本日の「哲学的問い」は「『判断的知識』を超えることができないとするカントの立場と、それを超えた『直観的知識』が可能であるとする西田の立場、どちらが正しいだろうか」でした。それでは最初の方とのやり取りです。その前に次回で取り扱うテキストの箇所を示しておきましょう。5月30日までに「表現作用」「三」。141頁4行目から148頁7行目までを読んでおいてください。5月30日に「プロトコル」にて佐野の解釈案をアップしたいと思います。なお、6月6日からは対面型の読書会に復帰したいと思います。マスクの着用をお願いします。6月6日は佐野の解釈案の検討と、哲学的問いの考察を行います。6月13日からは通常の読書会のやり方で進めます。
おはようございます。プロトコルありがとうございました。冒頭での、「序」の確認。全体を見失わないで個別の章立てを読み進めていくうえで大切だと思いました。さて、哲学的問いですが、その問い方に驚きました。「いずれが正しいか」という問い方が哲学においてあり得るのか、このことをまず感じました。
もちろん、決着をつけることが目的ではなく、むしろ決着がつかないところをどう考えるか、これをしてみたいのです。
そして改めて、問いを考えた時、「働くもの」は、「判断知識」において成立するものなのか、それとも「判断知識」を超えた「直観的知識」において成立するものなのか、ということなのだろうか、と考えました。
そして、そこでは、「時」についてのとらえ方の違いがキーではないか。そんなことを考えてみました。とりあえず私の思考の出発点です。さらに考えてみます。よろしくお願いいたします。
なるほど。楽しみです。自分がその身である「人間とは何か」に迫ればと思います。
御教示ありがとうございます。ただ、まだ、考える道筋が見えてきません。ただ、おぼろげに感じるのは、人間に対するとらえ方、その人間社会の中で起こる様々な変容、発展に対するとらえ方が、カントと西田では異なっているにではないかと感じます。
カントに於いては、「考える」ことで、人間は発展し、社会の変容、発展も生じる、しかし、西田に於いては、「考える」ことでは解決できない矛盾を抱えるものとして人間をとらえている、そして、その矛盾を解決する継起として「知的直観」、直覚の立場を見出す、そんな感じがしています。
なるほど。理性への信頼が「近代」とされますが、西田はそうした「近代」以後ということでしょうか。そこなんですね。よく言われることなのですが、本当にそうだろうか。そんな割り切り方をしていいのだろうか。
これに西洋と東洋を重ね合わせる時、そうした疑念はさらに深まります。そのように考えたくさせるものは何か、そちらの方に関心がでてきます。むしろ人間とは何かが歴史を通じてさらに問われているのではないか。
歴史を見る場合もそうなんですが、答えを出すのではなく、歴史を通じてどこまでも分からない「人間」が問いとして顕になってくる、そう考える方が、しっくりきます。少なくとも、近代を超克する使命が東洋にあるなどというように考えるよりは。どうでしょう?
