当為(sollen)と存在(sein)

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第十四巻『講演筆記』「現代に於ける理想主義の哲学」より「第五講 新カント学派」の初め(48頁1行目「前節に述べたる如く十九世紀の後半には」)から52頁15行目の「従って自然科学というのも客観的実在を或る立場から組立てたものに過ぎない」までを講読しました。今回のプロトコルはKさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「真理は斯くなければならぬといふ當爲(Sollen) によつて成立するのである」(51頁3行目~4行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「真理は當爲(Sollen) によつて成立するとされていますが、真・善・美 については、内容は異なりますが目指すとことは「斯くあらねばならぬ」という当為ではないのかと、私は考えます。キーセンテンスの記述は、真理に限定していると解しました。真理だけなのは、何故でしょうか」(124字)でした。なお注記として「行為という言葉には、馴染みがありますが、当為という言葉を聞くこと自体少なく、これまで理解ができなかったので、この箇所を取り上げました。小室直樹氏の著書には、「日本人というのは、・・・・ザイン(sein ~だ)とゾルレン(sollen ~べきだ)の区別もない」とあり、日本人で哲学に詳しくない人にとって共通の傾向なのかでしょうか」が付記されていました。例によって記憶の断片から「構成」してあります。後出しじゃんけんみたいなもので、佐野だけが「ええかっこ」をしている形になっていてとても恐縮ですが、お許しください。
佐野
今日はKさんがご都合でご欠席ということですが、このプロトコルに基づいて考察しましょう。まずこの「問い」に対してとりあえず分からないところ(意味が通じないところ)はありますか?

I

「真理は当為である」がよく分かりません。
佐野
真理についてはさまざまな考えがありますが、このテーゼは新カント学派に特徴的なものです。我々は「知る(知性)」場合には「真理」を対象とし、「行為(意志)」する場合には「善」を対象とし、「感覚(感性)」する場合には「美」を対象とする、ということがまずあります。そのうち「知る」場合には、我々はその対象が「真理」でなければならない、と考えます。誰も知る以上は本当のこと(真理)を知りたいと思うからです。同じことは「行為(意志)」する場合についても言えます。一般的には悪いと分かっていることでも、例外を認めて「それをしてよい」と思わなければ、人間はそうした悪い行為を行うことができません。我々はよいと思ったことしかできないのです。そこには我々の行為は善でなければならない、ということがあります。「感覚」の場合も、そこには感覚されるものは美でなければならない、ということがあって、それで我々の感覚はつねに美を求める、例えば味覚は美味を求める、ということになります。

R

美については、対象への無関心性ということがあると思います。真や善とはことなるのではないでしょうか?

O

美(快)そのものをこうだ、と決めれば対象には無関心ではいられませんが、例えば美を調和の美に限定しないところに現代美術というものが成り立っていたように、我々の感性はどこまでも美を求める、ということは言えると思います。

R

なるほど。

O

プロトコルの問いに戻りますが、何故「真理」に限定しているか、ということについては、ここで問題になっているのが「真理」だからだという外ないと思います。
佐野
さて、プロトコルのとりあえずの意味は分かったとして、さらに深めて見ましょう。ここに何か問いはありませんか?

R

注記にあるように、日本人は「こうしたい」とか「こうすべきだ」と言うことがあまりないと思います。「そうなっている」というような考え方が多いと感じます。その意味ではsollenがseinに回収されるという仕方で、区別がないと思います。

T

私は途中から参加したのですが、真理が当為(sollen)だというのがよく分かりません。真理とは認識に関わりなく存在することで、真理とはむしろ存在(sein)ではないでしょうか?
佐野
伝統的には真理とは「物と知性の一致」と言われてきました。主観(認識)が客観(存在)に一致することが真理だと。例えば私の後ろに絵がかかっているという認識が、振り返ってみて実際にそのとおりにかかっていれば真だ、ということです。その意味では認識に関わりなく存在している在り方こそが真理だということになります。ただその場合、物と知性の区別が前提されていますね。主客の対立と言ってもいい。ですが物と言っても知性と言ってもすべて言葉です。我々は言葉によって考えるほかはありません。そうすると、「存在」ということもそうした言葉(意味)として考えなければならないことになります。伝統的な考え方からすれば、「存在」は「認識」以前のものでしたが、そのこと自体がすでに「存在」ということの意味になっているのです。我々は言葉の外に出ることはできない。そうして言葉はつねに意味であり、価値、当為を含んでいる。その意味では真も善美同様である、と主張したのが新カント学派です。ただ、例えば「真理」という言葉がどうして「当為」を含むのか、そうした「当為」の出処はどこにあるのか、という問いは起こると思います。これは我々の思い通りになるようなものではない。

K

「当為」とは「理想」とか「理念」と考えていいでしょうか?
佐野
そうだ、と思います。言葉がそうした「理想」として我々に要求してくるわけですが、そうした要求の出処がどこにあるか、ということです。

I

私は「躓き」のようなものが大事なような気がします。当為に従って行為する、しかし躓く、ということです。
佐野
その場合の当為には内容がありますね。「こうすべきだ」の「こう」のところに具体的な内容が盛り込まれていて、人間はそれを実現しようとするし、そうでないと行為できません。しかしそうした前提は思い込みであって、そうした思い込みが「破れる」ということが起る。これが「躓く」ということだと思います。そう考えると、こうした「躓き」を惹き起こしているものこそが「当為」だということになります。この「当為」はこれが真だ、善だ、美だ、というように限定することなく、ただただ「真」を知れ、「善」を為せ。「美」を体感せよ、とだけ命じてくる、そういうことになるのだと思います。こうした「当為」の働きは、つねに一定の思いのなかで生きようとする我々にとっては「他者」という在り方を取ると思います。

W

西田的には「当為」の出処は「意志」と考えてもよいと思います。
佐野
なるほど。最も根本的には「状態としての意志」ということになりますね。プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。今回は55頁3行目まで講読しました。読みやすい内容ですので、各自読まれてください。プロトコルのご担当はTさんです。よろしくお願いいたします。
(第83回)
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新カント学派

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「左右田博士に答う」「三」の第2段落(300頁の級下げ部分)「私は対象化せられた心理的意志を判断主観の上に置くのでもなく」から「四」の第1段落301頁8行目「斯くしてこそ構成的思惟としてのカントの純粋統覚の意味は徹底し得ると思ふ」まで講読しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「コーへンは――(中略)――遂に感覚をも思惟によって要求せられるものとして、オンに対するメー・オンと考へた」(301頁6行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「コーエンの考える純粋統覚も西田の自覚もメー・オン(非存在)としてあり、感覚のような直接経験と思惟の結合を認める点で共通しているという理解でよいか」(72字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
「考えたことないし問い」の前半では、コーヘンの純粋統覚と西田の自覚がメー・オンとなっていますが、「キーセンテンス」の方では、「コーヘンは感覚をも…メー・オンと考えた」となっていますね。つまり感覚がメー・オンではないでしょうか?

