変ずるものと生滅するもの

岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「四」冒頭から第3段落、348頁10行目までを読了しました。今回のプロトコルはYさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「唯、積極的に限定することのできない具体的一般者に於てあるものが部分的に限定せられた時、一種の連続として時に於てあると考へられるのである、物理現象とはかゝる意味に於ての連続に外ならない。」(347, 2-4)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「「物理現象」において、「時に於てあるもの」を主語として「性質的述語」が付加されるとき、この主語となるものは、「時の一般者に於てある」のではなく、「時を包む一般者に於てある」とされます。そして、「時を包む一般者に於てある」とは、「変ずるもの」、あるいは「内容を有つた時」と同義です。このとき、「物理現象」を単に「時に於てあるもの」とするならば、「物理現象」において、「変ずるもの」をどのように考えたらいいのでしょうか。」(208字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。今回はYさんの質問内容が議論中にはよく分からなかったので、たぶんこういうことではないかという後からの反省によって構成してあります。
佐野
「物理現象」が「単に」「時に於てあるもの」とするならば、それは「変ずるもの」ではない、ならば「物理現象」において「変ずるもの」をどう考えたらよいか、という質問ですか?

Y

そうです。
佐野
たしかに「物理現象」は「時に於てあるもの」で、それはもはや「変ずるもの」ではありません。

Y

そこが分かりません。「物理現象」ももとは「変ずるもの」ではないのですか?
佐野
ええ。そうなんですが、「変ずるもの」そのものは知的直観されるもので、判断の対象とはなりません。これを対象にしてこれについて判断しようとすると違うものとして我々に対して現れることになります。対象はもはや「変ずるもの」ではなく、感性的直観という内容的(=主語的)にいかなる意味においても限定できないものになり、主観ももはや「知的直観」ではなく、形式的(=述語的)にいかなる意味においても限定できない単なる形式としての思惟(意識一般)となると考えられます。そうして時について考える場合、それが「時の一般者」ないし「形式的時」となる、そのように解釈できます。

A

それだと「意識一般」が「時の一般者」へと限定されていることになりませんか?
佐野
難しいところですが、カントに倣って西田は、「意識一般」が感性として働く場合の形式が時空、悟性として働く場合の形式がカテゴリーと考えているようで、しかも判断(認識)の場合、感性と悟性が同時に働いていて、両者を切り離すことはできないと考えていると思います。また時間が「一般概念」ではないことはカントが明確に主張していますし、西田も「時の一般者」は限定できない、限定すればアンチノミーに陥る、と述べています。そう考えるならば「意識一般」が時間に関して働く在り方が「時の一般者」だと解釈した方がよいと思います。

Y

その場合でも対象はまだ「物理現象」ではないですよね。
佐野
ええ。感性的直観が「物理現象」になるためには、それがさらに「部分的に限定」されなければなりません。この「部分的に限定」が具体的に何かは、これも解釈になるのですが、後を読むと「感覚的性質一般」という「一般概念」による限定であると考えられます。「変ずるもの」は今「感性的直観」という姿をとっていますが、これを「感覚的性質一般」という「一般概念」によって限定しようとすると、例えば赤はただちに赤ならざるものになっています。これは「時に於て」感性的直観を見ているからですが、それによって「一種の連続」が生じることになります。

Y

そうなるのは「物理現象」がもともと「変ずるもの」だからですよね。
佐野
ええ。そういうことになりますが、「変ずるもの」そのものは、知的に直観されるのみで、それについては何とも言えない、西田はそのように考えているようです。これを「感覚的性質一般」という「一般概念」によって限定し、かつ、これを「時の一般者」に於てある、と見ることで初めて「物理現象」となる、そのように考えているようです。

Y

その意味では「物理現象」は「単に」「時の一般者」に於てあるわけではないですね。
佐野
ええ。「一般概念」による限定がなければ成立しません。プロトコルはこれ位にして講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(348頁10行目~349頁2行目)
佐野
まず「物」は「抽象的一般としては限定することのできないものである」とあります。物自体は知的に直観する外はない、それについては何とも判断できない、ということでしょう。それを受けて「併し」と来ます。「判断的知識の根柢には何等かの意味に於て一般的なるものがなければならぬ」と述べられます。これを言い換えてさらに「我々が抽象的一般を越えたもの」、物(個物)とか「変ずるもの」ですね、「これを主語として判断する以上、かかる判断の基礎となる一般者がなければならぬ」、と述べられます。

