意識自身の自省――カントの超越論的統覚と西田の自覚

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「左右田博士に答う」「三」第1段落、296頁の最終行「以上述べたように、知るという中にも、私は種々の立場の区別をしたいと思う」から298頁8行目「主観其物即ち自覚という如きものではなかろうか」まで講読しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「意志主観及びその対象界をも包むと考えられるものは、実は判断主観という如きものではなくして、主観其物即ち自覚という如きものではなかろうか」(298頁7~8行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「主観其物即ち自覚」は295頁8-9行目の「私の所謂真の無の場所たる直覚的自覚」ではないでしょうか。とすると、「知る」の3つの立場「判断」「意志」「直観」に、3種の主観が対応することになります。真の無の場所における「直観」は、それがなければ真の無の場所を「知る」ことはできないので、あるはずと理解したのですが、真の無の場所における「主観」とはありえるのでしょうか。「主観=無」となりそうな気がします」(195字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
何か補足はありますか?

T

最近、週一回音声言語外来の患者さんがいらっしゃるんです。そういう子を見ていると、判断より意志の方が深いと思うんです。西田は意志主観を包むものが「主観其者即ち自覚」と言っていますが、その「主観其者」とは「直観」である、というように解釈できるのではないか、と思ったのです。この直観は「真の無の場所」を知るためには必要なものです。西田はこの「真の無の場所」を知っていたはずで、それは直観による、ということになるのですが、「真の無の場所」においては「主観」は溶けてなくなるのではないか、と思うのです。その場合「直観」といっても、何を知っているかはっきり分からないことになるわけで、感覚や知覚とは本質的に異なると思います。そうなると、それがどういうものかを知ることができるのは、意識一般といった「入口」の所で、照らされるしかないのではないか、入ったら溶けてなくなってしまう、そう言うことじゃないかと思うんです。

W

以前「場所」論文「四」で「無の場所」が「単に映す意識の鏡」ということが言われていた(270,6)ことが気になります。その場合、主観は溶けてなくならないのでは?

T

その場合でも、我々は鏡自体は見ていないと思います。見ているものは照らされたものです。鏡自体を見ることが「真の無の場所」を見ることですが、その時には主観は溶けていると思います。

R

直観の中に反省は含まれていて、主観が溶けることの中で、はじめて反省が成立すると思います。悟りの瞬間にも「一語」があります。
佐野
悟りの内容は、古来言語道断とか、不立文字とか言われてきましたが・・・

R

そこから言葉が出て来る直観があるということです。ぼーっとしているのとは違います。

T

悟りは目覚めですから、意識はあると思いますが、それでも無です。それが何らか言語化されなければ、少なくとも傍から見るとぼーっとしているようにしか見えないと思います。

K

「真の無の場所」には主観はありませんが、ぼーっとしているのとは違うと思います。判断が起る手前の一瞬です。
佐野
判断以前ということであれば、ぼーっとしているのも判断以前では?

T

武芸の達人が無心であるように、人生の達人も無心ということがあると思います。それは押し進めて考えると認知症と変わらなくなると思います。習慣化=自動化は楽で、これは年長者の特権だと思います。

W

ぼーっとしているのと真の無とはやはり違うと思います。ぼーっとしている場合には、一定の習慣(一般概念)の中で行動しているわけで、「俺、何してたんだっけ」というように間違いに気づくということがある。真の無の場所を知る場合にはこうした間違いということがありません。
佐野
たしかにぼーっとしている時も、寝ていた時ですら、目覚めた(気がついた)時には、直ちに「ここは教室で、俺は学生だ」というように、一般概念の中で自己認識しますね。ぼーっとしている時も、寝ている時も一般概念の中でそうしている。我々は常に一般概念の中で生きているけれども、だからこそそうした一般概念が破れる刹那というものがあり、それが「真の無の場所」を知るということだと。

W

いえ。そのように習慣が破れるとは異なったものが「真の無の場所」を知るということにはあると思います。例えば赤子とか、中島敦の「名人伝」の弓の名人、紀昌とか。

T

どちらも判断が起る手前、ということができると思いますが、それは単に寝ているとか、ぼーっとしている時と区別はできないと思います。そこに両者を区別することのできるような正解はないと思います。

W

「真の無の場所」からすれば区別はできないと思いますが、分別的な自分の立場からすれば、習慣(一般概念)が破られるということはあると思います。ですが、このように一般概念を前提としない在り方がある。有の場所から真の無の場所に行くのではなく、そもそも真の無の場所に於てある、ということです。
佐野
我々がもともといる場所、ということでしょうか?こうした領域、つまり無分別の領域について、言語(分別)の領域から語るということはどうしても困難を伴いますね。

N

Tさんの問いでは、「真の無の場所」において「主観」がなくなるということですが、それは「我あり」から出発する「我=主観」が死んで、「真の自己」として復活する、ということではないでしょうか?
佐野
Tさんは「真の無の場所」において「主観」が溶けた後に、「意識一般」において照らされるというような言い方をされていましたね。ここでも「主観」について無即有が言われていますね。この「即」のところ、この矛盾的同一の場所が、「真の無の場所」であり、直観の場だと、Rさんは言いたいのでは?

R

まさしくそれが私の言いたいことです。
佐野
難しいところですが、プロトコルはこの位にして、本日の講読箇所に入りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(298頁8行目~15行目)

A

「知識」は「内容」と「形式」の結合によって成立する、ということですが、この「結合」が「自覚の立場」においてのみ可能だと。
佐野
そうですね。この「立場」とは、カントの「超越論的統覚」ないし「意識一般」のことですが、これは「私は考える(ich denke)」という「自己意識(Sellbstbewußtsein)」を伴います。この「自己意識」を西田は「自覚」と訳して、さらにそれに自己直観のような強い意味を持たそうとします。これに左右田が反発するわけですね。

A

次に「所与」と出て来ますが、これは「内容」と同じと見てよいでしょうか?
佐野
いいと思います。その「所与」は「知識の種類」によって異なる、と。まず出て来るのが「自然界」の知識ですね。その場合の形式が「時間、空間」といった感性の形式、それから「因果」などの悟性の形式、つまり「範疇」、カテゴリーですね。

A

「理解力と知覚とを結合する」とありますが、この「知覚」も「所与」と考えていいですか?
佐野
そうですね。感覚と感性の形式(時空)によって、「知覚」が形成され、これと「理解力」つまり「悟性」とが結合されるわけです。両者を結合するとされる「自覚」も「超越論的統覚」です。以上は「自然界」の認識、つまり物理学に代表される科学的な認識です。しかし、所与を知覚というように限定すると、その中には「意志の対象界」は入ってこない。「意志の対象界が構成せられる」と西田は「構成」という言葉を用いていますが、それは「意志の対象界」が「認識」可能だ、という立場に立っているからです。(カントはおそらくそのようには言わないと思います。)西田はその場合、「自然界の所与」つまり「知覚」とは「異なった所与がなければならぬ」と言います。そうしてそれが「人と人とが互いに直感する感情移入の如き直接所与」だというのです。

A

「感情移入」という言葉が出て来ましたが・・・
佐野
この「感情移入」ということで西田が念頭に置いているのは、リップス(Theodor Lipps,1851-1914)です。『善の研究』執筆前後の覚書である『純粋経験に関する断章』の「断片27」にリップスの名が挙がっていて、早くから西田はリップスを知っていたようです。「外界に於ていつでも自分のimageを見て居るのである。人が獅子を見て居る時は獅子になって居るのである」という記述が見えます。リップスは、他我は自我の客体化で、重力も感情移入による、と考えていましたから、西田には馴染みやすい思想家だったと思われます。西田は『善の研究』でリップスではなく、「エルザレム(イェルザレム)」(Wilhelm Jerusalem,1854-1923)の名を挙げて、「科学的見方の根本義である外界に種々の作用を成す力があるという考は、自分の意志より類推したものであると見なさねばならぬ」(岩波文庫改版83頁)と述べています。

B

私はこの「直接所与」というのが気になります。
佐野
この「直接」というのが重要です。まず私と汝がいて、それから私が汝に対して感情移入する、というのではないのです。まず「人と人とが互いに直感」している、という感情があって、それから私と汝が分れて来る、そう考えるのです。(八坂哲弘「西田幾多郎のフィードラー受容とリップスの「感情移入」説」日本哲学史研究第12号156頁参照)

B

分かりました。
佐野
この直接のところ、ここではすべてが(時空すら超えて)通じ合っている、そのように考えられるのですが、そう聞くと何か救われた気がしますね。もっともそれが同時に「真の無」と一つになって有即無を形成しているのですが、この矛盾的自己同一の直接的なところ、ここを宗教哲学の人たちは大事にしますね。ヘーゲルはそうした「直接」はすでに「媒介」と対立するものになっている(対象化されている、ともいえると思います)、としてそうした直接にとびつくことを強く批判します。先に進みましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(299頁1~5行目)
佐野
ここでは「自覚」に二つが区別されていますね。何と何ですか?

