矛盾的統一の対象界

まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はOさんでした。キーワードは「知覚」【限定せられた場所、有の場所、限定せられた性質の一般概念の中、相異・相反の世界】、「力の世界」【無の場所、矛盾の世界】、「転回点」【限定せられた一般概念をやぶること、相反の世界から矛盾の世界に出ること】とでした。【 】内はOさんが解説として追加したものです。またキーセンテンスは「力の世界を見るには、かかる限定せられた一般概念を破って、その外に出なければならぬ、相反の世界から矛盾の世界に出なければならぬ」(254,1-2)でした。疑問ないし考えたことは「有の場所から無の場所に出る転回点について、「相異なる者、相反する者」で世界を構成している私がそれらを失えば、何も見ることができないのではないか。有から無に転じた私は世界で何を認識するのか。有の場所の外に出たばかりの私と矛盾の世界を見る私の間には、未だ距離があるのではないか」でした。
佐野
我々は「矛盾の世界」とか「真の無の世界」などと何度も聞いている内にそんなものが見えるような気になっている、そこを問いたいと。有の場所から無の場所に転じた瞬間は何も見えないのではないか。と。

O

「有の場所」と「無の場所」。一方で排他的で、他方で「無の場所」が「有の場所」の根柢のように言われています。「転回」と言うと一瞬でひっくり返る感じがするけれど、そのあたりがよく分からないのです。

A

「転回点」と言えば以前も「意識一般」が「対立的無の場所」から「真の無の場所」に到る「門口」とされていました。「門口」では両方見えるんですが、「真の無の場所」は分別的意識では見えない、直観で見るのだと思います。250頁13-14行目に「真の無の空間に於て描かれたる一点一画も生きた実在である」という表現があります。他方でこれが「実在」だ、とか実在を「見た」と言えば胡散臭くもあります。

O

「有の場所」は矛盾がない。そこから「無の場所」に到るには否定がないといけない。だけど、否定などできないように思うんです。

A

自分ではできないと思います。

O

そういうことだろうと思うのですが、即非の論理とか、不思議な気持ちになるには便利な言葉だと思うんです。実はずっと同じものしか見ていないんじゃないか。
佐野
なるほど。世界は何も変わっていない、と。プロトコルはこのくらいにしておきましょう。この問いに対する西田の考えが本日講読する箇所で少し見えてくるかもしれません。本日は254頁6行目から253頁1行目まで読みます。

B

ちょっと待ってください。前回講読分の最後に「矛盾的統一の対象界」というのが出てきて「数学的真理の如きもの」がそうだとされました。その場合「矛盾的統一」というのが「5は数である」というような「特殊=一般」のことだとされましたが、これが分かりません。〈特殊は一般である〉というのは判断ですが、これのどこが矛盾なんですか?

C

私もよく分かりません。
佐野
そうですか。192頁に戻って読んで見ましょう。ここでは「数理の世界」がまず「矛盾律」によって組織される、とされています。矛盾律自体は矛盾ではないですね。Aが同時に非Aでない、というのですから。しかし西田はその「根柢」を問題にする。そこに「矛盾の統一」を見る。そうして「数理の世界」の場合にはさらに「類概念」がなければならぬ、としています。例えば自然数という一般概念がそれにあたります。これに対し「所謂経験的一般概念」の場合は「一般と特殊との間に間隙がある、一般より最後の種差に達することはできぬ、一般化の原理と特殊化の原理が合一することができない」(193,1-2)とされています。例えば〈赤一般〉は〈この赤〉に達することができない、ということです。そうだとすると「数理の世界」の場合は、それができていた、ということになります。つまり「一般=特殊」ということですが、これが「矛盾の統一」の意味することです。一般化と特殊化は逆の方向を持っていますね。それが等しいとされている、そこに矛盾を見るわけです。ところが「経験的一般概念」の場合は一般化の原理と特殊化の原理が一つにならない。〈赤一般〉が〈この赤〉に届かない。そこで〈特殊化の原理〉を担うものとして「物」(「超越的にして普遍なる基体」)を考える、というわけです。〈赤一般〉が〈この赤〉になるのはそれが「物」(個物)においてあるからだと。これが第二段階。第三段階はこの「基体」(物)がなくなって、再び「一般=特殊」となる段階です。そこでは「一般的なるものは特殊的なるものを成立せしめる場所」とされています。この記述があるのは前論文「働くもの」ですからまだ「真の無の場所」という言葉は出てきません。ですが第三段階で念頭に置かれているものはそうしたものでしょう。目下の講読箇所でもこの三段階が念頭に置かれながら、ここではむしろ物や物質といった「有の場所」が「無の場所」と一つだ、ということが言われようとしています。

D

私は「数学的真理」の根底にある「直覚」と「所謂感覚的直覚」を「何人も同じとは考えない」ということが分かりません。「所謂感覚的直覚」って何ですか?
佐野
例えば赤がそうでしょう?

