リッケルトの如くに考える

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第十四巻『講演筆記』「現代に於ける理想主義の哲学」より「第五講 新カント学派」55頁4行目「マールブルグ学派はコーエンを頭目として」から最後までを読了しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「思惟するというのは働くことである。働くことはそれ自らに自己の内容を創造することである。生産する働きが同時に生産せられた成果である」(58頁11行目)、および「思惟は単なる論理的要求でなくして、その中に内容をも包含した純粋経験のごときものでなければなるまい」(59頁3行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「生まれてからずっと目の前の石ころを見ている人がいるとしたら、その人は生まれた甲斐がないのだろうか」(48字)で、「補足説明」がついていて「そうさせるのは論理的要求か、その本質たる純粋なものか。純粋思惟(純粋経験)に生きることに意味や価値はあるか。ないとすれば何があるのか。カントが見い出した知識の先天的要素を、リッケルトが方法論的範疇として明確にした、という流れと理解しました」となっています。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
趣旨がよく分かりません。どういうことかもう少し説明してください。

O

禅僧の「無心」の境地が新カント学派の「論理的要求」の究極にあるという流れで読みました。

W

「石ころだけ見ている」「無心」が「何も創造していない」ことが問題なのでしょうか?

O

曹洞宗の只管打坐は、すべてを排除した世界で、むしろそこにこそ実在の世界がある、としてそれを求めていると思うのです。コーエンの考える「思惟」の純粋な部分(「純粋思惟」)に近づくこと、思惟を実用的に用いるというのではなくて、純粋に働かせることが、むしろ修行僧のやっていたことではないか、と思うのです。

W

58頁2行目に「感覚は思惟に対して解決を迫る問題」とあります。「石」をただ見る、とかただ座る、ということが思惟に解決を迫る問いだ、ということでしょうか?
佐野
なるほど。公案のようなものですね。

W

ええ。先日、(フランスの留学先で)モンゴル人に「おまえは考えすぎだ。ただ生きればいい」と言われたのですが、「ただ生きる」とはどういうことだろうか、と。
佐野
公案は論理的な解決を迫るものではないですね。ただ見る、といっても、そのように見る者がいる限り、自分にとっての見方でしかない。どうしても主客の二元が残ってしまう。これを論理的に解決しようとするのではなく、矛盾そのものに成り切る。そうすることで、問題は解決しないけれども、問題はなくなる、そういう解決の仕方ですね。

O

只管打坐、ただ座る、というようなものをコーエンは想定していなかったとは思います。
佐野
(後で感じたことですが)Oさんは、初めから思惟が感覚の中に働いているというのであれば、コーエンの創造的な生産的思惟の究極的な在り方は、言語的=論理的な思惟ではなく、むしろ言語にならない感覚のうちに働いている思惟ないし論理だ、ということが言いたかったのかな、と思いました。

S

ここでは知(知識)の在り方として、①新カント学派の論理的思惟、②西田の純粋経験、③仏教の悟りが区別されるべきだと思うのですが、Oさんは②と③を同じものとお考えですか?

O

そうですね。

S

私はコーエンの考え方に共感するのですが、西田はコーエンの考えを批判するに際して、思惟と経験を無理に分けようとしていると思います。
佐野
テキストに戻って、少し整理しておきましょう。「思惟が純粋思惟として経験とは異なったものであるとすれば、如何にして経験的内容を創造し得るのであるか」(59,2-3)とありますね。ここで西田は、コーエンが経験と思惟(純粋思惟)を分けたことを批判しています。リッケルトからの流れで言えば、リッケルトは経験を「与えられたもの」と考え、そのうちに思惟の働きを認めなかった。思惟以前ということで、これを論ずることはなかった。逆に言えば、「与えられたもの」とか「思惟以前」といってもすでに思惟されたものになっている、ということです。すべては言語化されたものである、とする立場だと思います。これに対しコーエンは経験を問題にします。コーエンは経験を思惟に対して課せられたもの、解決を迫る問いとして、そこに思惟の働きを認めます。「経験」と言った時にはすでに思惟の要求、問いの中にからめとられている、逆に言えば、そうした働きがあるから、経験が経験として顕わになる、ということです。西田はコーエンが経験を問題にし、経験と思惟の統一(総合)を問題にしたことを高く評価しつつも、なお両者を区別したことを批判するのです。そうして「思惟は単なる論理的要求でなくしてその中に内容をも包含した(経験と一つになった)純粋経験のごときものでなければならない」(59,4)と自説を述べます。これに対し、Sさんは・・・

S

純粋経験や悟りもすでに認識の内容、認識のスタートになっている、と思います。
佐野
ですが、純粋経験は一方でどこまでも言語に言い表すことを拒否するものでもあると思います。この点はリッケルトが経験をどこまでも与えられたものとして、語り得ないものとしたことにも通じると思います。問いのうちに絡めとられる以前の経験、(こう言ったらすでに思惟の方から事後的分別的に見られてしまっていますが)、例えば一切の思惟や言葉を打ち砕く、絶句するしかない、そういう経験のレベルというものがあるような気がします。ここのところはどうしても事後的分別的でしかありえない言語の抱える矛盾のような気がします。プロトコルはこの位にして、テキストに入りましょう。久しぶりに「左右田博士に答う」に戻ります。Aさん、お願いします。

A

読む(301頁8行目~302頁4行目)
佐野
「リッケルトの如くに考える」とは、純粋統覚(意識一般)を「単に論理的主観」と考えて、内容(感覚)との結合(総合)を考えない、ということです。リッケルトは言葉が成立しているところから考えますので、言葉にならないような経験を論じることはありません。そうなると、内容を構成する、という意味での「構成的主観」としての「意識一般」の意義は失われる、というわけです。次に「之に代えるに」とありますが、「之」とは?

