矛盾を含む同一なるもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「二」の第4段落335頁2行目「一つの系列に従って類を特殊化して行く時」から336頁2行目「転換し得ると考えることができる」までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「唯一なるものが限定せられると考える時、その根柢となる一般者の意味が変わって来なければならぬ」(335頁13行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は二つあって、「問いA」が、「あてはまる述語的一般性が見あたらない個物は自己自身にのみ同一で主語と述語(特殊と一般)が転換可能であることから、これが「変ずる」ときには一般者の意味が変わる(具体的一般者)ことが述べられているが、「特殊と一般」と「主語と述語」が不可分離的(330頁4行目)であるとは、この個物が変ずることによるものか」(150字)で、「問いB」が「種を成すことを拒む個物は具体的一般者に於いてあるよりほかないとされるが、何とも同一でない個物であってもなお「それ以外のもの」に於てあり、むしろ「拒む」のではなくそれ以外のすべてに同一であると言えないか。「AはAであると同時にAでない」という転換ではなく「AはAであると同時に全体でもある」ということになる」(152字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。今回はあとから気づいた部分がありましたので、特に都合によって創作した部分を含んでいます。
佐野
「一般者の意味が変わる」とはキーセンテンスの語句ですね。これは直接には「変ずる」場合のことを言っているのではなくて、「唯一なるものが限定せられると考える時」の話で、個物の限定の場合のことを言っていますね。特殊が一般においてある、という通常の包摂判断における一般者ではない、個物がそこにおいてある場所、つまり超越的述語面とか、絶対無とかいわれる一般者への意味の転換です。

S

その個物の捉え方がもう一つはっきりしないのです。

R

その個物と「変ずる」とはどう関わるのですか?

S

はじめはまず固定的な個物がまずあって、それが変化する、というように考えていたのですが、アレっていうことになって‥‥。まず「特殊と一般」と「主語と述語」が「不可分離的」であるとされながら、「単に之を同一視することはできない」とあるのがよく分かりません。
佐野
330頁4行目ですね。押さえておきましょう。まずは「特殊と一般」の話です。「一般概念を何處まで特殊化して行っても、一般性を脱却することはできない」。これは言葉の世界ですね。言葉はどこまでも一般しか言い表せないからです。ところが西田はこれにアリストテレスの、個物とは主語となって述語とならないものである(『カテゴリアイ』におけるアリストテレス自身の言い方とは異なりますが)、という思想を重ねます。そうしてこの「主語となって述語とならないと云う」ことを附加することによって、「最後の種は個物となるのである」と考えます。一般(類)と特殊(種)という従来の論理学の分類に、アリストテレスの個物概念を重ね、それによって「個物」を把握可能としたところに西田の独創性があるわけですが、当然そこには批判もありえます。西田の場合個物は直観によって捉えることができる、ということになりますが、言葉を介して認識する外ない人間にそのような直観は許されていない、という立場が当然出て来ます。カントはそうした立場に立つと思います。テキストでは包摂判断を念頭に置きつつ、「特殊と一般」が「主語と述語」と「不可分離的」であることを一方で認めながら、他方では「特殊と一般」では到達できない個というものに「主語と述語」が到達できる、という点に単に両者を同一視できない側面を認めます。

R

そのような個物について「主語と述語(特殊と一般)が転換可能」とありますが、これをどのようにお考えですか?

S

個物については「このものはこのものだ」としか言いようがない。そうだとすれば主語と述語は転換可能だ、という意味です。

Y

「あてはまる述語的一般性が見あたらない個物」とありますが、「個物までも含むものはもはや抽象的一般として考えることのできないものであるが、而も尚判断を内に含むという意味に於て述語的一般性を失うたものではない」(333頁1~2行目)とあります。

S

「あてはまる述語的一般性」とは「抽象的一般」としての一般性です。

R

「個物までも含む」、また「判断を内に含む」「述語的一般性」については、「反対を内に包んだものでなければならぬ」(同4行目)とか、「主語的なるものの否定を含むものでなければならぬ」(同7行目)とあります。そうなると「主語と述語(特殊と一般)が転換可能」というのをどう考えていいかますます分かりません。

T

うちで飼っていた白猫(「しろ」)が行方不明になって、数日したら同じような猫が舞い戻ってきた。これを「しろ」と呼んでいいかの問題にも通じると思います。理由を挙げようとすると、結局どこまでも「しろ」であるかどうかは分からないことになるけれども、我々は「直観」で「これは「しろ」だ」と判断している、ということを西田は言いたいのではないでしょうか?
佐野
その場合、時間経過を通じた、個物(物)としての同一性が問題になっていますね。西田がここで問題にしているのは、そうした物的な実体を、それは結局質料ということになりますが、そうした「中間」のものを解消することだと思います。

T

その場合でも、「しろ」を「しろ」と呼ぶことのできる本質のようなものが直観されている、と考えればよいと思います。この本質は時間を越えたものです。
佐野
なるほど。分かりました。しかしテキストでは「個色」が論じられていますから、ここでは分かりやすさのために彼岸花の「この赤」を例にとって考えてみましょう。主語と述語が転換可能だというのは、個物が自己自身に同一で、「この赤はこの赤だ」としか言いようがないからです。しかしこれを文字通り取れば同語反復で、何も言っていません。しかし「この赤はこの赤だ」という言葉が個物(個色)との出会いの言葉だとすれば、そこはどうなっているのか、西田はそれを考えようとしているのだと思います。

S

判断は大抵これまでの経験に基づいてなされますから、そうした個物との出会いはきわめてまれな出来事だと思います。
佐野
その意味では、「この赤」との出会いは判断やこれまでの経験を破って、絶句し、「この赤はこの赤だ」と無意味な言葉を叫ぶほかない経験だと言えると思います。この経験が概念的知識になってそれについて哲学することができるためには、そこに述語的一般者がなければならない、と西田は考えるのだと思います。そうするとこの問題はSさんの「問いB」に関わってくることになります。「この赤はこの赤だ」と言った時に、「この赤」が同時に他のすべての存在の否定の中で立ち上がってきているということです。否定即肯定と言ってもいいし、これを一即一切、一切即一と言ってもいい。こういう体験として、主語と述語は転換可能となり、判断以前の所でいわば主語と述語がピタッと一つになっていると言えると思います。まさに純粋経験ですね。「個色」を述べた箇所に面白いことが書かれています。334頁7~8行目をSさん、読んでみて下さい。

