最後の種

前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」の第5段落354頁1行目「数学的知識の如きものに於ては述語面が直に主語面となり」から355頁14行目「即ち矛盾的統一の超越的述語面となるのである」までを読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「之に反し前者に於ては真に主語面が述語面の中に没入せられ、述語的なるものが直に主語となると考へることができる、真に個物的なるもの、唯一的なるものを含むと云ふことがで きるのである、即ち矛盾的統一の超越的述語面となるのである」(355頁12-14)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「リトマス紙では、変化の刹那に「赤にして赤でない」と言えても、やはり「紙」という基体があり、赤と赤でないものは時の前後に分けて考えられる。炎の赤(生滅するもの)の場合は、燃えて消えていくその現れとしてしか「この赤」はないように思う。では、メロディーのように、前の音が消え、次の音へ移ることで一つの全体として聞 こえる場合はどうだろうか。その場合、固定した基体はないが、時間的な前後なしには 成り立たない。これは「狭義に於ける変ずるもの」(リトマス紙)に近いのか、それとも「主語面が述語面に没入する」「矛盾的統一」(炎の赤)に近いのか」(263字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。

Y

リトマス紙と炎とメロディーの例が挙がっていますが、リトマス紙または炎と、メロディーは性質が異なるようです。メロディーには美の要素が含まれるからです。ただリトマス紙でも炎でも美を感じることは可能です。どんなものでも物理現象と見ることもできれば、価値の対象として見ることもできると思います。メロディーも音の変化と見れば物理現象です。その場合三つのどれをとっても基体があるように思われるのですが。
佐野
具体的に言説明してください。

Y

リトマス紙における色の変化は、リトマス紙が基体ですが、炎の場合には燃焼物、音の場合は空気が基体です。
佐野
そうですね。もともと「基体」とは「基におかれたもの」という意味です。炎における色の変化は、「炎」が基体、音における変化(高低、強弱、音色など)の場合には「音」が基体になっていますね。そのように考えると、これらはすべて「狭義に於ける変ずるもの」と考えることができそうですが、Rさんは、「炎」ということで、生成と消滅が直ちに一つであるようなものの象徴、喩(メタファー)をお考えなのかもしれませんね。行く川の流れもこうしたものの喩となりえます。メロディーはたんなる物理現象ではありませんが、この点で想い起されるのが、ブレンターノの「直視様相」と「斜視様相」の区別です(旧全集第4巻62,2)。両者の区別が成り立つのは「内部知覚」という意味での意識現象で、これはたんなる物理現象の話ではありません。「内部知覚」としての「意識現象」の話はこのあと出て来ますので、その時に考えることにして、テキストの講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(355頁14行目~356頁3行目)
佐野
「一般的なるものを特殊化して行けば、最後の種に至るまでは中間的質料を含むと考えられる、かかるものの存するかぎり、述語面は主語面を包み得たとは云えない」とありますね。ここだけ読むならば、「最後の種」は「類-種-個」のうちの「種」の最後のもので、「個」に至る一歩手前、そのように考えられます。実際、「判断的関係を含む特殊と一般の関係を何處までも推し進め、最後の種に於て相反する種差の一方を限定することによって個色というものが考えられる」(334,13-15)という表現があります。この場合は「最後の種」が「最後の種差」を取って「個」に至る、という図式ですね。「種」はどこまで行っても「一般」です。これが「最後の種差」、例えば「この赤か、この赤でないか」のいずれかを取ることによって、「この赤」という「個(色)」になるということになります。

A

「中間的質料」とは何ですか?
佐野
「最後の種」で言えば、「この赤」と「この赤ならざるもの」の「中間(どちらでもあり、どちらでもないもの)」で、さきほどの例で言えば、「リトマス紙」や「炎」などの「基体」がそれにあたります。「質料」とはアリストテレスの用語「ヒューレー」の訳語で、「素材」という意味です。例えば大理石はヘルメス像にもアテナ像にもなりえますね。この場合ヘルメス像は「形相」と「質料(=大理石)」から成る、そのように考えます。大理石はヘルメス像ともなり、アテナ像ともなりうる、中間的なものです。

A

ありがとうございます。「かかるもの」とは「中間的質料」のことだと思いますが、そういうものが「存するかぎり、述語面は主語面を包み得たとは云えない」とはどういうことですか?
佐野
とりあえず特殊・一般の「包摂関係」に従って「最後の種」を考えると、「リトマス紙」が「最後の種」と考えられます。この「最後の種」が「この赤」か「この赤ならざるもの」という「最後の種差」を取ることによって、「個色」が成立しますが、「個色」という「自己同一」なるものは「変ずるもの」なので、「この赤」は同時に「この赤ならざるもの」です。そうすると「リトマス紙はこの赤にしてこの赤ならざるものである」という判断が成立することになりますが、この判断ではなお、述語が主語を包んでいません。「リトマス紙」という「質料」が残っているからです。

A

ありがとうございます。話をもとに戻してください。
佐野
ここまでは「最後の種」を「個」の一歩手前、と考えることで何とか読めるのですが、次を読んで見ましょう。何と書いてありますか?

A

「最後の種に至って相反するものは相矛盾するものとなる、此に自己同一なるものが見られ、包摂的関係の逆転が成立する」とあります。
佐野
そうですね。ここにも「最後の種に至る」という表現が見られます。しかしこの場合「最後の種」を「リトマス紙」のような「中間的質料」と考えることはできませんね。この「最後の種」は「リトマス紙」が含んでいる「相対立するもの」(「この赤」か、「この赤ならざるもの」か)を破った、「自己同一なるもの」と一つになった「相矛盾するもの」としての「個」です。つまりこの「最後の種」は「一般」でありながら、同時に「個」である、つまり「具体的一般」です。そうしてそれは「自己同一」でありながら「相矛盾」している。「この赤であると同時にこの赤でない、それゆえにこの赤である」と言われるものです。これが「生滅するもの」ということです。こうした「最後の種」については、「二」で詳しく論じられていました。例えば337頁3~6行目をご覧ください。何と書いてありますか?

