前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」第3段落、282頁14行目「判断的意識面に於ては」から284頁2行目「すべての特殊的内容を超越して無なる場所となることである」までを講読しました。今回のプロトコルはMさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「併し所謂主客合一とは主語面に於て見られたる自己同一であって、更に述語面に於て見られる自己同一といふものがなければならぬ。前者は単なる同一であって、真の自己同一は却って後者にあるのである」(283,8-10)でした。そうして「考えたことないし問い」は「主語面に於て見られる自己同一ではなく、述語面に於て見られる自己同一を真であると西田はいう。これは円錐の頂点にある主語面(個物)が述語面に深く落ち込んで行くこと(283,12)であり、述語面自身が主語になること(同13)である。述語面が自己自身を無にすること。単なる場所となる(283,14)、その時述語面に於て自己同一が成立していると考えられる。それはどのような事態なのだろう。また、主語面に見られる自己同一と述語面に於て見られる自己同一はどう違うのだろうか」(217字、下線はM)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
ホワイトボードに図がありますね。これをもとに説明してください。(図とは円錐形のことで、頂点が「主語面=無対立的対象=個物」で、赤で記されています。底面の円が「真の無の場所」です。円錐形中程に断面があり、この円が「一般概念」です。この円錐形を上から見るのが「判断」、下から見るのが「意志」だということで、円錐形の上と下に目の形が描かれています。これは西田自身が別の所で描いたものだそうです。頂点の赤がまっすぐ下に降りて、「一般概念」の面の上と、「真の無の場所」の上に乗っています。もう一つ図があってこれはこの円錐形を上(あるいは下)から見たもので、真ん中に赤い点があり、それを囲む二重の円があります。内側の円が「一般概念」、外側の円が「真の無の場所」です)。まず、キーセンテンスの「併し所謂主客合一とは主語面に於て見られたる自己同一であって」とあるのはこの図で言うと?
円錐形を上からみた「判断」の場合です。「主語面」の赤が例えば「一般概念」の「述語面」と重なること、これが「自己同一」です。これが「主語面」つまり赤の所で見られるんです。
なるほど。そうすると「述語面に於て見られる自己同一」とは?
例えば「一般概念」の所で見られる「自己同一」のことです。西田はこちらの「自己同一」の方が「真の自己同一」だと考えています。
テキストにはたしかにそう書いてありますね。これは282頁11行目からすると「我々の意志我の自己同一」ということになりますね。
そうしてそれは「主語面が深く述語面の底に落ち込んでいくこと」だと。この図で言うと?
知識的な直観の場合は、「主語面」つまり赤の所で「自己同一」が成り立っていますが、それが、ぐっと落ち込んできて、まずは「一般概念」の「述語面」のところまで来ます。このことを言っています。
その場合、「一般概念」の「述語面」のところでは「述語面が何處までも自己自身の中に於て主語面を有すること」になりますね。なるほど、よく分かります。それから「述語面自身が主語面となること」とあるのは?
述語面がもう一度、上まで上がって行って主語面となることですが、最初は判断と同じように、主語面と述語面が分れます。
たしかに282頁1~2行目には「判断を含まない意志は単なる動作に過ぎない」とありますね。判断を含む意志とは目的概念を伴った意志ですね。例えば「このミカンが食べたい」というような「個物」つまり赤を意志するというような。
そうです。判断がなければ意志できません。ただ意志の場合は判断のように主語面から見るのではなく、述語面から見ます。「このミカンが食べたい」というのはまさに下から見ていますよね。
ええ。「述語面自身が主語面になる」ということは、最初は判断ですが、それは「述語面が自己自身を無にすることである、単なる場所となることである」だと言われます。
もう一度、述語面自身が上へ、主語面のところまで上がって行くのだけれども、その際に述語面が自分自身を無にする、単なる場所になるんだと。これは以前出て来た、「意味」が「述語面における自己同一」の中に吸収される、というのと同じことですね。その時は「述語面」たとえば「一般概念」の所で言われていましたが、ここでは「述語面における自己同一」つまり「一般概念」の上にある赤のところに意味がグッと吸収されながら、述語面自身は無、ないし単なる場所となり、同時に上の赤のところが豊かになって行く、そんなイメージでしょうか?
