矛盾的統一の述語面
- 2024年4月6日
- 読書会だより
前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」第4段落288頁の3行目「述語が主語を包むといふ考から云えば」から288頁の7行目「矛盾的統一の述語面に於てはじめて述語面が独立となるのである」までを再読しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「矛盾的統一の述語面に於てはじめて述語面が独立となるのである」(288,6-7)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「矛盾的統一の述語面に於てはじめて述語面が独立となるのである」の「独立」とはどのようなものか。働くものが考えられ、判断の矛盾を意識するとき、その述語面が「個」になると考えてよいか」(89字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
述語面は一般ですが、述語面において判断の矛盾を意識すると、その述語面が個になると考えてよいか、つまり矛盾の意識によって、一般が個になると考えてよいか、という問いですか?前回、Sさんは、赤をどれだけ限定しても、〈この赤〉には到達しない、一般から個には到達しない、とおっしゃっていましたから。
いえ、矛盾的統一がどういうものか、という問いです。
「矛盾的統一」の矛盾は「判断の矛盾」ですね。「判断の矛盾」では何と何が矛盾するのでしょう?
主語と述語、具体的には個と一般、変ずるものと変ぜざるものの矛盾ではないでしょうか?
私もそう思います。一般からいかにして個に至るか、変ずるものをどのように考えるか、そういうことに西洋哲学は苦しんできたと思います。そこで「質料」を「個別化の原理」と考えたり、運動変化のもとに「基体」を考えたりして説明しようとしてきた。しかし西田はそれでは説明になっていない、さらにつきつめて考えて、個と一般の矛盾、変ずるものと変ぜざるものとの矛盾にまで至らなければならない、そう考えたのだと思います。もっともこうした「矛盾を意識」すれば「個」が出て来る、と簡単には考えられないと思います。「矛盾の意識」も論理の言葉であり、論理化(一般概念化)、意識化されているからです。個はそうした一般概念や意識が破れたところ、図も地もない仕方で個が立ち現れるものだと思います。西田が考えようとしたこともそういうことではないでしょうか。Sさん、これでいかがですか?
というより、述語面が独立するのはそれが矛盾的統一だからだからか?という問いです。
なるほど。普通に考えたら述語面の独立と言えば、主語面からの独立ですね。しかしここはそうではなく、述語面が主語面を包むような矛盾的統一であることによって述語面が独立するのだ、と。
そうです。
だとすると、さらに問いが出て来そうですね。主語面が述語面を包んで独立する、ということも考えられるからです。そこには何か深い意味があるのか、あるいは何か問題があるのか。
西田哲学の特質だと思います。
主語面ということでは「神」が考えられますが、そう言わずに述語面において「真の無」を考えたのは西田哲学の特質だと。
神の体験でも同じようなことが言えるのかもしれませんが、西田はそう言わなかった。
何故でしょうか?西田には「禅の体験」のようなものがあったからだとお考えですか?
ええ。書いている人(西田)にとっても求道であったと思いますが、悟った人が悟ってない人に分かるように書いてくれている、そんな感じがします。日常経験を超えた特別な経験がなければ書けない文章だと思います。
そうした体験が「神の体験」でなかったのは、やはり文化的な背景の違い、つまり東洋だからということになるとお考えですか?
ええ。そのことについて他にご意見はありませんか?
述語面に重きが置かれるのは、西洋の主語=実体という思想から脱したいというところがあったのではないかと思いますが、この述語面が意識面とされているところが気になります。そのようにすると独我論にならないでしょうか?
難しい問題ですが、さしあたり言えることは、「意識」というものを「誰かの意識」と考えると独我論になりますが、そうではない、ということです。この「意識」は図に対する地のように、誰の意識でもないような意識です。デカルトの考える我やカントの意識一般もそうしたところがあると思います。ただ、こうした述語面(意識面)を真の無として独立させた場合、そこからすべてを例えば「意志」によって説明しようとすれば、別の意味で独我論が問題になるかもしれません。というのもそうなればそうした述語面が実体化されるし、またそこには他者が存在しないからです。
もう一つ問題だと思うのは、「意識」を意識一般のように考えるにしても、そうした「意識」では「個物」を包み切れないのではないか、という点です。
個物を包む「真の無の場所」を風呂敷のように考えて、それが物を包むように考えるというわけにはいきません。そのように考えられた場所はすでに有です。この有の場所が一般概念として、我々が物を図として理解する場合の地になっているのです。我々は地がなければ図を理解することはできませんね。しかしその地をどこまでも一般化する、その先に真の無を考えるのです。そうなるともはや地はない。そこに個物が一切の理解を超えて立ち上がる、そのように考えるのです。我々は常に一般概念を地としてその中で初めて対象を図として理解できるのですが、そうした一般概念が破れたところでこういうことが起こり得るのだと思います。それは時に言語を絶した惨事であることもあるでしょうし、偉大なものとの出会いである場合もあるでしょう。
その地に当たるものが「場所」なのだと思いますが、それがよく分からないのです。今日初めて参加したばかりなので。
今日多分、「場所」論文を読了しますが、最低限のことだけ確認しておきましょう。この論文の冒頭208頁に「有るものは何かに於てなければならぬ」とありますね。この「何か」が「場所」です。これは「場所」の「有論的テーゼ」と言っていいと思います。これに対し210頁5行目には「我々が物事を考える時、之を映す場所という如きものがなければならぬ」とありますね。この「場所」が「認識論的テーゼ」としての「場所」です。この二つのテーゼにおける「場所」に「有の場所」(初出は232頁4行目)、「対立的無の場所」(「対立的無」の初出は220頁1-2行目)、「真の無の場所」(初出は同12行目)が区別されるようになります。「有の場所」は「一般概念」とも言い換えられます。我々はこうした「一般概念」によって対象を理解することができます。「対立的無」とは主客対立の立場です。有=対象が意識を離れて存在するという立場における意識のことです。それに対し「真の無の場所」はこうした有無の対立を超えてこれらを内に包むものです。大雑把な説明にすぎませんので、実際に「場所」論文をお読みになるとよいと思います。
少なくとも普通に考えられている「場所」が「有の場所」だということは分かりました。
「場所」の「有論的テーゼ」と「認識論的テーゼ」はどのように関係するのですか?