D

赤そのものも感覚的には直覚できませんよね。
佐野
その場合でも「この赤」を通じてでしか赤そのものの直観はできませんね。「この赤」は感覚的なものです。これに対し5は目に見えるものではないし、「この5」ということもない、あくまで概念です。普通誰もこの感覚的な[経験的]直観と、数学におけるような[純粋]直観を同じとは考えない、そういうことを言おうとしていると思います(なお「経験的直観」と「純粋直観」の区別はカントによるものです)。しかし西田は「すべての判断の根柢には一般的なるものがあるとするならば、色や音についての判断も一般者の直覚に基いて成立する」ことを言おうとします。上に挙げた以前の論文の箇所では数理的な判断の場合は〈5=自然数〉というような形で〈特殊=一般〉が成立していたけれども「所謂経験的一般概念」の場合は「物」の概念を入れないと特殊と一般は結合できませんでした。つまり物(物質)の場合には、〈特殊=一般〉は物(物質)を特殊化の原理とすることで初めて成立することになります。しかしそこには第三段階があって、そこでは「物(基体)」が消失し、再び〈特殊=一般〉が「一般者」が「場所」となることで成立するとされていました。しかしどうしてそう言えるのかの説明は不十分と言わざるを得ません。それがここで問題になっていると考えられます。

E

次に「感覚的なるものの知識の根柢に於ける一般者と、所謂先験的真理に於ける一般者とは如何に異なるか」とありますが、「先験的真理」とは何ですか?
佐野
「先験的」とは原語はtranszendentalで最近は「超越論的」と訳されます。経験(ここでは判断)を可能とする制約(条件)に関するものです。その意味では「経験」に先立っていますから「先験的」とも訳されるのです。前の文章で「判断の根柢には一般的なるものがある」とされていましたが、これが「先験的真理」です。これは経験に先立っていますから数学におけるような純粋直観と同列に置かれています。ところで「先験的真理」の具体的な表現は今講読中の文章ではどれに当たりますか?

E

ちょっとわかりません。
佐野
「斯くなければならぬ、然らざれば知識は成立せない」がそれです。まさに知識(判断)の成立条件ですね。今は「感覚的なるものの知識における一般者」とこの「先験的真理に於ける一般者」の違いが問題になっています。この「一般者」を明らかにするにはこの「一般者」の外に出てこれを見なければならない、そのように西田は言います。次に「矛盾的関係に於て立つ真理を見るには、我々は所謂一般概念の外に出て之を見るということがなければならない」とありますね。「之」とは何ですか。

B

「真理」?それとも「一般概念」?
佐野
次に「所謂一般的なるものが見られ得るということが、先験的知識の成立する所以」とありますね。ですからさしあたり「之」は「一般概念(一般的なるもの)」です。ですがそれを見ることによって「先験的知識」が成立するのですから、結果的には「矛盾的関係に於て立つ真理」でもよいことになります。我々は数学においても様々な判断を、例えば自然数なら自然数という「一般概念」に基づいて行っていますが、その「一般概念」が何であるかを知るためにはその外に出てこれを見なければなりせん。そうするとそこには例えば〈5は数である〉というような〈特殊=一般〉といった「矛盾的関係」が見えてくる。同じことは感覚的なものを論ずる場合でも言えます。感覚的なものにも一般者はあります。赤一般とか、色一般もそうです。それが何であるかを見るためにはそうした一般者を出なければならない。そうするとそこにも「これ(この赤)は赤である」という〈特殊=一般〉という「矛盾的関係」が見えてくる。さらに「先験的真理」の場合も同じです。我々が判断する場合に、判断の一般者に基いて判断を行っていますが、そこには〈主語は述語である〉という形式、つまり〈特殊=一般〉という「矛盾的関係」があります。それが一般的なるものを出ることによって見えてくる。それを西田は「有の場所其者を無の場所と見るのである、有其者を直に無と見る」と言い換えています。さらに「斯くして我々はこれまで有であった場所の内に無の内容を盛ることができる」と言っています。ここでも「盛る」という言葉が使われていますね。判断内部での超越として「触覚筋覚」を主語として限定して、そこに他の感覚を「盛る」というように以前(254,15)言われていましたが、ここでは感覚のみならず、判断の一般概念、さらにはそのことを通じて無そのものをも「盛る」ことになります。ここまでくると我々には最初からすべてが与えられていたことが分かります。その意味ではOさんがおっしゃったように世界は何も変わっていない。ですが我々が分別によって見方を限定してしまっているとも言えます。こうした限定を取っ払えば「相異の関係に於てあったものの中に矛盾の関係を見ることができる、性質的なるものの中に働くものを見ることができる」ことになります。この「働くもの」が「力」の世界です。

