哲学と方法

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第十四巻『講演筆記』「現代に於ける理想主義の哲学」より「第五講 新カント学派」52頁15行目「自然科学の外に歴史学というものも」から55頁3行目「マールブルグ学派のほうが一層明瞭であるように思われるのである」までを講読しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「学問の種々なる区別は如何なるアプリオリから客観的実在を統一するかによって生ずる。即ち方法論的範疇によって定まるのである」(53項15行目~16行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「カントが見い出した知識の先天的要素を、リッケルトが方法論的範疇として明確にした、という流れと理解しました。リッケルトによると方法論的範疇は二範疇(一般性の立場=自然科学、個別性の立場=歴史学)に分けられ、「従来凡ゆる学問の上に立った自然科学も歴史学と同列に引き下ろされることになった(53頁3行目)」ということですが、それならば哲学の方法論的範疇とはどんなもので、自然科学とは何が異なるのでしょうか」(198字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
まずTさんにお伺いしましょう。哲学にこれと言う方法が正解としてあると思いますか?

T

そのようなものはないと思いますが、それは自然科学でも同じことだと思います。ニュートン力学から、相対性理論や量子力学への発展段階で方法論的範疇は変わっていると思います。哲学でもそれは同じではないかと。ただ方向のようなものが違っていて、自然科学の場合は、一旦方法や概念を定めるとそれに乗っかって、突き進んでいきます。それが目指すのは何かに役立つ、ということです。例えば治療とか健康だとか。これに対して、哲学はそうした前提というものをさらに深堀りして行きます。
佐野
たしかに哲学はそうした前提を疑い、吟味して行きますね。疑いようもないものから出立しようとしたのが、デカルトであり、純粋経験の哲学を構想していた『善の研究』の西田です。判断の成立を事実として前提し、その可能性の条件を考えて行ったのが、カントや「場所」の論文を書いていたころの西田です。ヘーゲルは、哲学の始まりは無前提のもの、何にも媒介されていない無媒介(直接的)なもの、如何なる規定をももたない無規定なものでなければならない、と考えました。そこから始めて、それ(始まり、始元)がどのように(弁証法的に)運動するかを論じ、最後には最初の無媒介のものも実は最後のものによって媒介されていたことを示す、円環としての学を構想しました。そのヘーゲルですが、哲学は何かの役に立つものではない、というように言います。むしろ生活への関心が差し迫ったものとならなくなったところ、つまり閑(スコレー)ができた所で、はじめて哲学が始まるというように言います。その意味で哲学は何の役にも立たない。何かに役に立つということになると、その何かに奉仕し従属することになるが、そうしたことがない、その意味で自由なのが哲学です。我々の現実生活では、生きるためということが原理になっていますから、思惟はつねに不自由ですが、哲学することは自由な営みです。

T

自然科学を研究している人の中にも、何に役立つということを度外視して、例えば蝶をただそれが知りたいから、楽しいからといって研究する人がいます。
佐野
そうですね。学問というものは元来そうしたところで発展するものなのでしょう。しかし人間の現実生活はそうした学問の成果を利用しようとする。そうして学問に「役に立つことをしろ」と迫ります。こうした傾向は昨今ますます顕著なものになってきていますね。ただ自然科学と哲学との関係について言えば、自然科学の対象は、学問一般の対象としてもいいですが、そうした学問の対象は限定されたものです。蝶を研究する人は蝶だけを対象とする。これに対し、哲学の対象は全体的なもの、根源的なものです。またそうした対象を探究するための方法も、こういう方法でやりたいので認めてください、というようにお願いするのでなく、必然的な方法を考えようとします。その点では、あらゆる学問の根底に、学問の基礎づけとして哲学があるとも言えます。例えば、科学の根本には科学哲学があり、法の根本には法哲学がある、というようにです。

T

哲学の方法を考えるには、文学や宗教といったものと比較するのがよいと思います。哲学は論理や言葉に信頼を置いて、これを重視していると思います。文学の場合も言葉を重視しますが、哲学とは異なるように思います。宗教では言葉をあまり重視していないような印象があります。
佐野
哲学も宗教も文学を含む芸術も対象は同じで、どこまでも分からない何か、です。これを論理(ロゴス)によって言語(ロゴス)化しようとするのが哲学だと思います。その論理にいろいろあり、弁証法論理であったり、即非の論理だったりする。これが「方法」となりますが、その場合でもやはりこうした言葉以前の「何か」の体験は不可欠です。それがなければたんなるつじつま合わせでしかない。宗教はこの「何か」の体験に基づいて、信仰という仕方(方法)で、私(人間)とこの「何か」との関係を探求していく。文学を含む芸術は、同じく形にならないものを、形にする(創作・創造)という方法で探究して行きます。文学の場合は言葉という場で、音楽の場合は音という場でこれを行います。以上はわたしの「哲学」「宗教」「芸術」観にすぎませんが、他の方はどのようにお考えでしょうか。

O

「超越」が許されている学問は哲学しかないと思います。自然科学には推定はありますが、超越はない。
佐野
そうですね。宗教や芸術にはこうした「超越」がないと、宗教や芸術にならない。こちらからの思いが破れるという体験、こういうものは哲学、宗教、芸術に不可欠でしょう。