A

「構成的主観としての意識一般」です。
佐野
そうですね。それに代えて「ボルツァーノの真理自体の如きもの」をもってしたと。ボルツァーノが出て来ましたので、西田のボルツァーノの解釈を見て置きましょう。旧西田全集第14巻の22頁~24頁をご覧ください。Bさん、お願いします。

B

読む。
佐野
模写説が出て来ますね。真理とは認識が実在に合致することだという、従来の真理についての考え方は、そもそもその合致を確かめるには、実在そのものを知らなければなりませんが、この知るということがすでに認識ですから、不合理を含みます。カントは経験(内容)と同時に言葉(形式)、つまり両者の総合としての認識(知識)から出発しますがから、こうした認識を超えた実在そのもの(物自体)は知り得ないものとして、それは単なる思想にすぎない、とします。そうして真理とは知識の客観性、つまり普遍性と必然性であるとします。誰が考えてもそうなるということです。したがってこの「誰」とは「意識一般」、つまり誰でもあって誰でもない意識です。そうなると、真理とは実在の問題ではなく、言葉の意味の問題になります。真理とはまさに言葉にほかなりませんから。同様に「実在」も言葉、それも思想としての言葉、ということになります。こうしてすべてが言葉だということになります。言葉には直接法と命令法と接続法(仮定法)がありますが、直接法によって「認識(知識)」が成立します。その知識において理念(善)が命ずる(かくあるべし、当為)ところ、つまり命令法によって道徳法則と実践が成立します。また同じ経験(特殊)が理念(普遍)を求める形、つまり「あたかも~であるごとくに(as if)」となると、反省的判断力(特殊が普遍を求める判断力)による美的判断と有機体に関する判断が成立します。三つの法がそれぞれ、『純粋理性批判』(第一批判)、『実践理性批判』(第二批判)、『判断力批判』(第三批判)に対応します。ここまで、いかがですか。

B

大丈夫です。
佐野
三つの批判書は真善美という理念、つまり言葉の意味を扱ったもの、ということになります。すべてが言葉だということになると、言葉の指し示す意味こそが客観的なものだということになります。プラトンのイデアみたいなものですが、ただしそれを実体(真に存在する存在者)としないで、あくまで理念(普遍的・必然的に妥当するもの、認められるもの)である限りのイデアです。このようにプラトンのイデアを考えようとしたのが、ロッツェで彼に学んだのが、新カント学派のうちの西南学派のヴィンデルバントです。真善美聖という四つの理念を掲げたのも彼です。新カント学派が問題(対象)にするのは言葉であり、こうした意味、価値としての理念です。ところですべてが言葉だということになれば、真理に関して言えば、すべての言葉はそれが真理であるべきだ、という当為を含みます(嘘が成立するのもこのことを前提しているからです)。この真理の理念がここ(「左右田博士に答う」)で出て来た「真理自体」です。それは個人的なものではない。誰が考えようと、考えまいとに関わらず成り立つものです。ですから「客観主義」ということになります。客観といってもいわゆる実在そのものではなく、意味としての客観です。ここまでいかがですか?

B

はい。大丈夫です。
佐野
テキストではリッケルトが、「構成的主観としての意識一般」の代わりに「真理自体」の如きものをもってきて、「意識一般は単に判断意識という如きものに狭められた」とあります。ここは大変難しく、何とか私なりの解釈に辿り着いたのですが、あくまで現時点での私の解釈にすぎませんので、そのおつもりでお聞きください。まず、リッケルトは知識の成立過程を三段階に分けて考えました。覚えていらっしゃいますか?

B

はい。
佐野
純粋経験、ないし体験が直接に与えられたもので、これを①「所与性の範疇」、つまり個物の形式によって「此の」という形に措定する。次いで②「実在の範疇」ないし「構成的範疇」、つまり空間時間、因果の三形式によって加工された経験が「客観的実在」で、最後に③それを一定の方法によって組み立てることによって、自然科学や歴史学のような諸学問が成立するが、その際の形式が、「方法論的範疇」でした。さてここからが私の解釈ということになりますが、まず後(302,6-7)に「構成的範疇と反省的範疇」が「構成的主観」と「判断主観」との対比で出て来ます。これに基づいて、「反省的範疇」を「判断的主観」の形式と考えます。これは無理がなかろうと思います。この「判断」は特殊から一般を求める「反省的判断力」ということになります。カントでは厳密な意味での「知識」からは除外されたものです。ここからですが、この「反省的範疇」を先程の「方法論的範疇」に重ねる。「方法的範疇」は「客観的実在を或る立場から組み立てたものにすぎない」(14巻,52,14-15)からです。そうなるとこの「客観的実在」はすぐ後で(301,13)出てくる「対象自体」に重なるのではないか。そうしてそれをリッケルトは「真理自体」と重ねた、そう読むのです。そこでもう一度、テキストを読んで見ましょう。いいですか?

