中間のもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「二」の第4段落333頁3行目「判断的関係を内に含むと考えられる」から335頁1行目「ければならぬ」までを読了しました。今回のプロトコルもYさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「最後の種に於て或一つの種差を有つか有たないかと云ふことは、述語的方向に於ては直に矛盾的対立を意味するのである、その「中間のもの」といふは主語的方向に於て考へられるのである」(334頁4~6行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「個物は質料と形相によって現成され、「若し主語となって述語とならないといふ主語的方向に於て全然述語を超越したものならば、それが変ずるとは云われない。」(331,3-4)― 個物が変ずるとは、その述語性の否定を否定することです。ところで、「中間のもの」を形相と対立する質料とするならば、可能態から現実態への移行(運動)が考えられます。ならば、なぜ「中間のもの」は「変ずる」ものとはならないのでしょうか」(193字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
「個物が変ずるとは、その述語性の否定を否定することです」とありますが、「述語性の否定」とは個物が「主語方向に於て全然述語を超越すること」という意味で、こうした個物は「変ずる」とは言われないので、それを否定することで、個物は変ずるものとなる、という意味でよいですか?

Y

はい。
佐野
「質料」とは素材のことで、例えばヘルメス像が大理石からできていれば、大理石が質料です。大理石はヘルメス像にもなれば、アテナ像にもなる。そうした意味で「中間のもの」です。これが「変ずる」とはどういうことですか?

Y

可能態から現実態に移行することです。
佐野
それは質料と形相とからなる実体としての個物が「変ずる」のであって、質料が変じているのではないのでは?先程の例で言えば、ヘルメス像は可能態から現実態に移行しても、大理石からできていることに変わりはありません。

Y

分かりました。
佐野
さらに考えるといろいろ難しいと思いますが、プロトコルはこのくらいにして、講読に移りましょう。それではAさん、お願いします。

A

読む(335頁1~8行目)
佐野
少しずつ行きましょう。「一つの系列に従って類を特殊化していく時、最後の種に至るまで、すべて相反する種差を含んだものである」とあります。例えば〈感覚的性質〉という類は〈色〉と〈色でないもの〉という「相反する種差」を含んでいますが、このうち〈色〉を取ればそこに特殊化が成立します。ついで〈色〉という種は〈赤〉と〈赤ならざる色〉という「相反する種差」を含み、このうち〈赤〉を取ればそこに特殊化が成立する。そうしてこの〈赤〉が「最後の種」になります。この〈赤〉は〈この赤〉と〈この赤ならざる赤〉という「相反する種差」を含みますが、そのうち〈この赤〉を取れば、それが「唯一のもの」(個色)となります。それは「それ以前のものが種に於てあると云う意味に於てあるのではない」とされます。〈赤〉という最後の種において〈この赤〉と〈この赤ならざる赤〉とが含まれていましたが、「唯一のもの」はこの「最後の種」における可能性としての〈この赤〉ではない、ということです。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
次いで「相反するものはひとつの種を成すことを拒むものである」とありますが、〈この赤〉と〈この赤ならざる赤〉は「最後の種」である〈赤〉を成していますから、この文は「種」の領域の話をしているのではないことになります。「個」の領域の話だということになります。〈この赤〉と〈この赤ならざる赤〉が同時に成り立つことを拒む、という意味でしょう。そこに〈時〉の考えを入れて変化を考えなければ成り立たないことでしょう。さらに続けて「二つの相矛盾するものの間には之を統一する類概念はないと考えられる」とあります。

A

「相反する」と「相矛盾する」とは同じことですか?
佐野
文脈で考えなければなりませんが、これまで西田は「相異」、「相反」、「矛盾」を分けて論じています(「働くもの」191,9-193,9)。「相異」とは、例えば音と色。これについては「一つの物」が両方持つことができるし、両者は「感覚的性質」という「一つの類概念」に属する、とされます。「相反」とは、例えば赤と赤でない色。これについては「時の考を入れない以上、一つの物に結合することはできない」が、「相反すれば反する程、明に一つの類概念に統一せられねばならぬ」とされます。赤い物は変化によって赤でなくなりますし、赤と赤でない色はともに色という類概念に統一されます。これに対し「相矛盾する二つの概念に至っては、之を統一するに所謂類概念を以てすることもできない、又、その背後に物という如きものを考えることもできない」とされます。そうして「矛盾概念を統一するものは、生物の死することが生まれることである如く、否定することが肯定することであるものでなければならぬ、概念の生滅する場所の如きものでなければならぬ、無にして有を成立せしめるものでなければならぬ」(以上、191,10-192,5)とされます。これを読むと、「矛盾」とは、生即死、否定即肯定、無即有、といった「概念の生滅」のことであり、それを統一するのは「類概念」でも「物」でもなく、「場所」だ、ということになりそうです。

A

よく分かりました。
佐野
もう少し続きがあります。西田は特殊と一般の矛盾を考え、この矛盾の統一が「数理」の対象界、「経験」界、「矛盾的限定によって構成せられたる対象界」でどうなっているかを論じます。数の対象界には「矛盾律」が成立しているけれども、その根柢に類概念があり、そこに矛盾の統一が見られる、とします。特殊と特殊の間には矛盾律が成り立つ(5≠~5(5でないもの))けれども、特殊と一般の間に矛盾の統一が見られる(5は数である。特殊=一般)ということだと思います。「経験的一般概念」の場合は、「一般と特殊との間に間隙がある」とされ、この間隙を充填するために「基体」が考えられる、とされます。〈赤〉が〈この赤〉になるためには「基体」が必要だ、ということです。「経験」界の場合は、特殊と一般の矛盾を統一するのは「基体」だということになります。最後に「矛盾的限定によって構成せられたる対象界」の場合は、一般即特殊で、「その間に基体の如きものを容れる余地はない」、とされます。「一般的なるものは特殊なるものを成立せしめる場所」で、この「矛盾的統一の対象界に於て始めて全体と部分との関係を見、更に進んで個物的なるものを見ることができる。モナドの世界に於ての如く、各自唯一の個体となることによって、全体の統一が成り立つ、たんに一般的なるものは予定調和の役目を演ずるに過ぎない」とされます。これを読むと、「矛盾的統一の対象界」とは直観の世界であり、個物の世界であることが分かります。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。よく整理ができました。「数理」の対象界の場合は、類概念自体が〈特殊=一般〉という矛盾の統一が成立する場所で、「経験」界の場合は、基体が矛盾統一の場所、直観ないし個物の世界の場合には個物を成立させる一般者が矛盾統一の場所になる、という理解でいいでしょうか?この一般者は述語面に成立すると考えてよいですか?
佐野
ええ。そういうことになるとも思います。それでは講読箇所に戻りましょう。どこまで行きましたっけ?