A

「最後の種が自己同一なる個物となるには、一般的述語性を否定することによって自己自身を肯定するのである、肯定即否定となるのである。包摂的関係から云えば最後の種を尚一歩特殊化の方向に進めたものであるが、矛盾的統一としては種差を含むものとなる。是に於て抽象的一般から具体的一般に転ずるのである」とあります。
佐野
「種差」とは、例えば「この赤」と「この赤ならざるもの」のことです。もともと根本にこの「最後の種」=「個物」(自己同一=相矛盾)があって、我々はこれを分別的に主語と述語、特殊と一般、自己同一と矛盾(対立、相異)というように分け、矛盾なく理解しているつもりになっている、そういうことでしょう。こうした「最後の種に至る」と「相反するもの」が「相矛盾するもの」となり、ここに「自己同一なるもの」が見られ、「包摂的関係の逆転」、つまり「主語」と「述語」の包摂的関係が逆転する、というのです。「逆転」と言っても、主語が述語を包摂すると同時に、述語が主語を包摂するといった関係です。次に参ります。もう一度読んでみて下さい。

A

「一々の中間的なものが最後の種となる時、主語面と述語面は合一して矛盾的統一を含む一般者が見られるのである」。
佐野
「一々の中間的なもの」、質料的、基体的なものですね。これがなくなって「最後の種」となる。そうなると「主語面と述語面」が合一する。そうすると「矛盾的統一を含む一般者」、これは「具体的一般者」ですね。これが「見られる」。この「見」は直覚でしょうね。

A

主語的なものをなくして見るということですね。そんなことができるんでしょうか。また、そこからどうやって判断や思惟が成立するのでしょうか?

W

反省の方から反省を徹底させている感じですね。
佐野
あるいは、直観の立場に立ちながら、その立場を正当化するためにあえて反省から論じている(徹底的批評主義)感じですね。西田は『善の研究』以降、直接に直観の立場に立って、そこから反省と直観を区別しつつ、(具体的一般者の自己限定というような形で)反省を直観に回収しようとしているように思われるのですが、私は、直観と反省も即非(矛盾的自己同一)の関係にあって、直接に直観の立場に立つことはできないように思うのです。直観されたものは反省しなければ顕わにはなりませんが、反省されたものはすでに直観されたものではない。反省にとって直観はすでに隠れている、あるいはむしろ反省にとって直観はつねに隠れている、直観は反省が破れることによってのみ顕わになるという側面、この反省が破れるというところに他者の存在が不可欠ですが、こうした側面がこの時期の西田には見られないように思われます。反省を破って初めて成立する「具体的一般者」を、「そこからそこへ」と言われるような直接性として立てて、そこに直接立ってしまう、そこにこの時期の西田の問題があるように感じられます。さて、これまでのところは「具体的一般者」を、後に「判断的一般者(この言葉は350頁2行目の「段下げ」部分に見られますが)」と呼ばれる立場に立って、主語と述語の側面から論じていましたが、「生滅するもの」において両者の統一が成立することによって、「推論式的一般者」の立場が成立し、またここに本文としては初めて「推論式的一般者」の語が登場することになります(いわゆる「段下げ」の部分では、349~350頁。本文の中でも括弧の中では353頁で登場しています。また「推論式」については『場所』論文の260~262頁で論じられています)。

A

どうしてここで「推論式的一般者」が登場したのでしょうか?
佐野
その問いに答えることが、おそらく論文一本になるでしょう。ただきわめて簡略に言えば、主語と述語との合一が「生滅するもの」において達成されたからだ、とは言えるでしょう。その登場の現場を見て見ましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(356頁3~7行目)。「推論式」って何ですか?

C

「人間は死ぬ―ソクラテスは人間である―ゆえに、ソクラテスは死ぬ」のうち、「死ぬ」が「大語」、「人間」が「媒語」、「ソクラテス」が「小語」だったと思います。

B

ありがとうございます。続けてください。
佐野
「媒語的形式に於て大小両語を包むと考え得るであろう」とありますが、「何が」だと思いますか?

B

「一々の中間的なものが最後の種となること」だと思います。
佐野
そうですね。つまり「主語面と述語面とは合一して矛盾的統一を含む一般者が見られる」というのを「推論式的一般者」に即して述べたもの、ということになりますね。続いて「小語と大語とが相対立する両方向に於ける〔二つの〕統一面となり、媒語が大語と合し小語を包むと考えられる時、大小の両語は媒語の両端と考えられ、超越的述語面が矛盾的統一を包むと考えることができる」とあります。これだけ読んでも何のことか分かりませんね。しかしそれは西田も承知で、これから述べることの結論を予め示したのだと思います。ここでは物理現象というものが、大語面の方から論じられている、そこだけ押さえておきましょう。そうして最後に「推論式に於て最も能く具体的一般者の全構造を見ることができるのである」とあります。どのように見ることになるのか、これももう少し待つことにしましょう。今日はここまでとします。
(第119回)
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肯定、否定、否定の否定(矛盾的統一)

前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「四」第5段落352頁11行目「例えば色の抽象的概念であっても、そこまで広げて行けば」から、同段落354頁1行目「何らかの意味に於て述語面に於て一般概念が限定せられ得るかぎり、概念的知識が成立するのである。」までを読了しました。今回のプロトコルはTさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「色の一般と特殊との関係が判断の主語と述語との関係を含むとすれば、その主語となって述語とならないと考えられる超越的主語面に於て色自身の体系という如きものが見られ、之に反し述語となって主語とならないと考えられる超越的述語面に於てその抽象的概念の体系が見られるのである」(352, 12-15)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「個色が「この色」として立ち上がる時、単独で無構造に現れるのではなく、他の色との対立・移行や場面との関係を含んだ何らかの構造があるのではないか。それを判断の対象とするなら述語面に移るが、「この色」と出会うその体験の中で構成的・能動的に働いている限りは超越的主語面に属するのではないだろうか。「色自身の体系」とはそのような構造を指しているのではないか」(173字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
テキストを読む場合でも、何を考える場合でも、人間は各々の前提を携えて、そのうえで読み、考える外はありません。この場はお互いにどのような前提で考えているのかに気づいていく、とりわけ自分自身の前提に気づいていく場にしたいと思います。というわけでTさんがどのような前提でお考えになっているかを、対話しながらともに考えていきたいと思います。まずはTさん、補足をお願いします。

