前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」「五」の第3段落冒頭281頁4行目から同段落282頁2行目「判断を含まない意志は単なる動作に過ぎないのである」までを講読しました。今回のプロトコルはKさんのご担当です。キーワードは「述語面が主語面を越えて深く廣くなればなる程、意志は自由となる」(282,1-2)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田はまず、述語面は主語面を越えて広がることで、判断意識を超越するという(281頁8,9行目)。更に、述語面に、深さという概念を与え、上記キーセンテンスとなる。更に、意志は「自由」になるが、その自由は、判断を離れるのではない、と云い、意志について、「述語を主語とした判断」という定義を勝義とする(282頁1行目)。それでは、このような「判断」である「意志」の「自由」を拘束していたものは何だったのだろうか?」でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
順に確かめていきましょう。「述語面は主語面を越えて広がることで、判断意識を超越する」から行きましょう。まず「主語面」とは?
「自己自身に同一なるもの」、「直覚的なるもの」です。
そうですね。判断以前の主語と言ってもいい。『善の研究』(岩波文庫改版52-53頁)の例で言えば、「例えばここに一本のペンがある。これを見た瞬間は、知ということも意ということもなく、ただ一個の現実である」、この段階ですね。これに対し「述語面」とは「意識面(意識界)」のことですね。それでは「述語面が意識面を越えて広がる」をどのようにお考えですか?
このペンは赤い、とか、断面が六角形だとか、そういうことですね。
ですが、「このペン」は個物ですから、基本的に語り尽くせない。どこまでも情報量が増えるのみです。そうなると、「判断意識」の「超越」は起こりませんね。たとえ、「ペンは文字を書くべきものだ」というような連想が起っても、それは情報量を増やすだけのもので、意志への転換は起こらない。ここはあの〈英国にいて、英国の完全なる地図を描く〉を想い起す必要があるように思われるのです。情報量を増やすというのは、主語と述語が分かれた判断の在り方ですね。この立場だとどこまで行っても転換は起こりません。しかしそうした在り方が破れるということが起こります。それがあの〈英国の地図〉の話です。判断すべきものがすでに手前にあった、という直観です。その時主語面と述語面が一つに重なります。これが「述語面は主語面を越えて広がることで、判断意識を超越する」ということだと思うのです。主語面を越えて広がる述語面に目覚める、といった感じです。どうでしょうか?
この直観が意志へと転換する、そのように読みます。『善の研究』では「(このペンは文字を書くべきものだという)連想的意識其者が独立に傾く時、即ち意識中心がこれに移ろうとした時は欲求の状態となる。而してこの連想的意識がいよいよ独立の現実となった時が意志であり、兼ねてまた真にこれを知ったというのである」というように書かれていると思います。いかがでしょうか?
次にこの「述語面が主語面を越えて深く広くなればなる程、意志は自由となる」というところですが、意志を成立させる「述語面」自体に、さらには意志自体にも深浅広狭があるようなことが書かれています。そうすると、初めは直観を成立させる述語面も限定されていたことになる。意志も同様ですね。初めは自由と言っても限定されていたことになります。Kさんはこれを拘束していたものは何か、そのように問うていたのだと思います。
そうだとすると、述語面を限定するものは「一般概念」しかないと思います。前回出て来た「輪郭」ですね。そこには「所謂一般概念とは直覚的なるものの意識面における輪郭」(280,12)とありました。我々は「このペン」が文字を書くべきものであることを知っていても、雪舟が筆を操るようにはいかない。
先ほどの『善の研究』にも意志になった時が「真にこれを知ったというのである」とありましたが、この「知る」ということが重要だと思います。
ええ。ですからその「知」に深浅広狭があり、我々が筆を知るのと、雪舟が筆を知るのとでは「筆」の一般概念が違うのです。それが意志にも行為にも表れて来る。
その場合、「何處までも意志は判断を離れるのではなく、意志は勝義に於て述語を主語とした判断である」とあるのはどうなるのでしょうか?
直観においては主語面と述語面とがぴったりと重なります。その際述語面は主語面を含んで餘ありますから、直観において述語面は主語面を越えて広がりますが、それは逆から見れば、主語面が述語面を「吸収」することになります。こうして「意志は勝義に於て述語を主語とした判断」ということになるのだと思います。「吸収」という語はすぐ後(282,11)に出て来ます。この主語は同時に「個物」です。意志の場合にそれを実現する際には個物において実現するほかはありませんから。使うのはいつも〈このペン〉ですし、食べるのはいつも〈このミカン〉です。ただその意志や行為自体に深浅広狭があるということです。そうしてそれは述語面の深浅広狭、つまり筆をどこまで知っているか、それが筆を使う時の判断に現れてくるのだと思いますが、どうでしょう?