F

具体的にどういうことですか?
佐野
「相異の関係」とありますが、「相反」の場合はもちろん、ということでしょうね。例えば木の葉が緑から赤(緑ならざるもの)に変化しても、木の葉という「物」と「時」の概念を入れることで矛盾なく説明できると先には考えましたが、そこにはすでに矛盾がある、ということです。例えば緑から赤に変わる「瞬間」はどうでしょう?そこは緑でもなく赤でもなく、緑でも赤でもある。これは矛盾としか言いようがない。「相異」の場合はどうでしょうか。この塩は白く、辛い。ここにも西田は矛盾を見ます。

A

それは矛盾ではないと思います。白は視覚によるもの、辛さは味覚によるものです。
佐野
そこなんですが、西田は感覚を全体として考えています。感覚の原因として対象と感覚器官を分け、さらに感覚器官を五感に分けるのはすでに思惟の作用の結果だと考えるのです。「共通感覚」や「物質」の所でも扱いました。そうすると白くて辛いは白くて同時に白でない、ということになり、矛盾になるのです。

C

ちょっと待ってください。先程の矛盾は〈特殊=一般〉ということだったと思います。ここでは特殊同士の関係になっていませんか。矛盾的関係とはどういうことですか?
佐野
確かにそうですね。矛盾は特殊とそれに対立する特殊の間にも、特殊と一般の間にもあることになりますね。生と死、有と無など相対立するものが同時に成立する事態を西田は矛盾と言っているようですから、ある特殊とそれに対立する特殊、特殊と一般が同時に成り立てば矛盾ということになるのではないでしょうか。

G

その場合相異が相反になり、さらに矛盾になる、ということですか?
佐野
そうですね。今日はここまでとしましょう。すごい集中力でしたね。疲れたでしょう?
(第44回)
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〈物自体〉vs.「物体」

まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はYさんでした。キーワードは「物体」(253,3)、「物」(同8)、「物質」(同10)でした。また疑問ないし考えたことは「西田はカントの〈物自体〉に反対し、「物体」とは、感官(感覚器官)のうち「触覚筋覚」(同4)によって感受された性質を基礎とし、更に他の感官による性質を積み重ねたものであるとしている。そして「物体」の基体である性質を一般化するとき、「最も一般的なる感覚的性質」(同10)となり、「物質」が知覚的対象として成立する。ところで「物」(個物)について、「判断は自己の中に自己を超越する」(同8)とはどういうことを意味するのだろうか」(209字)でした。(例によって佐野の記憶に基づき、佐野の言いたいことが前面に出るようにアレンジしてあります。)
佐野
文章の解釈が問題になっています。まず意味を一つ一つ確定していきましょう。「判断は自己の中に自己を超越する」とありますが、この「自己」は判断ですね。「私」という意味ではない。つまり「判断は判断の中に判断を超越する」という意味です。その前に「かかる意味に於ては」とありますね。「かかる意味」とは何でしょう。その一つ前の文章を読んでみないと分かりませんね。「超越的なる物という考は、却って内在的性質を限定して之に他の性質を盛ろうとするより起るのである」、とまずあります。「超越なる物」というとすぐにカントの物自体のようなものを思い浮かべるのですが、西田はそう考えない。「却って」という言葉がそのことを示しています。ではどう考えるかというと、「内在的性質」、これは感覚ないし知覚に内在している性質、つまり視覚聴覚味覚嗅覚触覚のことです。それを「触覚筋覚」に「限定」する。これに他の性質、つまり視覚聴覚味覚嗅覚を「盛る」。この文章と次の文章は読点(、)で区切られていますね。一続きです。「限定せられた場所の中に、場所以外のものを入れようとするより起るのである」。これは先ほどの一文の言い換えですね。「超越的なる物」は「却って」、「限定せられた場所」、これは「触覚筋覚」のことです。これに「場所以外のもの」つまり触覚を除いた視覚聴覚味覚嗅覚を「入れる」。この文章を受けて「かかる意味」と、こうなるわけです。「かかる意味に於ては、物を考える場合でも」と来る。物を考えるとは「判断」する、主語述語関係にするということです。その場合でも「判断は自己の中に自己を超越するということができる」、こう述べているわけですが、これをどう考えるか。皆さん、どのように考えますか?

