自由な意志と悪の問題

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 265頁3行目「限定せられた有の意義を脱しない」から同11行目「考えられねばならぬ」までを講読しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーセンテンスは末尾の「ドゥンス・スコートゥスの如く意志は善の知識にも束縛せられない、至善に対しても意志は尚自由を有すると考へられねばならぬ」で、キーワードは「至善に対しても意志は尚自由を有する」でした。そうして「考えたことないし問い」は「231頁15行に「此世界(=真の無の場所)に於ては広義に於ける善のみ実在である」とあります。また、232頁5行に「絶対的無の場所に於て真の自由意志を見ることができる」とあり、これは「状態としての自由」と読みました。「善のみ実在」であるような善=至善も自由意志も真の無の場所にあり、それなら善=自由意志のはずです。しかしキーワードは善=自由意志とは限らないことを意味します。これが「矛盾」なのしょうか?(195字)」でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
とても本質的な問いですので、今回のプロトコルは時間を十分に取りたいと思います。まず問いはどうでしょうか?以前の箇所を含んでいますので、少し整理しておきましょう。「場所」論文の「二」の終わりの方で「此世界に於ては広義に於ける善のみ実在である」とされ、そこにおいて「真の自由意志のみ見ることができる」されていました。この「自由意志」は「状態としての自由」でした。これに対し今回読んだ箇所では「至善に対しても意志は尚自由を有する」とあります。この意志は神の意志をも含意し得る、ということでしたね。つまり神は悪をも意志し得るということです。「真の無の場所」は「意志の立場」であり、「矛盾」を見る立場でした。つまりそこでは善が悪であり、悪が善である、ということになります。Tさんが「これが「矛盾」なのでしょうか?」とおっしゃるとき、このようなことを念頭に置かれているのではないでしょうか?実はこの問題、西田が若いころから抱えていた問題です。『倫理学草案第二』というと、『善の研究』のもととなる講義の前年度の講義ですが、その「宗教論」の末尾に、一方で「世に絶対悪あることなし。吾人の悪とは小善である」(16.266,4)とありながら、他方で「神性の悪(自ら欺く)」ということを言っています。『倫理学草案第二』ではこのまま「Erbsünde原罪」の語を残して中断しています。『善の研究』でも一方で「アウグスチヌスに従えば元来世の中に悪という者はない」(岩波文庫改版217頁)とされながら、他方で「神はその最深なる統一を現わすには先ず大に分裂せねばならぬ。」(同254頁)とされています。目下講読中の『働くものから見るものへ』の「場所」では「此世界に於ては広義に於ける善のみ実在」(231,15-232,1)と「至善に対しても意志は尚自由を有する(265,10)の対立でしたから、同じ問題が繰り返されていることが分かります(私見による見通しを述べるならば、この矛盾は最晩年の「宗教論」における「平常底(平常無事、日日是好日)」と「逆対応」との関係になると思います)。Tさん、これでよろしいでしょうか。

T

はい。
佐野
それでは、自由にご発言ください。ただ、こうした言葉をどこまでも体験の言葉として考えるようにしてください。

M

『倫理学草案第二』では「宗教的の人間のみ真の悪に陥るのである」が重要だと思います。
佐野
どういう意味ですか?

M

宗教的苦悩を抱えた人間のみが自分の悪に目覚める、ということです。
佐野
さらにお伺いしなければなりませんね。人間は「自分が悪である」と言っても、そこにはそのように「言う」自分が残っていて、そうした自分はつねに善です。自分を出発点に立てる以上そうなります。「自分が間違っていた」という場合も、そのように「言う」自分は正しい。「自分の力ではどうにもならない」もそうです。「どうにもならない」というところで「どうにかしようとしている」、解決を求めている、それで「善い」と思っていることになります。どこまでも自分の思い(一般概念)を出ることができない。

M

でも「あ~」という時はあります。
佐野
だから、それがどういう時かお尋ねしたいのです。

Y

やはり「自分が悪である」という言葉を体験の言葉として考えるべきだと思います。どういう時に「自分が悪かった」と思ったのか。

H

それでは例を挙げます。私には年老いた親が遠方にいます。だけど私は山口で暮らしたい。一緒に暮らしても決して良いことにならないことはわかっています。だけれど親の悲しみを知った時、とんでもなく悪いことをしていると思う瞬間があります。これが真の悪の認識かも知れません。だけど、そうだからと言ってもどうしようもない。
佐野
「親の悲しみを知った時」という瞬間が決定的に重要ですね。この瞬間に一般概念が破れ、真の無の場所が開けた。そこでこれまではそれ以外にないと思っていたのとは違う選択もあり得るという自由意志の境域が開ける、とも言えますね。人間は自分が善だと思っていることしかできないけれども、実はそのつど自由意志による決断を迫られている、そういうことに気付く、ということになると思います。そうするとそこに善を意志する(人格の要求に従う、でも真の自己を知る、でもよいのですが)ということが問題になって来る。一般概念が破れ、それが真の無の場所に映されたが故に、そこに作用としての意志が意識されるのですが、その時にはすでに「対立的無の場所」に映されたものになり、善という目的を意志する立場に立つ(私見によれば、これが『善の研究』の第3編の立場です)、ということになるのだと思います。これについてはこれから読み進めていく中でも出てくると思います。

O

私の体験としては3つあります。一つ目。わがままで自分の好きなことをさせてもらっているのに、親に「頑張っているね」と言われると、苦しいこと。二つ目。授業でつまらなさそうにしている子がいる時、あるいは自分でいい授業だったと思っても、他の先生に別の可能性を指摘された時、子どもに「悪いことをしたなあ」と思うこと。三つ目。早朝にゴミ拾いをしている人がいて、何故と聞いたら、徳を積むためだと言われて、気持ち悪かった。人間は善の上に立つことができるのか、と思ったこと、この三つです。

A

『善の研究』に「悪は実在体系の矛盾衝突より起るのである。而してこの衝突なる者は何から起るかといえば、こは実在の分化作用に基づくもので実在発展の一要件である、実在は矛盾衝突に由りて発展するのである」(256頁)とあります。だからそうした悪の経験も次の発展につながるのだと思います。
佐野
HさんとOさん、そのように悪を発展のための一要件に回収してしまってもよいですか?

B

私はその「実在の分化発展」つまり、「神の分裂」に関心があります。これは「神が自ら欺くこと」だと思います。人間の苦悩はそれを真に理解する者によってしか救われません。だとすれば、神が分裂するということは、神が原罪を負った人間にまで下りてくること、神が原罪をも含めて人間(イエス)となることでなければならないと思います。そうでなければ人間の苦悩を真に理解することはできないと思います。

C

神が原罪を負っているというのは西田の言葉ですか?

