時と物理現象との関係
- 2026年3月7日
- 読書会だより
岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「三」の第7段落を読了しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「時の連続の要素たる現在はいつでも否定的である、之を現在として肯定した時、既にそれは過去でなければならない、此故に時は流れるものと考へられるのである。」(345, 14-346, 1)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「西田によれば「現在はいつでも否定的である」。現在は、「今」あるいは「これ」と意識されたときには、常に取り逃がされている。私がどれほど「これ」をつかんだと思っても、それは意識された現在であり、既にそれは過去になっている。このことを理由に、西田は「時は流れるものと考えられる」と言う。たしかに、時は流れるものと言えそうである。だが、このように言うとき、西田は、時自体を対象化しているように、すなわち、流れる時の外にいるように思われる。このように言う者は、時においてどのようにしてあるのだろうか」(245字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
「このように言う者」は「流れる時の外」にある、とありますね。答えは出ていませんか?
W
それが同時に「時において」ある、ということを問題にしたいと思います。
まさに矛盾的存在ですね。
T
時は見えないもので、これを捉えることはできないと思います。「流れる」というのも比喩で、こうした比喩でしか語れないのが時だと思います。記憶をなくした者にはそうした「流れ」は分からないでしょう。記憶と記憶を結びつけて時が流れている、というように譬えるのだと思います。記憶自体は時の外です。超新星爆発が観察されても、それははるか昔の出来事です。この場合は長い時間のスパンがありますが、同じことは目の前のものを見ている場合にも言えると思います。目の前の出来事はすでに一瞬前の過去の記憶です。こう考えると、私たちの記憶だけでなく、あらゆる知識が時の外にある、と言えると思います。
Y
時は「形式的な時」で、その根本に「内容ある時」つまり「変ずるもの」があり、これは直観によって捉えられるというのが、西田の主張だと思います。
つまり、我々は時の根源を直観において生きていると。
N
「反省の極致」という表現に注意すべきだと思います。そこにおいて我々は真の時間をつかむことができるのだと思います。
「極致」と言う以上、それはもはやたんに反省とは言えないのでは?
N
それでもあくまで「反省の極致」ですから、反省を捨ててはならない。
Y
Wさんにお伺いしたいのですが、リトマス紙が変わった瞬間は現在ですか、それとも過去ですか?
W
「真に変ずるもの」を考えてはいけない。自分が変ずるものにならないといけない、ということだと思います。反省ではない、ということを明らかにするために西田がやっているような、こうした哲学は有効だと思いますが、その哲学自体が反省になっている。そういう意味で「このように言う者」を問題にしたかったのです。私としては反省とは手を切りたい。反省とは異なる仕方での哲学を考えたい。
N
いや、哲学はたんなる直観ではいけない。かといって答えを出して、それが分からない者を見下すような反省でもいけない。どこまでも反省を徹底する。そこでの極致。
人間はどこかに自分本来の居場所(立場)を定めたいという思いを決して手放さない存在だと思いますが、それを許さない働きがありそうです。と言ってもすでにこれが立場になっています。しかしこうしたどうしようもなさがあるからこそ、それをすっと抜けるような出来事も起こりうる。こうした事柄のすべてに「言葉」というものが関わっているように思われます。今回のテーマである「時」に即して言えば、我々は「言葉」によって「時」の外に立つことになりますが、こうしたどうしようもない言葉のぶ厚い壁があるからこそ、それをすっと抜けて「時」そのものの内(言葉の内実・意味)に開かれる、という出来事(そのうちでは言語活動を始めとする行為はできるが、それに「ついて」語ることはできない)も起こりうる、私はどうもそのあたりに関心があるようです。今回のプロトコルはこのあたりにして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。
A
読む(346頁5行目~7行目)