Y

何度読んでも皆目分かりません。

A

内在が超越、超越が内在というダイナミックな論理が言われているのでは?
佐野
そうですか?前の文章ではカントの物自体を念頭に置いて「超越的なる物」に超越という語が用いられていましたね。ここでも「超越」という語が用いられていますが、これはカントの物自体とは違った意味での超越でなければなりませんね。どう違いますか?そもそも「自己の中に自己を超越」するとはどういうことですか?私はこう思うんですけれど・・・。「判断」の中での超越とは、視覚聴覚等々の内在的性質から、触覚筋覚を主語として立てること、これが判断の中での超越です。これに対し、カントの物自体は判断を越えて、知り得ないものになっています。判断の外への超越です。どうでしょうか?

A

その解釈は分析的な感じがして、あまり西田的でないと感じます。

B

私はかっこいいと思います。
佐野
プロトコルはこのくらいにして、今日は253頁12行目から254頁6行目まで講読したいと思います。まず「知覚」が「限定せられた有の場所」ないし「限定せられた性質の一般概念」とされていること、これを押さえておきましょう。これが知覚の世界です。これに対立しているのが「力の世界」です。そうしてこれに「相異」「相反」「矛盾」が重ね合わされる。「相異」と「相反」が「知覚」、「矛盾」が「力の世界」です。そうして前者と後者の間に西田は「転回点」を見ていて、これが「最も考うべきである」、と言っている。以上は図式的な整理です。ところで「相異・相反・矛盾」と聞いて何か思い出す人はいませんか?

C

論文「働くもの」の中に出ていました。191頁11行目からです。
佐野
読んでみてください。

C

(テキスト音読)
佐野
ありがとうございます。例えば「塩は白く辛い」という場合の「白」と「辛」は「相異」ですね。その場合白と辛は同時に「物」を背後に考えることによって成り立つ。これに対し緑と緑ならざるもの、これは「相反」ですが、これは背後に物を入れても同時には成り立たないですね。「時の考」を入れないといけない。そうすると木の葉が緑から緑ならざるもの(赤)というように説明できます。ところが矛盾の場合はこうした「背後の物」を置くこともできない。物自身の消滅がそのまま生成、否定がそのまま肯定、死することがそのまま生きることであるような、そんな関係です。「相異・相反」の場合には背後に物がある。これに反し「矛盾」の場合は「物」がない。そこに「力の世界」が見られるというのです。

D

次の「矛盾的統一の対象界」というのがよく分かりません。
佐野
次の文章では「数学的真理」に置き換えられていますが、これも192頁に出てきますね。数理は矛盾的限定によって組織せられており、そこに「矛盾の統一」を見ることができる、そのように述べられています。この矛盾とは〈一般=特殊〉のことです。5は数である、三角形は図形である、などがそれです。一般者が特殊化の原理を具えること、西田はここに矛盾を見て、これが「直覚」によって見える、というのです。今日はこのくらいにしておきましょう。
(第43回)
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物理的空間と幾何学的空間

まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はTさんでした。キーワードは「物理的空間」で、キーセンテンスは「物理的空間はどこまでも感覚的でなければならぬ、感覚性を離るれば物理的空間はなく、単に幾何学的空間となる、而して力は亦数学的範式となるの他はない」でした。また疑問ないし考えたことは「物理的空間と幾何学的空間の違いがわかりません。幾何学的空間や数学的範式も、ある人々(数学者とか)にとってはリアルな感覚によって捉えられたものかもしれません。人は手持ちの限られた感覚器官を用いて、仮に色とか音とかいうふうに知覚しているだけで物理的空間と幾何学的空間に本質的な差異はなく、その両者はいずれも感覚性があり、感覚性のないものは考えることすらできない、と言うことも可能ではないかと思うのですが」でした。(例によって佐野の記憶に基づき、佐野の言いたいことが前面に出るようにアレンジしてあります。)
佐野
まずこの問いそのものを仕上げて見ましょう。何かありませんか?…なければ私の方から。「幾何学的空間」が感覚的だとはどういう意味ですか?「幾何学的空間」そのものは感覚的ではありませんね。例えば完全な線すら我々は見ることもできない。何故ならそれには幅がないから。しかしそれを考えることはできる。でもそれについて考えるときは実際に線を引くなどして、感覚的なものを手掛かりにしないと考えることすらできない。とまあ大体こんな意味ですか?

T

ええ、大体そういうことです。
佐野
物理的空間が感覚的であるとはどういう意味でおっしゃっていますか?

T

音や色は人間だけに通用する、主観的なものだと思いますが、その原因となるものがそのもの自身にあるということです。例えば音は波動が原因だという意味です。

A

ジョン・ロックに第一次性質と第二次性質というのがあって、延長、個体性、数などが第一次性質で、これらは物自体に備わる性質です。これに対し第二次性質は色、音、香、味などで、これらは物自体には関りのない主観的な性質です。
佐野
Tさんは物理的空間というのをロックの言うような意味で、物自体の世界とお考えですか?