B

いえ。でもそうでなければならないと思うんです。
佐野
東方教父のマクシモス(580頃―662)は、神が「罪のみは除いて」人間として誕生した、と言っているようです(谷隆一郎『証聖者マクシモスの哲学』(190-191頁)。この辺り、やはり使徒の経験に遡って考える必要がありそうですね。神(実在)の分裂、あるいは神性の悪の問題、さらにはそれと「善のみ実在」というのも体験の言葉だと思いますが、それらがどのように関わっているのか、これは大きな問題だと思いますので、今後も引き続き考えていきたいと思います。それではテキストに移りましょう。今日は第三段落の最後まで読みたいと思います。それではDさん、お願いします。

D

読む(265頁11行目から14行目まで)
佐野
「思惟の矛盾は思惟としてはその根柢に達する」とあって、ヘーゲル哲学はこの思惟の根柢以上のものは見ることができないとされていますね。この「思惟の根柢」というのはヘーゲル哲学では「絶対者」「絶対知」「絶対理念」「絶対精神」と呼ばれるものです。どれも同じものを指しており、思惟の体系(円環)がそこから始まり、そこへと終っていく思惟の根柢です。三つの円環があり、「意識(主客対立)」のエレメントにおいて展開されると「精神現象学」となり、その最終章が「絶対知」です。「思惟(主客同一)」のエレメントに展開されるとまず、「論理学」となり、その最終章が「絶対理念」です。「論理学」は創造以前の神の叙述ともイメージされます。ついで「自然哲学・精神哲学」の円環が来て、その最終章が「絶対精神」です。

E

そうすると、西田からすればヘーゲル哲学は限定せられた有の場所の立場、ということになり、その根柢の「矛盾を見るもの、矛盾を映すもの」を西田は論じている、ということになるのですか?
佐野
西田からすればヘーゲルはそれを論じていない、ということになるのでしょうね。たしかに『精神現象学』の最終章である「絶対知」にしても、『大論理学』の最終章である『絶対理念』にしても、そのものについての叙述はありません。ですが学以前とか学以後を敢えて語らないという学(言葉の領域)の立場を弁えた態度にもそれなりの意味はあると思います。次に「ヘーゲルの理念がその自己自身の外に出て自然に移らねばならないのは之に由るのである」とありますね。「理念」とは先程述べた「論理学」の最後の「絶対理念」のことです。そこから「決心(Entschluß =Schluß(推理連結)を断つ(ent)こと)」によって自然の創造がなされて「自然哲学」に移行するのです。西田が「之に由る」という時の「之」とは「矛盾を見るもの、矛盾を映すもの」があることによる、それがなければ移行が成り立たないということです。次に行きましょう。お願いします。

F

読む(266頁5行目まで)
佐野
時間がないので、一つずつ見ていきましょう。「右の如く」とあるのは264頁13行目の「場所と場所とが無限に重り合って居るのである、限なく円が円に於てあるのである」を指していると考えられます。そうして「真の無の場所から之においてある有の場所が見られた時、意志作用が成立する」とありますね。我々は通常「一般概念」の中で判断し、行為しています。そうした「一般概念」が破れる時、ここには断絶と飛躍があるのですが、真の無の場所が開けます。そうすると、一般概念以外の可能性が開け、ここに(自由)意志の立場が開けます。ですがそれが「意志作用」として意識された時にはすでに「対立的無の場所」に映されたものになっています。このことは次を読むことで明らかになると思います。こうして「一般概念とは無の場所に於て限定せられた有の場所の境界線と考えることができる」わけです。意志が限定している、ということが顕わになったのです。「平面に於ける円の点」、円周上の点のことでしょうね。それが「円の内部に属すると見ることができると共に、外部に属すると見ることができる」、これはイメージしやすいですね。それと同じように「(同じ)一つものが感覚に即して限定せられた有の場所と見られる」、これは、感覚的にあると限定されることで、我々の日常的な在り方です。それが何らかの飛躍によって、無の場所が開ける。そうすると限定せられた有の場所は「無の場所に即して一般概念と考えられる」ことになります。この「限定せられた場所が無の場所に於て遊離せられて所謂抽象的一般概念となる」とありますが、この「抽象的一般概念」ということで念頭に置かれているのは範疇(カテゴリー)のことでしょう。我々は通常、一般概念によって構成された世界に生きていますが、そこからの反省によって判断を行います。その場合一般概念は(「無の場所に於て」)一般概念がそこにおいてあった世界(有の場所)から抽象されて、抽象的概念となり、判断を構成することになります。こうしたことが実はすべて意志によってなされている。「一般概念の構成作用、所謂抽象作用には意志の立場が加わらねばならぬ」とはそうしたことを言っているのでしょう。そうして判断においては、主客が分かれていますから、一般概念によって構成されていた対象は破壊されることになります。「ここにラスクの云う如き主観の破壊が入って来る」とはそういうことだと思われます。ここで以前紹介した、ラスクについて要約した文章を挙げておきますね。「ラスクは心理学的でもない、形而上学的でもない、論理学的な領域を「妥当領域」と考え、その最も高次で包括的な「領域範疇」を「妥当範疇」と考えていた。この妥当範疇が感性的直観的な質料一般に向かう時「存在範疇」となり、ここに「妥当領域」は限定されて「存在領域」となる。存在範疇はさらに特殊な質料によって「事物性」「因果性」などの「構成的範疇」となり、ここに「(超対立的)対象領域」が成立することになる。さらにそれは「主観性」を質料とすることによって「同一性」などの「反省的範疇」や「判断形式」などが成立する、とされる。構成的範疇によって「(超対立的)対象領域」が、反省的範疇によって「判断領域」が成立し、前者が「原像」、後者が「影像」であり、前者によって対象は構成され、後者によって対象は破壊されると考えられた(以上、石原悠子「西田幾多郎とエミール・ラスク」(西田哲学会年報11号、76-92頁、2014)参照)」。今日はここまでとしておきましょう。
(第55回)
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意志の連続、意志の自由

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 263頁5行目「事実的判断は論理的に」から265頁3行目「逆に内面的なる意志の連続に過ぎない」までを講読しました。今回のプロトコルはKさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「意識するということは、無の場所に映すことであり、この場所から見れば内面的なる意志の連続に過ぎない」(265.2-3)で、「考えたことないし問い」は「佐野先生が純粋経験の世界と解説をされている箇所になりますが、下記の疑問を持ちました。①意識すること、または、内面的なる意志は、小嶋の考えでは、ランダムに生じると考えており、連続するとは限らないと考えています。また、連続するほど頻繁に生じることなのでしょうか。②内面的なる意志は、「過ぎない」と言われるほど価値が低いことなのでしょうか」でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
内面的な意志がランダムに生ずる、とはどういうことですか?

K

普段は意志などを意識することはなく、ふと気づいたら意志をしている、というようなことです。
佐野
この箇所はつぎの箇所とも深くかかわっていますので、先にそちらを読んで見ましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(265頁8行目まで)。
佐野
これを読むと「限定せられた有の場所」の立場にギリシャ哲学が立っていることが分かりますね。「限定せられた有の意義を脱しない希臘哲学」とあります。

B

どうしてここでギリシャ哲学が出てきたのでしょうか?
佐野
まあ、思いついたのでしょうね。ここは本文に対する注のような部分です。「何處までも質料を形相化し遂に純なる形相に到達するも、尚質料が真に無になったのではない、唯極微的零に達したまでである、質料は尚動くものとして残って居る」とありますね。ギリシャ哲学では「無からは何も生じない」ということが基本であると、西田は考えています。アリストテレスでも「月下の世界」では第一質料が残りますし、プラトンでも神に相当するのは、場(コーラ)においてイデアを範型として宇宙を作る「デミウルゴス(工作人)」にすぎません。キリスト教の神は無からの創造を行う神ですから、そのようなことが念頭にあったのかもしれません。