「今「一」に於て問題とした所に還って見よう」とありますが、「一」のどのあたりに還ったのか、次を読んでもすぐにはピンときません。もう少し読み進める外はありませんね。ということで、Bさん、お願いします。
B
読む(346頁8行目~347頁4行目)
「物理現象は如何なる意味に於て時に於てあると云い得るであろうか」とあります。「一」に「物理現象の如きもののみ時に於てあると云うことができる」(325頁6行目~7行目)とありますので、ここを受けたものとも考えられますが、そもそも「一」で問題になったのは「時に於て現れるものが如何にして時を超越する意味を含むことができるか」だったはずですので、これで「「一」に於て問題とした所」に還ったとは言えません。せいぜいその下準備といったところです。やはりもう少し先を読んで見ないと分からないようです。さて「物理現象は如何なる意味に於て時に於てあると云い得るか」の問いですが、結論を先取りすれば、「変ずるもの(内容ある時)」が部分的に限定せられた時に一種の連続として現れるが、これが物理現象で、こうした物理現象が時に於てある、ということになります。変ずるものは直覚的なるもので、これは時に於てあるとは言えませんが、これを「部分的に」、つまり後に出て来る言葉で言えば「感覚的性質一般」という「一般概念」で限定しようとすると、例えば赤が途端に赤でないものになっている、というように「一種の連続」が現れるけれども、これが「物理現象」だというのです。次いで「時と物理現象との関係は如何なるものであろうか」とありますが、これも先取りして言えば、「物理現象が時に於てある」ということになります。先取りはこの位にして、実際に見て行きましょう。「時に於て現れるもの」、すなわち「時の関係項となるもの」、これは「現在」とかその「前後」、これをさらにt1,t2,…と言ってもいいと思いますが、これを「主語」として「之について赤であるとか青であるとか云うならば、かかる判断を成立せしめる一般者は如何なるものであろうか」と西田は問います。これにたいして「色一般」と答えるなら、その限定としての「この色(例えばこの赤)」が主語となりますが、これだけでは「時」とは何の関係もない、ということになります。そうしてさらに「我々が時に於てあるもの(t1,t2,…)に就いて性質的述語(赤、青…)を加える時、かかる意味に於て主語となるものはもはや時の一般者(主客対立における超越的述語面、意識面)に於てある(t1,t2,…;積極的に限定できない現在)のではなく、却って〔積極的に限定できる、〕時を包む一般者(具体的一般者)に於てあるのである、即ち既に変ずるものであるのである、内容を有ったときであるのである」と述べられます。〈今は赤である〉と言えるには、この「今」が色一般に於てあるのでもなければ、「時の一般者」に於てあるのでもない、具体的一般者に於てあるのでなければならない、「今」とは「変ずるもの」でなければならない、ということです。ここまでわからないところはありませんか?
A
大丈夫です。
次いで「形式的なる時(時の一般者)に於てあるものに就いては、単に現在とか前後とか云い得るのみである。唯、『積極的に限定することのできない具体的一般者』に於てあるもの(変ずるもの)が部分的に限定せられた時、一種の連続として時に於てあると考えられるのである、物理現象とはかかる意味に於ての連続に外ならない」とこの段落での結論が述べられます。これについてはすでに先取りして申し上げました。次をBさん、お願いします。
B
読む(347頁5行目~13行目)
「前にも云った如く」とは345頁3~5行目のことですね。「具体的一般者の根柢となる一般的なるもの」とは、この具体的一般者にさらに根柢があるわけではなく、具体的一般者の述語面における根柢であり、こうなった時には主語面と述語面とが分かれる、ということは前にも申し上げました。この「一般的なるもの」は意識面のことですが、これは「積極的に限定することができない」、これ以上の述語づけを許さない、つまり「述語となって主語とならない」、そうした「述語面」です。これに対し主語面は「無限に深い主語となって述語とならない直覚的なるもの」となります。この「直覚的なるもの」は具体的一般者においては知的に直観されるものですが、このように主客(述語面と主語面)が対立する場合(「所謂思惟の立場」)においては、感性的直観となって積極的に限定できないものになります。これに対し述語面は単なる形式(時の場合には時の一般者、形式的時)となります。これはそれ以上の述語づけを許さない、その意味で「何處までも限定すべからざるもの」で、ここではそれが「無の場所」と呼ばれています。
B
これは絶対無と同じものですか?
