意識せられたもの、意識するもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 268頁3行目「有の場所が」から268頁8行目「私の所謂真の無の場所である」までを講読しました。今回のプロトコルはMさんのご担当です。キーセンテンスは「最初の単なる有はすべてを含む場所でなければならぬ」(269,5)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「最初の単なる有」とは西田にとっては最も大切な充実した「有」つまり純粋経験であったと思います。ヘーゲルの「絶対者」もそれに近い物だと私は理解しました。決定的に違うと西田が主張するのは「それが於てある場所」を考えたかどうか。私が分からないのは、確信の純粋経験から明白の純粋経験に至るために「場所に於てある」ということがどうして必要であったか。「場所に於てある」ということがどのような事態であるのかということです」(204字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
問いの核心部分だけを問題にしましょう。そうするとヘーゲルは「於てある場所」を問題にしなかったが、どうして西田はそれが必要であると考えたのか、また「場所に於てある」とはどのような事態であるのか、ということになりますね。たしかに西田の言うように、ヘーゲルは「於てある場所」と取り立てて問題にしているとは思えません。しかしヘーゲルの絶対者は主体(主観)でも実体(客観)でもなければ、主体でも実体でもあるというようなもので(「真なるものを、実体として把握し表現するのでなく、同様に主体(主観)として把握し表現すること」das Wahre nicht als Substanz, sondern ebensosehr als Subjekt aufzufassen und auszudrücken(『精神の現象学』「序文」第17段落の奇妙な句はそのように解釈すべきだと思います)、その意味では、西田が解釈するように、ヘーゲルの絶対者は主語の側に立つ実体とは言えません。それは主語でもなく、述語でもなく、主語でもあれば、述語でもない、そうしたものだと考えられます。西田は主語と述語を分けたうえで、こうしたヘーゲルの絶対者を主語(実体)の側に押しやり、自分は述語の側を押し詰めて「真の無の場所」を考えた、とも考えられます。こうしたやり方は不当なのか?それともこうしたことを踏まえた上でも述語の側に「於てある場所」を考えることは必要なのか?またそれはどのような事態なのか?そのようにMさんの問いを捉えてみたいと思います。このプロトコルは本日の講読箇所に深くかかわっていますので、まずその箇所を読んで見ましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(269頁8行目~12行目)
佐野
指示語が多いので確認しておきましょう。「前者」と「後者」はそれぞれ何ですか?

A

「前者」は「自己同一なるもの」あるいは「自己自身の中に無限に矛盾的発展を含むもの」で、「後者」は「私の所謂真の無の場所」だと思います。
佐野
そうですね。そうすると先程申し上げたことがはっきりしましたね。「或は前者の如きものに到達した上、更に於てある場所という如きものを考える要はないと云う」のはヘーゲルですね。たしかにヘーゲルは絶対者の於いてある場所というものを特に取り立てて問題にしませんでした。しかし西田はヘーゲルの絶対者は「判断の主語の方向に押し詰めたもの」で、自分の「真の無の場所」は「その述語の方向に押し詰めたもの」だとしています。その上で「内在的ということが述語的ということ」で、「主語となって述語とならない基体も、それが内在的なる限り知り得るとするならば」「後者」、つまり「真の無の場所」から出立せねばならぬ」と述べ、「後者が最も深いもの、もっとも根本的なるものと云い得るであろう」と結論付けています。

B

「内在的」とは何に内在的なのですか?人間に内在的ということですか?
佐野
「人間」とすると、人間が対象化され、主語に立ちますね。2行目に「判断の主語を外に見る」とありますが、主語に立ったものは外になります。そうすると何に内在的か、と言う問いに対しては、決して対象化されないもの(そう言えばまたしても対象化されますが、その点は措き)に内在的だ、ということになり、それが「真の無の場所」ということになりますね。

B

「内在的」ということが「述語的」だったら、「内在的なる限り」、つまり述語となる限り知り得る、となりますね。これはどういうことですか?
佐野
述語化する、ということが知るということ、例えば、これはバラである。このバラは赤い、というように述語化することで、主語を知ることができる、そのように考えることができるのではないでしょうか。そうすると、「知る」ということが主語を述語化するということだから、述語の方から「出発しなければならない」と言っていることになりますね。

B

主語をすべて述語化したら、主語も述語もなくなると思います。主語と述語の両方があるか、両方ともなくなるかのいずれかだと思います。
佐野
それは西田批判ですね。ヘーゲルに一票ということでしょうか?

B

そこまでは考えていませんでしたが。

C

私はそういうことだと思いました。述語の方面に「最も深いもの、もっとも根本的なもの」として「真の無の場所」があるとするのはどうかと。

D

我々日本人の空気からすると、述語だけの世界が根本だと思います。西洋は神という実体が根本で、ヘーゲルの絶対者も同様です。しかし根柢からすれば、「絶対無」こそが真の実在です。
佐野
それは日本の風土が根拠になっていませんか?

D

いえ。もともと「絶対無」が根柢であり、これから(の時代において)もそれが明らかになるのだと思います。このことは風土が根拠というのではなく、論理的な必然です。

C

「絶対無」ないし「真の無」の場所というのは知り得るのですか?

D

ええ。知り得ます。それは実感できるものです。そうしてそれを知的に構成することもできる。

C

私は知り得ないと思います。

D

「真の無の場所」がなければ生きることも、考えることもできない、そういう意味で「真の無の場所」は不可欠なものだと思います。ミカンの皮のようにそれを包むものです。それがなければ存在し得ません。しかもそれは究極的には無なのですが、東洋の人間には、言葉で言い表せなくても体で分かっているものだと思います。柔能く剛を制す、のような有とは別の原理です。これは西洋から言えば不可能という外ない。
佐野
それがなければならない、ということと、それが直観されているということとは別のように思われますが、Eさんはどうお考えですか?

E

私は西田が、述語の結果として主語が出てくる、と言おうとしているように感じられます。
佐野
たしかに、我々の常識の世界は有の場所の上に成り立っていて、その世界に出会われるものは有の場所の結果、つまり我々が前提としている世界のうちですでに理解されているとも言えますね。その場合、我々は対象的に理解することはできないにしても我々の常識がそのうちに成り立っている「有の場所」をすでに直観しつつ、それを前提して生活しているとも言えますね。ただそのことはその場所(ないし一般概念)の外に出て見ないと理解することはできません。ところで同様のことは「真の無の場所」についてはどうでしょうか?我々はどんな場合でも、ということはつまり日常的な生活の一々において、実は気がつかないだけですでに「真の無の場所」を直観している、と言えるのですか?

E

「真の無の場所」が直観の場であることは認めますが、場所自体は直観するものではない気がします。

F

「真の無の場所」は「矛盾の場所」だったと思います。これは我々が矛盾を感じる時に顕わになるものでしょうか?それとも我々が矛盾を感じていない、合理的だと思っているところに隠れている矛盾だということでしょうか?

G

後者だと思います。この花は赤い、ということの中にも実は言い尽くせない、という仕方で矛盾を含んでいると思います
佐野
そうした矛盾が、したがって「真の無の場所」が、我々はそうしたものを日常生活の一々において、取り立てて意識はしないけれど、実は根柢において開かれている、とお考えですか?それともそうしたものは我々に隠れているとお考えですか?