T

「超越的主語面」において「色自身の体系」が見られる、というのに違和感がありました。「色」で考えると表現しにくいので、「味」で考えたいと思います。というのも最近「おいしいお酒」を飲んだのですが、そこに「味自身の体系」のようなものがあるように感じたのです。ワインなら、ブドウの品種、土壌、醸造法、樽の種類を見分けられるのみならず、それを「チェリー等の黒系果実と菫、コーヒー、白コショウを伴う複雑な・・・」と言った言葉で形容できる、そうした体系です。一方に「超越的主語面」というものがあるのですが、これは何とも限定しようのないものです。他方に「超越的述語面というものがあって、これは「抽象的概念の体系」ですから、限定可能です。でも「味自身の体系」というのは「限定しようがない」ということではありません。だとすれば、これは両者の中間に位置するものではないかと思うのです。ソムリエとか酒の杜氏といった熟練の人たちのみが、何とも限定のできないもののうちに潜在的に含まれている体系に、トレーニングの果てに到達し、それに表現を与えたものが「味自身の体系」だと思うのです。こうしたトレーニングがないと、「深き意味に充ちたる画家の直覚の如き者」(『善の研究』39頁)である「個物」(超越的主語面)には出会えないと思いますし、こうした画家にとっては、個物は体系として立ち現れていると思います。
佐野
『善の研究』の「純粋経験」が解釈のベースになっているようです。「構成的で能動的」というのも『善の研究』(38頁)の「純粋経験」についての言葉ですね。少し整理してみます。「超越的主語面」は、何とも限定できないものであるけれども、潜在的に「構成的で能動的」な構造ないし体系をもっていて、そうした構造ないし体系を、修行を経た人、ないしトレーニングを積んだ人のみ知りえ、それに適切な言葉を与えうる、と。こんな感じですか?

T

大体そんな感じです。
佐野
それではこうした考えの前提を考えていきましょう。

L

そのようにして得られた知識でも、それが雑念となるとか、知識が邪魔をしてそのものでなくなってしまうということはありませんか?

T

もちろんそういうことはありえますので、知識を踏まえたうえでまっさらにする、というのが大事なのですが、それは知識がなければできないことだと思います。

Y

熟練の人でなければそうした境地に行き着けない、ということですか?

T

知識のない子供が何かに衝撃を受けるということはあると思いますが、そうした経験と、熟練の人の経験、「深き意味に充ちたる画家の直覚」では、やはり優劣がないとは言えないと思います。少なくとも、子供はそうした経験に適切な言葉は与えられない。

H

二歳の子供はみな天才だが、勉強することによって、もともと持っていたものを失くして行く、というのを聞いたことがあります。
佐野
子供の経験と熟練の人の経験の比較ということですが、経験そのものについては、これはもう、分からない、としか言いようがないのではないでしょうか。動物でも言葉の内容となるものはほとんど人間と同じように知っている。例えば動物は「自己」という言葉も一般化された概念としての「自己」も多分知らないけれども、「自己」という言葉の内容はしっかり知っている。

T

しかしそれを知識として捉えることはできません。そのためには袋のようなものをたくさん持っていることが必要になると思います。
佐野
それに対してはLさんやHさんは、その袋に入らないものを捨てているので、すでにありのままではないし、その袋がありのままに見ることを邪魔している、とお考えになると思います。そもそも実在が潜在的に能動的構成的な構造ないし体系をもっていて、それを我々の修練によって体得・会得することができる、という考えは、きわめて「純粋経験」の思想に親和的ですが、すでに多くの前提を含んでいるように思われます。つまり、こうした前提が一つの袋になっている、ということです。

A

どういうことですか?
佐野
そこにはちょっと考えただけでも、①「実在」が存在し、それが能動的構成的な構造ないし体系をもっていること、②我々の経験がじつは(潜在的に)こうした実在そのものに触れているということ、③我々は修練によってこうした実在を体得・会得できるということ、といった前提を含んでいます。『善の研究』は、西田が、こうした実在を会得・体得したところから、それを振り返るような仕方で、この三つの前提を証明するような体裁をとっています。まず、目の前の意識現象とそれを意識する(知る)こと直に一つである、というきわめて常識的な事実を根拠に、これを「考究の出立点」とします。これを反省的に考察することによって(第2編)、唯一の実在が存在すること、それが意識現象として存在すること(主客合一)、意識現象が能動的構成的であることから実在がそうした形式ないし方式(統一と矛盾、分化発展)をもっていること、こうした方式によって、自然(客観的方面)、精神(主観的方面)、神(両者の合一)が成立することが説明されます。しかし以上は実在を外から反省的に説明したまでで、実在、したがってその統一力を体得・会得したことになりません。こうして行為が問題になることになります(第3編)。そこでは真の善が真の自己(=真の実在)を知ることであるとされ、その可能性が純粋経験説に基づいて示されながらも、それは命令に終わっています。こうした挫折を通して逆に、宗教(第4編)さらには哲学(第1編)において、真の実在にして真の自己が体得・会得されることになります。これを見ると、『善の研究』の全体が「考究の出立点」を前提にしていることが分かります。それは目の前の意識現象とそれを意識する(知る)ということが同一であるという、極めて常識的な事実でありながら、その奥義「経験するというのは事実其儘に知るの意である」の体得・会得には宗教的・哲学的な知的直観が不可欠とされるものです。西田にはそうした直観を得た、あるいは少なくともそうしたものが「なければならぬ」という直観を得たとの確信があったと思いますが、私がここで申し上げたいのは、こうした「極めて常識的な事実」にしても、知的直観を得た、という確信にしても「前提」、つまり「袋」ですね、そうしたものになりえないか、ということです。そんなことを私に強く思わせるのは、ニーチェの影響もあると思いますが、目の前のものが実在であるとか、その奥義を修行によって体得・会得できるという考えは、我々の人生をたいそう生きやすいものにしてくれる考えだからです。つまり、我々にとって都合のよい考え方だからです。あるいはこう言ってもいい。実在やその体得・会得が問題になっているのは真理が問題になっているからですが、真理が問題である以上、「真理がある」ということ自体が疑われなければならない。そうなると、目の前のものが実在であるというのも、その奥義を体得・会得した境地があるというのも、疑わしいということになります。