S

「個色とは如何なるものであるか。それは他の何の色とも異なったものでなければならぬ、此意味に於て他の色との関係が含まれて居ると云うことができる」とあります。
佐野
ありがとうございます。個が個であればあるほど、全体との関係を含むことになります。だから一面で個はどこまでも語り尽くすことができない一方で、他方でそれについて語られるものとして、その個は直観されていなければならない、ということになります。もう一言だけ付け加えれば、我々は「個(色)」というものを固定したものとして捉え、変化はこれとは別の事柄であるというようにイメージしやすいですが、「個(色)」が「個(色)」として立ち現れるのは、徹底した流転(変化)の中でのみです。

N

ここには日本文化の特質が現れていると思います。「ものづくり」において「もの」となって考え行動する、といった…。多くの人が判断以前に、直観でものをバチっと認識している、という根本思想がありますね。

T

なんか安心しますね。判断の領域ではどこまでも確かなことは言えませんから。
佐野
西田の思想はオメデタイと。

N

ええ。極めて楽観的です。

T

救いだと思います。
佐野
プロトコルはこのくらいにして、講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(336頁2~6行目)
佐野
ここも「主語と述語との転換に特殊と一般との転換の意味が含まれて来なければならない」ことが述べられていますね。次を読んで見ましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(336頁6~11行目)
佐野
ここも「同一なるもの」つまり「個物」を考えることができるためには、「述語」がなければならないけれども、それは「単なる包摂判断の述語とはその性質を異にするものでなければならぬ」ことが述べられています。そうして「包摂的関係に於ける述語的なるものが主語となるのである、特殊が一般となるのである」と転換について述べられています。次を読んで見ましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(336頁11~15行目)
佐野
ちょっと読むと矛盾したことが書かれていますね。「甲が甲である」という「同一判断」によって「同一なるもの」(個物)が限定せられる時、「その主語と述語とは判断の主語と述語との関係に於ては異なったものでなければならぬ」とまずは言われます。前の「甲」と後の「甲」が異なるということです。しかしすぐに続けて「而も此判断によって言い表されるものが一なるが故に、主語と述語とを転換することができる、この判断の主語となるものに於て主語と述語と同等となる」とあります。今度は前の「甲」と後の「甲」が同じだ、と言っています。これをどう考えるか。

K

即非の論理のようなものを考えていると思います。
佐野
なるほど。面白くなってきましたね。それではDさん、次をお願いします。

D

読む(336頁15行目~337頁6行目)
佐野
「概念の外延」という言葉が出て来ましたね。それを考える時、「既にかかる意味が含まれて居る」とありますが、「かかる意味」とは?

D

前文の「主語的なるものが却って一般的として述語的なるものを包む」という意味だと思います。
佐野
そうですね。これを「概念の外延」と結びつけて説明してみてください。

D

「動物は生物である」という通常の包摂判断の主語と述語を転換して、「生物は動物である、植物である」というように、外延を並べる仕方で考えることではないでしょうか。
佐野
よく分かりました。さてテキストには「最後の種が矛盾的種差によって更に自己自身を限定しようとする時、それが単に限定し得ざるものとして概念の外に出ていかない限り」とありますね。個物を哲学することができる限り、ということですね。その場合は、最後の種は「自己自身の内に矛盾を含む同一なるものとならねばならぬ」とされます。「この赤」が同時に「この赤でない」という矛盾を含んだ、「この赤」でなければならない、ということですから、まさに即非の論理ですね。そうして「最後の種が自己同一なる個物となるには、一般的述語性を否定することによって自己自身を肯定するのである、肯定即否定となるのである」とあります。ここでは個が一般との関係において述べられていますね。一般性の否定とは言語の否定ということになります。ここでは他の個物の否定は述べられてはいませんが、個物の肯定には、当然一般者の否定と同時に、他のすべての個物の否定が含まれます。最後に「〔個物は〕包摂的関係から云えば最後の種を尚一歩特殊化の方向に進めたものであるが、矛盾的統一としては種差を含むものとなる」とあるのは、「この赤」が「この赤ならざるもの」を含むということです。ここも即非の論理です。そうして「是に於て抽象的一般から具体的一般に転ずるのである」とされます。今日はここまでとしましょう。
(第105回)
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中間のもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「二」の第4段落333頁3行目「判断的関係を内に含むと考えられる」から335頁1行目「ければならぬ」までを読了しました。今回のプロトコルもYさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「最後の種に於て或一つの種差を有つか有たないかと云ふことは、述語的方向に於ては直に矛盾的対立を意味するのである、その「中間のもの」といふは主語的方向に於て考へられるのである」(334頁4~6行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「個物は質料と形相によって現成され、「若し主語となって述語とならないといふ主語的方向に於て全然述語を超越したものならば、それが変ずるとは云われない。」(331,3-4)― 個物が変ずるとは、その述語性の否定を否定することです。ところで、「中間のもの」を形相と対立する質料とするならば、可能態から現実態への移行(運動)が考えられます。ならば、なぜ「中間のもの」は「変ずる」ものとはならないのでしょうか」(193字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
「個物が変ずるとは、その述語性の否定を否定することです」とありますが、「述語性の否定」とは個物が「主語方向に於て全然述語を超越すること」という意味で、こうした個物は「変ずる」とは言われないので、それを否定することで、個物は変ずるものとなる、という意味でよいですか?

Y

はい。
佐野
「質料」とは素材のことで、例えばヘルメス像が大理石からできていれば、大理石が質料です。大理石はヘルメス像にもなれば、アテナ像にもなる。そうした意味で「中間のもの」です。これが「変ずる」とはどういうことですか?