G

開かれていると思います。だから我々は日常的にも生活できますし、判断もできるのだと思います。
佐野
しかし、他面ではどこまでも隠れている、とも考えられますね。そうした立場からすると、「真の無の場所」が何故「最も深いもの、もっとも根本的なもの」として真実在となり得るのかが問題になりそうですね。そうした「場所」がなければならない、そのことは理解できるとしても、それが真実に「ある」、とは言えないと思うからです。プロトコルはこれくらいにして、講読に移りましょう。それではBさん、お願いします。

B

読む(269頁12行目~270頁8行目)
佐野
「判断の立場から意識を考えるならば、述語の方向に求めるの外はない」とありますね。この意識は「意識する」意識です。これが「包摂的一般者の方向」つまり「述語の極致」に求められなければならない、というのです。これはちょうど図に対する地のように決して対象化されないもので、これまでも意識現象に対する「意識の野」と呼ばれてきたものです。「我々は一切の対象を映すものを述語の極致に求めねばならぬ」、こうした「単に映す意識の鏡、私の無の場所というものも論理的意義を有するものでなければならぬ」と言われます。西田はこうした立場に相当自信を持っていたようで、「従来の哲学は意識の立場について十分に考えられてない」と言い切ります。次の論文「左右田博士に答う」の初めに、「「場所」の終に於て、私は多少従来と異なった高考に到達し得たかと思う」(290,3-4)と述べていますが、この「場所」の「終」とはこの辺りからを念頭に置いているのかもしれません。(因みに、「論理的意義」について言えば、西田は『善の研究』「版を新にするに当って」で「「働くものから見るものへ」の後半において、ギリシャ哲学を介し、一転して「場所」の考に至った。そこに私は私の考を論理化する端緒を得たと思う」と述べ、また『働くものから見るものへ』の「序」でも「「場所」に於ては超越的述語という如きものを意識面と考えることによって、多少ともかかる論理的基礎附の端緒を開き得たかと思う」、とも述べています。この「論理化」「論理的基礎附」がどういう意味なのか、それらは今講読している箇所の「論理的意義」と関わっているのか、は大変興味深いところです。さらにこうした「論理化」ははたして十分になされているのか、はもっと興味深いと思います。仮にこの「論理化」が今講読している箇所の「論理的意義」に関わっているとするならば、少なくとも私には「私の所謂真の無の場所」が主語述語に分けた上で述語の方向へ徹底した方向に求められたというのは、「論理的に」大変気になるところです。主述の区別は「意識せられたもの」と「意識するもの」、つまり客観主観の区別、対象と自己の区別に重なりますから、そうした各区別の後者を根本としてとるということは、きわめて自己(真の自己)に強いアクセントが置かれることになります。必然的に、主語、客観、他者の契機が抜け落ちていくことになります。場所の論理の成立に関わるこうした根本問題については、さらに皆さんと考えていきたいと思います。)

F

アリストテレスに関する叙述の所で、「純粋作用」「純粋なる形相」というのが出てきますが、それがよく分かりません。
佐野
見て見ましょう。「アリストテレスは変ずるものはその根柢に一般的なるものがなければならぬと云ったが、かかる一般的なるものが、限定せられた有限の場所である限り変ずるものが見られ」とあります。「変ずるもの」の「根柢」にあるものは「質料」だと考えられます。それが「限定せられた有限の場所」だと。この「変ずるもの」の変化(運動)は「キーネーシス」ですね。ついで「それが極微である限り純粋作用というものが見られる」とありますね。「それ」とは「限定せられた有限の場所」つまり「質料」のことだと考えられます。それが「極微」になる。そうするとそこに「純粋作用」が見られるとありますから、この「純粋作用」は「純粋活動態(エネルゲイア)」のことであると解釈できます。アリストテレスの『自然学』が対象とする月下の世界では、すべての実体が形相と質料とから成り、すべての実体は質料から形相へ、可能態から現実態へと向かう運動(キーネーシス)の内にあります。しかし完全なる純粋な現実態に至ることはありません。それ故純粋な現実態は『自然学(physica)』を超えた『形而上学(metaphysica)』で扱われます。それが「不動の動者」としての「神」です。それは純粋な現実活動態であり、形相の形相として純粋形相です。それは美しい人が恋する人を惹きつけるように、それ自身は不動でありながら、すべてのものを動かす(不動の動者)。またそれは純粋な知の対象として、知性の活動とその対象とが一致しています(思惟の思惟)。しかし西田はこうした「純粋作用」においてすら「極微」に質料を残していると考えていることになります。したがってそれはさらに徹底して「唯全然無となった時、単に映す意識の鏡というものが、見られねばならぬ」とされます。この「鏡」は「単に映す意識の鏡」とありますが、それは「単に(外を)映す鏡」(231,8)ではなく、「自ら照らす鏡」(260,1)のことです。こうした「一層深き無の鏡」からすれば、「純なる作用」(エネルゲイア)の根柢をなす、「希臘人」(アリストテレス)の「所謂純粋なる形相」(神)も「遊離されたる抽象的一般概念」に過ぎない、ということになる、そのように解釈されるでしょう。今日はここまでとします。
(第59回)
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真の無の場所と充実した有(erfülltes Sein)

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 267頁5行目「有が無に於てある」から268頁3行目「実は之によるのである」までを講読しました。今回のプロトコルはNさんのご担当です。キーセンテンスは「眞の無の場所は有と無が重なり合った場所なるが故に、作用の対象は何處までも對立的でなければならぬ」(267.10-11)でした。そうして「考えたことないし問い」は「この文は、「有と無の矛盾が根本にあるから」「作用の対象は何處までも對立的でなければならぬ」と解釈された(読書だより(23.4.25))。しかし、「矛盾」が単純に「對立的で」、しかもこれを包むべき「眞の無の場所」で「何處までも對立的でなければならぬ」という意味が理解できない。「すべての物は対立によって成立するというならば、その根底には統一的或者が潜んでいる」(『善の研究』二編五章)はず。従ってここで「對立」が強調されるのは、「判断作用」を「感覚」との差異を際立たせる一種の修辞と解する」(234字)でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
趣旨の確認なんですが、「真の無の場所」が「何處までも対立的でなければならぬ」ことが理解できないということでよいですか?

N

はい。対立と統一と両方あって、それらを統一するという意味でむしろ「統一」こそが「真の無の場所」だと思います。「真の無の場所は有と無が重なり合った場所」ともあります。
佐野
これまでも「真の無の場所」は矛盾の場所といわれていましたが。

A

私はむしろ「対立」の場所だと思います。

B

私は対立も統一もない、すべてが映される場所だと思います。
佐野
テキストでは「何處までも対立的でなければならない」の主語は「作用の対象」ですね。この「作用」って何ですか?テキストに即して考えてください。

C

判断作用です。
佐野
そうですね。さしあたり知覚作用と判断作用の両方を含ませて「作用」と言っていますね。しかしすぐ後で「知覚」は「厳密なる意味で作用でない」と除外されますから、判断作用でいいと思います。「(判断)作用の対象は何處までも対立的でなければならぬ」ということはわかりやすいですね。判断はつねに対立的です。そうである(有)か、そうでない(無)が常に対立している。

N

でも、「真の無の場所は有と無とが重なり合った場所なるが故に、作用の対象は何處までも対立的でなければならぬ」とあります。「重なり合った場所」から判断の対象がどこまでも「対立的」でなければならないが出てくるとすれば、一方通行的だと思います。
佐野
たしかに「真の無の場所」からいかにして「判断」が出てくるか、ここにはギャップがありますね。〈あるとないとが重なったところ〉、こうした矛盾の場所からどのようにして〈あるとないが対立する〉場所が生ずるか、という問題です。プロトコルはこのくらいにして講読に移りましょう。Dさんお願いします。

D

読む(268頁3行目~9行目)
佐野
冒頭「有の場所が直に真の無の場所に於てある時、我々は純なる作用の世界を見る」とありますが、この表現は267頁2~3行目の「限定せられた有が直に真の無に於てあると考えられる時、知覚作用が成り立つ」とよく似ていますね。これを同じものと見てよいか、という問題があります。その場合は先の文章は「有の場所が直に真の無の場所に於てある(と考えられる)時」と補って読まなければならないことになります。西田は267頁14~15行目でも「判断意識は有が直に(真の)無(の場所)に於てある(と考えられる)ことによって現れる」というように省略した述べ方をしていました。ここもそのように「と考えられる」を補って読んでよいか、ということです。それでよいということになれば「純なる作用」とは「知覚作用」のことになります。

A

私は違うことを言っていると思います。「純なる作用」とは意志作用のことだと思います。
佐野
しかしすぐ後に、「純なる作用の世界」は「普通に意識の世界」だとされていますから、それを「意志の世界」と呼ぶのは少し無理がありませんか?