A

「二つの相矛盾するものの間には之を統一する類概念はない」までです。
佐野
ありがとうございます。「二つの相矛盾するもの」の例として、さきほどは生死、肯定と否定、それから有と無が挙がっていましたが、それを個物の世界で考えなければならない、ということになりそうです。この世界では一般即特殊(個)という形で一般と特殊の間に矛盾が成立するのみならず、それを通じて〈このA〉と〈このAならざるもの〉とが、つまり特殊と特殊とが、矛盾的に統一されていると考えられますが、ここでも「二つの相矛盾するもの」ということで念頭に置かれているのは、特殊と特殊の矛盾です。それを「統一する類概念がない」とは、それらを一般(類)概念によって統一することはできない、そんなことをすれば矛盾概念が矛盾概念でなくなってしまうということです。例えば〈この赤〉と〈この赤ならざる赤〉は〈赤〉一般という類概念によって統一できるように考えられますが、そういう類ないし種の領域における統一が問題になっているのではない、ということです。あくまで個の領域における統一が問題だ、ということでしょう。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
「併し」と来て、「我々が最も厳密に類概念を分けるには矛盾するものに分けて行くのである」と、今度は類、つまり一般の領域の話になります。そこでも実は矛盾するものに分けているのだ、というのです。例えば〈色〉を〈赤〉と〈赤ならざる色〉とに分ける場合、じつは〈色〉そのものが一般と特殊、特殊と特殊の間にすでに矛盾を含んでおり、この矛盾に即して「分ける」ということ、つまり特殊化が行われる、ということだと考えられます。そうして「最後の種」に至る。「最後の種に於て尚之を相矛盾する種差によって唯一のものが限定せられる時、最後の種は相矛盾するものに分たれると考えねばならぬ」とされます。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
ここでまた「中間のもの」、つまり「質料」が出て来ます。「中間のものはなくならねばならぬ。中間のものがなくなると云うことは質料がなくなると云うことを意味する、即ち質料としての類概念の意味はなくなるのである」と、こう言われます。

A

質料は類概念ですか?
佐野
普通そうは言いませんが、相矛盾(相反、相異も根本的には相矛盾を含むというのが西田の考えです)する特殊と特殊を統一的に考えるために、いわゆる一般概念の他に物ないし質料が考えられるからだと思います。

A

質料としての類概念がなくなる、ということは〈個物の世界〉と言っても、その個物は質料を含まない、ということですか?
佐野
そうなりますね。物的な実体の解消です。次へ参りましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(335頁8~11行目)
佐野
「こういう意味に於て」とはどういう意味ですか?

B

「質料としての類概念の意味はなくなる」という意味だと思います。
佐野
そうでしょうね。そういう意味において「個物は特殊と一般との関係の外に出て而も判断的関係によって限定せられると云うことができる、質料なき純粋形相概念に於て限定せられ得る特殊でなければならぬ」とされます。個物は質料なき純粋形相概念になってしまいました。まさに物的実体の解消ですね。

B

はい。
佐野
次いで「矛盾概念を包む類概念はないと考えられるかも知らぬが、両者を統一するものがなければ両者を矛盾として分つことはできない」と述べられます。「矛盾概念を包む類概念はないと考えられる」については先程考察しました。矛盾概念を上位概念によって統一してしまうと矛盾概念ではなくなってしまう、ということでした。ここではその主張を否定するのではなく、矛盾概念を矛盾概念のまま統一することが問題になっています。「両者を統一するものがなければ両者を矛盾として分つことはできない」と述べられます。我々が〈色〉を〈赤〉と〈赤ならざるもの〉とに分けることができるのは、〈色〉においてすでに矛盾が統一されているからだ、ということになります。さらに言えば、我々が矛盾を意識できるのは、すでに矛盾的統一を知っているからだ、ということになると思います。ここまでいかがですか?

B

大丈夫です。
佐野
それでは次に参りましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(335頁11行目~336頁2行目)
佐野
「両者の背後に限定せられた類概念が考え得らるれば得らるる程、矛盾的統一は明になるのである」とありますね。この「背後」とは上位概念という意味ではありませんね。「数学」が「好適例」だとされています。どなたか説明してください。

Y

リーマン空間とユークリッド空間の背後の「空間」そのものはどうですか?
佐野
なるほど。三角形と円の背後の平面、5と~5(5ならざるもの)の背後の数、も行けそうですね。これらの例における空間、平面、数が「類概念」になります。そこにおける「矛盾的統一」とはまずは、特殊と一般の統一です。5がそのまま数とされている。これは一即一切、一切即一と言ってもいいと思いますが、そのうえで、5と~5とが矛盾的に統一されているということですね。通常は5と~5は矛盾律によって分かたれていると考えますが、そのように分かたれるのは、そもそも矛盾的に統一されているからだ、そのように西田は考えます。文章が切り詰められているので分かりづらいですが、「働くもの」における叙述などを参考にすればそういうことになると思います。ここまでは?