二つのテーゼを対立すると考えるのが「対立的無」の立場です。「真の無の場所」においては同じ一つの事柄の二つの側面でしかありません。
分かりました。
それではプロトコルはこれくらいにして、講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。
読む(288頁7行目~10行目)
「単に限定せられた述語面」とありますね。これは何との対ですか?
前文の「矛盾的統一の述語面」ではないでしょうか?
そうですね。「矛盾的統一」の述語面とは、主語即述語、個別即一般、変ずるもの即変ぜざるもののことでした。だとすれば「単に限定せられた述語面」とは、主語面から区別され、主語面と対立する「述語面」ということになりますね。287頁9~10行目に「一般概念が意識面に於てあり、特殊なるものが対象面に於てあると考えられる間は、働くものを意識することはできぬ」とありました。この場合「意識面」が「述語面」、「対象面」が「主語面」です。「単に限定せられた述語面は判断の根柢とはなるが、働くものとなることはできない」とは、例えばこの木の葉は赤い、は主述を別にして、述語をもとにして考えることもできるが、それだけでは「働く」ということが出て来ない、ということです。ここまで、よろしいでしょうか?
はい。
続いて「働くというのは主語面が述語面に近づくと考えられる如く、又述語面が主語面に近づくことである」とありますが、これも主語面と述語面を別々に考えて、両者が近づくというように考えてはいけないと思います。主語面と述語面が一つに重なっているところで考えます。
働くというのは主語面が述語面に近づく」というのが分かりません。
3行目にも「主語が無限に述語に近づくことが働くものを考えること」とありました。ここでは〈犬は動物である〉のような包摂判断を考えていますから、主語が特殊で述語が一般となります。例えば〈この木の葉の色〉は一般で、〈この緑〉は特殊です。〈この緑〉が「働いて」変化していき〈この赤〉になる。こうして主語(特殊)が「働く」ことで〈この緑〉から〈この赤〉まで、つまり〈この木の葉の色〉がとりうる色の全範囲に近づいていきます。これを述語面から考えると、4行目に「述語面が自己自身を限定すること」とあるように、〈この木の葉の色〉が自らを限定して〈この緑〉や〈この赤〉に近づくことだ、ということだと思います。
分かりました。
そう読むと、次の「働くとは主語面を包んで餘ある述語面が自己の中に主語面を限定すすることである、包摂的関係を述語面から見ることである」も無理なく理解できると思います。次をBさん、お願いします。
読む(288頁11~12頁)
難しいですね。
ここでは意志、判断、働くものの順に出て来ていますが、ここにはグレードがあって、意志が一番深いということを言おうとしているのではないですか?
同一の事柄の三つの側面ということではないですか?
まずは、同一の事柄の三つの側面と読めますが、さらに考えて見ると、先程も問題になったように、述語面を本質的と見る西田の思考法からは意志が最も深い、と考えることもできそうですね。とにかくまずは読んで見ましょう。
はい。
「此故に」とはこれまでの叙述を指しています。「一つの包摂的関係はその主語面を包んで餘ある述語面からは意志」だとされています。前頁に「直観の場所から見た時、働くものとは之に於てあるものの自己限定として意志作用である」(3~4行目)とあり、さらにそれは「知識面」つまり「対立的無の場所」から見れば「無限の作用」(意志作用としての無限の作用)と見られるが、「無も之に於てある直観面」つまり「真の無の場所」から見れば「意志」(状態としての意志)である(4~6行目)とされていました。「働くもの」はその最も根源にまで遡れば意志だということです。〈この木の葉の色〉を考える場合に「意志」を持ち出すのは奇妙に思われるかもしれません。
たしかに。
しかしそれは我々がデカルト以後の物心をあくまで対立的に考える近代科学の立場で考えるからです。その立場からは物に心や意志があるとするのは、「太古人間の説明法」であり、「純白無邪気なる小児の説明法」(岩波文庫改版『善の研究』84頁)であり、「いわゆる科学者は凡てこれを一笑に附し去る」(同)ということになります。しかし「エルザレムなどのいう様に、科学的見方の根本義である外界に種々の作用をなる力があるという考は、自分の意志より類推したものである」(同83頁)というのは「実在の真実なる説明法である」というのが、『善の研究』以来の西田の考え方です。
すると〈この木の葉の色〉の場合、どうなりますか?
