主語面が述語面に重なる――意志の成立

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」「五」の第3段落冒頭281頁4行目から同段落282頁2行目「判断を含まない意志は単なる動作に過ぎないのである」までを講読しました。今回のプロトコルはKさんのご担当です。キーワードは「述語面が主語面を越えて深く廣くなればなる程、意志は自由となる」(282,1-2)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田はまず、述語面は主語面を越えて広がることで、判断意識を超越するという(281頁8,9行目)。更に、述語面に、深さという概念を与え、上記キーセンテンスとなる。更に、意志は「自由」になるが、その自由は、判断を離れるのではない、と云い、意志について、「述語を主語とした判断」という定義を勝義とする(282頁1行目)。それでは、このような「判断」である「意志」の「自由」を拘束していたものは何だったのだろうか?」でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
順に確かめていきましょう。「述語面は主語面を越えて広がることで、判断意識を超越する」から行きましょう。まず「主語面」とは?

K

「自己自身に同一なるもの」、「直覚的なるもの」です。
佐野
そうですね。判断以前の主語と言ってもいい。『善の研究』(岩波文庫改版52-53頁)の例で言えば、「例えばここに一本のペンがある。これを見た瞬間は、知ということも意ということもなく、ただ一個の現実である」、この段階ですね。これに対し「述語面」とは「意識面(意識界)」のことですね。それでは「述語面が意識面を越えて広がる」をどのようにお考えですか?

K

情報量が増えていくといったイメージです。
佐野
このペンは赤い、とか、断面が六角形だとか、そういうことですね。

K

はい。
佐野
ですが、「このペン」は個物ですから、基本的に語り尽くせない。どこまでも情報量が増えるのみです。そうなると、「判断意識」の「超越」は起こりませんね。たとえ、「ペンは文字を書くべきものだ」というような連想が起っても、それは情報量を増やすだけのもので、意志への転換は起こらない。ここはあの〈英国にいて、英国の完全なる地図を描く〉を想い起す必要があるように思われるのです。情報量を増やすというのは、主語と述語が分かれた判断の在り方ですね。この立場だとどこまで行っても転換は起こりません。しかしそうした在り方が破れるということが起こります。それがあの〈英国の地図〉の話です。判断すべきものがすでに手前にあった、という直観です。その時主語面と述語面が一つに重なります。これが「述語面は主語面を越えて広がることで、判断意識を超越する」ということだと思うのです。主語面を越えて広がる述語面に目覚める、といった感じです。どうでしょうか?

K

‥‥
佐野
この直観が意志へと転換する、そのように読みます。『善の研究』では「(このペンは文字を書くべきものだという)連想的意識其者が独立に傾く時、即ち意識中心がこれに移ろうとした時は欲求の状態となる。而してこの連想的意識がいよいよ独立の現実となった時が意志であり、兼ねてまた真にこれを知ったというのである」というように書かれていると思います。いかがでしょうか?

K

‥‥
佐野
次にこの「述語面が主語面を越えて深く広くなればなる程、意志は自由となる」というところですが、意志を成立させる「述語面」自体に、さらには意志自体にも深浅広狭があるようなことが書かれています。そうすると、初めは直観を成立させる述語面も限定されていたことになる。意志も同様ですね。初めは自由と言っても限定されていたことになります。Kさんはこれを拘束していたものは何か、そのように問うていたのだと思います。

K

そうです。
佐野
そうだとすると、述語面を限定するものは「一般概念」しかないと思います。前回出て来た「輪郭」ですね。そこには「所謂一般概念とは直覚的なるものの意識面における輪郭」(280,12)とありました。我々は「このペン」が文字を書くべきものであることを知っていても、雪舟が筆を操るようにはいかない。

M

先ほどの『善の研究』にも意志になった時が「真にこれを知ったというのである」とありましたが、この「知る」ということが重要だと思います。
佐野
ええ。ですからその「知」に深浅広狭があり、我々が筆を知るのと、雪舟が筆を知るのとでは「筆」の一般概念が違うのです。それが意志にも行為にも表れて来る。

K

その場合、「何處までも意志は判断を離れるのではなく、意志は勝義に於て述語を主語とした判断である」とあるのはどうなるのでしょうか?
佐野
直観においては主語面と述語面とがぴったりと重なります。その際述語面は主語面を含んで餘ありますから、直観において述語面は主語面を越えて広がりますが、それは逆から見れば、主語面が述語面を「吸収」することになります。こうして「意志は勝義に於て述語を主語とした判断」ということになるのだと思います。「吸収」という語はすぐ後(282,11)に出て来ます。この主語は同時に「個物」です。意志の場合にそれを実現する際には個物において実現するほかはありませんから。使うのはいつも〈このペン〉ですし、食べるのはいつも〈このミカン〉です。ただその意志や行為自体に深浅広狭があるということです。そうしてそれは述語面の深浅広狭、つまり筆をどこまで知っているか、それが筆を使う時の判断に現れてくるのだと思いますが、どうでしょう?

M

ですが、認識主観が消えれば私たちはいつでも純粋経験の状態にあるのでは?その意味ではそれは私たちの日常のうちに普通に見られるものではないですか?
佐野
日常生活に没頭している時も、『善の研究』における「知的直観」(「例えば画家の興来り筆自ら動く」(59頁)時も、認識主観は出て来ませんね。この問題はとても難しいと思います。日常性と、晩年西田が使うようになる「平常底」の問題につながると思います。日常性において山は山、川は川ですが、それが逆転し、山は山でない、川は川でない、となるのが空の働きです。しかしそうした在り方も空ぜられて、ふたたび山は山、川は川へと戻って来ます。最初と最後はどちらも同じですが、この両者の関係をどう考えるか、という問題になると思います。どちらにも判断は出て来ませんね。

H

ですがテキストには「判断を含まない意志は単なる動作に過ぎない」とあります。
佐野
日常に埋没している時、私にも最近しばしばあるのですが、記憶が飛んでいる。そんな時にもじつは判断している、ということでしょうか?そうであれば、動物も判断している、ということになりそうです。

T

認知症と動物は違うと思います。動物は判断しているのではないでしょうか? 判断と言えるのか分かりませんけれど。
佐野
私にも動物は判断しているように見えますが、それは言語をもった人間の側からの解釈だと思うのです。たしかに動物も感覚し、思考し、判断し、意志しているように見えますが、おそらくそれは言語を通していない。だとすれば、そうしたものをもっていても、人間のそれとは本質的に異なると思います。同じ「熱い」という感覚でも、動物のそれには言葉がありません。多分。ですが今テキストで問題になっているのは、「一般と特殊との包摂関係」を出発点とした、言語的な判断だと思います。そうだとして、ボケた状態や神来の境地にも言語的な判断はあるのでしょうか?