B

「心理学的自覚」と「意識自身の自省」です。
佐野
そうですね。「心理学的自覚」の場合、自覚されるものは「経験的自己」です。この私(佐野之人という名をもった私)です。以前「意識する意識」と「意識せられた意識」の区別が出て来ましたが、「経験的自己」は後者です。すでに対象化された自己、ということです。これに対して「意識自身の自省」は「意識する意識」の自省です。対象化できない自己を直接見ること、直観です。さて、そんなことが可能なのかどうか。次を読んで見ましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(299頁5~11行目)
佐野
「斯く云えば直にそれが宇宙の自覚的精神という如き形而上学的実在であるかの様に考えられるかも知らぬが」とありますが、「それが」とは何を指していますか?

C

「自覚」です。
佐野
二つありましたね。どちらですか?

C

西田が言う「自覚」です。
佐野
そうですね。「意識自身の自省」の方です。自我の直観です。カントの後、フィヒテはこの自我自身の知的直観を認めましたが、西田はそれを、自我を形而上学的実在にした、と批判するわけです。フィヒテの後、初期のシェリングは自我と自然(宇宙)との同一性を「絶対者」として、その「自覚」を考えました。シェリングもそうした絶対者の知的直観を絶対者の自覚として認めます。ヘーゲルも絶対者の自覚(自己意識)ということは言いますが、そこに「知的直観」という言葉は用いません。あくまで弁証法的に一歩一歩という形を取ります。しかし西田から見ればこうした「ドイツ観念論」の立場は、やはり意識(自我)を形而上学的に実体化した、ということになります。「自覚は超越的に存在するものではない」というのは、対象化・実体化された自我が自覚するのではない、ということです。「超越的に存在するものなら、それは自己意識というものではない」も同じことを逆の方向から言ったもので、自己意識はあくまで対象化されることのない、「意識する意識」の自己意識だ、そう言っているのです。そうして「意識を心理的と限定すれば」、つまり意識は対象化された意識しかありえない、とするなら、「それより外のものは皆超越的となるかも知らぬが」と来ますが、そのように「皆超越的となる」と主張しているのは誰ですか?

C

西田想定の左右田博士でしょう。
佐野
そうでしょうね。しかし「知識がある」、ここから西田は出発するのですが、そうだとするなら、それは「何處から出て来るのか」、そのように問います。そうして西田自身がやろうとしている、いわば〈新しい形而上学〉の立場が述べられます。それは同時にカントの「批評哲学」の立場を徹底させた「徹底的批評主義」の立場だという自覚を伴っています。その立場とは「知識があるということから出立して考えられた認識主観が心理的でない、形而上学的ではないと云い得るのは心理的主観を超越して心理的認識作用の根拠となるが、而もそれは意識を超越した形而上学的存在ではないと云うことでなければならない」というものです。

C

「超越」という言葉が二度出て来ますが。
佐野
「心理的主観」は「超越」するが、「意識」を「超越」して形而上学的存在にならない、ということですね。「心理的主観」とは「対象認識」の方向に目が向いている在り方です。外を見ている。「意識」を超越して「自我」や「絶対者」を立てるやり方も、やはり外を見ている。どちらも対象化されたものを見ています。そうではなく、意識の内へと、あちら(彼方)ではなくこちら(此方)へと、手前・足下へと超越する、それを目指しています。じつは、西田は『善の研究』における「純粋経験」の哲学において、すでにこうした〈新しい形而上学〉を構想していた、というのが私の見立てです。次に参りましょう。Dさん、お願いします。

D

読む(299頁11~14行目)
佐野
今度は「意志自由の意識」(自由意志の意識)ですね。さっきのは「判断意識」つまり「知識がある」ということでしたが、今度は「意志意識」つまり「意志がある」ということです。それもさっきと同じように、経験的自己の意志意識ではない。一般に心理学において統覚と呼ばれるもの、思惟・意志・想像は意識(自覚)に上るとされます。例えば私がお茶を飲もうと意志すること、このことは意識されます。しかしその時意識されているのは、いわば意識された意志です。しかし意志そのものは決して対象化されない。この対象化されない意志そのものの意識がここで問題になっている「意志意識」です。もちろんそれは「この私の意志」というものではありません。

D

実践理性のようなものですか?
佐野
そうだと思います。「なすべし」と道徳法則として無条件=定言的に命じて来る意志のことです。カントはこの道徳法則の意識を根拠に意志の自由が認識できる(「汝なすべきであるが故になし能う」、たとえ死刑を免れるために偽証せざるを得ないにしても、道徳法則に従って偽証しないことが可能であることは分かる)として、自由意志の存在を要請しましたが、西田はここでも「意志自由の意識」が、「心理現象」ではないとしながらも、「意識」できるとして、一歩踏み込んだ主張になっています。そうして「自由の自覚なき意志は意志でない」と主張し、さきの「知識」の場合と同じように、「意志主観は心理的意志現象を超越し、後者は却って前者によって成立するものでなければならぬ」と言います。この「超越」も手前(此方)への超越、意志する意志の自己直観です。そうしてこうした「超越」が形而上学的実体への(彼方への)超越でないことを次に述べています。「しかも意志の自覚も何處までも意識に内在的でなければならぬ。神の意志は私の自覚的意志ではない」。

D

この「神」は形而上学的に実体化された神ですね。
佐野
そうですね。そのように文脈の中で読むことがとても重要だと思います。次に参りましょう。Eさん、お願いします。

E

読む(299頁14行目~300頁8行目)
佐野
ここでは「知識がある」ということが「知識の自知」(この場合は「意識一般」としての自己意識)を含んでいること、「意志」を対象とした「知識」の場合は、意志の自覚がなければならないこと、さらに「真(真理)」「誤謬」「意味」(さらには「善」「美」「聖」)といった価値を対象とする知識(これを問題にしたのが新カント派の所謂「文化の哲学」です)の場合でも「判断主観の自省」がなければならないこと、が述べられています。今日はここまでとしましょう。
(第80回)
Tweet about this on TwitterShare on Facebook

思惟と意志との関係

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「左右田博士に答う」「二」第2段落、295頁の1行目「cogito ergo sum のsumを存在と考へるならば」から296頁の第4段落終わり「更にその上に直覚といふものも認めなければならぬのである」まで講読しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「A[自覚の3段階]我々の意識の自覚的方向は、意識一般の立場に止まるものではない。その最も深い底は私の所謂真の無の場所たる直覚的自覚にあるのであるが、その中間に於て意志的自覚を見ることができる。意志的自覚は判断的自覚よりも深く、之を内に包んだものである」(295,8-10)、「B[好きなところ]我々が意志することを知るといふから、否直観するといふことをすら知ると考へねばならぬから、理論理性が最高であると云うならば、知識といふ語の意義の問題とならねばならぬ。さういふ場合の知るといふことは、意識一般によって対象を認識するといふこととは違ふのである」(296,3-5)の二カ所でした。そうして「考えたことないし問い」は「わたしが対象を認識することは常に対象を「わたし」の外に置くことだろうか。わたしがあればこその対象であるなら、対象こそがわたしを「わたし」たらしめているのではないか。対象認識なき自覚を区別する立場は「わたし」を喪失した危うい立場にほかならず、そこに居続けることは困難であるにちがいないと考えるがどうか」(149字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。今回はとくに「意識一般」についての創作的対話を加えておきました(ご登場願ったOさん、すみません)。
佐野
「わたし」の問題ですね。括弧のついているのとついていないのとありますが、どのような区別がありますか?

O

特にないようです。
佐野
ここで出て来ている「わたし」はすべて「経験的自我」(経験的統覚)ですね。「意識一般」としての「純粋自我」(超越論的統覚)はこれとは全く異なります。

O

その「意識一般」というのがピンときません。
佐野
ここで出て来ている対象は個々の具体的な対象が念頭に置かれています。このペンであったり、眼鏡であったり。そうした対象の在り方に応じて自分の在り方が、例えば読書会のコーディネーターとして規定されます。その意味で「対象こそがわたしをわたしたらしめている」といえます。経験的自我としての「わたし」は個々の対象同様「空間」の中に存在し、もっと言えば具体的な世界の中に一定の意味、役割をもって実在しています。そうしてそうした意味や役割をもった自我が、そのつど例えば佐野之人というような固有名で名指されることになります。対象も自我も意味や役割としては交換可能(眼鏡も此の眼鏡でなくてもいいし、読書会のコーディネーターは佐野之人でなくてもいい)ですが、そのつどの意味や役割としては交換不可能な個です。ここまで、どうですか?

O

大丈夫です。
佐野
そのつどの対象に応じてそのつどの自分の在り方が反省(内的に感覚)されることになりますが、このようにして意識(自己意識)されるのが「経験的自我」です。状況に没入している時はこんな意識はありませんが、その状況の外に出て、判断を行うことによって、こうした経験的自我がそのつど意識されることになります。ここまでは経験的自我(経験的統覚)の話です。この対象を個々の対象ではなく、対象一般、可能的な対象にいわば一般化する。経験も個々の具体的な経験ではなく、経験一般、可能的経験に一般化する。そうすると、経験的自我や統覚も、純粋自我や超越論的統覚としての、意識一般になります。この「意識一般」は佐野之人ではありません。それは誰の意識でもあって、誰の意識でもない、そうした意識ということになります。どうですか?