「一つの包摂的関係」とは〈この緑〉ないし〈この赤〉と〈この木の葉の色〉との関係です。後者(述語面)が前者(主語面)を包摂する関係です。この場合、「その主語面を包んで餘ある述語面」から見ると、それは述語面が主語面に向けて意志することだということです。この緑になろう、この赤になろう、ということです。
なるほど。
次いで「その主語面に合する範囲に於ては判断であり」とあります。この判断は「意志」としての判断です。以前にも「何處までも意志は判断を離れるのではなく、意志は勝義に於て述語を主語とした判断である、判断を含まない意志は単なる動作に過ぎない」(282頁1~2行目)とありました。〈この木の葉の色〉が〈この緑〉を目的にして判断し、それになろうと意志することです。さらに「述語面の中に含まれた主語面に於ては働くものとなる」とありますが、これは〈この木の葉の色〉が〈この緑〉や〈この赤〉となって働くことです。このように理解して見てはどうか、と思うのです。
主客合一ということですか?
ある意味ではそうですが、「対象面と意識面、主語面と述語面とが単に一つとなってしまえば、働くものもなく、判断するものもない、かかるものが見られ得るかぎり、述語面が主語面を包むものでなければならぬ」(287頁12~14行目)とあったように、単なる主客合一ではなく、述語の方が主語よりその外延が広いのです。「餘ある」とはそういう意味だと思います。
餘ある述語が包むというのがよく分かりません。
それはEさんが「真の無の場所」のことを考えているからで、たしかにそのように考えると、風呂敷が何かを包むようになってしまいます。しかしここはまず有の場所で考えて見て、それを無限大に徹底する、そのようにしてはどうでしょうか。そのことが次に書かれてありますので、次を読んで見ましょう。Cさん、お願いします。
読む(288頁12行目289頁2行目)
「併し」とあって、「真の無の場所」の話へと飛躍します。そうして「述語面が自己を主語面に於て見るということは述語面自身が真の無の場所となること」だと。「自己」とは「述語面」自身のことですね。述語面自身が真の無の場所になってしまえば、見えるものは真の無しか見えないとも考えられますが、どうもそれだけではなさそうです。まずそれは「意志が意志自身を滅すること」だとされます。これは作用としての意志がなくなること、状態としての意志になることだと考えられます。こうしよう、というような意志が感じられなくなることです。そうすると、「すべて之に於てあるものが直観となる」と言うのです。自らが真の無となり、真の無としての自分を見ることが、同時に「之」すなわち「真の無の場所」に於てあるもの、個、働くものがそうした場所から立ち上がり、自分自身を見る直観となるというのです。それを受けて次に「述語面が無限大となると共に場所其者が真の無となり、之に於てあるものは単に自己自身を直観となることである」と述べられます。この「単に」には否定的な意味はないでしょう。純粋に、というような意味だと考えられます。どうですか?この辺り、やはり何らかの体験を踏まえていると思いますか?
そうですね。そうとしか思えません。
ですが、私はこれを禅の体験に限定しなくてもよいと思います。こういうことは芸術でも哲学でも起こり得る、あるいはそうした体験が芸術や哲学の表現のもとになっていると思います。ところで「述語面」、すなわち一般が真に一般になるということは、それがあらゆる特殊性、限定性を拭い去るということで、真の無になることです。そのように「一般的述語がその極限に達することは特殊的主語がその極限に達することであり、主語が主語自身となることである」とされます。述語が「述語となって主語とならないもの」となり、真に述語となることが同時に、主語が「主語となって述語とならない、真の主語となることであり、こうして真の述語が真の主語を包むという関係が成立することになりますが、これが西田をして、「「場所」の終に於て、私は多少従来と異なった考に到達し得た」(290,3-4)と言わしめたものと考えられます。いよいよ最後となりました。Dさん、お願いします。
読む(289頁3~6行目)
これで終わりですか?まとめる気もなさそうですね。たしかに同じことをらせんのように繰り返していますね。
しかも直観の問題には言っていないと言っている。
そうですね。前にも申し上げましたが、第5巻所収の「叡智的世界」に比べると直観(叡智)の扱いが十分ではなさそうです。まだまだ書かねばならないものを西田は見ているようですね。それではこれで「場所」論文を読了したことにしましょう。乾杯はオンラインということで、各自しておいてください。次回より「左右田博士に答う」に入ります。
(第75回)