M

『善の研究』でも「音楽家が熟練した曲を奏する時」(20頁)「少しの思想も交えず」(同)とあります。
佐野
ここに一々言語的な判断が起きているとは考えられませんね。私の下手なピアノではいつも言語的判断だらけですが。次はああしよう、こうしようとね。しかし音楽家が熟練した曲を奏する時は、どうなんでしょう。別の判断があるということでしょうか。何が違うのでしょうか? 痴呆と名人(中島敦の『名人伝』を念頭に置いています)は。

K

「場所」論文に、以前「真の無の場所に於ては、我々は意志其者をも見るのである。意志は単なる作用ではなく、その背後に見るものがなければならぬ、然らざれば機械的作用や本能的作用と択ぶ所はない」(228,15-229,1)とあります。それからすると違いは「見る」ということではないでしょうか?
佐野
そしてそれがまた、対立的無の場所に映された「作用としての自由」とは異なる、「状態としての自由」ということですね。前者は所謂選択的意志ですね。その場合、意志は判断を含みますが、そうした判断を含まない、ボケと名人の違い、さらには日常性と平常底との違いの根本は「見る」ということだと。なるほど。プロトコルはこれくらいにして、テキストに移りましょう。「場所」論文もあとわずかとなりましたが、いよいよ強烈に難しくなりましたね。Aさん、お願いします。

A

読む(282頁2~4行目)
佐野
「判断は自己同一なるものに至ってその極限に達する」とありますが、これは今まで言ってきたことの繰り返しですね。「自己同一的なるもの」とは「自己自身に同一なるもの」(281,2-3)、つまり「直覚的なるもの」(281,2)のことですね。この場合「自己自身に同一なるもの」とは「自同律に於て表される」ということです。判断以前の無対立の対象のことです。以前にも「対象其者として矛盾を含んで居るのではない」(277,12-13)とありました。このことだと思います。判断はこうした直覚において、主語面が述語面にピタッと重なります。それが「極限に達する」ということだと思います。そうなると判断は「かかる自己同一なるものの輪郭線を越える」。「輪郭」という言葉が出て来ましたが、これは280頁12行目にある「輪郭」とは異なります。そこでの「輪郭」は「一般概念」のことでした。Rさんの図(前回の「読書会だより」参照)で言えば、ドーナツ型の二重の円の間に引かれたもう一つ円です。ここではそうした「一般概念」ではなく、「自己同一なるものの輪郭線」ですから、一番内側の円、つまり主語面のことです。つまり判断が、これは述語面と言い換えてもいいと思いますが、それが主語面を越えて広がる時、ということで、これまで言われてきたことと同趣旨ですね。そうなると「意志になる」、とこういわれています。これも同趣旨です。そうして「それで意志の中心には、いつでも自己同一なるものが含まれて居る」と来ます。ここは大丈夫ですか?

A

大丈夫じゃありません。
佐野
「意志の中心」ですから、目的と考えていいと思い」ます。「このペン」が主語(面)ですが、その中に「文字を書くべきもの」という述語面が吸収されて目的になっていると考えられます。意志の中心にはこうした目的がなければならないということだと思います。今度はどうですか?

A

大丈夫です。
佐野
では次を Bさん、お願いします。

B

読む(282頁4~8行目)
佐野
「上に云った如く」、280頁9行目ですね、「自己同一なるもの」つまり判断以前の主語、「直覚」、その「周囲は意味を以て囲繞せられて居る」。たしかにそう書かれていましたね。さらにこれを言い換えて「対立なき対象の周囲は対立的対象を以て囲繞せられて居る」とあります。「対立的対象」とは判断における主語、知覚や思惟の対象のことで、分別されたものと考えてよいと思います。次いで「述語面が自己同一なるものを含んで更にそれ自身の領域を有する時」、「意味の領域」をも含んで、ということでしょう。その時「述語面は主語面に対して無なるが故に、それ」、「それ」って何でしょう?

B

「述語面」だと思います。
佐野
そうでしょうね。述語面が「深くなればなる程、自己同一なるものの中に意味が含まれる様になる」。どういうことでしょう。(以下は後で思いついたことの加筆です。)円錐形を思い浮かべてみてください。頂点に直観の対象、無対立的対象があります。これが主語面です。その少し下の断面が「一般概念」によって囲まれた述語面です。主語面が述語面に重なる(を越えて広がる)ということは、頂点の主語面がこの述語面のところまで「落ち込んで」(283,12)くることです。述語面の上に重なる。これは広がると同時に深まるということですね。そうした広さと深みをもった(それでも一般概念によって限定されています)述語面が主語面となって目的となる時、意志が成立する、このように考えて見てはいかがでしょう。(因みにこの目的を対象化すると、直観から離れて再び対立的無の場所における関係、主客関係になります。)「述語面は主語面に対して無なるが故に」とは、円錐形で言えば、無が下の方向に位置するからです。下に行くほど断面は大きくなりますから、「それが深くなればなる程、自己同一なるものの中に意味が含まれる様になる」ということになります。これを言い換えて「無対立の対象の中に対立的対象が含まれる様になる」、無分別の中に分別的な意味を含むということです。それによって「自己同一なるものは意志の形を取って来る」というのですが、ここは少しわかりにくいですね。あらゆる知的な意味は意的な意味を含んでおり、そうした意味と一つになることで、知的な判断は意的な判断に転ずると考えて見てはどうでしょうか。ペンなどは分かりやすいと思います。ハッと気づいた時にそこにペンがある。こうした知でも意でもないところから始まり、知を経て意となり、これを意識せずに用いることで知でも意でもないところに帰っていく、こんなイメージです。次に参りましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(282頁8~14行目)
佐野
「自己同一」、直覚ですね。それは「主語面と述語面とが単に一になることではない、何處までも両面が重り合って居るのである」とあります。「重り合っている」ということで何か思い出しませんか? 256頁6行目に「重り合う」という言葉が見えます。そうして「恰も種々なる音が一つの聴覚的意識の野に於て結合し、各の音が自己自身を維持しつつも、その上に一種の音調が成立すると同様である」(256,6-7)とあります。これをブレンターノの「感官心理学」から西田は学んでいるようですが、それについては61頁15行目~62頁8行目に詳しく述べられています。つまり「過ぎ去ったと思うものも、之を現在に於て有って居る、即ち斜視的に表象している」というのです。同じように、一つの主語の中に、様々な意味が重なり合っていると考えられます。これをさらに西田は言い換えて「自己同一なるものがその背後に述語面に移された時」、「落ち込んだ」時のことですね、「自己同一の主語面を囲繞して居た意味は、述語面に於ける自己同一に吸収せられるのである」とあります。深まることが同時に広がることであり、広がることは逆に吸収することです。大丈夫ですか?