Y

可能態から現実態に移行することです。
佐野
それは質料と形相とからなる実体としての個物が「変ずる」のであって、質料が変じているのではないのでは?先程の例で言えば、ヘルメス像は可能態から現実態に移行しても、大理石からできていることに変わりはありません。

Y

分かりました。
佐野
さらに考えるといろいろ難しいと思いますが、プロトコルはこのくらいにして、講読に移りましょう。それではAさん、お願いします。

A

読む(335頁1~8行目)
佐野
少しずつ行きましょう。「一つの系列に従って類を特殊化していく時、最後の種に至るまで、すべて相反する種差を含んだものである」とあります。例えば〈感覚的性質〉という類は〈色〉と〈色でないもの〉という「相反する種差」を含んでいますが、このうち〈色〉を取ればそこに特殊化が成立します。ついで〈色〉という種は〈赤〉と〈赤ならざる色〉という「相反する種差」を含み、このうち〈赤〉を取ればそこに特殊化が成立する。そうしてこの〈赤〉が「最後の種」になります。この〈赤〉は〈この赤〉と〈この赤ならざる赤〉という「相反する種差」を含みますが、そのうち〈この赤〉を取れば、それが「唯一のもの」(個色)となります。それは「それ以前のものが種に於てあると云う意味に於てあるのではない」とされます。〈赤〉という最後の種において〈この赤〉と〈この赤ならざる赤〉とが含まれていましたが、「唯一のもの」はこの「最後の種」における可能性としての〈この赤〉ではない、ということです。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
次いで「相反するものはひとつの種を成すことを拒むものである」とありますが、〈この赤〉と〈この赤ならざる赤〉は「最後の種」である〈赤〉を成していますから、この文は「種」の領域の話をしているのではないことになります。「個」の領域の話だということになります。〈この赤〉と〈この赤ならざる赤〉が同時に成り立つことを拒む、という意味でしょう。そこに〈時〉の考えを入れて変化を考えなければ成り立たないことでしょう。さらに続けて「二つの相矛盾するものの間には之を統一する類概念はないと考えられる」とあります。

A

「相反する」と「相矛盾する」とは同じことですか?
佐野
文脈で考えなければなりませんが、これまで西田は「相異」、「相反」、「矛盾」を分けて論じています(「働くもの」191,9-193,9)。「相異」とは、例えば音と色。これについては「一つの物」が両方持つことができるし、両者は「感覚的性質」という「一つの類概念」に属する、とされます。「相反」とは、例えば赤と赤でない色。これについては「時の考を入れない以上、一つの物に結合することはできない」が、「相反すれば反する程、明に一つの類概念に統一せられねばならぬ」とされます。赤い物は変化によって赤でなくなりますし、赤と赤でない色はともに色という類概念に統一されます。これに対し「相矛盾する二つの概念に至っては、之を統一するに所謂類概念を以てすることもできない、又、その背後に物という如きものを考えることもできない」とされます。そうして「矛盾概念を統一するものは、生物の死することが生まれることである如く、否定することが肯定することであるものでなければならぬ、概念の生滅する場所の如きものでなければならぬ、無にして有を成立せしめるものでなければならぬ」(以上、191,10-192,5)とされます。これを読むと、「矛盾」とは、生即死、否定即肯定、無即有、といった「概念の生滅」のことであり、それを統一するのは「類概念」でも「物」でもなく、「場所」だ、ということになりそうです。

A

よく分かりました。
佐野
もう少し続きがあります。西田は特殊と一般の矛盾を考え、この矛盾の統一が「数理」の対象界、「経験」界、「矛盾的限定によって構成せられたる対象界」でどうなっているかを論じます。数の対象界には「矛盾律」が成立しているけれども、その根柢に類概念があり、そこに矛盾の統一が見られる、とします。特殊と特殊の間には矛盾律が成り立つ(5≠~5(5でないもの))けれども、特殊と一般の間に矛盾の統一が見られる(5は数である。特殊=一般)ということだと思います。「経験的一般概念」の場合は、「一般と特殊との間に間隙がある」とされ、この間隙を充填するために「基体」が考えられる、とされます。〈赤〉が〈この赤〉になるためには「基体」が必要だ、ということです。「経験」界の場合は、特殊と一般の矛盾を統一するのは「基体」だということになります。最後に「矛盾的限定によって構成せられたる対象界」の場合は、一般即特殊で、「その間に基体の如きものを容れる余地はない」、とされます。「一般的なるものは特殊なるものを成立せしめる場所」で、この「矛盾的統一の対象界に於て始めて全体と部分との関係を見、更に進んで個物的なるものを見ることができる。モナドの世界に於ての如く、各自唯一の個体となることによって、全体の統一が成り立つ、たんに一般的なるものは予定調和の役目を演ずるに過ぎない」とされます。これを読むと、「矛盾的統一の対象界」とは直観の世界であり、個物の世界であることが分かります。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。よく整理ができました。「数理」の対象界の場合は、類概念自体が〈特殊=一般〉という矛盾の統一が成立する場所で、「経験」界の場合は、基体が矛盾統一の場所、直観ないし個物の世界の場合には個物を成立させる一般者が矛盾統一の場所になる、という理解でいいでしょうか?この一般者は述語面に成立すると考えてよいですか?
佐野
ええ。そういうことになるとも思います。それでは講読箇所に戻りましょう。どこまで行きましたっけ?

