
このペンは本当にあるのか
- 2019年4月13日
- 読書会だより
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最後の段落です。ここでは知識および意志の根柢における知的直観として宗教的覚悟が扱われています。少しずつ読んでいきましょう。
真の宗教的覚悟とは思惟に基づける抽象的知識でもない、また盲目的感情でもない、知識および意志の根柢に横たわれる深遠なる統一を自得するのである、即ち一種の知的直観である、深き生命の捕捉である。
第6段落の最後で知と意を超越しつつ、両者の根本となる直覚において知と意の合一が見出されました。宗教的覚悟はこの知と意の根柢に横たわる統一そのものを直覚するということです。しかし偉大な美術家や思想家、道徳家も偉大な宗教家同様、その直覚するところのものは知識および意志の根柢に横たわれる深遠なる統一、深き生命でしょう。
故に如何なる論理の刃もこれに向うことはできず、如何なる欲求もこれを動かすことはできぬ、すべての真理及び満足の根本となるのである。その形は種々あるべけれど、すべての宗教の本にはこの根本的直覚がならぬと思う。
どんな宗教でもこうした根本的直覚を本にしなければならない、これも頷ける話です。しかし最後の一文はどうでしょうか。
学問道徳の本には宗教がなければならぬ、学問道徳はこれによりて成立するのである。
この一文はどうにも不可解です。これまではずっと学問、美術、道徳、宗教は同列に扱われてきました。偉大な学者、美術家、道徳家、宗教家も皆同列に知的直観の極致の位置づけを与えられてきました。しかるにここでは学問道徳の根本に宗教が置かれています。しかも美術が抜けています。美術の根本に宗教は不要なのでしょうか。ここにも大きな問いがあります。
以上で「知的直観」の章を一応読み終えたことにします。分からない部分が幾分分かりやすくなったというのであれば私にとって大きな喜びです。しかし同時に分からない部分が正反対の意味で分かってきた、つまりこの章が深くて難しい問いを抱えているということが一層明らかになったとすれば、これは上の喜びに増してこの上ない喜びです。この問いにどう答えていくか、9月24日の会で皆さんと一緒に哲学しながらじっくり考えたいと思います。その結果はまたご報告したいと思います。
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