読書会だより

山口西田読書会に参加する理由

第26回読書会だより
本日の哲学的問は「皆さんが『山口西田読書会に参加する理由』を教えてほしいです」です。
佐野
哲学的問にふさわしい仕方でお答えくださいね。まずこの問いはここに皆さんが来ていることに不思議な感じを持っているということですね。

A

(出題者)
ええ。「場所」論理の誕生の場面を読む、なんていうのは西田研究者にとってもマニュアックで、しかもものすごく難しいのに何でいらっしゃるのかと。
佐野
研究者になるのでもない、何かが分かるようになるのでもない、何かに役立つでもない、なのになぜ来るのか、ということですね。

A

私は、モチベーションとしては西田研究をしている知り合いと話をしたい、というのがきっかけです。ですが来ているうちに知らないことを知ること、分かっていないことが分かること、それが楽しくて、この場に来ているみたいです。

B

ええ。確かにずっと分からない。西田も哲学の動機は「人生の悲哀」だと言っています。「自己矛盾の本質より始まる」とも言っています。私はこうした自分を知りたいんです。ここは自分一人だけで考えていても気づけないものを気づかせてくれる場だと思います。

A

他人との違いや他人と同じことを考えることを通じて自分が分かる、ということですか。

B

ええ。

C

きっかけということで言えば、私は20歳代後半、身体的にも精神的にも具合が悪かったんですが、ある時ある曲(モーツァルト作曲クラリネット五重奏曲)を聴いて自分が変わるという経験をしたんです。それが何だか分からない。他にもそういう体験はあったのですが、分からないまま30年過ぎたんです。それでたまたま時間割の都合で佐野先生の公開授業に参加して、それは純粋経験ということかもしれない、と先生から言われて、純粋経験という言葉を知った、それがきっかけです。哲学用語は全く分からず、ただ来ているだけですが、頭は疲れるけれども身体は楽になるんです。それで続けた方がよいと言われて。それでもつながるんです。私はニーチェ、漱石、レヴィナスも学んでいますが、いろいろつながってくるのは面白いです。

D

私は「本当のこと」が知りたいです。西田はキリスト教、仏教の本質的なところを考えようとした。私はニーチェも学んでいますが、そこにもやはり同じものを感じるんです。宮沢賢治も「本当のこと」にこだわったんです。そうして「本当のこと」はつかめなかった。でもつかもうとする姿勢の中に「本当のこと」はあるような気がします。先日亡くなられたメンバーの山口さんも、「真の自己」とは何かと問われた時、「真の自己を考えていること、そのことが真の自己だ」とおっしゃったと聞いています。私は「本当のこと」が知りたくてたまらないんです。確実に死ぬのに生き続けることに何で平気でいられるのか、全く分かりません。

A

「自分とは何か」「生きる意味」という問いは結局解決しない問いで、問い続けるしかないと思います。

E

科学と宗教は一致しますよ。答えは出ます。死ぬとはいいことだと思いました。私も山口さんのお通夜とお葬式に行ってきましたが、ご遺体には山口さんはいませんでした。
佐野
少しずれてきましたから、もう一度問いに戻って。Fさん何かありますか。

F

僕が山口に帰ってきたのは父の介護というのが直接のきっかけですが、何で「山口」かと言うと、素晴らしい里山があるからです。現在はダムの底に沈んでいます。その里山は僕の肉体と不可分です。考える以前にそれに規定されている。何をやっても駄目だった自分がここにいる。それはここで自分を使いつぶすためです。緩やかな自殺と言ってもいいと思います。読書会についていえば、初めは避けていました。ですが「この場」が「どこにもない所」として、権威主義的でない仕方で存続している。昔はこの近辺に大学があり、学生がいて、先生方もいた。そこには自由があった。既定のどの路線にも乗らない、そうした場がここにある限り僕はここに来ます。

G

声をかけていただいたのがきっかけです。それまで西田幾多郎の本(日本の名著)はほこりをかぶっていた。その本を西田がいた場所で読めるというのはぜいたくな話だと思い、参加するようになった。相変わらずチンプンカンプンだが、分からんまま触れるようにしている。分からんでいい、と。どこかで分かるようになるかもしれないと思って・・・。