C

大丈夫です。
佐野
次いで「之に反し個色という如きものは実際に於ては限定することはできない」とありますね。これは先程の話で言えば「経験」界の話です。どこまでも個に到達できない、ということです。しかしこれを超えて直観の世界・個の世界に入る。そうなると「唯一なるものが限定せられると考える時、その根柢となる一般者の意味が変わって来なければならぬ」とありますが、どう変わるのですか。

C

具体的一般者になる、ということではないでしょうか。
佐野
そうでしょうね。抽象的に一般と特殊を分けて考えて来た者にとってはそうした意味の転換が起りますね。しかし個の世界だけでなく、じつは一般の世界もこうした矛盾の統一によって貫かれているというのが西田の考えのようです。次いで「唯一なるものは自己自身に同一なるものでなければならぬ」、〈この赤はこの赤である〉、ということですね。しかし「自己自身に同一なるものは主語と述語と転換し得るものでなければならぬ」とされます。これはたんに〈この赤はこの赤である〉の主語と述語を転換できるという意味ではなさそうです。次に「一般なるものを特殊化して行って、その尖端に於て一般と特殊とが転換し得ると考えることができる」とあります。〈赤〉を〈この赤〉にまで特殊化する時、同時に〈〈この赤ならざる赤〉でない〉として、〈この赤〉は〈この赤ならざる赤〉を含みます。そういう仕方で、主語的なもの(〈この赤〉)は述語的なるもの〈赤〉一般を、個の領域で包むことになります。まさに一即一切、一切即一ということですね。今日はここまでとしましょう。
(第104回)
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変ずるもの―特殊化の原理

前回は番外編(Exkurs)としてカントのプロレゴメナ第46節を講読しました。プロトコルはありません。それではさっそく今回の講読箇所に入りましょう。
佐野
それではAさんお願いします。

A

読む(333頁3行目~12行目)

A

「判断的関係を内に含むと考えられる一般的なるもの」とは「具体的一般者」のことですか?
佐野
そうだと思います。特殊化の原理を含む一般者ですから。そうした「一般者が最後の種を越える」とありますね。たとえば〈赤は色である〉という判断において、〈色〉に〈赤〉と〈赤ならざるもの〉という種差がありえますが、このうち〈赤〉を取れば〈色〉は〈赤〉となり、〈赤は色である〉が成り立ちます。ここでもう一歩進むと、「最後の種」として〈赤〉を考えることになります。この先は「種」ではなく「個」の世界だからです。それを超えて見ましょう。〈この赤は赤である〉という判断において、〈赤〉に〈この赤〉と〈この赤ならざるもの〉という種差が含まれていますが、このうち〈この赤〉を取れば、〈赤〉は〈この赤〉となり、〈この赤は赤である〉という判断が成り立ちます。この判断はすでに「個」の領域で成り立っています。その場合、〈この赤〉が主語で、〈赤〉が述語です。この〈赤〉は先程の「最後の種」とは異なります。「最後の種」はなお一般の領域だからです。〈個〉の領域における述語としての〈赤〉が今問題になっています。テキストでは「最後の種を越えて尚述語的一般性を維持する」と表現されています。この「述語的一般性」は〈個〉の領域で成り立つものです。そうしたものは「反対を内に包んだもの」だとされます。「反対」とは、先の例で言えばどういうことになりますか?

A

〈この赤〉と〈この赤ならざるもの〉です。
佐野
そうですね。この〈個〉の領域における「述語的一般性」は〈この赤にしてこの赤でない〉という矛盾を含んだものです。続いて「最後の種に於て既に反対(唯一の個物的種差を有つものと然らざるものと)を内に包むと考え得るが」とありますが、これは繰り返しですね。「種」の領域の話です。〈赤〉という種が可能性として〈この赤〉と〈この赤ならざる〉という反対を含むということです。ここから「更に特殊化の方向を進めて」行きます。〈個〉の領域に入ります。「主語となって述語とならないと云う意味に於て限定せられたもの」、つまり〈個物〉ですね。「所謂一般概念を越えたもの」と言い換えられています。こうした〈個物〉を包む「述語的なるもの」、出ましたね。〈個〉の領域における「述語的一般性」です。それは「主語的なるものの否定を含むものでなければならぬ」とされます。「述語」ですから「主語」ではない。その意味で「主語的なるものの否定を含むものでなければならない」と言われていると思われますが、この「主語的なるものの否定」には、後で出て来る「質料」がなくなる、ということに関わっているようです。端的に言えば主語として立てられた〈物的実体〉の解消です。すべてを形相として見ると言ってもいいです。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
「最後の種に於て相反する種差が含まれると考えられるが、之を超越したものに於ては(それが超越的述語に於てあると考えられるかぎり)」と、また同じことが繰り返し述べられています。「超越的述語」とは〈個〉の領域における「述語」ですね。そうした「述語」には「相反する判断的対象が含まれる」とされます。この「相反する判断的対象」とは?

A

〈この赤〉と〈この赤ならざるもの〉です。
佐野
そうですね。それでは次をBさん、お願いします。

B

読む(333頁9行目~12行目)
佐野
ギリシャ哲学が出て来ましたね。アリストテレスが念頭に置かれています。すべてのものが形相と質料から成る。「質料」は素材です。ヘルメス像で言えば、その形が「形相」で、その素材となる、例えば大理石が質料です。「中間的なるものは質料に属する」とありますね。大理石はヘルメス像にもなれば、別の像(たとえばアテナ像)にもなり得る、どちらでもありえる「中間的なもの」です。これに対し「形相」の方は、ヘルメス像であるか、ヘルメス像でないかのどちらかですから、「常に対立をなす」ものです。「単なる質料」は「これこれ」と言えないものですから、その意味で「無」です。ここまではいかがですか?

B

大丈夫です。
佐野
「形相は質料に先立ち之を内に含むと考えるならば」とありますね。これはすべてを「形相」から見る場合のことです。物の見方に二種類あって、質料から見て行く場合と、形相から見て行く場合があります。質料から見て行く場合には、すべては可能態(質料)から現実態(形相)への「運動(キーネーシス)」となりますが、形相から見て行く場合はつねに「現実活動態」(エネルゲイア)となります。後の方の見方が「観想的生」につながります。ここでは後の方の見方がとられています。こうした「形相」における「最後の種」となるものは〈このヘルメス像〉か〈このヘルメス像でない〉かのいずれかですから、「反対を含むもの」です。次をCさん、お願いします。

C

読む(333頁12行目~334頁1行目)
佐野
「主語となって述語とならないと考えられるもの」、「個物」ですね。「それが判断的知識に属するかぎり、述語的なるものに於てあると考えなければならぬ」、同じことの繰り返しですね。この「述語的なるもの」は〈個〉の領域におけるものです。こうした「述語的一般者に於てあるもの」は、もちろん個物ですが、それが「肯定的であると共に否定的でなければならぬ」とされ、それが「変ずるもの」だとされるところは少しわかりにくいですね。