W

哲学の方法に二種あって、或る事象(例えば暴力性)を、概念を使ってカテゴリー化してどんな現象(体験)でも説明しよう、それによって問題となる事象を解決しようというのと、概念化できない「これ」としか言いようのないものに直面して、そこから概念を作って行くのとがあると思います。現代の教育哲学は前者ですが、私は後者の哲学の方法の方が好きです。

O

その場合でも結局既存の概念を当てはめて、概念以前のものを説明することになるのだから、同じことになるのでは?
佐野
何かに使おうとしているか否か、に違いがありそうですね。

S

私は「自己言及的志向」が哲学の特徴だと思います。自己の立場を反省・吟味して、その抽象的な在り方から具体性を取り戻すのが、自己言及ということです。目の前のカップという具体的な存在に立ち返る。

T

その意味では哲学はつねに私(自己)が問題になっていますね。宗教もそうした側面があると思いますが、そういう点では自然科学より歴史学に近いと言えますね。自然科学は一般性を求め、歴史学は個性を求めるという点で。
佐野
己事究明を宗教の特権のように考える向きもありますが、ヘーゲルはこうした個への執着を断つことこそ宗教のしなければならないことだと言います。哲学も、さきほどのSさんのお話はこのカップという個に即しながら、その語りはつねに普遍的でした。哲学も同様で、個に即しながらその語りはつねに普遍的でなければならない。哲学は人生相談ではないのですから。プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。今回は最後まで読了しました。読みやすい内容ですので、各自読まれてください。プロトコルのご担当は決めていませんでしたが、Oさんにお願いしました。よろしくお願いいたします。
(第84回)
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当為(sollen)と存在(sein)

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第十四巻『講演筆記』「現代に於ける理想主義の哲学」より「第五講 新カント学派」の初め(48頁1行目「前節に述べたる如く十九世紀の後半には」)から52頁15行目の「従って自然科学というのも客観的実在を或る立場から組立てたものに過ぎない」までを講読しました。今回のプロトコルはKさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「真理は斯くなければならぬといふ當爲(Sollen) によつて成立するのである」(51頁3行目~4行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「真理は當爲(Sollen) によつて成立するとされていますが、真・善・美 については、内容は異なりますが目指すとことは「斯くあらねばならぬ」という当為ではないのかと、私は考えます。キーセンテンスの記述は、真理に限定していると解しました。真理だけなのは、何故でしょうか」(124字)でした。なお注記として「行為という言葉には、馴染みがありますが、当為という言葉を聞くこと自体少なく、これまで理解ができなかったので、この箇所を取り上げました。小室直樹氏の著書には、「日本人というのは、・・・・ザイン(sein ~だ)とゾルレン(sollen ~べきだ)の区別もない」とあり、日本人で哲学に詳しくない人にとって共通の傾向なのかでしょうか」が付記されていました。例によって記憶の断片から「構成」してあります。後出しじゃんけんみたいなもので、佐野だけが「ええかっこ」をしている形になっていてとても恐縮ですが、お許しください。
佐野
今日はKさんがご都合でご欠席ということですが、このプロトコルに基づいて考察しましょう。まずこの「問い」に対してとりあえず分からないところ(意味が通じないところ)はありますか?

I

「真理は当為である」がよく分かりません。
佐野
真理についてはさまざまな考えがありますが、このテーゼは新カント学派に特徴的なものです。我々は「知る(知性)」場合には「真理」を対象とし、「行為(意志)」する場合には「善」を対象とし、「感覚(感性)」する場合には「美」を対象とする、ということがまずあります。そのうち「知る」場合には、我々はその対象が「真理」でなければならない、と考えます。誰も知る以上は本当のこと(真理)を知りたいと思うからです。同じことは「行為(意志)」する場合についても言えます。一般的には悪いと分かっていることでも、例外を認めて「それをしてよい」と思わなければ、人間はそうした悪い行為を行うことができません。我々はよいと思ったことしかできないのです。そこには我々の行為は善でなければならない、ということがあります。「感覚」の場合も、そこには感覚されるものは美でなければならない、ということがあって、それで我々の感覚はつねに美を求める、例えば味覚は美味を求める、ということになります。

R

美については、対象への無関心性ということがあると思います。真や善とはことなるのではないでしょうか?

O

美(快)そのものをこうだ、と決めれば対象には無関心ではいられませんが、例えば美を調和の美に限定しないところに現代美術というものが成り立っていたように、我々の感性はどこまでも美を求める、ということは言えると思います。

R

なるほど。

O

プロトコルの問いに戻りますが、何故「真理」に限定しているか、ということについては、ここで問題になっているのが「真理」だからだという外ないと思います。
佐野
さて、プロトコルのとりあえずの意味は分かったとして、さらに深めて見ましょう。ここに何か問いはありませんか?