C

「質料は動くものとして残って居る」とは、どういうことですか?
佐野
「動くもの」はアリストテレスの「動(キーネーシス)」のことですね。時間の中にある運動のことです。これに対し魂の活動は「エネルゲイア(現実態、現実活動態)」と呼ばれます。ヒマワリの種は可能態で、苗が現実態で種から苗にまで成長することがここではキーネーシスです。ヒマワリの「魂」が現実活動態(エネルゲイア)として絶えず働くことによってヒマワリの種は苗にまで成長する(動)のですけれども、完全に純粋な形相に成り切ることはできません。ヒマワリはまた種を生じ、これを繰り返すだけです。こうしてすべての実体(ウーシア)はその形相を通じて、形相の形相として第一形相(究極目的)へと向かう「動き(キーネーシス)」のうちにあることになります。この第一形相こそが、不動の第一動者(自らは動かず動かされずして他を動かす者)としての「神」です。すべての実体(個物)はちょうど愛する者が愛される者に惹き付けられるように動かされるのです。神は純粋な思惟(ヌース)の現実活動態であり、他のものを対象とすることなく、ただ自分自身にのみ向かう「思惟の思惟」という永遠にして最善の生、従って至福の状態にあるとされます。人間の魂も身体(質料)を持つものとして他の自然界における実体と同じように生死を繰り返しますが、思惟(ヌース)によってほんの瞬間、垣間見るような仕方で、こうした至福の状態、観想(テオーリア)に与ることができるとされます。魂の徳のうち最高の徳が思惟・知性であるならば、知性に基づく活動・生(「観想的生」)が最高の幸福(至福)であり、他の倫理的・政治的な生は観想的生を実現するための二次的で外的な条件とされます。キーネーシス(動)とエネルゲイア(現実活動態)の区別はよろしいでしょうか?これを説明するとまたMさんに笑われそうですが・・・

D

お願いします。
佐野
キーネーシスの方は物の運動のことで、可能態から現実態までに至る動で時間のうちにあります。目的が外にあり、それを実現するまでは不満足の状態にあることになります。これに対しエネルゲイアの方は魂の活動で、こちらは時間のうちにはありません。絶えず活動していて、つねに現在進行形と現在完了形が同じです。例えば「見る」ということについて言うと、見ている、はいつも見てしまっている、ですね。アリストテレスはいろいろな動詞をこうした観点から分類していますが、同じことは一般的にも言えるはずです。例えば「歩く」ということを例に取ってみましょう。湯田温泉駅まで「歩く」、その歩き方にも着くことを目的にすると、着くまではつねに不満足な在り方となり、また遅速が問題となります。せっせと歩く。これがキーネーシス的な歩き方ですね。これに対し、歩くこと自体を目的にすると、つねに満足の状態にあり、遅速も問題とならず、気がついたら着いている、ということになります。これがエネルゲイア的な歩き方、ということになります。しかし「歩くこと自体」を目的にしてしまうと、やはり目的を外に置くことになってしまいますね。どうしてもキーネーシスになってしまう。質料が出て来てしまう。今の例で言うなら西田はこういうことを言おうとしているのだと思います。つまり反省的な思惟とか、目的を外に立てる意志という仕方ではどうしても質料が残ってしまう、ということです。「観想」自体を目的にしても同じことです。目的にした時点で目的外在になってしまう。だから観想ということは垣間見るという仕方でしか実現しない。しかも「見た」といったとたんにすでにその外に出て行ってしまう。「何處までも質料を形相化し遂に純なる形相に到達するも、尚質料が真に無となったのではない、唯極微的零に達したまでである、質料は尚動くものとして残っている」もそのように解釈することができます。

E

その文章と、263頁初めの「限定せられた有の場所から見れば、主語となって述語とならない基体は、何處までも此場所を超越したものであり、無限に働くものとも見られるであろう」はどう関係しますか?
佐野
「限定せられた有の場所」から見る、この立場がギリシャ哲学の立場だということだと思います。どこまでも「有の場所」つまり「一般概念」の中で考え、意志するという立場です。そうすると「主語となって述語とならない基体」つまり「個物」は、一方でどこまでも一般化できないものであるし、他方で個物の運動もどこまでも一般的に記述できないものとなります。今は「こうである」と規定しても、その時にはすでにそうでない在り方をしているからです。「基体(個物)」がどこまでも「有の場所」を超越していて、「無限に働くもの」と見られる、はそういう風にも解釈できると思います。どうでしょうか?

F

そうだとすると、後半部分「併し意識するということは無の場所に映すことであり、此場所から見れば、逆に内面的なる意志の連続に過ぎない」はどうなりますか?
佐野
「併し」の所で、転換があると思います。「有の場所」の立場が反省の立場だとすると、それを破った立場への転換ないし超越です。Kさんのおっしゃる通り、これは純粋経験の世界と言っていいと思います。これは264頁5行目にある「作用の作用の立場」、つまり「自覚」の立場と同じものです。西田は『善の研究』において、反省の立場から純粋経験の立場へと飛躍的に転入しましたが、その後その立場からいかにして反省の立場を説明するかに苦しみ、その解決の糸口をフィヒテの「事行Tathandlung」やロイスの「英国にいて完全なる英国の地図を写す」ということのうちに見出します。そうして「自覚」のうちで直観(純粋経験)と反省を統一しようとします(『自覚における直観と反省』)。この「自覚」の立場が先ほど出てきた「作用の作用の立場」です。「有の場所」の立場では個物はどこまでも捉えられない。そのつどそのつどの「有の場所」(一般概念)によって規定されながら、無限にそれが重なっていってどこまでも個物に到達しません。ところがこの挫折を通じ、有の場所の立場、つまり反省が破れるとそこに「無の場所」が開けることになる。これが「自覚」の「於いてある場所」です。そこに映すこと、それが「意識する」ということ、テキストにはそう書いてありますね。「此場所から見る」とどういうことになるか。個物を「こうである」と反省し規定できるのは、すでにそれに先立って個物が直観(自覚)されているからです。英国の地図を完全に書こうとすれば、書いている自分自身をも書かなければなりません。「有の場所」の立場ではこれはどこまでも書けない、ということになりますが、「無の場所」の立場では、つねにその一歩前の立場(足下の英国そのもの)に立っています。「有の場所」の立場では先に先にというように追いかけていったのが、「逆に内面的なる意志の連続に過ぎない」ものとなります。

K

だとすると、「過ぎない」はどういうことになりますか?「価値が低い」という意味ではないのですか?
佐野
「価値が低い」ということではなく、「有の場所」の立場では個物はどこまでもその立場を「超越」していた、しかし「無の場所」から見ればそうした超越を含まない、そういう意味だと思います。

G

さっき読んだ最後の部分、「真の無の場所に於ては、一から一を減じた真の無が見られねばならぬ。此に於て我々は始めて真に形相を包む一者の立場に達したと云い得る、極微的質料もその発展性を失い、真に作用を見るということができる」は西田の立場と考えていいでしょうか?
佐野
そうだと思います。「真の無の場所に於ては」とありますから。ただ「一者」という語もありますね。これはもしかすると新プラトン主義のプロティノスを念頭に置いているのかもしれませんが、はっきりとは分かりませんね。では次をBさん、お願いします。

B

読む(263頁11行目まで)。
佐野
これだけ読むと、西田が「善を知れば必ず之を意志する」と考えたトマス・アクィナスより、「至善に対しても意志は尚自由を有する」と考えたドゥンス・スコトゥスの方を評価していることが分かり、読者はついそのまま「そうだ、そうだ」と読んでしまうのですが、そんな簡単にはいかないと思います。まずトマスの考えから吟味していきましょう。人間は自分が善いと思ったことしかできない、それはたしかなことではないでしょうか。本当に悪いと思っていたら、それはしないはずです。遅刻は頭ではよくないと分かっているけれども、いつも遅刻する。これは本当に悪いとは思っていないからです。これくらいはしてもよい(善い)、今回は仕方がない(からしてもよい)、というのはやはりしても善いと思っているからそうするんだと思います。私も昔、家内との待ち合わせにいつも遅刻して行った。でもある時、それは相手を尊重していないからだ、と言われてハッと気づき、以後遅刻は原則したことはありません。

T

そしたら、悪をなすのは悪だと分かっていない、あほやからということですか?
佐野
(一同、笑)まあ、そういうことになると思います。でもこの意志はトマスの場合でもスコトゥスの場合でも人間だけでなく、神についても言われていると思います。そうなると、自己内で完全な神が何故惨劇を繰り返すような不完全な世界を創ったのか、悪が存在するこの世を創ったのか、そういうことも問題になりそうです。

N

それは神のチョンボだと思います。
佐野
だとすれば、神は善を知らなかった、Tさんの表現を借りれば「あほやから」ということになりませんか?