T

個々の意識を限りなく一般化するところに意識一般が成立する、ということですか?
佐野
いえ、意識一般は特殊な個々の意識の単なる一般化ではないと思います。そうかといって我々の個々の認識に先立って、そうした枠組みがなければならない、というような、単なる論理的な要請でもないと思います。その場合、そのような一般化を行う意識、あるいは論理的な要請を行う意識が問題となるからです。通常の判断、例えば「これはペンである」の場合、そのように判断しているものは誰か、と問われれば迷うことなく、それは「私だ」ということになり、その「私」とはその状況内での経験的自我が名指されることになります。この時にはペンも私も状況内に取り込まれて解釈されてしまっていますが、対象一般とか意識一般とかが問題になるのは、その一歩手前の所、つまりペンがペンとして、対象が対象として、立ち現れる所です(じつは判断はまずこうした仕方で立ち現れるのですが、我々は大抵ただちにこれを状況内で解釈してしまうのです。また解釈できなければ行動もできません)。これに対応した「意識一般」は未だ状況内で解釈される以前の「私」ということになります。「経験的自我」以前です。このような仕方で対象を対象として語るのが「意識一般」です。その語りは哲学の語りとなります。前回Hさんが関心を日常的な関心と学問的な関心に分けておられましたが、それは経験的自我と意識一般の区別にも関わると思います。

O

なるほど。それにしても「誰でもあって誰でもない意識」というのがピンときません。意識は「この私」の意識ではないのですか?

S

そうおっしゃいますが、私は意識一般から個別的な私が出て来るようには思えませんが。
佐野
Oさんにお伺いして見ましょう。「この私」って言っているのは誰ですか?

O

「この私」です。
佐野
しかしそのように「この私」って言っているのは誰か、と訊いているんです。こうなるともはや何とも言えなくなる。これは3月に開催された「饗宴」で伊田君が扱った問題です。池田晶子のテキストをもとして(伊田名央人「私とは何か―池田晶子から考える―」)。池田ははじめ「私」を「誰でもあって誰でもない意識」として捉えたけれども、それでは「他の誰でもない私」を言い表すことができないと考え、後には「魂」から私を捉えようとします。そんな発表でしたね。ですからOさんの今回のプロトコルは「私とは何か」という古くてつねに新しい問いを扱っていることになると思います。それはともかく、「これはペンである」という判断において、ペンをペンとして考察している(私は「これはペンである」と考える)場合には、この「考える(ich denke)」は「意識一般」です。その際「これはペンである」というのは図、「私は考える」は地になります。

O

その場合でも、図だけというのはありえないのでは?
佐野
西田はカントの意識一般を自覚の方向に捉えようとしますから、それだけで成立するように思われますが、カントはただ「〈われ思う(ich denke)〉は、我々のあらゆる表象に伴うことが出来なければならない」とだけ言います。西田の言うように意識一般を自覚の方向だけで考えると、Oさんの言うように、「「わたし」を喪失した危うい立場にほかならず、そこに居続けることは困難であるにちがいない」ということになりそうですが、西田に言わせればそのような経験的自我を喪失してこそ、「真の自己」を直観できる、ということだと思います。カントの意識一般については考え始めるとさらに分からない点も多いのですが、他にご意見はありますか?

W

Oさんの最初に出て来る「わたし」、つまり経験的自我は日常的になされている立場だと思いますが、そうした自己をさらに考える方向がまた自己(経験的自我)喪失の経験になっていて、それが常識的な(経験的自我の)立場と緊張関係を形成すると思います。この関係がどうなっているのかな、と。
佐野
人間が生きるとはどういうことか、という問いになりそうですね。プロトコルはこの位にして本日の講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(「三」冒頭~297頁7行目)
佐野
「知るという中にも、種々の立場の区別をしたい」とありますが、西田はどのような区別を考えていますか?

A

判断すること、意志すること、直観することだと思います。
佐野
そうですね。西田はこうした「知」の区別が「自覚」において可能になると考えているようです。まずは「対象的認識」(判断すること)から出発します。そうしてその「認識主観」が「意識一般」だとされます。そうして「意識一般の立場に於て構成することと、かかることを反省することとは別でなければならぬ」と言います。「かかること」とは?

A

「意識一般の立場に於て構成すること」では?
佐野
そうですね。そうしてさらに「反省する」に二種を区別していますね。何と何ですか?

A

「種々の知識について、単にその対象的形式を明にして行く」ことと「認識作用其者の内に反省して行く」ことです。

B

「種々の知識について、単にその対象的形式を明にして行く」ことと「対象的認識」は同じことですか?
佐野
そうではないでしょう。「対象的認識」とは「種々の知識」のことで、「その対象的形式を明らかにして行く」とは、具体的には対象を可能にする形式、例えば時空といった感性の形式や、カテゴリーという悟性の形式が念頭に置かれていると思います。「反省」の内に可能性の制約を明らかにするという批判哲学と、認識作用そのものの反省を区別しているようです。そうして「意識一般」は後者の意味において「自覚の純化したもの」だとされます。

S

この「純化」の意味が分かりません。
佐野
経験的統覚が含んでいる様々な経験的な内容を純化する、という意味だと思いますが、西田はさらにそれを直観までに純化して考えようとしていると思われます。そうしてこの認識主観其者(意識一般)と「対象的形式、即ち形式其者」とが区別される、そのように言います。

C

この区別がピンときません。
佐野
〈考えることそのもの〉、と考える際の〈考え方〉の区別です。

C

分かりました。
佐野
とりあえずそれでよい、ということにして、それではCさん、次をお願いします。

C

読む(297頁7~13行目)
佐野
「かかる区別は何處から起って来るのであるか」という問いが提出されていますね。さあ、この答えを西田はどのように考えているでしょうか?次を見て見ましょう。もちろん「主観」だ。ではその主観とはどのようなものか?それを「又論理的主観であるとするならば」と来ます。なんだか嫌な感じがしますね。そうなると、そこに「そういう論理的主観」と「肯定と否定」というような「論理の形式」が区別されることになる。そうしてその区別は何處から来るか、という問いがまたしても生じてしまう。きりがない。だから西田は「それは又論理的形式によって認識するとは云われまい」と述べます。ここまで、いかがですか?

C

大丈夫です。
佐野
それは「論理的認識の限界だ」と「云われるかも知れない」とありますが、誰が「云う」のでしょうか?

C

左右田博士、ですか?
佐野
そうでしょうね。西田想定の。左右田は「知ることを知る」ことはできない、と考えますから。しかし西田はそのように理論理性の限界を認めることは「一層高次的なる立場を認めることによって可能となる」、そのように言います。そうして「始から知るということと、知ることを知るということとの区別を明にしないため、かかる自家撞着を生ずるのである」とバッサリやります。要するに意識一般と形式(時空やカテゴリー)を区別するのは「知ることを知る」「自覚」の立場だ、と言いたいのです。もちろん左右田はこんな立場は認めないでしょう。それでは次をDさん、お願いします。

D

読む(297頁14行目~298頁8行目)

D

「意識一般というのは我々の主観を極限にまで推し進めたものでなければならぬ」というのがよく分かりません。
佐野
先程の「純化」と同じで、経験的なものを一掃したということでしょう。もはやだれでもなく誰でもあるような、そうした主観まで純化した、そういう意味だと思います。次に「全然心理的主観の意義を没却したものでなければならない」も同義で、「心理的主観」とは「経験的自我」、つまり対象化された個々の自我のことだと思われます。そうした「心理的主観の意義を没却したもの」(意識一般)は当然のごとく(「無論」)対象的・実体的に「存在するものではない」。これは形而上学的な実体としての自我ではない、ということを念頭に置いているのだと思います。

D

分かりました。
佐野
とりあえずそれで分かったとして、次を読んで見ましょう。「併し主観の性質的差別は極限に至っても消え失せるとは云われない」とあります。「主観の性質的差別」は次に「然らざれば論理的規範意識と倫理的規範意識と区別することもできない」とありますから、例えば理論理性と実践理性、あるいは思惟と意志の差別のことでしょう。「意識一般」を広く取ってこれを極限にまで推し進めても、思惟と意志の差別はなくならない、区別はできるということです。ここまで、どうでしょうか?

D

大丈夫です。
佐野
次を読みます。「元来両者共に我々の自覚の意識から出立したものと考えるの外ないが」とありますが、「両者」とは?

D

「論理的規範意識と倫理的規範意識」です。
佐野
そうですね。思惟と意志と言い換えてもいいと思います。それらが「共に我々の自覚の意識から出立した」とは、思惟について言えば、「私は考える」ということが判断に伴って意識されるという事実、意志について言えば、「私は意志する」ということが意志に伴って意識されるという事実から、思惟も意志も出発しているということだと思います。そのように考えるほかないけれども、「その極限に至って各自別個の主観となるのであるか」というように、西田は読者に問いかけますが、まず「その極限」の「その」とは何を指しますか?