そうです。そのことをテキストでは「特殊が特殊になる」と言っています。
テキストを見て見ましょうか。「包摂的関係に於て、特殊が何處までも特殊になって行くということは一般が何處までも一般になって行くということでなければならぬ、一般の極致は一般が特殊化すべからざるものになるのである、すべての特殊的内容を超越して無なる場所となることである」とありますね。一般つまり述語面が無になればなるほど、特殊つまり主語面、赤が特殊になって行く、そういうことですね。
そうです。そうしてその「極致」が、「無限に働くもの」、「純なる作用」です。
これもテキストで確認しておきましょう。「その極致に於て、述語面が無になると共に対立的対象は無対立の対象の中に吸収せられ、すべてがそれ自身に於て働くものとなる、無限に働くもの、純なる作用とも考えられるのである」。「対立的対象」は例えば「一般概念」の領域にある分別的な「意味」ですね。そうした「意味」をたっぷりと吸収して、例えばペンが自ずと動く、と言った感じですね。しかしそれはその時点での「ペン」の理解(「一般概念」)にすぎません。この理解が深まれば、もっと豊かな仕方でペンが自ずと動くことになる。これはどこまでも深まりそうですね。その先に雪舟の筆みたいな境地がある。
でも先生のピアノもピアニストのピアノも、結局は同じことになるような気がするんです。
たしかに私のピアノは下手ですが、なんか失礼な気もします。それはともかくどういうことですか?
次に出て来ますが「真の無の場所」になると、あらゆるものが状態としての自由になり、それを意志というならば、雪舟が名画を描くことも、我々がこのペンで字を書くことも深浅こそあれ同じなのではないか、もしそうならば我々の意志は既に自由なのではないのか、そう思うんです。
なるほど。それは「真の無の場所」に至ったところで直観されるものですね。そのことは今日読むところに関わりますから、プロトコルはこれくらいにして講読に移りましょう。(ただそのような所謂「自由の境地」を外に立てたら、そこにまた「意志作用」が出て来ますから、そんなことはどうでもよい、下手は下手でよいから、それを通じて何かにそのつど目覚めて行けばそれでよい、そんな風に思います。)それではAさん、お願いします。
いきなり「此故に意志はいつも自己の中に知的自己同一を抱くと云うことができる」とありますが、「此」とは何を指しますか?
「述語面が無となると共に対立的対象は無対立の対象の中に吸収せられ、すべてがそれ自身に於て働くものとなる」ことだと思います。
そうですね。「意志はいつも自己の中に知的自己同一を抱く」とは、意志がいつも判断、したがってまたその主語を含んでいるということです。そうしてそれを意志の対象ないし目的にしているということです。例えばそれは〈このペン〉であったり〈このミカン〉であったりするわけです。意志の目的という点で言えば、〈個々の目的・善〉ということになるでしょう。ここまでで質問はありませんか?
しかし「知的自己同一」つまり「主語」ですね、その「主語の方向に於て無限に達することのできない本体が見られる」、つまり〈このペン〉ならその「本体」が見られる、ということです。〈このペン〉の「本体」とは何ですか?
どこまでも分からない〈このペン自体〉だと思います。
そうですね。ただし西田は「意志に於ては特殊の中に一般を含む」(282,12)と考えていますので、意志の目的である〈個々の善〉は〈善のイデア〉を含むことになりますね。私たちはそのつどの意志において個々の善を目的にしていますが、その先には〈善そのもの〉があるということです。そうしてそれはどこまでも到達できない。これが「主語の方向に於て無限に達することのできない本体」ですね。これに対し「述語の方向に於て無限に達することのできない意志が見られることになるのである」とあります。我々は個々の目的の場合、例えば〈このミカンを食べる〉でしたら、それに対応した意志・欲求〈ミカンが食べたい〉が明確だ、そう考えます。しかし実はそれは、もともと分からない衝動が何らかの動機によって立ち現れたものに言葉を与えて分かっている気になっているにすぎません。そうした衝動の根源、例えばそもそも何で食べるのか、何で生きているのか、本当は一体何をしたいのか、ということになると、分かりません。『善の研究』でも「我々の欲望または要求なる者は説明しうべからざる、与えられたる事実である」(岩波文庫改版158頁)と言われていました。『善の研究』ではその後この要求は「人格の要求」(同201頁)というように明確化されます。ここ(「場所」論文)でもこうしたものを念頭に置いているのでしょう。ここまでで何か質問はありますか?