A

そうですね。
佐野
もし、今の文章を前の文章と同じ意味だとすれば、この「純なる作用」とは「知覚作用」のことを指すことになります。その直前にテキストでは知覚の話をしていましたから、続き具合からいってもそう読むことに無理はないと思います。そうなると「純なる」とはとりあえず〈対立を含まない〉(実は知覚が「意識」である以上対立を含むように対立を含んでいるのですが)という意味になります。そうしてそれが「普通に意識の世界と考えられるもの」とあります。知覚の世界が「意識の世界」だというのは普通に理解できますね。ただしこうした理解は「普通」じゃありません。我々は普通、この世界が意識の世界だとは思っていません。目の前のボトルが知覚だとか意識だとかいうのは普通じゃあありませんね。我々はこれを「ある」と思っています。それはともかく「純なる作用の世界」とは「知覚の世界」のことで、それが「意識の世界」だということになる。ついでそれが「内在的対象界」とされていますから、この「内在的対象界」というのは以前出てきた「内部知覚」(75頁)につながっていきますね。そこではそれは「直接経験」(同)とも呼ばれていました。

B

内部知覚は「明白」には至らない「確実」にすぎない(76頁)とされていましたね。
佐野
そうです。微小に対象化されているのです。今読んでいる箇所でも「内在的対象界」というように「対象」化されていますね。「内在的対象界として概念的に限定せられた一つの対象界たるを免れない」と言われています。

C

この一文はの前のページの「内在的対象とは真の無の場所に於て固定せられた一般概念である」(267,8)の言い換えじゃないですか?
佐野
そう読みたくなりますね。

C

「無を以て縁附けられた有の場所」も言い換えですね。
佐野
ええ。そう思います。そうしてそれが「対立的無によって限定せられた真の無の場所」だとされています。「真の無の場所」そのものではなく、「対立的無によって限定せられ」ている、それ自体は「対立的無」の場所だということです。つまり実は「純なる作用の世界」としての「知覚の世界」も対立を含んでいたことになるのです。そうして「真の無の場所は尚之より深きものでなければならぬ」となります。「真の無の場所」は「意志の世界」だとされています。(因みに、私は「知覚の世界」は『善の研究』第2編の純粋経験、「意志の世界」(「真の無の場所」)は第1編の純粋経験に相当する、というように理解しています。)この「意志の世界」が矛盾の世界ですね。有と無が重なり合う場所です。こうした矛盾を我々は通常考えることができません。その意味ではどこまでも分からないものですが、他面で我々はこういうものを知ってもいるんです。例えば〈山は山でない、それ故に山である〉という所謂(鈴木大拙の)〈即非の論理〉がありますね。これがまさにこうした矛盾の表現です。次に進みましょう。Fさん、お願いします。

F

読む(268頁9行目~13行目)
佐野
この箇所は後でヘーゲルの名前が出てくように、ヘーゲルのことを念頭に置いているのかもしれません。「知識的対象としては有と無との合一以上に出ることはできない、主語と述語の合一に至って知識はその極限に到達する」とありますね。「知識対象」としての「有と無との合一」とは、ヘーゲル哲学における〈絶対者〉のことを念頭に置いていると思います。判断は有と無の対立を含みますが、それが対象的(客観的)には合一に至って〈絶対者〉に到達し、知識的(主観的)には主語と述語の合一に至って「知識の極限」つまり〈絶対知〉に到達する、ということでしょう。こうした合一(絶対者)を意識する時、「かかる合一が於てある意識の場所がなければならぬ」というのは西田のヘーゲル批判です。ヘーゲルはそうした場所を考えなかったということです。「合一」が「同一なるもの」と言い換えられていて、さらに「同一の裏面に相異を含み、相異の裏面に同一を含む」と言い換えられていますが、これもヘーゲルの〈絶対者〉を念頭に置いたものだと思われます。ヘーゲルの絶対者は単なる「同一」ではなく、「同一と非同一の同一」でした。まさに同一と相異(区別)の同一、ということです。そうしたものの「於てある場所」がなければならない、ということです。次に進みましょう。Gさんお願いします。

G

読む(268頁13行目~269頁8行目)
佐野
ここもヘーゲル批判ですね。最初に「有と無と合一して転化となる」とありますが、ヘーゲル哲学ではAという規定性を徹底するとAの反対に移行する、とされます。これが弁証法というものです。その意味で弁証法は全般的にA(有)が非A(無)に転化すると言えますが、文字通り有が無に転化し、無が有に転化して、両者が合一すると、ヘーゲルの『論理学』では〈成〉が出てきます。これも転化ですね。〈ある〉という規定性を徹底すると、〈ない〉も意味がある以上〈ある〉、ということになってすべてが〈ある〉になってしまう。そうなると〈ある〉はその規定性を失ってしまう。そこでそれを今度は〈ない〉と言うと、それが〈ある〉と同じものになってしまう。こうした有と無の相互移行(転化)のうちに〈成〉が定立されることになります。有から無へと移行することが消滅、その反対が生成で、両方向合わせて〈成(なる)〉ということになります。西田はこうした転化が成立するためには、「転化を見るもの」「転化が於てある場所」なければならぬ、そうヘーゲルを批判します。しかし私が見る限り、そう簡単には言えないと思います。「転化を見るもの」について言えば、ヘーゲルはそれを問題にしており、それを「我々」と呼んでいます。「我々」とはいわば万能の語り手のようなもので、全体をすでに見渡しつつ、思惟(視点人物)の運動に手を加えずにじっと「見る」だけ、その様子を基本的にただ語るだけの存在(哲学者)のことです(時々、理解を助けるために登場して全体を見渡すことのできるようなヒントを与えてくれますが)。また「転化が於てある場所」についてもヘーゲルは〈エレメント(境位・場面)〉ということを問題にします。『論理学』のエレメント(場所)は純粋知(主客同一の境位)で、『精神現象学』のエレメントは意識(主客対立の境位)です。『論理学』がそこから始まる所、あるいは『精神現象学』がそこから始まる所、そこは実は同じところで、それが〈絶対理念〉とか〈絶対精神〉とか〈絶対知〉と呼ばれるものです。そこから『論理学』や『精神現象学』の円環が始まり、そこへと還って行きます。そこは主客あるいは実体と主体(主観)が同一でも対立でもない、同一でもあれば対立でもある、そうした場所です。ヘーゲル哲学体系の全体がそこに於て成り立つエレメントです。西田はこうしたヘーゲル哲学の側面を見ていません。さらに西田はこうしたヘーゲルの〈絶対者〉が無限に矛盾を含むものであっても、それは「尚判断の主語を外に見」ている、と批判します。「知識的対象」になっている、実体化しているということです。この批判も私が見る限り当たらない。ヘーゲルの〈絶対者〉は実体(神)でもなく主体(自己)でもなく、実体でもあれば主体でもある、換言すれば主客の同一と非同一の同一です。単に〈実体化している〉とも〈実体化していない〉とも言えないものです。それはともかく、西田はヘーゲルの絶対者は「判断の主語を外に見ることであり、真に述語的なるものが主語となることではない」と言います。

H

「真に述語的なるものが主語となる」とは西田の「意志の立場」と考えてもよいでしょうか?
佐野
そうですね。そのことについては271頁で出てきますのでお楽しみに。次いで「ヘーゲルの理性が真に内在的であるには、自己自身の中に矛盾を含むもの(絶対者:引用者)ではなく、矛盾を映すもの、矛盾の記憶でなければならぬ」と西田は初めてヘーゲルの名を挙げて批判しています。これまでと同じ批判です。