C

たしかに。どうして個物が「変ずるもの」になるのですか?
佐野
個物は捉えられず、常に変じている、ということでしょうね。

C

描かれた絵の色は変わらないと思いますが。
佐野
光の具合によって変わるでしょうし、こちらの状態によっても変わるでしょう。どうやら西田は、ヘーゲルが『精神の現象学』でやったように、個物は捉えられない、と考えているようです。ただヘーゲルが捉えられるのは普遍だけだ、とするのに対し、西田は「変ずるもの」のみ捉えられる、と考えているようです。そうして「変ずるものの根柢にある変ぜざるものとは此の如き一般者でなければならぬ」と言います。「此の如き」とは〈個〉の領域で「相反する種差を含む」ような「述語的一般者」ということでしょう。次をⅮさん、お願いします。

D

読む(334頁1行目~6行目)
佐野
色の例で説明していますね。「個色」というのが出て来ますが、西田は後で「個色という如きものは実際に於ては限定することができない」(335,13)と述べているように、実際には「変ずるもの」としてしかとらえることはできない、と考えているようです。さて「色の性質を分けて行って限定せられた唯一の色というものが種々なる色の系列に於て定まるには、最後の種差というものが加わると考えねばならぬ」とありますね。「最後の種差」とは〈赤〉の場合何ですか?

D

〈この赤〉と〈この赤ならざるもの〉です。
佐野
そうですね。次にはこう書いてありますね。「種々なる系列によって分けられた後、最後の系列に於て或一つの性質を有つか有たないかと云うことによって個色が限定せられるのである」。「或一つの性質」が〈この赤〉です。そうしてその後大事なことが書かれてありますね。「最後の種に於て或一つの種差を有つか有たないかと云うことは、述語的方向に於ては直に矛盾的対立を意味するのである、その「中間のもの」というは主語的方向に於て考えられるのである」。「中間のもの」とは以前出て来た「中間的なるもの」つまり「質料」のことです。つまり〈物的実体〉としての「個物」のことです。西田はこういう意味での個物を解消しようとしているようです。次をEさん、お願いします。

E

読む(334頁6行目~335頁1頁)
佐野
「個色」とは何かが述べられていますね。①「他の何の色とも異なったもの」(したがって他の色との関係が含まれて居る)、②「種々なる系列の関係に於て秩序的に限定せられた最終のもの」、③「その色を有つ或物と考えることもできない」、すなわち「色の一種でなければならない」、④「述語的一般性を超越したものでなければならぬ」、以上の四点が述べられています。最後の「述語的一般者」は、難しいですが、〈個〉の領域における「述語的一般者」と考えておきます(後に「甲は甲であるという同一判断によって同一なるものが限定せられる時、その主語と述語とは判断の主語と述語との関係に於ては異なったものでなければならぬ」(336,11-13)とあります。この「異なった」というところがここでは「超越」と語られていると考えられます)。そうしてこの「個色」について「唯自己自身の述語となる」とされています。これは<この赤>ではどのようなことですか?

E

<この赤〉は<この赤〉である、ということです。
佐野
そうですね。それに続く文の中に出て来る「自己自身に同一なるもの」も同じ意味ですね。

E

この「同一」は「絶対矛盾的自己同一」の「同一」ですか?
佐野
さしあたり、ここを読むだけならそこまで考えなくても、同語反復のことを言っているということで十分ですが、「自己自身に同一なるもの」(この赤はこの赤である)は、そうしたものがそこに於てある「述語的一般者」(〈この赤〉にして〈この赤ならざるもの〉)を必要とし、じつはこうした述語との同一が言われているのだと思われます。先程引用した後の文では、「〔(主語と述語が)異なったものでなければならぬ、〕而も此判断によって言い表されるものが一なるが故に、主語と述語を転換することができる」(336,13-14)と言われています。そうなると「絶対矛盾的自己同一」ということになりそうです。〈山は山である〉は〈山は山でない〉をくぐって言われている。絶対的矛盾をくぐって〈山は是山〉と言われています。しかしそのことは同時に最初に常識的に〈山は是山〉と言ったのとは別の意味が出て来ています。つまり〈山は是山〉において直ちに〈山は山ならず〉ということが現成している。それがここでは、個色が直ちに「変ずるもの」という仕方で主張されていると考えられるのです。先程、「個色」の①の所で、「個色」が「他の何の色とも異なったもの」であるとされた時に、同時に「他の色との関係が含まれて居る」とありましたが、「この赤はこの赤である」が同語反復(つまり無意味)以上の意味を持つとすれば、〈個〉の領域における「述語的一般者」(〈この赤〉にして〈この赤でない〉、「他の色との関係」)をくぐっていなければならないのです。今日はここまでとしましょう。
(第103回)
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判断をめぐる主語と述語そして超越の関係

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「二」の第3段落331頁8行目「一般概念を特殊化して行って」から333頁2行目までを読了しました。今回のプロトコルはYさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「一般が述語として特殊なる主語を含むという関係を最後の種にまで進め、之を超越しても尚それが概念的知識であるかぎり、かゝる形に於て超越すると考へねばならぬ」(332頁14~15行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「時において存在するものを判断するとは、「述語となって主語とならない」「述語的一般者」が「主語となって述語とならない」「個物」を含むという統合なされることです。一方、『善の研究』において、判断とは「主客両表象を含む全き表象」が、主語と述語に分析され、統合されることです。本文では、『善の研究』のように、判断の主語と述語に分析されることへの言及がなされていません。これをどのように考えるべきでしょうか」(198字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
どのようにお考えになりますか?

Y

『善の研究』の場合は、純粋経験といった心理学的な全体から出発したのに対して、「知るもの」の場合は、判断の成立という事実から出発するという方法論的な違いがあるように思われます。そのうえで「超越」ということが問題になることも『善の研究』とは異なっているように思われます。
佐野
キーセンテンスにおける「超越」を見る限り、「超越」に関しては「一般が述語として特殊なる主語を含むという関係を最後の種にまで進め、之を超越」するということと、「尚それが概念的知識であるかぎり、かゝる形に於て超越すると考へねばならぬ」という二つのことが言われていますね。最初の「超越」はどういうことですか?

Y

二つの方向があって、一つは主語となって述語とならない個物への超越の方向、もう一つは述語となって主語とならない述語的一般者への超越です。
佐野
そうですね。それでは後の方の「かかる形における超越」とは?