H

私は中国から哲学をしに来ましたが、何故なのかは分かりません。でもいろいろなものに出会えてよかった。知らない自分にも出会えました。この場が好きです。

I

何となく、です。分からないことに触れるのもいいですし、この空気が好きです。
佐野
私は何でしょうね。この場に呼ばれている、そんな感じがしますね。自分から何かの理由があって、ということではないんです。さあ、それではテキスト、読みましょう。(追記:昨日は阪神淡路大震災から25年を迎えた日でした。その中で小学生などそのころ幼かった人たちの現在を取材している番組を見ました。あの時泣くことができればよかった、それができなかったから、その時の自分がその時のまま止まっている、というような発言があったように記憶しています。ですが泣くことができる場というものはどこにでもあるというものではありません。人為を超えたものがその場を開くとしか言いようがありません。人為によって開かれる場は同化と排除の支配する争いと差別の場としての公です。人為を超えたものが開く場は人間がその役割を超えて人間として共に関わる場であり、そうしたどこまでも分からないものを西田が(これも人為を超えたものによって)開いている、そこへと皆が呼び出されるように参加している、そんな感じがします。)
(第26回)
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読書会だより

悪は存在するか

第25回読書会だより
本日の哲学的問は「悪は存在するか」です。
佐野
どういうことですか。

A

(出題者)
私は善は嫌いです。善は偽善だからです。自分のことを無意識に「いいひと」だと思っている人や、自分のことを正しいと(正論を)主張する人は嫌いです。
佐野
それが問いとどう関係するのですか。

A

私利私欲の悪も結局は公共の利益を目指すようになるんです。そんな意味を込めてそこには「悪は自己限定して善になる。その生成のプロセスが発散するあらゆる汚名を一心に引き受け、事績と悔恨と社会的制裁と幾多の試練を乗り越えて、自力で構成し昇華を目指す」と書いたんです。
佐野
悪に自浄能力があると。

B

『善の研究』には悪については真の自己ではないというように簡単に書かれていますが、『倫理学草案第二』でも「人心の疑惑」でも悪の問題は西田にとって深刻な問題でした。ですから『善の研究』で悪について書かれていない、そのことの意味が重要だと思います。人間は何々したい、ということを常に言っています。それは善がまだ達成されていないということで悪を抱えるということです。根柢は悪です。それをやめることはできません。それが苦しい。西田の言葉でここにメモしてあるのがあるんです。「自由なる自己其物を見る良心は深い自己矛盾でなければならない。自ら良心に恥じないなどと云ふものは良心の鈍きを告白するものである。深い罪の意識こそ深く自己自身をみるものの意識である。深く自己自身の中に反省し、反省の上に反省を重ねて反省其の者が消磨すると共に真の自己を見るのである。深い罪の意識の底に沈んで悔い改める途なきもののみ神の霊光をみることができる」。(新全集4巻142頁)
佐野
「絶対に悔い改められないところに神の霊光を見る」というところが大事ですね。もっと言うと人間は自らの悪に向き合うこともできないと思いますよ。自分を善人だと思っているんです。それをやめることはできない。

C

その話を聞いて思い出すのはアーレントです。ユダヤ人の大量虐殺を執行したアイヒマン、彼は自分のしたことが悪だとは思っていませんでした。直視できないんですね。一番いけないのは思考停止だと思いますが。
佐野
面白いところにまで深まってきましたが、この辺でテキストに入りましょう。
(第25回)
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読書会だより

「考究の出立点」は出立点たりうるか

本日の哲学的問は先週に引き続き「『善の研究』における「考究の出立点」は出立点たりうるか」です。
佐野
西田は『善の研究』第2編第1章の「考究の出立点」で、「純粋経験がある」ということを疑い様もない、としています。しかし「純粋経験がある」というのは紛れもない判断です。判断ならば疑いえます。西田の「考究の出立点」は失敗しているのではないか、こういう質問です。

A

出立点の疑い様がないところにはどこまでも行き着けないということではないでしょうか。
佐野
それでは最初から躓いているということですか。

B

初めから統一が成り立っている、発展しようのないものが与えられている、ということだと思います。これに対しカントは感性的にしか直観できない感覚の多様が与えられていて、悟性(統覚)がこれを統一していく。ここに西洋と異なる日本の特殊性があると思います。

C

その通りだと思います。根本的直観力は風土に根ざすんです。日本は特殊です。世界のひな型とも言えます。これを強調すると危険ですが。

B

大いなる他力とも言いますね。
佐野
それでは我々は日本的なものの信仰から始めなければならない、それが疑いようのない出立点になるのですか。

B

哲学はそのもとを疑っていきます。ですが調和が与えられているんです。それを見つけることはできないけれども与えられているんです。
佐野
見つけられないけど与えられているってどういうことですか。