もちろんこのように答を出そうとする傾向から人間は自由ではありませんが、その一歩手前、そこに留まる。これも答えですが。その矛盾を通して見えてくるもの。まあ、どう言っても答えなんですが。
「時」についても「善の研究」の叙述などとの関係をもう少し考えてみたいと思います。少しずつ考えてみたいと思います。よろしくお願いいたします。
はい。またお聞かせください。それでは次の方です。
こんにちは。今回のプロトコルはカントを知らない私にも理解できました。つまり、「知ることを知る」自覚の根柢に在るものについてのカントと西田の違いということでしょうか。自覚の根柢に或るものがカントにとっては「空無」であり、西田はそこにその場所に何者かを「知的直観」により見出そうとしたということでしょうか。
記憶とは、昨日の我と今日の我が続くというのは、自分が映っているビデオの映像を見ているようなものではないかとも思えます。カントの場合それを見ている人がいない、しかし西田は自身がそれを見ているとも思えるのです。
なるほど。面白い表現ですね。一応カントの場合見ているのは超越論的自己ですね。誰でもない自己です。西田の場合は真の自己、映す自己ですね。
見ているのは「我」です。併し、「我」とは何か。現在か。現在は掴めない。
しかし、「現在意識」においてのみ我々は「物を覚知せらる」のです。ならば「現在意識」とは何か。
うん。うん。これは「何か」を見る西田の立場ですね。
意識は必ず或る人の意識でなくてはならない。とありました。
カントではそれはありませんね。意識一般です。誰でもない意識です。
カントの「我」は外に見る我であり、「我」でも「或る人」でもないと思います。
カントの超越論的統覚の「我」(私は考えるの「私」)は誰の意識でもありません。西田はその点を批判して「意識は必ず或人の意識でなければならない」と言ったのです。それに対して、カントの経験的な自我は対象として見られた経験的な自己、外に見られた自己です。
カントのペンも今ここにあるこのペンではなく過去にどこかで見たペンだと思います。
ええ。経験の対象となるペンです。カントの場合ペンになる、という認識はありません。
「私が赤の点から青の点に移る時どこか私の心の中の一点を通るのであろうか。」(88頁)「私の心の中の一点」が空無なはずがないと思うのです。
そこですね。その「一点」のうちにカントは「私は考える」の「私」を見た、ということですね。カントにおいてそれは決して直観できない。それ自身は空無でありながら、すべての経験的実在性を現象に引き下げると共に、現象に経験的実在性を与える。私の友人のカント研究者はこうしたカントの自我を大乗仏教の「空」になぞらえています。西田はそうした絶対の無の内に真実の有にして真実の自己を直観します。
さて、ここなんです。こうした見方は「空」を実体化した、とも考えられます。その場合何故実体化したかというと「空無なはずがない」という我々の願いだ、ということになります。我々の根柢の空無を嫌った、そういう批判が成り立ちます。考えて見れば「自我」の根拠は一面において底無しの深淵です。我々が直視できないものです。そこに何かを「見た」というのは救いにはなるかもしれないが、怪しいのではないか、逃げではないか、そんな風にも考えられます。
しかしですね、では「空」の立場に留まる、と言ったら解決するのでしょうか。しませんね。やめられないんです。人間は何かを究極的な立場として立ててしまうということを。しかしどうにもならないというところに開けているものがある。もちろんそう言ったとたんに立てている。これを決してやめられない。だからますます絶えることなく開けているものがある。それが「現在」だ。
何だか訳がわからないのですが、昨日はもう少しわかっていたのです。考えれば考えるほどわからないのです。あんまりぶつぶつ言うとますます娘に嫌われます。
お忙しいのにメールありがとうございました。西田の「意識は必ず或る人の意識でなければならない。」とあったのを見たとき、ならば或る人が、例えば私が死んでしまったら私の意識は消えてしまうのか。人が死んだら意識は一体どうなるのだろうか。と思いました。西田が「私の心の中の一点」に空無以外のなにものかを願ったのは、次々と亡くなってしまった家族への思いがあったのではないかと思います。
「特に深く我が心を動かしたのは、今まで愛らしく話したり、歌ったり遊んだりしていた者が、忽ち消えて壺中の白骨となるというのは、如何なる訳であろうか。もし人生はこれまでのものであるというのならば、人生ほどつまらぬものはない。此処には深き意味がなくてはならぬ、人間の霊的生命はかくも無意義なものではない。」
有名な一節ですが、いずれ皆消えてしまうのですから、西田は「空」であることをもちろん知っていたでしょう。しかしその「空」「空無」は何もない「空無」ではない。むしろ「空無」だからこそ沈黙しかそこにはないからこそ、なんとかその場所に空無以上の「深き意味」を願ったのだと思います。ありがとうございます。