B

はい。
佐野
「意識一般は単に判断意識というものに狭められた」(301,11-12)とは意識一般が三段階の一番最後にまで狭められてしまったということです。ここからがリッケルトないし左右田博士に対する反論です。何と書いてありますか?

B

「如何にして超越的価値なるものが我々の思惟に対して当為となるのであるか、対象自体という如きものが何故に我々に真理として承認せられなければならないのであるか」とあります。
佐野
「超越的価値」とは真善美などの理念です。認識の場合には「真理自体」です。我々がある認識を言葉で語る場合、その言葉は真理でなければならない、という当為を含んでいますが、どうしてそうなるのか、という反論です。そこには主観(といっても誰かの主観ではなく意識一般)の承認が、さらにその承認のためにはその認識(知識)に自覚がともなっていなければならないではないか、そう西田は考えます。そこで次に西田は何と言っていますか?

B

「真理などいえば云うまでもなく、価値というも既に主観的意味を有って居るのではないか」と言っています。
佐野
そうですね。この「主観的意味」が意識一般による「自覚」を伴っている、ということです。次に「単なる判断の形式に対しては、内容は無関係でなければならぬ」とありますね。「判断」が出て来ました。第三段階です。「判断の形式」とは具体的には「方法論的範疇」ないし「反省的範疇」です。とすればその「内容」とは具体的には「客観的実在」ないし「対象自体」ということになります。そうして両者(形式と内容)が無関係だというのです。次に何と書いてありますか?

B

「何故に全然主観を超越したものが判断作用の目的として主観を制約するのであるか」とあります。
佐野
そうですね。「全然主観を超越したもの」とは「客観的実在」ないし「対象自体」のことです。それが「判断作用の目的」となって、「主観(判断作用)」を、当為(真でなければならぬ)という仕方で「制約」するのか、内容と形式が無関係ならば不可能ではないか、そのように反論しているのです。両者を結びつける意識一般ないし自覚が不可欠だと言いたいわけです。もう一つ反論がありますね。読んでください。

B

「若し範疇的に構成せられたものが判断の対象となると云うならば、範疇的に構成するものは何であるか」。
佐野
「判断の対象」とは「内容」、つまり「対象自体」です。それは「構成的範疇」によって構成されたものでした。意識一般が判断意識にまで縮減されてしまったら、「対象自体」を構成するものがないではないか、という反論です。そうして「それ(範疇的に構成するもの)がカントの意識一般の如く構成的、少くも総合統一的主観の意義を有するものでなかったならば、カントのコペルニクス的回転の意義は失われてしまうではないか」と言われます。「対象自体」が何か出来上がったものとなってしまう、ということです。

C

「コペルニクス的回転」って何ですか?
佐野
スマホで調べてみてください。「カント、コペルニクス的転回」で出てくると思います。

C

我々の認識が対象に従うのではなく、対象が我々の認識に従うということで、コペルニクスが天動説に対して地動説を唱えたのに擬えたものらしいです。
佐野
そうですね。『純粋理性批判』第2版の序文(Vorrede)に出て来ます。発想の転換ということで日常的にも時々使うようです。今日はこの位にしておきましょう。
(第85回)
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哲学と方法

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第十四巻『講演筆記』「現代に於ける理想主義の哲学」より「第五講 新カント学派」52頁15行目「自然科学の外に歴史学というものも」から55頁3行目「マールブルグ学派のほうが一層明瞭であるように思われるのである」までを講読しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「学問の種々なる区別は如何なるアプリオリから客観的実在を統一するかによって生ずる。即ち方法論的範疇によって定まるのである」(53項15行目~16行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「カントが見い出した知識の先天的要素を、リッケルトが方法論的範疇として明確にした、という流れと理解しました。リッケルトによると方法論的範疇は二範疇(一般性の立場=自然科学、個別性の立場=歴史学)に分けられ、「従来凡ゆる学問の上に立った自然科学も歴史学と同列に引き下ろされることになった(53頁3行目)」ということですが、それならば哲学の方法論的範疇とはどんなもので、自然科学とは何が異なるのでしょうか」(198字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
まずTさんにお伺いしましょう。哲学にこれと言う方法が正解としてあると思いますか?