C

はい。大丈夫です。
佐野
次を見ます。「述語面に於ける自己同一」、つまり主語面に意味を吸収された述語面ですね、これが「意志我の自己同一である」とされます。目的ですね。「自己同一の外にあった意味が自己同一の中に含まれるが故に、意志に於ては特殊の中に一般を含むと考えられる」とありますが、「意志は勝義に於て述語を主語とした判断である」と同じことですね。次へ行くと「無論それはもはや特殊というべきものではなくして個体でなければならない」とあります。意志の目的となるものは「このペン」「このミカン」でなければならない、ということです。

K

何故「特殊」ではなく、「個体」だと言わなければならなかったのでしょうか?
佐野
よく分かりませんが、一つにはこの特殊が一般と対立する通常の特殊ではないからではないでしょうか。あるいはヘーゲルが特殊の中に一般を含むものを「個別」と呼んだことが念頭にあったのかもしれませんね。それについてはさらに「判断的意識の面からその背後に於ける意志面に於ける自己同一なるものを見た時、それは個体となるのである」とあります。「判断的意識」が出て来ましたね。これについては続いて論じられていますから、これは次回に考えましょう。今日はここまでにしておきます。
(第68回)
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読書会での「場所」の読書箇所と
当ブログ「読書会だより」の対応インデックス

 読書会では岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」を読み、当ブログに「読書会だより」として議論のエッセンスを投稿してきました。ここで、各回に読んだ箇所とそれに対応する「読書会だより」の投稿の一覧表(リンク付き)をまとめました。「場所」の読み解きのヒントとしてご活用いただければ幸いです。

「西田幾多郎全集」旧全集(岩波書店)第四巻「場所」

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判断意識を超越する

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」「五」の第2段落279頁13行目「直観の形式としての空間の如きものであっても」から同段落末281頁3行目までを講読しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードは「普通には始から主客を対立的に考へ、知るといふことは主観が客観に働くことと考へるが故に、対立なき対象というものが主観の外に考へられ、概念的なるもののみ主観に於てあると考えられるのであるが、所謂一般概念とは直覚的なるものの意識面における輪郭であり、意味とは之によって起こされるその意識面の種々なる変化である」(280,9-13;下線R)でした。そうして「考えたことないし問い」は「普通の主客対立を前提とする認識論と異なり、従来主観の外にあるとされる判断以前の「対立なき対象」或は「直覚的なるもの」と、従来主観においてあるとされる「一般概念」或は「意味」は、西田にとって、ことごとく「意識において内在する」のである。さらに、一般概念を「直覚的なるものの意識面の輪郭」とし、意味もそれによって生じると考える。プロトコルの図(下図)で示されているような構造から、「直観とは主語面が述語面の中に没入」し「述語的なるものが主語となる」ことをどう考えるのか、また「直覚的なるものは自己自身に同一的なるものに」とはどのような意味であるのか」(263字、図有り、プロトコル参照)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
この図ですけれども、これだと「一般概念」の範囲だけが「意味の世界」のように見えます。ですがテキストでは「主語面」(「対立なき対象」)の「余地」が「意味の世界」となっていますので、「一般概念」の外も「意味の世界」ということになりますね(描きにくかったのかもしれません)。皆さんその他にこのプロトコルでお気づきの点はありませんか?

K

下線部ですが、前回「之」を「輪郭」を受けるものとして解釈されましたが、「直覚的なるもの」ではないでしょうか。その後に「恰も力の場の如きものである」とありますので、その方が理解しやすいかと。
佐野
たしかに「力の場」に「直接的なるもの」を放り込むと「種々の変化」が起こるというのはイメージしやすいですね。しかしやはり「之」は指示語としては「輪郭」を指すと考えた方が自然ですし、判断以前の主語である「直観的なるもの」に「一般概念」の枠を当てはめることで「力の場」が生じ、それによって「意識面の種々の変化」が「力線」として描かれる、とも考えられますね。同じ花を見てもMさんと私では「一般概念」が異なりますから、まったく違ったように見える、ということです。どうでしょうか?

K

もう少し考えて見ます。
佐野
Rさんのプロトコルは、結局前回の問いをそのまま持ち越した形ですね。テキストでしばしば登場する「直観」はカントの感性的直観で、西田の言う「直観」ないし「直覚」ではないのではないか、と。

R

そうです。
佐野
前回も申し上げましたが、ここで西田が「直観」ないし「直覚」をどのように使っているかはテキストの文脈によって判断するほかありません。西田はもしかすると「直観」にいくつかのレベルを考えていて、例えば「判断意識」における直観と、「意志の意識」における直観、さらに西田が『善の研究』で言っていた「知的直観」のような「真の直観」(この言葉は後に286頁8行目で出てきます)を同じ「直観」という語のもとに統一的に表現しようとしている可能性があります。それが「直観」としてこれまで出てきた「主語面が述語面の中に没入すること」(279,15)や、「述語的なるものが主語となる」(275,9-10)や、「直覚的なるものは自己自身に同一的なるもの」(281,2-3)という表現かもしれません。西田に限らず、テキストを読む場合には〈こうだ!〉と決めつけず、〈こうかもしれないが違うかもしれない〉という気持ちで、つねに判断を停止(エポケー)し括弧に入れる心構えが必要だと思います。これはある意味で早く分かりたいという〈自我〉を削り落とす修行です。私は、哲学は役に立たないとつねに言ってきましたが、意外に役立つかも。

R

私はどうしても決めつけて読む傾向がありますので気を付けたいと思います。それにしても「直覚的なるものが自己自身に同一なるもの」とはどういう意味でしょうか?
佐野
281頁15行目に「自同律に於て表される直覚面」という語があります。「自同律」とは〈A=A〉のことです。これを受けて「自己自身に同一なるもの」と言ったのではないでしょうか。以前(277,12-13)「対象其者として矛盾を含んで居るのではない」という表現がありましたし、西田はこれを「対立なき対象」と呼んでいるのではないか、前回はそのように解釈しました。

R

主語面と述語面が同一になることではないでしょうか。
佐野
それでもいいのですが、それではその直後に出て来る「(直覚的なるものは)述語面の中に含まれて居なければならない」をどう解釈しますか?「包摂的関係」を推し進めて行くと、最後に判断以前の主語において、主語面と述語面(特殊と一般)が一致します。これはたしかに主語面と述語面が同一になることです。しかし西田はその背後にもこれを越えて、これを含む述語面があると考えています。志向対象に対しても、その「意味の縁暈」があるということです。図には地がある、と言い換えてもいい。そうなるとこの「直覚的なるものは自己自身に同一なるもの」というのはやはりA=Aという「自同律」において表される「対立なき対象」のことではないか、そうした読みの可能性が出てきます。プロトコルはこの位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(281頁4行目~8行目)
佐野
指示語の「之」がいっぱい出てきますね。押さえていきましょうか。「一般と特殊との包摂的関係を何處までも推し進めて行って、自己自身に同一なるものの背後にも、尚之を越えて広がれる述語面が真の意識面である」とありますね。先程申し上げたことが述べられていますが、ここに出て来る「之」とは何を指していますか?