R

注記にあるように、日本人は「こうしたい」とか「こうすべきだ」と言うことがあまりないと思います。「そうなっている」というような考え方が多いと感じます。その意味ではsollenがseinに回収されるという仕方で、区別がないと思います。

T

私は途中から参加したのですが、真理が当為(sollen)だというのがよく分かりません。真理とは認識に関わりなく存在することで、真理とはむしろ存在(sein)ではないでしょうか?
佐野
伝統的には真理とは「物と知性の一致」と言われてきました。主観(認識)が客観(存在)に一致することが真理だと。例えば私の後ろに絵がかかっているという認識が、振り返ってみて実際にそのとおりにかかっていれば真だ、ということです。その意味では認識に関わりなく存在している在り方こそが真理だということになります。ただその場合、物と知性の区別が前提されていますね。主客の対立と言ってもいい。ですが物と言っても知性と言ってもすべて言葉です。我々は言葉によって考えるほかはありません。そうすると、「存在」ということもそうした言葉(意味)として考えなければならないことになります。伝統的な考え方からすれば、「存在」は「認識」以前のものでしたが、そのこと自体がすでに「存在」ということの意味になっているのです。我々は言葉の外に出ることはできない。そうして言葉はつねに意味であり、価値、当為を含んでいる。その意味では真も善美同様である、と主張したのが新カント学派です。ただ、例えば「真理」という言葉がどうして「当為」を含むのか、そうした「当為」の出処はどこにあるのか、という問いは起こると思います。これは我々の思い通りになるようなものではない。

K

「当為」とは「理想」とか「理念」と考えていいでしょうか?
佐野
そうだ、と思います。言葉がそうした「理想」として我々に要求してくるわけですが、そうした要求の出処がどこにあるか、ということです。

I

私は「躓き」のようなものが大事なような気がします。当為に従って行為する、しかし躓く、ということです。
佐野
その場合の当為には内容がありますね。「こうすべきだ」の「こう」のところに具体的な内容が盛り込まれていて、人間はそれを実現しようとするし、そうでないと行為できません。しかしそうした前提は思い込みであって、そうした思い込みが「破れる」ということが起る。これが「躓く」ということだと思います。そう考えると、こうした「躓き」を惹き起こしているものこそが「当為」だということになります。この「当為」はこれが真だ、善だ、美だ、というように限定することなく、ただただ「真」を知れ、「善」を為せ。「美」を体感せよ、とだけ命じてくる、そういうことになるのだと思います。こうした「当為」の働きは、つねに一定の思いのなかで生きようとする我々にとっては「他者」という在り方を取ると思います。

W

西田的には「当為」の出処は「意志」と考えてもよいと思います。
佐野
なるほど。最も根本的には「状態としての意志」ということになりますね。プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。今回は55頁3行目まで講読しました。読みやすい内容ですので、各自読まれてください。プロトコルのご担当はTさんです。よろしくお願いいたします。
(第83回)
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新カント学派

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「左右田博士に答う」「三」の第2段落(300頁の級下げ部分)「私は対象化せられた心理的意志を判断主観の上に置くのでもなく」から「四」の第1段落301頁8行目「斯くしてこそ構成的思惟としてのカントの純粋統覚の意味は徹底し得ると思ふ」まで講読しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「コーへンは――(中略)――遂に感覚をも思惟によって要求せられるものとして、オンに対するメー・オンと考へた」(301頁6行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「コーエンの考える純粋統覚も西田の自覚もメー・オン(非存在)としてあり、感覚のような直接経験と思惟の結合を認める点で共通しているという理解でよいか」(72字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
「考えたことないし問い」の前半では、コーヘンの純粋統覚と西田の自覚がメー・オンとなっていますが、「キーセンテンス」の方では、「コーヘンは感覚をも…メー・オンと考えた」となっていますね。つまり感覚がメー・オンではないでしょうか?

R

純粋統覚が思惟ですか?
佐野
「ich denke(私は考える)」が純粋統覚ですから、思惟です。

O

そうすると純粋統覚と自覚がオン(存在)の側に来て、感覚がメー・オン(非存在)の側に来る、ということですね。
佐野
だと思います。後半はその通りだと思いますが、感覚を直接経験としたところは面白いですね。今回読むテキストによれば、新カント学派のリッケルトは直接経験を直接に与えられたものと考えているようです(14巻48,9)。「考えたことないし問い」の質問は、この理解でよいか、ということでしたが、前半を修正すれば、つまり「コーエンの考える純粋統覚も西田の考える自覚もオン(存在)としてあり、感覚のような直接経験(メー・オン)と思惟(オン)との結合を認める点で共通しているという理解でよいか」というようにすれば、「よい」ということになると思います。プロトコルはこの位にして、テキスト講読に移りましょう。今回よりしばらく旧全集第14巻所収の「現代に於ける理想主義の哲学」という題で大正五年の秋に京大学生課主催で行われた一般学生向けの特別講義を、山内得立が筆記したもののうち、第五講「新カント学派」を数回に分けてエクスクルスとして読みたいと思います。第4巻の「左右田博士に答う」の読解の基礎となると思われるからです。これは大変読みやすいものですから、読書会だよりでは特にご紹介はしません。今回は第14巻48頁から52頁15行目まで講読しました。プロトコルはKさんです。よろしくお願いします。
(第82回)
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カントの純粋統覚