T

そのようなものはないと思いますが、それは自然科学でも同じことだと思います。ニュートン力学から、相対性理論や量子力学への発展段階で方法論的範疇は変わっていると思います。哲学でもそれは同じではないかと。ただ方向のようなものが違っていて、自然科学の場合は、一旦方法や概念を定めるとそれに乗っかって、突き進んでいきます。それが目指すのは何かに役立つ、ということです。例えば治療とか健康だとか。これに対して、哲学はそうした前提というものをさらに深堀りして行きます。
佐野
たしかに哲学はそうした前提を疑い、吟味して行きますね。疑いようもないものから出立しようとしたのが、デカルトであり、純粋経験の哲学を構想していた『善の研究』の西田です。判断の成立を事実として前提し、その可能性の条件を考えて行ったのが、カントや「場所」の論文を書いていたころの西田です。ヘーゲルは、哲学の始まりは無前提のもの、何にも媒介されていない無媒介(直接的)なもの、如何なる規定をももたない無規定なものでなければならない、と考えました。そこから始めて、それ(始まり、始元)がどのように(弁証法的に)運動するかを論じ、最後には最初の無媒介のものも実は最後のものによって媒介されていたことを示す、円環としての学を構想しました。そのヘーゲルですが、哲学は何かの役に立つものではない、というように言います。むしろ生活への関心が差し迫ったものとならなくなったところ、つまり閑(スコレー)ができた所で、はじめて哲学が始まるというように言います。その意味で哲学は何の役にも立たない。何かに役に立つということになると、その何かに奉仕し従属することになるが、そうしたことがない、その意味で自由なのが哲学です。我々の現実生活では、生きるためということが原理になっていますから、思惟はつねに不自由ですが、哲学することは自由な営みです。

T

自然科学を研究している人の中にも、何に役立つということを度外視して、例えば蝶をただそれが知りたいから、楽しいからといって研究する人がいます。
佐野
そうですね。学問というものは元来そうしたところで発展するものなのでしょう。しかし人間の現実生活はそうした学問の成果を利用しようとする。そうして学問に「役に立つことをしろ」と迫ります。こうした傾向は昨今ますます顕著なものになってきていますね。ただ自然科学と哲学との関係について言えば、自然科学の対象は、学問一般の対象としてもいいですが、そうした学問の対象は限定されたものです。蝶を研究する人は蝶だけを対象とする。これに対し、哲学の対象は全体的なもの、根源的なものです。またそうした対象を探究するための方法も、こういう方法でやりたいので認めてください、というようにお願いするのでなく、必然的な方法を考えようとします。その点では、あらゆる学問の根底に、学問の基礎づけとして哲学があるとも言えます。例えば、科学の根本には科学哲学があり、法の根本には法哲学がある、というようにです。

T

哲学の方法を考えるには、文学や宗教といったものと比較するのがよいと思います。哲学は論理や言葉に信頼を置いて、これを重視していると思います。文学の場合も言葉を重視しますが、哲学とは異なるように思います。宗教では言葉をあまり重視していないような印象があります。
佐野
哲学も宗教も文学を含む芸術も対象は同じで、どこまでも分からない何か、です。これを論理(ロゴス)によって言語(ロゴス)化しようとするのが哲学だと思います。その論理にいろいろあり、弁証法論理であったり、即非の論理だったりする。これが「方法」となりますが、その場合でもやはりこうした言葉以前の「何か」の体験は不可欠です。それがなければたんなるつじつま合わせでしかない。宗教はこの「何か」の体験に基づいて、信仰という仕方(方法)で、私(人間)とこの「何か」との関係を探求していく。文学を含む芸術は、同じく形にならないものを、形にする(創作・創造)という方法で探究して行きます。文学の場合は言葉という場で、音楽の場合は音という場でこれを行います。以上はわたしの「哲学」「宗教」「芸術」観にすぎませんが、他の方はどのようにお考えでしょうか。

O

「超越」が許されている学問は哲学しかないと思います。自然科学には推定はありますが、超越はない。
佐野
そうですね。宗教や芸術にはこうした「超越」がないと、宗教や芸術にならない。こちらからの思いが破れるという体験、こういうものは哲学、宗教、芸術に不可欠でしょう。

W

哲学の方法に二種あって、或る事象(例えば暴力性)を、概念を使ってカテゴリー化してどんな現象(体験)でも説明しよう、それによって問題となる事象を解決しようというのと、概念化できない「これ」としか言いようのないものに直面して、そこから概念を作って行くのとがあると思います。現代の教育哲学は前者ですが、私は後者の哲学の方法の方が好きです。

O

その場合でも結局既存の概念を当てはめて、概念以前のものを説明することになるのだから、同じことになるのでは?
佐野
何かに使おうとしているか否か、に違いがありそうですね。

S

私は「自己言及的志向」が哲学の特徴だと思います。自己の立場を反省・吟味して、その抽象的な在り方から具体性を取り戻すのが、自己言及ということです。目の前のカップという具体的な存在に立ち返る。