A

「自己自身に同一なるもの」です。
佐野
そうですね。「真の意識面」とありますが、これは「対立的無の場所をのみ意識面」(281,1)と考える「普通」の見方に対するものでしょう。〈真の無の場所〉に限定する必要はないと思います。「一般概念」内の「意識面」も含めておきます。次に「直覚も直に之に於てあり、思惟も直に之に於てある」の「之」は同じものを指すと考えられますが、この「之」は?

A

「述語面」ないし「真の意識面」です。
佐野
そうですね。次に出て来る「対立的対象が之に於てあるのみならず、無対立の対象も之に於てあるのである」の「之」も同じく「述語面」ないし「真の意識面」を指していますね。「無対立の対象」とは「対立なき対象」、〈判断以前の対象〉のことでしょうから、「対立的対象」とは〈判断の対象〉で、280頁2~3行目に出て来る「思惟の対象」「知覚の対象」などが念頭に置かれていると思います。次に「すべての主語面を越えて之を内に包むが故に」の「之」は?

A

「すべての主語面」です。
佐野
そうですね。続いて「すべての対象は之に於て同様に直接でなければならぬ」の「之」は?

A

今度は「述語面」です。
佐野
ありがとうございます。続く「種々なる対象の区別は之に於てあるものの関係から生ずるのである」の「之」も同様ですね。種々なる対象とは直覚の対象(無対立的対象)、知覚の対象や思惟の対象など(対立的対象)のことを言うのでしょう。それではBさん、次を読んでください。

B

読む(281頁8行目~11行目)
佐野
難しいですね。「場所」論文も終わりに近づいていますが、内容が凝縮していて強烈に難しい。「主語面を越えて述語面が広がるという時、我々は判断意識を超越すると云わねばならぬ」とありますね。ここには「超越」があります。この超越について皆さんはどのようなイメージをお持ちですか?私はあの「英国にいて完全なる英国の地図を写す」という企図を思い浮かべます。描かれた地図を見ているのが「反省」で、そこから判断が成立しますが、そうした時にはその地図はすでに過去のものとなっています。そこでまた新たに地図を描かなければなりません。こうした運動はどこまでも続きます。完全な地図は完成しません。しかし地図が描けたということは、描く以前に描くべきものを直観しているから描けるわけで、こうした足下に実は完全なる地図が常に直観されていることになります。これは一種の気づきであり、転換ですね。テキストではこの「超越」はすぐ後に出て来るように、「意志」への超越です。判断意識から意志の意識への超越ですね。これはずっと前の『倫理学草案第二』では「見者」(観察者)の立場から「作者」(行為者)の立場への転換、『善の研究』では第二編から第三編への移行に当たります。少し『善の研究』の該当箇所を見ておきましょう。Cさん、岩波文庫改版『善の研究』52頁15行目から読んで見てください。

C

読む
佐野
「例えばここに一本のペンがある。これを見た瞬間は、知ということもなく、意ということもなく、ただ一個の現実である」とありますね。これが「無対立の対象」です。次いで「これについて種々の連想が起り、意識の中心が推移し、前の意識が対象視せられた時、前意識は単に知識的となる」とありますが、これが、ペンが「知覚の対象」ないし「思惟の対象」になったことを意味しています。ここまではよろしいですか?

C

はい、大丈夫です。
佐野
次いで「これに反し、このペンは文字を書くべきものだという様な連想が起る。この連想がなお前意識の縁暈としてこれに附属して居る時は知識であるが、この連想的意識其者が独立に傾く時、即ち意識中心がこれに移ろうとした時は欲求の状態となる。而してこの連想的意識がいよいよ独立の現実となった時が意志であり、兼ねてまた真にこれを知ったというのである」、とありますね。これが知識ないし判断から意志への移行です。テキストに戻ると、次に「主語を失えば判断という如きものは成立しない、すべてが純述語的となる、主語的統一たる本体という如きものは消失してすべて本体なきものとなる」とありますが、これは対象を外に見る見方の消失ということで、判断ないし反省の消失です。そこに、つまり「此の如き述語面に於て意志の意識が成立するのである」ということになります。外から観察するという態度がなくなったところに意志が成立する、ということです。それでは次をDさん、お願いします。

D

読む(281頁11行目~282頁2行目)
佐野
「判断の立場のみ固執する人には、此の如き述語面を認めることはできないであろう」、とまず来て、次に「併し意志は判断の対象となることはできぬが」とあります。そんなことはない、〈私がみかんを食べたい〉という意志は反省できるではないか、そう考えられるかもしれませんね。しかしそのように反省された意志はすでに反省の対象であって、意志そのものではない。意志は自覚するほかない。それで「我々が意識の自覚を有する以上、意志を映す意識がなければならぬ」と言われます。この「意識」は対象化できない意識で、「意識する意識」です。図に対する地です。しかし同じことは判断そのものについても言える、というのが次の文です。「判断自身すら判断の対象となることはできないが、我々は判断を意識する以上、判断以上の意識がなければならぬ」というのがそれです。この「判断以上の意識」は「意識一般」、つまり「意識する意識」であると考えられます。

M

280頁4行目に「知覚する私」「思惟する私」とありますが、その「意識」はこの「私」と同じですか?
佐野
そうだと思います。Mさんという「私」ではありません。誰でもなく誰でもあるような「私」です。前回Mさんはそれを「我」と呼んでいましたが。次へ行きましょう。「而して此の如き意識面は之を述語方向に求めるの外はない」とあります。判断の意識にせよ、意志の意識にせよ、こうした地に相当するものは述語的方向に求める外はない、ということです。次に「述語面が主語面を越えて深く広くなればなる程、意志は自由となる」とありますが、これは注目すべき表現です。つまり述語面に深浅、広狭があるということです。それに応じて意志が自由になるということは、意志ないし自由にも深浅、広狭があるということになります。また述語面に深浅、広狭があるということは、通常の意識における述語面は限定せられた有の場所、つまり一般概念内にあるということです。時間がなくなってきましたので、次に行きます。「併し何處までも意志は判断を離れるのではなく、意志は勝義に於て述語を主語とした判断である、判断を含まない意志は単なる動作に過ぎないのである」とあります。

R

この「意志は述語を主語とした判断である」というのが分かりません。直観も同じように規定されていましたが。
佐野
以前「直観というのは述語的なるものが主語となる」と言われていた時には、「すべて作用と考えられるものの根柢」として求められるものでした(275,9-10)。その際にはもっとも深い意味で捉える必要がありますので、〈随処に主と作(な)る〉という意味に解釈しました。「すべて作用」には「判断」も「意志」も含まれます。判断の場合は、例の「英国の地図」の例を想い起せば、直観が根底にあることは理解できますが、意志の場合も「述語が主語になる」という形を取ります。

