有と無の対立、そして意志の立場

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 261頁14行目「然らばかかる一般概念を」から263頁行5目「異なったものでなければならぬ」までを講読しました。今回のプロトコルはNさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「論理的矛盾を超越して而も之を内に包むものが、我々の意志の意識である。推論式について云えば、媒語が一般者となるのである」(262.10-11)で、「考えたことないし問い」は「「矛盾其者を見る」ために要請されるのが、自ら矛盾の内に入り触媒となり得る〈媒介的な統一原理〉である。この原理は「推論式に於ての媒語」の中に見出すことができる。それは「媒語が單に大語に含まれる」ような「一般か特殊に行く」スタンスではなく、むしろ「特殊なるものの中に判断の根底となる一般的なるもの」を含み得る、〈無の場所〉からの「深き意味」における、極めて能動的な「意志の立場」と考えてよろしいか」でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
「考えてよろしいか」という問いになっていますね。どうですか?Nさんのお考えに全面的に賛成という方、いらっしゃったら挙手してください。(誰も挙手せず)。それではどの部分に違和感を覚えたか、聞いてみましょう。違和感が生じるということが自分の理解を深めるためにもとても大事だと思います。

A

「極めて能動的な」とありますが、どういう意味ですか?

N

「この」花とか、教育で言えば個性一般の重視ではなく、「この」生徒にぶち当たる、という極めてチャレンジングな意志、という意味です。
佐野
たしかに、意志は個に向っていきますね。リンゴ一般を食べるのではなく「このリンゴ」を食べる。カエサルがルビコン川を渡るにしても、「この」カエサルが「この」ルビコン川を渡る、ということです。

B

「自ら矛盾の中に入り」とありますが、どういう意味ですか?

N

これまで西田は「矛盾を超越する」とか「矛盾を包む」という言い方をしてきましたが、それはある意味不徹底だったと思います。ここでは矛盾の中に自分で入って行って、仲裁のための触媒になる、という意味です。

B

矛盾の中に入ったら、矛盾は感じないと思います。どういう意味で矛盾とおっしゃっていますか?

N

矛盾とは、矛と盾のことで、まさに不倶戴天の敵のことです。

B

それは対立ではないですか?
佐野
「矛盾其者を見る」という表現もありますが、これをどのように理解されていますか?そもそも我々は「矛盾其者を見る」ができるでしょうか。

N

生きるということが矛盾の中に入って行くことだと思います。矛盾を見ることなしに生きるということはあり得ない。

B

私は矛盾を見ることは人間にはできないと思います。見たら死んでしまうか、狂ってしまうと思います。
佐野
「要請」というのもテキストにない言葉ですね。どういう意味で使われましたか?

N

矛盾を見た、と言ってもそれで終わりということはない、どこまでも見るということは続いていく、そういう意味で用いました。

C

「媒介的な統一原理」ですが、これは大語と小語を媒介する、という意味に止まりますか?

N

いえ、媒語が実在の根柢という意味です。三段論法の結論では媒語が消失していますが、この結論を支えているのが媒語です。駕籠に乗る人、駕籠を担ぐ人は目に見えますが、草鞋を作る人は見えません。媒語とは此の草鞋を作る人のようなものです。
佐野
私たちは媒語の中で分かった気になって生きていますが、そこには現れて来ないものがあると。面白いですね。大語の方向に無限に進めていくと、最後に「無に等しき有」という矛盾、小語の方向でももはや概念でない個(特殊)に行きつく。ここには飛躍ないし超越があるわけですが、そうした飛躍ないし超越における矛盾が、実は分かりきっていると思われている媒語を支えている、そんな感じでしょうか。今回のプロトコルを通じて私たちの理解も深まったようですし、Nさんの思想の根本にも少し触れることができたように感じられます。プロトコルはここまでにして本日の講読箇所に移りましょう。今日は263頁5行目「事実的判断は論理的に」から265頁3行目「逆に内面的なる意志の連続に過ぎない」まで講読します。それではAさん、お願いします。

A

読む(263頁8行目まで)。

B

「事実的判断は論理的に矛盾なく否定し得る」というのが分かりません。どういうことですか?
佐野
「事実的判断」というのは特殊が主語になる判断ですね。「カエサルがルビコン川を渡った」という命題は論理的に矛盾なく「渡らなかった」と主張することもできます。カエサルは渡ることも渡らないこともできたはずです。

C

しかし歴史的事実としてはそうは言えないのではないでしょうか?
佐野
歴史的事実というものもそうでなかった、という可能性はあるのでは?その主張を支える論理というものもあるわけです。

C

科学的事実はどうでしょう?
佐野
その場合でも個々の事実が問題になる場合には、同じでしょう。一般的な法則を破ることはありませんが、「この」花がまさにこういう色をしていなければならない、ということはありません。そこで西田は「事実的判断」の「根柢には所謂論理的一般者」、これは必然的ですね、この「一般者を越えて自由なるものがなければならぬ」と言います。そうしてそこに「意志の立場の加入」が考えられると。さらに意志は「単に偶然的作用ではなく、意志の根柢には作用自身を見るものがなければならぬ」と言います。作用自身を見る、自覚ですね。直観と言ってもいいと思いますが。『善の研究』でも「意志の自由」の所で「自知」と言われていました。「所謂一般概念的限定」、これは必然的ですね、こうした限定を「越えた場所に意志の意識がある」、この「意識」が「見る」あるいは「知る」ということです。それではBさん、次お願いします。

B

読む(263頁10行目まで)。
佐野
ここでは作用、判断の立場、有の場所、それと自由、意志の立場、無の場所がそれぞれ対になっていますね。次からがとても難しい。Cさん、お願いします。

C

読む(263頁15行目まで)。
佐野
ここでは「主観的作用から見れば」と「客観的対象から見れば」が対になっていますね。「主観的作用から見れば」「有から無に、無から有に思惟作用を移すことによって両者を対立的に考え得る」とあります。それに対し「客観的対象から見れば」「有が無に於てある」となる。そうして「思惟の対象界に於て限定せられたもの」が「有」であり、そうでないものが「無」だと。「思惟の対象界」は「それ自身に於て一体系を成す」のに対し、「無」はこうした「有よりも一層高次的」とされています。これ、西田の考えでしょうか?

