意識自身の自省――カントの超越論的統覚と西田の自覚
- 2024年6月22日
- 読書会だより
前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「左右田博士に答う」「三」第1段落、296頁の最終行「以上述べたように、知るという中にも、私は種々の立場の区別をしたいと思う」から298頁8行目「主観其物即ち自覚という如きものではなかろうか」まで講読しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「意志主観及びその対象界をも包むと考えられるものは、実は判断主観という如きものではなくして、主観其物即ち自覚という如きものではなかろうか」(298頁7~8行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「主観其物即ち自覚」は295頁8-9行目の「私の所謂真の無の場所たる直覚的自覚」ではないでしょうか。とすると、「知る」の3つの立場「判断」「意志」「直観」に、3種の主観が対応することになります。真の無の場所における「直観」は、それがなければ真の無の場所を「知る」ことはできないので、あるはずと理解したのですが、真の無の場所における「主観」とはありえるのでしょうか。「主観=無」となりそうな気がします」(195字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
何か補足はありますか?
最近、週一回音声言語外来の患者さんがいらっしゃるんです。そういう子を見ていると、判断より意志の方が深いと思うんです。西田は意志主観を包むものが「主観其者即ち自覚」と言っていますが、その「主観其者」とは「直観」である、というように解釈できるのではないか、と思ったのです。この直観は「真の無の場所」を知るためには必要なものです。西田はこの「真の無の場所」を知っていたはずで、それは直観による、ということになるのですが、「真の無の場所」においては「主観」は溶けてなくなるのではないか、と思うのです。その場合「直観」といっても、何を知っているかはっきり分からないことになるわけで、感覚や知覚とは本質的に異なると思います。そうなると、それがどういうものかを知ることができるのは、意識一般といった「入口」の所で、照らされるしかないのではないか、入ったら溶けてなくなってしまう、そう言うことじゃないかと思うんです。
以前「場所」論文「四」で「無の場所」が「単に映す意識の鏡」ということが言われていた(270,6)ことが気になります。その場合、主観は溶けてなくならないのでは?
その場合でも、我々は鏡自体は見ていないと思います。見ているものは照らされたものです。鏡自体を見ることが「真の無の場所」を見ることですが、その時には主観は溶けていると思います。
直観の中に反省は含まれていて、主観が溶けることの中で、はじめて反省が成立すると思います。悟りの瞬間にも「一語」があります。
悟りの内容は、古来言語道断とか、不立文字とか言われてきましたが・・・
そこから言葉が出て来る直観があるということです。ぼーっとしているのとは違います。
悟りは目覚めですから、意識はあると思いますが、それでも無です。それが何らか言語化されなければ、少なくとも傍から見るとぼーっとしているようにしか見えないと思います。
「真の無の場所」には主観はありませんが、ぼーっとしているのとは違うと思います。判断が起る手前の一瞬です。
判断以前ということであれば、ぼーっとしているのも判断以前では?
武芸の達人が無心であるように、人生の達人も無心ということがあると思います。それは押し進めて考えると認知症と変わらなくなると思います。習慣化=自動化は楽で、これは年長者の特権だと思います。
ぼーっとしているのと真の無とはやはり違うと思います。ぼーっとしている場合には、一定の習慣(一般概念)の中で行動しているわけで、「俺、何してたんだっけ」というように間違いに気づくということがある。真の無の場所を知る場合にはこうした間違いということがありません。
たしかにぼーっとしている時も、寝ていた時ですら、目覚めた(気がついた)時には、直ちに「ここは教室で、俺は学生だ」というように、一般概念の中で自己認識しますね。ぼーっとしている時も、寝ている時も一般概念の中でそうしている。我々は常に一般概念の中で生きているけれども、だからこそそうした一般概念が破れる刹那というものがあり、それが「真の無の場所」を知るということだと。
いえ。そのように習慣が破れるとは異なったものが「真の無の場所」を知るということにはあると思います。例えば赤子とか、中島敦の「名人伝」の弓の名人、紀昌とか。
どちらも判断が起る手前、ということができると思いますが、それは単に寝ているとか、ぼーっとしている時と区別はできないと思います。そこに両者を区別することのできるような正解はないと思います。
「真の無の場所」からすれば区別はできないと思いますが、分別的な自分の立場からすれば、習慣(一般概念)が破られるということはあると思います。ですが、このように一般概念を前提としない在り方がある。有の場所から真の無の場所に行くのではなく、そもそも真の無の場所に於てある、ということです。
我々がもともといる場所、ということでしょうか?こうした領域、つまり無分別の領域について、言語(分別)の領域から語るということはどうしても困難を伴いますね。
Tさんの問いでは、「真の無の場所」において「主観」がなくなるということですが、それは「我あり」から出発する「我=主観」が死んで、「真の自己」として復活する、ということではないでしょうか?
Tさんは「真の無の場所」において「主観」が溶けた後に、「意識一般」において照らされるというような言い方をされていましたね。ここでも「主観」について無即有が言われていますね。この「即」のところ、この矛盾的同一の場所が、「真の無の場所」であり、直観の場だと、Rさんは言いたいのでは?