M

これは『善の研究』では「意志の自由」の問題になると思います。そこでは「自己の自然に従うが故に自由」とあります。
佐野
しかしそこにはそのことを「自知している」ということも言われていますね。「(あることを)取ることを意識するということはこの裏面に取らぬという可能性を含む」とも。スコトゥスが「至善に対しても意志は自由」という時、至善とそうでないものの選択肢があり、意志はどちらを取ろうとも自由だ、そういう意味ではないでしょうか?

T

そうなると、神は至善を知りつつ悪をなすことになりますね。考えにくいことです。
佐野
「善を知れば必ず之を意志する」というトマスの立場は「有の場所(一般概念)」の立場、反省の立場だと思います。矛盾なく説明できる立場です。今問題になっているのは、そうした「有の場所」に対する「無の場所」です。それは「矛盾其者を映す」場所であり、「意志の立場」です。矛盾としてはこれまで、「円い四角形」とか、数理においては〈5は数である〉つまり特殊が一般である、といったものから、生がそのまま死であり、有がそのまま無である、といったものが考えられていました。善と悪について言えば、善がそのまま悪であり、悪がそのまま善である、そういうことだと思います。

N

人間は徹底的に悪である、こういうことが親鸞の悪人正機の考えの根本にあると思います。
佐野
問題はそこなんです。そうした一般的な言説がすでに一般概念の上に成り立っていると思うのです。そもそも人間が悪である、ということを一般論というような他人事でなく、自分事として考えた時に、「自分が悪である」と人間は自分の力で言えないのではないでしょうか?

T

犯罪者の自白の場合はどうでしょうか?
佐野
その場合でも、自分の力で言う場合には、例えばここで自白すれば罪が軽減されるから、自責の念が軽減されるからそうした方が善い、というようなことが裏にあると思います。「自分が悪である」ということは自分の力では言えない。何かに触れて、自分の思いが破れることで初めて言えることだと思います。「有の場所」、「一般概念」が破れた所、そこが矛盾の場所であり、意志の場所です。西田は悪の問題で躓き、そこから「純粋経験の立場」に立ち得て『善の研究』を書くことができた。次回はここをさらに深めて見たいと思います。今日はここまでとします。
(第54回)
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有と無の対立、そして意志の立場

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 261頁14行目「然らばかかる一般概念を」から263頁行5目「異なったものでなければならぬ」までを講読しました。今回のプロトコルはNさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「論理的矛盾を超越して而も之を内に包むものが、我々の意志の意識である。推論式について云えば、媒語が一般者となるのである」(262.10-11)で、「考えたことないし問い」は「「矛盾其者を見る」ために要請されるのが、自ら矛盾の内に入り触媒となり得る〈媒介的な統一原理〉である。この原理は「推論式に於ての媒語」の中に見出すことができる。それは「媒語が單に大語に含まれる」ような「一般か特殊に行く」スタンスではなく、むしろ「特殊なるものの中に判断の根底となる一般的なるもの」を含み得る、〈無の場所〉からの「深き意味」における、極めて能動的な「意志の立場」と考えてよろしいか」でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
「考えてよろしいか」という問いになっていますね。どうですか?Nさんのお考えに全面的に賛成という方、いらっしゃったら挙手してください。(誰も挙手せず)。それではどの部分に違和感を覚えたか、聞いてみましょう。違和感が生じるということが自分の理解を深めるためにもとても大事だと思います。

A

「極めて能動的な」とありますが、どういう意味ですか?

N

「この」花とか、教育で言えば個性一般の重視ではなく、「この」生徒にぶち当たる、という極めてチャレンジングな意志、という意味です。
佐野
たしかに、意志は個に向っていきますね。リンゴ一般を食べるのではなく「このリンゴ」を食べる。カエサルがルビコン川を渡るにしても、「この」カエサルが「この」ルビコン川を渡る、ということです。

B

「自ら矛盾の中に入り」とありますが、どういう意味ですか?

N

これまで西田は「矛盾を超越する」とか「矛盾を包む」という言い方をしてきましたが、それはある意味不徹底だったと思います。ここでは矛盾の中に自分で入って行って、仲裁のための触媒になる、という意味です。

B

矛盾の中に入ったら、矛盾は感じないと思います。どういう意味で矛盾とおっしゃっていますか?

N

矛盾とは、矛と盾のことで、まさに不倶戴天の敵のことです。

B

それは対立ではないですか?
佐野
「矛盾其者を見る」という表現もありますが、これをどのように理解されていますか?そもそも我々は「矛盾其者を見る」ができるでしょうか。

N

生きるということが矛盾の中に入って行くことだと思います。矛盾を見ることなしに生きるということはあり得ない。

B

私は矛盾を見ることは人間にはできないと思います。見たら死んでしまうか、狂ってしまうと思います。
佐野
「要請」というのもテキストにない言葉ですね。どういう意味で使われましたか?

N

矛盾を見た、と言ってもそれで終わりということはない、どこまでも見るということは続いていく、そういう意味で用いました。

C

「媒介的な統一原理」ですが、これは大語と小語を媒介する、という意味に止まりますか?

N

いえ、媒語が実在の根柢という意味です。三段論法の結論では媒語が消失していますが、この結論を支えているのが媒語です。駕籠に乗る人、駕籠を担ぐ人は目に見えますが、草鞋を作る人は見えません。媒語とは此の草鞋を作る人のようなものです。
佐野
私たちは媒語の中で分かった気になって生きていますが、そこには現れて来ないものがあると。面白いですね。大語の方向に無限に進めていくと、最後に「無に等しき有」という矛盾、小語の方向でももはや概念でない個(特殊)に行きつく。ここには飛躍ないし超越があるわけですが、そうした飛躍ないし超越における矛盾が、実は分かりきっていると思われている媒語を支えている、そんな感じでしょうか。今回のプロトコルを通じて私たちの理解も深まったようですし、Nさんの思想の根本にも少し触れることができたように感じられます。プロトコルはここまでにして本日の講読箇所に移りましょう。今日は263頁5行目「事実的判断は論理的に」から265頁3行目「逆に内面的なる意志の連続に過ぎない」まで講読します。それではAさん、お願いします。

A

読む(263頁8行目まで)。

B

「事実的判断は論理的に矛盾なく否定し得る」というのが分かりません。どういうことですか?
佐野
「事実的判断」というのは特殊が主語になる判断ですね。「カエサルがルビコン川を渡った」という命題は論理的に矛盾なく「渡らなかった」と主張することもできます。カエサルは渡ることも渡らないこともできたはずです。

C

しかし歴史的事実としてはそうは言えないのではないでしょうか?
佐野
歴史的事実というものもそうでなかった、という可能性はあるのでは?その主張を支える論理というものもあるわけです。