R

純粋統覚が思惟ですか?
佐野
「ich denke(私は考える)」が純粋統覚ですから、思惟です。

O

そうすると純粋統覚と自覚がオン(存在)の側に来て、感覚がメー・オン(非存在)の側に来る、ということですね。
佐野
だと思います。後半はその通りだと思いますが、感覚を直接経験としたところは面白いですね。今回読むテキストによれば、新カント学派のリッケルトは直接経験を直接に与えられたものと考えているようです(14巻48,9)。「考えたことないし問い」の質問は、この理解でよいか、ということでしたが、前半を修正すれば、つまり「コーエンの考える純粋統覚も西田の考える自覚もオン(存在)としてあり、感覚のような直接経験(メー・オン)と思惟(オン)との結合を認める点で共通しているという理解でよいか」というようにすれば、「よい」ということになると思います。プロトコルはこの位にして、テキスト講読に移りましょう。今回よりしばらく旧全集第14巻所収の「現代に於ける理想主義の哲学」という題で大正五年の秋に京大学生課主催で行われた一般学生向けの特別講義を、山内得立が筆記したもののうち、第五講「新カント学派」を数回に分けてエクスクルスとして読みたいと思います。第4巻の「左右田博士に答う」の読解の基礎となると思われるからです。これは大変読みやすいものですから、読書会だよりでは特にご紹介はしません。今回は第14巻48頁から52頁15行目まで講読しました。プロトコルはKさんです。よろしくお願いします。
(第82回)
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カントの純粋統覚

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「左右田博士に答う」「三」第2段落、298頁の8行目「一体、知識は単に形式によって構成せられるのではなく」から第3段落300頁8行目段落末まで講読しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「知識があるといふには、主観を入れて来なければならぬ。かゝる主観が意志をも対象として知り得ると云うならば、それは自覚的でなければならぬ」(300頁3行目〜5行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「知識がある」ということは「知識自身の自知」即ち認識主観である意識自身の自省という意味を含んでいる。認識主観が「意志主観」である場合、それは対象化されない意志する意志である。例えば、英国の完全な地図を描こうとしても、地図を描いている自分が描かれないように、意志する意志の自省が成り立たない。そうすると、意志を対象とした知識が如何に成立するのか?(直観の立場は)その知識の正当性をどのように保証するのか?」(200字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。

T

意志の自省が成り立たなければ、意志が自分の意志であることも、それを他者に投影した他者の意志も分からなくなると思います。

R

それでも対象化された意志しか我々には分からないんじゃないでしょうか。
佐野
英国の地図の例が挙がっていますが、どのような意志であるかは対象化して見なければ分かりませんが、そのように対象化できるということはそれ以前に何かを見ていなければならないように思われますが。

N

Rさんは「知識がある」「意志がある」の「根拠」を「正当性」の「保証」という言葉で考えているんじゃないでしょうか。そうするとその保証を与えるのは「真の無の場所」ということになると思いますが。

R

意志する意志の自省が「真の無の場所」における「直覚」の立場で成立するということで、その立場の正当化はどうなるのか、ということが疑問点です。

N

それは神秘的であって、合理的ではない。正当化や基礎づけはもはやできない、与えられている、としか言いようがないのでは?

R

そうした知的直観はカントでも、新カント派でも認められないと思います。だからこそその立場の正当化が求められるのだと思います。

N

「知識がある」「意志がある」というところから出立して、「真の無の場所」が「なければならぬ」、これが正当化であり、正当化の保証では?Rさんは、正当化という言葉をどのように使っているのですか?

R

妥当性でもいいです。

N

絶対的基礎としての「無の場所」はもはや基礎でない基礎、これ以上ない基礎と考えるべきであって、哲学はそれを「宗教の立場」とすべきではないと思います。それについては無記とするのが哲学の立場だと思います。知的直観についても、それは可能だと哲学は言うべきではない。その意味では「対立的無の場所」の意味が哲学にとって重要になると思います。
佐野
西田の最終的な立場としての「真の無の場所」や「直覚」が、その正当化についてずいぶん懐疑的な意見が出ましたが、いや、そうではない、西田には禅の体験、見性体験のようなものがあってこう言っている、というような、あるいはそこまで行かなくても常識的な見方が破れるような「根本体験」があって、このように言っている、というような意見はありませんか?

O

そんなところから意志を語ったら、それは神の意志と同じことになりますよ。

T

正当化とは〔原理・原則による〕裏打ち〔裏付け〕があるということですよね?
佐野
カントの演繹がまさに「正当化」です〔権利問題を論ずる法廷を念頭に置いていると思います〕。

W

西田の場合、表向きは「知識がある」というところから出立しますが、最終的には体験が裏打ちになっていて、実はこちらの方から「なければならぬ」と攻めている気がします。言葉から始まっていない。
佐野
言葉から始める、ということも言葉ならざる所との「あいだ」の出来事ですから、難しいことになりそうですね。プロトコルはこれくらいにして講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(300頁9行目~12行目)

A

最初に「心理的意志」とありますが、この「心理的」とはどういう意味でしょうか?
佐野
言葉の意味は常に文脈の中で押さえていきましょう。まず「対象化せられた心理的意志」とありますから、「心理的意志」は「対象化された」意志です。心理学は心的現象を対象化した学問ですから、その中に意志も含まれることになります。その意志は常に誰かの意志です。それを「判断主観の上に置く」とはそうした「誰かの意志」、例えば佐野之人の意志を「判断主観」の上位に置くことです。

A

ありがとうございます。
佐野
次に「又内から働く神秘的能力を意志と考えるのでもない」とありますね。これは形而上学的な実体としての「意志」です。例えばドイツ観念論の、さらにはショーペンハウアーの「意志」などを念頭に置いているかもしれません。次は「意志は」を補って読みましょう。「(意志は)判断主観よりも尚一層深き主観を意味するのである」と読む。西田が「判断主観」として考えようとしているのは、「誰でもあって誰でもない私」としての「意識一般」ですが、意志はそれよりも「尚一層深き主観」だとされます(先程は「上に置く」となっていました)。何故「一層奥深い」のか、何故「上」なのか、その理由は述べられていません。そうして「自覚についても同様である」と来ます。「同様である」とは何と同様なのでしょうか?