A

こういう批判はあまりよくないですね。
佐野
えらい哲学者は皆こういうことをするものです。自分の土俵の中に引っ張り込んで批評するんです。次に出てくる「最初の単なる有」とは『論理学』の最初に出てくる、先程述べた「有」のことです。その「有」が「すべてを含む場所」「その底には何物もない、無限に広がる平面」「形なくして形あるものを映す空間の如きもの」でなければならない、そう述べます。ヘーゲルの「有」がヘーゲル哲学のすべてがそこに於てあるヘーゲル哲学にとっての「真の無の場所」であるべきだと言おうとしています。しかしそれを言うなら「有」ではなく、先程述べた〈絶対者〉〈絶対知〉〈絶対理念〉〈絶対精神〉を挙げるべきでしょう。ヘーゲルはそこにおける有を最初の「有」とは区別して「充実した有(erfülltes Sein)」と呼んでいます。最初の「有」は最も貧しい規定です。我々は言葉に言い表すことのできないものに出会った時、「ある!」としか言えません。もっとも具体的なものを言い表す言葉を持たないからです。しかしそのように言葉にすると最も貧しいものになってしまう。思惑(ヘーゲルはこれを「私念」とも呼びます)は最も豊かなものを思惑しているのに、言い表している言葉は最も貧しい。このギャップ故に最初の「有」は「無」に転ずるのです。最後に「自己同一なるもの」「自己自身の中に無限に矛盾的発展を含むもの」、どちらもヘーゲルの〈絶対者〉のことを念頭に置いています、そうしたものすら「之に於てある場所が私の所謂真の無の場所である」とされています。「之」とは後に出てくる「私の所謂真の場所」のことを指していると思います。今日はここまでとしましょう。
(第58回)
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内在的対象とは何か

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 266頁6行目「前に云った如く」から267頁5行目「此故である」までを講読しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーセンテンスは「限定せられた有が直に真の無に於てあると考えられる時、知覚作用が成り立つ、かかる無が更に無に於てあると考えられる時、判断作用が成立するのである」(267.2-3)で、キーワードは「真の無に於てあると考えられる」(267.2)でした。そうして「考えたことないし問い」は「一般概念(「限定せられた有」)がもともと「真の無の場所に於てある」。しかし、一般概念がに「無の場所に映されたもの」として「考えられる時」、それはすでに「対立的無」場所に於てあるとされる、この時、知覚作用が成立すると言われる。そのことは、真の無に於てある一般概念がすでに「対立的無」場所に映し出され、それ自身が意識されて知覚作用になると考えられるか?もしこう考えられるならば、有の場所が無の場所に包摂され、映された時、一般概念自身の矛盾がそこに見られるのではないか。(232字)」でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
「考えたことないし問い」の部分ですが、「もともと」とか「すでに」という言葉が気になります。また原文では「真の無の場所に於てある」の部分が「無の場所に映されたもの」に代わっていることも気になります。後の点について何かわけがあるのですか?

R

それは私の解釈です。
佐野
特に置き換える理由がなければ原文のままの方がいいでしょう。そうすると「考えたことないし問い」の前半はほぼ原文と同じですね。ただやはり「もともと」という語が気になります。

R

真の無の場所に永遠に於てある、という意味で使いました。真の無の場所は「自ら照らす鏡」(260,1)ですから。ですがそれは体験の言葉で、真の無の立場から言えることだと思いますので、「もともと」というのもその意味では私の解釈です。
佐野
なるほど。それではそういうことにして、後半部分の説明をお願いします。

R

後半部分は二つの問いから成っていて、一つ目はこう解釈してよいかという質問です。
佐野
「真の無に於てある一般概念がすでに「対立的無」場所に映し出され」における「すでに」とは、その前の文からすると「考えられる時、すでに」という意味でよいですか? 我々は一般概念の上をそれと知らずにそれに没入して生きています。そうした没入が破れ、一般概念が直に真の無に於てあることになるが、そうした一般概念が考えられる時にすでにそれは対立的無の場所にある、これは分かりやすいですが、こういうことですか?

R

そうです。
佐野
それでは第二の問いに移りましょう。「有の場所が無の場所に包摂され、映された時、一般概念自身の矛盾がそこに見られるのではないか」とありますが、「一般概念自身の矛盾」とは具体的にどういうことですか?

R

正しいと思って行為していたが、正しくなかった、しかしそう(正しいと思う行為を)せざるを得ない、という仕方で真の無に於る「一般概念」はそれ自身が矛盾している、ということです。

A

一般概念は無矛盾ではなかったですか?

R

一般概念の中にいる時には無矛盾でも、それが破れ、真の無の場所に映された時、一般概念自身の矛盾が見えてくるのだと思います。
佐野
「もともと」矛盾していたのだ、と。やはり真の無の場所の立場から語っていますね。プロトコルはこれくらいにして講読に移りましょう。Bさん、お願いします。ここも強烈に難しいですね。

B

読む(267,5-10)
佐野
いきなり「有が無に於てあるが故に」とありますね。この「無」は「真の無」ですか?それとも「対立的無」ですか?

R

「対立的無」だと思います。
佐野
でも、これまでの文章の続き具合から言えばどうでしょうか。ちょっと前に「すべて作用というのは一つの場所が直に真の無の場所に於てあると見られる場合に現われる」とありますね。「見られる」とは「考えられる」と同じと見てよいと思います。「有が無に於てあるが故に」がそれを受けていると考えるならば、ここも「(限定せられた)有が直に真の無に於てあると考えられるが故に」と補ってみてはどうでしょうか。そのように成立した「作用の根柢にはいつでも一般概念なるもの、述語的なるものが含まれて居る」ということになります。作用の根柢にあるとされる「一般的なるもの」「述語的なるもの」はすでに「対立的無」に映されたものです。「併し」と続きます。「それ」、つまり「一般的なるもの」と「述語的なるもの」ですね、「それは単に対立的無に映されて居るのでなく」と来ます。「直に真の無に於てあるが故に」、ちゃんと「直に真の無に於てある」ことが見て取られている、ちゃんと「真の無」につながっているが故に、「遊離せる抽象的概念ではなくして、内在的対象となる」。

C

「内在的対象」とは何ですか?
佐野
何でしょう?

C

「内在的対象」と「遊離せる抽象概念」が対になっていますね。
佐野
ええ。次に「内在的対象とは真の無の場所に固定せられた一般概念である」とありますね。抽象概念の方が「真の無の場所」から遊離しているのに対し、「内在的対象」は「真の無の場所」にちゃんと「固定」されている、ということでしょうね。この「固定」に悪い意味はないと思います。「真の無の場所」と「内在的対象」の関係は表現するものと表現されたものの差異に通じると思います。

R

でも266頁3~4行目には「限定せられた場所が無の場所に於て遊離せられて所謂抽象的一般概念となる」とあります。「真の無の場所に於て」となっていて、「真の無の場所」〈から〉とはなっていません。
佐野
「真の無の場所に於て」、「真の無の場所」から遊離される、ということではないでしょうか?(逆に言えば、抽象的概念は真の無の場所から遊離されると言っても、どこまでも「真の無の場所」を離れない、「真の無の場所に於て」ある、と言うことができるでしょう。判断は抽象的概念によって構成されます。こうした判断が習慣となって我々の日常生活が成り立つことになります。「物心の独立的存在」(『善の研究』岩波文庫改版65頁)などがその例です。そのように考えた方が行為しやすいからです。それは一見「内在的対象」とは違って、「真の無の場所」から遊離されているように見えるけれども、じつは根柢においてどこまでも「真の無の場所」から離れない、といえると思います。)

C

この「内在的対象」はベルグソンの「純粋持続」のようなものと考えるべきじゃないでしょうか。
佐野
たしかに、266頁8行目にベルグソンの「純粋持続」のような「直覚」が「真の無の場所に於てある」とされていますね。内在的対象も真の無の場所に於てある(と考えられた)ものですね。

C

ですからこの「内在的対象」も「生命に充ちたもの」と考えた方がよいと思います。
佐野
なるほど、面白いですね。「内在的対象」は我々が日常的に対象と言っているものとは異なりますね。日常的に我々は対象が外にあると思っていますから。その意味でこの「内在的対象」は「内部知覚」(76頁)に通じると思います。「内部知覚」は「直接経験」でした(同)。