T

世界には二つあって、一つは主観的な世界で、もう一つは客観的な世界です。客観的な世界は物自体の世界です。
佐野
これは西田哲学成立の根幹にかかわる問題ですね。『善の研究』の「版を新にするに当って」に「色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方に耽った」というフェヒネルの言葉を引きながら、「私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、いわゆる物質の世界という如きものはこれから考えられたものに過ぎないという考を有って居た。まだ高等学校の学生であった頃、金沢の街を歩きながら、夢みる如くかかる考に耽ったことが今も思い出される。その頃の考がこの書の基ともなったかと思う」(文庫改版10頁)と述べています。つまり『善の研究』の基となる根本経験が実は西田の高校時代にあって、それが今回の問いに関係しているのです。この問題は何を実在と考えるかの問題です。西田によれば、客観的な物自体の世界と、主観的な世界を分けるというのが、すでに「考えられたもの」に過ぎないのです。思惟の要求によって仮定されたものに過ぎない、西田はそのように考えます。そうして真にあるといえるもの(実在)は純粋経験でなければならない、そのように考えるわけです。大切な問題ですが、プロトコルについては今日はここまでとしましょう。今日は253頁2行目から253頁12行目まで読むことにします。

B

前回の最後の部分がよく分かりません。「無なる意識の場所と、之に於てある有の場所との不合一が力の場所を生ずる」とありますが、「無の意識の場所」をどう考えたらよいでしょうか。
佐野
難しいですね。まず「有の場所」とは、ここでは物(物体)ですね。後に出てくるように「物質」も含めてもいいでしょう。その立場では説明がつかない、「不合理」だ、これが「不合一」ということでしょう。物(個物)を空間によって量的に合理化しようとするのですが、どうしても合理化できない。この「空間」は単に量的な空間で、これを西田は「幾何学的空間」と呼んでいます。これじゃだめだということで、空間がすべての性質を含む空間と考える。これが西田の「物理的空間」です。これはプロトコルでも問題になりましたが、所謂物理学者の言う物理的空間ではありません。そこには色も音も匂いも味もあります。これらの性質がどのように存在しているかといえば、そこに「力」というものを考えざるを得ない、というわけです。それは「物の底に意志を入れて見る」ことだとされています。それによって「力の場所を生ずる」ことになるのです。「不合一」を感じるのは「意志の立場」以前の意識ということになるはずです。そうだとすれば「無なる意識の立場」は判断の立場としての「意識一般」と考えることができます。以前も判断の立場から意志の立場への「門口」が意識一般とされていました。以前は〈有の場所〉から〈相対的無の場所〉(空間、力ないし潜在によって満たされた場所)がどのように推移するかが述べられてはいませんでしたが、その推移に実は意識(意識一般)が関わっていたことがここで分かります。

C

「物(物体)」の基礎が「触覚筋覚」だというのはどういうことでしょうか。
佐野
これも『善の研究』にある思想(同68頁)です。遠くに有るものは小さく見えますね。Dさんの机はずいぶん小さく見えるし、ここから見ると台形のように見えます。これが視覚です。しかし実際に手を動かして触って見ると、そんなことはない。風呂桶の水に手を突っ込むと折れて見える。これが視覚ですが触って見ればそんなことはない。そこで触覚筋覚を基礎とするということです。それを基礎として、それに赤いとか甘いとか言った性質を「盛る」。こうして例えば「りんご」という「もの」の概念ができる、ということだと思います。

E

「物質の概念の成立」がよく分かりません。
佐野
確かに難しいですね。触覚筋覚を「何處までも推し進めて行く」と「最も一般的なる感覚的性質」になるとされ、これが「物質の概念」だとされていますね。この物質はどうも、水素だとか酸素だとかいう元素ではなさそうです。色や音は特殊な感覚的性質ですね。触覚によって感じられる性質も特殊です。こうした特殊を超えた「一般的なる感覚的性質」とは何でしょう。「特殊なる知覚対象」でもない、と言われている。おそらくとしか言えないのですが、西田がここで念頭に置いているのはアリストテレスの「共通感覚」のような気がします。実際それについては後に(257,7)出てきます。例えば私たちは赤と青を感覚的に区別していますが、同時に赤と甘いも区別していますね。そのためには視覚と味覚に共通した感覚がなければなりませんね。また音を聞く場合でもこれは「バイオリンの音」というように聴いているはずです。その場合にはすでに視覚的なもの(演奏の様子)も触覚的なもの(弓と弦の接触)も同時に感覚しています。また音が動いている(運動)とか止まっている(静止)とか、どれだけの音が鳴っているか(数)や長さだとか、メロディー(形)、音量(大きさ)なども同時に聴いていますね。またその音は「明るい音」だとか「乾いた音」だとか「重い音だ」などというような表現もする。つまり我々が感覚を捉える場合には、すでに触覚、視覚などのすべての感覚を一体未分として捉えていて、さらにそこには思惟も加わっているということになります。感覚と思惟も未分ということです。その中で識別が行われていることになります。西田は「判断作用の如く感覚を離れたものでない、感覚に附着して之を識別するのである」(257,9-10)というように表現しています。これらを分けるのは事後的な反省(判断作用)ということになります。この考え方は知情意の未分を説く純粋経験説によくなじみそうですね。因みにアリストテレスの分類ではこれらの議論は「受動的理性」に属するものとなります。今日はこの辺りにしておきましょう。
(第42回)
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「自由意志」の消滅

まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はTさんでした。キーワードは「叡智的実在(状態としての自由)、自由意志」でした。それについての問いは「西田は、一方で「我々は、(中略)真の無の場所に入る時、自由意志の如きものも消滅せねばならない」(250,9-10)と論じながら、他方で「真の無の場所に於てのみ、自由(状態としての自由:T記)を見ることができる。(中略)絶対的無の場所に於て真の自由を見ることができる」(232,3-5)と論じる。ここでの、状態としての自由と自由意志、真の無の場所と絶対的無の場所との関係性とその意義を問いたい」でした。(例によって佐野の記憶に基づき、佐野の言いたいことが前面に出るようにアレンジしてあります。)
佐野
「真の無の場所」と「絶対的無の場所」の関係はいつも一致するとは限りませんが、232頁では同義に用いられていると見てよさそうです。また「状態としての自由」と「自由意志」との関係ですが、「状態としての自由」が「真の無の場所」ないし「絶対的無の場所」に於てあるもの、それが対立的無の場所に映されたものが「作用」としての「自由意志」ということは押さえておきましょう。その上で一方(250頁)では「自由意志」は消滅する、と書かれ、他方(232頁)では見ることができる、と反対のことが書かれてあるように見える、ここが問題だということですね。これはどう考えましょう?

A

「真の無の場所」に入った時に消滅するのは作用としての自由意志で、そうして「真の無の場所」に於てあるのが状態としての自由意志だと思います。
佐野
そう読めますね。それではそれはどんな「意義」を持っているのでしょう?

A

前回、剣道の例が上がっていましたが、「自由でなければ」というように自由を意識したらそれはもう作用としての自由意志です。
佐野
なるほど、それでは「状態としての自由」とは?

B

240頁に「フィヒテの事行」も「真の無の場所に於ける自由意志」ではない、何故ならそれは方向が定まっているから、とあります。それに対し「真に」は「すべての作用の潜在的方向を超越して、而も之を内に包む」ものだとされています。
佐野
一定の方向が定まっていないと。そこから「意志の自由」は「行為の自由」(250,7)となるわけですが、もしそんなことができれば、剣道の場合、相手はさぞ困るでしょうね。一定の方向に狙いを定めて打ってくれば、定めた(意識した)段階で、相手はそれを察知して打ちを防ぐことができますが、そうでなければ大変苦しいことになる。古来それは「無心」の技と言われて来ました。そのあたりぜひお伺いしたい。

C

いくつか思いつくことがあります。一つは坂本龍馬と桂小五郎の立ち合い。桂は剣の達人ですが、それに対して竜馬は無防備に向かって行って勝ってしまった。薩長を一つにするには、こういう目的だの方向だのを捨てた人物が必要だった。今のロシアとウクライナの問題でもそういう人物が必要なのではないか。もう一つは「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉や小林秀雄の言葉なんかも浮かんできますね。いずれも「ねばならない」を捨てた所ですでに達成されているんです。
佐野
なるほど。迷いが晴れた所で気が付いた時にはすでに行為に出ている、ということですね。プロトコルはこの辺りまでとしておきましょう。今日は「四」の第2段落冒頭、251頁7行目から253頁2行目まで講読します。ここでは「有の場所」である「物体」からどのようにして「力の場」が成立するかが述べられていますね。物的実体(基体)は感覚的な性質(色や音など)に対しては超越的ですが、それをどこまでも空間に内在的として合理化しようとするところに力の場が成立します。