A

意志、では?
佐野
そうでしょうね。そうしてそのことは「自覚に於ける直観と反省」(全集第2巻)や「意識の問題」(全集第3巻所収)にも論じてある、とありますが、判断主観より意志主観を深くに見るという見方はすでに『倫理学草案第二』(1905-1906)に、「見者」に対する「作者(行為する者)」の優位という形で出て来ています。次に参りましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(300頁12行目~末)
佐野
「意志は単に働くものでない、働くことを知るものである。自己は単に存在するものでない、存在することを知るものである」とありますね。この「知る」をカントは「意識」に止めましたが、西田はそれを「直観」にまで徹底しようとします。ここにカントや新カント派が反発するわけです。僭越沙汰だと。それはともかく次を見ますと、「(自己は)認識主観の外にあるのではない、認識主観が之に於てあるのである」とありますが、「之」とは何を指しますか?

B

意志、ですか?
佐野
ええ。意志でも自己でもいいと思いますが、自己の方がよいかもしれません。自己が認識も意志もする、ということで。ところでそうした「自己」を認識主観の「外にある」と考えたのは誰ですか?

B

左右田博士たちでしょう。
佐野
そうでしょうね。西田想定の。リッケルトはすべてを認識主観の対象としますから、自己も意志も認識主観の対象、つまりは認識主観の外にある、ということになります。この場合「認識主観」は「判断主観」です。次に「知るということを知るのも認識主観だと云わるれば」とありますが、西田はこの「認識主観」の中に「自覚」を見ます。ところがリッケルトたちは「知るということを知る」という「自覚」を対象とするのが「認識主観」だ、という意味で、この「認識主観」の中に「判断主観」を見ます。ですから西田は、それは「唯語義の問題だと思う、直にそれを判断主観の如くに考えるのは当を得ない」と述べることになります。しかしそのように西田が言えば、リッケルトたちは、〈では「自覚」と言っているのは何(誰)か?〉と問うでしょう。そうなるとそれは「自覚の自覚」ということになります。「自覚」とは「判断の判断」ですから、「自覚の自覚」とは「判断の判断の又判断」ということになる。さらに、そのように「自覚の自覚」と言っている者が必要になり、こうして合わせ鏡を見るように、際限がなくなってしまう。そのようにリッケルトたちは言うかもしれない。しかし西田はそれを「単なる空論に過ぎない」と一蹴します。そうして「我々は零の零を考え得ざる如く自覚の自覚という如きものを考えることはできない」と結びます。

N

極限値として考えることもできたのに、西田はそうしなかったのだと思います。直観できると割り切った。
佐野
そうかもしれません。「認識(知る)」についての両者の対立、どうにも決着がつきそうもありませんね。次へ参りましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(301頁1行目~9行目)

C

最初の一文、「内容」は「直覚」、「思想」は「概念」と同義と考えてよいですか?
佐野
はい。

C

さらに、「思想」や「概念」は「形式」で、「感覚」が「内容」だと。
佐野
そうです。ですからカントの場合、「直覚(直観)」はつねに「感性(感覚)的直観」です。「知的直観」は認められません。西田はここでこのように「感覚の制約」ということを言いながら、最後の所で知的直観を認める、これが左右田博士の批判するところです。

C

「感覚の制約」の「制約」って何ですか?
佐野
なければならないもの、条件ということです。

C

分かりました。
佐野
次に「カントの純粋統覚は単に論理的主観という如きものではない」とありますね。「純粋統覚」は知覚(Perzeption)に加わって(ad)これを統一するもの(Apperzeption)ということで、厳密に言えば「意識一般」とは事柄としては別ですが、同じものです。それは「論理的主観との如きものではない」ということですが、だとすれば、「純粋統覚は論理的主観だ」と主張している者がいるはずで、それは誰でしょうか?

C

西南学派、ですか?
佐野
そうですね。新カント派は1860年にリープマンが「カントに帰れ!」と言ったところから始まりますが、その後二つの流れに分れます。一つが南西ドイツ学派(西南学派)で、ヴィンデルバント、リッケルト、ラスクがその代表です。もうひとつがマールブルク学派でコーエン(西田はコーヘンと呼んでいますが)が代表です。ここで西南学派として念頭に置かれているのはリッケルトだと思われます。彼は「論理的主観」ということで、論理つまりロゴス、言葉から出発しますから、言葉以前の感覚(直接経験)の存在は認めますが、これを言葉以前として問題にしません。次は「純粋統覚は」を補って読みます。「(純粋統覚は)所与の範疇たる直覚の形式によって与えられた内容と結合したものでなければならぬ」。「所与の範疇」というのはリッケルトの用語ですが、ここで述べられているのはカント哲学です。だとすると「直覚の形式」とは何ですか?

C

空間と時間です。
佐野
そうですね。与えられた感覚的内容をまずは感性の形式である、空間と時間によって整理し、そうしてできた内容、つまり「知覚」をさらに概念によって統一するわけです。その際の統一する働きが「純粋統覚」で、統一の仕方(形式)が、カテゴリー(範疇)です。次に「Kants Theorie der Erfahrung(カントの経験理論)」とありますが、これはコーエンの初期の著作(1871年)です。この中でコーエンは「此点に着眼した」とありますが、「此点」とは?