C

科学的事実はどうでしょう?
佐野
その場合でも個々の事実が問題になる場合には、同じでしょう。一般的な法則を破ることはありませんが、「この」花がまさにこういう色をしていなければならない、ということはありません。そこで西田は「事実的判断」の「根柢には所謂論理的一般者」、これは必然的ですね、この「一般者を越えて自由なるものがなければならぬ」と言います。そうしてそこに「意志の立場の加入」が考えられると。さらに意志は「単に偶然的作用ではなく、意志の根柢には作用自身を見るものがなければならぬ」と言います。作用自身を見る、自覚ですね。直観と言ってもいいと思いますが。『善の研究』でも「意志の自由」の所で「自知」と言われていました。「所謂一般概念的限定」、これは必然的ですね、こうした限定を「越えた場所に意志の意識がある」、この「意識」が「見る」あるいは「知る」ということです。それではBさん、次お願いします。

B

読む(263頁10行目まで)。
佐野
ここでは作用、判断の立場、有の場所、それと自由、意志の立場、無の場所がそれぞれ対になっていますね。次からがとても難しい。Cさん、お願いします。

C

読む(263頁15行目まで)。
佐野
ここでは「主観的作用から見れば」と「客観的対象から見れば」が対になっていますね。「主観的作用から見れば」「有から無に、無から有に思惟作用を移すことによって両者を対立的に考え得る」とあります。それに対し「客観的対象から見れば」「有が無に於てある」となる。そうして「思惟の対象界に於て限定せられたもの」が「有」であり、そうでないものが「無」だと。「思惟の対象界」は「それ自身に於て一体系を成す」のに対し、「無」はこうした「有よりも一層高次的」とされています。これ、西田の考えでしょうか?

B

違うような気がします。西田が自分の主張をする時は「なければならぬ」になることが多いのに、ここは「考えることができる」になっています。
佐野
なるほど。ではそのことも可能性として残しておいて、次を読みましょう。Dさん、お願いします。

D

読む(264頁5行目まで)。
佐野
ここも4行目までは、最後は「云い得るであろう」「考えることもできるであろう」で終わっていますね。しかしその後は「併し無を有と対立的に見る立場は、既に思惟を一歩踏み越えた立場である、所謂有も無も之に於てある作用の作用の立場でなければならぬ」と「なければならぬ」で終わっています。Bさんの説によるならば、この最後の一文は西田の考えだということになります。「作用の作用の立場」とは「作用」を「見る」立場のことですね。「自覚」と言ってもよい。先程は「作用とは一般概念によって限定せられたもの」(263,9)とされ、そうした「作用自身を見る」のが「意志の意識」とされていました。そうして「判断の立場から意志の立場に移り行くというのは有の場所から無の場所に移り行くこと」(同9-10)だとされていました。「作用の作用の立場」とは「意志の意識」ないし「意志の根柢」にある「見る」ということをも含めた「意志の立場」だと考えられます。問題は先程の西田の考えとは異なるとされた「主観的作用から見れば」と「客観的対象から見れば」という二つの立場と、この「作用の作用の立場」とがどういう関係にあるか、です。そこでもう一度この部分(「併し無を有と対立的に見る立場は、既に思惟を一歩踏み越えた立場である、所謂有も無も之に於てある作用の作用の立場でなければならぬ」)を読んで見ると、「無と有と対立的に見る立場」とは第一の見方(「主観的作用から見れば」)のことでした。それが実は「既に」そうした「思惟を一歩踏み越えた立場」だというのです。次にある「有も無も之に於てある」というのは直前の、有と考えられた無以前の「無限定のもの」を念頭において、「之に於て有と無とが対立関係に於てあると考えることもできるであろう」という表現を受けていそうですね。そうしてそれが実は「作用の作用の立場」であると、そう言っているようです。ここにも超越がありそうですね。無と考えることは実は有であった、だからその根柢にさらに無限定なものがなければならぬ、というように考えると、そうした根柢も有になってしまい、これはどこまでも続いてしまうからです。だからここには超越がなければならない。我々は主観的に対立的に見る(第一の立場)か、一般概念のうちで客観的に対象化して見る(第二の立場)か、どちらかしかできませんが、実はそれらがすでに意志の立場なのだ、そのように言っているようにも見えます。(そもそもこの話の出処は「事実的判断」でした。「事実的判断」においては肯定と否定がそれぞれ論理的に矛盾なく成立し、ここに矛盾が起こるわけです。これは第一の見方ですね。そうして我々はこうした「事実的判断」においても大語を基に置いて包摂判断のように考えることを止めません。これが第二の見方です。こうした我々の通常の判断の在り方の根柢に、実は意志の立場がある、そのようなことを言おうとしているようにも見えます。駕籠を担ぐ人と乗る人は見えるが、草鞋を作る人は見えない、ということかもしれませんね。)次を読んで見ましょう。Eさん、お願いします。

E

読む(264頁12行目まで)。
佐野
ここも大変難しい。まず「判断作用の対象として考えられた時、肯定的対象と否定的対象とは排他的となるが、転化の上に立つ時、作用其者の両方向を同様に眺めることができる」とありますね。「作用其者の両方向」とは何ですか?

E

肯定的対象から否定的対象へ、否定的対象から肯定的対象へ、ということだと思います。
佐野
そうですね。或る判断対象についてそうである(有)、そうでない(無)、ということになると思いますが、その意味では有から無、無から有と考えてもいいですね。この「転化の上に立つ」のはどのような立場ですか?

A

意志の立場、作用の作用の立場だと思います。
佐野
なるほど。そうも読めますね。では次に出てくる「併し措定せられた対象界から見れば」というのは、何と対になっていますか?

A

「判断作用の対象として考えられた時」、でしょうか?だとすれば、「転化の上に立つ時」というのも、意志の立場ではなくて、判断作用の対象として見る立場のような気がします。
佐野
その可能性も念頭に置いて、次を見て見ましょう。「措定せられた対象界から見れば」どうなるかというと、「有は無に於てある」ということですから、これは先の第二の見方のことです。「赤の表象自体は色の表象自体に於てある」「物は空間に於てある」というように「一般概念」を「於てある場所」として考える立場です。判断作用それ自身も「働くもの」としてそうした「一般概念」において初めて考えることができます。こう見てくると、先の第一の見方(「主観的作用から見れば」)がここでは「判断作用の対象として考えられた時」に受け継がれ、第二の見方(「客観的対象から見れば」)が「措定せられた対象界から見れば」に受け継がれていることが分かります。そうして第二の見方において第一の見方である判断作用が考えらえられることになります。これは所謂反省ですね。しかし第二の見方は「一般概念」(大語)の上で考える立場ですから、さらなる一般化(大語)が考えられ、これがどこまでも続くことになります。どこかで転換・超越がなければならないことになります。我々は「作用自身を直に対象として見ることはできない」。「一般概念」を「於てある場所」とすることで初めて作用を考えることができる。しかしそうした場所は根柢を求めて無限に続いてしまう。そこに転換がなければならないことになります。そういうわけで次に「一般の中に無限に特殊を含み而も一般が単に於てある場所と考えられる時、純粋作用という如きものが見られるのである」と言われるのだと思います。「無限に」とありますね。これは転換・超越の体験のあったところから見ているのです。次を読みましょう。Fさん、お願いします。

F

読む(265頁1行目まで)。
佐野
「斯く考えれば一つの立場から高次的立場への接触は、直線と弧線とが一点に於て相接するのではなく、一般的なるものと一般的なるものと、場所と場所とが無限に重り合って居るのである、限なく円が円に於てあるのである」とありますね。Cさんの着目する「重り合う」が出てきました。「限なく円が円に於てある」、こういう所、Bさん、好きですよね。