T

その意味では哲学はつねに私(自己)が問題になっていますね。宗教もそうした側面があると思いますが、そういう点では自然科学より歴史学に近いと言えますね。自然科学は一般性を求め、歴史学は個性を求めるという点で。
佐野
己事究明を宗教の特権のように考える向きもありますが、ヘーゲルはこうした個への執着を断つことこそ宗教のしなければならないことだと言います。哲学も、さきほどのSさんのお話はこのカップという個に即しながら、その語りはつねに普遍的でした。哲学も同様で、個に即しながらその語りはつねに普遍的でなければならない。哲学は人生相談ではないのですから。プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。今回は最後まで読了しました。読みやすい内容ですので、各自読まれてください。プロトコルのご担当は決めていませんでしたが、Oさんにお願いしました。よろしくお願いいたします。
(第84回)
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当為(sollen)と存在(sein)

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第十四巻『講演筆記』「現代に於ける理想主義の哲学」より「第五講 新カント学派」の初め(48頁1行目「前節に述べたる如く十九世紀の後半には」)から52頁15行目の「従って自然科学というのも客観的実在を或る立場から組立てたものに過ぎない」までを講読しました。今回のプロトコルはKさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「真理は斯くなければならぬといふ當爲(Sollen) によつて成立するのである」(51頁3行目~4行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「真理は當爲(Sollen) によつて成立するとされていますが、真・善・美 については、内容は異なりますが目指すとことは「斯くあらねばならぬ」という当為ではないのかと、私は考えます。キーセンテンスの記述は、真理に限定していると解しました。真理だけなのは、何故でしょうか」(124字)でした。なお注記として「行為という言葉には、馴染みがありますが、当為という言葉を聞くこと自体少なく、これまで理解ができなかったので、この箇所を取り上げました。小室直樹氏の著書には、「日本人というのは、・・・・ザイン(sein ~だ)とゾルレン(sollen ~べきだ)の区別もない」とあり、日本人で哲学に詳しくない人にとって共通の傾向なのかでしょうか」が付記されていました。例によって記憶の断片から「構成」してあります。後出しじゃんけんみたいなもので、佐野だけが「ええかっこ」をしている形になっていてとても恐縮ですが、お許しください。
佐野
今日はKさんがご都合でご欠席ということですが、このプロトコルに基づいて考察しましょう。まずこの「問い」に対してとりあえず分からないところ(意味が通じないところ)はありますか?

I

「真理は当為である」がよく分かりません。
佐野
真理についてはさまざまな考えがありますが、このテーゼは新カント学派に特徴的なものです。我々は「知る(知性)」場合には「真理」を対象とし、「行為(意志)」する場合には「善」を対象とし、「感覚(感性)」する場合には「美」を対象とする、ということがまずあります。そのうち「知る」場合には、我々はその対象が「真理」でなければならない、と考えます。誰も知る以上は本当のこと(真理)を知りたいと思うからです。同じことは「行為(意志)」する場合についても言えます。一般的には悪いと分かっていることでも、例外を認めて「それをしてよい」と思わなければ、人間はそうした悪い行為を行うことができません。我々はよいと思ったことしかできないのです。そこには我々の行為は善でなければならない、ということがあります。「感覚」の場合も、そこには感覚されるものは美でなければならない、ということがあって、それで我々の感覚はつねに美を求める、例えば味覚は美味を求める、ということになります。

R

美については、対象への無関心性ということがあると思います。真や善とはことなるのではないでしょうか?

O

美(快)そのものをこうだ、と決めれば対象には無関心ではいられませんが、例えば美を調和の美に限定しないところに現代美術というものが成り立っていたように、我々の感性はどこまでも美を求める、ということは言えると思います。

R

なるほど。

O

プロトコルの問いに戻りますが、何故「真理」に限定しているか、ということについては、ここで問題になっているのが「真理」だからだという外ないと思います。
佐野
さて、プロトコルのとりあえずの意味は分かったとして、さらに深めて見ましょう。ここに何か問いはありませんか?

R

注記にあるように、日本人は「こうしたい」とか「こうすべきだ」と言うことがあまりないと思います。「そうなっている」というような考え方が多いと感じます。その意味ではsollenがseinに回収されるという仕方で、区別がないと思います。

T

私は途中から参加したのですが、真理が当為(sollen)だというのがよく分かりません。真理とは認識に関わりなく存在することで、真理とはむしろ存在(sein)ではないでしょうか?
佐野
伝統的には真理とは「物と知性の一致」と言われてきました。主観(認識)が客観(存在)に一致することが真理だと。例えば私の後ろに絵がかかっているという認識が、振り返ってみて実際にそのとおりにかかっていれば真だ、ということです。その意味では認識に関わりなく存在している在り方こそが真理だということになります。ただその場合、物と知性の区別が前提されていますね。主客の対立と言ってもいい。ですが物と言っても知性と言ってもすべて言葉です。我々は言葉によって考えるほかはありません。そうすると、「存在」ということもそうした言葉(意味)として考えなければならないことになります。伝統的な考え方からすれば、「存在」は「認識」以前のものでしたが、そのこと自体がすでに「存在」ということの意味になっているのです。我々は言葉の外に出ることはできない。そうして言葉はつねに意味であり、価値、当為を含んでいる。その意味では真も善美同様である、と主張したのが新カント学派です。ただ、例えば「真理」という言葉がどうして「当為」を含むのか、そうした「当為」の出処はどこにあるのか、という問いは起こると思います。これは我々の思い通りになるようなものではない。