D

この「内在的対象」つまり「真の無の場所に固定せられた一般概念」は経験に先立って、経験を可能にするという意味で「先験的(超越論的)」と言ってよろしいでしょうか?
佐野
なるほど。我々の判断は真の無の場所から遊離せられた抽象的概念によって構成されていますが、そうした判断が破れた所(意志の立場)では、そうした判断も真の無からは遊離していない一般概念によって構成されている、気づいてみればもともとそうだった、ということはいえるかもしれませんね。

E

「遊離せられた」というのと「固定せられた」が対になっていますね。「固定せられた」ということは「直に真の無の場所に於てある」ということだと読み取れますが、「直に」とはどういうことでしょうか?
佐野
難しいですね。

E

直接経験という意味ではないでしょうか。つまり思惟や反省以前ということです。
佐野
テキストの「と考えられる時」以前ということですね。面白いです。次の「作用は必ず内在的対象を含まねばならぬと考えられるが」とありますが、これは誰の「考え」でしょうか。次に「却って内在的対象に於て作用があるのである」とあり、こちらが西田の主張であることは明らかですから、この「考え」は西田のものではありませんね。これはたぶん初期フッサールでしょう。彼は、意識は何ものかについての意識であるとして、志向作用が志向対象を含む(作用のうちに対象が内在している)と考えていましたから。西田はそうではなく、「内在的対象として限定せられた場所によって作用が見られる」と考えます。この場所は「対立的無の場所」ですね。次を読みましょう。Fさん、お願いします。

F

読む(267,10-268,3)
佐野
ここも難しいですね。これまでさんざん知覚作用と言ってきたのに、ここでは知覚は作用でないと言っている。対立を含んでいないからだと言う。でも後になるとやはり対立を含んでいると言っている。困りますね。どう読んだらよいのか。

R

「真の無の場所は有と無とが重り合った場所」とは「有が無に於てある」ということですか?
佐野
「有が直に真の無に於てある」ということですね。そうだと思います。その場所は矛盾の場所ですね。有が同時に(直に=直接に)無であるということですから。この有と無の矛盾が根本にあるから、「作用の対象は何處までも対立的でなければならぬ」と言っています。

G

「作用」とは何のことでしょうか?
佐野
これまでの所からすれば、知覚作用と判断作用でしょう。

R

次に出てくる「対立的ならざる対象」とはラスクの「超対立的対象」のことでしょうか?
佐野
そう考えることもできますね。つまり判断以前、ということです。そうして「対立的ならざる対象を含むと考えられるもの、例えば知覚の如きものは、厳密なる意味で作用ではない、尚一般概念を以て囲まれたる有の場所たるに過ぎない、未だ場所が直に無に於てあるとは云われない」と来ます。これは解釈ですが、この「知覚」は「作用」として意識されない以前の、有の場所としての知覚だと思います。未だ有の場所が、直に真の無の場所に於てあるというように見られていない。有の場所としての知覚が破られていない、そういう段階の知覚です。我々は知覚しながら、それをことさらに知覚だと意識しませんね。このコップが知覚だとは思わない。だって有る(存在している)と思っているから。そういう段階の知覚、知覚がまだ知覚でないが故に真の知覚そのものであるような段階の知覚、そういうものとして考えみたらどうかと思うのです。そうして次に「唯判断作用の如き」と、知覚作用をすっ飛ばしてまず判断作用を扱います。そうした「判断作用の如きに至っては明にかかる対象の対立性が現れる」。判断対象についてはそうで「有る」「無い」の対立が出てきますね。これは根本に真の無の矛盾があるからだ、ということになります。だから次に「判断のすぐ後に意志がある」と言われています。「意志の立場」が「矛盾其者を見る」立場でした(262,8-9)。そうして「判断意識は有が直に無に於てあることによって現れるのである」とあります。これも「判断作用は、対立的無(判断)としての有が直に真のの場所に於てある、と考えられることによって現れる意識される)」と読むべきでしょう。次にアリストテレスの共通感覚が出てきますね。覚えていらっしゃいますか?

H

はい。少し前に出てきました。
佐野
そうですね。257頁です。アリストテレスが『デ・アニマ』で共通感覚について述べている箇所は二つあって、整合的な解釈は難しいのですが、一応ここでは第一の意味として、運動・静止、数、形、大きさといったすべての感覚に共通に見られうるもの、第二の意味として所謂判断以前の「感覚に附着」した「識別」作用を区別しました。第一の意味について言えば、例えば色にも味にも運動・静止、数、形(種類)、大きさ(強さ)があるということです。第二の意味について言えば、赤は赤でないものから区別されており、色でないもの例えば味からも区別されています。ということはこうした個別の感覚に先立って、個別の感覚を超えた感覚があって、それには識別作用が備わっていることになります。これが共通感覚の第二の意味です。目下の箇所で西田はこうした「アリストテレスの共通感覚」を「知覚」、つまり有の場所に位置づけています。それ「を押し進めてカントの意識一般に至るには、有から無への転換がなければならぬ」とありますから、「カントの意識一般」は先ほど出てきた「判断意識」に位置づけられていることになります。判断の意識とは「私は考える(ich denke)」の意識(自覚)のことで、これが超越論的統覚ないし意識一般です。そこに至るためには「有から無への転換」がなければならない、とありますが、これは知覚(とも意識されていない知覚)が判断意識に、つまり有の場所が対立的無の場所に転換しなければならないことを言っていると考えられます。ただしカントの「意識一般」は統覚(統一作用)としては対立的無の場所に映されたものですが、同時にそれを意識するもの(自覚)としては真の無の立場にあると西田は考えており、意識一般は「対立的無より真の無に転ずる門口」(234,6-7)と位置付けられていました。さて、テキストではそこから作用としての知覚が問題になっています。「無論、知覚といえどもそれが意識と考えられる以上、対立を含んで居るであろう」と来ます。この知覚はもう日常の在り方をしていませんね。日常生活に没頭している時にはわざわざ自分の見ているものが知覚だ、などと意識しません。

C

没頭と一概に言われますが、例えばピアノを弾く時のように、訓練を経たうえで精神集中しているのと、ぼーっと生きているのとは根本的に違うように思います。
佐野
どちらも習慣(前者は修練ですが)の問題ですね。これは大変難しい。『善の研究』における「純粋経験」は心理学者が習慣と呼ぶものをも含意していました(『善の研究』同59頁)。中島敦に『名人伝』という短編があります。弓の名手の話ですが、最高の境地がどう見てもぼけ老人なんです。一度読まれてはいかがですか?

C

面白そうですね。
佐野
それで、知覚を「意識」として、つまり知覚作用として考えると、そこには対立が要るんだ、というのです。「対立によって意識は成立するのである」。私が単調な口調で、まったく分からないことをずっとしゃべっていると、眠くなりますね。意識を保てません。そこに対立がないからです。こうした考えも西田は若いころから心理学から学んで持っていました。そうして「意識の野に於て対象が重り合うと考えられるのも、実は之によるのである」と来る。「之」とは「対立」のことですね。「対象が重り合う」というのは、これまでの例で言えば「音」を挙げることができます。一つの音、例えばドならドはそのまえの音がそこに重なっていますし、これから来るであろう次の音も重なっています。またそれがバイオリンの音であればそこに別のチェロの音が重なっている。こうして一つの音にすべてが重なって来る。イパネマ娘もそこに重なるかもしれないし、人によっては全然無関係に思われる高校の廊下も重なるかもしれない(文学読書会のプロトコル参照)。

E

そうした重なり合いが対立によるというのは面白いですね。
佐野
今日はここまでにしましょう。
(第57回)
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知覚作用と判断作用