B

はい。好きです。
佐野
この円はもちろん「鏡」と置き換えてもいい。要は究極的な大語に迫っていってそれに一点で触れるというのではなく、もちろんこれは真の無の場所に触れた所から言えることですが、場所と場所、円と円が無限に重なっている、そのように体験されているということです。そうして「限定せられた有の場所が限定する無の場所に映された時、即ち一般的なるものが限なく一般的なるものに包摂せられた時、意志が成立する」と来ます。この「時」も体験の刹那です。次に行きましょう。Gさん、お願いします。

G

読む(265頁3行目まで)。
佐野
「限定せられた有の場所」と「無の場所」が対置されていますね。そうして「意識する」とは「無の場所に映す」ことだと。そうしてこの場所(真の無の場所)から見れば、有の場所を超越した個物(「主語となって述語とならない基体」「無限に働くもの」)は「内面的なる意志の連続」に過ぎない、とされます。まさに純粋経験の世界ですね。今日はここまでにします。難所はまだまだ続きます。
(第53回)
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媒語による有と無の超越

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 260頁12行目「直覚を概念の反射鏡に照らして」から261頁14行目「論理的知識が成立するのである」までを講読しました。今回のプロトコルはMさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「併し特殊概念は更に特殊なものに対して、一般概念とならねばならぬ」(261.12)で、「考えたことないし問い」は「読書会では一例として、小語→ソクラテス、媒語→人間、大語→死すべきものという例があげられた。恐らく今大語の位置にあるものが次に媒語となって、さらに大きな述語的なものに包摂されてしまうであろう。読書会において個物を主語の方向に向かっていくら語りつくしても個物に到達不可能であるということは何度も確認している。ならば述語の方向に向かって今度は個物に到達しようと試みているわけであるが、それは果たして可能なのだろうか」(160字)でした。例によって記憶の断片から構成してあります。

M

問いを深めるために「我々はすでに個物に到達しているのか、それとも個物だと思っているのが本当に個物であるのか」に改めようと思います。
佐野
分かりました。それでは皆さん、到達していると思われる方は挙手してください。(挙手する。約半々に分れる)。反対意見の方からお伺いしましょう。

A

到達したと思ったとたん概念化していると思います。離れた所からなされた判断になっています。
佐野
その場合、「個物」というのもすでに概念だ、ということになりますね。

A

そうだと思います。到達していると思っているだけで、いつも個物からは目を逸らしているんです。

M

個物は概念ではないと思います。「この花」は概念ではありません。私の目の前にある唯一のものですから。
佐野
でもその「この花」も「私の目の前」も、誰にとってもそういうことになりませんか?つまり「これ」も「私」も一般概念ということになりませんか?

B

西田は「実在は現実そのままのものでなければならない」と言います。我々はつねに、そうしてすでに個物に到達しているのだと思います。もし個物に到達していなければ、例えば「ポチは犬である」という判断につながっていかないと思います。実在は論理につながっていなければならないと思います。

M

その意味では個物に到達するということは「純粋経験」に到達することだと思います。

C

「僕自身」とか「本当の所」というのはどこまで行っても、「分かった」ということにはならないし、現実そのものを捉えた、とは言えないと思います。

M

積み上げるような仕方では到達できない。だから直観によって個物に到達できるとされるのでしょう。

A

私たちは直観の中で生きていますが、そこから概念や論理が生じるというのはどういうことかが問題になると思います。
佐野
直観と概念・論理との関係は?Bさんは実在と論理はつながっていなければならないとしていましたが。両者は単純に連続しているのですか?

M

西田は個物と概念の間には飛躍がなければならない、と言っていたように思います。個物は点のようなもので、概念がそれを映す鏡です。
佐野
点は見えませんね。我々は概念の鏡を通じてしか個物を見ることはできないのでは?ならばどうして個物があると言えるんですか?

M

信仰です(笑)。

C

このポチがまずいるよなあ、それから、ポチは犬だなあ、それから「ハアハア」言っているなあ、となると思います。まずは直観がある。でも言語がなければ判断ができない、こういう関係ではないでしょうか?
佐野
でも、「このポチがいるなあ」というのはすでに「この」とか「いる」という言葉を使っていますが、これはすでに言語であり、概念では?

C

判断の方から逆に考えるんです。そうすると個物に触れている、ということがなければならないことになります。でも「あってほしい」という願望がないとは言えません。
佐野
判断が破れる、言葉を失い、そこで沈黙せざるを得ないような「体験」においてそうした「個物」に触れている、というようには考えられませんか?沈黙を守っていらっしゃるDさん。何かありませんか?

D

個物と一般は矛盾的な関係にあると思います。それを「いま・ここ」として掴む。個物と一般がせめぎ合う矛盾こそが「場所」であり、そのせめぎ合う落ち着かない場所を「この(いま・ここ)」で固定するのが概念の力です。
佐野
なるほど。同じく沈黙を守っていらっしゃるEさん、いかがですか?

E

「この鉛筆」を分析するとさらに新たな個物が出てきて、これは限りがないので、個物に到達することはできないのではないかと思います。
佐野
Fさんは?

F

「これ」というものに直接アクセスすることはできないと思います。だから直覚とか言われるんじゃないかと。

M

芭蕉の句に「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」というのがありますが、ここには「おどろき」があります。純粋経験の中にあるとはこういうことだと思います。そこでは自分を失う、ということがあります。そこにおいて、これまでもずっと咲いていたなずなであるはずなのに、それがありありと咲いている事実に出会う、その意味でここにはやはり「飛躍」があると思います。そうしてそれが同時に「生死の場所」だと、そういうお話を以前伺いました。
佐野
なるほど。本質に迫るような意見が出た所で、本日の講読箇所に移りましょう。今日は261頁14行目「然らばかかる一般概念を」から263頁5行目「異なったものでなければならぬ」まで講読します。Dさん、読んでください。

D

読む(262頁5行目まで)。
佐野
最後に「此地位」とありますね。「此」は何を指していますか?

A

「真に一般的なるもの」だと思います。
佐野
そうですね。あるいは「有無を超越し而も之を内に含むもの」「自己自身の中に矛盾を含むもの」でも、「最高の一般概念」でもいいですね。

A

「最高の一般概念」は大語じゃなかったんですか?何故それが「媒語」になるのかが分かりません。究極の大語があれば媒語はいらないんじゃないですか?
佐野
それはたぶん大語の究極的なところでなお有を考えているからでしょう。有と無を包むものをさらに「有」として考えていませんか?後から来られたGさん、何かございませんか?

G

遅れてすみません。この「推論式」って何ですか?
佐野
三段論法はよろしいですか?例えば、「人間は死すべきものである」が大前提、「ソクラテスは人間である」が小前提、故に「ソクラテスは死ぬ」が結論です。結論の述語(死すべきもの)が「大語」、結論の主語(ソクラテス)が小語、両者を媒介するもの(人間)が媒語です。大語、媒語、小語の三つの語から結論を引き出す式が推論式です。これまでの叙述では、この大語の方向に一般概念を限定するものを求めていくと、最後に至る「最高の一般概念」は「何處までも一般的なるもの」でなければならない、とされています。小語方向なら、どこまでも特殊なるものになりますね。これに到達できるかどうかが今日プロトコルで問題にされたわけです。一般の方向の話に戻ると、一般化を進めていくと、最後には全部「有」に包括されることになりますね。問題はここからです。すべてが有だということになると、有ということもなくなってしまいますね。有というのもすでに規定性であり、限定されたもので、限定されたものは〈すべて〉ではありませんから。これをテキストでは「すべての特殊なる内容をこえたもの」と呼ばれ、それが「無に等しき有」だとされています。そのような無が直ちに有だからです。(この辺りヘーゲルの有と無の弁証法を思わせます)。