D

「空間そのものが性質的なものとならねばならない」(252,6)というのがよく分かりません。
佐野
もともと「空間」というのが「物の一般的性質」とされていました。そうすると色や音などは物の特殊な性質ということになります。もしこの一般的性質としての空間が「空虚なる空間」として、単に量的にのみ扱われるならば、感覚的なもの(色や音など:特殊な性質)は非合理的なものになる、西田はそのように考えます。確かに赤を波長で量化して定義することはできますが、そのように量的に表現されたものが何故感覚的に赤として我々に現れるのかは説明が付きません。その意味では空虚な空間(幾何学的空間)にとっては感覚的な(特殊な)性質は非合理的なものとなります。「空間そのものが性質的なものとなる」とは「色もなき音もなき空間がすべてを含む一般者」となる、ということです。これは物理学者の考える「物理的空間」とは異なっています(以前にも西田は「力の於てある場所」は「物理学者の所謂力の場」ではなく、「超越的意識の野」でなければならない、と言っていました(241,8-10))。そうして「色や音は空間の変化より生ずると考えられる」のです。この変化を引き起こすもの、それが「力」です。空間はすべてを潜在的に、implicitに含んでいます。それを現実化(発現)させるのが力です。その意味で「空間は力を以て満たされ」ているのです。力とはこの場所に於てあるものを「内面的に包摂しようとする過程に於て現れ来る一形相」ということになります。Implicitであったものを発現しつつ、これを包摂して、統一にもたらすのが力だということです。ここでは力を運動に即してその可能的潜在的な在り方と発現とに分けて考えています。

E

それが「判断や意志と同一の意義を有って居る」というのが分かりません。
佐野
判断は主語述語によって表現されますが、そうした表現以前には力同様にimplicitな状態にあります。我々は必ずしも言いたいことをはじめからはっきりと意識しているわけではないのです。それが主語から述語に至ってが表現し尽くされて、初めて自分が何が言いたかったかが分かるのです。意志の場合もそうですね。初めはなんだかよく分からない衝動しかない。それを言葉にして行動に移すわけです。水が飲みたければそれを目的にして目的手段の系列が成立し、それが実現して、目的が達成されれば、初めて自分がしたかったことの何かが分かる、というわけです。判断と意志の構造は力と同じですね。そういうわけで西田は「力の概念は意志の対象化によって生ずる」と言います。例えば、自然現象の原因を神の意志に求めれば、現代の自然科学はそれを一笑に付すでしょうが、そもそも力の概念とは我々の意志の投影だというのです。これは『善の研究』以来の考え方です。今日はこのくらいにしておきましょう。
(第41回)
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直観が直観自身を限定する

まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はOさんでした。キーワードは「真の無の立場の極限」(249,14)」でした。それについての問いは「西田は、より深いところに向かっているように思える。それでは、その反対の方向に進む道はあるのだろうか」でした。(例によって佐野の記憶に基づき、佐野の言いたいことが前面に出るようにアレンジしてあります。佐野がずいぶん偉そうにしゃべっていますが、ご容赦ください。)
佐野
問いを仕上げましょう。西田は「直覚が直覚自身を充実し行く」とか「場所が場所自身を限定し行く」などと言い、それによって「自然界」や「意志の世界」が構成されると考えています。構成と言っても主観的な構成ではなく、今日読むところに出てきますが「色が色自身を見ることが色自身の発展であり、自然が自然自身を見ることが自然の発展」であるというように見ることが。直観が直観自身を限定するということです。「反対の方向に進む」というのはそういうことですか?

O

有の場所から対立的無の場所へ、それから真の無の場所へ、というように西田の立場は深まっていきます。まずそれが究極のところに至るというのがイメージできませんし、ましてそこから対立的無の場所や有の場所に戻るということもイメージできません。

A

そもそもそんな究極の立場に人間が至るというのが分かりません。

B

でもどんな時でもそういう究極のところに私たちは触れていると思います。

C

というより、どんな時でも私たちは純粋経験の中にあるんじゃないですか?
佐野
西田も純粋経験の範囲以外に出ることはできないと言っていますね。

D

だから究極のところに行きついたら戻る必要はないと思います。
佐野
すべてが直観の立場での場所の自己限定ということになれば、そこから反省や判断の立場がどのように生ずるかは難しいですね。直観の立場に立つということ自体がすでに反省であり、判断であるような気もしますが、今日はこのくらいにしておきましょう。今日は「三」の終わりに書かれているコメントを含め251頁6行目まで読みたいと思います。

E

ちょっと待ってください。前回やったところの「前者は判断の矛盾の超越であり、後者は意志の矛盾の超越である」というところがどうもよく分かりません。
佐野
前者とは判断から意志への超越、後者とは意志から直観への超越ですね。その超越のところに矛盾の超越があるということです。