R

それがよく分からないのです。
佐野
Rさんは論文を書いていますね。それは「院生は論文を書くものだ」という一般的な知識の問題ではないでしょう。「この論文」を書かねばならない。「この論文」は「目的」になります。意志一般(意志が「善」を求めるものだとすれば善一般)をこの目的(この善)にして、それを実現すべく対象とする、ということです。それが述語(一般)を主語(特殊)とした判断であると解釈できます。同じことは〈ミカンが食べたい〉でも言えます。我々はミカン一般を意志しない。現実に食べるのは〈このミカン〉です。〈このミカンが食べたい〉、ここに西田は「勝義」の「判断」を見て取ります。「勝義」ですから通常の判断ではありません。こうした「判断」を含まない意志は「単なる動作に過ぎない」と西田は言います。今日はここまでにしましょう。
(第67回)
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述語面に於いて意識される

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」「五」の第2段落278頁4行目「始から主客の対立を」から同段落末279頁13行目までを講読しました。今回のプロトコルはMさんのご担当です。キーワードは「我が我を知ることができないのは述語が主語となることができないのである」(279,5)でした。そうして「考えたことないし問い」は「言葉にするということは対象を判断の述語面に映すということである。鏡に映すということである。それは対象としては矛盾を含まないものに対し、矛盾を与える事であり、そうした矛盾を生み出す存在として今、私は在る。しかし、西田のいう「我」は「誰の我でもなく、誰の我でもある。そうした我である」(読書会だより10月14日)という。またテキストに「直観といふのは述語的なるものが主語となることである」(275.8)とある。述語的なるものが主語となるような事態、直観においては、矛盾を生み出す存在である私も「我」として存在し得るのだろうか」(256字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
Mさん、何か付け加えることはありますか?

M

「読書会だより」に「意識せられた意識」に対するものとして「意識する意識」というのが取り上げられています。その場合、「意識せられた意識」は『善の研究』で言えば、第二編の直接経験で、それは「限定せられた一般者」になると思います。それに対し、「意識する意識」は第一編冒頭の「純粋経験」で、これは「真の一般者」です。そうした場合、「意識する意識」は「意識するものなくして意識する意識」であるとも思えるのですが、この行為的主体のないように思えるものがどうやって意識するものを私たちの認識にもたらすのでしょうか。「誰の我でもなく誰の我でもあるそうした我」がどうやって私に認識をもたらすのかというのを問うてみたかったのです。
佐野
難しいですね。少し問いを整理してみましょう。対象が矛盾を含まないというのは、277頁12行目を受けていますね。

M

はい。
佐野
つまり、対象は生即死、有即無という在り方をしている。それが判断の述語面に映された時に矛盾となる、ということでしたね。

M

はい。
佐野
述語面とは意識面のことです。そこで意識とは「矛盾を生み出す存在」で、それが「私」だと。

M

はい。
佐野
それに対して「我」とは「誰の我でもなく誰の我でもあるそうした我」であり、これが「意識する意識」だと。

M

はい。『善の研究』にも「意識は必ず誰かの意識でなければならぬというのは、単に意識には必ず統一がなければならぬという意にすぎない。若しこれ以上に所有者がなければならぬとの考ならば、そは明に独断である」(岩波文庫改版74頁)とありました。
佐野
そうすると、問いは「我」がどうして「私」になるのか、つまり「誰の我でもなく誰の我でもあるそうした我」が「矛盾を生み出す私」になるのか、「意識する意識」が「意識」ないし「認識」をもたらすのか、ということですね。

M

そうです。「直観というのは述語的なるものが主語となることである」とありますが、これは「意識するものなくして意識する意識」のこと、つまり「意識する意識」のことだと思います。
佐野
以前その箇所を読んだ時は、それを「包むものなくして包む」と解釈しましたね。

M

この直観は「自己が自己に於て自己を見る」ということで、この内「自己に於て」というのが「体験の場所」です。西田は同時に「自己を失う」とも言っています。これは「誰の我でもなく誰の我でもあるそうした我」だと思うのです。それがどうして認識を生むのか、そういう問いです。
佐野
それでは、皆さん、ご自由に質問してください。

R

「考えたことないし問い」に「矛盾を産み出す存在として今、私は在る」とありますが、どうして「在る」と言えるのですか?
佐野
たしかにその問いは起こりますね。Rさんはこの「私」をどのように考えますか?

R

この「私」はすでに「意識された意識」だと思います。それは認めたくない自分だが認めざるを得ない自分である、そういう自分としてあるのだと思います。
佐野
在る、と言ってよいのですか?

R

言ってはいけないけれど、そうした矛盾として在るということです。

M

たしかに「我が我を知ることができないのは述語が主語となることができない」という側面から言えば、「在る」とは言えないですね。しかしこの「知る」は判断で、今問題にしているのは直観です。直観においてどうして「私」があると言えるのか、そういう問題です。
佐野
この「私」は〈Mさん〉というような〈個としての私〉ではないですね?

M

違います。認識がどう成り立つか、です。『善の研究』でもすべてが純粋経験の発展となっていますが、それを「場所」において見るというのが「場所」の論文だと思います。その場合の「見る」というのが「誰の我でもない我」であるのに、どうして認識が生ずるか、ということです。
佐野
西田は『善の研究』では純粋経験から出発していますね。

M

はい。「場所」論文では「有るものは何かに於てなければならぬ」から出発しています。
佐野
ええ。おそらく認識は、そうした場所の自己限定ということになるでしょうが、これは純粋経験の自己発展と同じことですね。しかし「純粋経験」にしても「有るものが有る」という経験にしても、或る種の〈驚き〉であり、そこには出会いがあり、したがって〈他者の契機〉が必要だと思うのです。それがないとそもそも「体験」という出来事もありえないし、「認識」ということも、まして〈個としての私〉も出て来ないように思います。(後で考えたことですが、「意識する意識」とは〈意識するものなくして意識する〉ということであり、この〈意識するものなくして〉というところが「真の無の場所」になるのでしょう。それは「自己が自己に於て自己を見る」において、最初の「自己」が無になることで「自己に於て」という「真の無の場所」になるということだと思います。したがってこの「真の無の場所」は「意識するものなくして意識する」(「自己なくして自己を見る」)が成立する場所として、すでに有即無といった矛盾を含んでいます。このうち有が主語、無が述語ですが、この有を無が包むという仕方で有と無が同一の述語面に於てある、と考えられます。主語は有即無として「対立なき対象」ですが、それ自体が有とされることで、述語と対立・矛盾し、こうして述語面において矛盾が顕わになる、「矛盾するとは述語のことである」と言えるのではないでしょうか。Mさんの問いに即して言えば、「誰の我でもなく、誰の我でもあるそうした我」が「矛盾を産み出す存在」としての「私」になるということです。どうでしょうか?)プロトコルはこの位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(279頁13行目~280頁1行目)
佐野
「直観というのは主語面が述語面の中に没入することに外ならない」とありますが、こうした直観の規定と、先の「直観といふのは述語的なるものが主語となることである」という規定と整合的に理解できますか?