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「左右田博士に答う」「三」第2段落、298頁の8行目「一体、知識は単に形式によって構成せられるのではなく」から第3段落300頁8行目段落末まで講読しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「知識があるといふには、主観を入れて来なければならぬ。かゝる主観が意志をも対象として知り得ると云うならば、それは自覚的でなければならぬ」(300頁3行目〜5行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「知識がある」ということは「知識自身の自知」即ち認識主観である意識自身の自省という意味を含んでいる。認識主観が「意志主観」である場合、それは対象化されない意志する意志である。例えば、英国の完全な地図を描こうとしても、地図を描いている自分が描かれないように、意志する意志の自省が成り立たない。そうすると、意志を対象とした知識が如何に成立するのか?(直観の立場は)その知識の正当性をどのように保証するのか?」(200字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。

T

意志の自省が成り立たなければ、意志が自分の意志であることも、それを他者に投影した他者の意志も分からなくなると思います。

R

それでも対象化された意志しか我々には分からないんじゃないでしょうか。
佐野
英国の地図の例が挙がっていますが、どのような意志であるかは対象化して見なければ分かりませんが、そのように対象化できるということはそれ以前に何かを見ていなければならないように思われますが。

N

Rさんは「知識がある」「意志がある」の「根拠」を「正当性」の「保証」という言葉で考えているんじゃないでしょうか。そうするとその保証を与えるのは「真の無の場所」ということになると思いますが。

R

意志する意志の自省が「真の無の場所」における「直覚」の立場で成立するということで、その立場の正当化はどうなるのか、ということが疑問点です。

N

それは神秘的であって、合理的ではない。正当化や基礎づけはもはやできない、与えられている、としか言いようがないのでは?

R

そうした知的直観はカントでも、新カント派でも認められないと思います。だからこそその立場の正当化が求められるのだと思います。

N

「知識がある」「意志がある」というところから出立して、「真の無の場所」が「なければならぬ」、これが正当化であり、正当化の保証では?Rさんは、正当化という言葉をどのように使っているのですか?

R

妥当性でもいいです。

N

絶対的基礎としての「無の場所」はもはや基礎でない基礎、これ以上ない基礎と考えるべきであって、哲学はそれを「宗教の立場」とすべきではないと思います。それについては無記とするのが哲学の立場だと思います。知的直観についても、それは可能だと哲学は言うべきではない。その意味では「対立的無の場所」の意味が哲学にとって重要になると思います。
佐野
西田の最終的な立場としての「真の無の場所」や「直覚」が、その正当化についてずいぶん懐疑的な意見が出ましたが、いや、そうではない、西田には禅の体験、見性体験のようなものがあってこう言っている、というような、あるいはそこまで行かなくても常識的な見方が破れるような「根本体験」があって、このように言っている、というような意見はありませんか?

O

そんなところから意志を語ったら、それは神の意志と同じことになりますよ。

T

正当化とは〔原理・原則による〕裏打ち〔裏付け〕があるということですよね?
佐野
カントの演繹がまさに「正当化」です〔権利問題を論ずる法廷を念頭に置いていると思います〕。

W

西田の場合、表向きは「知識がある」というところから出立しますが、最終的には体験が裏打ちになっていて、実はこちらの方から「なければならぬ」と攻めている気がします。言葉から始まっていない。
佐野
言葉から始める、ということも言葉ならざる所との「あいだ」の出来事ですから、難しいことになりそうですね。プロトコルはこれくらいにして講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(300頁9行目~12行目)

A

最初に「心理的意志」とありますが、この「心理的」とはどういう意味でしょうか?
佐野
言葉の意味は常に文脈の中で押さえていきましょう。まず「対象化せられた心理的意志」とありますから、「心理的意志」は「対象化された」意志です。心理学は心的現象を対象化した学問ですから、その中に意志も含まれることになります。その意志は常に誰かの意志です。それを「判断主観の上に置く」とはそうした「誰かの意志」、例えば佐野之人の意志を「判断主観」の上位に置くことです。

A

ありがとうございます。
佐野
次に「又内から働く神秘的能力を意志と考えるのでもない」とありますね。これは形而上学的な実体としての「意志」です。例えばドイツ観念論の、さらにはショーペンハウアーの「意志」などを念頭に置いているかもしれません。次は「意志は」を補って読みましょう。「(意志は)判断主観よりも尚一層深き主観を意味するのである」と読む。西田が「判断主観」として考えようとしているのは、「誰でもあって誰でもない私」としての「意識一般」ですが、意志はそれよりも「尚一層深き主観」だとされます(先程は「上に置く」となっていました)。何故「一層奥深い」のか、何故「上」なのか、その理由は述べられていません。そうして「自覚についても同様である」と来ます。「同様である」とは何と同様なのでしょうか?

A

意志、では?
佐野
そうでしょうね。そうしてそのことは「自覚に於ける直観と反省」(全集第2巻)や「意識の問題」(全集第3巻所収)にも論じてある、とありますが、判断主観より意志主観を深くに見るという見方はすでに『倫理学草案第二』(1905-1906)に、「見者」に対する「作者(行為する者)」の優位という形で出て来ています。次に参りましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(300頁12行目~末)
佐野
「意志は単に働くものでない、働くことを知るものである。自己は単に存在するものでない、存在することを知るものである」とありますね。この「知る」をカントは「意識」に止めましたが、西田はそれを「直観」にまで徹底しようとします。ここにカントや新カント派が反発するわけです。僭越沙汰だと。それはともかく次を見ますと、「(自己は)認識主観の外にあるのではない、認識主観が之に於てあるのである」とありますが、「之」とは何を指しますか?