E

判断の矛盾というのは「円い四角形」のようなものですよね?
佐野
ええ。もう少し一般化すると、判断(知識)は矛盾律に従って無矛盾でなければなりません。しかしそうであれば我々は矛盾ということをどこかで知っているわけです。これが意志の世界ということになる。円い四角形もそうですが、有がそのまま無であり、無がそのまま有であるとか、特殊がそのまま一般であり、一般がそのまま特殊であるとか言うのも矛盾ですね。そういうことが成り立つのが意志の世界です。

E

そうして意志から直観に到るところにも意志の矛盾があって、これが道徳的な矛盾であると。
佐野
ええ。道徳は善を目的にしますが、そのように目的にすることでかえって善をどこまで行っても実現不可能なものにしてしまいます。これが道徳が抱える矛盾だと考えられます。

E

結局どうも「超越」ということがピンと来ないようです。
佐野
反省とか判断は世界でもなんでも対象に回して、これを矛盾なく説明しようとします。西田は円い四角形のような矛盾で反省が躓くように書いていますが、反省の本当の問題はすべてを対象化して説明していても、そうしている自分自身が問われていないということです。しかし反省の立場に立っている以上、そのことには気づくことはできません。そのことに気づくためには何らかの、それこそ「気づき」が必要で、ここに超越があります。『善の研究』のもととなる講義が行われた前年度に『倫理学草案第二』というのがあります。ここで「見者の立場」と「作者の立場」というのが出てきます。「見者の立場」とはまさに反省の立場です。それに対し、世界は対象化してみるのではなく、世界とはその中で自分が生まれ、生き、死んでいくところのものである、そのような立場に立つのが「作者の立場」です。さらにその前年度の『倫理学草案第一』では「見者の立場」がとられていましたから、おそらく何らかの気づき(超越)を西田は経験したに違いありません。その結果「倫理学」の捉え方も随分変わってきている。しかし「作者の立場」に立てばすべて解決かというと、そうではなくて、善を実現しようとするから、どうしても道徳的な矛盾を最後まで抱えることになる。自分の力で何とかしようと頑張る。しかしどこまで行っても実現できない自分を見出すだけだ。どうにもならない。そこに自分が有限であることを受け入れることで無限の生の内にあることに目覚める。これが宗教ですが、ここにも超越がある。「超越」とは要するに、こちらからの道がないところで飛躍が起こるということです。こうした宗教的な直覚を含みうる哲学的な根本経験があったから、次の年度の講義、つまり『善の研究』のもととなる講義が可能になったと私は考えています。「超越」はとても難しく、簡単にわかった気になってはいけないものですから、これからも考えていきたいと思います。それでは今日のところに進みましょう。

D

コメントには純粋性質と呼んだ理由のようなものが言い訳みたいに書かれていますが、この純粋性質は純粋経験というように理解していいですか?
佐野
いいと思いますが、それをどう理解するかですね。反省(思い)が破れて何かに出会う、あるいは驚く。まさに色を見、音を聞く刹那です。思いが破られているからそこに真の無の場所が開けている。そこに「於てあるもの」は「意識現象」ですが、それがここでは「純粋性質」と呼ばれている。そうした純粋性質の「純なる作用」に成り切っているのだけれども、そこに見るということが成立している。その場合見ると言っても成り切っているのだから、見るものと言えば「自己自身」しかない。このように「見ることが働くことでもあるもの」、それを「純粋性質」と呼んだ、ということです。それがここではさらに「最も直接なる存在」とも名付けられています。純粋性質にしても純粋経験にしても、そういう体験の出来事を何とかして言葉にしようとする試みと言えると思います。「四」に入りましょう。冒頭「上に述べた所に於て、叡智的実在と自由意志の差別及び関係の問題に触れた」とありますが、それはどこですか?

E

229頁の終わりから230頁初めにかけての部分です。「状態としての自由」と「作用としての自由意志」を分けています。そうしてそれは「対立的無の立場に映された」ものだとされています。
佐野
なるほど。今読んでいる250頁には続いて「自由を状態とする叡智的実在」とありますから、「叡智的実在と自由意志との差別と関係」はそういうことでしょうね。私たちは自由意志を意識するといつでも対立的無の立場に落ちてしまう。状態としての自由は意識しようとして意識できないということですね。私も剣道をやるのですが、自由でなければならん、などと意識したら、これほど不自由なことはない。

B

このあたり「真の無の空間に描かれた一点一画も生きた実在」とか「感覚の奥に閃く」とか「感ずる理性」とか、感覚的な表現が多いですね。
佐野
そうですね。叡智的実在と言えばすぐにカントの人格を思い浮かべるわけですが、これは全然感覚的じゃない。西田はこうしたカントの叡智的実在の在り方に反対しているのでしょうね。魅力的な表現になっていると思います。今日はここまでとします。
(第40回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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