A

この「一般者」は判断の「基礎」として、判断以前の所では絶対無と考えてよいですか?
佐野
そうですね。抽象的一般を越えたものを包むものは絶対無ということになると思います。そうしてそれが判断の基礎となる、という読み筋は可能だと思います。次に「是に於て」、抽象的一般を越えたものを主語として判断する場合、ですね。今度は明確に判断の場合です。「抽象的一般と考えられたものが、超越的述語面の限定せられたものとして、具体的一般となる」とあります。

A

「超越的述語面」とは「意識」と考えてよいですか?
佐野
いいと思います。「抽象的一般を越えたもの」つまり「物の概念」(物自体)と、「超越的述語面」(意識一般)の対をまず考え、それが限定された場合が考えられています。こうした限定によって「物の概念」は「(物理)現象」となり、「抽象的一般」は「具体的一般」になる、そのように言われています。

A

どういうことですか?「物の概念」の例として「赤きもの」が挙がっていましたが、この場合の「抽象的一般」とは「性質赤」ですね。この場合「物の概念」が「現象」になるとはどういうことですか?
佐野
「物の概念」とは本来何とも言えないもののことです。「抽象的一般」を「性質赤」とするならば、それが具体的概念になるとは、それが「この赤」となることで、「物」が「赤きもの」になることだと思います。

A

それがどうして「(物理)現象」になるのですか?
佐野
当然の質問だと思います。明らかにここでの西田は言葉足らずです。その点についてはすぐ後で、「知覚の世界」と「物理現象界」とを区別して説明しています。「具体的概念」を「赤きもの」(主語面)と「この赤」(述語面)の同一性のうちに見るのは「知覚の世界」の見方です。「AがAである」という「肯定的述語面」において「変ずるもの」を見た場合です。しかし「変ずるもの」はそれだけではない。肯定にして否定。この否定面が言い表わされていません。「AがAでない」、「この赤」が「この赤でない」、この側面を言い表すのが「物理現象界」です。というわけで次を見てみましょう。「かかる考え方によって、物理現象界とは感覚的性質一般を主語となって述語とならない基体となす具体的一般者によって成り立つと考えることができる」とあります。

A

どういうことですか?
佐野
「感覚的性質『一般』」とあるのがポイントだと思います。この場合、色について言えば、「赤」だけではなく、「赤ならざる色」も含みます。これを「主語となって述語とならない基体」、つまり「個物」ですが、これはこの赤がこの赤ならざるものへと変化してしまう、そうした個物です。つまり「感覚的性質一般」をこうした「個物」となす「具体的一般者」によって「物理現象界」が成り立つというのです。「換言すれば」とありますね。「(物理現象界とは、)感覚的性質一般という如き一般概念によって限定せられた超越的述語面に於て見られる」とされます。同じことが述語面について述べられています。さらに言い換えが続きます。「即ち(物理現象界とは、)限定することのできない述語面」、「超越的述語面」ですね、そうした「述語面に見られる変ずるものを、感覚的性質一般という一般概念によって限定して見たものである」。これについてはすでに先取りして申し上げておきました。次をBさん、お願いします。

B

読む(349頁2行目~12行目)
佐野
ここから、先程述べた「知覚の世界」と「物理現象界」の区別が述べられます。「感覚的性質一般を基体となす具体的一般者に於て、その主語面と述語面とが合一して居ると見られるかぎり、単なる知覚一般の対象界という如きものに過ぎないであろう」とあります。物と性質が、「赤きもの」(主語面)と「この赤」(述語面)において合一する場合のことです。現在において「この赤」はただちに「この赤ならざるもの」へと変化していますが、知覚の世界ではそこは問題にしません。これに対し「限定のできない超越的述語面に於てあるもの、即ち変ずるものを、感覚的性質一般の概念によって限定した時、物理現象界が見られるのである」とあります。「限定のできない」は、「超越的述語面」と「に於てあるもの」の両方にかけて読んだ方がよいと思います。「知覚の世界」の場合には、主語面も述語面も「限定できる」という立場に立っています。「この物は赤い」ということですね。しかしこの「限定」が主語面においても述語面においても否定される。この場合それを「感覚的性質一般の概念によって限定した時」どうなるかと言えば、限定できない、この赤はこの赤ならず、AはAでない、ということが出て来ます。そこに「物理現象界が見られる」とされます。ここまでのところ、何か質問はありますか?