K

「当為」とは「理想」とか「理念」と考えていいでしょうか?
佐野
そうだ、と思います。言葉がそうした「理想」として我々に要求してくるわけですが、そうした要求の出処がどこにあるか、ということです。

I

私は「躓き」のようなものが大事なような気がします。当為に従って行為する、しかし躓く、ということです。
佐野
その場合の当為には内容がありますね。「こうすべきだ」の「こう」のところに具体的な内容が盛り込まれていて、人間はそれを実現しようとするし、そうでないと行為できません。しかしそうした前提は思い込みであって、そうした思い込みが「破れる」ということが起る。これが「躓く」ということだと思います。そう考えると、こうした「躓き」を惹き起こしているものこそが「当為」だということになります。この「当為」はこれが真だ、善だ、美だ、というように限定することなく、ただただ「真」を知れ、「善」を為せ。「美」を体感せよ、とだけ命じてくる、そういうことになるのだと思います。こうした「当為」の働きは、つねに一定の思いのなかで生きようとする我々にとっては「他者」という在り方を取ると思います。

W

西田的には「当為」の出処は「意志」と考えてもよいと思います。
佐野
なるほど。最も根本的には「状態としての意志」ということになりますね。プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。今回は55頁3行目まで講読しました。読みやすい内容ですので、各自読まれてください。プロトコルのご担当はTさんです。よろしくお願いいたします。
(第83回)
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新カント学派

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「左右田博士に答う」「三」の第2段落(300頁の級下げ部分)「私は対象化せられた心理的意志を判断主観の上に置くのでもなく」から「四」の第1段落301頁8行目「斯くしてこそ構成的思惟としてのカントの純粋統覚の意味は徹底し得ると思ふ」まで講読しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「コーへンは――(中略)――遂に感覚をも思惟によって要求せられるものとして、オンに対するメー・オンと考へた」(301頁6行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「コーエンの考える純粋統覚も西田の自覚もメー・オン(非存在)としてあり、感覚のような直接経験と思惟の結合を認める点で共通しているという理解でよいか」(72字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
「考えたことないし問い」の前半では、コーヘンの純粋統覚と西田の自覚がメー・オンとなっていますが、「キーセンテンス」の方では、「コーヘンは感覚をも…メー・オンと考えた」となっていますね。つまり感覚がメー・オンではないでしょうか?

R

純粋統覚が思惟ですか?
佐野
「ich denke(私は考える)」が純粋統覚ですから、思惟です。

O

そうすると純粋統覚と自覚がオン(存在)の側に来て、感覚がメー・オン(非存在)の側に来る、ということですね。
佐野
だと思います。後半はその通りだと思いますが、感覚を直接経験としたところは面白いですね。今回読むテキストによれば、新カント学派のリッケルトは直接経験を直接に与えられたものと考えているようです(14巻48,9)。「考えたことないし問い」の質問は、この理解でよいか、ということでしたが、前半を修正すれば、つまり「コーエンの考える純粋統覚も西田の考える自覚もオン(存在)としてあり、感覚のような直接経験(メー・オン)と思惟(オン)との結合を認める点で共通しているという理解でよいか」というようにすれば、「よい」ということになると思います。プロトコルはこの位にして、テキスト講読に移りましょう。今回よりしばらく旧全集第14巻所収の「現代に於ける理想主義の哲学」という題で大正五年の秋に京大学生課主催で行われた一般学生向けの特別講義を、山内得立が筆記したもののうち、第五講「新カント学派」を数回に分けてエクスクルスとして読みたいと思います。第4巻の「左右田博士に答う」の読解の基礎となると思われるからです。これは大変読みやすいものですから、読書会だよりでは特にご紹介はしません。今回は第14巻48頁から52頁15行目まで講読しました。プロトコルはKさんです。よろしくお願いします。
(第82回)
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カントの純粋統覚

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「左右田博士に答う」「三」第2段落、298頁の8行目「一体、知識は単に形式によって構成せられるのではなく」から第3段落300頁8行目段落末まで講読しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「知識があるといふには、主観を入れて来なければならぬ。かゝる主観が意志をも対象として知り得ると云うならば、それは自覚的でなければならぬ」(300頁3行目〜5行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「知識がある」ということは「知識自身の自知」即ち認識主観である意識自身の自省という意味を含んでいる。認識主観が「意志主観」である場合、それは対象化されない意志する意志である。例えば、英国の完全な地図を描こうとしても、地図を描いている自分が描かれないように、意志する意志の自省が成り立たない。そうすると、意志を対象とした知識が如何に成立するのか?(直観の立場は)その知識の正当性をどのように保証するのか?」(200字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。

T

意志の自省が成り立たなければ、意志が自分の意志であることも、それを他者に投影した他者の意志も分からなくなると思います。

R

それでも対象化された意志しか我々には分からないんじゃないでしょうか。
佐野
英国の地図の例が挙がっていますが、どのような意志であるかは対象化して見なければ分かりませんが、そのように対象化できるということはそれ以前に何かを見ていなければならないように思われますが。

N

Rさんは「知識がある」「意志がある」の「根拠」を「正当性」の「保証」という言葉で考えているんじゃないでしょうか。そうするとその保証を与えるのは「真の無の場所」ということになると思いますが。

R

意志する意志の自省が「真の無の場所」における「直覚」の立場で成立するということで、その立場の正当化はどうなるのか、ということが疑問点です。

N

それは神秘的であって、合理的ではない。正当化や基礎づけはもはやできない、与えられている、としか言いようがないのでは?

