読書会だより

転換とは

 みなさんこんにちは。山口西田読書会でコーディネーター役を務めます佐野之人と申します。山口西田読書会では原則毎週土曜日に佐野の司会の下で西田幾多郎の講読を行っております。(木曜日には岡村康夫山口大学名誉教授の御指導の下でニーチェの講読が行われています)。毎回の講読に先立ちまして、前回のプロトコル(議事録)を担当者が発表します。その最後に「哲学的問い」というのがあります。そこでの議論が結構楽しいので、是非皆さんにもその一部を(私の記憶に基づいて編集してありますが)ご紹介してみたいと思った次第です。

 私はこの3月まで山口大学教育学部附属山口中学校の校長を務めておりました。この文章をご覧の皆様の中には中学校のHP内の「校長の部屋」でお目にかかった方もいらっしゃるかもしれません。

 そうした方は引き続き、また初めての方も共に哲学の対話を楽しんでいただけたらと思います。

 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

それでは、どうぞ・・・

A

ききたいことがあるって?言ってたんじゃないの?

B

(高校生)
はい。前回問題になっていた「転換」ということが分かりません。
佐野
生き方の転換のことですね。人間は「自分」という言葉を知ってからは「自分」を出発点にして生きる以外ない。自分が生きる、という生き方です。それが「生かされて生きる」ことへ転換する、そういうことでしたね。

B

ええ。それがよく分かりません。やっぱり自分が生きるんじゃないですか?
佐野
たしかに人間は自分ではそれしかできません。でも・・・たとえば「驚く」というのはどうですか。Bさん。驚いてみてください。

B

できません。
佐野
ですよね。「頷く」というのもそうです。頭でいくらそう思おうと思っても身が頷かないんですね。「帰る」といっても待ってくれている人や場所がなければ帰ることはできません。人間はつねに何かに促されて始めて行動できるんです。そういうことからも「生かされて生きる」ということは言えるんじゃないかな。ただ「生かされて生きる」ということを聞くと人間は、「よし、じゃあこれからは生かされて生きよう」ってなってしまって、結局「自分が生きる」になってしまうんですね。それしかできない。だけどその「それしかできない」というところに身が頷くところで「生かされて生きている」ということが現成しているんです。
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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