Y

「一般が述語として特殊なる主語を含む」という形での超越です。
佐野
そうですね。それによってこうした超越の領域でも「概念的知識」が成立すると西田は考えているようですね。またそれがないとそもそも「判断的知識」という事実が成り立たない、とも考えていますね。ところで「特殊なる主語を包む一般」とは「具体的一般者」と呼ばれていましたね。テキストでは「総合的全体」とも。

Y

ええ。
佐野
そうなると、「知るもの」でも判断以前の全体が考えられていて、それが「具体的一般者」だと考えることができます。「判断(Urteil)」はそこからの主語と述語への「根源分割(Ur-teilen)」だということになります。そうだとすると、『善の研究』における「純粋経験」は「知るもの」において「具体的一般者」として引き継がれていることになりますね。プロトコルはこれくらいにして、本日の講読箇所に移ろうと思いますが、今回は番外編(Exkurs)としてカントのプロレゴメナ第46節を講読しましょう。講読の詳細は省略しますが、カントは主語となって述語にならない究極的な主語としての個物(物自体)は理念としては認めますが、認識することはできない、とします。同様に西田の言うところの「述語となって主語とならないもの」、これは「自我自体」ということになりますが、これについても理念(統制原理)としては認めますが、認識することはできない、とします。それは「私は考える」と言う場合の「私」、つまり「意識一般」のことですが、それは判断が成立する場合の図に対する地のようなもので、決して対象化できず、したがって認識することはできず、したがって「概念(言葉)」にすることもできません。それは「自己意識」とか「我在り」という「感じ(Gefühl)」といった仕方での「表象」としてか呼べません。ところがデカルトはこの「在り」を「概念」にしてしまい、そこから「我在り」の「我」を実体としたが、これは誤謬推理だとカントは考えます。西田との違いは明らかですが、他方で読書会での議論にもありましたが、カントが「理念」の存在を認識とは別の領域で認めているという点については、カントも西田も同じものを見ているが、その扱い方が異なる、とも言えそうです。どちらか一方で決着を付けようとせず、彼らが語ったところのものではなく、語ろうとしていたもの、見ていたものをこの読書会でも哲学して行こうと思います。これから夏休みにしようと思います。暑い毎日が続きますが、お元気でお過ごしください。再開は9月6日です。ごきげんよう。
(第102回)
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変ぜざるもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「一」の第4段落328頁12行目「以上述べた如く」から「二」の第3段落331頁8行目「変ずるものととなるのである」までを読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「主語となって述語とならないと云ふことによって、我々は所謂特殊化によって達することのできない尖端に達するのである、一般概念を破って外に出るのである」(330頁4~6行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「個物」の概念は、「判断が一般概念を破ってその外に出」て、「具体的一般者」によって成り立つ。つまり、一般概念の特殊化によって達することができない「個物」を、「主語となって述語とならない」と「云う」ことによってである。言い換えれば、「個物」を言い表せないものとして言い表わすことである。しかしこの場合、個物は真に判断の主語となっても、それが何たるか(その内容)を一切表せないように思う。如何にして真に個物の内容を言い表すことができるか」(216字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
「ある」とは言えるのですか?

R

はい。
佐野
そうすると「ある(存在)」とは言えても、その「何であるか(本質)」を言い表すとは言えない、ということですね。「一切」とありますが、原理的に何も言えない、ということですか?

R

現時点では、ということです。
佐野
「一般概念」を破って個物と出会う。そうした出会い(驚き)が絶句をもたらす。そこでは「ある」としか言えない。この出会いが何であるか、それはどこまでも分からないが、それを問い披いていくのが、哲学である、というような感じですね。これは哲学に限らず、宗教についても言えそうです。個物を「十字架上のイエス」とすれば、それとの出会いをどう考えるか、ということによってキリスト教が成立したともいえるからです。その場合、我々人間には神的働き(エネルゲイア)によってその働きの主体としての「神の存在」が何らか証し示されるけれども、その何であるか(本質・実体、ウーシア)はどこまでも謎・神秘に留まる、それを問い披いていくのが「哲学(愛智の営み)」であるという考え方がキリスト教においてもあります(谷隆一郎)。Rさんの問いは「ある」としか言えない個物の内容(何であるか)が「如何にして言い表せるか」ということですか?つまりそれは、根本的な個物との出会いの経験から如何にして哲学が可能となるか、そういうことですか?

R

「全然一般概念を超越するものならば判断の主語となることもできない」とあるのに、「真に判断の主語となるもの」が「具体的一般者」とされています。この「具体的的一般者」が「如何にして」「判断的関係」に入ることができるか、それがここでは示されていないと思います。
佐野
「具体的一般者」は個物を包むことのできるものとして究極的には「絶対無の場所」であると思いますが、それが判断的関係に立つためには、自己限定しなければならない、というように考えてはいかがでしょうか。絶句の後に、それが何であるかを考えるのが哲学ですが、その場合にも哲学の側から勝手に限定し、考えるのではなく、あくまで具体的一般者の側からの自己限定として考える、そういうことではダメですか?

R

ですが、この箇所ではそこまで言えていないと思います。
佐野
テキストの目下の箇所では「変ずるもの」と、その根柢の「変ぜざるもの」との関係から「具体的一般者」が論じられているだけですが、それがどのようにして「意味」や「価値」に発展していくかは、先を読むほかなさそうですね。プロトコルはこの位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(331頁8行目~332頁4行目)
佐野
「最後の種差」(この青とこの青ならざるもの)を加えることで、一方でそこに「個物」(この木の葉)が成立すると同時に、この個物が「唯一の性質」(この青)をもつことになります。それとともに「矛盾なく他の異なれる性質的述語」(この香、この味など)をもつことになりますが、こうした「個物は尚変ずるものではない」とされます。「変ずるものは内に反対を含むものでなければならぬ、変ずるものの根柢にある変ぜざるものは内に反対を含んだものでなければならぬ」からです。