いえ。これは主客の対立を前提としていますので、絶対無とか真の無の場所ではなく、対立的無の場所、ということになると思います。次へ参りましょう。「その限定」とは無の場所の限定、ということですね。そういうものとして「之」、つまり無の場所「に於てあるもの」は「所謂抽象的概念」、一般概念にすぎない、これが先の「部分的限定」ということです。次の括弧の部分は後からの加筆部分でしょうね。「限定することのできない超越的述語面(意識面)が如何にして限定し得るか」という問いを立てていますが、これに対しては「推論式的一般者」の「大語面的限定」がそれだと答えています。後に「推論的一般者」が出て来た時に考えればよいのですが、少しだけ触れておくなら、推論式には大語、小語、媒語があり、例えば「人間は死ぬ。ソクラテスは人間である。ゆえにソクラテスは死ぬ」では、「人間」が大語、「ソクラテス」が小語、「死すべきもの」が媒語です。大語面的限定とは、大語面、つまり一般者から限定するということで、これに対し「小語面的限定」とは小語、つまり特殊から限定するということです。物理現象として限定するのは「大語面的限定で、意志による限定として考えれば「小語的限定」ということになります。これは『善の研究』で「理論的研究」と「実践的研究(価値的研究)」と呼ばれたものの区別を引き継いだものと考えられます。この区別は「例えば一銅像の材料たる銅は機械的必然性の支配の外に出でぬであろうが、この銅像の現わす意味はこの外に存するではないか」(岩波文庫改版151頁)と言われる時の区別に相当します。以上はこの箇所を読むための暫定的な補足にすぎません。とは言えこの説明で「限定することのできない超越論的述語面が如何にして限定し得るのか」が分かったことにはならないでしょう。限定に二方面がある、と言ったにすぎないからです。「限定できないものが如何にして限定し得るのか」、この問いには答えていないからです。それはともかく、ここまでで何か分からないところはありますか?とりあえず意味が通らないという意味で。
B
根本的なところ、奥深いところで分からないことが起っているような気がしますが、先を進めてください。
はい。「唯、此の如き『場所の限定せられたもの』」、「一般概念(抽象定概念)」ですね。これが、「超越的述語面(意識面)」の「部分的限定」として、「主語的なるものを含むと考えられるかぎり、「非合理的なるものの連続」を見ることができる、そう述べられます。
B
「非合理的なるもの」とは何ですか?
直接的には「直覚的なるもの」を受けたと考えられますが、すでに一般概念によって限定されていますので、たんに「非合理的」とは言えないと思います。ただ、例えば変ずるもの(知的に直覚されたもの)を対象とすることによって、どこまでも限定できない感性的直観となりますが、これを色一般によって限定しようとすると、赤が直ちに赤ではなくなってしまう、こうした事態を「非合理的」と言っているのだと思います。
B
ありがとうございます。
では次をCさん、お願いします。
C
読む(347頁13行目~348頁10行目)
これまでは主語と述語が分れていましたが、ここからは両者が関係する判断の話になります。まず「主語となって述語とならない」、「個物」ですね。こうした「超越的なるもの」が「述語面に含まれる」、つまり「述語される」「判断になる」ということです。その場合、「一般的なるもの」の意味が「抽象的一般」から「具体的一般」となる、とされます。このことを「抽象的一般」の立場から見れば、「特殊なるものが一般となる」、と述べられます。ちょっと分かりにくいですが、西田は、判断に包摂判断と物の判断を区別します。包摂判断の場合には、「犬は動物である」のように、一般(動物)が特殊(犬)を包摂します。これに対し物の判断の場合には、「この塩は白くて、辛くて、(結晶が)立方体である」のように、特殊(この塩)が一般(白い、辛い、立方体である)を包みます。その意味では「特殊なるものが一般になる」、「前者が後者を含む」ということになります。白くもあり、辛くもあり、立方体でもある、という意味で「一般」だというのです。このことを西田は「性質赤」と「赤きもの」の区別として説明しています。「このリンゴ」は「赤い」と言う場合、この「赤い」は「性質赤」です。これに対し、「このリンゴ」を「赤いもの」と呼ぶならば、この「赤いもの」は個物(「唯一のもの」)です。そうしてこの個物は「物」として色だけでなく、様々な性質をもちます。こうして「物は種々なる性質の統一として、此等の性質に対して一般的と考えることができ、特殊なるものが一般的となると云うことができる、特殊にして抽象的一般を含むと云うことができる」ことになります。
C
次の「無論此の如き物は抽象的一般の外にあるが故に、抽象的一般としては限定することのできないものである」というのがよく分かりません。「赤きもの」がどうして「性質赤」の外にある、ということになるのですか?
西田は分かりやすさのために「赤きもの」「性質赤」から出発して、様々な性質をもった物というように話しを進めていますが、初めから念頭にあるのは、無限の述語可能性をもった、それゆえに積極的に限定できない「物」です。これはカントの「物自体」に相当しますが、西田はこうした「物自体」を「感性的直観」に重ねて考えるところがあるようです。こうした「物」に主観が「一般概念」を当てはめて、「このリンゴは赤い」のように判断するわけです。
C
その判断は主観的なものになるのですか?
主客が分かれていますので「主観的」、そうして一面的ですので「抽象的」となります。そのことは342頁14行目~343頁2行目に述べられていました。しかしこの「主観的」というのは所謂「主観的」、つまり「個人的」という意味に限定されるものではありません。カントの「客観的」というのは主観的な構成によるものですが、一般性と必然性をもつもののことです。これをも含めて西田は「主観的」と呼んでいることになります。今日はここまでとしましょう。
(第112回)