ですが、認識主観が消えれば私たちはいつでも純粋経験の状態にあるのでは?その意味ではそれは私たちの日常のうちに普通に見られるものではないですか?
日常生活に没頭している時も、『善の研究』における「知的直観」(「例えば画家の興来り筆自ら動く」(59頁)時も、認識主観は出て来ませんね。この問題はとても難しいと思います。日常性と、晩年西田が使うようになる「平常底」の問題につながると思います。日常性において山は山、川は川ですが、それが逆転し、山は山でない、川は川でない、となるのが空の働きです。しかしそうした在り方も空ぜられて、ふたたび山は山、川は川へと戻って来ます。最初と最後はどちらも同じですが、この両者の関係をどう考えるか、という問題になると思います。どちらにも判断は出て来ませんね。
ですがテキストには「判断を含まない意志は単なる動作に過ぎない」とあります。
日常に埋没している時、私にも最近しばしばあるのですが、記憶が飛んでいる。そんな時にもじつは判断している、ということでしょうか?そうであれば、動物も判断している、ということになりそうです。
認知症と動物は違うと思います。動物は判断しているのではないでしょうか? 判断と言えるのか分かりませんけれど。
私にも動物は判断しているように見えますが、それは言語をもった人間の側からの解釈だと思うのです。たしかに動物も感覚し、思考し、判断し、意志しているように見えますが、おそらくそれは言語を通していない。だとすれば、そうしたものをもっていても、人間のそれとは本質的に異なると思います。同じ「熱い」という感覚でも、動物のそれには言葉がありません。多分。ですが今テキストで問題になっているのは、「一般と特殊との包摂関係」を出発点とした、言語的な判断だと思います。そうだとして、ボケた状態や神来の境地にも言語的な判断はあるのでしょうか?
『善の研究』でも「音楽家が熟練した曲を奏する時」(20頁)「少しの思想も交えず」(同)とあります。
ここに一々言語的な判断が起きているとは考えられませんね。私の下手なピアノではいつも言語的判断だらけですが。次はああしよう、こうしようとね。しかし音楽家が熟練した曲を奏する時は、どうなんでしょう。別の判断があるということでしょうか。何が違うのでしょうか? 痴呆と名人(中島敦の『名人伝』を念頭に置いています)は。
「場所」論文に、以前「真の無の場所に於ては、我々は意志其者をも見るのである。意志は単なる作用ではなく、その背後に見るものがなければならぬ、然らざれば機械的作用や本能的作用と択ぶ所はない」(228,15-229,1)とあります。それからすると違いは「見る」ということではないでしょうか?
そしてそれがまた、対立的無の場所に映された「作用としての自由」とは異なる、「状態としての自由」ということですね。前者は所謂選択的意志ですね。その場合、意志は判断を含みますが、そうした判断を含まない、ボケと名人の違い、さらには日常性と平常底との違いの根本は「見る」ということだと。なるほど。プロトコルはこれくらいにして、テキストに移りましょう。「場所」論文もあとわずかとなりましたが、いよいよ強烈に難しくなりましたね。Aさん、お願いします。
「判断は自己同一なるものに至ってその極限に達する」とありますが、これは今まで言ってきたことの繰り返しですね。「自己同一的なるもの」とは「自己自身に同一なるもの」(281,2-3)、つまり「直覚的なるもの」(281,2)のことですね。この場合「自己自身に同一なるもの」とは「自同律に於て表される」ということです。判断以前の無対立の対象のことです。以前にも「対象其者として矛盾を含んで居るのではない」(277,12-13)とありました。このことだと思います。判断はこうした直覚において、主語面が述語面にピタッと重なります。それが「極限に達する」ということだと思います。そうなると判断は「かかる自己同一なるものの輪郭線を越える」。「輪郭」という言葉が出て来ましたが、これは280頁12行目にある「輪郭」とは異なります。そこでの「輪郭」は「一般概念」のことでした。Rさんの図(前回の「読書会だより」参照)で言えば、ドーナツ型の二重の円の間に引かれたもう一つ円です。ここではそうした「一般概念」ではなく、「自己同一なるものの輪郭線」ですから、一番内側の円、つまり主語面のことです。つまり判断が、これは述語面と言い換えてもいいと思いますが、それが主語面を越えて広がる時、ということで、これまで言われてきたことと同趣旨ですね。そうなると「意志になる」、とこういわれています。これも同趣旨です。そうして「それで意志の中心には、いつでも自己同一なるものが含まれて居る」と来ます。ここは大丈夫ですか?
「意志の中心」ですから、目的と考えていいと思い」ます。「このペン」が主語(面)ですが、その中に「文字を書くべきもの」という述語面が吸収されて目的になっていると考えられます。意志の中心にはこうした目的がなければならないということだと思います。今度はどうですか?