B

違うような気がします。西田が自分の主張をする時は「なければならぬ」になることが多いのに、ここは「考えることができる」になっています。
佐野
なるほど。ではそのことも可能性として残しておいて、次を読みましょう。Dさん、お願いします。

D

読む(264頁5行目まで)。
佐野
ここも4行目までは、最後は「云い得るであろう」「考えることもできるであろう」で終わっていますね。しかしその後は「併し無を有と対立的に見る立場は、既に思惟を一歩踏み越えた立場である、所謂有も無も之に於てある作用の作用の立場でなければならぬ」と「なければならぬ」で終わっています。Bさんの説によるならば、この最後の一文は西田の考えだということになります。「作用の作用の立場」とは「作用」を「見る」立場のことですね。「自覚」と言ってもよい。先程は「作用とは一般概念によって限定せられたもの」(263,9)とされ、そうした「作用自身を見る」のが「意志の意識」とされていました。そうして「判断の立場から意志の立場に移り行くというのは有の場所から無の場所に移り行くこと」(同9-10)だとされていました。「作用の作用の立場」とは「意志の意識」ないし「意志の根柢」にある「見る」ということをも含めた「意志の立場」だと考えられます。問題は先程の西田の考えとは異なるとされた「主観的作用から見れば」と「客観的対象から見れば」という二つの立場と、この「作用の作用の立場」とがどういう関係にあるか、です。そこでもう一度この部分(「併し無を有と対立的に見る立場は、既に思惟を一歩踏み越えた立場である、所謂有も無も之に於てある作用の作用の立場でなければならぬ」)を読んで見ると、「無と有と対立的に見る立場」とは第一の見方(「主観的作用から見れば」)のことでした。それが実は「既に」そうした「思惟を一歩踏み越えた立場」だというのです。次にある「有も無も之に於てある」というのは直前の、有と考えられた無以前の「無限定のもの」を念頭において、「之に於て有と無とが対立関係に於てあると考えることもできるであろう」という表現を受けていそうですね。そうしてそれが実は「作用の作用の立場」であると、そう言っているようです。ここにも超越がありそうですね。無と考えることは実は有であった、だからその根柢にさらに無限定なものがなければならぬ、というように考えると、そうした根柢も有になってしまい、これはどこまでも続いてしまうからです。だからここには超越がなければならない。我々は主観的に対立的に見る(第一の立場)か、一般概念のうちで客観的に対象化して見る(第二の立場)か、どちらかしかできませんが、実はそれらがすでに意志の立場なのだ、そのように言っているようにも見えます。(そもそもこの話の出処は「事実的判断」でした。「事実的判断」においては肯定と否定がそれぞれ論理的に矛盾なく成立し、ここに矛盾が起こるわけです。これは第一の見方ですね。そうして我々はこうした「事実的判断」においても大語を基に置いて包摂判断のように考えることを止めません。これが第二の見方です。こうした我々の通常の判断の在り方の根柢に、実は意志の立場がある、そのようなことを言おうとしているようにも見えます。駕籠を担ぐ人と乗る人は見えるが、草鞋を作る人は見えない、ということかもしれませんね。)次を読んで見ましょう。Eさん、お願いします。

E

読む(264頁12行目まで)。
佐野
ここも大変難しい。まず「判断作用の対象として考えられた時、肯定的対象と否定的対象とは排他的となるが、転化の上に立つ時、作用其者の両方向を同様に眺めることができる」とありますね。「作用其者の両方向」とは何ですか?

E

肯定的対象から否定的対象へ、否定的対象から肯定的対象へ、ということだと思います。
佐野
そうですね。或る判断対象についてそうである(有)、そうでない(無)、ということになると思いますが、その意味では有から無、無から有と考えてもいいですね。この「転化の上に立つ」のはどのような立場ですか?

A

意志の立場、作用の作用の立場だと思います。
佐野
なるほど。そうも読めますね。では次に出てくる「併し措定せられた対象界から見れば」というのは、何と対になっていますか?

A

「判断作用の対象として考えられた時」、でしょうか?だとすれば、「転化の上に立つ時」というのも、意志の立場ではなくて、判断作用の対象として見る立場のような気がします。
佐野
その可能性も念頭に置いて、次を見て見ましょう。「措定せられた対象界から見れば」どうなるかというと、「有は無に於てある」ということですから、これは先の第二の見方のことです。「赤の表象自体は色の表象自体に於てある」「物は空間に於てある」というように「一般概念」を「於てある場所」として考える立場です。判断作用それ自身も「働くもの」としてそうした「一般概念」において初めて考えることができます。こう見てくると、先の第一の見方(「主観的作用から見れば」)がここでは「判断作用の対象として考えられた時」に受け継がれ、第二の見方(「客観的対象から見れば」)が「措定せられた対象界から見れば」に受け継がれていることが分かります。そうして第二の見方において第一の見方である判断作用が考えらえられることになります。これは所謂反省ですね。しかし第二の見方は「一般概念」(大語)の上で考える立場ですから、さらなる一般化(大語)が考えられ、これがどこまでも続くことになります。どこかで転換・超越がなければならないことになります。我々は「作用自身を直に対象として見ることはできない」。「一般概念」を「於てある場所」とすることで初めて作用を考えることができる。しかしそうした場所は根柢を求めて無限に続いてしまう。そこに転換がなければならないことになります。そういうわけで次に「一般の中に無限に特殊を含み而も一般が単に於てある場所と考えられる時、純粋作用という如きものが見られるのである」と言われるのだと思います。「無限に」とありますね。これは転換・超越の体験のあったところから見ているのです。次を読みましょう。Fさん、お願いします。

F

読む(265頁1行目まで)。
佐野
「斯く考えれば一つの立場から高次的立場への接触は、直線と弧線とが一点に於て相接するのではなく、一般的なるものと一般的なるものと、場所と場所とが無限に重り合って居るのである、限なく円が円に於てあるのである」とありますね。Cさんの着目する「重り合う」が出てきました。「限なく円が円に於てある」、こういう所、Bさん、好きですよね。

B

はい。好きです。
佐野
この円はもちろん「鏡」と置き換えてもいい。要は究極的な大語に迫っていってそれに一点で触れるというのではなく、もちろんこれは真の無の場所に触れた所から言えることですが、場所と場所、円と円が無限に重なっている、そのように体験されているということです。そうして「限定せられた有の場所が限定する無の場所に映された時、即ち一般的なるものが限なく一般的なるものに包摂せられた時、意志が成立する」と来ます。この「時」も体験の刹那です。次に行きましょう。Gさん、お願いします。