G

そうなると推論式は崩壊しますね。
佐野
ええ。同じことは小語の方向、特殊化の方向についても言えるはずです。最後に点になって消失するということです。大きな円も小さな円も消失して、残るのは中位の円だけ、媒語だけということになります。(この媒語の円が無限に重なり合うことになります。)今日のプロトコルでも問題になったように、小語の方向で言えば、我々はどこまでも一般概念を離れることができません。「これ」と言っても「ある」と言っても、むしろそれは一般的なものになってしまいます。しかしそれでは特殊(個)は真に特殊になることはないだけでなく、一般も真に一般になることはありません。さらにもう一歩の超越・飛躍が必要となります。この飛躍が一般の方向で言えば、「有」をも越えて、「無に等しき有」となることです。我々はそこで「個物」に出会うわけです。しかしそのことと同時に、無限の媒語の円(鏡)の重なり合い、映し合いが現出する。そうなると一つ一つの媒語に最高の一般者(と個物そのもの)が属していることになります。これが「推論式に於ての媒語は一方から見れば大小両語の中間に位するものと見られるが、深き意味に於ては既に此地位にあるものでなければならぬ」の意味だと思います。前半が日常の見方、後半が体験における見方(「深い意味に於ては」)です。

M

媒語が「自己自身の中に矛盾を含むもの」になるのだと思いますが、矛盾は無矛盾に対して言われるものですよね。
佐野
ええ。我々の日常経験には矛盾はないかのように見えます。一般概念の土俵の上では矛盾律が成立しなければなりません。そうでなければ我々は考えることすらできません。しかし体験を経た後には、実はそうした日常的な経験の一つ一つが根本的な矛盾の現出であったことに気付く、そうしたことだと思います。なずなが実はずっと垣根に咲いていた、という経験に通じると思います。次へ行きましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(262頁11行目まで)。
佐野
「単に知識の立場から云えば、それは考うべからざるものであろう」とありますが、「それ」とは何ですか?

C

前の文だと思います。
佐野
そうですね。媒語が大小両語の中間にありながら、「有無を超越し而も之を内に包む」「最高の一般概念」ような地位にあることですね。つまり媒語が媒語でありながら、同時に真の大語であるということだと考えられます。このようなことは「単に知識の立場」では考えられないと。「知識」は無矛盾でなければならないからです。それを受けて「然らば、矛盾の意識は何によって成立するであろうか」と来ます。我々は矛盾を意識しているから「無矛盾」ということも分かるわけです。じゃあ、その矛盾をどこで意識しているのか、それが問題になります。ついで「論理的には」とあるのは〈知識としては〉と同義でしょう。「それ」つまり「矛盾の意識」は「唯矛盾によって展開し行くヘーゲルの所謂概念の如きものを考える外ない」とあります。ヘーゲルの概念が問題になりますね。ヘーゲルは、我々の経験の根柢に思想(論理、ロゴス)があると考えます。カテゴリーと言ってもいい。有も無もそうしたカテゴリー(思想)です。さらにこの思想を徹底的に考えていくと、反対のものに転じてしまう、ということが起こります。これが弁証法ですが、それは単なる無に終わらずに、次のカテゴリーがそこから生じてきます。このように運動する「思想」が「概念」です。西田は「知識の立場」ではこうした仕方でしか矛盾は意識されないと考えます。しかしそうした「論理的矛盾其者を映すものは何であるか」、それを西田は問題にします。裏には、ヘーゲルはそのことを問題にしていないという主張が含まれています。そうしてそれが「意志の立場」だ、そう西田は言います。

D

直観ではないのですか?
佐野
とりあえずは「意志」です。もう少し待ちましょう。「論理的矛盾を超越して而も之を内に包むものが、我々の意志の意識」だとされています。知識と意志の関係についてはこれまでも何度か述べられていましたね。例えば「判断と意志とは一つの作用の表裏」(234.9-10)とされ、「円い四角形という如きものを意識するには、背後に於ける意志の立場が加わらねばならぬ」(同12-13)とされています。ここではカントの「意識一般」が「門口」とされていました。この「門口」が超越の起るところです。「知識の立場」から「意志の立場」への超越です。そうした立場で「媒語が一般者となる」。次を読みましょう。Dさん、お願いします。

D

読む(262頁14行目まで)。
佐野
「媒語が単に大語の中に含まれるとするならば、推論式は判断の連結に過ぎない」とありますね。これは大語と小語、それぞれの方向に無限に連結していく考え方です。ここには矛盾はありません。しかしそれを徹底するならば、この推論式が崩壊し、転換して媒語が「統一的原理の意義」を含み、「大語も小語も之に於てある」ということになります。こうした「推論式的一般者」はここではじめて登場するので、重要な箇所だと思います。次へ行きましょう。Eさん、お願いします。

E

読む(263頁2行目まで)。
佐野
「媒語は此場合、私の所謂意識の場所の意義を有って来る」とありますね。これはカントの「意識一般」と考えてもよいかもしれません。上に挙げた箇所では「意識一般」が「門口」となって「判断(知識)の立場」から「意志の立場」への移行がなされましたが、ここでは「推論式に於て」そうした「推移を見る」とされています。因みにカント哲学では理論理性から実践理性、純粋理性批判から実践理性批判への移行ということになります。次に「判断に於ては我々は一般より特殊に行く」とありますが、すぐ後で「特殊から一般に行く」のが「帰納法」とされているのに対し、これは何と呼ばれるでしょうか?

E

演繹法です。
佐野
そうですね。以前にも「一般の中に特殊を包摂して行くことが知識であり、特殊の中に一般を包摂することが意志である」とされていました。我々はミカン一般を食べることはできず、このミカンを食べるほかない、意志をそのように考えました。すでにそうした性質は「帰納法」にもある、ということになります。あと少し時間がありますね。次をFさん、お願いします。

F

読む(263頁5行目まで)。
佐野
どこか分からないところはありませんか?

F

「かかる一般者」というのがよく分かりません。

C

媒語のことではないでしょうか?

A

すぐ前の文に「特殊なるものの中に判断の根柢となる一般なるものが含まれて居なければならぬ」とありますから、この「一般なるもの」のことではないでしょうか?
佐野
さしあたりはそう考えるべきでしょう。ここでは特殊が主語となる「事実的判断」が問題になっています。ソクラテスは知者である、醜いといった判断ですね。こうした判断のなかにある「一般的なるもの」が「かかる一般者」と呼ばれ、それが「たんに包摂判断の大語と考えられる一般者とは異なったものでなければならぬ」とされています。そうだとすれば、それは「媒語」ではないか、そんな風に思えてきますが、それは次回にしましょう。
(第52回)
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自ら照らす鏡

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」(旧版)「場所」四 259頁9行目「知覚の意識面を限定する境界線」から260頁12行目「知覚と云い得るのである」までを講読しました。今回のプロトコルはKさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「単に映す鏡」(259,15)「自ら照らす鏡」(260,1)で、「考えたことないし問い」は「対立的無の場所に於いて有るのが「単に映す鏡」(外を映す鏡(231 頁8-10 行目))、元来、真の無の場所の底にあるのが「自ら照らす鏡」(内を映す鏡(同上))、であるとした場合、「自ら照らす鏡」は矛盾の関係をどう映すのだろうか?「一般概念の外に出ることで矛盾の関係を見る(254 頁15行目)」ということとの関係をどう考えたらいいのだろうか?」(160字)でした。例によって記憶の断片から構成してあります。
佐野
いくつかの対応関係が重なっていますね。整理しておきましょう。
1.「単に映す鏡(外を映す鏡)」と「自ら照らす鏡(内を映す鏡)」
2.「対立的無の場所」と「真の無の場所」
3.「一般概念」と「一般概念の外」
4.「相異」・「相反」と「矛盾」
さらにこれに
5.「限定せられた場所」と「限定する場所」
を加えることもできますね。それぞれ前と後が対応しています。さて、そこで何が問題になっているのでしょうか?