B

私は座禅はしませんが、西田は座禅をした。その時の実感のようなものです。
佐野
ですからそのようなものを疑い様のない出立点としてよいのか、ということです。実感があるというのも判断です。

D

「純粋経験というものがある」のか「純粋経験という概念がある」のか、どちらでしょうか。
佐野
ものでも概念でもなくて、例えば今ペンを見ているならペンを見ているという意識現象がある、ということです。それを見ていることとそのことに気づいているということとが一つであるという。ですがそのように「意識現象がある」と言ってしまうと判断なんです。

E

西田は書物にしなければならなかったんだと思います。そうでなければ救われなかった。

F

説明できない、「有る」ことは確かだけれど言語化できない。そういうところを西田は苦しみながらもよく頑張っていると思います。。出立点たりうるとは思いますが、言葉にすると出立点たりえない…

E

西田はこれを重い病気の子供を看病しながら書いているんです。結局死んでしまうのですけれど。そうして子供が初めて光を見た時は光そのものだって書いている。決して失敗していないと思います。そもそも私は西田に疑いを持っていません。

A

これは出立点でもあり、目標でもあるんじゃないでしょうか。疑っていく働きの中で出立点の判断するものではないものを感じ取っていくというような。
佐野
出立点は暫定的なもので、出立点が出立点であることは最後に分かるということですか。

B

モーツァルトは曲を作る時に、初めから最後まで分かっていたと言いますね。それと同じで、最初にすべてが直観されているんです。最初から答えがあるんです。すべてが分かった、そこから西田は書いているんです。

G

本を書く時にそんな風に書くんでしょうか。初めは何か書きたいことがぼんやりとあって、それを文章にするのではないですか。

B

初めからすべてがあるんです。胎児でも、いや初生児だったかな、すべてがあるんです。そのままでは何も始まらない。始まるにはそこにズレのようなものがある。そのズレが考究の出立点になるんです。
佐野
それはよく分かります。しかしそこにズレがあるならば、出立点はありのままということを取り逃がしていることにはなりませんか。面白くなってきましたね。ですがこのくらいにしておきましょう。
(第23回)
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読書会だより

純粋経験は疑うべきものではないか?

本日の哲学的問は「『純粋経験』は判断分別以前であって、いくら疑おうとしても疑うことができない事実であって、この事実に対する判断とか反省とかはどこまでも疑うべきものである。西田は『純粋経験』を唯一の実在とし、それによってすべてを説明しようとする。しかし、『純粋経験は唯一の実在である』というのはすでに判断であって、疑うべきものではないのか。彼はなぜこの矛盾を知る上でまたこの通りに主張するか」です。
佐野
「純粋経験は疑うにも疑い様がない」とか「純粋経験は唯一の実在である」というのはすでに判断である。判断であれば疑うことができる。ならばそれを「考究の出立点」にすることはできないのではないか、という問いのようですね。それではお願いします。

A

根本経験があったから、確かにあると言えるんだと思います。
佐野
ですからそれが判断だというんです。

B

(出題者)
出発点が疑わしいと思います。事実がある、というようにそれを表現したら判断になります。西田は如何なる立場で「ある」と言っているのか。

C

そもそも立場は変えられるものなんでしょうか。

D

立場主義ですね。立場に引っ掛かってがんじがらめになっている。これが今の日本社会だと思います。実に閉塞的です。ですが立場などいくらでも変えられます。

C

私の言っているのは「人間という立場」です。人間は反省や判断の立場を超えられないということです。

A

クロマニヨン人は言葉を持たなかったので絶滅したそうです。ですが死者に花を供えていた。言葉を持たずにどうしてそんなことができたのか不思議ですが、言葉のない世界というのはやはりあると思います。

E

立場というのは視点のことですね。
佐野
そうですね。そうした視点に立って外から眺めるということになります。

B

そうした反省で分かったことになるのですか。言葉にしないと理解したことにならないのですか。

C

ええ。理解したというのはやはり言葉にできるということだと思います。
佐野
確かに言葉にはできないが俺は分かっているんだ、というのは断言にすぎないような気がしますね。Fさんどうですか。

F

言語化はできると思います。それが30年かかろうとも、ゆくゆくはできる。そうしたものだと思います。

G

私はいつも教育学に関連させて考えてしまうのですが、分かるというのは知識を身に着けるということですね。しかし分からないものに触れることの方が大事ではないかと。その意味では30年かけても分からないという面もあるのではないか。