G

読む(265頁3行目まで)。
佐野
「限定せられた有の場所」と「無の場所」が対置されていますね。そうして「意識する」とは「無の場所に映す」ことだと。そうしてこの場所(真の無の場所)から見れば、有の場所を超越した個物(「主語となって述語とならない基体」「無限に働くもの」)は「内面的なる意志の連続」に過ぎない、とされます。まさに純粋経験の世界ですね。今日はここまでにします。難所はまだまだ続きます。
(第53回)
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媒語による有と無の超越

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 260頁12行目「直覚を概念の反射鏡に照らして」から261頁14行目「論理的知識が成立するのである」までを講読しました。今回のプロトコルはMさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「併し特殊概念は更に特殊なものに対して、一般概念とならねばならぬ」(261.12)で、「考えたことないし問い」は「読書会では一例として、小語→ソクラテス、媒語→人間、大語→死すべきものという例があげられた。恐らく今大語の位置にあるものが次に媒語となって、さらに大きな述語的なものに包摂されてしまうであろう。読書会において個物を主語の方向に向かっていくら語りつくしても個物に到達不可能であるということは何度も確認している。ならば述語の方向に向かって今度は個物に到達しようと試みているわけであるが、それは果たして可能なのだろうか」(160字)でした。例によって記憶の断片から構成してあります。

M

問いを深めるために「我々はすでに個物に到達しているのか、それとも個物だと思っているのが本当に個物であるのか」に改めようと思います。
佐野
分かりました。それでは皆さん、到達していると思われる方は挙手してください。(挙手する。約半々に分れる)。反対意見の方からお伺いしましょう。

A

到達したと思ったとたん概念化していると思います。離れた所からなされた判断になっています。
佐野
その場合、「個物」というのもすでに概念だ、ということになりますね。

A

そうだと思います。到達していると思っているだけで、いつも個物からは目を逸らしているんです。

M

個物は概念ではないと思います。「この花」は概念ではありません。私の目の前にある唯一のものですから。
佐野
でもその「この花」も「私の目の前」も、誰にとってもそういうことになりませんか?つまり「これ」も「私」も一般概念ということになりませんか?

B

西田は「実在は現実そのままのものでなければならない」と言います。我々はつねに、そうしてすでに個物に到達しているのだと思います。もし個物に到達していなければ、例えば「ポチは犬である」という判断につながっていかないと思います。実在は論理につながっていなければならないと思います。

M

その意味では個物に到達するということは「純粋経験」に到達することだと思います。

C

「僕自身」とか「本当の所」というのはどこまで行っても、「分かった」ということにはならないし、現実そのものを捉えた、とは言えないと思います。

M

積み上げるような仕方では到達できない。だから直観によって個物に到達できるとされるのでしょう。

A

私たちは直観の中で生きていますが、そこから概念や論理が生じるというのはどういうことかが問題になると思います。
佐野
直観と概念・論理との関係は?Bさんは実在と論理はつながっていなければならないとしていましたが。両者は単純に連続しているのですか?

M

西田は個物と概念の間には飛躍がなければならない、と言っていたように思います。個物は点のようなもので、概念がそれを映す鏡です。
佐野
点は見えませんね。我々は概念の鏡を通じてしか個物を見ることはできないのでは?ならばどうして個物があると言えるんですか?

M

信仰です(笑)。

C

このポチがまずいるよなあ、それから、ポチは犬だなあ、それから「ハアハア」言っているなあ、となると思います。まずは直観がある。でも言語がなければ判断ができない、こういう関係ではないでしょうか?
佐野
でも、「このポチがいるなあ」というのはすでに「この」とか「いる」という言葉を使っていますが、これはすでに言語であり、概念では?

C

判断の方から逆に考えるんです。そうすると個物に触れている、ということがなければならないことになります。でも「あってほしい」という願望がないとは言えません。
佐野
判断が破れる、言葉を失い、そこで沈黙せざるを得ないような「体験」においてそうした「個物」に触れている、というようには考えられませんか?沈黙を守っていらっしゃるDさん。何かありませんか?

D

個物と一般は矛盾的な関係にあると思います。それを「いま・ここ」として掴む。個物と一般がせめぎ合う矛盾こそが「場所」であり、そのせめぎ合う落ち着かない場所を「この(いま・ここ)」で固定するのが概念の力です。
佐野
なるほど。同じく沈黙を守っていらっしゃるEさん、いかがですか?

E

「この鉛筆」を分析するとさらに新たな個物が出てきて、これは限りがないので、個物に到達することはできないのではないかと思います。
佐野
Fさんは?

F

「これ」というものに直接アクセスすることはできないと思います。だから直覚とか言われるんじゃないかと。

M

芭蕉の句に「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」というのがありますが、ここには「おどろき」があります。純粋経験の中にあるとはこういうことだと思います。そこでは自分を失う、ということがあります。そこにおいて、これまでもずっと咲いていたなずなであるはずなのに、それがありありと咲いている事実に出会う、その意味でここにはやはり「飛躍」があると思います。そうしてそれが同時に「生死の場所」だと、そういうお話を以前伺いました。
佐野
なるほど。本質に迫るような意見が出た所で、本日の講読箇所に移りましょう。今日は261頁14行目「然らばかかる一般概念を」から263頁5行目「異なったものでなければならぬ」まで講読します。Dさん、読んでください。

D

読む(262頁5行目まで)。
佐野
最後に「此地位」とありますね。「此」は何を指していますか?

A

「真に一般的なるもの」だと思います。
佐野
そうですね。あるいは「有無を超越し而も之を内に含むもの」「自己自身の中に矛盾を含むもの」でも、「最高の一般概念」でもいいですね。

A

「最高の一般概念」は大語じゃなかったんですか?何故それが「媒語」になるのかが分かりません。究極の大語があれば媒語はいらないんじゃないですか?
佐野
それはたぶん大語の究極的なところでなお有を考えているからでしょう。有と無を包むものをさらに「有」として考えていませんか?後から来られたGさん、何かございませんか?