B

何とかついていけています。
佐野
次に進みましょう。「今知覚の世界と物理現象界との区別及び関係の論に入り込むことはできないが」ということわりを入れた上で、「具体的一般者の超越的述語面を右の如き一般概念を以て限定すると云う時、それ」つまり、限定された超越的述語面ですね、「それが単なる肯定的述語面である場合は、知覚の対象界という如きものに過ぎない」とされます。「肯定的述語面」とは述語面が否定を含まないということです。AがそのままAである、ということです。これに対し、「それが否定を含む矛盾的統一面である場合は、物理現象界の如き働くものの世界が見られねばならぬ」と続きます。「矛盾的統一面を含む」とは、Aが同時にAでない、ということです。Aが同時にAならざるものである、ここに働くものが見られる、というのです。次いで「矛盾的統一」とあるのは、「限定のできない」ということ、つまり「Aが同時にAでない」、という事態を指していると思われます。それは「否定を含む一般者に於て成立する」とされます。「知覚の世界」における「一般概念(感覚的性質一般)」は否定を含まないが、「物理現象界」における「一般概念」は否定を含む、ということですが、これが「一般概念」を「時の一般者」に於てある、と見ることだと考えられます。

B

「知覚の世界」の場合には個々のものを「時に於てある」とは見ていないことになるのですか?そうだとすると、「変ずるもの」を単に「感覚的性質一般」という一般概念によって限定した時に現れるのが「知覚の世界」で、「変ずるもの」を「感覚的性質一般」という「一般概念」と、「時の一般者」という「一般概念」によって限定した時に現れるのが「物理現象界」だということになりますね。そうなるとやはり「時の一般者」というもの自体が限定された「一般概念」ということになりませんか?
佐野
西田がカントの思想を踏まえているとするならば、時間は「一般概念」ではありえないし、繰り返しになりますが、西田も「時の一般者」は限定できない、とはっきり述べています。では何なのか、といえば、やはり純粋直観、ないし感性的直観の形式ということになると思います。少なくとも西田がここで論じている物理現象がそこにおいてある「時」とはそうしたものだと考えられます。また西田が、時空の形式を抜きにした認識は不可能とするカントの思想を踏まえているとするならば、「時の一般者」抜きの認識はありえない。ことに「知覚」が時の形式抜きに成立するとは考えにくい。その意味でも単なる形式としての「意識一般」の一つの在り方(時に関する在り方)が「時の一般者」である、と考えるべきではないかと思います。

B

それでは「知覚の世界」と「物理現象界」の区別はどうなるのですか?
佐野
「変ずるもの」を判断する際に、どちらも「時の一般者」に於てあるのですが、「知覚の世界」の場合には、「AがAであると同時にAでない」のうちの「AがAである」の側面において成立し、「物理現象界」の場合には「AがAでない」の側面において成立する、と考えて見たいのです。とは言え、西田も「今知覚の世界と物理現象界との区別及び関係の論に入り込むことはできない」としていますので、推測はこのあたりに止めたいと思います。次を読んで見ましょう。何と書いてありますか?

B

「矛盾の根柢には一つの類概念を見ることはできないと考えられ、矛盾とは限定せられた概念の外に出ることを意味すると考えられるであろう」とあります。
佐野
これまで論じられてきたのは、「知覚の世界」にせよ、「物理現象界」にせよ、「感覚的性質一般」という限定された「一般概念」内での話です。西田は「物理現象界」においてすでに「矛盾的統一」が成り立っている、と言ってしまったのですが、じつはこれは勇み足で、「矛盾は限定せられた概念の外に出ること」だ、というのが厳密な言い方になります。「考えられるであろう」とありますが、これは西田の主張でもあります。

