矛盾的統一の対象界
- 2022年7月23日
- 読書会だより
まずプロトコルの内容を紹介しましょう。今回の担当者はOさんでした。キーワードは「知覚」【限定せられた場所、有の場所、限定せられた性質の一般概念の中、相異・相反の世界】、「力の世界」【無の場所、矛盾の世界】、「転回点」【限定せられた一般概念をやぶること、相反の世界から矛盾の世界に出ること】とでした。【 】内はOさんが解説として追加したものです。またキーセンテンスは「力の世界を見るには、かかる限定せられた一般概念を破って、その外に出なければならぬ、相反の世界から矛盾の世界に出なければならぬ」(254,1-2)でした。疑問ないし考えたことは「有の場所から無の場所に出る転回点について、「相異なる者、相反する者」で世界を構成している私がそれらを失えば、何も見ることができないのではないか。有から無に転じた私は世界で何を認識するのか。有の場所の外に出たばかりの私と矛盾の世界を見る私の間には、未だ距離があるのではないか」でした。
我々は「矛盾の世界」とか「真の無の世界」などと何度も聞いている内にそんなものが見えるような気になっている、そこを問いたいと。有の場所から無の場所に転じた瞬間は何も見えないのではないか。と。
「有の場所」と「無の場所」。一方で排他的で、他方で「無の場所」が「有の場所」の根柢のように言われています。「転回」と言うと一瞬でひっくり返る感じがするけれど、そのあたりがよく分からないのです。
「転回点」と言えば以前も「意識一般」が「対立的無の場所」から「真の無の場所」に到る「門口」とされていました。「門口」では両方見えるんですが、「真の無の場所」は分別的意識では見えない、直観で見るのだと思います。250頁13-14行目に「真の無の空間に於て描かれたる一点一画も生きた実在である」という表現があります。他方でこれが「実在」だ、とか実在を「見た」と言えば胡散臭くもあります。
「有の場所」は矛盾がない。そこから「無の場所」に到るには否定がないといけない。だけど、否定などできないように思うんです。
自分ではできないと思います。
そういうことだろうと思うのですが、即非の論理とか、不思議な気持ちになるには便利な言葉だと思うんです。実はずっと同じものしか見ていないんじゃないか。
なるほど。世界は何も変わっていない、と。プロトコルはこのくらいにしておきましょう。この問いに対する西田の考えが本日講読する箇所で少し見えてくるかもしれません。本日は254頁6行目から253頁1行目まで読みます。
ちょっと待ってください。前回講読分の最後に「矛盾的統一の対象界」というのが出てきて「数学的真理の如きもの」がそうだとされました。その場合「矛盾的統一」というのが「5は数である」というような「特殊=一般」のことだとされましたが、これが分かりません。〈特殊は一般である〉というのは判断ですが、これのどこが矛盾なんですか?
私もよく分かりません。
そうですか。192頁に戻って読んで見ましょう。ここでは「数理の世界」がまず「矛盾律」によって組織される、とされています。矛盾律自体は矛盾ではないですね。Aが同時に非Aでない、というのですから。しかし西田はその「根柢」を問題にする。そこに「矛盾の統一」を見る。そうして「数理の世界」の場合にはさらに「類概念」がなければならぬ、としています。例えば自然数という一般概念がそれにあたります。これに対し「所謂経験的一般概念」の場合は「一般と特殊との間に間隙がある、一般より最後の種差に達することはできぬ、一般化の原理と特殊化の原理が合一することができない」(193,1-2)とされています。例えば〈赤一般〉は〈この赤〉に達することができない、ということです。そうだとすると「数理の世界」の場合は、それができていた、ということになります。つまり「一般=特殊」ということですが、これが「矛盾の統一」の意味することです。一般化と特殊化は逆の方向を持っていますね。それが等しいとされている、そこに矛盾を見るわけです。ところが「経験的一般概念」の場合は一般化の原理と特殊化の原理が一つにならない。〈赤一般〉が〈この赤〉に届かない。そこで〈特殊化の原理〉を担うものとして「物」(「超越的にして普遍なる基体」)を考える、というわけです。〈赤一般〉が〈この赤〉になるのはそれが「物」(個物)においてあるからだと。これが第二段階。第三段階はこの「基体」(物)がなくなって、再び「一般=特殊」となる段階です。そこでは「一般的なるものは特殊的なるものを成立せしめる場所」とされています。この記述があるのは前論文「働くもの」ですからまだ「真の無の場所」という言葉は出てきません。ですが第三段階で念頭に置かれているものはそうしたものでしょう。目下の講読箇所でもこの三段階が念頭に置かれながら、ここではむしろ物や物質といった「有の場所」が「無の場所」と一つだ、ということが言われようとしています。
私は「数学的真理」の根底にある「直覚」と「所謂感覚的直覚」を「何人も同じとは考えない」ということが分かりません。「所謂感覚的直覚」って何ですか?
例えば赤がそうでしょう?