G

遅れてすみません。この「推論式」って何ですか?
佐野
三段論法はよろしいですか?例えば、「人間は死すべきものである」が大前提、「ソクラテスは人間である」が小前提、故に「ソクラテスは死ぬ」が結論です。結論の述語(死すべきもの)が「大語」、結論の主語(ソクラテス)が小語、両者を媒介するもの(人間)が媒語です。大語、媒語、小語の三つの語から結論を引き出す式が推論式です。これまでの叙述では、この大語の方向に一般概念を限定するものを求めていくと、最後に至る「最高の一般概念」は「何處までも一般的なるもの」でなければならない、とされています。小語方向なら、どこまでも特殊なるものになりますね。これに到達できるかどうかが今日プロトコルで問題にされたわけです。一般の方向の話に戻ると、一般化を進めていくと、最後には全部「有」に包括されることになりますね。問題はここからです。すべてが有だということになると、有ということもなくなってしまいますね。有というのもすでに規定性であり、限定されたもので、限定されたものは〈すべて〉ではありませんから。これをテキストでは「すべての特殊なる内容をこえたもの」と呼ばれ、それが「無に等しき有」だとされています。そのような無が直ちに有だからです。(この辺りヘーゲルの有と無の弁証法を思わせます)。

G

そうなると推論式は崩壊しますね。
佐野
ええ。同じことは小語の方向、特殊化の方向についても言えるはずです。最後に点になって消失するということです。大きな円も小さな円も消失して、残るのは中位の円だけ、媒語だけということになります。(この媒語の円が無限に重なり合うことになります。)今日のプロトコルでも問題になったように、小語の方向で言えば、我々はどこまでも一般概念を離れることができません。「これ」と言っても「ある」と言っても、むしろそれは一般的なものになってしまいます。しかしそれでは特殊(個)は真に特殊になることはないだけでなく、一般も真に一般になることはありません。さらにもう一歩の超越・飛躍が必要となります。この飛躍が一般の方向で言えば、「有」をも越えて、「無に等しき有」となることです。我々はそこで「個物」に出会うわけです。しかしそのことと同時に、無限の媒語の円(鏡)の重なり合い、映し合いが現出する。そうなると一つ一つの媒語に最高の一般者(と個物そのもの)が属していることになります。これが「推論式に於ての媒語は一方から見れば大小両語の中間に位するものと見られるが、深き意味に於ては既に此地位にあるものでなければならぬ」の意味だと思います。前半が日常の見方、後半が体験における見方(「深い意味に於ては」)です。

M

媒語が「自己自身の中に矛盾を含むもの」になるのだと思いますが、矛盾は無矛盾に対して言われるものですよね。
佐野
ええ。我々の日常経験には矛盾はないかのように見えます。一般概念の土俵の上では矛盾律が成立しなければなりません。そうでなければ我々は考えることすらできません。しかし体験を経た後には、実はそうした日常的な経験の一つ一つが根本的な矛盾の現出であったことに気付く、そうしたことだと思います。なずなが実はずっと垣根に咲いていた、という経験に通じると思います。次へ行きましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(262頁11行目まで)。
佐野
「単に知識の立場から云えば、それは考うべからざるものであろう」とありますが、「それ」とは何ですか?

C

前の文だと思います。
佐野
そうですね。媒語が大小両語の中間にありながら、「有無を超越し而も之を内に包む」「最高の一般概念」ような地位にあることですね。つまり媒語が媒語でありながら、同時に真の大語であるということだと考えられます。このようなことは「単に知識の立場」では考えられないと。「知識」は無矛盾でなければならないからです。それを受けて「然らば、矛盾の意識は何によって成立するであろうか」と来ます。我々は矛盾を意識しているから「無矛盾」ということも分かるわけです。じゃあ、その矛盾をどこで意識しているのか、それが問題になります。ついで「論理的には」とあるのは〈知識としては〉と同義でしょう。「それ」つまり「矛盾の意識」は「唯矛盾によって展開し行くヘーゲルの所謂概念の如きものを考える外ない」とあります。ヘーゲルの概念が問題になりますね。ヘーゲルは、我々の経験の根柢に思想(論理、ロゴス)があると考えます。カテゴリーと言ってもいい。有も無もそうしたカテゴリー(思想)です。さらにこの思想を徹底的に考えていくと、反対のものに転じてしまう、ということが起こります。これが弁証法ですが、それは単なる無に終わらずに、次のカテゴリーがそこから生じてきます。このように運動する「思想」が「概念」です。西田は「知識の立場」ではこうした仕方でしか矛盾は意識されないと考えます。しかしそうした「論理的矛盾其者を映すものは何であるか」、それを西田は問題にします。裏には、ヘーゲルはそのことを問題にしていないという主張が含まれています。そうしてそれが「意志の立場」だ、そう西田は言います。

D

直観ではないのですか?
佐野
とりあえずは「意志」です。もう少し待ちましょう。「論理的矛盾を超越して而も之を内に包むものが、我々の意志の意識」だとされています。知識と意志の関係についてはこれまでも何度か述べられていましたね。例えば「判断と意志とは一つの作用の表裏」(234.9-10)とされ、「円い四角形という如きものを意識するには、背後に於ける意志の立場が加わらねばならぬ」(同12-13)とされています。ここではカントの「意識一般」が「門口」とされていました。この「門口」が超越の起るところです。「知識の立場」から「意志の立場」への超越です。そうした立場で「媒語が一般者となる」。次を読みましょう。Dさん、お願いします。

D

読む(262頁14行目まで)。
佐野
「媒語が単に大語の中に含まれるとするならば、推論式は判断の連結に過ぎない」とありますね。これは大語と小語、それぞれの方向に無限に連結していく考え方です。ここには矛盾はありません。しかしそれを徹底するならば、この推論式が崩壊し、転換して媒語が「統一的原理の意義」を含み、「大語も小語も之に於てある」ということになります。こうした「推論式的一般者」はここではじめて登場するので、重要な箇所だと思います。次へ行きましょう。Eさん、お願いします。

E

読む(263頁2行目まで)。
佐野
「媒語は此場合、私の所謂意識の場所の意義を有って来る」とありますね。これはカントの「意識一般」と考えてもよいかもしれません。上に挙げた箇所では「意識一般」が「門口」となって「判断(知識)の立場」から「意志の立場」への移行がなされましたが、ここでは「推論式に於て」そうした「推移を見る」とされています。因みにカント哲学では理論理性から実践理性、純粋理性批判から実践理性批判への移行ということになります。次に「判断に於ては我々は一般より特殊に行く」とありますが、すぐ後で「特殊から一般に行く」のが「帰納法」とされているのに対し、これは何と呼ばれるでしょうか?