A

前回の講読箇所の最後に、「かかるもの(個物)が又述語的一般者に於てあると考えられた時、変ずるものとなる」(331,7-8)とありましたが。
佐野
その直前に「主語となって述語とならないものに到っても、尚変ずるものではない」とありますね。これを言い換えたものが「個物は尚変ずるものではない」です。そうするとその直後の「かかるもの(個物)が又述語的一般者に於てあると考えられた時、変ずるものとなる」を言い換えたものが、「変ずるものは内に反対を含むものでなければならぬ、変ずるものの根柢にある変ぜざるものは内に反対を含んだものでなければならぬ」であることになります。そのさい「個物」が「変ずるもの」、「述語的一般者」が「変ぜざるもの」の側に来ますが、「物其者が変ずるとは言われない」、「単に一般的なる色や形が変ずるのでもない」、「物の色や形が変ずるのである」(331,4-6)と言われているように、両者が「具体的一般者」として一つとなる所に「変ずるもの」が成立することになります。先程の例で言えば、〈この木の葉〉が〈この青にしてこの青ならざるもの〉に於てある、あるいは〈この木の葉〉が〈この青にしてこの青ならざるもの〉を含む時、「具体的一般者」が成立し、そこにおいて変化が可能となる、ということだと思います。

A

ですが「同一物は赤であると共に直に青であるとは云われない。我々が一つの物を赤であることもでき、青であることもできると考えることができるのは、既に時というものを入れて考えるか、然らざれば見る人の主観性を入れて考えるからである」とありますが。
佐野
そうですね。たしかに我々は赤であると同時に赤でない(青である)、などといわれればどう考えたらよいか分からない。しかし西田は「何故に一つの物が赤であると共に青である(赤でない)ことができないか」、その根源を考えようとします。まず「両者の間に反対性があるから」だ、と。しかしさらに「二つのものが相反するにはその根柢に同一なるものがなければならぬ」と考察を進めます。こうした議論はこれまでも、相異、反対(対立)、矛盾という深化において考察されてきましたね。こうして「同一の類に属して、その種が同じければ同じい程、両者は相反するものとなる」と言われます。

A

どういうことですか?
佐野
まず、類、種、個ということが念頭にあると思います。例えば、人類(類)、日本人(種)、佐野之人(個)ということです。もう一つは、対立は同一なるものがなければ成り立たない、同じ土俵に立つものが対立する、ということがあると思います。

A

分かりました。
佐野
「分かりました」と言われると困りますが。何しろ「どこまでも分からないもの」を相手にしていますから。ですがとりあえずはこれで分かったことにして次に進みましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(332頁4~10行目)
佐野
「述語的一般なるものを何處までもその一般性を失わないで之をその内に特殊化していく」、例えば存在→色→青というように特殊化していく。そうすると「最後の種に於て唯一の種差によって異なれるもの、即ち相反するものを含む」、この青とこの青ならざるものを含む〈青〉ですね。こうした「最後の種」(青)を超越してさらに「個物」(この木の葉)に至る。そのさい、「判断の主語と述語との対立から二つの方向を区別することができる、即ち超越すると云うに二つの意義を考えることができる」とされます。どういうことかというと「一つは所謂主語となって述語とならないと考えること」で、これが「quod in se est(それ自身の内にあるところのもの)」です。もう「一つは述語となって主語とならないと考えること」で、これが「quod per se concipitur(それだけで考えられるところのもの)」です。前者が主語・存在の方向で、後者が述語・思考の方向ですね。

B

後者は「絶対の無」ですか?
佐野
究極的にはそうなると思いますが、ここでは〈この青とこの青ならざるもの〉を含む〈青〉で、しかもこの青が抽象的な一般者としての青ではなく、個物(この木の葉)を包む具体的一般者です。「絶対の無」が自己限定した形と考えることができると思います。同様に前者の「個物」(この木の葉)も述語的一般者(青)に於てある具体的一般者です。つねにセットです。それでは次をCさん、お願いします。

C

読む(332頁10~13行目)

N

「判断が概念的知識たる以上」とあるところから、西田のあくまで哲学に徹する立場がよく表れていると思います。「全然主語となって述語とならないもの即ち全然述語を失ったものは考えることの出来ないものである」と言ってこれに固執するのが宗教だと思いますが、西田はそれで良しとしない。

S

それでも西田には判断のもととなるものが真理であるという前提があるように思います。
佐野
たしかに我々は判断する場合、それが究極的に真理に基づいていることを必ず前提しますが、それは我々の要請でしかないですね。同じことは『善の研究』において、西田が宇宙(=意識現象)の根本をその統一力としての神(=真の自己)に求めたことについても言えるとお考えでしたね。宇宙が統一されているというのは一面的な見方だと。統一の半面には分裂があると言っても、それが統一力をもとに考えられていると。たしかに西田には強く救いを求める宗教的な側面があり、ここにも西田哲学の特徴がありそうです。

R

「判断に於て真に主語となるものは所謂総合的全体という如きものでなければならぬ」とありますが、「総合的全体」とは何のことですか?
佐野
内容的には、第2段落末の「真に判断の主語となるものは所謂命題の主語ではなくして、却って具体的一般者であると云わねばならぬ」と重なると思いますので、「総合的全体」とは「具体的一般者」と考えてよいと思います。ただ何故それを「所謂総合的全体」と呼んだのかが問題となります。おそらくカントの「総合判断」における「総合」を念頭に置いているのではないでしょうか。カントの総合判断はまさに主語と述語を総合するものでした。それでは次をDさん、お願いします。

D

読む(332頁13行目~333頁2行目)
佐野
最初の「此の如き一般者」とあるのは「総合的全体」つまり「具体的一般者」のことですね。それは主語・個物と対立する「単なる抽象的一般概念」ではない、「類概念」ではないとされます。それは「超越的述語面」だとされますが、その「超越」の意味が次に述べられます。何と書いてありますか?

D

「一般が述語として特殊を包むという〔包摂的〕関係を最後の種にまで進め、之を超越しても尚それが概念的知識であるかぎり、かかる形に於て超越すると考えねばならぬ」とあります。
佐野
「かかる形」とは?