A

ですが「経験するというのは事実其儘に知る」というのは、「真理」がどこかにあるという考えも否定されたさらに一歩先、というかむしろ手前に開ける境地ないし境涯とも考えられますが。
佐野
それはその通りだと思います。しかし他面、そのように言ってしまうと、それがまたしても新たな「知」、「前提」になってしまうということがある。何かを立ててしまうということをどうしてもやめられない。問題はこの「やめられない」、あるいはこうだ、といって「片付けられない」というところに十分に自覚的であることではないか、と思うのです。「無知の知」というか、「汝自身を知れ」というか、そういうソクラテス的なところにつねに帰って哲学してはどうかと思うのです。プロトコルはこの位にしてテキスト講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(354頁1行目~8行目)
佐野
「数学的知帰」と「経験的知識」が対比されていますね。「数学的知識」の場合には、「述語面」、これは代数の場合は「数」、幾何学の場合は「図形」ということになりますが、どちらも「一般概念」つまり「抽象的一般」です。そうした「述語面」が直ちに「主語面」になる。例えば「3」という数も概念で、数の体系の中でのみ意味をもつ概念ですから、「3は数である」、つまり「特殊は一般である」という命題はその「一般概念」の中で成立します。「三角形は図形である」も同様です。その場合は経験を俟たずに「両面が合致するが故に」、「先験的」知識となる、つまり例えば三角形なら、実際に計ってみることなく証明によって内角の和は二直覚になる、ということです。ところが「経験的知識」の場合はそうはいかない。「両面は何處までも合致することはできない」。主語面に来るものが個物だからですね。個物は完全に言い表すことができない。ですから「限定せられた述語面として現れるものはいつでも部分的なるもの」、ということになります。次に参ります。「一般と特殊との概念的関係から出立して、特殊化の方向を何處までも進めて行っても、その尖端が直に背後の限定せられた一般者に於てあると考えられるものは」とありますが、何の話をしていますか?「数学的知識」ですか?それとも「経験的知識」ですか?

A

「数学的知識」です。
佐野
そうですね。「その尖端」、たとえば「3」とか「三角形」ですね。それが「直に」「数」とか「平面図形」に於てある、ということです。その場合には「主語面と述語面が合致」している。それによって「数学的知識」が先験的に成立することになります。これに対し「その尖端が限定せられた背後の一般者の外に出ると考えられる時」とありますね。この場合の「尖端」とは?

A

「個物」です。
佐野
そうですね。その場合、「之」、「尖端」つまり「個物」ですね。それを「包む一般者は限定すべからざるものとならねばならぬ」とあります。「抽象的一般者」ではない、「超越的述語面」ということです。こうなると個物について何も語れないことになりますが、そうではない、と西田は言います。すなわち「併し之に於て判断が成立するかぎり、それは如何なる意味に於ても限定することのできないものとなるのではない」、つまり自己限定して「抽象的一般者」になりうる、ということです。「個物」について語りうる、哲学できる、ということです。明らかに矛盾のようですが、西田は個物を語りうる論理が存在することを念頭に置きながらこのように言っていると考えられます。それでは次をBさん、お願いします。

B

読む(354頁8行目~14行目)
佐野
「判断的関係を含んだ具体的一般者の自己限定に三つの段階を区別することができる」とありますが、これは以前(350,15)に出て来た「論理的限定」ですね。①肯定的、②否定的、③否定の否定即ち矛盾的統一の3つがそれだとされます。次に「単に特殊と一般との関係を含む一般概念は特殊の否定を含むと考えられても、自己自身の否定を含むと云うことはできない」とありますが、何の話ですか?

B

「数学的知識」だと思います。
佐野
そうでしょうね。「自分自身の否定を含む」とは「一般概念」の外に出るということです。「数学的知識」の場合はそれがない。「3」と言っても「三角形」と言っても「一般概念」内です。「併し」と来て、「具体的一般者」、「個物」を含む一般者のことですね。それ「に於ては自己自身の中に矛盾を含むと云うことができる」と述べられます。まず①「具体的一般者が肯定的に自己自身を限定すると考えられる時」が考えられます。ここでは「これは赤い」という「感覚」の場合と、「このリンゴは赤い」という「物」についての判断である「知覚」の場合を含めて考えているようです。そうした時、「単に主語となって述語とならない特殊化の尖端」、「個物」ですね、それを「包むと考えられる」、言い換えて「即ち超越的主語面という如きものが考えられる」とされます。そうして「我々が本体と考えるものは此の如き主語面を意味するのである」と続きます。

B

「本体」とは「物自体」と考えてよいですか?
佐野
そうですね。色について言えば、以前、「色自体」の体系、「色自身」と呼ばれていたもののことです。「之に反し述語面は之と対立して単なる意識面即ち対立的無の場所と考えられる」と続きます。西田は、とにかく「具体的一般者」がなければならない、つまり我々が経験しているのは個物であり、それは言語に言い表すことのできるものである、というきわめて常識的な立場に立って考察を開始しているので、それが主客に分れた場合にこういう形をとることになります。カントでしたら反省の立場に立ちますので、そもそも「個物」(物自体)の知的直観はありえませんから、「具体的一般者」はどこまでも統制的な理念となって、超越論的主語面には経験的に感性的な直観が、超越論的述語面には感性の形式(時空)と悟性の形式(カテゴリー)、および超越論的統覚が来ることになります。さて、「而して具体的一般者が単に肯定的に限定せられたものと考えられるかぎり」、感覚(これは赤い)及び知覚(このリンゴは赤い)の場合ですね、その場合に、「その述語面に於て現れるものも単に肯定的に限定せられたものでなければならぬ」、つまり単に「赤い」ということです。「併し具体的一般者として判断がその内に成立すると考えられる以上、述語面は主語面を自己自身の限定として内に包むものでなければならならぬ、即ち超越論的述語面でなければならぬ、斯くして始めて具体的一般者と云い得るのである」と続きます。「これ」とか「このリンゴ」を包むものは「一般概念」(「抽象的一般者」)であってはならない、ということです。「然るに単に肯定的に限定せられた述語面」、つまり上の例で言えば「赤い」は「真に超越的述語面を包むと云うことはできぬ」とあります。しかしここは「赤い」が、「これ」や「このリンゴ」を包むことはできない、という意味でなければなりません。おそらく「真に超越的述語面を包む」は「真に超越的主語面を包む」の誤植であると考えられます。直前に「述語面は主語面を…包むものでなければならぬ」(355,2-3)という表現がありますし、少し後(355,6)にも、「超越論的述語面が超越論的主語面を包む」という表現も見えます。「誤植」というような判断は滅多にしてはならないのですが…。