「上に云った如く」、280頁9行目ですね、「自己同一なるもの」つまり判断以前の主語、「直覚」、その「周囲は意味を以て囲繞せられて居る」。たしかにそう書かれていましたね。さらにこれを言い換えて「対立なき対象の周囲は対立的対象を以て囲繞せられて居る」とあります。「対立的対象」とは判断における主語、知覚や思惟の対象のことで、分別されたものと考えてよいと思います。次いで「述語面が自己同一なるものを含んで更にそれ自身の領域を有する時」、「意味の領域」をも含んで、ということでしょう。その時「述語面は主語面に対して無なるが故に、それ」、「それ」って何でしょう?
そうでしょうね。述語面が「深くなればなる程、自己同一なるものの中に意味が含まれる様になる」。どういうことでしょう。(以下は後で思いついたことの加筆です。)円錐形を思い浮かべてみてください。頂点に直観の対象、無対立的対象があります。これが主語面です。その少し下の断面が「一般概念」によって囲まれた述語面です。主語面が述語面に重なる(を越えて広がる)ということは、頂点の主語面がこの述語面のところまで「落ち込んで」(283,12)くることです。述語面の上に重なる。これは広がると同時に深まるということですね。そうした広さと深みをもった(それでも一般概念によって限定されています)述語面が主語面となって目的となる時、意志が成立する、このように考えて見てはいかがでしょう。(因みにこの目的を対象化すると、直観から離れて再び対立的無の場所における関係、主客関係になります。)「述語面は主語面に対して無なるが故に」とは、円錐形で言えば、無が下の方向に位置するからです。下に行くほど断面は大きくなりますから、「それが深くなればなる程、自己同一なるものの中に意味が含まれる様になる」ということになります。これを言い換えて「無対立の対象の中に対立的対象が含まれる様になる」、無分別の中に分別的な意味を含むということです。それによって「自己同一なるものは意志の形を取って来る」というのですが、ここは少しわかりにくいですね。あらゆる知的な意味は意的な意味を含んでおり、そうした意味と一つになることで、知的な判断は意的な判断に転ずると考えて見てはどうでしょうか。ペンなどは分かりやすいと思います。ハッと気づいた時にそこにペンがある。こうした知でも意でもないところから始まり、知を経て意となり、これを意識せずに用いることで知でも意でもないところに帰っていく、こんなイメージです。次に参りましょう。Cさん、お願いします。
「自己同一」、直覚ですね。それは「主語面と述語面とが単に一になることではない、何處までも両面が重り合って居るのである」とあります。「重り合っている」ということで何か思い出しませんか? 256頁6行目に「重り合う」という言葉が見えます。そうして「恰も種々なる音が一つの聴覚的意識の野に於て結合し、各の音が自己自身を維持しつつも、その上に一種の音調が成立すると同様である」(256,6-7)とあります。これをブレンターノの「感官心理学」から西田は学んでいるようですが、それについては61頁15行目~62頁8行目に詳しく述べられています。つまり「過ぎ去ったと思うものも、之を現在に於て有って居る、即ち斜視的に表象している」というのです。同じように、一つの主語の中に、様々な意味が重なり合っていると考えられます。これをさらに西田は言い換えて「自己同一なるものがその背後に述語面に移された時」、「落ち込んだ」時のことですね、「自己同一の主語面を囲繞して居た意味は、述語面に於ける自己同一に吸収せられるのである」とあります。深まることが同時に広がることであり、広がることは逆に吸収することです。大丈夫ですか?
次を見ます。「述語面に於ける自己同一」、つまり主語面に意味を吸収された述語面ですね、これが「意志我の自己同一である」とされます。目的ですね。「自己同一の外にあった意味が自己同一の中に含まれるが故に、意志に於ては特殊の中に一般を含むと考えられる」とありますが、「意志は勝義に於て述語を主語とした判断である」と同じことですね。次へ行くと「無論それはもはや特殊というべきものではなくして個体でなければならない」とあります。意志の目的となるものは「このペン」「このミカン」でなければならない、ということです。
何故「特殊」ではなく、「個体」だと言わなければならなかったのでしょうか?
よく分かりませんが、一つにはこの特殊が一般と対立する通常の特殊ではないからではないでしょうか。あるいはヘーゲルが特殊の中に一般を含むものを「個別」と呼んだことが念頭にあったのかもしれませんね。それについてはさらに「判断的意識の面からその背後に於ける意志面に於ける自己同一なるものを見た時、それは個体となるのである」とあります。「判断的意識」が出て来ましたね。これについては続いて論じられていますから、これは次回に考えましょう。今日はここまでにしておきます。
(第68回)