R

そうした知的直観はカントでも、新カント派でも認められないと思います。だからこそその立場の正当化が求められるのだと思います。

N

「知識がある」「意志がある」というところから出立して、「真の無の場所」が「なければならぬ」、これが正当化であり、正当化の保証では?Rさんは、正当化という言葉をどのように使っているのですか?

R

妥当性でもいいです。

N

絶対的基礎としての「無の場所」はもはや基礎でない基礎、これ以上ない基礎と考えるべきであって、哲学はそれを「宗教の立場」とすべきではないと思います。それについては無記とするのが哲学の立場だと思います。知的直観についても、それは可能だと哲学は言うべきではない。その意味では「対立的無の場所」の意味が哲学にとって重要になると思います。
佐野
西田の最終的な立場としての「真の無の場所」や「直覚」が、その正当化についてずいぶん懐疑的な意見が出ましたが、いや、そうではない、西田には禅の体験、見性体験のようなものがあってこう言っている、というような、あるいはそこまで行かなくても常識的な見方が破れるような「根本体験」があって、このように言っている、というような意見はありませんか?

O

そんなところから意志を語ったら、それは神の意志と同じことになりますよ。

T

正当化とは〔原理・原則による〕裏打ち〔裏付け〕があるということですよね?
佐野
カントの演繹がまさに「正当化」です〔権利問題を論ずる法廷を念頭に置いていると思います〕。

W

西田の場合、表向きは「知識がある」というところから出立しますが、最終的には体験が裏打ちになっていて、実はこちらの方から「なければならぬ」と攻めている気がします。言葉から始まっていない。
佐野
言葉から始める、ということも言葉ならざる所との「あいだ」の出来事ですから、難しいことになりそうですね。プロトコルはこれくらいにして講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(300頁9行目~12行目)

A

最初に「心理的意志」とありますが、この「心理的」とはどういう意味でしょうか?
佐野
言葉の意味は常に文脈の中で押さえていきましょう。まず「対象化せられた心理的意志」とありますから、「心理的意志」は「対象化された」意志です。心理学は心的現象を対象化した学問ですから、その中に意志も含まれることになります。その意志は常に誰かの意志です。それを「判断主観の上に置く」とはそうした「誰かの意志」、例えば佐野之人の意志を「判断主観」の上位に置くことです。

A

ありがとうございます。
佐野
次に「又内から働く神秘的能力を意志と考えるのでもない」とありますね。これは形而上学的な実体としての「意志」です。例えばドイツ観念論の、さらにはショーペンハウアーの「意志」などを念頭に置いているかもしれません。次は「意志は」を補って読みましょう。「(意志は)判断主観よりも尚一層深き主観を意味するのである」と読む。西田が「判断主観」として考えようとしているのは、「誰でもあって誰でもない私」としての「意識一般」ですが、意志はそれよりも「尚一層深き主観」だとされます(先程は「上に置く」となっていました)。何故「一層奥深い」のか、何故「上」なのか、その理由は述べられていません。そうして「自覚についても同様である」と来ます。「同様である」とは何と同様なのでしょうか?

A

意志、では?
佐野
そうでしょうね。そうしてそのことは「自覚に於ける直観と反省」(全集第2巻)や「意識の問題」(全集第3巻所収)にも論じてある、とありますが、判断主観より意志主観を深くに見るという見方はすでに『倫理学草案第二』(1905-1906)に、「見者」に対する「作者(行為する者)」の優位という形で出て来ています。次に参りましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(300頁12行目~末)
佐野
「意志は単に働くものでない、働くことを知るものである。自己は単に存在するものでない、存在することを知るものである」とありますね。この「知る」をカントは「意識」に止めましたが、西田はそれを「直観」にまで徹底しようとします。ここにカントや新カント派が反発するわけです。僭越沙汰だと。それはともかく次を見ますと、「(自己は)認識主観の外にあるのではない、認識主観が之に於てあるのである」とありますが、「之」とは何を指しますか?

B

意志、ですか?
佐野
ええ。意志でも自己でもいいと思いますが、自己の方がよいかもしれません。自己が認識も意志もする、ということで。ところでそうした「自己」を認識主観の「外にある」と考えたのは誰ですか?

