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これまでの記録
西田幾多郎と山口
論文
著者
佐野之人
さの ゆきひと
現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。
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年別アーカイブ
2024年
意志の自覚
知覚と意志
知識の客観性
リッケルトの如くに考える
哲学と方法
当為(sollen)と存在(sein)
新カント学派
カントの純粋統覚
意識自身の自省――カントの超越論的統覚と西田の自覚
思惟と意志との関係
判断的知識に対する意志の優位
「知る」ということの二つの方向
知識を批評する知識の立場
矛盾的統一の述語面
いかにして一般は個になるか
述語として限定することのできない何物か
三種の意志について
知覚的なものと思惟的なもの
成(Werden)への批判
2023年
真の自己同一――述語面自身が主語面になる
主語面が述語面に重なる――意志の成立
読書会での「場所」の読書箇所と
当ブログ「読書会だより」の対応インデックス
判断意識を超越する
述語面に於いて意識される
何處までも述語となって主語とならないもの
無限定なるもの
意識する意識
一般と特殊との合一
判断 一般的なるものの自己限定
永遠なるものの影
意識せられたもの、意識するもの
真の無の場所と充実した有(erfülltes Sein)
内在的対象とは何か
知覚作用と判断作用
自由な意志と悪の問題
意志の連続、意志の自由
有と無の対立、そして意志の立場
媒語による有と無の超越
自ら照らす鏡
知覚は思惟の上に重なり合ふ
非連続の連続——意志と直覚の狭間
2022年
場所としての一般概念
先験的(超越論的)空間は成長するか
「記載」と「構成」——初期フッサール批判
「矛盾の関係」をどう理解するか
矛盾的統一の対象界
〈物自体〉vs.「物体」
物理的空間と幾何学的空間
「自由意志」の消滅
直観が直観自身を限定する
意識する意識
(この)赤は赤である
無から有を作る
2020年
美しい書物はどれも一種の外国語で書かれている
意識現象の知
カントと西田はどちらが正しいか
(判断的知識と直観的知識)
すべての立場を除去した立場
なぜ自分が「人間」だと思えるのか
新型コロナウイルス対応の遠隔読書会の進め方
「真の○○」の「真」とは何か
哲学とは何か
自分とは何か?自分は存在するか
己自身を鏡となす——「内部知覚について」と「善の研究」の変化
「働くものを知る」ことができたと思う瞬間
山口西田読書会に参加する理由
2019年
悪は存在するか
「考究の出立点」は出立点たりうるか
純粋経験は疑うべきものではないか?
純粋経験とはどのような概念か
判断以前の直観、述語以前の主語は存在するか
悪の起源はどこにあるか
悪は存在するか
真にあるものは個物か、普遍か
「在りて在るもの」とは何か
哲学体系を用いて思想を語る不自由
哲学における独自性とは何か
内在的超越はいかに可能なのか
不変なるものとは何であるか
真にあると言えるものは何であるか
自分らしさとは何か? ——対象化できない自己であるとき、わたしたちが口にする「自分らしさ」とはどのようなものでありうるか?
善きサマリア人は神の促しに自由に応答したのか
誰でも良心の声が聞こえるのか
私は今何を見ているのか
主観を離れた客観は可能か
この花は本当に赤いのか
このペンは本当にあるのか
より良い自分と本当の自分
意識の棲む世界とは
転換とは
2016年
市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 8(最終回)
市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 7
市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 6
市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 5
市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 4
市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 3
市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 2
市民と哲学者が共に哲学する『善の研究』の読書会 1
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