B

意志、ですか?
佐野
ええ。意志でも自己でもいいと思いますが、自己の方がよいかもしれません。自己が認識も意志もする、ということで。ところでそうした「自己」を認識主観の「外にある」と考えたのは誰ですか?

B

左右田博士たちでしょう。
佐野
そうでしょうね。西田想定の。リッケルトはすべてを認識主観の対象としますから、自己も意志も認識主観の対象、つまりは認識主観の外にある、ということになります。この場合「認識主観」は「判断主観」です。次に「知るということを知るのも認識主観だと云わるれば」とありますが、西田はこの「認識主観」の中に「自覚」を見ます。ところがリッケルトたちは「知るということを知る」という「自覚」を対象とするのが「認識主観」だ、という意味で、この「認識主観」の中に「判断主観」を見ます。ですから西田は、それは「唯語義の問題だと思う、直にそれを判断主観の如くに考えるのは当を得ない」と述べることになります。しかしそのように西田が言えば、リッケルトたちは、〈では「自覚」と言っているのは何(誰)か?〉と問うでしょう。そうなるとそれは「自覚の自覚」ということになります。「自覚」とは「判断の判断」ですから、「自覚の自覚」とは「判断の判断の又判断」ということになる。さらに、そのように「自覚の自覚」と言っている者が必要になり、こうして合わせ鏡を見るように、際限がなくなってしまう。そのようにリッケルトたちは言うかもしれない。しかし西田はそれを「単なる空論に過ぎない」と一蹴します。そうして「我々は零の零を考え得ざる如く自覚の自覚という如きものを考えることはできない」と結びます。

N

極限値として考えることもできたのに、西田はそうしなかったのだと思います。直観できると割り切った。
佐野
そうかもしれません。「認識(知る)」についての両者の対立、どうにも決着がつきそうもありませんね。次へ参りましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(301頁1行目~9行目)

C

最初の一文、「内容」は「直覚」、「思想」は「概念」と同義と考えてよいですか?
佐野
はい。

C

さらに、「思想」や「概念」は「形式」で、「感覚」が「内容」だと。
佐野
そうです。ですからカントの場合、「直覚(直観)」はつねに「感性(感覚)的直観」です。「知的直観」は認められません。西田はここでこのように「感覚の制約」ということを言いながら、最後の所で知的直観を認める、これが左右田博士の批判するところです。

C

「感覚の制約」の「制約」って何ですか?
佐野
なければならないもの、条件ということです。

C

分かりました。
佐野
次に「カントの純粋統覚は単に論理的主観という如きものではない」とありますね。「純粋統覚」は知覚(Perzeption)に加わって(ad)これを統一するもの(Apperzeption)ということで、厳密に言えば「意識一般」とは事柄としては別ですが、同じものです。それは「論理的主観との如きものではない」ということですが、だとすれば、「純粋統覚は論理的主観だ」と主張している者がいるはずで、それは誰でしょうか?

C

西南学派、ですか?
佐野
そうですね。新カント派は1860年にリープマンが「カントに帰れ!」と言ったところから始まりますが、その後二つの流れに分れます。一つが南西ドイツ学派(西南学派)で、ヴィンデルバント、リッケルト、ラスクがその代表です。もうひとつがマールブルク学派でコーエン(西田はコーヘンと呼んでいますが)が代表です。ここで西南学派として念頭に置かれているのはリッケルトだと思われます。彼は「論理的主観」ということで、論理つまりロゴス、言葉から出発しますから、言葉以前の感覚(直接経験)の存在は認めますが、これを言葉以前として問題にしません。次は「純粋統覚は」を補って読みます。「(純粋統覚は)所与の範疇たる直覚の形式によって与えられた内容と結合したものでなければならぬ」。「所与の範疇」というのはリッケルトの用語ですが、ここで述べられているのはカント哲学です。だとすると「直覚の形式」とは何ですか?

C

空間と時間です。
佐野
そうですね。与えられた感覚的内容をまずは感性の形式である、空間と時間によって整理し、そうしてできた内容、つまり「知覚」をさらに概念によって統一するわけです。その際の統一する働きが「純粋統覚」で、統一の仕方(形式)が、カテゴリー(範疇)です。次に「Kants Theorie der Erfahrung(カントの経験理論)」とありますが、これはコーエンの初期の著作(1871年)です。この中でコーエンは「此点に着眼した」とありますが、「此点」とは?