F

それでもどう分からないか、ここが分からない、というのは言語化する必要があると思います。
佐野
不思議という言葉がありますね。不思議やなあ、というのは分かっていないのか、あるいは一つの分かり方なのか。

F

分かっていないと思います。

E

惹かれるものがあるということだと思います。言語化したい。だが言語化できない広いものがあり、一部しか言語化できない。西田は大それたことをしようとしているとも言えると思います。
佐野
面白くなってきましたね。ですが今日はこの辺りにしてテキストに入りましょう。
(第22回)
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読書会だより

純粋経験とはどのような概念か

本日の哲学的問は「三木清は、『西田先生の言葉』(1941)において、「先生の哲学は単なる非合理主義でないと同様、単なる直観主義でもない」と書いている。これを踏まえたとき、『善の研究』(1911)における「純粋経験」とは、どのような概念であると考えるべきであろうか」です。
佐野
これを考える時は「純粋経験は直観である」と言ったら、すでに反省であるということと、西田が純粋経験は「程度の差」であるといっていることに着目すると面白いかもしれませんね。

A

純粋経験には主客未分と主客分裂と主客合一の三つの立場があると思います。このように分析しつつ、それに囚われないのが純粋経験だと思います。「非合理を合理化する」というのがありますが、それが哲学だと思います。合理化、しかしそれでかたつかない。分からん部分が必ずあるというのが純粋経験です。神は理念とも言えませんね。定義不能です。純粋経験はそれと同じです。人間としては一生懸命に考えるしかない。

B

三つの立場があるとおっしゃいましたが、それらは総合できないのですか。

A

総合する立場があってもいいが、考え方の土俵というか、誰かが何かを言えば分裂が起り、また合一される。とにかく一生懸命考えるしかないのです。

C

三つの状態とおっしゃいましたが、それが「程度の差」に通じるのではないでしょうか。そうした動きが「程度の差」ということです。

A

ですが主客未分の方が最高だともいえるんじゃないか。
佐野
「程度の差」とは統一の厳密度についていわれています。全くの統一、全くの不統一もなかろう、ということです。

A

最高の境地があるということではないのですか。
佐野
西田は普通の知覚にも知的直観があるといいます。その理想的要素はどこまでも豊富深遠となると。その意味では普通の知覚と極致に至った知的直観とは量的にしか異なりません。その意味では「程度の差」ですね。そうなると「最高の境地」も「普通の知覚」も「程度の差」ということになります。問題はそう言い得る立場に立っているか、ということです。「平常心是道」とか「日日是好日」とか言いますね。本当にそういうことが言い得るのか、そういうことだと思います。

D

言葉にした段階で、言葉にできないものを言葉にしてしまう段階で、純粋経験ではなくなるのではないのですか。純粋経験はあくまで判断以前の瞬間・刹那ではないのですか。

E

私も、直観と純粋経験の違いが分からないのですが、例えばこれを飲むとして、うまいと感じる前にうまさを感じるというか、考えたり言葉にする以前にうまいということがあるじゃないですか。花を見るにしても目に留まった瞬間です。これが純粋経験だと思うんですが。
佐野
しかし西田は反省も純粋経験だという。反省もそれについて考えたり言葉にしたりしなければ直観と変わりません。ただ不統一な状態ですが。西田は純粋経験の立場を出ることはできないと言いますよね。そうなると厳密な統一の状態も反省という不統一な状態も程度の差ということになります。迷うときは迷う。それでいいということになる。これが純粋経験の最終的な立場、平常性の立場だと思います。

C

そのように立場を立てることがそうした立場を実体化し、純粋経験を離れることにはなりませんか。
佐野
それも平常性です。すでにそこに立っている。私たちは反省を一歩も出られませんが、そのことが同時に常に純粋経験の内にあるということを言い得る立場が平常性の立場です。古池に蛙が飛び込む音に思いが破れて、常に足下に届いていた静かさに目覚める、そんな感じです。

F

そういう境地を求めるということですか。
佐野
求めることは必要ですが、求めるという構造が到達を不可能にしています。思いが破れたところに気づく、それしかないと思います。なんかお説教みたいになってしまいましたが、西田は純粋経験の立場の究極相をこのようなものとして考えていたのではないかと思います。今日はこのくらいにしてテキストに移りましょう。
(第21回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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