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 265頁11行目「思惟の矛盾は」から266頁6行目「主観の破壊が入って来るのである」までを講読しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーセンテンスは「一般概念の構成作用、所謂抽象作用には意志の立場が加はらねばならぬ。」(266.4-5)で、キーワードは「意志の立場」(266.4)でした。そうして「考えたことないし問い」は「一般概念の構成作用には「意志の立場」が加わらなければならないと西田は言う。ここには、主観による対象の破壊が入って来る。このことは、「悪いことをした」と私が思うときを例にすると、どのように考えられるか。自分を悪だと判断する私(主観)が、判断される私(対象)を破壊しているのか、あるいは、その行為を「悪」だとみなす私(主観)が「悪」(対象)を破壊しているのか。さらに、ここに「意志作用」(自由意志の立場)を考えるならば、「意志作用」は「意志の立場」を破壊するといえるだろうか(235字)」でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
難解ですね。まずキーセンテンスから確認しましょう。「一般概念の構成作用」とは我々の日常的な在り方ですね。我々の経験が一般概念を前提にして、それによって構成されているということです。そうした一般概念が真の無の場所から切り離されると「所謂抽象的一般概念」となります。判断はこれによって構成されます。日常性における構成作用も、判断における構成作用も、じつは意志の作用によって成り立っているのですが、そのことは意志の立場(真の無の場所)に立ってみないと分からない。一般概念や判断が破れないと分からないということです。そうした立場に立ってみると、判断というのは主観による破壊(「主観の破壊」)であることが分かる、ということです。その上で改めて「悪いことをした」と「私が思う」時に何が起こっているかを考えてみましょう。まず「判断する私」が「判断される私」、これは〈善だと思っていた私〉のことですね、それを「破壊している」。これは何となく分かります。次の「悪だとみなす私」が「悪」を「破壊している」とはどういうことですか?

O

「悪」を取り逃がす、悪という「理念」を破壊している、ということです。
佐野
自分を「悪」だと判断する(みなす)私は、悪ではありませんね。だから「悪」という理念を破壊していると。

A

先日のOさんの例で行くとどうなりますか?「悪いことをしたなあ」ということの中で何が起こっていますか?

O

大学院に進学することがよいことだ、ということに揺らぎがあるということです。「何か」が「破壊」しているんです。この「何か」が「意志の立場」ということなのかなあ、と。
佐野
「悪いことをしたなあ」というのは「判断」の立場ですか?

O

「判断」とも取れるし、「破壊」とも取れます。「判断」の場合は主語が立ちますが、「破壊」の場合は主語が立ちません。「他者」が関わることで「破壊」が起ります。

A

だけどそれは、大学院進学は普通だったらいいことなのに、間違っているのでは、というように判断が揺らいでいるのであって、新しい判断をそこでしているわけではないのでは?

O

普通に就職していれば親に迷惑もかけないわけですから、悪いなあとずっと悩んではいたのですが、やはり自分のやりたいことをしてしまうんです。
佐野
Aさんの例では、そういう「揺らぎ」ではなく、「とてつもなく悪いことをしている」という気分に襲われていますね。この場合は何が起こっていますか?

A

山口にいることを100%悪いとは思ってはいなくて、善いと決断せざるを得ない、そう思っていたんです。ところが「ある時」、こうしたことのすべてがいいわけで、「とてつもなく悪いことをしている」と感じたのです。何かによって「否定されている感じ」ですが、その「何か」とは具体的な「他者」、例えば父とか他人ではありません。父から言われたわけでもないし、他人から言われても〈うるさい〉と思うだけです。
佐野
その「何か」は少なくとも「自分」ではないですね。自分で自分を否定することはできませんから。「自分」が立つと「判断」の立場になりますが、「何かに否定されている感じ」はそうした「判断」以前の出来事、ということになりますね。

B

判断すること、破壊すること、これらはどうしようもないジレンマを抱えていると思います。ありのままの古墳の石室内部を見たい、でも内部を見ようとすればありのままではなくなる、変質してしまう、というような感じです。どこまでもいたちごっこを繰り返すほかはないような気がするのですが。
佐野
Oさんの「考えたこと」の最後にある「さらに、ここに「意志作用」(自由意志の立場)を考えるならば、「意志作用」は「意志の立場」を破壊するといえるだろうか」も難解ですね。どういう意味ですか?

O

「意志の立場」とは「判断」の立場ではなく、「経験的にどうしようもなく悪である」という体験の立場です。まだ言語化されていない在り方です。「意志作用」はそうした体験をも「破壊する」という意味です。
佐野
「どうしようもなく悪である」という体験を破壊し、〈赦し〉とか〈救い〉につながるような作用のことをお考えですか?(「意志の立場」は矛盾の立場で、生が死、死が生、有が無、無が有ということでしたから、善が悪、悪が善となる立場となるはずですから)

O

そうではありません。訳が分からなくなるようなものです。

B

そこから再構築が行われるというようにダイナミックに考える必要があると思います。
佐野
ありがとうございました。プロトコルはここまでにしましょう。それではテキストを講読しましょう。今日は266頁6行目から267頁5行目まで講読します。今日の所も大変な難所です。Cさん、お願いします。

C

読む(266頁6行目から8行目まで)

D

「フッサールの知覚的直覚というのは一般概念によって限定せられた場所に過ぎない」というのがよくわかりません。
佐野
これは初期フッサールに対する批判ですね。261頁2-4行目に「フッサールの云う如く知覚の水平面は何處までも遠く広がるであろう。併しそれは概念的思惟と平行して広がるのである、之を越えて広がるのではない、何處までも之によって囲まれて居るのである」とあり、また259頁9-11行目には「知覚の意識面を限定する境界線をなすものは、知覚一般の概念でなければならぬ。知覚的直覚というのは斯くして限定せられた場所である。我々が知覚的直覚に於てあると考える時、我々は一般概念によって限定せられた直覚に於てあるのである、限定せられた場所に於てあるのである」とはっきりと書かれています。要するに、我々が知覚している時ですら、知覚とは何かの一般概念の中で知覚しているということです。これでよろしいですか?

D

はい。
佐野
フッサールの知覚的直覚が有の場所であるのに対し、「真の直覚はベルグソンの純粋持続の如く生命に満ちたものでなければならぬ。私はかかる直覚を真の無の場所に於てあると考えるのである」とありますね。ここでベルグソンの「純粋持続」について高坂正顕著『西洋哲学史』604-607頁を参考のために読んでおきたいと思います。

F

読む
佐野
それではテキストに戻りましょう。Gさん、お願いします。

G

読む(267頁5行目まで)
佐野
どこか分からないところはありませんか?と言われてもどこも強烈に難しいですね。どこでもいいです。そこから皆さんと一緒に考えましょう。

H

「述語的なるものが主語の位置に立つことによって働くものが見られるのである」(266頁12-13行目)の意味が分かりません。
佐野
「述語的なるもの」とは「一般概念」のことです。例えば「知覚」とは何かの一般概念を我々は携えて知覚しているんですが、こうした一般概念や知覚作用は、実際に知覚している時には意識されません。それに没入していますから。この没入が破られ一般概念が真の無の場所に映し出されます。それが「考えらえる」ことによって対象化されると、それが「主語の位置に立つ」ことになります。そうするとそれは「知覚作用」という「働くもの」として見られることになります。こんな感じでよろしいでしょうか。

H

はい。

J

267頁の最初の文からが難しくてよく理解できません。
佐野
私もこれをはじめ読んだ時にはまったく分からず、解釈にずいぶん手間取りました。ここで皆さんに私の解釈を述べますので、皆さんで検討してください。まず「併し単に有を超越し有が之に於てあると考えられる否定的無は尚真の無ではない」とあります。「之」とは「否定的無」のことですね。ついで「真の無に於ては、かかる対立的無も之に於てあるのである」と来ます。「かかる対立的無」とは前文の「否定的無」を指していますね。そうした対立的無も、「之」すなわち「真の無」に於てある、ということです。次の文章ではもう一度有の場所から解き起こします。すなわち「限定せられた有が直に真の無に於てあると考えられる時、知覚作用が成り立つ、かかる無が更に無に於てあると考えられる時、判断作用が成立するのである」となっています。「かかる無」とは何ですか?