B

いえ。ここはそう読んだ方がいいと思います。
佐野
続けます。「単に抽象的一般者と考えられる所以である」、「赤」が「抽象的一般者」だということですね。それでは「これ」、「このリンゴ」といった個物を包むことはできない。続いて、②「次に具体的一般者が自己自身に否定を含むもの」、とありますね。以前、「自己自身の否定を含む」(354,10-11)という表現があり、それは「個物が一般者の外に出る」という意味でしたが、ここでの「自己自身に否定を含む」はそういう意味ではありません。「具体的一般者が」とありますが、「具体的一般者」はすでに自己否定的に「個物」を含んでいるからです。ここでは「具体的一般者」が①の「肯定的」に対して、「自己自身に否定を含む」と言っています。そのような仕方で「自己自身を限定した時」、これは、例えば「肯定的」が単に「赤い」であるのに対して、「否定を含む」とは「赤にして赤でない」ということです。こうした「超越的述語面が超越論的主語面を包むものとして変ずるものが考えられる」とされます。そうして「即ち述語的なるものが主語的となると考えられる」と来ます。逆転が起っていますね。「赤にして赤でない」が主語となり、「赤い」が述語になる、ということです。しかしそんなに簡単にはいかないようです。先を読んで見ましょう。「併し」と来て、「一般的なるものが否定を含む」、「赤が赤でない」ということ、あるいは「変ずるもの」ですね。これに「二種の区別を考えることができる」というのです。「否定が即肯定を有する」、「赤が赤でない」が「即」「赤である」ということです。「即非の論理」を思わせますね。そのような仕方で「矛盾的統一を含む」、これが③です。これに対し、「否定を含む」(「赤が赤でない」)といっても、「尚肯定的主語面の性質を有するもの」、これが②「狭義に於ける変ずるもの」です。後で出て来ますが、主語面に質料的なものが残る場合です。例えばリトマス紙が赤から赤ならざるものに変ずる刹那は「赤にして赤でない」ということになりますが、こうした「変ずるもの」を「リトマス紙」という主語(実体ないし基体)において、しかも「時の一般者」においてあるとした時に、「狭義に於ける変ずるもの」となります。この場合には「現在」が「赤」であるとした時にはすでに「過去」となって、「現在」は「赤ならざるもの」になっています。否定が即肯定となって、「即」「赤である」のように、「赤」に還ってくることはありません。ここまでで質問はありますか?

B

何とかついていけています。
佐野
さて、この②の場合には「尚真に述語面が主語面となると云うことはできない」とされます。それはすでに述べた通り、主語面に個物(実体)的なもの、質料的なものが残っているからですが、これについて「前に超越的述語面の肯定的限定というのはかかるものを意味するのである」と述べられます。「前に」とはどこですか?

B

355頁4行目に「単に肯定的に限定せられた述語面」とありましたから、そこではないでしょうか。
佐野
そうですね。①の感覚、ないし知覚の場合です。その場合には主語面に個物(「これ」、「このリンゴ」)が残っていましたね。「之に反し前者」、③の場合ですね、その場合には「真に主語面が述語面の中に没入せられ、述語的なるものが直に主語となると考えることができる、真に個物的なるもの、唯一的なるものを含むと云うことができるのである、即ち矛盾的統一の超越的述語面となるのである」とされます。

B

質料的なものがなくなって、すべてが形相となる、と考えてよいですか?
佐野
そうだと思います。キーネーシス的な見方からエネルゲイア的な見方への転換と言えるかもしれません。今日はここまでとしておきます。
(第118回)
 
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無限の対立――超越的主語と超越的述語

前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「四」第5段落351頁10行目冒頭から、同段落352頁11行目「斯く云い得るのである。」までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「唯我々が主語となって述語とならない個物を考へるといふことが同時に述語面が広がるといふことであって、之によって述語面が限定せられるのである」(352, 5-6)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「『善の研究』では差別的な知識による判断の領域と主客未分の領域とを区別し、その間に何等かの超越を認めつつ、両者の関係を認める考えが述べられていたが、「知るもの」にある「一般概念」「個物」「具体的一般者」「限定」との関係はこの時点でどのように整理されるか」(125字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
『善の研究』をお持ちですか?第1編第2章第7段落(岩波文庫改版37頁~)をご覧ください。そこには「具体的思惟より見れば、概念の一般性というのは…具体的事実の統一力である、ヘーゲルも一般とは具体的なる者の魂であるといって居る。而して我々の純粋経験は体系的発展であるから、その根柢に働きつつある統一力は直に概念の一般性其者でなければならぬ、経験の発展は直に思惟の進行となる、即ち純粋経験の事実とはいわゆる一般なる者が己自身を実現するのである。感覚或は連想の如き者においてすら、その背後に潜在的統一作用が働いて居る。これに反し思惟においても統一が働く瞬間には、前に云った様にその統一自身は無意識である。…純粋経験とは単一とか所動的とかいう意味ならば思惟と相反するでもあろうが、経験とはありのままを知るという意ならば、単一とか所動的とかいうことは、かえって純粋経験の状態とはいわれない、真に直接なる状態は構成的で能動的である。…個体を離れて一般的なる者があるのではない、真に一般的なる者は個体的実現の背後における潜勢力である。個体の中にありてこれを発展せしむる力である、例えば趣旨の如き者である。もし個体より抽象せられた他の特殊と対立する如き者ならば、そは真の一般ではなくして、やはり特殊である、…それで思惟の活動において統一の本たる真に一般なる者は、個体的現実とその内容を同じうする潜勢力でなければならぬ、ただその含蓄的なると顕現的なるとに由りて異なって居るのである。個体とは一般的なる者の限定せられたのである。…真の個体とはその内容において個体的でなければならぬ、即ち唯一の特色を具えた者でなければならぬ、一般的なる者が発展の極処に到った処が個体である。この意味より見れば、…深き意味に充ちたる画家の直覚の如き者がかえって真に個体的と云いうるであろう」とあります。これを参照しながら、もう一度プロトコルの「問い」を読んでみて下さい。

Y

Sさんは、抽象的一般者(判断)の領域と具体的一般者の領域を異なるものとお考えですか?