D

・・・・・
佐野
「我々の自覚の意識」ではないでしょうか。そこから出立してそこへと至る「極限」。その極限において思惟と意志は「各自別個の主観となるか」と問うているわけです。

N

それは純粋理論理性と純粋実践理性と考えてもよろしいでしょうか?
佐野
よいのではないでしょうか。それにしてもこの問いはどのように受け取ればよいでしょうか?別個の主観となるのであれば、それを区別する主観が必要になるように思われますね。続いて「主観を何處まで推し進めて行っても、主観とか意識とかいう意義を脱することはできない。苟も主観とか意識とかいう意義を脱する能わざるかぎり、主観と主観との関係が極限に至るの故を以て変ずると考え得るであろうか」とあります。「主観と主観の関係」というように主観が二つ出て来ますが、これは?

D

思惟と意志、ですか?
佐野
そうでしょうね。思惟と意志との関係が変じてどちらかが他方を包む、従属する形になるのか、ということでしょう。そこで思惟が意志を包む場合を考えて見る。おそらくこれは左右田の立場でしょう。しかし西田はそれに対して、「対象認識の論理的主観を何處まで推し進めても、意志主観がその下に入って来るとは考えられない」、あるいは同じことですが「判断主観の下に意志主観が従属する様になるとは考えられない」と、思惟が意志を包んで、これを従属させる、ということはない、と主張します。そうして意志主観が思惟主観(論理的主観)を包むかどうかの議論はさしあたり措いておき、「意志主観及びその対象界をも包むと考えられるものは、実は判断主観という如きものではなくして、主観其者即ち自覚という如きものではなかろうか」と述べます。「主観其者」が「意志主観」を包む、ということです。判断主観はどうなるのか?300頁の注を見ると「意志は単に働くものでない、働くことを知るものである。自己は単に存在するものでない、存在することを知るものである、認識主観の外にあるのではないが、認識主観が之に於てあるのである」とあります。この「認識主観」は「判断主観」とおそらく同義でしょうから、「自己」即ち「主観其者」が「判断主観」を包むと考えてよいでしょう。こうして「自己」ないし「主観其者」が「自覚」において、思惟と意志を包み、かつ両者を区別している、こう西田は言いたいのだと思います。今日はここまでにしましょう。
(第79回)
Tweet about this on TwitterShare on Facebook

判断的知識に対する意志の優位

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「左右田博士に答う」「一」第3段落293頁3行目「カントは数学や純粋物理学が」から「二」の第2段落295頁1行目「真の自覚に到達するのである」まで講読しました。今回のプロトコルはHさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「体験は認識以前と考へられるが理論理性の自省其者が既に体験の一種ではなからうか」(293,6-7)と「知るといふことは一様ではない、私は知るといふことに、少くとも根本的に相反する二つの方向を区別せねばならぬと思ふ。一つは対象認識の方向であり、一つは自覚の方向である」(293,13-14)、「真の自覚の意識は述語的一般が無となること、即ち真の無の場所に求めなければならぬ。(中略)述語的一般が対立的無として限定せられ得るかぎり、尚所謂知識的自覚に属するが、更に之を越えて真の無の場所に到る時、意識的自己を忘すると考へられると共に、自己自身の直観として真の自覚に到達するのである」(294,13-295,1)の三カ所でした。そうして「考えたことないし問い」は「認識以前の体験というようなものは、どのようなものがあるか。(例えば、科学者(生物学者・物理学者等)の「水」に関する認識とは違った体験を、私たちは日常の中で「水」を見るときにしているのではないか)」(97字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
西田は「自覚」を「体験の一種」と捉えていますが、Hさんはそれとは異なった「体験」をお考えのようですね。「日常」の中に「体験」があると。また「認識」を科学者の認識に限定しているように思われますが。

H

認識は関心によって分れると思います。対象を対象自体として認識するのが「対象認識」で、これは主に科学者ないし学者の関心です。これに対して自分の生活に結び付いた関心に基づく認識は日常的な体験に属すると思います。同じ水も、科学者にとってはH₂Oで、日常の体験の中では例えば料理で使う材料です。
佐野
私の目の前にあるのは時計ですが、「これは時計だ」とか、「私は今歩いている」といった判断はどうなりますか?それは必ずしも科学的ではないですが、これは「認識」ですか?

H

「認識」ですが、そうした認識は稀で、私たちは大抵一定の世界を前提として、それに没入していると思います。
佐野
そうだとすると、ほとんどボケ状態になりませんか?我々はむしろ、状況どのようであるか、自分が何をしているのかを頻繁に反省し、認識しているのではないでしょうか?

H

そうした認識も学問的な関心ではなく、自分が生きることが関心ですから、体験に属すると思います。

W

自分が生きることが関心の的になっているような認識でも、そこに認識している自分が意識されているかどうかの区別はあると思います。そうして認識以前の体験について語る場合、私たちは認識からしか語れないと思います。
佐野
日常に没入しているということも、そうした認識から語っているのだ、と。確かに没入しているところに認識はありませんね。面白くなってきました。少なくともここには、二つの基準がありそうですね。対象を対象として考察するか、対象を自分の生活に結び付けるかという、「関心」によるものと、認識している自分、が出て来ているかいないのかといった二つの基準が。(西田はこの、認識している自分を見ること(「理論理性の自省」)を「自覚」と呼び、「体験の一種」と呼んでいることになります。例の英国の地図で言えば、描いた地図の方を見るのが「対象認識」で、描く手前の所を見るのが「自覚」ないし「体験の一種」です。Hさんは対象を対象として見る学問的な認識が「対象認識」、それ以外の日常的な認識を一般に「体験」と呼び、Wさんは認識する自分が出て来る認識を「対象認識」、出て来ないものを一般に「体験」と呼んで、しかも我々は「対象認識」から出発するしかないとお考えのようです。西田は「知る」ないし「認識」を知るもの(自己)と知られるもの(対象)の関係から最も広く捉え、対象(主語)の方向の極限に「同一」を考え、自己(述語)の方向の極限に「自己同一」を考え、後者を「真の無の場所」における「真の自覚」と考えています。そうして両者の中間に「種々の知(知識・認識)」を考えようとします。この「中間」には「対象的認識」の要素と「自覚」の要素が必ず含まれることになります。前回は「同一」を没頭状態と解釈しました。この「同一」と中間段階における「自覚」(判断的自覚と意志的自覚)と「真の同一」(直覚的自覚)が西田にとっての「体験」ということになります。私たちはなぜか最初の没頭状態から引き抜かれ、対象を意識(認識)し、自己を意識します。)

W

日常生活こそ大事なのに、何故人間は認識してしまうのかなあ、と不思議に思います。
佐野
なるほど。(後で考えたのですが、この認識こそ、Hさんの言う学問、さらには哲学(学問)、芸術、宗教に人間が目覚める機縁であり、そこに人間存在の深い意味があるように思われます。)プロトコルはこれくらいにして、講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(295頁1行目~7行目)
佐野
「Cogito ergo sumのsumを存在と考えるならば」とありますが、誰を念頭に置いていますか?

A

デカルトです。
佐野
そうですね。「私は考える、それ故に私は在る」ということで、「sum」が「私は在る」です。それを「存在」と考えるとは、「私」を実体(独立に存在するもの)として考えるということで、一面においてデカルトはそれをやった、ということです。それを西田は「自己を対象的に形而上学的存在と見ること」だ、と表現しています。そうしてそれは「真の自己」ではないと。ついでカントの「意識一般」が出て来ますね。

A

はい。
佐野
カントの「意識一般」も「私は考える(ich denke)」ということです。だがカントはそれを形而上学的な実体とはしなかったということです。「自覚的意識の自己反省の方向に於て見られるもの」と西田は表現しています。例の英国の地図を描く手前のところ、図に対する地を見る、ということですね。もちろんこれは対象認識ではなく、西田に言わせれば直観です。しかしそれを西田は「尚ほ徹底せる自覚ではない」と批判します。それが「単に客観的対象界の総合統一の意識」にすぎないからでしょう。この点は後で考えるとして、次に「此の立場を越ゆれば、知識はないと云われるかも知らぬが」とありますが、そのように「云う」のは誰ですか?

A

左右田でしょう。あるいはリッケルト系の新カント派。
佐野
そうですね。西田が想定する左右田はそのように「云う」だろう、ということだと思います。西田はそれに対し「それではカントの批評哲学は何であるか」、「カントの批評哲学も亦意識一般の立場に於て構成せられたものとは云われまい」、つまり「対象的認識」ではないだろう、と批判します。微妙なところですが、カントとしてはもちろん批判哲学は「対象的認識」ではないが、西田の言おうとしている「自覚」でもない、ただ認識の可能性の制約(条件)を明らかにしただけだ、ということになるでしょう。自己が自己を見る(眼が眼を見る)ような「自覚」は人間理性には不可能だ、というのがカントの基本的な立場です。次をBさん、お願いします。

B

読む(295頁8~10行目)
佐野
「対象的認識」を図とすると、「意識一般」が地ということになって、図から地へ、が「自覚的方向」です。それはさらに深まる、と西田は言います。そうしてここに「判断的自覚(意識一般)」、「意志的自覚」、「直覚的自覚(真の無の場所)」の三つの自覚が登場します。最初の立場は先程の議論では「対象的認識」の立場ですが、これは『倫理学草案第二』で「見者の立場」といわれたもので、『善の研究』では純粋経験を想起・反省する第2編の立場と考えられます。これに対し「意志的自覚」の立場は目的が意識されている(つまり没頭しているのでない)限りにおける行為の立場で、これは『倫理学草案第二』では「作者(なす者)の立場」といわれたもので、『善の研究』では第3編の立場に相当します。「直覚的自覚」は第4編と第1編です。まあ、これは私見にすぎませんが。それでは次をCさん、お願いします。

C

読む(295頁10行目~296頁2行目)
佐野
「対象認識の方向に於て意志を認識することはできない」とありますが、これは次に「意志の意識」とありますから、意志は外に見るものではなく、自覚の事柄だということでしょう。そうして「意志の意識を全然否定するならばとにかく、苟も之を認めるならば」とありますが、「之」とは?