B

主語面が述語面に没入して、そうした述語面が主語となるということで、大丈夫です。
佐野
ほかにありませんか?

C

「対立なき対象」というのが分かりません。
佐野
「対立なき対象」ということでまず思い浮かぶのはラスクです。ラスクの「対立なき対象」は判断以前のものでしたね。あるいはこれを277頁に出てきた、矛盾を含まない「対象其者」と考えることもできますね。ここでは数学において空間が三角形を「含む」あるいは「包む」とか、三角形が空間に「含まれる」「包まれる」とかいう、いわば第二次的な関係より先に「すべてが空間である」ということがなければならないのと同様、「経験科学的判断」においてもまずはすべてが「意識界」だと言おうとしていますね。

D

279頁には「数学的判断」の場合には特殊の面と一般の面とが「単に合同する」のに対し、「経験科学判断」の場合には「特殊を含む一般の面が之(特殊)を包んで餘ある」とありますが。
佐野
そうですね。数学の場合に「包む」「包まれる」と言ったのは間違いですね。5(特殊)が数(一般)であるとか、三角形が空間であるとかいうのは、厳密には「含む」「含まれる」というよりは5がそのまま数であり、三角形がそのまま空間である、ということでしょう。「含む」「含まれる」という関係はあくまで二次的だということです。次に進みましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(280頁2行目~9行目)
佐野
「意識」されるということが「述語面に於てある」ということで、思惟の対象も、知覚の対象も、意識としての「作用」も同一の「意識面」つまり「述語面」あるとされています。次いで「意識面というのは判断の主語を包み込んだ述語面」とありますね。今度は「包む」です。このように「包み込まれた主語面が対立なき対象となり、その余地が意味の世界となる」とあります。図に描きたくなりますね。ドーナツ型の二重の円になりますね。外側の円が述語面ですが、真の無として本来それには一定の大きさはないのですが、一応このように描いておきます。それに対して内側の円が主語面になります。その間のドーナツの部分が「意味の世界」ですね。次を読むと内側の円はさらに「感覚的なるもの」「直覚的なるもの」が来て、ドーナツの部分に「意味の縁暈」「思惟的なるもの」が来そうですね。

E

質問があります。「余地」(ドーナツの部分のこと:佐野)とありますが、これは1行目等にある「尚餘ある」を受けているのでしょうか。
佐野
そうだと思います。279頁8行目にもありますね。「経験科学的判断」の場合です。他にありますか。

F

「対立なき対象」が主語面に来て、「意味の世界」がその外にありますが、ラスクの場合、すべてが意味ではなかったですか?
佐野
そうですね。そうなるとこの「対立なき対象」はラスクを離れて、西田の言葉として理解しなければなりませんね。例えば判断以前の矛盾なき対象のようなものを考えて見てはどうでしょうか。

F

分かりました。もう一つ質問があります。この「直覚的なるもの」は西田の本来的な意味での直覚ではなく、感覚的なものと置き換えられているので、カント的な感性的直観のことではないでしょうか。
佐野
なるほど。そうするとこれまでに出てきた、たとえば「直観というのは主語面が述語面に没入することに外ならない」とあったのも、実はカント的な感性的直観に限定されると。ここでは一応、そうした読みの可能性もあることを頭の隅に置いたまま、次を読み進めましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(280頁9行目~13行目)
佐野
「普通には」とありますので、これは西田の立場でありませんね。普通は「知る」ということを主観客観の対立の中で考えるから、「対立なき対象」が主観の外に置かれて、「概念的なるもの」、カテゴリーなどの一般概念ですね、それが主観においてあると考えられる、というわけです。しかし西田はそうじゃない、と言います。「所謂一般概念とは直覚的なるものの意識面における輪郭であり、意味とは之によって起こされるその意識面の種々なる変化である、恰も力の場の如きものである」、このように言います。指示語がありますね。「之」とは何でしょう。

D

「輪郭」ではないでしょうか。
佐野
そうでしょうね。もう一つ指示語がありますね。「その意識面」の「その」とは?これも「輪郭」でしょうね。そうすると「その意識面」とは「輪郭」に属する「意識面」ということでしょう。こうなると円は三重になりますね。ドーナツの部分にもう一つ円が描かれることになる。「一般概念」の円です。この一般概念によってその円内の「意味」は矛盾のないものとなります。「種々なる変化」とはそうした「一般概念」のうちに主語面が置かれることによってさまざまな意味を生ずる、ということでしょう。そうしてそれが「力の場」のようだ、そのように言っているのではないでしょうか。とりあえずこのように解釈しておきましょう。次をDさん、お願いします。

D

読む(280頁13行目~281頁3行目)
佐野
「意識に於ては意味が内在するのみならず、対象も内在するのである」、これはよろしいですね。次に「志向的関係」と出てきますが、これはフッサールを念頭に置いたものでしょう。フッサールによれば志向的関係とは「意識外のものを志向する」のだが、そうではなくそれは「意識面に於てあるものの力線」だというのです。フッサールは意識が志向する対象は表象ではなく、意識外の対象だとしますが、西田はそれをも含めて、「意識面に於てある」と考えていることになります。

E

「力線」とはどういうことでしょうか?
佐野
「一般概念」の「輪郭」に囲まれた部分を「力の場」と呼んだことに関連しています。その場に対象が置かれるとその対象の方向に力が働きますが、これを「力線」(力の場で、接線がその点における力の方向と一致するように引いた曲線群)と呼んで、こうしたものが「志向的関係」だというのでしょう。

F

次の「自同律」とは何ですか?
佐野
〈AはAである〉ということです。矛盾律〈Aは非Aではない〉と言い換えてもいいと思います。そうすると「普通に自同律に於て表される直覚面」とは「対立〔矛盾〕なき対象」のことだと考えられ、これまでの叙述とも整合的になります。テキストでは、「普通には」そうした「直覚面」を「意識面」から除去して、「剰余面」だけを「意識面」と考えている、そうした場合には、この意識面は「対立的無の場所」になるとしています。これに対し「直覚的なるものは自己自身に同一なるものとして、述語面の中に含まれて居なければならない」と述べ、そのような述語面を「真の無の場所」と考えているようです。今日はここまでとしましょう。
(第66回)
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何處までも述語となって主語とならないもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」「五」の第2段落276頁11行目「アリストテレスは」から同段落278頁4行目「撞着せざるを得ない」までを講読しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードは「矛盾的統一の対象にまで行き詰った時、判断的知識の立場からしては、もはやそれと他とを更に包含する一般者を見ることはできない」(278, 1-2)でした。そうして「考えたことないし問い」は「基礎医学研究の恩師の「研究とは靄の中を進むようなものだが、いろいろもがいていると一瞬靄が晴れるような瞬間がある」という言葉を思い出しました。私達の知識世界は靄の立ち込めたフロンティアに取り囲まれていますが、それが「矛盾的統一の対象」ではないでしょうか。知識世界の拡大活動を続ける=矛盾的統一の対象にまで行き詰り続ける、ということになり、靄が晴れる瞬間は探究者の気づきとして訪れるのでは、と考えました」(200字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
Tさん、何か付け加えることはありますか?