次に「而してその極」とありますから、ここで「無限に達することができない」という挫折と同時に転換が起ることが分かります。あるいは「無限に達することのできない本体」や「無限に達することのできない意志」が「見られ」たが故に「極」に達して転換が起ったとも言えます。ここはおそらく啐啄同時でしょう。「その極」はつねに予期できない瞬間の出来事です。そこにおいて「主語と述語との対立をも超越して真の無の場所に到る時、それが自己自身を見る直観となる」とあります。意志と目的の対立が越えられるということです。「真の無の場所」とありますね。これまでは単に「無の場所」でした。いよいよ最終的な局面に入ったことが分かります。『善の研究』でしたら「宗教的覚悟」ということになり、私の解釈では第3編から第4編への転入ということになります。それがここでは「自己自身を見る直観」と言われているのだと思います。
「それが自己自身を見る直観となる」とありますが、「それが」とは何を指しますか?
そうでしょうね。「時」が「直観」となると。ところでここには注目すべき記述があります。それはこの直観について「斯く述語をも超越する」と書かれてある点です。西田は一方でどこまでも「述語面」がなければならないと考えている(例えば285,4-5)ようですから、ここをどう考えるべきか。これは主述の対立を越えるということと同義ですから、超越される「述語」とはなお主語に対立する述語で、どこまでもなければならない「述語」とは主語と対立しない述語、まさに「真の無の場所」としての述語ということになるでしょう。これで分かった気になるわけにはいきませんが。では次をお願いします。
「併し述語が主語を超越するということが意識するということであり、此方向に進むことが意識の深底に達することであるとすれば、知識の立場に於て我々に最も遠いと考えられるものが、意志の立場に於ては最も近いものとなる」とありますが、「知識の立場に於て我々に最も遠いと考えられるもの」とは何ですか?
すぐ次に「対立的対象と無対立的対象との関係は逆となると考えることができる」とありますが、それで言うとどれになりますか?
そうですね。「無対立的対象」は「知識の立場に於ては最も遠い」が「意志の立場に於ては最も近い」ということです。それと反対に「対立的対象」、つまり知覚や思惟の対象である分別的なものですね、それは「知識の立場に於て我々に最も近い」が「意志の立場に於ては最も遠い」ということになります。知識は分別的な立場に立ち、分別を求め、意志は無分別的な立場に立ち、無分別ないし分別の解消を求めるということかもしれません。次をCさん、お願いします。
ここはヘーゲル哲学を念頭に置いて書いていますね。「「或者がある」「或者がない」という二つの対立的判断に於て、その主語となるものが」とありますが、「その主語となるもの」とは何ですか?
そうですね。そうした「主語」としての「或者」は「有る」のでなければならない。ところが「その主語となるもの」が単に「有る」ということだけであったら、「全然無限定」、つまり全然限定できない。そうであれば「無」に等しいものになってしまう。そうして有と無の「総合」として「転化」つまり成(Werden)を見る、もう少し詳しく言えば、有と言えば無になってしまい、無と言えばただちに有になってしまう、こうした相互転化が成だ、というのです。これはヘーゲルの『論理学』の最初の部分を念頭に置いたものです。これに対して以下に続く文章はヘーゲル批判です。「かかる場合」、ヘーゲルの論理学の場合ですね、その場合には「我々は知的対象として主語的なるものを求むれば唯転化するものを見るのみであるが」、ここは、ヘーゲルの『論理学』で言えば、有が無になり、両者が成になり、さらに定有になり、さらにカテゴリーが続いて、最後には元に戻ってきて「論理学」が完結するのだけれども、今度は「論理学」が「自然哲学」へと移行し、さらに「精神哲学」に移行し、こうした学の体系が完結しつつ、それが生とのかかわりの中で、絶えず新たに更新されるという形で、体系が永遠に運動することを言っていると思います。そうだけれども「その背後には肯定否定を超越した無の場所、独立した述語面という如きものがなければならぬ」そのように言います。ヘーゲルも学がそこに於て成り立つ「場(エレメント)」というものを考えていて、『精神現象学』の場合は、主客の対立を本質とする「意識」が、学の体系の場合は、主客の同一を本質とする「絶対知」がそのエレメントです。ヘーゲルの場合この「エレメント」そのものをテーマにして扱うことはありませんでしたが、西田はそれを「場所」として主題的に扱っています。そうして「無限なる弁証法的発展を照らすものは此の如き述語面でなければならない」と述べます。この「述語面」は弁証法的に発展する学という「主語」に対立する「述語」ではなく、「真の無の場所」でしょう。今日はここまでにします。
(第70回)