C

「意志の意識」です。
佐野
そうですね。そうして次に「之を対象認識の方向に於てするのではなく、自覚の奥に於てするのでなければならぬ」とありますが、最初の「之」は?

C

「意志を認識すること」ですか?
佐野
そうでしょうね。これを読むと、西田は「意志の意識」というものを事実として前提して、「意志の認識」は「自覚の奥」でなされる、と主張していることになりますね。「意識」と「認識」が区別されていますが、「意志の意識」は何かを意志している場合、その何かに当たるものを図とするなら、意志しているということは地に当たる、隠れたもの、ということになると思います。これに対し「意志の認識」は、地の直観です。例の英国の地図を描く手前の直観です。ちょうど「判断内容」(図)と「判断的自覚(意識一般)」(地)の関係とパラレルです。ここまではいかがですか?

C

大丈夫です。
佐野
次いで「我々の自覚の奥に意志的自覚の立場を見ることによって」とありますが、この「見る」は「意志の認識」と同義で、直観です。それによって我々は「対象界に心理的意志を認識することができる」とされます。我々が対象界において相手のうちに意志を〔対象的に〕認識することができるのはこの直観をしているからだ、ということになります(もちろん、カントはこのような知的な直観は認めません。あくまで「かのように」と言い得るのみです)。我々が「対象的認識」の内に「合目的的世界の認識」や「心理(学)的現象界」、さらには「歴史の世界」を図として「客観的に認識」、つまり「対象的」に認識できる(カントはこうした「認識」を認めませんが)のもこの「意志の認識(=直観)」があるからだ、と西田は言います。「自然界認識の立場〔対象的認識の立場=意識一般〕よりも一層深い立場〔意志の認識の立場〕を自覚の底に見出すことによって可能になる」とはそういうことです。ただなぜ「一層深い」と言い得るのか、あるいはどのようにして立場の移行が起こるのかは明らかではありません。次に「後者の立場をも意識一般というならば」とありますが、「後者の立場」とは?

C

「自然界認識の立場よりも一層深い立場」ではないでしょうか?
佐野
そうですね。「意志の認識」の立場です。それでは「いうならば」とは、誰が「いう」のですか?

C

左右田博士では?
佐野
だと思います。西田の想定する左右田博士の主張ですね。左右田博士はすべての認識は「対象的認識」であり、「意識一般」の立場において成立すると考えているでしょうから、「心理的意志」の認識も「対象的」な認識であり、あくまで「かのように」と接続法(仮定法)で語るべきものということになります。しかし西田はすべてが「意識一般」の立場だとしても、すべてが対象認識であるとすることはできない、だとすると「意識一般にも種々の意味がなければならぬ」と主張します。そうして「意識一般は、意志的自覚の方向に自己を深めることによって種々の対象界を見ることができる」とします。これは「意識一般」に(判断的な意識一般、意志的な意識一般、直覚的な意識一般というような)レベルの差を認めるもので、西田流の〈すべてが意識一般の立場〉です。もちろん左右田はこんな立場は認めないでしょう。どんな体験であれ、「意識一般」において「対象的認識」にもたらされなければ認識にならない、と考えると思います。適切な言葉で語らなければ認識にはならない、という立場です。これに対し西田は言語以前の体験の認識(直観)を認めます。次の段落に進みましょう。Dさん、お願いします。

D

読む(296頁3~8行目)
佐野
「我々が意志することを知るというから、否直観するということをすら知ると考えねばならぬから、理論理性が最高であると云うならば」とありますが、この「云う」は?

D

左右田博士が「云う」のだと思います。
佐野
そうですね。これも西田の想定する左右田の主張と考えられます。左右田が言うように、すべてが認識(知)である、という立場を認めても、ということです。「知識という語の意義の問題とならねばならぬ。そういう場合の知るということは、意識一般によって対象を認識するということとは違うのである」と西田は続けます。「意識一般」に三つのレベルがあったのに対応して、それにおいて「知る」ということにも「判断する」「意志する」「直観する」の三つのレベルがある、そのように主張します。もちろん左右田はこんなものは認めないでしょうね。彼にとっては、「意志することを知る」ことも、「直観することを知る」ことも含め、すべてが「対象的」な(言葉にもたらされた)認識です。逆に言えば、言葉にもたらされなければ認識にならない。どうやらここには〈言葉によって認識する〉のか〈言語以前の認識から言葉は生まれる〉のか、という立場の違いがありそうですね。

D

私はこの殴り合いのような両者のけんかは、その精緻さにおいて西田に軍配が上がると思うのですが。

E

私には西田の言いっぱなしのように思われます。
佐野
次を見て見ましょう。「(意志することを知る、直観することを知るというような)そういう意味の知るという立場は、知識が知識自身を自省する立場であって、かかる意味に於ける知るという中には、意志することも、直観することも含まれて来る」とあります。判断的な知も、意志的な知も、直観的な知も、その「知る」の根本は自覚(「知識が知識自身を自省する」こと)だということです。地の直観です。これを左右田は、眼が眼を見ることだとしておそらく認めない。左右田にとって「知る」とは図の認識、あくまで「対象的な認識」です。ここまでよろしいでしょうか?

D

大丈夫です。
佐野
続いて「それは判断意識というものではなく」とありますが、「それ」とは?

D

「かかる意味に於ける知る」です。
佐野
そうですね。「意志することを知る、直観することを知る」という意味における「知る」ですね。これをおそらく左右田は「判断意識」と取る。西田はそうじゃない、「我々の自覚的意識の立場に於て深く反省せられたもの」「意識を対象とする意識」だ、そう言います。この「意識を対象とする意識」とは、〈対象化された意識(意識された意識)〉を意識することではなく、〈意識する意識〉を意識することです。もちろんこんなものを左右田は認めないでしょう。次をEさん、お願いします。

E

読む(296頁9~13行目)
佐野
「意志」を意識の「外から働く」、あるいは「内から働く」というように「作用」として見れば、「対象的」な認識となりますね。その場合は意識の内外に所謂〈物心の独立的存在〉を仮定することになります。そうではなく、意志は〔判断・直観と並んだ〕「自覚の一様相」だ、そのように西田は言います。そうして「かかる自覚の立場よりして、判断的知識に対して意志の優位が考えられるのである、更にその上に直覚というものも認めねばならぬのである」と述べますが、西田の議論は〈判断の意識〉および「意志の意識」という事実を出発点として、それぞれの根本に直観的な自覚を認めているだけなので、厳密に言えば、「判断的知識」に対する「意志の優位」は明らかではありません。これについては以下の論述を慎重に見て行く必要があると思います。今日はここまでとしましょう。
(第78回)
Tweet about this on TwitterShare on Facebook

「知る」ということの二つの方向

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「左右田博士に答う」の前文と「一」第1段落290頁1行目「哲学研究第二十七号に掲載せられた左右田博士の論文を読み」から293頁2行目「併し自覚の自覚といふ如きは空虚なる言辞に過ぎない」まで講読しました。今回のプロトコルはHさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「我々の眞の自覺とは如何なるものであるか。自覺は自覺自身の内に深く反省して見なければならぬ」(292,11-12)と「自覺には深淺と種々の段階とを考へることはできるであらう。併し自覺の自覺といふ如きは空虚なる言辭に過ぎない」(292,15-293,2)の二文でした。そうして「考えたことないし問い」は「眞の自覺は、自覺自身の内に深く反省することで到達するものとしているが、自覺には深浅と種々の段階はなく、反省を繰り返すうちに、直ちに眞の自覺に到達するものであり、かつ、それは「絶対無の場所」を自覺することだと、理解をしていいのか」(113字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
「自覺には深淺と種々の段階とを考へることはできるであらう」を誰の主張とお考えですか?

H

左右田博士です。
佐野
西田の主張とも取れますね。他の方はいかがですか?