A

「二つの相矛盾するものの間には之を統一する類概念はない」までです。
佐野
ありがとうございます。「二つの相矛盾するもの」の例として、さきほどは生死、肯定と否定、それから有と無が挙がっていましたが、それを個物の世界で考えなければならない、ということになりそうです。この世界では一般即特殊(個)という形で一般と特殊の間に矛盾が成立するのみならず、それを通じて〈このA〉と〈このAならざるもの〉とが、つまり特殊と特殊とが、矛盾的に統一されていると考えられますが、ここでも「二つの相矛盾するもの」ということで念頭に置かれているのは、特殊と特殊の矛盾です。それを「統一する類概念がない」とは、それらを一般(類)概念によって統一することはできない、そんなことをすれば矛盾概念が矛盾概念でなくなってしまうということです。例えば〈この赤〉と〈この赤ならざる赤〉は〈赤〉一般という類概念によって統一できるように考えられますが、そういう類ないし種の領域における統一が問題になっているのではない、ということです。あくまで個の領域における統一が問題だ、ということでしょう。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
「併し」と来て、「我々が最も厳密に類概念を分けるには矛盾するものに分けて行くのである」と、今度は類、つまり一般の領域の話になります。そこでも実は矛盾するものに分けているのだ、というのです。例えば〈色〉を〈赤〉と〈赤ならざる色〉とに分ける場合、じつは〈色〉そのものが一般と特殊、特殊と特殊の間にすでに矛盾を含んでおり、この矛盾に即して「分ける」ということ、つまり特殊化が行われる、ということだと考えられます。そうして「最後の種」に至る。「最後の種に於て尚之を相矛盾する種差によって唯一のものが限定せられる時、最後の種は相矛盾するものに分たれると考えねばならぬ」とされます。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
ここでまた「中間のもの」、つまり「質料」が出て来ます。「中間のものはなくならねばならぬ。中間のものがなくなると云うことは質料がなくなると云うことを意味する、即ち質料としての類概念の意味はなくなるのである」と、こう言われます。

A

質料は類概念ですか?
佐野
普通そうは言いませんが、相矛盾(相反、相異も根本的には相矛盾を含むというのが西田の考えです)する特殊と特殊を統一的に考えるために、いわゆる一般概念の他に物ないし質料が考えられるからだと思います。

A

質料としての類概念がなくなる、ということは〈個物の世界〉と言っても、その個物は質料を含まない、ということですか?
佐野
そうなりますね。物的な実体の解消です。次へ参りましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(335頁8~11行目)
佐野
「こういう意味に於て」とはどういう意味ですか?

B

「質料としての類概念の意味はなくなる」という意味だと思います。
佐野
そうでしょうね。そういう意味において「個物は特殊と一般との関係の外に出て而も判断的関係によって限定せられると云うことができる、質料なき純粋形相概念に於て限定せられ得る特殊でなければならぬ」とされます。個物は質料なき純粋形相概念になってしまいました。まさに物的実体の解消ですね。

B

はい。
佐野
次いで「矛盾概念を包む類概念はないと考えられるかも知らぬが、両者を統一するものがなければ両者を矛盾として分つことはできない」と述べられます。「矛盾概念を包む類概念はないと考えられる」については先程考察しました。矛盾概念を上位概念によって統一してしまうと矛盾概念ではなくなってしまう、ということでした。ここではその主張を否定するのではなく、矛盾概念を矛盾概念のまま統一することが問題になっています。「両者を統一するものがなければ両者を矛盾として分つことはできない」と述べられます。我々が〈色〉を〈赤〉と〈赤ならざるもの〉とに分けることができるのは、〈色〉においてすでに矛盾が統一されているからだ、ということになります。さらに言えば、我々が矛盾を意識できるのは、すでに矛盾的統一を知っているからだ、ということになると思います。ここまでいかがですか?

B

大丈夫です。
佐野
それでは次に参りましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(335頁11行目~336頁2行目)
佐野
「両者の背後に限定せられた類概念が考え得らるれば得らるる程、矛盾的統一は明になるのである」とありますね。この「背後」とは上位概念という意味ではありませんね。「数学」が「好適例」だとされています。どなたか説明してください。

Y

リーマン空間とユークリッド空間の背後の「空間」そのものはどうですか?
佐野
なるほど。三角形と円の背後の平面、5と~5(5ならざるもの)の背後の数、も行けそうですね。これらの例における空間、平面、数が「類概念」になります。そこにおける「矛盾的統一」とはまずは、特殊と一般の統一です。5がそのまま数とされている。これは一即一切、一切即一と言ってもいいと思いますが、そのうえで、5と~5とが矛盾的に統一されているということですね。通常は5と~5は矛盾律によって分かたれていると考えますが、そのように分かたれるのは、そもそも矛盾的に統一されているからだ、そのように西田は考えます。文章が切り詰められているので分かりづらいですが、「働くもの」における叙述などを参考にすればそういうことになると思います。ここまでは?

C

大丈夫です。
佐野
次いで「之に反し個色という如きものは実際に於ては限定することはできない」とありますね。これは先程の話で言えば「経験」界の話です。どこまでも個に到達できない、ということです。しかしこれを超えて直観の世界・個の世界に入る。そうなると「唯一なるものが限定せられると考える時、その根柢となる一般者の意味が変わって来なければならぬ」とありますが、どう変わるのですか。

C

具体的一般者になる、ということではないでしょうか。
佐野
そうでしょうね。抽象的に一般と特殊を分けて考えて来た者にとってはそうした意味の転換が起りますね。しかし個の世界だけでなく、じつは一般の世界もこうした矛盾の統一によって貫かれているというのが西田の考えのようです。次いで「唯一なるものは自己自身に同一なるものでなければならぬ」、〈この赤はこの赤である〉、ということですね。しかし「自己自身に同一なるものは主語と述語と転換し得るものでなければならぬ」とされます。これはたんに〈この赤はこの赤である〉の主語と述語を転換できるという意味ではなさそうです。次に「一般なるものを特殊化して行って、その尖端に於て一般と特殊とが転換し得ると考えることができる」とあります。〈赤〉を〈この赤〉にまで特殊化する時、同時に〈〈この赤ならざる赤〉でない〉として、〈この赤〉は〈この赤ならざる赤〉を含みます。そういう仕方で、主語的なもの(〈この赤〉)は述語的なるもの〈赤〉一般を、個の領域で包むことになります。まさに一即一切、一切即一ということですね。今日はここまでとしましょう。
(第104回)
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変ずるもの―特殊化の原理

前回は番外編(Exkurs)としてカントのプロレゴメナ第46節を講読しました。プロトコルはありません。それではさっそく今回の講読箇所に入りましょう。
佐野
それではAさんお願いします。