T

西田は「矛盾的統一の対象にまで行き詰った時」と言いますが、そんなに苦悩しなくても矛盾は常にあると思いました。我々は常に是非も分からないもの(モヤモヤ)に取り囲まれているのだと思います。
佐野
なるほど。しかし我々は通常は人生ほど明らかなものはないと思っていて、そこにモヤモヤを感じませんね。ところで質問ですが、Tさんは「モヤモヤ」の状態が「矛盾的統一の対象にまで行き詰った時」、それが「晴れるような瞬間」が「(是と非是とを包含する)一般者を見る」時、そのようにお考えですか?

T

そうですが、「一般者を見る」ではなく、「見たかのように」ということです。「見た」とするのはおこがましいと思います。あくまでも垣間見るという仕方です。
佐野
ここで、Tさんは所用のため、一時退出します。Wさんが入ってきましたので、ちょっとWさんにお聞きしてみましょう。Wさんは前回のプロトコル担当者でしたが、学会出席のためにご欠席でした。Wさん、「読書会だより」をご覧になったと思いますが、何かご発言はありますか?

W

西田は人間が根底に矛盾を抱えているように考えていますが、そこのところがよく分からない、というか難しいな、と。最後の所で「ただ有る」ということがあって、矛盾は人間がそれを言葉にもたらすから生ずる、というようになっていて。

M

矛盾を突き詰めたら矛盾がなくなるとお考えですか、それとも矛盾はそのままに有るとお考えですか?

W

矛盾が生み出される前には矛盾はないように思います。

M

矛盾が生み出されるのは人間が言葉をもつからですよね。ですが人間は言葉を用いることを止められない、だから人間には矛盾が避けられないのでは?
佐野
難しいところに入ってきましたね。Tさんがお戻りです。今の議論はTさんのプロトコルにも関わりそうですね。

O

人知が及ぶ範囲だと「行き詰る」けれど、人知の及ばないところにいれば「行き詰」らない。だけど、人知の及ばないところにどうしても法則なり統一があるように見えてしまう、ということがあると思います。

T

研究者は誰も見たことのないところへ行って、そこで何かを見てそれを理解しようとするのですが、勘違いも多い。「私」が見つけたものはどうしても主観的な気がするんですね。そうすると揺らぐ。主観を排除したいのだけれど、どうしても入ってしまう。
佐野
それで「かのように」とおっしゃるのですね。しかし西田は直観(直覚)を認める。これがないと判断が成り立たないと考えます。フロンティアの探究も何かが見えていないと探究は成り立たない、ということがあると思います。他に質問はありませんか。

R

分けることと直観、あるいは言葉と経験についてですが、言葉にすることも経験ですし、この二つは分かれていないのではないでしょうか。そのように初めからすべてがあるのだとすると、そこからどうして分かれることが生じるのかが分かりません。
佐野
目下読んでいるところの脈絡では、判断や知識の成立からその条件を求めていくという、表からの考察です。そうして判断の成立には真の無の場所や直観がなければならない、そういう論じ方をしていますね。判断が破れなければ、破れた所は見えない。だから判断の立場では初めからすべてが顕わになっているとしても、それを捉えることはできないのだと思います。逆に真の無の場所の方から有の場所の成立をどう説明するのか、つまり無分別のところから分別の成立をどう説明するのか、ということになれば、おそらくそれはこの後「一般者の自己限定」という形で説明することになるのでしょうけれども、それがうまく言っているのかはさらに考える必要があるでしょう(因みに無分別の直観から分別や反省が如何に成立するか、はシェリングを苦しめた問いです。ヘーゲルは無分別や直観の立場に立つということがすでに分別・反省の立場に立っているという論じ方をします)。プロトコルはこの位にして講読に移りましょう。それではAさん、お願いします。

A

読む(278頁4行目~9行目)
佐野
3行目から4行目にかけて「単なる述語面、純なる主観性」と言われたものが「純なる主観性、体験の場所」と言い換えられていますね。いずれも「真の無の場所」であると考えられます。「かかる場所に於て繋辞の有は存在の有と一致するのである」とありますが、どういう意味でしょうか?

A

「繋辞の有」とは「である」、「存在の有」とは「がある」ということで、判断と直観(直覚)のことだと思います。
佐野
そうだと思います。判断の「である」を押し詰めて行けば、直観の「がある」に一致していく、ということでしょう。この「存在」は「豪末も異他性を容れない」主語、つまり矛盾もなくただ存在しているものとも考えられますが、「かかる場所に於て」とありますから、こうした「真の無の場所」に於てあるもの、ということでここは「矛盾的統一の対象」としておくにとどめておきましょう。

B

次の「客観的対象の主観と考えられる意識一般」というのがよく分かりません。
佐野
「客観的対象」というのは物自体のようなものではなく、意識の対象、次の行に見える「意識せられた対象」という意味です。そうした者を対象とする「主観」は「意識一般」、つまり「意識する意識」です。これでどうですか?

B

分かりました。
佐野
指示語がありますね。「而して判断の立場から云えばそれは」とありますが、「それ」は何を指しますか?