赤そのものも感覚的には直覚できませんよね。
その場合でも「この赤」を通じてでしか赤そのものの直観はできませんね。「この赤」は感覚的なものです。これに対し5は目に見えるものではないし、「この5」ということもない、あくまで概念です。普通誰もこの感覚的な[経験的]直観と、数学におけるような[純粋]直観を同じとは考えない、そういうことを言おうとしていると思います(なお「経験的直観」と「純粋直観」の区別はカントによるものです)。しかし西田は「すべての判断の根柢には一般的なるものがあるとするならば、色や音についての判断も一般者の直覚に基いて成立する」ことを言おうとします。上に挙げた以前の論文の箇所では数理的な判断の場合は〈5=自然数〉というような形で〈特殊=一般〉が成立していたけれども「所謂経験的一般概念」の場合は「物」の概念を入れないと特殊と一般は結合できませんでした。つまり物(物質)の場合には、〈特殊=一般〉は物(物質)を特殊化の原理とすることで初めて成立することになります。しかしそこには第三段階があって、そこでは「物(基体)」が消失し、再び〈特殊=一般〉が「一般者」が「場所」となることで成立するとされていました。しかしどうしてそう言えるのかの説明は不十分と言わざるを得ません。それがここで問題になっていると考えられます。
次に「感覚的なるものの知識の根柢に於ける一般者と、所謂先験的真理に於ける一般者とは如何に異なるか」とありますが、「先験的真理」とは何ですか?
「先験的」とは原語はtranszendentalで最近は「超越論的」と訳されます。経験(ここでは判断)を可能とする制約(条件)に関するものです。その意味では「経験」に先立っていますから「先験的」とも訳されるのです。前の文章で「判断の根柢には一般的なるものがある」とされていましたが、これが「先験的真理」です。これは経験に先立っていますから数学におけるような純粋直観と同列に置かれています。ところで「先験的真理」の具体的な表現は今講読中の文章ではどれに当たりますか?
ちょっとわかりません。
「斯くなければならぬ、然らざれば知識は成立せない」がそれです。まさに知識(判断)の成立条件ですね。今は「感覚的なるものの知識における一般者」とこの「先験的真理に於ける一般者」の違いが問題になっています。この「一般者」を明らかにするにはこの「一般者」の外に出てこれを見なければならない、そのように西田は言います。次に「矛盾的関係に於て立つ真理を見るには、我々は所謂一般概念の外に出て之を見るということがなければならない」とありますね。「之」とは何ですか。
「真理」?それとも「一般概念」?
次に「所謂一般的なるものが見られ得るということが、先験的知識の成立する所以」とありますね。ですからさしあたり「之」は「一般概念(一般的なるもの)」です。ですがそれを見ることによって「先験的知識」が成立するのですから、結果的には「矛盾的関係に於て立つ真理」でもよいことになります。我々は数学においても様々な判断を、例えば自然数なら自然数という「一般概念」に基づいて行っていますが、その「一般概念」が何であるかを知るためにはその外に出てこれを見なければなりせん。そうするとそこには例えば〈5は数である〉というような〈特殊=一般〉といった「矛盾的関係」が見えてくる。同じことは感覚的なものを論ずる場合でも言えます。感覚的なものにも一般者はあります。赤一般とか、色一般もそうです。それが何であるかを見るためにはそうした一般者を出なければならない。そうするとそこにも「これ(この赤)は赤である」という〈特殊=一般〉という「矛盾的関係」が見えてくる。さらに「先験的真理」の場合も同じです。我々が判断する場合に、判断の一般者に基いて判断を行っていますが、そこには〈主語は述語である〉という形式、つまり〈特殊=一般〉という「矛盾的関係」があります。それが一般的なるものを出ることによって見えてくる。それを西田は「有の場所其者を無の場所と見るのである、有其者を直に無と見る」と言い換えています。さらに「斯くして我々はこれまで有であった場所の内に無の内容を盛ることができる」と言っています。ここでも「盛る」という言葉が使われていますね。判断内部での超越として「触覚筋覚」を主語として限定して、そこに他の感覚を「盛る」というように以前(254,15)言われていましたが、ここでは感覚のみならず、判断の一般概念、さらにはそのことを通じて無そのものをも「盛る」ことになります。ここまでくると我々には最初からすべてが与えられていたことが分かります。その意味ではOさんがおっしゃったように世界は何も変わっていない。ですが我々が分別によって見方を限定してしまっているとも言えます。こうした限定を取っ払えば「相異の関係に於てあったものの中に矛盾の関係を見ることができる、性質的なるものの中に働くものを見ることができる」ことになります。この「働くもの」が「力」の世界です。
具体的にどういうことですか?
「相異の関係」とありますが、「相反」の場合はもちろん、ということでしょうね。例えば木の葉が緑から赤(緑ならざるもの)に変化しても、木の葉という「物」と「時」の概念を入れることで矛盾なく説明できると先には考えましたが、そこにはすでに矛盾がある、ということです。例えば緑から赤に変わる「瞬間」はどうでしょう?そこは緑でもなく赤でもなく、緑でも赤でもある。これは矛盾としか言いようがない。「相異」の場合はどうでしょうか。この塩は白く、辛い。ここにも西田は矛盾を見ます。
それは矛盾ではないと思います。白は視覚によるもの、辛さは味覚によるものです。
そこなんですが、西田は感覚を全体として考えています。感覚の原因として対象と感覚器官を分け、さらに感覚器官を五感に分けるのはすでに思惟の作用の結果だと考えるのです。「共通感覚」や「物質」の所でも扱いました。そうすると白くて辛いは白くて同時に白でない、ということになり、矛盾になるのです。
ちょっと待ってください。先程の矛盾は〈特殊=一般〉ということだったと思います。ここでは特殊同士の関係になっていませんか。矛盾的関係とはどういうことですか?
確かにそうですね。矛盾は特殊とそれに対立する特殊の間にも、特殊と一般の間にもあることになりますね。生と死、有と無など相対立するものが同時に成立する事態を西田は矛盾と言っているようですから、ある特殊とそれに対立する特殊、特殊と一般が同時に成り立てば矛盾ということになるのではないでしょうか。
その場合相異が相反になり、さらに矛盾になる、ということですか?
そうですね。今日はここまでとしましょう。すごい集中力でしたね。疲れたでしょう?
(第44回)