A

読む(333頁3行目~12行目)

A

「判断的関係を内に含むと考えられる一般的なるもの」とは「具体的一般者」のことですか?
佐野
そうだと思います。特殊化の原理を含む一般者ですから。そうした「一般者が最後の種を越える」とありますね。たとえば〈赤は色である〉という判断において、〈色〉に〈赤〉と〈赤ならざるもの〉という種差がありえますが、このうち〈赤〉を取れば〈色〉は〈赤〉となり、〈赤は色である〉が成り立ちます。ここでもう一歩進むと、「最後の種」として〈赤〉を考えることになります。この先は「種」ではなく「個」の世界だからです。それを超えて見ましょう。〈この赤は赤である〉という判断において、〈赤〉に〈この赤〉と〈この赤ならざるもの〉という種差が含まれていますが、このうち〈この赤〉を取れば、〈赤〉は〈この赤〉となり、〈この赤は赤である〉という判断が成り立ちます。この判断はすでに「個」の領域で成り立っています。その場合、〈この赤〉が主語で、〈赤〉が述語です。この〈赤〉は先程の「最後の種」とは異なります。「最後の種」はなお一般の領域だからです。〈個〉の領域における述語としての〈赤〉が今問題になっています。テキストでは「最後の種を越えて尚述語的一般性を維持する」と表現されています。この「述語的一般性」は〈個〉の領域で成り立つものです。そうしたものは「反対を内に包んだもの」だとされます。「反対」とは、先の例で言えばどういうことになりますか?

A

〈この赤〉と〈この赤ならざるもの〉です。
佐野
そうですね。この〈個〉の領域における「述語的一般性」は〈この赤にしてこの赤でない〉という矛盾を含んだものです。続いて「最後の種に於て既に反対(唯一の個物的種差を有つものと然らざるものと)を内に包むと考え得るが」とありますが、これは繰り返しですね。「種」の領域の話です。〈赤〉という種が可能性として〈この赤〉と〈この赤ならざる〉という反対を含むということです。ここから「更に特殊化の方向を進めて」行きます。〈個〉の領域に入ります。「主語となって述語とならないと云う意味に於て限定せられたもの」、つまり〈個物〉ですね。「所謂一般概念を越えたもの」と言い換えられています。こうした〈個物〉を包む「述語的なるもの」、出ましたね。〈個〉の領域における「述語的一般性」です。それは「主語的なるものの否定を含むものでなければならぬ」とされます。「述語」ですから「主語」ではない。その意味で「主語的なるものの否定を含むものでなければならない」と言われていると思われますが、この「主語的なるものの否定」には、後で出て来る「質料」がなくなる、ということに関わっているようです。端的に言えば主語として立てられた〈物的実体〉の解消です。すべてを形相として見ると言ってもいいです。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
「最後の種に於て相反する種差が含まれると考えられるが、之を超越したものに於ては(それが超越的述語に於てあると考えられるかぎり)」と、また同じことが繰り返し述べられています。「超越的述語」とは〈個〉の領域における「述語」ですね。そうした「述語」には「相反する判断的対象が含まれる」とされます。この「相反する判断的対象」とは?

A

〈この赤〉と〈この赤ならざるもの〉です。
佐野
そうですね。それでは次をBさん、お願いします。

B

読む(333頁9行目~12行目)
佐野
ギリシャ哲学が出て来ましたね。アリストテレスが念頭に置かれています。すべてのものが形相と質料から成る。「質料」は素材です。ヘルメス像で言えば、その形が「形相」で、その素材となる、例えば大理石が質料です。「中間的なるものは質料に属する」とありますね。大理石はヘルメス像にもなれば、別の像(たとえばアテナ像)にもなり得る、どちらでもありえる「中間的なもの」です。これに対し「形相」の方は、ヘルメス像であるか、ヘルメス像でないかのどちらかですから、「常に対立をなす」ものです。「単なる質料」は「これこれ」と言えないものですから、その意味で「無」です。ここまではいかがですか?

B

大丈夫です。
佐野
「形相は質料に先立ち之を内に含むと考えるならば」とありますね。これはすべてを「形相」から見る場合のことです。物の見方に二種類あって、質料から見て行く場合と、形相から見て行く場合があります。質料から見て行く場合には、すべては可能態(質料)から現実態(形相)への「運動(キーネーシス)」となりますが、形相から見て行く場合はつねに「現実活動態」(エネルゲイア)となります。後の方の見方が「観想的生」につながります。ここでは後の方の見方がとられています。こうした「形相」における「最後の種」となるものは〈このヘルメス像〉か〈このヘルメス像でない〉かのいずれかですから、「反対を含むもの」です。次をCさん、お願いします。

C

読む(333頁12行目~334頁1行目)
佐野
「主語となって述語とならないと考えられるもの」、「個物」ですね。「それが判断的知識に属するかぎり、述語的なるものに於てあると考えなければならぬ」、同じことの繰り返しですね。この「述語的なるもの」は〈個〉の領域におけるものです。こうした「述語的一般者に於てあるもの」は、もちろん個物ですが、それが「肯定的であると共に否定的でなければならぬ」とされ、それが「変ずるもの」だとされるところは少しわかりにくいですね。

C

たしかに。どうして個物が「変ずるもの」になるのですか?
佐野
個物は捉えられず、常に変じている、ということでしょうね。

C

描かれた絵の色は変わらないと思いますが。
佐野
光の具合によって変わるでしょうし、こちらの状態によっても変わるでしょう。どうやら西田は、ヘーゲルが『精神の現象学』でやったように、個物は捉えられない、と考えているようです。ただヘーゲルが捉えられるのは普遍だけだ、とするのに対し、西田は「変ずるもの」のみ捉えられる、と考えているようです。そうして「変ずるものの根柢にある変ぜざるものとは此の如き一般者でなければならぬ」と言います。「此の如き」とは〈個〉の領域で「相反する種差を含む」ような「述語的一般者」ということでしょう。次をⅮさん、お願いします。

D

読む(334頁1行目~6行目)
佐野
色の例で説明していますね。「個色」というのが出て来ますが、西田は後で「個色という如きものは実際に於ては限定することができない」(335,13)と述べているように、実際には「変ずるもの」としてしかとらえることはできない、と考えているようです。さて「色の性質を分けて行って限定せられた唯一の色というものが種々なる色の系列に於て定まるには、最後の種差というものが加わると考えねばならぬ」とありますね。「最後の種差」とは〈赤〉の場合何ですか?