S

押し詰めて考えると繋がるけれども、そこには超越があると思います。

T

どこまでも矛盾と統一を繰り返す根本にある統一力が具体的一般者だとすれば、超越という言葉がしっくりきます。
佐野
ですが、純粋経験の場合は、その統一力が最後に個体となって姿を現わしますね。種子が苗になった時に、初めて苗(形相)がその植物の成長を促していたことが分かるように。もう一つ言えることは、一方で統一と矛盾を繰り返しながら実在がどこまでも無限に活動することを説きながら、他方で最大最深の統一、つまり極致というものを考えていて、その直覚が宗教的覚悟(直観)であるとしている点です。その意味ではここでも最大最深の統一力が姿を現わしています。どこまでも「超越」というわけでもなさそうです。

W

存在と認識を分けて考えると、『善の研究』の方では存在が、「知るもの」の方では認識の側面が勝っているように感じられます。「知るもの」では絶えず「包摂判断」から始めているのに対し、『善の研究』のこの箇所ではつねに「純粋経験」から語られています。
佐野
たしかに。ですが『善の研究』でも、まず「疑うにも疑いようのないもの」というのが考えられて、それが「純粋経験」とされています。認識論を出発点としていることは共通していますが、出発点となっているのが、「純粋経験」と「包摂判断」という違いがあります。それが存在から語る『善の研究』、認識から語る「知るもの」という印象の違いに結び付くのでしょう。とは言え、「知るもの」でも、目下読んでいる箇所で、「抽象的一般と特殊との関係が既に潜在的に主語と述語との対立を含むとすれば」とあるように、「潜在的」という言葉を使って「具体的一般者」の方から考えようとしているのが垣間見られますね。『善の研究』で西田がヘーゲルの「具体的一般」を念頭に置いていたことは明らかですが、「知るもの」におけるそれとはずいぶんと趣が異なります。純粋経験は弁証法的に体系的な発展をしますが、「知るもの」における「具体的一般者」にはそうした面があまり見られません。

R

『善の研究』の頃の西田は実在の根柢を「統一作用」とか「統一力」で押さえていますが、「知るもの」では矛盾ということが出て来ていると思います。
佐野
たしかに「知るもの」では「作用」はすでに「知られたもの」であって「知るもの」ではない、というのが基本的立場ですが、『善の研究』で「統一作用」と言われていたものがたんに「知られたもの」を意味するとは言えないと思います。また、『善の研究』でも「統一」とともに「相互の対立むしろ矛盾ということが必要である」(第2巻第5章第3段落)とも述べられていました。これらをどう考えたらよいでしょうか。『善の研究』との比較はとても難しい。『善の研究』はそれ以後の西田のすべての思想を、本人の自覚とは別に、すべて胚胎しているところがあります。初めからすべて自覚していたとはとても言えませんが、単純に未熟で済ますこともできない。そこが難しい。プロトコルはこの位にして、テキスト講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(352頁11行目~353頁2行目)
佐野
「例えば色の抽象的概念」、例えば「赤一般」ですね、それを「そこまで広げて行けば」とありますが、「そこまで」とはどこまでですか?

A

「抽象的一般から具体的一般に移り行く」までだと思います。
佐野
そうですね。そうすると、「赤一般」も「具体的一般者になると考えることができる」、つまり「この赤」、個色になるということですね。次に行きます。「色の一般と特殊との関係が判断の主語と述語との関係を含むとすれば」、つまり「特殊」が「個物」(この赤)に達する場合ですね。そうすると、「その主語となって述語とならないと考えられる超越的主語面に於て色自身の体系という如きものが見られ」、「この赤」を含む「色自体」の体系が見られる、ということですね。

A

「色自身の体系」とはどういうことですか?
佐野
客観的な実在が有する体系のことだと思います。

N

あとで「色自体」とも言い換えられていますが、カントの物自体を念頭に置いていると考えてもよいですか?
佐野
西田はたぶん、物自体を念頭に置きながら述べていると思います。それが「色」について言われているので「色自体」というように述べたと思います。もちろん「この赤」が顕わになっているときには、それが「赤」である、「色」である、というような括り方はしていないと思いますので、仮にそう(「色自体」と)言ったまでだと思います。次に参りましょう。「之に反し述語となって主語とならないと考えられる超越的述語面に於てその抽象的概念の体系が見られるのである」とありますね。「超越的述語面」においてそれが限定されたものとして、「抽象的概念」、この場合は「赤一般」を始めとする様々な概念の体系のことですね。先の「色自身の体系」が所謂客観的な体系であるのに対し、こちらは所謂主観的な体系です。ここまで、何か分からないところはありますか?

A

大丈夫です。
佐野
次に参りましょう。「それで具体的一般者に於ては、その主語的方向と述語的方向とが相対立する両方面に於て、一方にそれ自身に同一なるもの」・・・。

A

ちょっと待ってください。「それ自身に同一なるもの」とは何のことですか?
佐野
AはAである、としか言えないもの、例えば「富士山は富士山である」、という叫びしかないもののことです。これを「富士山は山である」というように捉えるとあたりまえの山に成り下がってしまう、そういう捉え方のことです。

A

分かりました。
佐野
続けます。「一方にそれ自身に同一なるもの、いわゆる直覚的なものが見られ、一方に抽象的一般なる者が見られるのである」とありますね。これも同じことで、一方に「この赤」などから成る実在の体系があり、他方に「赤一般」などから成る主観的な抽象的一般〔概念〕の体系がある、ということです。次をBさん、お願いします。

B

読む(353頁2行目~354頁1行目)
佐野
「抽象的一般概念とは此の如き意味に於て限定せられた超越的述語面と考えることができる」。「抽象的」とは他を捨象した、その意味で「限定された」ということですが、ここは?