K

「真の無」ではないでしょうか?
佐野
しかしそうだとすれば、「真の無」が「更に無に於てある」ことになりますね。

K

それは変ですね。
佐野
ええ。それで「かかる無」とは「直に真の無に於てあると考えられ」た時の無、つまり〈考えられた真の無〉で、これは「対立的無」である、こう解釈してみたのです。

K

たしかに真の無が「考えられる」というのは変ですね。
佐野
ええ。今日講読した箇所には「考えられる」という語が頻出しています。西田は意識して用いていると思います。今読んだところの後半ですが「かかる無が更に無に於てあると考えられる時」とありますが、正しくは「かかる無が更に[直に真の]無の場所に於てあると考えられる時」と言うべきで、テキストはこのカッコ部分を省略したものと考えられます。するとこの箇所はどう読めるか。まず「限定せられた有」(有の場所)が破られて、「直に真の無に於てある」、真の無の場所に映し出される、それがそのように「考えられる」ことでそこに「対立的無」(否定的無)が成立し、そこに於てある「有の場所」「知覚作用」が成立します。しかしそのように〈考えられた真の無〉(対立的無)も破られて、「更に[直に真の]無の場所」に映し出されます。それがそのよう真の無の場所に於てあると「考えられる」ことで、そこにまた「対立的無」が成立し、そこに於てある「判断作用」が成立する、こう読んで見たのです。そうして次に「すべて作用というのは一つの場所が直に真の無の場所に於てあると見られる場合に現れるのである」と来ますね。「すべて作用」ということで「知覚作用」と「判断作用」を総括しているのだと思います。それらはどちらも「一つの場所が直に真の場所に於てあると見られる場合に現れる」のだ、このように述べていると思われます。これは何も「知覚作用」に限られません。265頁でスコトゥスに言及されていたことが何よりの証拠です。我々は善という一般概念によって構成された世界を通常生きています。人間はよいと思ったことしかしません。悪いと思っていてもそれをするということは本当に悪いとは思っていないからです。しかしそれがある時、突如破られる。これは自分の力ではできません。この時真の無に一般概念が映し出されている。それと同時にそうでない可能性、選択意志の自由がそこに開け、つねに決断を迫られている自己の在り方にも目覚めることになります。それと同時に善を意志し、決断するという「意志作用」が意識されます。この時には場所はすでに「対立的無の場所」になっています。しかしこうした〈作用としての意志〉の立場に躓き、こうした立場が破れることで、それが真の無に映し出されて、根源悪に目覚めると同時に根源悪のままに善に転じられ(悔い改め、回心)、「善のみ実在」という世界が現出するというのが矛盾の立場たる「意志の立場」とも言えると思います。

I

「すべて作用というのは一つの場所が」という時、この「一つ」とは知覚作用の場合も判断作用の場合も、同じ一つの場所が、という意味でしょうか?
佐野
いいえ、そうではなく、「すべて作用というのは[どちらも]」という、everyの意味だと思います。さて以上の箇所を今述べたように解釈することで266頁9行目以降の「知覚的直覚というものが考えられる時、知覚作用というものが考えられねばならぬ。作用というものが考えられるには私の所謂「作用の作用」の立場(自覚の立場のことですね:佐野)から作用自身が反省せられねばならぬ(判断の領域です:佐野)」などもよく理解できると思います。今日はここまでとしましょう。
(第56回)
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自由な意志と悪の問題

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 265頁3行目「限定せられた有の意義を脱しない」から同11行目「考えられねばならぬ」までを講読しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーセンテンスは末尾の「ドゥンス・スコートゥスの如く意志は善の知識にも束縛せられない、至善に対しても意志は尚自由を有すると考へられねばならぬ」で、キーワードは「至善に対しても意志は尚自由を有する」でした。そうして「考えたことないし問い」は「231頁15行に「此世界(=真の無の場所)に於ては広義に於ける善のみ実在である」とあります。また、232頁5行に「絶対的無の場所に於て真の自由意志を見ることができる」とあり、これは「状態としての自由」と読みました。「善のみ実在」であるような善=至善も自由意志も真の無の場所にあり、それなら善=自由意志のはずです。しかしキーワードは善=自由意志とは限らないことを意味します。これが「矛盾」なのしょうか?(195字)」でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
とても本質的な問いですので、今回のプロトコルは時間を十分に取りたいと思います。まず問いはどうでしょうか?以前の箇所を含んでいますので、少し整理しておきましょう。「場所」論文の「二」の終わりの方で「此世界に於ては広義に於ける善のみ実在である」とされ、そこにおいて「真の自由意志のみ見ることができる」されていました。この「自由意志」は「状態としての自由」でした。これに対し今回読んだ箇所では「至善に対しても意志は尚自由を有する」とあります。この意志は神の意志をも含意し得る、ということでしたね。つまり神は悪をも意志し得るということです。「真の無の場所」は「意志の立場」であり、「矛盾」を見る立場でした。つまりそこでは善が悪であり、悪が善である、ということになります。Tさんが「これが「矛盾」なのでしょうか?」とおっしゃるとき、このようなことを念頭に置かれているのではないでしょうか?実はこの問題、西田が若いころから抱えていた問題です。『倫理学草案第二』というと、『善の研究』のもととなる講義の前年度の講義ですが、その「宗教論」の末尾に、一方で「世に絶対悪あることなし。吾人の悪とは小善である」(16.266,4)とありながら、他方で「神性の悪(自ら欺く)」ということを言っています。『倫理学草案第二』ではこのまま「Erbsünde原罪」の語を残して中断しています。『善の研究』でも一方で「アウグスチヌスに従えば元来世の中に悪という者はない」(岩波文庫改版217頁)とされながら、他方で「神はその最深なる統一を現わすには先ず大に分裂せねばならぬ。」(同254頁)とされています。目下講読中の『働くものから見るものへ』の「場所」では「此世界に於ては広義に於ける善のみ実在」(231,15-232,1)と「至善に対しても意志は尚自由を有する(265,10)の対立でしたから、同じ問題が繰り返されていることが分かります(私見による見通しを述べるならば、この矛盾は最晩年の「宗教論」における「平常底(平常無事、日日是好日)」と「逆対応」との関係になると思います)。Tさん、これでよろしいでしょうか。

T

はい。
佐野
それでは、自由にご発言ください。ただ、こうした言葉をどこまでも体験の言葉として考えるようにしてください。

M

『倫理学草案第二』では「宗教的の人間のみ真の悪に陥るのである」が重要だと思います。
佐野
どういう意味ですか?

M

宗教的苦悩を抱えた人間のみが自分の悪に目覚める、ということです。
佐野
さらにお伺いしなければなりませんね。人間は「自分が悪である」と言っても、そこにはそのように「言う」自分が残っていて、そうした自分はつねに善です。自分を出発点に立てる以上そうなります。「自分が間違っていた」という場合も、そのように「言う」自分は正しい。「自分の力ではどうにもならない」もそうです。「どうにもならない」というところで「どうにかしようとしている」、解決を求めている、それで「善い」と思っていることになります。どこまでも自分の思い(一般概念)を出ることができない。

M

でも「あ~」という時はあります。
佐野
だから、それがどういう時かお尋ねしたいのです。

Y

やはり「自分が悪である」という言葉を体験の言葉として考えるべきだと思います。どういう時に「自分が悪かった」と思ったのか。

H

それでは例を挙げます。私には年老いた親が遠方にいます。だけど私は山口で暮らしたい。一緒に暮らしても決して良いことにならないことはわかっています。だけれど親の悲しみを知った時、とんでもなく悪いことをしていると思う瞬間があります。これが真の悪の認識かも知れません。だけど、そうだからと言ってもどうしようもない。
佐野
「親の悲しみを知った時」という瞬間が決定的に重要ですね。この瞬間に一般概念が破れ、真の無の場所が開けた。そこでこれまではそれ以外にないと思っていたのとは違う選択もあり得るという自由意志の境域が開ける、とも言えますね。人間は自分が善だと思っていることしかできないけれども、実はそのつど自由意志による決断を迫られている、そういうことに気付く、ということになると思います。そうするとそこに善を意志する(人格の要求に従う、でも真の自己を知る、でもよいのですが)ということが問題になって来る。一般概念が破れ、それが真の無の場所に映されたが故に、そこに作用としての意志が意識されるのですが、その時にはすでに「対立的無の場所」に映されたものになり、善という目的を意志する立場に立つ(私見によれば、これが『善の研究』の第3編の立場です)、ということになるのだと思います。これについてはこれから読み進めていく中でも出てくると思います。