D

〈この赤〉と〈この赤ならざるもの〉です。
佐野
そうですね。次にはこう書いてありますね。「種々なる系列によって分けられた後、最後の系列に於て或一つの性質を有つか有たないかと云うことによって個色が限定せられるのである」。「或一つの性質」が〈この赤〉です。そうしてその後大事なことが書かれてありますね。「最後の種に於て或一つの種差を有つか有たないかと云うことは、述語的方向に於ては直に矛盾的対立を意味するのである、その「中間のもの」というは主語的方向に於て考えられるのである」。「中間のもの」とは以前出て来た「中間的なるもの」つまり「質料」のことです。つまり〈物的実体〉としての「個物」のことです。西田はこういう意味での個物を解消しようとしているようです。次をEさん、お願いします。

E

読む(334頁6行目~335頁1頁)
佐野
「個色」とは何かが述べられていますね。①「他の何の色とも異なったもの」(したがって他の色との関係が含まれて居る)、②「種々なる系列の関係に於て秩序的に限定せられた最終のもの」、③「その色を有つ或物と考えることもできない」、すなわち「色の一種でなければならない」、④「述語的一般性を超越したものでなければならぬ」、以上の四点が述べられています。最後の「述語的一般者」は、難しいですが、〈個〉の領域における「述語的一般者」と考えておきます(後に「甲は甲であるという同一判断によって同一なるものが限定せられる時、その主語と述語とは判断の主語と述語との関係に於ては異なったものでなければならぬ」(336,11-13)とあります。この「異なった」というところがここでは「超越」と語られていると考えられます)。そうしてこの「個色」について「唯自己自身の述語となる」とされています。これは<この赤>ではどのようなことですか?

E

<この赤〉は<この赤〉である、ということです。
佐野
そうですね。それに続く文の中に出て来る「自己自身に同一なるもの」も同じ意味ですね。

E

この「同一」は「絶対矛盾的自己同一」の「同一」ですか?
佐野
さしあたり、ここを読むだけならそこまで考えなくても、同語反復のことを言っているということで十分ですが、「自己自身に同一なるもの」(この赤はこの赤である)は、そうしたものがそこに於てある「述語的一般者」(〈この赤〉にして〈この赤ならざるもの〉)を必要とし、じつはこうした述語との同一が言われているのだと思われます。先程引用した後の文では、「〔(主語と述語が)異なったものでなければならぬ、〕而も此判断によって言い表されるものが一なるが故に、主語と述語を転換することができる」(336,13-14)と言われています。そうなると「絶対矛盾的自己同一」ということになりそうです。〈山は山である〉は〈山は山でない〉をくぐって言われている。絶対的矛盾をくぐって〈山は是山〉と言われています。しかしそのことは同時に最初に常識的に〈山は是山〉と言ったのとは別の意味が出て来ています。つまり〈山は是山〉において直ちに〈山は山ならず〉ということが現成している。それがここでは、個色が直ちに「変ずるもの」という仕方で主張されていると考えられるのです。先程、「個色」の①の所で、「個色」が「他の何の色とも異なったもの」であるとされた時に、同時に「他の色との関係が含まれて居る」とありましたが、「この赤はこの赤である」が同語反復(つまり無意味)以上の意味を持つとすれば、〈個〉の領域における「述語的一般者」(〈この赤〉にして〈この赤でない〉、「他の色との関係」)をくぐっていなければならないのです。今日はここまでとしましょう。
(第103回)
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判断をめぐる主語と述語そして超越の関係

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「二」の第3段落331頁8行目「一般概念を特殊化して行って」から333頁2行目までを読了しました。今回のプロトコルはYさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「一般が述語として特殊なる主語を含むという関係を最後の種にまで進め、之を超越しても尚それが概念的知識であるかぎり、かゝる形に於て超越すると考へねばならぬ」(332頁14~15行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「時において存在するものを判断するとは、「述語となって主語とならない」「述語的一般者」が「主語となって述語とならない」「個物」を含むという統合なされることです。一方、『善の研究』において、判断とは「主客両表象を含む全き表象」が、主語と述語に分析され、統合されることです。本文では、『善の研究』のように、判断の主語と述語に分析されることへの言及がなされていません。これをどのように考えるべきでしょうか」(198字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
どのようにお考えになりますか?

Y

『善の研究』の場合は、純粋経験といった心理学的な全体から出発したのに対して、「知るもの」の場合は、判断の成立という事実から出発するという方法論的な違いがあるように思われます。そのうえで「超越」ということが問題になることも『善の研究』とは異なっているように思われます。
佐野
キーセンテンスにおける「超越」を見る限り、「超越」に関しては「一般が述語として特殊なる主語を含むという関係を最後の種にまで進め、之を超越」するということと、「尚それが概念的知識であるかぎり、かゝる形に於て超越すると考へねばならぬ」という二つのことが言われていますね。最初の「超越」はどういうことですか?

Y

二つの方向があって、一つは主語となって述語とならない個物への超越の方向、もう一つは述語となって主語とならない述語的一般者への超越です。
佐野
そうですね。それでは後の方の「かかる形における超越」とは?