C

「意識一般」ではないでしょうか?
佐野
そうでしょうね。それが「対象が於てあるもの、述語的なるもの」とされています。こうしたものによって「判断意識が成立する」と言われています。「真の無の場所」によって判断が成立するということです。逆に言えばそれがなければ判断の成立を説明できない、ということです。西田は判断の根柢にある直観においても述語面、場所が失われることはないことを強調します。そうでないと判断が成立しえないと考えるからです。ここが西田哲学、場所論の大きな特徴です。次に進みましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(278頁9行目~11行目)
佐野
「判断の立場から意識を定義するならば、何處までも述語となって主語とならないものと云うことができる」とありますね。「何處までも述語となって主語とならないもの」は今後術語として頻出することになりますが、これがおそらくはその初出です。さりげない仕方で登場していますね。ここでは「意識」がそのように定義されていますが、この意識は「意識一般」「意識する意識」で、「真の無の場所」のことです。

C

「意識の範疇は述語性にある」はどういう意味でしょうか?
佐野
通常、範疇は主語となる対象を構成するものであることを念頭に置いた発言でしょう。意識の範疇は主語性にあるのではなく、述語性にあるのだ、と西田は言いたいのです。

D

次の「述語を対象とすることによって、意識を客観的に見ることができる」というのがよく分かりません。意識は対象化されない、客観的に見ることはできない、ということではなかったですか?
佐野
ここはそういう疑問が起こっても不思議ではないですね。次に「反省的範疇の根柢は此にあるのである」とありますね。ラスクのことを念頭に置いています。ラスクによれば、我々の判断というのは、「構成的範疇」によって構成された対象(超対立的対象)が原像となり、それがさらに「反省的範疇」によって判断領域にもたらされます。その時には対象は似像になっています。ラスクにとって重要であったのは構成的範疇の方でしたが、西田は逆に判断を成立せしめる反省的範疇に重要性を認めます。ところでこの反省的範疇はどのようにして知られうるでしょうか。それが「述語を対象とする」、「意識を客観的に見る」ということです。そうなるとこの「意識」は「意識する意識」「意識一般」でしょうか?それとも「判断意識」でしょうか?

D

判断意識だと思います。
佐野
私もそう思います。それは「意識せられた意識」ですね。判断意識は有の一般者(一般概念)の上に成り立っていますが、それを見るためにはその外に出なければなりません。こうして「意識」を見ることができるのだと考えられます。

D

分かりました。
佐野
それでは次を読みましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(278頁11行目~279頁5行目)
佐野
「従来の所謂範疇は一般者の求心的方向にのみ見られた」とありますね。「求心的方向」とは?

E

主語の方向だと思います。
佐野
そうですね。それに対し「遠心的方向」は述語の方向です。円が念頭に置かれていますね。述語の方向に範疇を見るべきだ、そのように西田は主張しているようです。「何處までも主語は述語に於てなければならぬ」と来て、「判断作用と云う如きものは第二次的に考えられる」とありますね。では第一次的なものは何でしょうか?

E

「述語的なるもの」でしょうか?
佐野
そうですね。すぐ後には判断的知識の「根柢に述語的一般者がなければならぬ」とありますから、「述語的一般者」でもいいかもしれません。次いで「すべての経験的知識には「私に意識せられる」ということが伴われねばならぬ」とあります。カントですね。「我考う(ich dende)」です。デカルトのコギト同様、これは図と地で言えば、地ですね。対象化できない(対象化したら図になってしまう)けれども感じられる。そうした自己意識(「自覚」)です。そうした「自覚が経験的判断の述語面となる」とされます。こうした超越論的統覚の自我(我)は「主語的統一ではなくして、述語的統一でなければならぬ、一つの点ではなくして一つの円でなければならぬ、物ではなく場所でなければならぬ」と述べられます。主語的統一、点、物と述語的統一、円、場所がパラレルに述べられています。

E

次に「我が我を知ることができないのは述語が主語となることができない」とありますがおかしくありませんか?真の自己を知るというのが西田の考えではないですか?
佐野
「知る」の意味でしょうね。テキストで言われているのは対象化して知るということですから、そういう知り方では超越論的統覚としての我(真の我)を知ることはできない、ということでしょう。問題はこうした「我」が本当に「我」なのか、ということです。この我は誰の我でもなく、誰の我でもある、そうした我です。そうした「我」がここで「真の無の場所」と一つになって語り出されていることに注目したいと思います。次を読みましょう。Dさん、お願いします。

D

読む(279頁6行目~13行目)
佐野
「それでは数学的判断の根柢となる一般者と経験科学的判断の一般者の根柢となる一般者とは如何に異なると云うでもあろう」と来ますね。「それでは」とはどういうことを受けているのでしょうか。これまで示されたことは判断意識一般の根柢が述語的一般者である、ということです。「それでは」というので、この二つの判断の根柢の違いはどこから来るのか、それを説明できてはいないではないか、そうした異論が出て来ることを想定したのでしょう。数学的判断の根柢となる一般者が、例えば5(特殊)がそのまま数(一般)である(「5は数である」)というように、「特殊の面と一般の面とが単に合同する」のに対し、後者、即ち「経験科学的判断の根柢となる一般者」においては、「特殊を含む一般の面が之を包んで尚餘あるのである」とされています。おや、と思うでしょう。逆ではないか、そのように思われて当然です。例えば193頁では「所謂経験的一般概念と考えられるものに於ては一般と特殊との間に間隙がある、一般より最後の種差に達することはできぬ」とされていました。この花の赤を一般の側から限定することはできないということです。そうであれば特殊の方が一般を包んでなおあまりあるというべきではないか、そう思われるはずでしょう。そこはとりあえず置いておいて、次を読むと「元来判断に於ては、述語となって主語とならないものが、主語となるものの範囲よりも広いのである」とある。「元来」とありますが、それがどういう意味か考えて見ると、判断の元来、つまり「包摂判断」のことを言っているようです。包摂判断ならば、究極的な述語である、「述語となって主語とならないもの」がもっとも広いことは頷けます。そうして「主語の方面にのみ客観性を求める判断的意識の立場から云えば、それは単に抽象的一概念と考えられるであろう」と来ます。そこで、ははあ、先程の特殊の方が一般を包んで余りある、というのは「主語の方面にのみ客観性を求める判断的意識の立場」だったのだな、と気づくことになります。こうした判断的意識の立場から考えるならば、包摂判断のやり方は「抽象的一般概念」にしか妥当しないと思われるからです。西田はそうした判断的意識の立場を承知の上で、あえてその逆を主張しているのです。そうして「併し我々の経験的知識の基礎は此の如き述語的なるもの、云わば性質的なるものの客観性に置かれねばならぬ」と言います。理由は述べられていません。

D

この「客観性」の意味がよく分かりません。
佐野
この「客観性」とは物自体のような意味での客観性ではなく、普遍妥当性という意味での客観性でしょう。カントは知識の客観性をこうした普遍妥当性に求めましたが、そのことを念頭に置いていると思われます。また新カント派のラスクはそうした客観性を主語の側の「超対立的対象」に求めましたが、そうしたことも念頭に置いて、経験的知識の客観性は述語的なるものの側にある、そのように主張したのでしょう。そうして「性質的なるものが(、)主語となって述語とならない意義を有することによって、経験的知識の客観性が立せられるのである」と続きます。「主語となって述語とならない」ものとは、個物のことですから、性質的なるものが限定されて、個物となる、そうしたことが念頭に置かれているのではないでしょうか。今日はここまでとします。
(第65回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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