B

左右田博士たちでしょう。
佐野
そうでしょうね。西田想定の。リッケルトはすべてを認識主観の対象としますから、自己も意志も認識主観の対象、つまりは認識主観の外にある、ということになります。この場合「認識主観」は「判断主観」です。次に「知るということを知るのも認識主観だと云わるれば」とありますが、西田はこの「認識主観」の中に「自覚」を見ます。ところがリッケルトたちは「知るということを知る」という「自覚」を対象とするのが「認識主観」だ、という意味で、この「認識主観」の中に「判断主観」を見ます。ですから西田は、それは「唯語義の問題だと思う、直にそれを判断主観の如くに考えるのは当を得ない」と述べることになります。しかしそのように西田が言えば、リッケルトたちは、〈では「自覚」と言っているのは何(誰)か?〉と問うでしょう。そうなるとそれは「自覚の自覚」ということになります。「自覚」とは「判断の判断」ですから、「自覚の自覚」とは「判断の判断の又判断」ということになる。さらに、そのように「自覚の自覚」と言っている者が必要になり、こうして合わせ鏡を見るように、際限がなくなってしまう。そのようにリッケルトたちは言うかもしれない。しかし西田はそれを「単なる空論に過ぎない」と一蹴します。そうして「我々は零の零を考え得ざる如く自覚の自覚という如きものを考えることはできない」と結びます。

N

極限値として考えることもできたのに、西田はそうしなかったのだと思います。直観できると割り切った。
佐野
そうかもしれません。「認識(知る)」についての両者の対立、どうにも決着がつきそうもありませんね。次へ参りましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(301頁1行目~9行目)

C

最初の一文、「内容」は「直覚」、「思想」は「概念」と同義と考えてよいですか?
佐野
はい。

C

さらに、「思想」や「概念」は「形式」で、「感覚」が「内容」だと。
佐野
そうです。ですからカントの場合、「直覚(直観)」はつねに「感性(感覚)的直観」です。「知的直観」は認められません。西田はここでこのように「感覚の制約」ということを言いながら、最後の所で知的直観を認める、これが左右田博士の批判するところです。

C

「感覚の制約」の「制約」って何ですか?
佐野
なければならないもの、条件ということです。

C

分かりました。
佐野
次に「カントの純粋統覚は単に論理的主観という如きものではない」とありますね。「純粋統覚」は知覚(Perzeption)に加わって(ad)これを統一するもの(Apperzeption)ということで、厳密に言えば「意識一般」とは事柄としては別ですが、同じものです。それは「論理的主観との如きものではない」ということですが、だとすれば、「純粋統覚は論理的主観だ」と主張している者がいるはずで、それは誰でしょうか?

C

西南学派、ですか?
佐野
そうですね。新カント派は1860年にリープマンが「カントに帰れ!」と言ったところから始まりますが、その後二つの流れに分れます。一つが南西ドイツ学派(西南学派)で、ヴィンデルバント、リッケルト、ラスクがその代表です。もうひとつがマールブルク学派でコーエン(西田はコーヘンと呼んでいますが)が代表です。ここで西南学派として念頭に置かれているのはリッケルトだと思われます。彼は「論理的主観」ということで、論理つまりロゴス、言葉から出発しますから、言葉以前の感覚(直接経験)の存在は認めますが、これを言葉以前として問題にしません。次は「純粋統覚は」を補って読みます。「(純粋統覚は)所与の範疇たる直覚の形式によって与えられた内容と結合したものでなければならぬ」。「所与の範疇」というのはリッケルトの用語ですが、ここで述べられているのはカント哲学です。だとすると「直覚の形式」とは何ですか?

C

空間と時間です。
佐野
そうですね。与えられた感覚的内容をまずは感性の形式である、空間と時間によって整理し、そうしてできた内容、つまり「知覚」をさらに概念によって統一するわけです。その際の統一する働きが「純粋統覚」で、統一の仕方(形式)が、カテゴリー(範疇)です。次に「Kants Theorie der Erfahrung(カントの経験理論)」とありますが、これはコーエンの初期の著作(1871年)です。この中でコーエンは「此点に着眼した」とありますが、「此点」とは?

C

純粋統覚が直覚と結合したものでなければならないことです。
佐野
そうですね。「此故に思惟意識其者」、つまり「純粋統覚」ですね、その「自省」とはich denkeのことですね、そこから「生産的思惟の考」に至ったとあります。そうして「遂に感覚をも思惟によって要求せられるものとして、オンに対するメー・オンと考えた」とあります。

C

「オン」とか「メー・オン」というのは何ですか?
佐野
ギリシャ語で、「存在」「非存在」ということです。大事なことは「無」ではなくて、「非・存在」だということです。感覚は思惟によって要求され、思惟に解決を迫るものとして、思惟に「与えられたもの」ではなく「課せられたもの」、課題だというのです。西田はコーエンの考えに全面的に賛成というわけではないけれども、コーエンのように考えることによって「構成的主観としてのカントの純粋統覚の意味は徹底する」と言っています。「構成的主観」とは「知覚内容」を構成する主観ということで、純粋統覚を「論理的主観」、さらには後で出て来ますが、「判断意識」にまで狭めてしまったリッケルトに対して言っています。今日はここまでとしましょう。
(第81回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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