K

矛盾の概念をどう考えたらよいかということです。生成と消滅は普通に考えれば対立(相反)です。しかしこれを突き詰めて考えると、生成がそのまま消滅ということになる。例えば、生と死は普通に考えれば生は生だし、死は死です。しかし生はつねに死をはらみ、死は生をはらんでいます。これが「自ら照らす鏡」とどう関係するか、ということです。
佐野
矛盾を映す、ということではだめですか?矛盾が見えてくる、ということです。生と死について言われたことは、木の葉が緑から緑ならざるもの(黄色)に変化する場合にも言えますね。

K

ええ。緑はつねに黄色を抱え込んでいるということです。
佐野
同じことは〈塩が白くて辛い〉という場合にも言えるでしょう。「一般概念」によって限定せられた場所では、矛盾律が成立しなければなりません。緑は緑、黄色は黄色です。矛盾律を守ろうとすれば、塩の白と辛さが同時に成立しているということは矛盾ですから、両者は塩という〈物〉の性質である、このように考えるわけです。これは「相異」です。しかし〈物〉の性質でも反対のもの(「相反」)は同時には存在し得ない。その場合には〈時〉をもってくる。しかし相異の場合でも相反の場合でも、突き詰めて考えると、そこに矛盾が見えてくる。もちろんこの「突き詰める」というところに「超越」がなければなりませんが、そこに「矛盾の関係」が映し出されている。これが「自ら照らす鏡」ということでしょうね。

K

そこに「芸術的内容をも見る」とありますから、矛盾が照らされる場所は、言葉にならない感動の世界ということにもなると思います。じつは我々はつねに一般概念の内と外を出入して、言葉にならないものを言葉にしていると言えませんか?

A

〈この赤が赤である〉というのも、そうだと思います。「この赤」は無限に深いものだと思います。
佐野
そこにもじつは「特殊(この赤)」と「一般(赤一般)」の矛盾がありますね。一般という「一般概念」と特殊という「一般概念」が映し合っている。

A

合わせ鏡ですね。「鏡と鏡とが無限に限なく重なり合う」とありますけど、どういうことでしょうか。
佐野
知覚のことについては以前の「共通感覚」のところの記述(257頁)が参考になると思います。「感覚に附着して之(感覚:引用者)を識別する」(同10)ことによって、「知覚の野を何處までも深めて行く」(同7)。それによって「共通感覚」に到達するとあります。個々の音に「音調」(一般概念)、さらに「色調」(一般概念)がそれに重なり合う。

B

それは鏡と鏡が「重なり合う」のであって、合わせ鏡のように「映し合う」のとは違うのでは?

C

いや、やはり「映し合う」のだと思います。鏡ですから。そうして光源は「自ら照らす鏡」の方にある。
佐野
「鏡と鏡とが限なく重なり合う」という表現をどうイメージするのか、ピッタリ一枚に重なっているのか、それとも層をなして重なっているのか、それとも合わせ鏡のようになっているのか、それはここではペンディングにしておきましょう。プロトコルはこのくらいにして先を読み進めましょう。今日は260頁12行目「直覚を概念の反射鏡に」から261頁14行目「論理的知識が成立するのである」まで講読します。Cさん、読んでください。

C

読む(261頁1行目まで)。
佐野
「直覚を概念の反射鏡に照らして見る」とありますね。「概念の反射鏡」というのは?

C

「一般概念」だと思います。
佐野
そうですね。直覚が(知覚という)「一般概念」に映ったものが「知覚」だということですね。そうして「知覚を芸術的直観の如きものから区別して、之を知識と考え得る限り、それは直覚其者ではない」とありますが、「之」とは何を指していますか?

D

「知覚」だと思います。
佐野
そうですね。そうすると、ここでは直覚を芸術的直観のようなものと同類に見て、それに概念と一つになった知識としての知覚を対比していることになります。直覚そのものは概念的言語を超えたものです。それを概念で切るところに土俵ができて、言葉で説明できるようになるわけです。つぎに「数学者の所謂連続の如きもの」とありますが、これは概念的なもので、目に見えるものではありません。ですからそのようなものは「見ることはできぬ」とあります。そうして「知覚の背後に」このような「概念を越えた何物かを見ると考えるのは芸術的内容の如きものでなければならぬ」とあります。芸術的内容は概念化できないということです。どこまでも分からない深いものです。それは「ベルクソンの云う如く唯之と共に生きることによって知り得る内容である」とあるように、対象化して知ることのできない、その意味では体で知るほかないものです。Dさん、次お願いします。

D

読む(261頁4行目まで)。
佐野
どこか分からないところはありますか。ここでは「知覚の水平面」は「概念面」と平行して広がっていることが述べられています。ではEさん、次お願いします。

E

読む(261頁9行目まで)。
佐野
ここは難解です。述語が無、主語が有で、述語が主語を包んでいる、とは包摂判断ですね。それが「窮まる」。すると主語面(有)は述語面(無)に没する。それが「転回」の所と言われる。これはどういうことでしょうね。主語を対象化できないところ、判断が成立しないところと考えることができますね。

F

純粋経験のことでしょうか?
佐野
そうですね。本質的なところは同じかもしれない。先を読むと、その転回の所で「範疇的直観」が成立する、とあります。また「カントの意識一般」もおそらくここで成立する。これまでそれに乗っかって判断を行っていた、「一般概念」が直観される。ところでカントの意識一般は「一般概念」ですか?

G

違うと思います。テキストにも「無の場所」とあります。
佐野
そうですね。ですがカントの意識一般を以前、西田はどのように位置づけていたか覚えていますか?

G

対立的無の場所と真の無の場所の間の「門口」です。
佐野
そうでしたね。ここでも意識一般は転回点として位置付けられています。さらに西田は「かかる転回を一般概念によって限定せられた場所の外に出る」と言っています。「一般概念によって限定せられた場所」でひとまとまりです。さらにそれを言い換えて「小語から大語に移り行く」と述べています。「小語」とは「ソクラテス」のような特殊面でした。今までこれが主語になっていたのです。それに対して「大語」とは「死すべきもの」のような一般面でした。これが述語を成していました。ですから「小語から大語に移り行く」とは、これまで主語的なるものが基体であったのが、「述語的なるものが基体となる」ことであり、「これまで有であった主語面をそのままに述語面に没入する」ということになるのです。このように主語面が述語面に没入し、述語面が基体となることで、今度は逆に、「特殊なるものの中に一般的なるものを包摂するという意志の意味を含んで来る」ことになります。ここに意志の成立を見るのです。もう少し時間がありますね。次の段落に行きましょう。Gさん、お願いします。

G

読む(261頁14行目まで)。
佐野
どこか分からないところはありますか。ここは大前提(人間は死すべきものである)―小前提(ソクラテスは人間である)―結論(ソクラテスは死ぬ)を、大語(死すべきもの)―媒語(人間)―小語(ソクラテス)というように語によって連結させて「推理式」と呼んでいます。これをさらに一般化させると、まず「最高の一般概念」があって、無限の特殊化の過程を経て個物に至る、と考えられます。これを西田は「論理的知識」と呼んでいます。今日はここまでにしましょう。
(第51回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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