B

大丈夫です。
佐野
次へ参ります。「具体的一般者は判断的関係を含むものとして一方に超越的主語というものが考えられ一方に超越的述語というものが考えられ、両方向は無限の対立をなすと共に一つの統一体でなければならぬから、両方向の何れの方面に統一を求めるかによって、一つは主語面の方に於て一つは述語面の方に於て相対立する二つの統一面が考えられる」とあります。

B

二つの統一面があるというだけならば、両者は統一されていませんよね。
佐野
そうですね。まずは主語面において「直覚」という形で「統一面」が見られ、これを述語面から包んで概念的知識にしようとする。つまり、主語面を基礎に述語面から包もうとしますが、数学的知識の場合(数学的知識は「一般概念(=抽象的一般者)」において成立します)ならいざ知らず、経験的知識の場合はどこまでも主語面を包むことができない。しかし三つの段階を経て、最後に逆転が起って主述が転換し、両面の統一が現れることになります。この事態を言い表すものとして、「推論式的一般者」が登場してきます。それはこれから読んでいくことになります。次に括弧がありますね。何と書いてありますか?

B

「(具体的一般者を推論式的一般者と考えれば大小両語面の対立となる)」とありますが、「大小両語面」とは何ですか?
佐野
「推論式」で念頭に置かれているのは三段論法です。「人間は死ぬ」(大前提)、「ソクラテスは人間である」(小前提)、故に「ソクラテスは死ぬ」(結論)という三つの命題のうち、結論の述語となるものが「大概念」ないし「大語」、小前提の主語となるものが「小概念」ないし「小語」、両者を媒介するものが「媒概念」ないし「媒語」です。今の例で言うとどうなりますか?

B

「大語」が「死ぬ」で、「小語」が「ソクラテス」で、「媒語」が「人間」です。
佐野
そうですね。「大語」が最も広い概念となります。ここでは「大語」=「一般者」、「小語」=「個物」と考えてよいと思います。「主語面」を基礎にしてこれを述語面から包む、というのが、「媒語が大語と合し小語を包む」ということになり、これが「大語面的限定」と呼ばれることになります。これもこれから読んでいきます。とりあえず、目下のところは「二つの統一面」が「相対立」している、そうした状況です。次へ行きます。例が出て来ますね。「例えば「これは赤である」という如き判断は具体的一般者に於て成立する判断でなければならぬ」とされます。両面が統一されなければならない、ということです。その場合、「これは」は「限定することのできないもの」として「抽象的概念の外にある」とされます。「これ」つまり「この赤」(赤とも本当は言えないのでしょうが)はどこまでも限定できない。「これ」と叫ぶ以外ない。しかし「具体的一般者に於てはその主語的方向に於て自己同一なる基体」、「個物」ですね、そうしたものとして、「〔これが〕含まれねばならない」とされます。どうしても「概念的知識にならなければならない」ということですね。そうすると主語的方向に「色自体」という如きものが見られなければならない、ということになる。「色自体」とは先程は「色自身の体系」と呼ばれていたものですね。「この赤」を含む客観的な実在の体系のことです。これに対して、「之と共に述語的方向に於てその述語的なる者の統一としての色の一般概念という如き述語面が限定せられねばならぬ」とあります。超越的述語面(意識)が「色の一般概念」にまで限定されなければならない、そういうことです。次に「前に具体的一般者は内に自己同一なるもの即ち直覚的なる者を含むと云ったのは」とありますが、「前に」とはどこですか?

B

352頁15行目~353頁2行目だと思います。
佐野
そうですね。その具体的一般者内の「自己同一なるもの」「直覚的なるもの」が「主語的方向に於ける統一面」を意味する、とされます。ここですでに直覚、自己同一という仕方で、「統一面」が成立している、ということです。しかしこれを「概念的知識」にもたらすためには、「之に対して述語面に於て一般概念が見られなければならない」ということになります。つまり「超越的述語面」が「抽象的概念」にまで限定されなければならないということです。そうして「我々の知識はいつも主語面に於てあるもの、即ち客観的なるものを基礎とする」が、「何らかの意味に於て述語面に於て一般概念が限定せられ得るかぎり、概念的知識が成立するのである」とされます。たしかに「これは赤である」というのもすでに概念的知識ですが、もちろんこれでは十分な知識ではありません。今日はここまでとします。
(第117回)
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超越的述語面の限定

前回は、 岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「四」第4段落350頁9行目から、同段落末351頁10行目までを読了しました。今回のプロトコルはNさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「更に深い意味に於て変ずるものはかかる限定の外に逸し去るのである」(351, 10)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「「かかる限定」とは、「具体的一般者」の「論理的限定」であり、「肯定的限定、否定的限定」及び「矛盾的統一」からなる。しかし、それらは「矛盾的統一」を含むとはいえ、「尚概念的限定」であり、「変ずるもの」のすべてを捉えているわけではない。従って、「変ずるもの」の「超越論的述語面」を「限定」するためには、「更に深い意味に於て」哲学的な論究が要請されるというのが、前掲文の本意と解するがいかがか」(193字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
哲学が思惟(Denken)の事柄だとして、哲学的な思惟が何であるか、という問い自体が哲学的な思惟になると思いますが、今日はそれがテーマになりそうですね。「問い」についてあらかじめお伺いしたいことがあります。「更に深い意味に於て変ずるもの」を限定するために、そもそも「論理的限定」、「概念的限定」を超えた哲学的な論究がここで要請されているのか、それともあくまで哲学とは「論理的限定」「概念的限定」であり、そうした哲学的な論究を深めていくことが要請されているのか、どちらでしょうか?

N

両方です。哲学は論理を超えて、あくまで論理です。非合理な生死を直視しながら、その矛盾を、あくまで論理によって料理して行く、知的な営みです。

Y

西田の場合、矛盾そのものが哲学の中に入って来るのでしょうか?

N

矛盾は論理に収まりませんが、他方で西田は生が論理だと思っていて、それを言葉に翻訳しようとしている。
佐野
その場合、生を対象化してそれについて説明するのと、生の只中に入って行ってそこから与えられる概念(言葉)と論理によって語る立場とがあると思いますが、西田はどちらだとお考えですか?

N

後者です。生の只中に入り込む、そうした中から七転八倒しながら言葉を紡ぎ出す。そうしたやり方で、生が論理であることを証明しようとしたのだと思います。

S

生に飛び込んでしまえば、矛盾はなくなると思います。説明があるから矛盾が出て来るのでは?哲学的な概念による説明ということを西田は西洋哲学から学んだのでは?