E

演繹法です。
佐野
そうですね。以前にも「一般の中に特殊を包摂して行くことが知識であり、特殊の中に一般を包摂することが意志である」とされていました。我々はミカン一般を食べることはできず、このミカンを食べるほかない、意志をそのように考えました。すでにそうした性質は「帰納法」にもある、ということになります。あと少し時間がありますね。次をFさん、お願いします。

F

読む(263頁5行目まで)。
佐野
どこか分からないところはありませんか?

F

「かかる一般者」というのがよく分かりません。

C

媒語のことではないでしょうか?

A

すぐ前の文に「特殊なるものの中に判断の根柢となる一般なるものが含まれて居なければならぬ」とありますから、この「一般なるもの」のことではないでしょうか?
佐野
さしあたりはそう考えるべきでしょう。ここでは特殊が主語となる「事実的判断」が問題になっています。ソクラテスは知者である、醜いといった判断ですね。こうした判断のなかにある「一般的なるもの」が「かかる一般者」と呼ばれ、それが「たんに包摂判断の大語と考えられる一般者とは異なったものでなければならぬ」とされています。そうだとすれば、それは「媒語」ではないか、そんな風に思えてきますが、それは次回にしましょう。
(第52回)
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自ら照らす鏡

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 259頁9行目「知覚の意識面を限定する境界線」から260頁12行目「知覚と云い得るのである」までを講読しました。今回のプロトコルはKさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「単に映す鏡」(259,15)「自ら照らす鏡」(260,1)で、「考えたことないし問い」は「対立的無の場所に於いて有るのが「単に映す鏡」(外を映す鏡(231 頁8-10 行目))、元来、真の無の場所の底にあるのが「自ら照らす鏡」(内を映す鏡(同上))、であるとした場合、「自ら照らす鏡」は矛盾の関係をどう映すのだろうか?「一般概念の外に出ることで矛盾の関係を見る(254 頁15行目)」ということとの関係をどう考えたらいいのだろうか?」(160字)でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
いくつかの対応関係が重なっていますね。整理しておきましょう。
1.「単に映す鏡(外を映す鏡)」と「自ら照らす鏡(内を映す鏡)」
2.「対立的無の場所」と「真の無の場所」
3.「一般概念」と「一般概念の外」
4.「相異」・「相反」と「矛盾」
さらにこれに
5.「限定せられた場所」と「限定する場所」
を加えることもできますね。それぞれ前と後が対応しています。さて、そこで何が問題になっているのでしょうか?

K

矛盾の概念をどう考えたらよいかということです。生成と消滅は普通に考えれば対立(相反)です。しかしこれを突き詰めて考えると、生成がそのまま消滅ということになる。例えば、生と死は普通に考えれば生は生だし、死は死です。しかし生はつねに死をはらみ、死は生をはらんでいます。これが「自ら照らす鏡」とどう関係するか、ということです。
佐野
矛盾を映す、ということではだめですか?矛盾が見えてくる、ということです。生と死について言われたことは、木の葉が緑から緑ならざるもの(黄色)に変化する場合にも言えますね。

K

ええ。緑はつねに黄色を抱え込んでいるということです。
佐野
同じことは〈塩が白くて辛い〉という場合にも言えるでしょう。「一般概念」によって限定せられた場所では、矛盾律が成立しなければなりません。緑は緑、黄色は黄色です。矛盾律を守ろうとすれば、塩の白と辛さが同時に成立しているということは矛盾ですから、両者は塩という〈物〉の性質である、このように考えるわけです。これは「相異」です。しかし〈物〉の性質でも反対のもの(「相反」)は同時には存在し得ない。その場合には〈時〉をもってくる。しかし相異の場合でも相反の場合でも、突き詰めて考えると、そこに矛盾が見えてくる。もちろんこの「突き詰める」というところに「超越」がなければなりませんが、そこに「矛盾の関係」が映し出されている。これが「自ら照らす鏡」ということでしょうね。

K

そこに「芸術的内容をも見る」とありますから、矛盾が照らされる場所は、言葉にならない感動の世界ということにもなると思います。じつは我々はつねに一般概念の内と外を出入して、言葉にならないものを言葉にしていると言えませんか?

A

〈この赤が赤である〉というのも、そうだと思います。「この赤」は無限に深いものだと思います。
佐野
そこにもじつは「特殊(この赤)」と「一般(赤一般)」の矛盾がありますね。一般という「一般概念」と特殊という「一般概念」が映し合っている。

A

合わせ鏡ですね。「鏡と鏡とが無限に限なく重なり合う」とありますけど、どういうことでしょうか。
佐野
知覚のことについては以前の「共通感覚」のところの記述(257頁)が参考になると思います。「感覚に附着して之(感覚:引用者)を識別する」(同10)ことによって、「知覚の野を何處までも深めて行く」(同7)。それによって「共通感覚」に到達するとあります。個々の音に「音調」(一般概念)、さらに「色調」(一般概念)がそれに重なり合う。

B

それは鏡と鏡が「重なり合う」のであって、合わせ鏡のように「映し合う」のとは違うのでは?

C

いや、やはり「映し合う」のだと思います。鏡ですから。そうして光源は「自ら照らす鏡」の方にある。
佐野
「鏡と鏡とが限なく重なり合う」という表現をどうイメージするのか、ピッタリ一枚に重なっているのか、それとも層をなして重なっているのか、それとも合わせ鏡のようになっているのか、それはここではペンディングにしておきましょう。プロトコルはこのくらいにして先を読み進めましょう。今日は260頁12行目「直覚を概念の反射鏡に」から261頁14行目「論理的知識が成立するのである」まで講読します。Cさん、読んでください。

C

読む(261頁1行目まで)。
佐野
「直覚を概念の反射鏡に照らして見る」とありますね。「概念の反射鏡」というのは?

C

「一般概念」だと思います。
佐野
そうですね。直覚が(知覚という)「一般概念」に映ったものが「知覚」だということですね。そうして「知覚を芸術的直観の如きものから区別して、之を知識と考え得る限り、それは直覚其者ではない」とありますが、「之」とは何を指していますか?