D

「一般が述語として特殊なる主語を包む」ということだと思います。
佐野
そうでしょうね。主語の方向に個物へと超越するのと同時に、それに対応して述語の方向に超越して個物を包む「超越的述語面」となる、ということでしょう。最後にこれの述語的一般性の側面が確認されます。「最後の種を特殊化したもの、即ち個物までも含むものはもはや抽象的一般として考えることのできないものであるが、而も尚判断を内に含むという意味に於て述語的一般性を失うたものではない」。今日はここまでとしましょう。
(第101回)
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変ずるもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「一」の第2段落326頁3行目「右の如く」から328頁11行目「主語とするのではない」までを読了しました。今回のプロトコルはKさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「変ずるものの根柢には変ぜざるものがなければならぬ」(326頁12行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「①時其者を考へるとしても、少くも時を固定して見るのである、時を固定せる要素から成り立つものとして、その要素を比較するのである」との記述は、キーセンテンスとして上げた文の説明と理解していいのでしょうか。そうだとすると、②「時を固定する要素」を主観的に選定(=時の背後に置く)し、その条件のもとで行えばいいということでしょうか。③「時の関係において変ぜざるものがあるのか」という疑問を持っているので、このような問いになりました」(209字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
問いが三つありますね。まず①から。これはそのように理解してよいと思います。「固定せる要素から成り立つ」「時」が「変ぜざるもの」です。皆さん、いかがですか?特に異論がないようでしたら②に移ります。「行う」の意味が曖昧ですが、これは「現ずるものの根柢に変ぜざるものを考える」ということでよいと思います。これが、西田が「そのように行えばいい」と言っているのか、という質問だとすれば、それはそうではないでしょう。それでは「時其者を考える」(「時其者・時の変化其者を主語とする)ことにはならない、というのが西田の主張だと思います。この点についても、皆さん、何かご意見はありますか?ないようでしたら、③に移りたいと思います。これはどういうことですか?

K

すべてのものは変化のうちにあり、常住なものは何ひとつない、と思うからです。変化を論ずるには、相対的に静止しているものを設定すればよいですが、絶対的に静止しているものはない、ということです。

T

意味は移り行かないものだと思います。もしそうだとすれば語るということが成り立ちませんし、知識というものも成り立たないと思います。

K

意味というのは時の背後に置かれたもので、それは常住かもしれませんが、ここでは「時其者」を考える場合に、そこに「変ぜざるもの」はあるのかを考えたいのです。
佐野
それはどうもこれから西田が論じようとしていることに関わるようですね。ということで、プロトコルはこれ位にしてテキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(328頁12行目~329頁5行目)
佐野
ここはこれまでのまとめと「二」への移行を論じた部分ですね。少しずつ行きましょう。「時の関係」とは前後・同時・長短のことですね。「その項となるもの」が「性質を有つ」とは、前は青だったが、後は赤である、というようなことです。しかし青や赤は性質であっても「意味」ではない、ということです。価値を含んでいないということだと解釈されます。そうして「意味は他との関係に於て成立するのである」とあるのは、意味は、例えばつねに何々にとってという意味で、他との関係において成立する、ということだと考えられます。ここまでで分からないところはありますか?

A

大丈夫です。
佐野
次に「併し時の関係は之を性質的に区別することすらできない」と来ます。正しくは「時の関係に於てその項となるものは之を性質的に区別することすらできない」ということでしょう。前後・同時といった関係のうちにあるものはすべて〈今、今、今…〉ないし〈時、時、時…〉というように同質だからだと思われます。これを言い換えて「時に於ける変化を区別するものはその背後に考えられた性質的一般者か、然らざれば時を超越した概念的統一にすぎない」と言われます。327頁7~9行目では「性質的一般者」と「類概念的なるもの」とが同じ意味で用いられていましたが、ここでは「性質的一般者」は「背後」、「概念的統一」は「超越」というように分けて述べられていますね。「性質的一般者」ということで「色」のようなものを考え、「概念的統一」ということでもっと抽象的な、「時の類概念」(328,2)とか、「時間空間質量の数学的函数」としての「力」(327,6)を考えているのかもしれません。確かにこうしたものを置けば、例えば色が青から赤に変わったというように、変化を区別することはできるでしょう。しかしそれでは「時其者を主語として之に述語的性質を加えることはできない」とされます。「性質時」になっていない、ということです。そうして「時の長短否前後ということすら、時の要素について述語するのである」と来ます。

A

この「時の要素」とは前の段落にあった「時の要素を固定して居る」と言われたものですか?
佐野
そうですね。「固定」せる「時の要素」です。

K

いまひとつイメージできませんが。
佐野
前回は時の空間化ということを申し上げましたが、時間軸などにおける各点、時計版における、何時何分といった各点、あるいはカレンダーの日付も考えられると思います。これらについて「時の長短・前後」が述語される、というわけです。

K

分かりました。
佐野
ここからは次の「二」への導入です。「然らば我々が時の変化其者を主語として考える時」、つまり例えば「性質的一般者」を背後に置いてこれについて述語するのでなく、ということですね。その時に「如何なるものを考えて居るのであるか」。次に「如何にして性質時という如きものを考え得るのであるか」とあるのは言い換えですね。ここには、我々が「性質的一般者」や「概念的統一」を背後に置かずに「時其者(時の変化其者)を主語として考える」ことができる、という前提があります。これについては追々考えていくことにしましょう。その場合「時が内面的に性質的区別を有つと云うには、我々が時と考えるものを類として之を分化することができねばならぬ。併し一度的と考えられる時は更に分化することのできないものでなければならぬ、時を内に包み尚之を分化する一般者とは如何なるものであろうか」と述べられて、「二」に移ることになります(後に出てくるように、この「一般者」とは「具体的一般者」であると考えられます)。それでは次をBさん、お願いします。

B

読む(329頁7~13行目)
佐野
初めに「すべて存在するものは時に於てある」とありますが、この「存在するもの」は意味的・価値的な存在ではありませんね。「時に於てある」ような「存在」です。それでは「時とは如何なるものであるか、如何にして我々は時というものを考えることができるか」が次に問題になります。そうして「時を考えるには先ず連続ということを考えねばなるまい」と来ます。さらに「連続というものを考えるには、数学者の所謂集合の概念を基とせねばならぬ」とされます。そうして「連続の概念の根柢に類概念がなければなら」ず、それを数学者は「集合の概念」だとし、そこから「完全集合」として「連続」を定義する、と述べられます。この完全集合は「カントール集合」と呼ばれるそうですが、ここでは立ち入ることはできません。いずれにせよ「併し時は連続の一種であるとしても連続は即ち時ではない」というように、連続から時を考えるやり方は却下されます。「線の如きものでも、一種の連続である」とあるように、空間化された時は時ではない、とされます。そうして「時は変ずるものでなければならぬ」とされ、それでは「変ずるものとは如何なるものであるか」と、再び「変ずるもの」が問題になります。それでは次をCさん、お願いします。