K

私も西田の主張と取りました。
佐野
そうですね。ここで言われる「自覚の深浅と種々の段階」が295頁8~10行目に具体的に述べられています。「判断的自覚」と「意志的自覚」と「直覚的自覚」の三段階がそれです。

H

よく分かりました。
佐野
「真の自覚」が「絶対無の場所」において成立するというのはその通りだと思います。それでは本日の講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(293頁3行目~7行目)

A

「理論理性によって認識するということ」と「理論理性其者の自省」の関係がよく分かりません。
佐野
我々は理論理性を用いて認識しているわけですが、そのこと自体(あるいはそうした認識に没入している在り方)と、そのように認識している、と反省していることとは異なります。この後の方の在り方が「理論理性其者の自省」という在り方です。数学や物理学に専念していることと、それが「如何にして可能か」を論じる立場は異なります。何でそんな問いが生じるかというと、人間は数学や物理学というようないわゆる自然科学を超えて、形而上学にまで突き進むわけですが、我々が理論理性を用いているのである以上、もしかすると正しく用いていない可能性があるからです。そこで認識批判(批評)が必要になるのです。その結果カントにおいては数学や物理学は無罪判決、理論理性による形而上学は有罪判決を受けることになります。経験的に知り得ないものを知ろうとしている、ということです。こうして「理論理性其者の自省」の立場が「対象的知識を批評する批評哲学其者」の立場と重なることになります。西田はカントがこうした「理論理性自身の自省」ないし「批評哲学」の立場を明らかにしていない、と批判するのです。

A

分かりました。ですが、その場合「体験」はどうなるのでしょうか。「理論理性の自省其者が既に体験の一種」とあり、それは「認識以前」だということですから、西田は認識以前の体験から認識が出て来ると。
佐野
そういうことになりますね。また西田は「認識以前」の「体験」によって、「理論理性の自省」の立場の「一般妥当性」を要求できる、つまりその立場を明らかにできるとしています。さて、これはどうでしょうね。左右田博士からすれば、「認識以前」と言っても「体験」と言っても、すでに認識だ、理論理性の枠組みで成り立っている、と主張するでしょうね。そうして知ることのできない「認識以前」の事柄について直接法でああだこうだ断言することは理性の越権だと言うでしょうね。

B

体験と認識の関係ですが、リンゴが落ちることは誰でも体験しているけれども、そこにニュートンが万有引力を認識した、というような関係を言っているのですか?
佐野
「リンゴが落ちる」というのもすでに認識です。我々は一面において認識を一歩も出ることはできません。体験と言っても、認識以前と言ってもすでに認識です。無意識と言っても、無意識を無意識として意識したら無意識でないのと同様です。しかし他方で、我々はたしかに「認識以前」を生きています。眠っている時もそうだし、赤ちゃんの時もそうだ。あるいは何かに集中している状態やぼーっとしている時だってそうです。そこに何かをしている、とかぼーっとしているとかいうような「認識」はない。我々は日常生活の中では「認識」以前を「生きている(存在している)」(そういってしまえばすでに「認識」ですが)はずです。西田はそうした「認識」以前を問題にします。左右田博士からすれば、それは「知り得ない」ということになります。認識を一歩も出ることができないのと同時にすでにそこを生きている、というのは人間が抱える矛盾で、おそらく両者の思想の対決には決着はつかないだろうと思います。次に参りましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(293頁7行目~11行目)
佐野
「自覚ということは単に心理学的事実ではない、単に心理的事実としては自覚の意識は出て来ない」のところはどうですか?

C

心理学の中で、自覚を論じても、そこに「自覚の意識」はない、ということだと思います。
佐野
そうですね。自覚ということを心理学の対象にしている、たとえ、内観法による心理学でも、内観によって対象化している、ということでしょう。そうなると、それは「自覚の意識」ではなく、〈対象の意識〉だということになる。

C

次に「私は自己を形而上学的存在と考えることすら、自覚の意識と矛盾すると思う」とありますが、これはどういう意味ですか?
佐野
たとえばデカルトが「Cogito, ergo sum(私は考える、それ故に私は在る)」という「自覚の意識」に基づいて、「自己」の存在を証明し、かつこれを「実体」としたなどを念頭に置いているのだと思います。このように「実体」化してしまうと、〈対象の意識〉になってしまう、そういうことだと思います。カントは自己をこのように実体化して形而上学的自己とすることを誤謬推理だとして批判しています。

D

どういうことでしょうか?
佐野
「私は考える」という場合の「私=考える」は認識・判断(「AはBである」)の「地」と言うべきもので、どこまでも対象化できないものです。これを形而上学的に対象化・実体化したということです。ところで、ここには心理学的でもない、形而上学的でもない、「自覚の意識」ないし「体験」に基づく哲学が西田の立場として主張されているよう読めますね。

D

はい。
佐野
ヘーゲル哲学後、その反動として反形而上学への傾向が生じますが、それは実証主義、心理主義、歴史主義という形を取りました。心理主義は哲学を心理学に還元するような思想傾向です。ヴントなどがそうですが、明治時代にはこうした哲学が流入してきており、西田もヴントやジェームズなどから多くを学び、自身も旧制高校(四校)で心理学の教鞭をとっていました。こうした心理主義はフッサールや新カント学派によって厳しく批判されることになります。西田はこうした心理主義ではない、しかも従来の形而上学でもない、心理の上に立てられた新たな形而上学(経験の彼方にではなく、此方に脱する形而上学)を構想し、これを「純粋経験の哲学」として展開し、かつこの立場を正当化しようと試みた。そうして出来上がった書が『善の研究』だと考えられるのです。これは私の解釈にすぎませんが・・・。要するに『善の研究』で試みられた西田の立場が第4巻のこの論文にまで引き継がれている、ということです(1907年7月13日鈴木大拙宛書簡、および『純粋経験に関する断章』「断片32」16,554を参照)。

D

分かりました。
佐野
次に「カントの後に出たフィヒテやヘーゲルの哲学が形而上学に陥ったという非難は何處までも弁護することはできないが、又単に之をカント以前の形而上学に逆転したと考えるならば、早計たるを免れない」とありますが、「之」とは何を指しますか?

D

「フィヒテやヘーゲルの哲学が形而上学に陥った」ということではないでしょうか?
佐野
なるほど。

E

私は「フィヒテやヘーゲルの哲学」だと思いました。
佐野
私もそう思いましたが、どちらでも行けそうですね。「カント以前の形而上学」とは先程出て来たデカルトや、スピノザ、ライプニッツなどの哲学を指します。これらをカントの「批評哲学」が批判したわけです。そうしてカント以後、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルといった、いわゆる「ドイツ観念論」が展開されます。これらの哲学が一面で「形而上学に陥った」と言えるけれども、単純にカント以前に逆転した、というわけではない、と言っていることになりますね。これはどういうことでしょう?

F

分かりません。
佐野
文脈からして、おそらく西田は「理論理性の自省」という仕方で、カントの「批評哲学」の立場を基礎づけようとしたのが、ドイツ観念論だと考えているのではないでしょうか。まずはフィヒテが自我の自己定立(事行)という仕方で「自我」によって。この自我はなお客観と対立していましたから、さらにシェリング(初期)は、これを主客の絶対的同一性としての「絶対者」から基礎づけようとしました。この「絶対者」は「同一性」として「区別」に対立していましたから、「絶対者」を「同一性と非同一性(区別)との同一性」として動的・弁証法的に考えたのがヘーゲルでした。しかし彼らにあっては、「自我」にせよ「絶対者」にせよ、またしても形而上学的に対象化・実体化されてしまった、というのが西田の見立てなのだと思います。そうしてこれが現在でも「定説」なのかもしれませんが、少なくとも私には(少なくともヘーゲルは)そんな簡単にはいかないだろうと思います。次に参りましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(293頁12行目「二」~294頁7行目)
佐野
「知る」に「二つの方向」があって、それが「対象認識の方向」と「自覚の方向」であることが述べられ、この段落では「対象認識」が扱われています。4つ出て来ますね。何ですか?

C

「自然界の認識」、「合目的的世界の認識」、「心理的現象界の認識」、「歴史的世界の認識」です。
佐野
そうですね。「自然界の認識」というのは「物理学」を念頭に置いているでしょう。これに対し「合目的的世界の認識」は生物学、「心理的現象界の認識」は心理学、「歴史的世界の認識」は歴史学が念頭に置かれています。

C

「限定的判断」と「反省的判断」とありますが、どういうことですか?
佐野
カントの用語ですね。一般に「判断力」とは特殊を普遍(原理・原則)に包摂する能力ですが、普遍が与えられていて、特殊をその下に包摂する判断力が、「規定(限定)的判断力」で、逆に特殊が与えられているけれども、普遍は求められるものにとどまるのが「反省的判断力」です。そうした普遍は「ある・である」と直接法では語られず、「あるかのように」と接続法(仮定法)で語られることになります。「物理学」の場合には、例えば「因果律」のような「原則」のもとに、個々の特殊な現象が包括されるのに対し、「生物学」の場合、「生命」はそうした原則にはなりません。あくまで「いのちがあるが如くに」謙虚な語り口で語られることになります。

C

それが「自覚的形式の方向に傾いたもの」というのは、「生物」のうちに自分自身を見るということでしょうか?
佐野
そうだと思います。あくまでも「あたかも」ということになるでしょうが、私たち自身も「いのち」ですから、そういうことになると思います。それを言えば「自然界の認識」における、物や力も私たち自身が活動的な身体的存在ですから、それらのうちに(あたかも)自分自身を見ている、ということにもなりますね。それはともかく、生物の次は人間の魂(こころ)ですね。人間の主観的方面です。そうして「歴史」、これは人間の客観的方面と考えることができますね。そういうもののうちにも我々は(あたかも)自分自身を見ている、ということになります。

D

「新なる立場を加える」とありますが、どういうことでしょうか?
佐野
物やその運動を見る時と、生物を見る時では判断力の使い方が違っていますね。生物における様々な現象を我々は「生命現象」と呼んで、そこに恰も「生命」があるが如くに認識し、そのように語ります。「心理的現象」の場合も同様です。その場合はそこに恰も「こころ」があるかのように認識し、そのように語ります。これまでのこうした自然科学的な見方は、法則(普遍)を見出していく方向で対象を見ますが、「歴史学」のような人文学の場合にはむしろ、個々の出来事や個人が問題になるというように、見方が変わってきます。新しい立場に変わるごとに「立場の超越」があるけれども、「知識の外に出て行く」わけではない、とされます。そうした知識について、じつは(「自然界の認識」も含めて)「すべてが自覚の中に包まれて居る」と言える、というのがここでの西田の主張だと思います。ここから第2段落に移ります。Dさん、お願いします。

D

読む(294頁8行目~295頁1行目)
佐野
難しくなってきましたね。冒頭の「自覚というのは、知るものと知られるものとが一であると云う様に、対象的に認識することではない」をどのように理解したらよいでしょうか?