D

「知覚」だと思います。
佐野
そうですね。そうすると、ここでは直覚を芸術的直観のようなものと同類に見て、それに概念と一つになった知識としての知覚を対比していることになります。直覚そのものは概念的言語を超えたものです。それを概念で切るところに土俵ができて、言葉で説明できるようになるわけです。つぎに「数学者の所謂連続の如きもの」とありますが、これは概念的なもので、目に見えるものではありません。ですからそのようなものは「見ることはできぬ」とあります。そうして「知覚の背後に」このような「概念を越えた何物かを見ると考えるのは芸術的内容の如きものでなければならぬ」とあります。芸術的内容は概念化できないということです。どこまでも分からない深いものです。それは「ベルクソンの云う如く唯之と共に生きることによって知り得る内容である」とあるように、対象化して知ることのできない、その意味では体で知るほかないものです。Dさん、次お願いします。

D

読む(261頁4行目まで)。
佐野
どこか分からないところはありますか。ここでは「知覚の水平面」は「概念面」と平行して広がっていることが述べられています。ではEさん、次お願いします。

E

読む(261頁9行目まで)。
佐野
ここは難解です。述語が無、主語が有で、述語が主語を包んでいる、とは包摂判断ですね。それが「窮まる」。すると主語面(有)は述語面(無)に没する。それが「転回」の所と言われる。これはどういうことでしょうね。主語を対象化できないところ、判断が成立しないところと考えることができますね。

F

純粋経験のことでしょうか?
佐野
そうですね。本質的なところは同じかもしれない。先を読むと、その転回の所で「範疇的直観」が成立する、とあります。また「カントの意識一般」もおそらくここで成立する。これまでそれに乗っかって判断を行っていた、「一般概念」が直観される。ところでカントの意識一般は「一般概念」ですか?

G

違うと思います。テキストにも「無の場所」とあります。
佐野
そうですね。ですがカントの意識一般を以前、西田はどのように位置づけていたか覚えていますか?

G

対立的無の場所と真の無の場所の間の「門口」です。
佐野
そうでしたね。ここでも意識一般は転回点として位置付けられています。さらに西田は「かかる転回を一般概念によって限定せられた場所の外に出る」と言っています。「一般概念によって限定せられた場所」でひとまとまりです。さらにそれを言い換えて「小語から大語に移り行く」と述べています。「小語」とは「ソクラテス」のような特殊面でした。今までこれが主語になっていたのです。それに対して「大語」とは「死すべきもの」のような一般面でした。これが述語を成していました。ですから「小語から大語に移り行く」とは、これまで主語的なるものが基体であったのが、「述語的なるものが基体となる」ことであり、「これまで有であった主語面をそのままに述語面に没入する」ということになるのです。このように主語面が述語面に没入し、述語面が基体となることで、今度は逆に、「特殊なるものの中に一般的なるものを包摂するという意志の意味を含んで来る」ことになります。ここに意志の成立を見るのです。もう少し時間がありますね。次の段落に行きましょう。Gさん、お願いします。

G

読む(261頁14行目まで)。
佐野
どこか分からないところはありますか。ここは大前提(人間は死すべきものである)―小前提(ソクラテスは人間である)―結論(ソクラテスは死ぬ)を、大語(死すべきもの)―媒語(人間)―小語(ソクラテス)というように語によって連結させて「推理式」と呼んでいます。これをさらに一般化させると、まず「最高の一般概念」があって、無限の特殊化の過程を経て個物に至る、と考えられます。これを西田は「論理的知識」と呼んでいます。今日はここまでにしましょう。
(第51回)
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知覚は思惟の上に重なり合ふ

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 258ページの8行目「直覚は意志の場所をも越えて深く無の根柢に達して居る」から259ページの9行目「一つの一般概念でなければならぬ」までを講読しました。今回のプロトコルはYさんのご担当です。キーセンテンスは「知覺は思惟の上に重り合ふのである」(259,3)で、「考えたことないし問い」は「一般の中に特殊を、特殊の中に一般を包摂する方向性が、知識あるいは意志であり、二つの方向性の統一は直覚である。また、現象学のいう〈知覚の充実〉における、基礎付ける作用と基礎付けられる作用は共に、直覚即ち無の場所に於いてあるのであり、〈知覚作用〉は、既に「範疇的直覚」(思惟)を含んでいる。通常、知覚と思惟は時系列性を有すると考えるが、「知覺は思惟の上に重り合ふ」については、どのように解釈したらよいのだろうか」(203字)でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
Yさん。何か補足があるようですが。

Y

前半はまとめです。後半が皆さんにお伺いしたい点です。通常認識の過程として感覚、知覚、思惟といった時系列を形成すると考えられていますが、西田はここでそれとは異なる独自の時間を考えているようなので、そのあたりを皆さんと一緒に考えたいと思います。

A

「重り合う」とありますが、時系列的にはどういうことですか。
佐野
直前に「知覚作用として限定せられた直覚は、既に思惟によって限定せられた直覚である」とあります。「既に」という表現からすると、思惟が先のようですね。思惟が知覚作用として限定する、そこに知覚的直覚が成立する、と読めますね。ところでYさん。西田が考えている独自の時間とはどのようなものですか?

Y

「重り合う」という表現を西田はよく用いています。西田は直線的な時間を根源的なものとは考えていないように思われます。

B

直線的な時間はすでに思惟によって考えられた時間、一般概念の空間上に成立する時間だと思います。
佐野
なるほど。(これは後で思い出したのですが、西田は『善の研究』でも「我々の直接経験の事実においては純粋感覚なる者はない。我々が純粋感覚といって居る者も已に簡単なる知覚である。而して知覚は、いかに簡単であっても全く受動的でない、必ず能動的即ち構成的要素を含んで居る」(岩波文庫改版79頁)と言っています。)プロトコルはこのくらいにして今回の講読箇所を読みましょう。今回は259頁9行目から260頁12行目まで読みます。Cさん、お願いします。

C

読む(259頁13行目まで)。
佐野
どこか分からないところはありますか?「無限の次元の空間とも考え得べき真の無の場所」を思惟がスパッと切ってそこに境界線ができる、それが「一般概念」です。知覚的直覚の場合は「知覚一般の概念」がそうした境界線で、そこに土俵ができる。まあ、そんなことを言っているのですが、最後の所が難しいでしょう?一般概念が「一方に於て限定せられた場所」の意義を有すると共に「一方に於ては自己自身を限定する場所」の意義を有するってところが。どうですか?