まさしくそれが私の言いたいことです。
難しいところですが、プロトコルはこの位にして、本日の講読箇所に入りましょう。Aさん、お願いします。
読む(298頁8行目~15行目)
「知識」は「内容」と「形式」の結合によって成立する、ということですが、この「結合」が「自覚の立場」においてのみ可能だと。
そうですね。この「立場」とは、カントの「超越論的統覚」ないし「意識一般」のことですが、これは「私は考える(ich denke)」という「自己意識(Sellbstbewußtsein)」を伴います。この「自己意識」を西田は「自覚」と訳して、さらにそれに自己直観のような強い意味を持たそうとします。これに左右田が反発するわけですね。
次に「所与」と出て来ますが、これは「内容」と同じと見てよいでしょうか?
いいと思います。その「所与」は「知識の種類」によって異なる、と。まず出て来るのが「自然界」の知識ですね。その場合の形式が「時間、空間」といった感性の形式、それから「因果」などの悟性の形式、つまり「範疇」、カテゴリーですね。
「理解力と知覚とを結合する」とありますが、この「知覚」も「所与」と考えていいですか?
そうですね。感覚と感性の形式(時空)によって、「知覚」が形成され、これと「理解力」つまり「悟性」とが結合されるわけです。両者を結合するとされる「自覚」も「超越論的統覚」です。以上は「自然界」の認識、つまり物理学に代表される科学的な認識です。しかし、所与を知覚というように限定すると、その中には「意志の対象界」は入ってこない。「意志の対象界が構成せられる」と西田は「構成」という言葉を用いていますが、それは「意志の対象界」が「認識」可能だ、という立場に立っているからです。(カントはおそらくそのようには言わないと思います。)西田はその場合、「自然界の所与」つまり「知覚」とは「異なった所与がなければならぬ」と言います。そうしてそれが「人と人とが互いに直感する感情移入の如き直接所与」だというのです。
「感情移入」という言葉が出て来ましたが・・・
この「感情移入」ということで西田が念頭に置いているのは、リップス(Theodor Lipps,1851-1914)です。『善の研究』執筆前後の覚書である『純粋経験に関する断章』の「断片27」にリップスの名が挙がっていて、早くから西田はリップスを知っていたようです。「外界に於ていつでも自分のimageを見て居るのである。人が獅子を見て居る時は獅子になって居るのである」という記述が見えます。リップスは、他我は自我の客体化で、重力も感情移入による、と考えていましたから、西田には馴染みやすい思想家だったと思われます。西田は『善の研究』でリップスではなく、「エルザレム(イェルザレム)」(Wilhelm Jerusalem,1854-1923)の名を挙げて、「科学的見方の根本義である外界に種々の作用を成す力があるという考は、自分の意志より類推したものであると見なさねばならぬ」(岩波文庫改版83頁)と述べています。
私はこの「直接所与」というのが気になります。
この「直接」というのが重要です。まず私と汝がいて、それから私が汝に対して感情移入する、というのではないのです。まず「人と人とが互いに直感」している、という感情があって、それから私と汝が分れて来る、そう考えるのです。(八坂哲弘「西田幾多郎のフィードラー受容とリップスの「感情移入」説」日本哲学史研究第12号156頁参照)
分かりました。
この直接のところ、ここではすべてが(時空すら超えて)通じ合っている、そのように考えられるのですが、そう聞くと何か救われた気がしますね。もっともそれが同時に「真の無」と一つになって有即無を形成しているのですが、この矛盾的自己同一の直接的なところ、ここを宗教哲学の人たちは大事にしますね。ヘーゲルはそうした「直接」はすでに「媒介」と対立するものになっている(対象化されている、ともいえると思います)、としてそうした直接にとびつくことを強く批判します。先に進みましょう。Bさん、お願いします。
読む(299頁1~5行目)
ここでは「自覚」に二つが区別されていますね。何と何ですか?
「心理学的自覚」と「意識自身の自省」です。
そうですね。「心理学的自覚」の場合、自覚されるものは「経験的自己」です。この私(佐野之人という名をもった私)です。以前「意識する意識」と「意識せられた意識」の区別が出て来ましたが、「経験的自己」は後者です。すでに対象化された自己、ということです。これに対して「意識自身の自省」は「意識する意識」の自省です。対象化できない自己を直接見ること、直観です。さて、そんなことが可能なのかどうか。次を読んで見ましょう。Cさん、お願いします。
読む(299頁5~11行目)
「斯く云えば直にそれが宇宙の自覚的精神という如き形而上学的実在であるかの様に考えられるかも知らぬが」とありますが、「それが」とは何を指していますか?
「自覚」です。
二つありましたね。どちらですか?