O

私の体験としては3つあります。一つ目。わがままで自分の好きなことをさせてもらっているのに、親に「頑張っているね」と言われると、苦しいこと。二つ目。授業でつまらなさそうにしている子がいる時、あるいは自分でいい授業だったと思っても、他の先生に別の可能性を指摘された時、子どもに「悪いことをしたなあ」と思うこと。三つ目。早朝にゴミ拾いをしている人がいて、何故と聞いたら、徳を積むためだと言われて、気持ち悪かった。人間は善の上に立つことができるのか、と思ったこと、この三つです。

A

『善の研究』に「悪は実在体系の矛盾衝突より起るのである。而してこの衝突なる者は何から起るかといえば、こは実在の分化作用に基づくもので実在発展の一要件である、実在は矛盾衝突に由りて発展するのである」(256頁)とあります。だからそうした悪の経験も次の発展につながるのだと思います。
佐野
HさんとOさん、そのように悪を発展のための一要件に回収してしまってもよいですか?

B

私はその「実在の分化発展」つまり、「神の分裂」に関心があります。これは「神が自ら欺くこと」だと思います。人間の苦悩はそれを真に理解する者によってしか救われません。だとすれば、神が分裂するということは、神が原罪を負った人間にまで下りてくること、神が原罪をも含めて人間(イエス)となることでなければならないと思います。そうでなければ人間の苦悩を真に理解することはできないと思います。

C

神が原罪を負っているというのは西田の言葉ですか?

B

いえ。でもそうでなければならないと思うんです。
佐野
東方教父のマクシモス(580頃―662)は、神が「罪のみは除いて」人間として誕生した、と言っているようです(谷隆一郎『証聖者マクシモスの哲学』(190-191頁)。この辺り、やはり使徒の経験に遡って考える必要がありそうですね。神(実在)の分裂、あるいは神性の悪の問題、さらにはそれと「善のみ実在」というのも体験の言葉だと思いますが、それらがどのように関わっているのか、これは大きな問題だと思いますので、今後も引き続き考えていきたいと思います。それではテキストに移りましょう。今日は第三段落の最後まで読みたいと思います。それではDさん、お願いします。

D

読む(265頁11行目から14行目まで)
佐野
「思惟の矛盾は思惟としてはその根柢に達する」とあって、ヘーゲル哲学はこの思惟の根柢以上のものは見ることができないとされていますね。この「思惟の根柢」というのはヘーゲル哲学では「絶対者」「絶対知」「絶対理念」「絶対精神」と呼ばれるものです。どれも同じものを指しており、思惟の体系(円環)がそこから始まり、そこへと終っていく思惟の根柢です。三つの円環があり、「意識(主客対立)」のエレメントにおいて展開されると「精神現象学」となり、その最終章が「絶対知」です。「思惟(主客同一)」のエレメントに展開されるとまず、「論理学」となり、その最終章が「絶対理念」です。「論理学」は創造以前の神の叙述ともイメージされます。ついで「自然哲学・精神哲学」の円環が来て、その最終章が「絶対精神」です。

E

そうすると、西田からすればヘーゲル哲学は限定せられた有の場所の立場、ということになり、その根柢の「矛盾を見るもの、矛盾を映すもの」を西田は論じている、ということになるのですか?
佐野
西田からすればヘーゲルはそれを論じていない、ということになるのでしょうね。たしかに『精神現象学』の最終章である「絶対知」にしても、『大論理学』の最終章である『絶対理念』にしても、そのものについての叙述はありません。ですが学以前とか学以後を敢えて語らないという学(言葉の領域)の立場を弁えた態度にもそれなりの意味はあると思います。次に「ヘーゲルの理念がその自己自身の外に出て自然に移らねばならないのは之に由るのである」とありますね。「理念」とは先程述べた「論理学」の最後の「絶対理念」のことです。そこから「決心(Entschluß =Schluß(推理連結)を断つ(ent)こと)」によって自然の創造がなされて「自然哲学」に移行するのです。西田が「之に由る」という時の「之」とは「矛盾を見るもの、矛盾を映すもの」があることによる、それがなければ移行が成り立たないということです。次に行きましょう。お願いします。

F

読む(266頁5行目まで)
佐野
時間がないので、一つずつ見ていきましょう。「右の如く」とあるのは264頁13行目の「場所と場所とが無限に重り合って居るのである、限なく円が円に於てあるのである」を指していると考えられます。そうして「真の無の場所から之においてある有の場所が見られた時、意志作用が成立する」とありますね。我々は通常「一般概念」の中で判断し、行為しています。そうした「一般概念」が破れる時、ここには断絶と飛躍があるのですが、真の無の場所が開けます。そうすると、一般概念以外の可能性が開け、ここに(自由)意志の立場が開けます。ですがそれが「意志作用」として意識された時にはすでに「対立的無の場所」に映されたものになっています。このことは次を読むことで明らかになると思います。こうして「一般概念とは無の場所に於て限定せられた有の場所の境界線と考えることができる」わけです。意志が限定している、ということが顕わになったのです。「平面に於ける円の点」、円周上の点のことでしょうね。それが「円の内部に属すると見ることができると共に、外部に属すると見ることができる」、これはイメージしやすいですね。それと同じように「(同じ)一つものが感覚に即して限定せられた有の場所と見られる」、これは、感覚的にあると限定されることで、我々の日常的な在り方です。それが何らかの飛躍によって、無の場所が開ける。そうすると限定せられた有の場所は「無の場所に即して一般概念と考えられる」ことになります。この「限定せられた場所が無の場所に於て遊離せられて所謂抽象的一般概念となる」とありますが、この「抽象的一般概念」ということで念頭に置かれているのは範疇(カテゴリー)のことでしょう。我々は通常、一般概念によって構成された世界に生きていますが、そこからの反省によって判断を行います。その場合一般概念は(「無の場所に於て」)一般概念がそこにおいてあった世界(有の場所)から抽象されて、抽象的概念となり、判断を構成することになります。こうしたことが実はすべて意志によってなされている。「一般概念の構成作用、所謂抽象作用には意志の立場が加わらねばならぬ」とはそうしたことを言っているのでしょう。そうして判断においては、主客が分かれていますから、一般概念によって構成されていた対象は破壊されることになります。「ここにラスクの云う如き主観の破壊が入って来る」とはそういうことだと思われます。ここで以前紹介した、ラスクについて要約した文章を挙げておきますね。「ラスクは心理学的でもない、形而上学的でもない、論理学的な領域を「妥当領域」と考え、その最も高次で包括的な「領域範疇」を「妥当範疇」と考えていた。この妥当範疇が感性的直観的な質料一般に向かう時「存在範疇」となり、ここに「妥当領域」は限定されて「存在領域」となる。存在範疇はさらに特殊な質料によって「事物性」「因果性」などの「構成的範疇」となり、ここに「(超対立的)対象領域」が成立することになる。さらにそれは「主観性」を質料とすることによって「同一性」などの「反省的範疇」や「判断形式」などが成立する、とされる。構成的範疇によって「(超対立的)対象領域」が、反省的範疇によって「判断領域」が成立し、前者が「原像」、後者が「影像」であり、前者によって対象は構成され、後者によって対象は破壊されると考えられた(以上、石原悠子「西田幾多郎とエミール・ラスク」(西田哲学会年報11号、76-92頁、2014)参照)」。今日はここまでとしておきましょう。
(第55回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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