C

純粋統覚が直覚と結合したものでなければならないことです。
佐野
そうですね。「此故に思惟意識其者」、つまり「純粋統覚」ですね、その「自省」とはich denkeのことですね、そこから「生産的思惟の考」に至ったとあります。そうして「遂に感覚をも思惟によって要求せられるものとして、オンに対するメー・オンと考えた」とあります。

C

「オン」とか「メー・オン」というのは何ですか?
佐野
ギリシャ語で、「存在」「非存在」ということです。大事なことは「無」ではなくて、「非・存在」だということです。感覚は思惟によって要求され、思惟に解決を迫るものとして、思惟に「与えられたもの」ではなく「課せられたもの」、課題だというのです。西田はコーエンの考えに全面的に賛成というわけではないけれども、コーエンのように考えることによって「構成的主観としてのカントの純粋統覚の意味は徹底する」と言っています。「構成的主観」とは「知覚内容」を構成する主観ということで、純粋統覚を「論理的主観」、さらには後で出て来ますが、「判断意識」にまで狭めてしまったリッケルトに対して言っています。今日はここまでとしましょう。
(第81回)
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意識自身の自省――カントの超越論的統覚と西田の自覚

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「左右田博士に答う」「三」第1段落、296頁の最終行「以上述べたように、知るという中にも、私は種々の立場の区別をしたいと思う」から298頁8行目「主観其物即ち自覚という如きものではなかろうか」まで講読しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「意志主観及びその対象界をも包むと考えられるものは、実は判断主観という如きものではなくして、主観其物即ち自覚という如きものではなかろうか」(298頁7~8行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「主観其物即ち自覚」は295頁8-9行目の「私の所謂真の無の場所たる直覚的自覚」ではないでしょうか。とすると、「知る」の3つの立場「判断」「意志」「直観」に、3種の主観が対応することになります。真の無の場所における「直観」は、それがなければ真の無の場所を「知る」ことはできないので、あるはずと理解したのですが、真の無の場所における「主観」とはありえるのでしょうか。「主観=無」となりそうな気がします」(195字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
何か補足はありますか?

T

最近、週一回音声言語外来の患者さんがいらっしゃるんです。そういう子を見ていると、判断より意志の方が深いと思うんです。西田は意志主観を包むものが「主観其者即ち自覚」と言っていますが、その「主観其者」とは「直観」である、というように解釈できるのではないか、と思ったのです。この直観は「真の無の場所」を知るためには必要なものです。西田はこの「真の無の場所」を知っていたはずで、それは直観による、ということになるのですが、「真の無の場所」においては「主観」は溶けてなくなるのではないか、と思うのです。その場合「直観」といっても、何を知っているかはっきり分からないことになるわけで、感覚や知覚とは本質的に異なると思います。そうなると、それがどういうものかを知ることができるのは、意識一般といった「入口」の所で、照らされるしかないのではないか、入ったら溶けてなくなってしまう、そう言うことじゃないかと思うんです。

W

以前「場所」論文「四」で「無の場所」が「単に映す意識の鏡」ということが言われていた(270,6)ことが気になります。その場合、主観は溶けてなくならないのでは?

T

その場合でも、我々は鏡自体は見ていないと思います。見ているものは照らされたものです。鏡自体を見ることが「真の無の場所」を見ることですが、その時には主観は溶けていると思います。

R

直観の中に反省は含まれていて、主観が溶けることの中で、はじめて反省が成立すると思います。悟りの瞬間にも「一語」があります。
佐野
悟りの内容は、古来言語道断とか、不立文字とか言われてきましたが・・・

R

そこから言葉が出て来る直観があるということです。ぼーっとしているのとは違います。

T

悟りは目覚めですから、意識はあると思いますが、それでも無です。それが何らか言語化されなければ、少なくとも傍から見るとぼーっとしているようにしか見えないと思います。

K

「真の無の場所」には主観はありませんが、ぼーっとしているのとは違うと思います。判断が起る手前の一瞬です。
佐野
判断以前ということであれば、ぼーっとしているのも判断以前では?

T

武芸の達人が無心であるように、人生の達人も無心ということがあると思います。それは押し進めて考えると認知症と変わらなくなると思います。習慣化=自動化は楽で、これは年長者の特権だと思います。

W

ぼーっとしているのと真の無とはやはり違うと思います。ぼーっとしている場合には、一定の習慣(一般概念)の中で行動しているわけで、「俺、何してたんだっけ」というように間違いに気づくということがある。真の無の場所を知る場合にはこうした間違いということがありません。
佐野
たしかにぼーっとしている時も、寝ていた時ですら、目覚めた(気がついた)時には、直ちに「ここは教室で、俺は学生だ」というように、一般概念の中で自己認識しますね。ぼーっとしている時も、寝ている時も一般概念の中でそうしている。我々は常に一般概念の中で生きているけれども、だからこそそうした一般概念が破れる刹那というものがあり、それが「真の無の場所」を知るということだと。

W

いえ。そのように習慣が破れるとは異なったものが「真の無の場所」を知るということにはあると思います。例えば赤子とか、中島敦の「名人伝」の弓の名人、紀昌とか。

T

どちらも判断が起る手前、ということができると思いますが、それは単に寝ているとか、ぼーっとしている時と区別はできないと思います。そこに両者を区別することのできるような正解はないと思います。

W

「真の無の場所」からすれば区別はできないと思いますが、分別的な自分の立場からすれば、習慣(一般概念)が破られるということはあると思います。ですが、このように一般概念を前提としない在り方がある。有の場所から真の無の場所に行くのではなく、そもそも真の無の場所に於てある、ということです。
佐野
我々がもともといる場所、ということでしょうか?こうした領域、つまり無分別の領域について、言語(分別)の領域から語るということはどうしても困難を伴いますね。

N

Tさんの問いでは、「真の無の場所」において「主観」がなくなるということですが、それは「我あり」から出発する「我=主観」が死んで、「真の自己」として復活する、ということではないでしょうか?
佐野
Tさんは「真の無の場所」において「主観」が溶けた後に、「意識一般」において照らされるというような言い方をされていましたね。ここでも「主観」について無即有が言われていますね。この「即」のところ、この矛盾的同一の場所が、「真の無の場所」であり、直観の場だと、Rさんは言いたいのでは?