E

鏡のことではないでしょうか?
佐野
でも「見るもの」ではなく、「知るものと知られるものとが一」とありますね。鏡に限定されない気もしますが。

F

主客合一のことではないでしょうか。
佐野
しかし「対象的に自己を同一として認識する」という条件がありますね。テキストではこれを「同一」と呼び、それから「自己同一」を区別しているようです。「同一」とはどうやら対象に自己を一体化させることのようですね。何かに集中したり没頭したりする場合にはそうした対象に自己を一体化させることが考えられますね。しかしそのように対象に「自己」を奪われるような在り方は「自己同一」ではないと。もちろんそうした没入状態も我に返らなければ「認識」にはなりませんけれども。

E

反省的判断の場合にはそういうことが起っているのではないでしょうか?
佐野
生物を見てそこに自己を見る場合ですね。私の家には今、ポメラニアンのベラがいます。彼女はご飯を欲しがったり、散歩に行きたがったりします。私はそこに自分と同じ「いのち」を感じるのですが、その場合、おそらく「反省的判断」などというような面倒なことは考えてはいないでしょう。ベラは「あたかも」ご飯を食べたがっているかのようである、などとは感じない。もちろんどのように感じているのか、それは分かりませんが、もっとストレートに(直接法的に)そう思う。ただその場合でも、対象の側に自己を感情移入させているわけで、これは典型的な「同一」と言えると思います。これは生物だけでなく、他者における心理現象や歴史的現象についても同じように言えると思います。対象的に認識しつつ、そのうちに自己を同一化する仕方です。同じことは物理現象でも、つまり物の認識や力の認識でも言えると思います。我々が物や力を認識できるのはそこに我々自身を見出すからです。逆に言えば物や力は我々の存在や意志の投影とも言えるわけです。しかしそうした認識では「自己同一」(「自覚」)とは言えない、そのように西田は考えているようです。

E

それでは「自己同一」とはどういうものでしょうか?
佐野
それは次に書いてありますね。これがまた大変難しい。まずそれは「作用の自覚(作用の作用)」の方向だとされます。「従来の論文に於て云った如く」とあるように、この表現は、第4巻では「直観と意志」において見ることができます。西田の自覚の立場は、フィヒテの事行(Tathandlung)や、ロイスの例の「英国にいて完全なる英国の地図を写す」にヒントを得ていますが、目下のテキストで言わんとしていることは、描き終わった地図(対象)の方ではなく、その手前の、これから描こうとしている作用の直観(自覚)の方に「真の自己同一」がある、ということです。ここまで、大丈夫でしょうか?

E

はい。
佐野
「而して更に」と続きます。「作用ということを判断意識の立場より「働くもの」に於て論じた如く考え得るならば」と、今度は論文「働くもの」が出て来ます。論文「働くもの」は「働く」(作用)を「知る」(自覚)に包摂しようとしたもの(175頁)ですが、その際出立点を「判断的知識」に取りました(177,4)。その最後の部分では次のようなことが述べられています。ちょっと難しいのですが・・・

E

お願いします。
佐野
「判断」とは「一般的なるものが自己の中に自己を映す反省」ですが、映すものと映されるものが一つにならず、一般と特殊の間にどこまでも間隙が残ります。ちょうど英国の地図が先の方向へとどこまでも連なる感じです。ところがこの反省作用そのものが自己の中に映される「自覚の立場」ではそうした間隙がありません。英国の地図で言えば、描く手前を見ている状態ですね。「働くもの」の最後の部分では、そうした「自覚の立場」に「物と空間」、「働くもの(力)と力の場」など、後(「場所」論文)では「有の場所」と呼ばれるような段階を置いています。そうして「唯、意識の野という如きものに至って、一般的なるものが真に自己自身を無にすると云うことができる」(207,4-5)と述べられています。そこでは、「意識の野」は「絶対の無」とも呼ばれていますね。ここまで、いかがでしょうか?

E

それが今読んでいるところでは、「真の自覚の意識は述語的一般が無となること、即ち真の無の場所に求めなければならぬ」ということになるのですね。
佐野
そうです。この部分を読むにあたってのポイントはどこまでも、「対象認識の方向」と「自覚の方向」の区別です。これを引き継いで、さらに「述語的一般が対立的無として限定せられ得るかぎり、尚所謂知識的自覚に属する」と来ますね。これは主客の対立を残したまま、対象において自己を見る(自覚)立場です。先に「自然界の認識」、「合目的的世界」、「心理的現象界の認識」、「歴史的世界の認識」と順に出て来ましたが、そのどれもが世界の中に自己を見ているけれども、なお対象的・知識的に見ている、ということです。しかし「更に之を越えて真の無の場所に到る時、意識的自己を忘ずると考えられると共に、自己自身の直観として真の自覚に到達するのである」とされます。究極的な西田の立場ですね。難しい問題が含まれていそうですが、今日はここまでとしましょう。
(第77回)
Tweet about this on TwitterShare on Facebook

知識を批評する知識の立場

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」の第4段落288頁7行目「単に限定せられた述語面は」から289頁の最後までを講読しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「一般的述語がその極限に達することは特殊的主語がその極限に達することであり、主語が主語自身となることである。」(288, 15-289, 2)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「一般的述語がその極限に達すること」は、限定せられた場所の外に出続け、場所そのものが真の無となることであろう。西田によれば、これは同時に「特殊的主語がその極限に達すること」であり、「主語が主語自身となること」である。一見するとこれら三つのことは同時に成立しないように思える。これら三つのことはいかにして同時に成立するのだろうか。また、「主語が主語自身となること」は「単に自己自身を直観するものとなる」ことなのか」(205字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります(今回はさらに左右田喜一郎の論文内容を加味して構成してあります)。
佐野
「三つのこと」とは?

W

「一般的述語がその極限に達すること」と「特殊的主語がその極限に達すること」と「主語が主語自身になること」です。
佐野
だとすれば「一般が一般自身になること」というのも隠れていそうですね(283,15-284,2参照)。ところで、これら三つが「同時に成立しない」とは、時間差があるということですか?啐啄同時と言いますが、実はそこには、真の無がまず現成して、そこから主語(個物、働くもの)が立ち上がるのか、主語が立ち現れることで、真の無が現成するのか、といった時間の差があるのではないか、という・・・

W

いえ。三つのことは別のことを言っているように思えるのに、それが同時に成り立つのはどういうことなのかなあ、ということです。西田を読んでいるとここで書いてあることもそんな気になるけれど、本当にそうかなあ、ということです。
佐野
我々は通常「一般概念(有の場所)」の中で当たり前のように分かった気になって生きているけれども、それが破れる刹那、無限に深い真の無の場所が開けると同時に、そこに一切の述語づけを拒むような主語が立ちあがる(「主語が主語自身となる」)、そこにおいて物(主語)となって見る(「単に自己自身を直観するものとなる」)というような境位が開ける、こういう体験の事柄としてこの箇所を読みたくなりますね。そうして何となく分かった気になってしまう。そこに違和感があると。

S

見え方が違ってくるということでは?対象物を見ているのではなく、もっと深いもの、実在を見ている、ということではないでしょうか?