D

先を読んだ方がいいと思います。
佐野
そうですね。ではDさん。お願いします。

D

読む(260頁4行目まで)。
佐野
「私が前に一般概念の外に出ると云ったのは」とありますね。「前に」とはどこですか?

E

254頁です。2行目に早速あります。
佐野
そうですね。目下のテキストに戻ると、一般概念の外に出るとは、一般概念がなくなることではなく、「限定せられた場所から限定する場所に行くこと」だと。それがまた「対立的無の場所」から「真の無の場所」に行くことだと。それが「単に映す鏡」から「自ら照らす鏡」に到ることだと。「単に映す鏡」という表現はどうですか?どこに書いてあったか覚えていますか?覚えてない?調べておきました。231頁8行目を見てください。「単に映す鏡」が「対立的無の場所」に関して用いられていますね。これに対し「対立的無を含む無」つまり「真の無の場所」について「外を映す鏡でなくして内を映す鏡」という言葉が用いられています。これが「自ら照らす鏡」であることが分かります。「単に移す鏡」とは「外を映す鏡」のことですが、これは理解できる。普通の鏡です。ですがどうですか?「内を映す鏡」とか「自ら照らす鏡」とかは想像しにくいですね。

F

その鏡は「外から持ち来ったのではない、元来その底にあった」とありますね。だから私たちの一番奥深い底にもともとあるんです。そして「鏡と鏡が限なく重り合う」とありますから、合わせ鏡みたいになっているんです。

G

しかも「自ら照らす鏡」自身は合わせ鏡ではなくて、しかも光源を自ら持っている。
佐野
いよいよイメージしにくいですね。しかし「此故に我々は所謂知覚の奥に芸術的内容を見ることもできる」とありますから、前回のプロトコルで取り上げられた258頁2行目の「要素と考えられるものをその儘にして、更に全体が成立する」を参考にできますね。ヴァイオリンの一つの音をとっても、そこには全体がそのまま入っている。一般概念が無限に重なり合っているんですね。しかしどうでしょう?「限定せられた場所」から「限定する場所」に行く、とありますが、これは「意識せられた意識」から「意識する意識」に行くことですよね。これがまあ、純粋経験ということだと思いますが、「意識する意識」に行くってどういうことなんでしょう?そんなことできるんでしょうか?

H

それが直覚ということでしょう?

I

西田は直観と直覚と、両方使っていますが、同じ意味ですか?
佐野
文脈で判断するほかありませんが、ここでは同じ意味に用いられているようです。そこで意識する意識(直覚、真の無の場所)が自ら限定する、ということですが、西田はこれがないと我々の通常の知覚作用も成立しない、そう考えるわけです。しかしそのようなものが本当に「ある」といってよいでしょうか?文章を読んでいるとだんだんそんな気がしてきますが・・・。難しいところだと思います。それではJさん、次を読んでください。

J

読む(8行目まで)。
佐野
「小語」というのが出てきますね。これは三段論法の用語です。大前提(例:人間は死すべきものである)、小前提(ソクラテスは人間である)、結論(ソクラテスは死ぬ)のうち、「死すべきもの」に相当するのが「大語」、「ソクラテス」に相当するものが「小語」、「人間」に相当するのか「媒語」です。ですからテキストにあるように「小語」は「特殊なるもの」ということになります。「知覚の意識」は特殊性という一般概念、つまり「小語的概念」によって限定せられた場所、ということになります。そこに「特殊なるもの」が「於てある」ということです。そうしてこの「特殊なるもの」が主語として、一般を含むことになります。例えばこの塩は白くて辛い、というようにね。「判断の意識」は逆です。リンゴは果物である、という判断の場合、一般(果物)が特殊(リンゴ)を含んでいます。一般という一般概念によって場所が限定されることになります(そこから「最高の一般概念」とは何かが問題になってきます。これはつぎの段落で扱われます)。それではKさん、次をお願いします。

K

読む(12行目まで)。

K

「知覚の底には概念的分析を容れない無限に深いものがある」ことを西田は認めながら、「かかるものの背後に概念を入れて見る」と言っているのですが、どういうことですか?
佐野
たとえそれが「概念分析を容れない無限に深いもの」であっても、まさにそうした「無限に深いもの」という「概念」を入れて見なければ「知覚」は成り立たないということではないでしょうか。今日はここまでとします。
(第50回)
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非連続の連続——意志と直覚の狭間

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 257ページの10行目「此の如きものを私は場所としての一般概念と考へるのである」から258ページの8行目「限定せられた場所を脱することはできない」までを講読しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーセンテンスは「意識に於いては、要素と考えられるものをその儘にして、更に全体が成立するのである」で、選んだ理由は「特殊のなかに一般がひらける様子が伝わるようで面白い表現だと思いました」とのことです。「考えたこと」は「無限に自己を充実していくこと(作用)の限りなき行先が志向対象として知覚に内在している。それは最も深い場所に「於いてある」ことであり意識は全体へと開けていく――との理解に誤りはないか。その場合、作用の作用は最深の場所に向かうが最深に達することなく行先を見失うのだろうか。限定せれられた場所を脱することができず直覚には達しないのか」(164字)でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
理解に誤りはないか、ということですが、文面を見る限り無理のない解釈だと思われます。ですが「作用の作用は最深の場所に向かうが最深に達することなく行先を見失うのだろうか」というのはテキストにありませんね。

O

でも「作用の作用との結合は裏面に於ては意志である」とあって、そうした意志も「限定せられた場所を離れることはできない」とあります。
佐野
これは今日読むところですが、今挙げていただいた文章のすぐ後に「直覚は意志の場所をも越えて深く無の根柢に達して居る」とあります。そうなると意志の場所を越えた所に直観ないし無の根柢があることになります。

O

意志を越えた先に直観がある、ということですが、そこが分からないんです。意志によってどこまでも語り得ない個物を主語の方向に限定していくんですが、それだと個物のありのままの在り方には到達できないと思うんです。同じことですが意志は直観には達し得ない、そう思うのですが。

A

でも私たちはつねにありのままの世界、直観の世界に生きているんじゃないですか?そこが純粋経験の世界だと思うんです。その世界に死んで反省の世界に生まれるんだと思います。
佐野
今のは直観から反省、あるいは知識や意志に行くには、否定を介さなければならない、ということだと思いますが、知識や意志から直観に行くにも、いっぺん死ぬということ、つまり否定がなければならない、とも言えますね。

