学的連続」のように「形式的」に見ているからだ、と西田は考えます。次を読んで見ましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(343頁10行目~344頁2行目)
佐野
通常、「変ずるものは時に於て又時によって変ずる」と考えられていますが、西田はこれをはっきりと否定します。「時は変ずるものの一種」、否「時は寧ろ変ずるものの形式にすぎないと考えます。カントの場合も、「時間」は「感性の形式」でした。そうしてその「形式」(「時の概念」)がどこから出て来るかと言うと「数学的連続の概念」だというのです。この概念は「考えられたもの」であり、「限定せられた」「一般者」(一般概念)で、本質的にここには「変ずるもの」はありません。そこで西田はどういう時に「時」が「変ずるもの」になるかを考えます。「数学的連続」の場合、連続の一々の点は点という以上にいかなる性質もありませんが、「変ずるもの」の場合、連続の一々の点は更に「性質的に特殊化」できる、とされます。それは「変ずるもの」が単なる点ではなく、個物だからです。個物の性質はどこまでも特殊化できます。その場合の「一般者」は最早数や空間のような限定された一般者ではなく、「限定することのできない一般者」となっています。このように数学的連続の一々の点が個物となる時、「時は変ずるもの」となります。それでは次をCさん、お願いします。

C

読む(344頁2行目~10行目)
佐野
次いで「変ずるもの」となった「時」と、「真に変ずるもの」との関係が述べられます。結論から言うと、一方に「数学的連続」としての純然たる「形式」があり、他方に「真に変ずるもの」があり、その中間に「変ずるもの」としての「時」がある、ということになります。詳しく見て行きましょう。まず「変ずるもの」としての「時」においては、「形式が主」で、「性質的なるものが従」、言い換えると「数学的連続という如きものが主語的」となり、「性質的なるものが述語的」になっていると言います。

C

どういうことですか?私はカレンダーのようなものを思い浮かべましたけれど…
佐野
ええ、いいんじゃないですか。まず時間軸を考え、秒、分、時間、日、月、年で区切り、それを主語と考え、それに出来事を述語する、というようなことですね。こういうやり方は「全然限定せられた一般者の立場を離れていない」、つまり数や〔時〕空間といった「数学的連続」の立場ですね。これに対し「真に変ずるもの」ではこれが逆になります。つまり「性質的なるものが主語的となり形式的なるものが述語的となる」。個物としての出来事が主語となる、ということです。〈〇時〇分に出来事Aがあった〉、ではなく、〈出来事Aは〇時〇分に起こった〉、という言い方になります。後者の言い方だと、まず出来事が「限定することのできない一般者の上に立ち」上がり、ついでそれが「時の形式」という「数学的連続」によって限定されることによって、出来事が時間的に限定され、こうして我々はそれについて「考える」ことができるようになります。「完全なる思惟の性質は限定せられた一般者の上に立つ」とありますね。逆に言えば、我々は空間的にも時間的にも限定されたものについてしか考えることができない。これはカントの『純粋理性批判』の一つの結論でもありましたね。だから我々は「時によって変ずるものを考える」というように思うのであるけれども、実はそうではない。我々は「変ずるもの」つまり「個物」を、「限定することのできない一般者」、つまり「無限大の一般的なるもの」(絶対無の場所)において、知的に直観していて、それについて「考える」際の「形式」が、「数学的連続」の概念を基礎としながら、それ自身「変ずるもの」である「時」だというのです。そうなると「時」とは「数学的連続から変ずるものに至る限界をなす」、言い換えれば「両者の中間に位するもの」ということになります。直観の世界に属する「変ずるもの」から言えば、これについて我々が「考え」ようとする場合に、「何等かの意味に於て」限定して「一般概念」にしなければなりませんが、その際の形式が「時」だというのです。この「時」は単なる「数学的連続」でもなく、「変ずるもの」そのものでもない、その中間のそれ自身「変ずるもの」としての「時」です。

C

その「時」とは、具体的にどういうものですか?
佐野
何とも書いていないので、こちらで考える外はありませんが、まずは過去から未来へと流れていく現在が考えられます。こちらの方は後に「内容ある時」(346頁1~2行目)と呼ばれます。これに対して、「数学的連続」に他ならないような時間軸としての「時」、言わば空間化せられた時、が「形式的時」と呼ばれていて、そこでは「尚現在の方向が唯一的に限定せられない」、つまり流れの方向がない、とされています。「内容」とはこれまでに出て来た言葉としては「性質」に相当しますので、この「変ずるもの」としての「時」とは、時間軸上の点(秒、分、時間、日などの単位)を主語としつつ、過去から未来へと流れる現在であると考えられます。今日はここまでとしましょう。
(第110回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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