R

まさしくそれが私の言いたいことです。
佐野
難しいところですが、プロトコルはこの位にして、本日の講読箇所に入りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(298頁8行目~15行目)

A

「知識」は「内容」と「形式」の結合によって成立する、ということですが、この「結合」が「自覚の立場」においてのみ可能だと。
佐野
そうですね。この「立場」とは、カントの「超越論的統覚」ないし「意識一般」のことですが、これは「私は考える(ich denke)」という「自己意識(Sellbstbewußtsein)」を伴います。この「自己意識」を西田は「自覚」と訳して、さらにそれに自己直観のような強い意味を持たそうとします。これに左右田が反発するわけですね。

A

次に「所与」と出て来ますが、これは「内容」と同じと見てよいでしょうか?
佐野
いいと思います。その「所与」は「知識の種類」によって異なる、と。まず出て来るのが「自然界」の知識ですね。その場合の形式が「時間、空間」といった感性の形式、それから「因果」などの悟性の形式、つまり「範疇」、カテゴリーですね。

A

「理解力と知覚とを結合する」とありますが、この「知覚」も「所与」と考えていいですか?
佐野
そうですね。感覚と感性の形式(時空)によって、「知覚」が形成され、これと「理解力」つまり「悟性」とが結合されるわけです。両者を結合するとされる「自覚」も「超越論的統覚」です。以上は「自然界」の認識、つまり物理学に代表される科学的な認識です。しかし、所与を知覚というように限定すると、その中には「意志の対象界」は入ってこない。「意志の対象界が構成せられる」と西田は「構成」という言葉を用いていますが、それは「意志の対象界」が「認識」可能だ、という立場に立っているからです。(カントはおそらくそのようには言わないと思います。)西田はその場合、「自然界の所与」つまり「知覚」とは「異なった所与がなければならぬ」と言います。そうしてそれが「人と人とが互いに直感する感情移入の如き直接所与」だというのです。

A

「感情移入」という言葉が出て来ましたが・・・
佐野
この「感情移入」ということで西田が念頭に置いているのは、リップス(Theodor Lipps,1851-1914)です。『善の研究』執筆前後の覚書である『純粋経験に関する断章』の「断片27」にリップスの名が挙がっていて、早くから西田はリップスを知っていたようです。「外界に於ていつでも自分のimageを見て居るのである。人が獅子を見て居る時は獅子になって居るのである」という記述が見えます。リップスは、他我は自我の客体化で、重力も感情移入による、と考えていましたから、西田には馴染みやすい思想家だったと思われます。西田は『善の研究』でリップスではなく、「エルザレム(イェルザレム)」(Wilhelm Jerusalem,1854-1923)の名を挙げて、「科学的見方の根本義である外界に種々の作用を成す力があるという考は、自分の意志より類推したものであると見なさねばならぬ」(岩波文庫改版83頁)と述べています。

B

私はこの「直接所与」というのが気になります。
佐野
この「直接」というのが重要です。まず私と汝がいて、それから私が汝に対して感情移入する、というのではないのです。まず「人と人とが互いに直感」している、という感情があって、それから私と汝が分れて来る、そう考えるのです。(八坂哲弘「西田幾多郎のフィードラー受容とリップスの「感情移入」説」日本哲学史研究第12号156頁参照)

B

分かりました。
佐野
この直接のところ、ここではすべてが(時空すら超えて)通じ合っている、そのように考えられるのですが、そう聞くと何か救われた気がしますね。もっともそれが同時に「真の無」と一つになって有即無を形成しているのですが、この矛盾的自己同一の直接的なところ、ここを宗教哲学の人たちは大事にしますね。ヘーゲルはそうした「直接」はすでに「媒介」と対立するものになっている(対象化されている、ともいえると思います)、としてそうした直接にとびつくことを強く批判します。先に進みましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(299頁1~5行目)
佐野
ここでは「自覚」に二つが区別されていますね。何と何ですか?

B

「心理学的自覚」と「意識自身の自省」です。
佐野
そうですね。「心理学的自覚」の場合、自覚されるものは「経験的自己」です。この私(佐野之人という名をもった私)です。以前「意識する意識」と「意識せられた意識」の区別が出て来ましたが、「経験的自己」は後者です。すでに対象化された自己、ということです。これに対して「意識自身の自省」は「意識する意識」の自省です。対象化できない自己を直接見ること、直観です。さて、そんなことが可能なのかどうか。次を読んで見ましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(299頁5~11行目)
佐野
「斯く云えば直にそれが宇宙の自覚的精神という如き形而上学的実在であるかの様に考えられるかも知らぬが」とありますが、「それが」とは何を指していますか?

C

「自覚」です。
佐野
二つありましたね。どちらですか?

