市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 2
- 2016年9月3日
- 読書会ガイダンス
「知的直観」の章を読む(第1編第4章)
これから9月24日開催の「西田幾多郎に出会う」の「読む時間」と「考える時間」に向けて皆さんと一緒に「知的直観」の章を読んでいきたいと思います。「知的直観」の章は『善の研究』の中で最も短い章です。文庫本にして7頁くらいです。今回この章を取り上げた理由の一つにこの短さがあるのは確かです。何しろ1時間30分で「読む時間」を終えなければならないのですから。
しかしこの章を取り上げたのはそれだけではありません。「知的直観」の章は『善の研究』の中心部、心臓部を成していると言えるのです。そのことはまず『善の研究』の構成の上から言えると思います。『善の研究』は第1編「純粋経験」、第2編「実在」、第3編「善」、第4篇「宗教」の四篇から成っています。第1編が経験、第2編が思惟、第3編が意志、第4編が直観(直覚)を扱っていると考えられますが、第1編自体がさらに四章に分かれていて、第1章「純粋経験」、第2章「思惟」、第3章「意志」、第4章「知的直観」となっています。こうして見ますと第1編はちょうど種子のように全編を自らの内に含んでいることが分かります。その最終章が「知的直観」ですから、この章が『善の研究』の心臓部に位置していることは何となく予想がつきます。
思想面から言ってもこの章はある意味で中心部を成しています。『善の研究』は円環を成した体系です。第1編「純粋経験」から出て、第2編「実在」、第3編「善」という哲学の両部門を経て、第4編「宗教」に至り、最初の純粋経験に帰っていく。あるいは第1編の内部で申しますなら、第1章「純粋経験」から始まり、第2章「思惟」、第3章「意志」を経て、第4章「知的直観」に至り、最初の「純粋経験」に帰っていく。このような円環を成していると考えられるのですが、この円環行程を導いているのが知的直観に他なりません。
最初の「純粋経験」とは色を見、音を聞く刹那、これが色であるとか音であるという判断が起らない有り方を言っています。とはいえ気を失っているのでも眠っているのでもありませんから、何かを見ているはずです。何かを見ているというのは何かを統一的に見ているということです。この「何かを統一しているもの」を見る、それが知的直観の働きです。純粋経験を統一しているものを見る働き、これが知的直観です。これがないとそもそも純粋経験自体が成り立ちません。
この知的直観がさらに思惟と意志の根柢に働いてそれらを導いています。何か言いたいことがある、何かしたいことがある、これに導かれて私たちは物を考えたり、行為したりしますが、この「何か」を見るのが知的直観です。
しかもこの知的直観は宗教家や美術家の直観のような極致に至った直観と、普通の知覚、思惟、意志における直観の「間」にも立っています。知的直観は先程申しましたように純粋経験を統一しているものを見ています。それが普通の知覚、思惟、意志ではそのつどのそれらの対象であるのに対し、極致の直観では根源的な意志の統一力そのものが直観されているのです。凡人はありきたりの仕方で物を見、考え、行為することしかできませんが、天才や偉人は同じ物でも違ったように見、考え、行為するということです。
このように「知的直観」の章は構成面からも思想面からも『善の研究』の中心部を成しており、ある意味で『善の研究』の全体を凝縮したような叙述になっています。その点では『善の研究』の他の箇所か絶えず顧みられなければならないのですが、その点についてはこちらの方でお手伝いしたいと思います。また同時期に書かれた『心理学講義』や『倫理学草案第一』『倫理学草案第二』『純粋経験に関する断章』も必要に応じて参照したいと思います。
「知的直観」はこのような章ですので哲学的にも西田哲学の核心に係る問いを避けて通ることができません。9月24日の会では皆さんと共に議論を深めていくことができればと思って居ります。
この章全体の構成を述べておきましょう。第1段落では西田の「知的直観」の定義が述べられます。第2段落から第4段落までは「知的直観」に関する通説とそれに対する西田の反論が述べられます。そうして第5段落では思惟の根柢における知的直観が、第6段落では意志の根柢における知的直観が、第7段落では知識(思惟)および意志の根柢における知的直観としての宗教的覚悟が述べられます。順に見て行きましょう。
第1段落
第1段落では「知的直観」が「理想的なる」ものの「直覚」であると定義づけられます。西田はこの「理想的なるもの」を「普通に経験以上といっているもの」と言い換えています。具体的な例で考えて見ましょう。たとえば私がここに実物の「モナリザ」を皆さんにお見せする、しかも皆さんはこれを生れて初めて見る、とこういうことにいたしましょう。さて皆さんはこれをどう見るでしょうか。まず、画だ、そうして女の人が描かれている、ということになるでしょう。これと言って特に美しいとも思わない。これが「普通に経験」と言っているものです。ところがたまにその美しさが分かる人がいる。この人たちは「普通に経験以上と言っているもの」、この場合には美ですが、そうしたものを見ていることになります。これを西田は「理想的なるものの直覚」と言っているのです。それで西田は「たとえば美術家や宗教家の直覚の如きものを言うのである」と言っているのです。同じものを見ているようでもそうではない、美術家や宗教家は違うものを見ているというわけです。
西田は知的直観をさらに「弁証的に知るべきものを直覚するのである」とも言い換えています。「弁証的」とは同じころに書かれた『純粋経験に関する断章』の断片7を見ますとdiscursiveの訳語であることが判明します。Discursiveはintuitive(直観的)の対義語ですが、西田はそこでdiscursiveという語をほぼ「分析的」「推論的」という意味で用いています(旧岩波版全集第16巻322-323頁)。幾何学の証明問題などでひらめくということがありませんか。「あ、そうか、分かった」というような瞬間です。しかしそれを証明しようとすると長い説明を要することになります。この一歩一歩の説明が「弁証的」と呼ばれるものです。しかしひらめいた瞬間はそのように「弁証的に知るべきもの」が一挙に「直覚」されているのです。同じようなことが様々な方面における名人芸に見られると思います。将棋や囲碁がよい例でしょう。西田も知的直観を「技術の骨の如きもの(第4段落)」とも言っていますので名人芸を例に挙げることは強ち不当なことではないでしょう。それで西田はこうした宗教家や美術家、天才や名人のことを主として念頭に置きながら次のようにこの段落を締めくくります。
直覚という点においては普通の知覚と同一であるが、その内容においてははるかにこれより豊富深遠なるものである。
次回は第2段落についてお話しします。更新は9月5日(月曜日)から17日のプレ読書会までの奇数日(全7回)を予定しています。