Y

「一般が述語として特殊なる主語を含む」という形での超越です。
佐野
そうですね。それによってこうした超越の領域でも「概念的知識」が成立すると西田は考えているようですね。またそれがないとそもそも「判断的知識」という事実が成り立たない、とも考えていますね。ところで「特殊なる主語を包む一般」とは「具体的一般者」と呼ばれていましたね。テキストでは「総合的全体」とも。

Y

ええ。
佐野
そうなると、「知るもの」でも判断以前の全体が考えられていて、それが「具体的一般者」だと考えることができます。「判断(Urteil)」はそこからの主語と述語への「根源分割(Ur-teilen)」だということになります。そうだとすると、『善の研究』における「純粋経験」は「知るもの」において「具体的一般者」として引き継がれていることになりますね。プロトコルはこれくらいにして、本日の講読箇所に移ろうと思いますが、今回は番外編(Exkurs)としてカントのプロレゴメナ第46節を講読しましょう。講読の詳細は省略しますが、カントは主語となって述語にならない究極的な主語としての個物(物自体)は理念としては認めますが、認識することはできない、とします。同様に西田の言うところの「述語となって主語とならないもの」、これは「自我自体」ということになりますが、これについても理念(統制原理)としては認めますが、認識することはできない、とします。それは「私は考える」と言う場合の「私」、つまり「意識一般」のことですが、それは判断が成立する場合の図に対する地のようなもので、決して対象化できず、したがって認識することはできず、したがって「概念(言葉)」にすることもできません。それは「自己意識」とか「我在り」という「感じ(Gefühl)」といった仕方での「表象」としてか呼べません。ところがデカルトはこの「在り」を「概念」にしてしまい、そこから「我在り」の「我」を実体としたが、これは誤謬推理だとカントは考えます。西田との違いは明らかですが、他方で読書会での議論にもありましたが、カントが「理念」の存在を認識とは別の領域で認めているという点については、カントも西田も同じものを見ているが、その扱い方が異なる、とも言えそうです。どちらか一方で決着を付けようとせず、彼らが語ったところのものではなく、語ろうとしていたもの、見ていたものをこの読書会でも哲学して行こうと思います。これから夏休みにしようと思います。暑い毎日が続きますが、お元気でお過ごしください。再開は9月6日です。ごきげんよう。
(第102回)
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変ぜざるもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「一」の第4段落328頁12行目「以上述べた如く」から「二」の第3段落331頁8行目「変ずるものととなるのである」までを読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「主語となって述語とならないと云ふことによって、我々は所謂特殊化によって達することのできない尖端に達するのである、一般概念を破って外に出るのである」(330頁4~6行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「個物」の概念は、「判断が一般概念を破ってその外に出」て、「具体的一般者」によって成り立つ。つまり、一般概念の特殊化によって達することができない「個物」を、「主語となって述語とならない」と「云う」ことによってである。言い換えれば、「個物」を言い表せないものとして言い表わすことである。しかしこの場合、個物は真に判断の主語となっても、それが何たるか(その内容)を一切表せないように思う。如何にして真に個物の内容を言い表すことができるか」(216字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
「ある」とは言えるのですか?

R

はい。
佐野
そうすると「ある(存在)」とは言えても、その「何であるか(本質)」を言い表すとは言えない、ということですね。「一切」とありますが、原理的に何も言えない、ということですか?

R

現時点では、ということです。
佐野
「一般概念」を破って個物と出会う。そうした出会い(驚き)が絶句をもたらす。そこでは「ある」としか言えない。この出会いが何であるか、それはどこまでも分からないが、それを問い披いていくのが、哲学である、というような感じですね。これは哲学に限らず、宗教についても言えそうです。個物を「十字架上のイエス」とすれば、それとの出会いをどう考えるか、ということによってキリスト教が成立したともいえるからです。その場合、我々人間には神的働き(エネルゲイア)によってその働きの主体としての「神の存在」が何らか証し示されるけれども、その何であるか(本質・実体、ウーシア)はどこまでも謎・神秘に留まる、それを問い披いていくのが「哲学(愛智の営み)」であるという考え方がキリスト教においてもあります(谷隆一郎)。Rさんの問いは「ある」としか言えない個物の内容(何であるか)が「如何にして言い表せるか」ということですか?つまりそれは、根本的な個物との出会いの経験から如何にして哲学が可能となるか、そういうことですか?

R

「全然一般概念を超越するものならば判断の主語となることもできない」とあるのに、「真に判断の主語となるもの」が「具体的一般者」とされています。この「具体的的一般者」が「如何にして」「判断的関係」に入ることができるか、それがここでは示されていないと思います。
佐野
「具体的一般者」は個物を包むことのできるものとして究極的には「絶対無の場所」であると思いますが、それが判断的関係に立つためには、自己限定しなければならない、というように考えてはいかがでしょうか。絶句の後に、それが何であるかを考えるのが哲学ですが、その場合にも哲学の側から勝手に限定し、考えるのではなく、あくまで具体的一般者の側からの自己限定として考える、そういうことではダメですか?

R

ですが、この箇所ではそこまで言えていないと思います。
佐野
テキストの目下の箇所では「変ずるもの」と、その根柢の「変ぜざるもの」との関係から「具体的一般者」が論じられているだけですが、それがどのようにして「意味」や「価値」に発展していくかは、先を読むほかなさそうですね。プロトコルはこの位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(331頁8行目~332頁4行目)
佐野
「最後の種差」(この青とこの青ならざるもの)を加えることで、一方でそこに「個物」(この木の葉)が成立すると同時に、この個物が「唯一の性質」(この青)をもつことになります。それとともに「矛盾なく他の異なれる性質的述語」(この香、この味など)をもつことになりますが、こうした「個物は尚変ずるものではない」とされます。「変ずるものは内に反対を含むものでなければならぬ、変ずるものの根柢にある変ぜざるものは内に反対を含んだものでなければならぬ」からです。

A

前回の講読箇所の最後に、「かかるもの(個物)が又述語的一般者に於てあると考えられた時、変ずるものとなる」(331,7-8)とありましたが。
佐野
その直前に「主語となって述語とならないものに到っても、尚変ずるものではない」とありますね。これを言い換えたものが「個物は尚変ずるものではない」です。そうするとその直後の「かかるもの(個物)が又述語的一般者に於てあると考えられた時、変ずるものとなる」を言い換えたものが、「変ずるものは内に反対を含むものでなければならぬ、変ずるものの根柢にある変ぜざるものは内に反対を含んだものでなければならぬ」であることになります。そのさい「個物」が「変ずるもの」、「述語的一般者」が「変ぜざるもの」の側に来ますが、「物其者が変ずるとは言われない」、「単に一般的なる色や形が変ずるのでもない」、「物の色や形が変ずるのである」(331,4-6)と言われているように、両者が「具体的一般者」として一つとなる所に「変ずるもの」が成立することになります。先程の例で言えば、〈この木の葉〉が〈この青にしてこの青ならざるもの〉に於てある、あるいは〈この木の葉〉が〈この青にしてこの青ならざるもの〉を含む時、「具体的一般者」が成立し、そこにおいて変化が可能となる、ということだと思います。