C

西田が言う「自覚」です。
佐野
そうですね。「意識自身の自省」の方です。自我の直観です。カントの後、フィヒテはこの自我自身の知的直観を認めましたが、西田はそれを、自我を形而上学的実在にした、と批判するわけです。フィヒテの後、初期のシェリングは自我と自然(宇宙)との同一性を「絶対者」として、その「自覚」を考えました。シェリングもそうした絶対者の知的直観を絶対者の自覚として認めます。ヘーゲルも絶対者の自覚(自己意識)ということは言いますが、そこに「知的直観」という言葉は用いません。あくまで弁証法的に一歩一歩という形を取ります。しかし西田から見ればこうした「ドイツ観念論」の立場は、やはり意識(自我)を形而上学的に実体化した、ということになります。「自覚は超越的に存在するものではない」というのは、対象化・実体化された自我が自覚するのではない、ということです。「超越的に存在するものなら、それは自己意識というものではない」も同じことを逆の方向から言ったもので、自己意識はあくまで対象化されることのない、「意識する意識」の自己意識だ、そう言っているのです。そうして「意識を心理的と限定すれば」、つまり意識は対象化された意識しかありえない、とするなら、「それより外のものは皆超越的となるかも知らぬが」と来ますが、そのように「皆超越的となる」と主張しているのは誰ですか?

C

西田想定の左右田博士でしょう。
佐野
そうでしょうね。しかし「知識がある」、ここから西田は出発するのですが、そうだとするなら、それは「何處から出て来るのか」、そのように問います。そうして西田自身がやろうとしている、いわば〈新しい形而上学〉の立場が述べられます。それは同時にカントの「批評哲学」の立場を徹底させた「徹底的批評主義」の立場だという自覚を伴っています。その立場とは「知識があるということから出立して考えられた認識主観が心理的でない、形而上学的ではないと云い得るのは心理的主観を超越して心理的認識作用の根拠となるが、而もそれは意識を超越した形而上学的存在ではないと云うことでなければならない」というものです。

C

「超越」という言葉が二度出て来ますが。
佐野
「心理的主観」は「超越」するが、「意識」を「超越」して形而上学的存在にならない、ということですね。「心理的主観」とは「対象認識」の方向に目が向いている在り方です。外を見ている。「意識」を超越して「自我」や「絶対者」を立てるやり方も、やはり外を見ている。どちらも対象化されたものを見ています。そうではなく、意識の内へと、あちら(彼方)ではなくこちら(此方)へと、手前・足下へと超越する、それを目指しています。じつは、西田は『善の研究』における「純粋経験」の哲学において、すでにこうした〈新しい形而上学〉を構想していた、というのが私の見立てです。次に参りましょう。Dさん、お願いします。

D

読む(299頁11~14行目)
佐野
今度は「意志自由の意識」(自由意志の意識)ですね。さっきのは「判断意識」つまり「知識がある」ということでしたが、今度は「意志意識」つまり「意志がある」ということです。それもさっきと同じように、経験的自己の意志意識ではない。一般に心理学において統覚と呼ばれるもの、思惟・意志・想像は意識(自覚)に上るとされます。例えば私がお茶を飲もうと意志すること、このことは意識されます。しかしその時意識されているのは、いわば意識された意志です。しかし意志そのものは決して対象化されない。この対象化されない意志そのものの意識がここで問題になっている「意志意識」です。もちろんそれは「この私の意志」というものではありません。

D

実践理性のようなものですか?
佐野
そうだと思います。「なすべし」と道徳法則として無条件=定言的に命じて来る意志のことです。カントはこの道徳法則の意識を根拠に意志の自由が認識できる(「汝なすべきであるが故になし能う」、たとえ死刑を免れるために偽証せざるを得ないにしても、道徳法則に従って偽証しないことが可能であることは分かる)として、自由意志の存在を要請しましたが、西田はここでも「意志自由の意識」が、「心理現象」ではないとしながらも、「意識」できるとして、一歩踏み込んだ主張になっています。そうして「自由の自覚なき意志は意志でない」と主張し、さきの「知識」の場合と同じように、「意志主観は心理的意志現象を超越し、後者は却って前者によって成立するものでなければならぬ」と言います。この「超越」も手前(此方)への超越、意志する意志の自己直観です。そうしてこうした「超越」が形而上学的実体への(彼方への)超越でないことを次に述べています。「しかも意志の自覚も何處までも意識に内在的でなければならぬ。神の意志は私の自覚的意志ではない」。

D

この「神」は形而上学的に実体化された神ですね。
佐野
そうですね。そのように文脈の中で読むことがとても重要だと思います。次に参りましょう。Eさん、お願いします。

E

読む(299頁14行目~300頁8行目)
佐野
ここでは「知識がある」ということが「知識の自知」(この場合は「意識一般」としての自己意識)を含んでいること、「意志」を対象とした「知識」の場合は、意志の自覚がなければならないこと、さらに「真(真理)」「誤謬」「意味」(さらには「善」「美」「聖」)といった価値を対象とする知識(これを問題にしたのが新カント派の所謂「文化の哲学」です)の場合でも「判断主観の自省」がなければならないこと、が述べられています。今日はここまでとしましょう。
(第80回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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