A

そう思います。
佐野
そうなると、そこには超越がありますね。連続じゃない。いわば「非連続の連続」。でもこういう言葉を振り回すことは注意が必要だと思います。「絶対矛盾的自己同一」もそうですが、その言葉を聞いて分かった気になってしまう。今のところでは反省から直観へ行く道はない。しかし突如として超越が起って直観の中にいる自分に目覚める。その立場から反省との連続が見えてくる、このように解釈することもできます。しかし直観から反省へ行く場合もそんなに簡単じゃないと思います。さっきAさんが仰ったように、そこにも超越がある、気がついたら反省のうちにいる、ということがあると思います。反省と直観の関係、これはとても難しいと思います。プロトコルはここまでにしておきましょう。今日は259頁9行目まで講読します。今日初めてご参加のBさん、お願いします。

B

(読む:8~10行目)

C

「一般の中に特殊を包摂していくことが知識であり、特殊の中に一般を包摂することが意志である」とありますが、具体的に例を挙げて説明してください。
佐野
これは皆さんで考えましょう。どなたか説明していただけませんか。

D

たとえば、「この」ミカンはミカンである、というのが「知識」で、その場合〈ミカン一般〉が〈このミカン〉という特殊を包摂していることになると思います。逆に、ミカンが食べたい、と言っても〈ミカン一般〉を食べることはできず、〈このミカン〉を食べるしかない、これが「意志」だと思います。
佐野
ありがとうございます。皆さん、いかがでしたか。よく分かりましたね。次、Eさん、お願いします。次読んでください。

E

(読む:10~13行目)

C

「主語となって述語となることなき基体が充実して行くというのも、この方向に向って進み行くのである」を具体的に説明してください。
佐野
基体はアリストテレスのヒュポケイメノンですね。ここでは実体つまり個物と同じと考えていいと思います。例えば〈この塩は白い〉というのは〈この塩〉という特殊が、〈白い〉という一般を包摂していると見ることができますね。西田はここに、特殊の中に一般を包摂する作用を見ているのだと思います。そうしてそれを意志だと。次に現象学が出てきますね。これは初期フッサールです。初期フッサールの場合、この作用が志向作用で、これが知覚作用によって基礎づけられ知覚が充実することになります。

F

どういうことですか?
佐野
玄関にカギがあることを意識した場合、〈玄関のカギ〉が志向対象になります。実際に行ってみて確認した場合、はじめて知覚が充実することになります。「現象学に於て知覚が充実して行くというのも、この方向に向って進み行くのである」とありますね。「この方向」とは?

D

対象の方向だと思います。
佐野
そうですね。主語の方向ということもできますね。その方向で、基礎づける作用(知覚作用)も基礎づけられる作用(志向作用)も「一つの直覚の圏内に入って行く」と書いてありますが、Oさんはここが分からない、ということになります。とにかく、ここには超越があります。その時には術語方面で言えば、二つの作用が「共に無の場所に於てある」ということになります。よろしいでしょうか。それではGさん、次お願いします。

G

(読む:258頁13行目~259頁1行目)
佐野
「範疇的直覚」というのが分からないと思います。これも初期フッサールの用語です。例えば私は今椅子に座っていますが、「この椅子はクッション付きで、かつ茶色である」という文の中で目に見える部分はどれですか?

C

全部見えます。
佐野
「この」はどうでしょう。それから「かつ(and)」もどうでしょう。

C

見えません。思惟の働きだと思います。
佐野
そうですね。〈椅子〉や〈クッション〉〈黄〉は「知覚的直観」によってとらえることができますが、「この」「かつ」「である」などはそうはいきませんね。こうしたものを直観するのが「範疇的直観」です。それでは「我の全体がそこにある」の「そこ」とは?

D

知覚作用だと思います。
佐野
そうですね。そうして西田は「我の全体」がそこ、つまり知覚作用の中に含まれていると言っています。つまり知覚作用のなかに範疇的直観というような思惟によるものも含まれている、というのです。そうして「私は之を無の場所に於てあると云いたい」とあります。これは先ほどの基礎付ける作用と基礎づけられる作用、つまり知覚作用と志向作用(思惟的・意志的なもの)が「共に無の場所に於てある」というのと同じことを言っていますね。よろしいでしょうか。それではHさん、次お願いします。

H

(読む:1~4行目)
佐野
指示語がいくつか出てきますね。「知覚的なるものがその底の場所に映ったものが、その一般概念となる」とありますが、「その」とは?

D

「知覚的なるもの」だと思います。これを西田が「知覚作用」と言わなかったのは、そこにすでに思惟的なものが含まれているからではないでしょうか。
佐野
面白いですね。それにこういう所を何でだろう、と考えることが読む場合にはとても大事だともいます。ここではそうした「知覚的なるもの」に「底」があり、それが「場所」で、そこに知覚的なるものが映ったもの(影)が「一般概念」だと言っています。それでは次をIさん、お願いします。

I

(読む:4~9行目)

F

「一つの平面」の話がよく分かりません。
佐野
先程の「底」「場所」を平面と考えているのだと思います。

D

「一つの平面に於ては、或一の点から無限の果を廻っても、亦元の点に還ることが可能でなければならぬ」とありますが、四次元空間では時間が入りますので、それは言えないと思います。
佐野
なるほど。時間は不可逆だと。(それでも四次元空間というように「空間」として考えているならば西田の言うようになるのかもしれない、と後で考えてもみました。)ここでの主眼は「真の無の場所」が「無限なる次元の空間」と考えられ、それを「一平面」に限定するのが「一般概念」だということです。私たちは実は「真の無の場所」に生きているのですが、そのことは理解できない。我々が何かを理解するのはいつも「一般概念」という土俵の上です。誰かと話をする場合でもこうした土俵がなければ話ができない。Iさん、「真の無の場所」で人間が話し合うことはできますか?

I

そこではコミュニケーションはすでに必要がないと思います。
佐野
なるほど。

D

私は日常的な世界は「一般概念」つまり土俵の上に成り立った世界で、「真の無の世界」とは、生成が同時に消滅であるような矛盾の世界だと思います。
佐野
ありがとうございました。今日はここまでにしておきましょう。
(第49回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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