C

純粋統覚が直覚と結合したものでなければならないことです。
佐野
そうですね。「此故に思惟意識其者」、つまり「純粋統覚」ですね、その「自省」とはich denkeのことですね、そこから「生産的思惟の考」に至ったとあります。そうして「遂に感覚をも思惟によって要求せられるものとして、オンに対するメー・オンと考えた」とあります。

C

「オン」とか「メー・オン」というのは何ですか?
佐野
ギリシャ語で、「存在」「非存在」ということです。大事なことは「無」ではなくて、「非・存在」だということです。感覚は思惟によって要求され、思惟に解決を迫るものとして、思惟に「与えられたもの」ではなく「課せられたもの」、課題だというのです。西田はコーエンの考えに全面的に賛成というわけではないけれども、コーエンのように考えることによって「構成的主観としてのカントの純粋統覚の意味は徹底する」と言っています。「構成的主観」とは「知覚内容」を構成する主観ということで、純粋統覚を「論理的主観」、さらには後で出て来ますが、「判断意識」にまで狭めてしまったリッケルトに対して言っています。今日はここまでとしましょう。
(第81回)
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意識自身の自省――カントの超越論的統覚と西田の自覚

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「左右田博士に答う」「三」第1段落、296頁の最終行「以上述べたように、知るという中にも、私は種々の立場の区別をしたいと思う」から298頁8行目「主観其物即ち自覚という如きものではなかろうか」まで講読しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「意志主観及びその対象界をも包むと考えられるものは、実は判断主観という如きものではなくして、主観其物即ち自覚という如きものではなかろうか」(298頁7~8行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「主観其物即ち自覚」は295頁8-9行目の「私の所謂真の無の場所たる直覚的自覚」ではないでしょうか。とすると、「知る」の3つの立場「判断」「意志」「直観」に、3種の主観が対応することになります。真の無の場所における「直観」は、それがなければ真の無の場所を「知る」ことはできないので、あるはずと理解したのですが、真の無の場所における「主観」とはありえるのでしょうか。「主観=無」となりそうな気がします」(195字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
何か補足はありますか?

T

最近、週一回音声言語外来の患者さんがいらっしゃるんです。そういう子を見ていると、判断より意志の方が深いと思うんです。西田は意志主観を包むものが「主観其者即ち自覚」と言っていますが、その「主観其者」とは「直観」である、というように解釈できるのではないか、と思ったのです。この直観は「真の無の場所」を知るためには必要なものです。西田はこの「真の無の場所」を知っていたはずで、それは直観による、ということになるのですが、「真の無の場所」においては「主観」は溶けてなくなるのではないか、と思うのです。その場合「直観」といっても、何を知っているかはっきり分からないことになるわけで、感覚や知覚とは本質的に異なると思います。そうなると、それがどういうものかを知ることができるのは、意識一般といった「入口」の所で、照らされるしかないのではないか、入ったら溶けてなくなってしまう、そう言うことじゃないかと思うんです。

W

以前「場所」論文「四」で「無の場所」が「単に映す意識の鏡」ということが言われていた(270,6)ことが気になります。その場合、主観は溶けてなくならないのでは?

T

その場合でも、我々は鏡自体は見ていないと思います。見ているものは照らされたものです。鏡自体を見ることが「真の無の場所」を見ることですが、その時には主観は溶けていると思います。

R

直観の中に反省は含まれていて、主観が溶けることの中で、はじめて反省が成立すると思います。悟りの瞬間にも「一語」があります。
佐野
悟りの内容は、古来言語道断とか、不立文字とか言われてきましたが・・・

R

そこから言葉が出て来る直観があるということです。ぼーっとしているのとは違います。

T

悟りは目覚めですから、意識はあると思いますが、それでも無です。それが何らか言語化されなければ、少なくとも傍から見るとぼーっとしているようにしか見えないと思います。

K

「真の無の場所」には主観はありませんが、ぼーっとしているのとは違うと思います。判断が起る手前の一瞬です。
佐野
判断以前ということであれば、ぼーっとしているのも判断以前では?

T

武芸の達人が無心であるように、人生の達人も無心ということがあると思います。それは押し進めて考えると認知症と変わらなくなると思います。習慣化=自動化は楽で、これは年長者の特権だと思います。

W

ぼーっとしているのと真の無とはやはり違うと思います。ぼーっとしている場合には、一定の習慣(一般概念)の中で行動しているわけで、「俺、何してたんだっけ」というように間違いに気づくということがある。真の無の場所を知る場合にはこうした間違いということがありません。
佐野
たしかにぼーっとしている時も、寝ていた時ですら、目覚めた(気がついた)時には、直ちに「ここは教室で、俺は学生だ」というように、一般概念の中で自己認識しますね。ぼーっとしている時も、寝ている時も一般概念の中でそうしている。我々は常に一般概念の中で生きているけれども、だからこそそうした一般概念が破れる刹那というものがあり、それが「真の無の場所」を知るということだと。

W

いえ。そのように習慣が破れるとは異なったものが「真の無の場所」を知るということにはあると思います。例えば赤子とか、中島敦の「名人伝」の弓の名人、紀昌とか。

T

どちらも判断が起る手前、ということができると思いますが、それは単に寝ているとか、ぼーっとしている時と区別はできないと思います。そこに両者を区別することのできるような正解はないと思います。

W

「真の無の場所」からすれば区別はできないと思いますが、分別的な自分の立場からすれば、習慣(一般概念)が破られるということはあると思います。ですが、このように一般概念を前提としない在り方がある。有の場所から真の無の場所に行くのではなく、そもそも真の無の場所に於てある、ということです。
佐野
我々がもともといる場所、ということでしょうか?こうした領域、つまり無分別の領域について、言語(分別)の領域から語るということはどうしても困難を伴いますね。

N

Tさんの問いでは、「真の無の場所」において「主観」がなくなるということですが、それは「我あり」から出発する「我=主観」が死んで、「真の自己」として復活する、ということではないでしょうか?
佐野
Tさんは「真の無の場所」において「主観」が溶けた後に、「意識一般」において照らされるというような言い方をされていましたね。ここでも「主観」について無即有が言われていますね。この「即」のところ、この矛盾的同一の場所が、「真の無の場所」であり、直観の場だと、Rさんは言いたいのでは?