C

読む(329頁14行目~330頁8行目)
佐野
「類概念」をどこまでも特殊化すると「最後の種」に達するが、それはまだ「個物」ではない、それが「真に個物」となるには「主語となって述語とならない」と云うことが「附加」されなければならない、と言われていますね。「佐野之人」は個人(個物)ですが、これは決して述語にはなりません。「佐野之人は〇〇である」とは言えても、「〇〇は佐野之人である」とは言えない。もちろん「2025年6月に山口西田読書会の進行役をしているのは佐野之人である」というように、個人を特定することはできますが、それは「佐野之人」の一面にすぎません。「〇〇は佐野之人である」と言えるためには、「佐野之人は〇〇である」という言明に無限の述語が可能である(語り尽くせない)のと同様に、無限の主語を必要とすることになりますから、「〇〇は佐野之人である」とは言えない、ということになります。

T

名前があれば個物を言い表せる、ということですか?
佐野
名前で呼ぶことによって、相手を個人(唯一無二)として扱うということはありますが、名前が個物そのものではないでしょう。名前は「私(これ)は佐野之人です」というように、述語の側に来ますから。「私(これ)」の「〔一つの〕名前」という側面にすぎません。この場合の個物はまさに主語の「私(これ)」です。ですが「私」と言えば誰もが「私」ですし、「これ」と言えばどれも「これ」です。言葉は一般的なものしか言い表すことができません。「唯一無二の私(これ)」と言っても、どれも皆「唯一無二の私(これ)」です。こうした〈一般としての個〉に対して、〈個としての個〉と言っても、やはりどれも皆〈個としての個〉です。言い表せません。我々はこうした個に出会うときには、絶句(言葉を失う)ほかはないことになります。「主語となって述語とならない」には「言い表せない」ものが立ち現れている、という絶句の事態が籠められています。テキストに「主語となって述語とならないと『云う』ことが附加せられねばならない」とありますが、これはまさに絶句の事態を敢えて言葉にしたものと考えることができます。「是に於て最後の種は即ち個物となるのである」とありますが、これは単に「主語となって述語とならないと云うこと」を「附加」すればそうなる、というような操作を言っているのではないと思います。次に「概念の特殊と一般との関係」とありますが、これは論理的な関係ですね。それと「判断の主語と述語との関係とは不可分離的であると共に、単に之を同一視することはできない」とあります。その理由が次に述べられていると考えられます。何とありますか?

C

「主語となって述語とならないと云うことによって、我々は所謂特殊化によって達することの出来ない尖端に達するのである、一般概念を破って外に出るのである」とあります。
佐野
概念の特殊と一般との関係では達することの出来ない「尖端」に、判断の主語と述語の関係が到達できる、というのです。それはまさに「云う」ということ、述語できない(語れない)と「云う(語る)」ということによってだ、ということです。ここには明らかに突破・超越がありますね。そうして「斯くして個物の概念に達した時、一般的なるものは個物の属性として此に於てあるものとなる。縦、ソクラテスの性質は他と共通なるものであっても、それはソクラテスの性質として唯一のものでなければならぬ」と言われます。塩も砂糖も白い、その意味で「白さ」は一般的ですが、「この塩の白さ」は砂糖の白さとも、他の塩の白さとも異なる個別的なものになります。それでは次をⅮさん、お願いします。

D

読む(330頁8~13行目)
佐野
ここでは「個物というものを考えるには、之を一般概念の埒外にまで進めねばならぬ」が、「併し判断が如何にして一般概念を破ってその外に出ることができるであろうか」と、上で述べられたことが改めて問いとなっています。上ではそれを判断の突破・超越と解釈しました。次いで「全然一般概念を超越するならば判断の主語となることもできない、何等の意味に於ても判断的関係に入ることはできない」とあります。まさに「絶句」ですね。たんなる判断の突破・超越では絶句にしかならない、ということでしょう。そこで「真に判断の主語となるものは所謂命題の主語ではなくして」、つまり「概念の特殊」ではなくして、「却って具体的一般者であると云わねばならぬ」。出て来ました。「具体的一般者」ですね。特殊と対立するのでなく、特殊を包む一般者のことです。ここでは「主語となって述語とならない個物を包む一般者」のことですね。先程の話で言えば、「主語となって述語とならない(言い表せない)と『云う』」ことによって、そうした真の判断の主語が具体的一般者として立ち現れていることになります。一旦判断の外に出て、改めて(別の)判断に戻ってきた形です。そうして西田としては、この「真の判断の主語」がその他のすべての判断の根柢にあることになります。こうして「個物」は語り尽くせないものとして立ち現れることになります。次をEさん、お願いします。

E

読む(330頁14行目~331頁)
佐野
西田はこの「具体的一般者」という「右の如き考」から「変ずるものというものを考えることができる」と考えているようです。その内実はまだ分かりません。見て行きましょう。「変ずるものは反対に移り行かなければならぬ」が、「変ずるということ」の「根柢に変ぜざるものがなければならぬ」と以前述べられたことが繰り返されますが、この「変ぜざるもの」こそが「具体的一般者」だというのでしょう。しかしどういうことか、慎重に見て行きましょう。具体例が出ていますね。どうなっていますか。

E

「赤が青に変ずると云っても、赤其者が青となるのではない、色が変ずるのである、色が変ずると云っても、色の一般概念が変ずると云うのではない」とあります。
佐野
では何が変ずるというのでしょう。読者のはやる気持ちを抑えるように、まず何でないかが語られます。最初は主語的方向に「物其者」を考え、次いで述語的方向に「一般的なる色や形」を考え、どちらも「変ずるもの」ではない、と却下します。そうして「物の色や形が変ずるのである」と述べます。これは納得できますね。次いでこれを言い換えて「主語となって述語とならないもの」すなわち「個物」が「又述語的一般者に於てあると考えられた時、変ずるものとなるのである」と述べられることになります。これはまさに個物を包む一般者ですから、具体的一般者ということになるでしょう。今日はここまでとします。
(第100回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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