W

そこなんですが、実在が見えていると言うと、それ以上の見方ができなくなってしまうように思うのです。

N

西田はそうした実在、物自体というか、そういうものを体験によって把握したのだと思います。やったーという感じではないでしょうか。

R

たしかに一般概念が破れ、言葉にならないものに出会えば、余裕はなくなりますが、西田はそれを論理化し得たという意味では、やったーという感じかもしれません。

W

一般概念が破れるうちは、見え方はどこまでも変わるのでは?有るがままの世界の景色は「それ」としか言えないと思いますが、「それ」ってどういうことでしょうか?
佐野
たしかに「それ」を把握して、これこそ実在だ、と言ってしまうともう違っていますね。私も音楽や剣道で、体験を通じて今度こそこれが音楽だ、これが剣道だという原点に到達した気にしょっちゅうになりますが、すぐに全部覆されますね。そんなことの繰り返しです。掴んだと思ったものは全部嘘だというのはよくわかる気がします。

K

主語が主語自身になる前の主語と、主語自身になった時の主語との関係はどうなるのでしょうか?主語が主語自身になる前の主語は「一般概念」に包まれているけれども、主語が主語自身になるとそうしたものがない、「真の無の場所」に包まれているということですよね。

S

最近、「今が大事」とか「今でいい」という言い方がよくなされますが、そういう感じで理解されていますか?僕は違和感がありますけど。
佐野
だいぶ時間が押してきたので、プロトコルはこの位にしたいと思います。感想ですが、言葉にならないような何かに出会った刹那、我々はそれでもそれを言葉にしなければまったく理解できません。その意味ではすべてが言葉であり、理解なのですが、それを破るような体験があるということも、言葉の領域においてであるにせよ、厳然とあります。それはあらゆる理解や分別を超えています。ですからそれを我々の「理解」と対立する「実在」とするのも、過去や未来と区別された「今」と理解することも、すでに分別が入っていると考えなければならないだろうということです。

R

主語自身としての主語とか、真の無という根底を何故「ある」と言えるのですか?
佐野
一つには、我々が日常的になしている判断、その可能性の根拠を求めていくと、矛盾的統一はそこまで徹底しなければならない、その意味でそうしたものがなければならない、ということがあると思います。もう一つは体験が基になっているということがあると思います。ですが、こうした体験は「ある」とも「ない」とも言えないものです。「ある」と聞けば安心するのはすでに有無の中で考えているからです。それでは今日の講読箇所に移りましょう。今日から「左右田博士に答う」ですね。左右田は経済学(経済哲学)者で、実業家でもありました。リッケルトのもとで新カント学派の哲学を学んでいます。ネットでご確認ください。また「左右田喜一郎 西田哲学の方法について」で検索すれば、目下の西田の論文のもととなった、左右田の論文を読むことができます。新カント学派の立場からの西田哲学の方法を批判したものになっています。30頁の論文ですので、関心ある方は各自でお読みください。西田の「働くもの」と「場所」から、そこに表出した「西田哲学(この呼称は左右田が初めて用いたものです)」の核心を要約し、更にその根本的な問題点を五つに分けて述べたもので、実に充実したものとなっています。この読書会では時間の都合上、残念ですが扱いません。それではAさん、お願いします。

A

読む(290頁1行目~7行目)
佐野
左右田博士の論文は批判哲学の立場からの手厳しい批判になっていますが、それを「近頃初めて理解あり、権威ある批評を得たかに思う」と西田が思うほどに、西田哲学を本質的に理解し、その上で内在的に批判したことが西田には余程嬉しかったのでしょう。「「場所」の終に於て、私は多少従来と異なった考に達し得たかと思う」とありますが、この「終」を具体的にどこと取るかは議論のあるところでしょう。もちろん一番最後の部分(第4段落末)を挙げることもできますが、ここはペンディングにしておきましょう。次をBさんお願いします。

B

読む(290頁8行目~291頁1行目)
佐野
知識とそれについての知識の二種を区別できるということですが、これについて「眼は眼を見ることはできない」という立場(反論)が考えられます。じつはこうした批評を左右田は西田哲学に対してしています。「知識が知識自らを解せんとする場合には知識を超えんことを要求するは、知識の範囲内に於て妥当する知識にとって必要且つ当然の歩みに過ぎない」(左右田24頁)が、その要求を西田は「理論理性の僭越を敢えてして居る」(同26頁)というのが左右田の西田批判の根本にあります。左右田にとっては、西田は眼を見ることができると主張していることになります。これに対し、西田はここで「知識」に「少なくとも種々の種類があり、種々の次位を区別し得る」と考えます。それでは次をCさん、お願いします。

C

読む(291頁1行目~5行目)
佐野
まず西田は「客観的対象を認識する」ことと、「主観的作用を反省する」ことを区別します。後者には「反省的知識の対象として之を知る」という立場が考えられます。前者には所謂自然科学、後者には内観法による心理学が念頭に置かれていると思われます。それでは次をDさん、お願いします。

D

読む(291頁5行目~11行目)
佐野
ここでは後者の中でもさらに高い立場に立つものとして「批評哲学」(批判哲学)が挙げられています。ここには心理主義への批判が念頭に置かれていると考えられます。心理主義は哲学的な認識の基礎に経験的な心理学を置こうとするものとして、新カント学派などによって厳しく批判されたものです。そうした心理主義を超える立場が「批評哲学」で、カントや新カント学派の立場です。しかし西田はこの立場をさらに「知識が知識自身を越えて何處までも深い立場に立つ」ことでなければならない、と考えます。こうして西田は意志や直観の立場に深まっていきますが、こうしたやり方に左右田は「「哲学の方法」としては余は力一杯反対したい」(左右田27頁)というのです。こうした批判は左右田が学んだ新カント学派の「批評主義」の立場からのものですが、西田からすれば自分こそが「徹底的批評主義」(旧全集第5巻184頁13行目)であると考えています。こうして西田は「知識」に「種々の次位」を認めます。その場合「知識自身を反省し批判する知識」はいかなる意味で「知識」と言えるのか、一層深いとか高いと言われる「批評哲学」の高さや深さがどこから来るかを問題にしようとします。それでは次をEさん、お願いします。

E

読む(291頁12行目~292頁7行目)
佐野
13行目に「避くべからざる循環」とありますが、どういう循環でしょうか?

E

一般的に言っているように思いますが。
佐野
さしあたりはそうだと思いますが、前文との関係ではどうなるでしょうか。前文は「理論理性によって知るということと、理論理性が自己自身を反省するということとは同一でない」となっていますね。それに続いて「避くべからざる循環と云っても、避くべからざる循環と知った時、それは単に同じ所に還ったということではない」と言われていますから、「避くべからざる循環」とは、「理論理性によって〔理論理性を〕知る」(眼が眼を見る)ということではないでしょうか。そうして「理論理性が自己自身を反省するということ」が「避くべからざる循環と知った時」に対応するのでしょう。

F

「批評哲学といえども、それ自身の内容を有って居なければならない。知識の形式を批評するという時、既に形式が内容となって居る」というのがよく分かりません。
佐野
通常知識は、形式と内容によって成り立つ、と考えられます。この場合の形式とは、空間・時間という感性の形式と、カテゴリーという悟性の形式で、内容とは感性的な質料(素材)です。批評哲学(批判哲学)はこうした知識の枠組み自体(知識の形式)を問題にします。そうなると批評哲学は「知識の形式」自体を内容として、これを批判吟味することになります。

F

何故そのような吟味が必要ですか?
佐野
我々は一定の枠組みに基づいて認識しています。しかしそれがたんなる先入見(偏見)であれば我々は物事を正しく認識することはできません。そこでそうした枠組みの批判吟味が必要になります。その上で我々はそうした枠組みを正しく用いなければならない、ということになるからです。

F

でも我々の用いる形式は「論理の形式」しかないのでは?批判吟味もそうした形式によって行うほかないのでは?
佐野
そこなんです。西田が今問題にしようとしていることは。「無論、論理の形式以上の形式があると云うのではない。併し形式によって考えるということと、形式自身の自省ということとは同一でない」と西田は考えます。そこに「新しい知識の意味」が加わると考えます。そうしてこれがおそらく、意志とか直観ということになるのですが、これに左右田が反発するのです。左右田からすればすべては知識であり、我々は知識を越えることはできない。それを越えて意志や直観を論ずることは理性の僭越・越権だというわけです。西田にしてみれば、すべてが知識だということは認めるにしても、そこに「次位」(判断、意志、直観)があるはずだ、というわけです。ここをどう考えるかはとても重要だと思いますが、先に進みましょう。Fさん、お願いします。

F

読む(292頁7行目~11行目)
佐野
ここで「自覚」という言葉が出て来ます。批評哲学」の「知識を批評する知識の立場」は「自覚的立場」であり、それは「積極的立場」をもっていなければならない、西田はそう考えます。そうして「その立場は単に形式によって対象を構成するという知識の立場ではない」、そのように言います。自我自体の認識を認めない(眼は眼を見ない)批判哲学の立場からすれば、「自覚的立場」の「積極的」な意義をこのように主張することは、やはり理性の越権だということになるだろうと思います。そこのところは措いておいて、次をGさん、お願いします。

G

読む(292頁11行目~293頁2行目)
佐野
ここで「真の自覚」が出て来ますね。西田が本当に言いたいことです。「自覚は自覚自身の内に深く反省して見なければならぬ」と西田は言います。後には「認識以前」の「体験」の語も出て来ます(293頁6行目)。そうしてこうした「体験」としての「理論理性の自省そのもの」の上に「批評哲学」の知識が立てられなければならない、西田はそのように考えます。その際、こうした「自省」ないし「自覚」を論ずるには、さらなる「自覚」(「自覚の自覚」)がなければならない、と考えられるかもしれないが、それはすでに「自覚」を対象化している、「自覚を対象的知識と同一と考え」ており、それは「空虚なる言辞に過ぎない」と断じます。左右田からすれば、対象化しないでどのように知るのだ、ということになると思います。今日はここまでとします。
(第76回)
Tweet about this on TwitterShare on Facebook

著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

年別アーカイブ

カテゴリー

場所
index

rss feed