R

まさしくそれが私の言いたいことです。
佐野
難しいところですが、プロトコルはこの位にして、本日の講読箇所に入りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(298頁8行目~15行目)

A

「知識」は「内容」と「形式」の結合によって成立する、ということですが、この「結合」が「自覚の立場」においてのみ可能だと。
佐野
そうですね。この「立場」とは、カントの「超越論的統覚」ないし「意識一般」のことですが、これは「私は考える(ich denke)」という「自己意識(Sellbstbewußtsein)」を伴います。この「自己意識」を西田は「自覚」と訳して、さらにそれに自己直観のような強い意味を持たそうとします。これに左右田が反発するわけですね。

A

次に「所与」と出て来ますが、これは「内容」と同じと見てよいでしょうか?
佐野
いいと思います。その「所与」は「知識の種類」によって異なる、と。まず出て来るのが「自然界」の知識ですね。その場合の形式が「時間、空間」といった感性の形式、それから「因果」などの悟性の形式、つまり「範疇」、カテゴリーですね。

A

「理解力と知覚とを結合する」とありますが、この「知覚」も「所与」と考えていいですか?
佐野
そうですね。感覚と感性の形式(時空)によって、「知覚」が形成され、これと「理解力」つまり「悟性」とが結合されるわけです。両者を結合するとされる「自覚」も「超越論的統覚」です。以上は「自然界」の認識、つまり物理学に代表される科学的な認識です。しかし、所与を知覚というように限定すると、その中には「意志の対象界」は入ってこない。「意志の対象界が構成せられる」と西田は「構成」という言葉を用いていますが、それは「意志の対象界」が「認識」可能だ、という立場に立っているからです。(カントはおそらくそのようには言わないと思います。)西田はその場合、「自然界の所与」つまり「知覚」とは「異なった所与がなければならぬ」と言います。そうしてそれが「人と人とが互いに直感する感情移入の如き直接所与」だというのです。

A

「感情移入」という言葉が出て来ましたが・・・
佐野
この「感情移入」ということで西田が念頭に置いているのは、リップス(Theodor Lipps,1851-1914)です。『善の研究』執筆前後の覚書である『純粋経験に関する断章』の「断片27」にリップスの名が挙がっていて、早くから西田はリップスを知っていたようです。「外界に於ていつでも自分のimageを見て居るのである。人が獅子を見て居る時は獅子になって居るのである」という記述が見えます。リップスは、他我は自我の客体化で、重力も感情移入による、と考えていましたから、西田には馴染みやすい思想家だったと思われます。西田は『善の研究』でリップスではなく、「エルザレム(イェルザレム)」(Wilhelm Jerusalem,1854-1923)の名を挙げて、「科学的見方の根本義である外界に種々の作用を成す力があるという考は、自分の意志より類推したものであると見なさねばならぬ」(岩波文庫改版83頁)と述べています。

B

私はこの「直接所与」というのが気になります。
佐野
この「直接」というのが重要です。まず私と汝がいて、それから私が汝に対して感情移入する、というのではないのです。まず「人と人とが互いに直感」している、という感情があって、それから私と汝が分れて来る、そう考えるのです。(八坂哲弘「西田幾多郎のフィードラー受容とリップスの「感情移入」説」日本哲学史研究第12号156頁参照)

B

分かりました。
佐野
この直接のところ、ここではすべてが(時空すら超えて)通じ合っている、そのように考えられるのですが、そう聞くと何か救われた気がしますね。もっともそれが同時に「真の無」と一つになって有即無を形成しているのですが、この矛盾的自己同一の直接的なところ、ここを宗教哲学の人たちは大事にしますね。ヘーゲルはそうした「直接」はすでに「媒介」と対立するものになっている(対象化されている、ともいえると思います)、としてそうした直接にとびつくことを強く批判します。先に進みましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(299頁1~5行目)
佐野
ここでは「自覚」に二つが区別されていますね。何と何ですか?

B

「心理学的自覚」と「意識自身の自省」です。
佐野
そうですね。「心理学的自覚」の場合、自覚されるものは「経験的自己」です。この私(佐野之人という名をもった私)です。以前「意識する意識」と「意識せられた意識」の区別が出て来ましたが、「経験的自己」は後者です。すでに対象化された自己、ということです。これに対して「意識自身の自省」は「意識する意識」の自省です。対象化できない自己を直接見ること、直観です。さて、そんなことが可能なのかどうか。次を読んで見ましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(299頁5~11行目)
佐野
「斯く云えば直にそれが宇宙の自覚的精神という如き形而上学的実在であるかの様に考えられるかも知らぬが」とありますが、「それが」とは何を指していますか?

C

「自覚」です。
佐野
二つありましたね。どちらですか?

C

西田が言う「自覚」です。
佐野
そうですね。「意識自身の自省」の方です。自我の直観です。カントの後、フィヒテはこの自我自身の知的直観を認めましたが、西田はそれを、自我を形而上学的実在にした、と批判するわけです。フィヒテの後、初期のシェリングは自我と自然(宇宙)との同一性を「絶対者」として、その「自覚」を考えました。シェリングもそうした絶対者の知的直観を絶対者の自覚として認めます。ヘーゲルも絶対者の自覚(自己意識)ということは言いますが、そこに「知的直観」という言葉は用いません。あくまで弁証法的に一歩一歩という形を取ります。しかし西田から見ればこうした「ドイツ観念論」の立場は、やはり意識(自我)を形而上学的に実体化した、ということになります。「自覚は超越的に存在するものではない」というのは、対象化・実体化された自我が自覚するのではない、ということです。「超越的に存在するものなら、それは自己意識というものではない」も同じことを逆の方向から言ったもので、自己意識はあくまで対象化されることのない、「意識する意識」の自己意識だ、そう言っているのです。そうして「意識を心理的と限定すれば」、つまり意識は対象化された意識しかありえない、とするなら、「それより外のものは皆超越的となるかも知らぬが」と来ますが、そのように「皆超越的となる」と主張しているのは誰ですか?