西田が言う「自覚」です。
そうですね。「意識自身の自省」の方です。自我の直観です。カントの後、フィヒテはこの自我自身の知的直観を認めましたが、西田はそれを、自我を形而上学的実在にした、と批判するわけです。フィヒテの後、初期のシェリングは自我と自然(宇宙)との同一性を「絶対者」として、その「自覚」を考えました。シェリングもそうした絶対者の知的直観を絶対者の自覚として認めます。ヘーゲルも絶対者の自覚(自己意識)ということは言いますが、そこに「知的直観」という言葉は用いません。あくまで弁証法的に一歩一歩という形を取ります。しかし西田から見ればこうした「ドイツ観念論」の立場は、やはり意識(自我)を形而上学的に実体化した、ということになります。「自覚は超越的に存在するものではない」というのは、対象化・実体化された自我が自覚するのではない、ということです。「超越的に存在するものなら、それは自己意識というものではない」も同じことを逆の方向から言ったもので、自己意識はあくまで対象化されることのない、「意識する意識」の自己意識だ、そう言っているのです。そうして「意識を心理的と限定すれば」、つまり意識は対象化された意識しかありえない、とするなら、「それより外のものは皆超越的となるかも知らぬが」と来ますが、そのように「皆超越的となる」と主張しているのは誰ですか?
西田想定の左右田博士でしょう。
そうでしょうね。しかし「知識がある」、ここから西田は出発するのですが、そうだとするなら、それは「何處から出て来るのか」、そのように問います。そうして西田自身がやろうとしている、いわば〈新しい形而上学〉の立場が述べられます。それは同時にカントの「批評哲学」の立場を徹底させた「徹底的批評主義」の立場だという自覚を伴っています。その立場とは「知識があるということから出立して考えられた認識主観が心理的でない、形而上学的ではないと云い得るのは心理的主観を超越して心理的認識作用の根拠となるが、而もそれは意識を超越した形而上学的存在ではないと云うことでなければならない」というものです。
「超越」という言葉が二度出て来ますが。
「心理的主観」は「超越」するが、「意識」を「超越」して形而上学的存在にならない、ということですね。「心理的主観」とは「対象認識」の方向に目が向いている在り方です。外を見ている。「意識」を超越して「自我」や「絶対者」を立てるやり方も、やはり外を見ている。どちらも対象化されたものを見ています。そうではなく、意識の内へと、あちら(彼方)ではなくこちら(此方)へと、手前・足下へと超越する、それを目指しています。じつは、西田は『善の研究』における「純粋経験」の哲学において、すでにこうした〈新しい形而上学〉を構想していた、というのが私の見立てです。次に参りましょう。Dさん、お願いします。
読む(299頁11~14行目)
今度は「意志自由の意識」(自由意志の意識)ですね。さっきのは「判断意識」つまり「知識がある」ということでしたが、今度は「意志意識」つまり「意志がある」ということです。それもさっきと同じように、経験的自己の意志意識ではない。一般に心理学において統覚と呼ばれるもの、思惟・意志・想像は意識(自覚)に上るとされます。例えば私がお茶を飲もうと意志すること、このことは意識されます。しかしその時意識されているのは、いわば意識された意志です。しかし意志そのものは決して対象化されない。この対象化されない意志そのものの意識がここで問題になっている「意志意識」です。もちろんそれは「この私の意志」というものではありません。
実践理性のようなものですか?
そうだと思います。「なすべし」と道徳法則として無条件=定言的に命じて来る意志のことです。カントはこの道徳法則の意識を根拠に意志の自由が認識できる(「汝なすべきであるが故になし能う」、たとえ死刑を免れるために偽証せざるを得ないにしても、道徳法則に従って偽証しないことが可能であることは分かる)として、自由意志の存在を要請しましたが、西田はここでも「意志自由の意識」が、「心理現象」ではないとしながらも、「意識」できるとして、一歩踏み込んだ主張になっています。そうして「自由の自覚なき意志は意志でない」と主張し、さきの「知識」の場合と同じように、「意志主観は心理的意志現象を超越し、後者は却って前者によって成立するものでなければならぬ」と言います。この「超越」も手前(此方)への超越、意志する意志の自己直観です。そうしてこうした「超越」が形而上学的実体への(彼方への)超越でないことを次に述べています。「しかも意志の自覚も何處までも意識に内在的でなければならぬ。神の意志は私の自覚的意志ではない」。
この「神」は形而上学的に実体化された神ですね。
そうですね。そのように文脈の中で読むことがとても重要だと思います。次に参りましょう。Eさん、お願いします。
読む(299頁14行目~300頁8行目)
ここでは「知識がある」ということが「知識の自知」(この場合は「意識一般」としての自己意識)を含んでいること、「意志」を対象とした「知識」の場合は、意志の自覚がなければならないこと、さらに「真(真理)」「誤謬」「意味」(さらには「善」「美」「聖」)といった価値を対象とする知識(これを問題にしたのが新カント派の所謂「文化の哲学」です)の場合でも「判断主観の自省」がなければならないこと、が述べられています。今日はここまでとしましょう。
(第80回)