B

どうしてそのように言うことができるのですか?
佐野
これまでも同じようなことを西田は繰り返し述べているからです。例えば『働くもの』の中に「矛盾は相異の極致である、二つの概念が互に相矛盾すると考える時、亦此両者を包む何等かの客観的統一がなければならぬ、之によって二つの概念が矛盾すると考えられるのである。此の如き客観的統一は単に特殊を包摂する一般概念という如きものではない。或一つの概念に矛盾する概念を考えるには、我々はこの概念を越えて外に出なければならぬ、相矛盾する概念を統一するものは自己自身の否定を含むものでなければならぬ」(190,9-14)という叙述があります。上の「限定せられた概念」がここで言う「一般概念」です。そしてここに出て来た「相矛盾する両者を包む客観的統一」が、絶対無の場所において成立する具体的一般者だと考えられます。

B

「変ずるもの」は矛盾ではないのですか?
佐野
これも厳密に言えば、「真に変ずるもの」はすでに「変ずるもの」ではなく、「生滅するもの」ということになります。これまで西田が「変ずるもの」と呼んできたものは「生滅するもの」と言い換えていいと思います。

B

何故「生滅するもの」と言わなかったのですか?
佐野
これも推測の域を出ませんが、「物理現象」の根柢を論じようとしたからではないかと思われます。

B

「変ずるもの」と「生滅するもの」はどのように異なりますか?
佐野
そこにおいて変化が生起する「一般概念」が残るかどうか、だと思います。例えば或る人が教養のない状態から教養を身に着けたとして、これは変化ですが、この変化の基体としてここには「或る人」という「実体」があります。「或る人」はもちろん死ということを免れません。その場合でも「質料」というものを考えれば、その上で生死も含めた変化を論ずることができます。あるいは赤から赤ならざるものへ変化した、という場合には「色一般」が変化の基体となります。

B

「生滅するもの」はどうなりますか?
佐野
そうした限定せられた「一般概念」がなくなる場合に成立すると考えられます。生即滅(死)、有即無、の「即」に当たると思います。もちろんこの「即」を実体化してはいけません。それではまたしても変化になってしまいますから。西田は、概念相互の関係に「相異」と「相反」と「矛盾」を考えていて、「生滅するもの」はこの最後の「矛盾」の段階で成立します。同じく『働くもの』191頁9行目~192頁5行目を、Cさん、読んでください。

C

はい。「或一つの肯定的なる概念に対しては、之と異なれるもの、之に反するもの、之と矛盾するものとを考えて見ることができる。相異なれるものの統一として、その背後に物という如きものを考えることができる、色と音とは相異なるものであるが、一つの物が色を有ち又音を有つことができる。之と共に主観的には一つの類概念を以て統一することもできる、例えば、色も音も感覚的性質という一つの類概念に属するのである。相反するものは、時の考を入れない以上、一つの物に結合することはできない。併し相反すれば反する程、明に一つの類概念に統一せられねばならぬ。相矛盾する二つの概念に至っては、之を統一するに所謂類概念を以てすることもできない、又、その背後に物という如きものを考えることもできない、縦、時の考を入れても、一つの物がその矛盾せるものに移り行くと云うのは消滅ということでなければならない。矛盾概念を統一するものは、生物の死することが生まれることである如く、否定することが肯定することであるものでなければならぬ、概念の生滅する場所の如きものでなければならぬ、無にして有を成立せしめるものでなければならぬ。」
佐野
ありがとうございます。そこまでで結構です。「変ずるもの」は狭義にはこの「相反」の段階に見られるものです。「変ずるもの」と「生滅するもの」の区別については後でも出て来ますので、今回はこの位にして、後一文残っていますね。「併し斯く考え得るかぎり、その背後に否定を含んだ一般者がなければならぬ、否定の肯定がなければならないのである」。「斯く考え得る」とは何を指すのか。おそらく「矛盾とは限定せられた概念の外に出ることを意味すると考えられる」を受けているでしょう。端的に言えば「矛盾」が考えられる、ということです。矛盾が考えられる以上、「その背後に」、つまりそうした「考え」の背後に、「否定を包んだ一般者」がなければならぬ、否定の肯定がなければならない」、ということだろうと思います。

C

この「否定の肯定」は絶対無ということでしょうか?
佐野
そうですね。有無の対立を絶した絶対無。あるいは「即非」ということだと思います。『働くもの』ではこれが「客観的統一」と呼ばれていました。どちらも「なければならぬ」という言い方がなされていて、単なる「要請」とも読めますが、それだけではなく、これは体験(知的直観)の事柄でしょう。今日はここまでとします。
(第113回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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