C

西田想定の左右田博士でしょう。
佐野
そうでしょうね。しかし「知識がある」、ここから西田は出発するのですが、そうだとするなら、それは「何處から出て来るのか」、そのように問います。そうして西田自身がやろうとしている、いわば〈新しい形而上学〉の立場が述べられます。それは同時にカントの「批評哲学」の立場を徹底させた「徹底的批評主義」の立場だという自覚を伴っています。その立場とは「知識があるということから出立して考えられた認識主観が心理的でない、形而上学的ではないと云い得るのは心理的主観を超越して心理的認識作用の根拠となるが、而もそれは意識を超越した形而上学的存在ではないと云うことでなければならない」というものです。

C

「超越」という言葉が二度出て来ますが。
佐野
「心理的主観」は「超越」するが、「意識」を「超越」して形而上学的存在にならない、ということですね。「心理的主観」とは「対象認識」の方向に目が向いている在り方です。外を見ている。「意識」を超越して「自我」や「絶対者」を立てるやり方も、やはり外を見ている。どちらも対象化されたものを見ています。そうではなく、意識の内へと、あちら(彼方)ではなくこちら(此方)へと、手前・足下へと超越する、それを目指しています。じつは、西田は『善の研究』における「純粋経験」の哲学において、すでにこうした〈新しい形而上学〉を構想していた、というのが私の見立てです。次に参りましょう。Dさん、お願いします。

D

読む(299頁11~14行目)
佐野
今度は「意志自由の意識」(自由意志の意識)ですね。さっきのは「判断意識」つまり「知識がある」ということでしたが、今度は「意志意識」つまり「意志がある」ということです。それもさっきと同じように、経験的自己の意志意識ではない。一般に心理学において統覚と呼ばれるもの、思惟・意志・想像は意識(自覚)に上るとされます。例えば私がお茶を飲もうと意志すること、このことは意識されます。しかしその時意識されているのは、いわば意識された意志です。しかし意志そのものは決して対象化されない。この対象化されない意志そのものの意識がここで問題になっている「意志意識」です。もちろんそれは「この私の意志」というものではありません。

D

実践理性のようなものですか?
佐野
そうだと思います。「なすべし」と道徳法則として無条件=定言的に命じて来る意志のことです。カントはこの道徳法則の意識を根拠に意志の自由が認識できる(「汝なすべきであるが故になし能う」、たとえ死刑を免れるために偽証せざるを得ないにしても、道徳法則に従って偽証しないことが可能であることは分かる)として、自由意志の存在を要請しましたが、西田はここでも「意志自由の意識」が、「心理現象」ではないとしながらも、「意識」できるとして、一歩踏み込んだ主張になっています。そうして「自由の自覚なき意志は意志でない」と主張し、さきの「知識」の場合と同じように、「意志主観は心理的意志現象を超越し、後者は却って前者によって成立するものでなければならぬ」と言います。この「超越」も手前(此方)への超越、意志する意志の自己直観です。そうしてこうした「超越」が形而上学的実体への(彼方への)超越でないことを次に述べています。「しかも意志の自覚も何處までも意識に内在的でなければならぬ。神の意志は私の自覚的意志ではない」。

D

この「神」は形而上学的に実体化された神ですね。
佐野
そうですね。そのように文脈の中で読むことがとても重要だと思います。次に参りましょう。Eさん、お願いします。

E

読む(299頁14行目~300頁8行目)
佐野
ここでは「知識がある」ということが「知識の自知」(この場合は「意識一般」としての自己意識)を含んでいること、「意志」を対象とした「知識」の場合は、意志の自覚がなければならないこと、さらに「真(真理)」「誤謬」「意味」(さらには「善」「美」「聖」)といった価値を対象とする知識(これを問題にしたのが新カント派の所謂「文化の哲学」です)の場合でも「判断主観の自省」がなければならないこと、が述べられています。今日はここまでとしましょう。
(第80回)
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思惟と意志との関係

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「左右田博士に答う」「二」第2段落、295頁の1行目「cogito ergo sum のsumを存在と考へるならば」から296頁の第4段落終わり「更にその上に直覚といふものも認めなければならぬのである」まで講読しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「A[自覚の3段階]我々の意識の自覚的方向は、意識一般の立場に止まるものではない。その最も深い底は私の所謂真の無の場所たる直覚的自覚にあるのであるが、その中間に於て意志的自覚を見ることができる。意志的自覚は判断的自覚よりも深く、之を内に包んだものである」(295,8-10)、「B[好きなところ]我々が意志することを知るといふから、否直観するといふことをすら知ると考へねばならぬから、理論理性が最高であると云うならば、知識といふ語の意義の問題とならねばならぬ。さういふ場合の知るといふことは、意識一般によって対象を認識するといふこととは違ふのである」(296,3-5)の二カ所でした。そうして「考えたことないし問い」は「わたしが対象を認識することは常に対象を「わたし」の外に置くことだろうか。わたしがあればこその対象であるなら、対象こそがわたしを「わたし」たらしめているのではないか。対象認識なき自覚を区別する立場は「わたし」を喪失した危うい立場にほかならず、そこに居続けることは困難であるにちがいないと考えるがどうか」(149字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。今回はとくに「意識一般」についての創作的対話を加えておきました(ご登場願ったOさん、すみません)。
佐野
「わたし」の問題ですね。括弧のついているのとついていないのとありますが、どのような区別がありますか?

O

特にないようです。
佐野
ここで出て来ている「わたし」はすべて「経験的自我」(経験的統覚)ですね。「意識一般」としての「純粋自我」(超越論的統覚)はこれとは全く異なります。

O

その「意識一般」というのがピンときません。
佐野
ここで出て来ている対象は個々の具体的な対象が念頭に置かれています。このペンであったり、眼鏡であったり。そうした対象の在り方に応じて自分の在り方が、例えば読書会のコーディネーターとして規定されます。その意味で「対象こそがわたしをわたしたらしめている」といえます。経験的自我としての「わたし」は個々の対象同様「空間」の中に存在し、もっと言えば具体的な世界の中に一定の意味、役割をもって実在しています。そうしてそうした意味や役割をもった自我が、そのつど例えば佐野之人というような固有名で名指されることになります。対象も自我も意味や役割としては交換可能(眼鏡も此の眼鏡でなくてもいいし、読書会のコーディネーターは佐野之人でなくてもいい)ですが、そのつどの意味や役割としては交換不可能な個です。ここまで、どうですか?