思索がぎりぎりのところに来ていますね。そこなんですね。思索すべきところは。それでは次の方です。
当方久しく無音続きにて、誠に恐縮に存じます。遠隔読書会の開始以降,先生のプロトコルを拝読させていだだいておりましたが、解釈して読み切るのが精一杯でありまして、当読書会に中々参加できずにいました。遅ればせながら 、参加させていただければ有り難く思います。よろしくお願いいたします。先生におかれましては、御多忙のことと存じますが、以下につき御教授をいただければ幸甚でございます。哲学的問いについて、以下のように考えます。最初に、カントの「判断的知識」とは、「物を知る・物を思惟する」ことであると考える。
ええ。ですがカントの超越論的統覚は「私は考える」が伴いますから、「知ることを知る」が伴います。カントもこの統覚を明確に自己意識(自覚)であるとしています。
西田の言によるならば、直観の形式を時間とし、時間の形式によって、思惟の内容は感覚の内容と結合して、実在界を構成し、同時に経験内容が与えられることである。
別言するならば、直観(内的直観)とは、感覚器官(内部感官)に対応するア・プリオリな認識形式である時間によって、感覚の内容としての対象(現象)が意識に受容されることである。そして、思惟の内容(知識・判断)は、時間の形式によって、感覚の内容と結合することで、実在を間接的に成立させる。
この「間接的」の意味が〇〇さんにとって重要ですが、それはどういう意味でしょうか。おそらく実在が「現象」に過ぎない、ということを含意していますね。
これに対して、西田の「直観的知識」とは、「自覚」のことであり、「知ることを知る・思惟することを知る」(「単なる対象以上のものを知る」、「作用が作用自身を知る」)ことであると考える。
ですから、「物を知る」と「知ることを知る」の二つはカントと西田に共通と言えます。ただ「知る」の意味が両者で異なっていると考えられるのです。カントが「物を知る」という場合の「知」は経験的な知です。また「知ることを知る」という自己意識は単に意識可能でなければならないというにとどまっていて、自己を知的に直観できるという意味では決してない、ということです。これに対し、西田の「知る」は物を知る場合でも「自己」を知る場合でも知的な直観です。
「直観的知識」とは、「意識統一」を成立させる自覚の根底にある「超意識的統一」によって成立する。「直観的知識」において、「統一の形式」として「繰返すことのできない「時」の系列が成り立」つ、即ち不可逆的な時間の形式が成立する。同時に、感覚の内容を包摂し統一し、感覚の意識を成立させ、思惟の内容は、この時間の形式によって、感覚の内容と結合することで、実在を直接的に成立させる。
「直接的知識」つまり知的直観によって、「時」が成立し、それによって実在も実在として(=直接的)、つまり現象としてでなく成立する、ということですね。それはそういうことになると思います。
以上、カントの「判断的知識」では、時間の形式を媒介として、感覚の内容から思惟の内容を間接的に成立させるが、西田の「直観的知識」では、時間を成立させるとともに、感覚の内容を包摂することで、思惟の内容を直接的に成立させると考える。
よって、カントの「判断的知識」に対して、西田の「直観的知識」は、より統一的で、基底的であると思料する。
さて、この帰結ですが、どうでしょう。西田の立場に共感する者はすんなりと納得するでしょうが、カントの立場に共感する者はおそらく抵抗を覚えるでしょう。我々の認識できるのは経験的実在性に過ぎない、言い換えれば我々にとっての「現象」にすぎない、物そのもの(物自体)や自我そのもの(自我自体)を知ることができるというのは越権行為であり、身の程を知らぬ僭越を犯すことだ、ということになると思います。あるいはそのように物自体や自我自体を知ることができるというのも、すでに反省的な判断に過ぎないとも言えると思います。たしかに「物自体」や「自我自体」を知ることができることで、それらが「有る」とすることができるならば、それは我々が知ることのできるのは現象だけだ、というよりも 我々に救いと安心を与えるでしょう。しかしそうだとすれば、それらは我々の願いが生み出した仮象に過ぎないことになります。西田は甘い!という批判も成り立ちうるのです。ただ私としてはそうした批判に耐えうる西田解釈もありうるのではないか、と考えています。
理解できてない部分が多いので、解釈が誤っているかと思いますが、よろしくお願いいたします。
それはお互い様です。ご批判いただければと思います。
当方拙文につきまして、懇切なる御教授をして頂きまして、大変ありがとうございます。佐野先生の仰られる、西田解釈の可能性につき、興味を抱きながら筆を置かさせていただきます。今後ともよろしくお願いいたします。
(第34回)