A

ですが「同一物は赤であると共に直に青であるとは云われない。我々が一つの物を赤であることもでき、青であることもできると考えることができるのは、既に時というものを入れて考えるか、然らざれば見る人の主観性を入れて考えるからである」とありますが。
佐野
そうですね。たしかに我々は赤であると同時に赤でない(青である)、などといわれればどう考えたらよいか分からない。しかし西田は「何故に一つの物が赤であると共に青である(赤でない)ことができないか」、その根源を考えようとします。まず「両者の間に反対性があるから」だ、と。しかしさらに「二つのものが相反するにはその根柢に同一なるものがなければならぬ」と考察を進めます。こうした議論はこれまでも、相異、反対(対立)、矛盾という深化において考察されてきましたね。こうして「同一の類に属して、その種が同じければ同じい程、両者は相反するものとなる」と言われます。

A

どういうことですか?
佐野
まず、類、種、個ということが念頭にあると思います。例えば、人類(類)、日本人(種)、佐野之人(個)ということです。もう一つは、対立は同一なるものがなければ成り立たない、同じ土俵に立つものが対立する、ということがあると思います。

A

分かりました。
佐野
「分かりました」と言われると困りますが。何しろ「どこまでも分からないもの」を相手にしていますから。ですがとりあえずはこれで分かったことにして次に進みましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(332頁4~10行目)
佐野
「述語的一般なるものを何處までもその一般性を失わないで之をその内に特殊化していく」、例えば存在→色→青というように特殊化していく。そうすると「最後の種に於て唯一の種差によって異なれるもの、即ち相反するものを含む」、この青とこの青ならざるものを含む〈青〉ですね。こうした「最後の種」(青)を超越してさらに「個物」(この木の葉)に至る。そのさい、「判断の主語と述語との対立から二つの方向を区別することができる、即ち超越すると云うに二つの意義を考えることができる」とされます。どういうことかというと「一つは所謂主語となって述語とならないと考えること」で、これが「quod in se est(それ自身の内にあるところのもの)」です。もう「一つは述語となって主語とならないと考えること」で、これが「quod per se concipitur(それだけで考えられるところのもの)」です。前者が主語・存在の方向で、後者が述語・思考の方向ですね。

B

後者は「絶対の無」ですか?
佐野
究極的にはそうなると思いますが、ここでは〈この青とこの青ならざるもの〉を含む〈青〉で、しかもこの青が抽象的な一般者としての青ではなく、個物(この木の葉)を包む具体的一般者です。「絶対の無」が自己限定した形と考えることができると思います。同様に前者の「個物」(この木の葉)も述語的一般者(青)に於てある具体的一般者です。つねにセットです。それでは次をCさん、お願いします。

C

読む(332頁10~13行目)

N

「判断が概念的知識たる以上」とあるところから、西田のあくまで哲学に徹する立場がよく表れていると思います。「全然主語となって述語とならないもの即ち全然述語を失ったものは考えることの出来ないものである」と言ってこれに固執するのが宗教だと思いますが、西田はそれで良しとしない。

S

それでも西田には判断のもととなるものが真理であるという前提があるように思います。
佐野
たしかに我々は判断する場合、それが究極的に真理に基づいていることを必ず前提しますが、それは我々の要請でしかないですね。同じことは『善の研究』において、西田が宇宙(=意識現象)の根本をその統一力としての神(=真の自己)に求めたことについても言えるとお考えでしたね。宇宙が統一されているというのは一面的な見方だと。統一の半面には分裂があると言っても、それが統一力をもとに考えられていると。たしかに西田には強く救いを求める宗教的な側面があり、ここにも西田哲学の特徴がありそうです。

R

「判断に於て真に主語となるものは所謂総合的全体という如きものでなければならぬ」とありますが、「総合的全体」とは何のことですか?
佐野
内容的には、第2段落末の「真に判断の主語となるものは所謂命題の主語ではなくして、却って具体的一般者であると云わねばならぬ」と重なると思いますので、「総合的全体」とは「具体的一般者」と考えてよいと思います。ただ何故それを「所謂総合的全体」と呼んだのかが問題となります。おそらくカントの「総合判断」における「総合」を念頭に置いているのではないでしょうか。カントの総合判断はまさに主語と述語を総合するものでした。それでは次をDさん、お願いします。

D

読む(332頁13行目~333頁2行目)
佐野
最初の「此の如き一般者」とあるのは「総合的全体」つまり「具体的一般者」のことですね。それは主語・個物と対立する「単なる抽象的一般概念」ではない、「類概念」ではないとされます。それは「超越的述語面」だとされますが、その「超越」の意味が次に述べられます。何と書いてありますか?

D

「一般が述語として特殊を包むという〔包摂的〕関係を最後の種にまで進め、之を超越しても尚それが概念的知識であるかぎり、かかる形に於て超越すると考えねばならぬ」とあります。
佐野
「かかる形」とは?

D

「一般が述語として特殊なる主語を包む」ということだと思います。
佐野
そうでしょうね。主語の方向に個物へと超越するのと同時に、それに対応して述語の方向に超越して個物を包む「超越的述語面」となる、ということでしょう。最後にこれの述語的一般性の側面が確認されます。「最後の種を特殊化したもの、即ち個物までも含むものはもはや抽象的一般として考えることのできないものであるが、而も尚判断を内に含むという意味に於て述語的一般性を失うたものではない」。今日はここまでとしましょう。
(第101回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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