O

大丈夫です。
佐野
そのつどの対象に応じてそのつどの自分の在り方が反省(内的に感覚)されることになりますが、このようにして意識(自己意識)されるのが「経験的自我」です。状況に没入している時はこんな意識はありませんが、その状況の外に出て、判断を行うことによって、こうした経験的自我がそのつど意識されることになります。ここまでは経験的自我(経験的統覚)の話です。この対象を個々の対象ではなく、対象一般、可能的な対象にいわば一般化する。経験も個々の具体的な経験ではなく、経験一般、可能的経験に一般化する。そうすると、経験的自我や統覚も、純粋自我や超越論的統覚としての、意識一般になります。この「意識一般」は佐野之人ではありません。それは誰の意識でもあって、誰の意識でもない、そうした意識ということになります。どうですか?

T

個々の意識を限りなく一般化するところに意識一般が成立する、ということですか?
佐野
いえ、意識一般は特殊な個々の意識の単なる一般化ではないと思います。そうかといって我々の個々の認識に先立って、そうした枠組みがなければならない、というような、単なる論理的な要請でもないと思います。その場合、そのような一般化を行う意識、あるいは論理的な要請を行う意識が問題となるからです。通常の判断、例えば「これはペンである」の場合、そのように判断しているものは誰か、と問われれば迷うことなく、それは「私だ」ということになり、その「私」とはその状況内での経験的自我が名指されることになります。この時にはペンも私も状況内に取り込まれて解釈されてしまっていますが、対象一般とか意識一般とかが問題になるのは、その一歩手前の所、つまりペンがペンとして、対象が対象として、立ち現れる所です(じつは判断はまずこうした仕方で立ち現れるのですが、我々は大抵ただちにこれを状況内で解釈してしまうのです。また解釈できなければ行動もできません)。これに対応した「意識一般」は未だ状況内で解釈される以前の「私」ということになります。「経験的自我」以前です。このような仕方で対象を対象として語るのが「意識一般」です。その語りは哲学の語りとなります。前回Hさんが関心を日常的な関心と学問的な関心に分けておられましたが、それは経験的自我と意識一般の区別にも関わると思います。

O

なるほど。それにしても「誰でもあって誰でもない意識」というのがピンときません。意識は「この私」の意識ではないのですか?

S

そうおっしゃいますが、私は意識一般から個別的な私が出て来るようには思えませんが。
佐野
Oさんにお伺いして見ましょう。「この私」って言っているのは誰ですか?

O

「この私」です。
佐野
しかしそのように「この私」って言っているのは誰か、と訊いているんです。こうなるともはや何とも言えなくなる。これは3月に開催された「饗宴」で伊田君が扱った問題です。池田晶子のテキストをもとして(伊田名央人「私とは何か―池田晶子から考える―」)。池田ははじめ「私」を「誰でもあって誰でもない意識」として捉えたけれども、それでは「他の誰でもない私」を言い表すことができないと考え、後には「魂」から私を捉えようとします。そんな発表でしたね。ですからOさんの今回のプロトコルは「私とは何か」という古くてつねに新しい問いを扱っていることになると思います。それはともかく、「これはペンである」という判断において、ペンをペンとして考察している(私は「これはペンである」と考える)場合には、この「考える(ich denke)」は「意識一般」です。その際「これはペンである」というのは図、「私は考える」は地になります。

O

その場合でも、図だけというのはありえないのでは?
佐野
西田はカントの意識一般を自覚の方向に捉えようとしますから、それだけで成立するように思われますが、カントはただ「〈われ思う(ich denke)〉は、我々のあらゆる表象に伴うことが出来なければならない」とだけ言います。西田の言うように意識一般を自覚の方向だけで考えると、Oさんの言うように、「「わたし」を喪失した危うい立場にほかならず、そこに居続けることは困難であるにちがいない」ということになりそうですが、西田に言わせればそのような経験的自我を喪失してこそ、「真の自己」を直観できる、ということだと思います。カントの意識一般については考え始めるとさらに分からない点も多いのですが、他にご意見はありますか?

W

Oさんの最初に出て来る「わたし」、つまり経験的自我は日常的になされている立場だと思いますが、そうした自己をさらに考える方向がまた自己(経験的自我)喪失の経験になっていて、それが常識的な(経験的自我の)立場と緊張関係を形成すると思います。この関係がどうなっているのかな、と。
佐野
人間が生きるとはどういうことか、という問いになりそうですね。プロトコルはこの位にして本日の講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(「三」冒頭~297頁7行目)
佐野
「知るという中にも、種々の立場の区別をしたい」とありますが、西田はどのような区別を考えていますか?

A

判断すること、意志すること、直観することだと思います。
佐野
そうですね。西田はこうした「知」の区別が「自覚」において可能になると考えているようです。まずは「対象的認識」(判断すること)から出発します。そうしてその「認識主観」が「意識一般」だとされます。そうして「意識一般の立場に於て構成することと、かかることを反省することとは別でなければならぬ」と言います。「かかること」とは?

A

「意識一般の立場に於て構成すること」では?
佐野
そうですね。そうしてさらに「反省する」に二種を区別していますね。何と何ですか?

A

「種々の知識について、単にその対象的形式を明にして行く」ことと「認識作用其者の内に反省して行く」ことです。

B

「種々の知識について、単にその対象的形式を明にして行く」ことと「対象的認識」は同じことですか?
佐野
そうではないでしょう。「対象的認識」とは「種々の知識」のことで、「その対象的形式を明らかにして行く」とは、具体的には対象を可能にする形式、例えば時空といった感性の形式や、カテゴリーという悟性の形式が念頭に置かれていると思います。「反省」の内に可能性の制約を明らかにするという批判哲学と、認識作用そのものの反省を区別しているようです。そうして「意識一般」は後者の意味において「自覚の純化したもの」だとされます。

S

この「純化」の意味が分かりません。
佐野
経験的統覚が含んでいる様々な経験的な内容を純化する、という意味だと思いますが、西田はさらにそれを直観までに純化して考えようとしていると思われます。そうしてこの認識主観其者(意識一般)と「対象的形式、即ち形式其者」とが区別される、そのように言います。

C

この区別がピンときません。
佐野
〈考えることそのもの〉、と考える際の〈考え方〉の区別です。

C

分かりました。
佐野
とりあえずそれでよい、ということにして、それではCさん、次をお願いします。

C

読む(297頁7~13行目)
佐野
「かかる区別は何處から起って来るのであるか」という問いが提出されていますね。さあ、この答えを西田はどのように考えているでしょうか?次を見て見ましょう。もちろん「主観」だ。ではその主観とはどのようなものか?それを「又論理的主観であるとするならば」と来ます。なんだか嫌な感じがしますね。そうなると、そこに「そういう論理的主観」と「肯定と否定」というような「論理の形式」が区別されることになる。そうしてその区別は何處から来るか、という問いがまたしても生じてしまう。きりがない。だから西田は「それは又論理的形式によって認識するとは云われまい」と述べます。ここまで、いかがですか?

C

大丈夫です。
佐野
それは「論理的認識の限界だ」と「云われるかも知れない」とありますが、誰が「云う」のでしょうか?

C

左右田博士、ですか?
佐野
そうでしょうね。西田想定の。左右田は「知ることを知る」ことはできない、と考えますから。しかし西田はそのように理論理性の限界を認めることは「一層高次的なる立場を認めることによって可能となる」、そのように言います。そうして「始から知るということと、知ることを知るということとの区別を明にしないため、かかる自家撞着を生ずるのである」とバッサリやります。要するに意識一般と形式(時空やカテゴリー)を区別するのは「知ることを知る」「自覚」の立場だ、と言いたいのです。もちろん左右田はこんな立場は認めないでしょう。それでは次をDさん、お願いします。

D

読む(297頁14行目~298頁8行目)

D

「意識一般というのは我々の主観を極限にまで推し進めたものでなければならぬ」というのがよく分かりません。
佐野
先程の「純化」と同じで、経験的なものを一掃したということでしょう。もはやだれでもなく誰でもあるような、そうした主観まで純化した、そういう意味だと思います。次に「全然心理的主観の意義を没却したものでなければならない」も同義で、「心理的主観」とは「経験的自我」、つまり対象化された個々の自我のことだと思われます。そうした「心理的主観の意義を没却したもの」(意識一般)は当然のごとく(「無論」)対象的・実体的に「存在するものではない」。これは形而上学的な実体としての自我ではない、ということを念頭に置いているのだと思います。

D

分かりました。
佐野
とりあえずそれで分かったとして、次を読んで見ましょう。「併し主観の性質的差別は極限に至っても消え失せるとは云われない」とあります。「主観の性質的差別」は次に「然らざれば論理的規範意識と倫理的規範意識と区別することもできない」とありますから、例えば理論理性と実践理性、あるいは思惟と意志の差別のことでしょう。「意識一般」を広く取ってこれを極限にまで推し進めても、思惟と意志の差別はなくならない、区別はできるということです。ここまで、どうでしょうか?

D

大丈夫です。
佐野
次を読みます。「元来両者共に我々の自覚の意識から出立したものと考えるの外ないが」とありますが、「両者」とは?

D

「論理的規範意識と倫理的規範意識」です。
佐野
そうですね。思惟と意志と言い換えてもいいと思います。それらが「共に我々の自覚の意識から出立した」とは、思惟について言えば、「私は考える」ということが判断に伴って意識されるという事実、意志について言えば、「私は意志する」ということが意志に伴って意識されるという事実から、思惟も意志も出発しているということだと思います。そのように考えるほかないけれども、「その極限に至って各自別個の主観となるのであるか」というように、西田は読者に問いかけますが、まず「その極限」の「その」とは何を指しますか?

D

・・・・・
佐野
「我々の自覚の意識」ではないでしょうか。そこから出立してそこへと至る「極限」。その極限において思惟と意志は「各自別個の主観となるか」と問うているわけです。

N

それは純粋理論理性と純粋実践理性と考えてもよろしいでしょうか?
佐野
よいのではないでしょうか。それにしてもこの問いはどのように受け取ればよいでしょうか?別個の主観となるのであれば、それを区別する主観が必要になるように思われますね。続いて「主観を何處まで推し進めて行っても、主観とか意識とかいう意義を脱することはできない。苟も主観とか意識とかいう意義を脱する能わざるかぎり、主観と主観との関係が極限に至るの故を以て変ずると考え得るであろうか」とあります。「主観と主観の関係」というように主観が二つ出て来ますが、これは?

D

思惟と意志、ですか?
佐野
そうでしょうね。思惟と意志との関係が変じてどちらかが他方を包む、従属する形になるのか、ということでしょう。そこで思惟が意志を包む場合を考えて見る。おそらくこれは左右田の立場でしょう。しかし西田はそれに対して、「対象認識の論理的主観を何處まで推し進めても、意志主観がその下に入って来るとは考えられない」、あるいは同じことですが「判断主観の下に意志主観が従属する様になるとは考えられない」と、思惟が意志を包んで、これを従属させる、ということはない、と主張します。そうして意志主観が思惟主観(論理的主観)を包むかどうかの議論はさしあたり措いておき、「意志主観及びその対象界をも包むと考えられるものは、実は判断主観という如きものではなくして、主観其者即ち自覚という如きものではなかろうか」と述べます。「主観其者」が「意志主観」を包む、ということです。判断主観はどうなるのか?300頁の注を見ると「意志は単に働くものでない、働くことを知るものである。自己は単に存在するものでない、存在することを知るものである、認識主観の外にあるのではないが、認識主観が之に於てあるのである」とあります。この「認識主観」は「判断主観」とおそらく同義でしょうから、「自己」即ち「主観其者」が「判断主観」を包むと考えてよいでしょう。こうして「自己」ないし「主観其者」が「自覚」において、思惟と意志を包み、かつ両者を区別している、こう西田は言いたいのだと思います。今日はここまでにしましょう。
(第79回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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