N

西田の場合は、言葉にするというより、唸る、喚く。西洋東洋哲学の語彙を使いながら、呻く。格闘です。格闘技で戦っている最中を言葉で書き連ね、分娩している。全集第6巻の序でも西田は、「実在と考えられるものは、その根底に何處までも非合理的と考えられるものがなければならない」と言っている。しかしそれと同時に「非合理的なるものが考えられると云うには、我々の論理的思惟の構造そのものに、その可能なる所以のものがなければならぬ」と言っている。今読んでいるテキストで言えば、「かかる限定の外に逸し去るのである」としながらも「限定の外に出ない」とも言っていることになる。矛盾していますね。Oさん、ドゥルーズの場合はどうですか?

W

ドゥルーズの場合、こういうスタンスはとりませんが、哲学とは新しい概念の創造に関わっているとされます。つまり哲学するとは、見えなかったものを見えるようにする、言い換えれば論理的限定の仕方を変えていくことに関わっている、というのです。ただ生そのものには矛盾はない、として生の構造しか問題にせず、むしろ矛盾の話を嫌います。西田の思惟の次元はどこにあるのか?
佐野
Wさんの「饗宴」でのご発表の中に、「水泳」の例が出て来ました。生の只中に飛び込むとは、まさに水泳で言えば、海の中に飛び込むことだと思います。概念的限定というのは「概念」(何であるか)をつかむことですが、海の中で問題になるのはそうした「本質」ではなく、「いかに」とか「どのように」ということだ、とされていました。そうした言葉によって新しい見え方が開けてくるのだと思いますが、そこにはおそらく矛盾はない。矛盾にとらわれたら溺れてしまうことになりますから。その意味ではSさんが仰ったように、生に飛び込んでしまえば、矛盾は解決しないままになくなってしまう。しかし、生を対象化してこれを概念的に、つまりそれが何であるかを説明しようとすると、生自体は無分別なのに、言葉はつねに分別的に働きますから、どうしても矛盾を生じます。この立場は「反省」と呼ばれるものですが、西田は「直観」と同時に、この「反省」の立場をどこまでも捨てていない、そのように思います。しかしこの直観と反省の関係、あるいは生と哲学の関係、この矛盾が西田を悩ませると同時に、西田哲学の源泉になってきたと思うのです。哲学が思惟の事柄だとすれば、思惟は対象がなければ考えることができません。しかし対象化している間は、思惟は思惟にならない。しかしそうかといって思惟の働きと一枚になってしまえば、それ(自分がやっていること)が何であるかは見えません。この矛盾そのものが哲学的な思惟なのだろうと思います。

Y

この矛盾は何のため、というか、それが希求するもの、目的というか、それが気になります。
佐野
矛盾はそれを解決することを要求してきますが、解決すればしたで、また新たな矛盾に巻き込まれることになりますね。

Y

ええ。ですが、一つものに近づいていく感じはあると思うんです。でも矛盾は解決しない。
佐野
ええ。ますます深いものに触れている感じになりますね。人間が矛盾を抱えているということは、どうもこうしたどこまでも解決のできないもの、人間の生そのものに触れるということと関係があるのかもしれませんね。プロトコルはこれ位にして講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(351頁11行目~352頁2行目)
佐野
前段落の終わりから3行目に「超越的述語面が限定せられる」とあるのを受けて、「私は是に於て超越的述語面の限定ということについて考えて見よう」ということになります。一般に或る出来事をどう考えるかは、状況によって決まり、我々はその立場(一般概念)に立って考えざるをえませんが、ここでは個物がそこに於てあるところの超越的述語面からいかにしてそうした抽象的な一般概念への限定が起るかが問題とされます。そうしてまたしても「包摂判断」から出発してその根源を探ります。「包摂判断」、例えば「犬は動物である」、の「述語として考えられる一般概念即ち抽象的一般者」、この場合は「動物」ですね。これを「特殊化の方向に進める」。つまり「犬」、「ポメラニアン」というように特殊化して行く。そうして「その尖端に於て最後の種を破って」、つまり「ポメラニアン」という「最後の種」を破る。そうすると「更に主語となって述語とならない個物的なものが考えられる」。「主語となって述語とならない」、これは「個物」ですね。「佐野之人」は個物(個人)ですが、これは「佐野之人は男である」などと、無限に述語づけが可能ですが、「〇〇は佐野之人である」とは言えない。もちろん「これは佐野之人です」とは言えますが、これは包摂判断ではありません。というわけで「主語となって述語とならないもの」は「個物」ということになります。こういうものが特殊化の尖端に考えられる。しかしそれとともに、「一方に述語となって主語とならないものが考えられなければならぬ」とされます。西田の「場所論」の根拠となる考え方ですね。「かかるもの」、「述語となって主語とならないもの」ですね。それは「亦抽象的一般者であってはならぬ」、と言われます。「抽象的一般者」とは限定された「一般者」のことです。限定は他のものを捨象して成立するからです。「然らざれば」、そうでなければ、「主語となって述語とならないものが之に於てあるとは云われない」とされます。「之」とは何ですか。

A

「述語なって主語とならないもの」だと思いますが、どういうことですか?

W

以前やった「山は山ならず」ということではないですか?
佐野
ああ、そうですね。富士山は山である、と言ってしまうと、当たり前の一般的な山になってしまって、富士山が富士山として、つまり個物として立ち上がらない、ということですね。富士山が富士山として立ち上がるためには、富士山がそれに於てあるところの述語(述語的一般者)が抽象的一般者であってはならず、無限大の述語的一般者でなければならない、そういうことですね。しかし次を読んで見ると「併し苟も述語的一般者というものが限定せられると考えられるかぎり、それは抽象的でなければならぬ」とあります。

A

矛盾していませんか。先程は「抽象的一般者であってはならぬ」と言われていました。
佐野
そうですね。ここは考えないといけません。「苟も述語的一般者というものが限定せられると考えられるかぎり」とありますから、その「かぎりに於て」「述語となって主語とならないもの」も「抽象的でなければならぬ」、つまり抽象的となりえなければならない、後の表現を用いえれば「潜在的に」抽象的でなければならない、そう読むほかありませんね。次をBさん、お願いします。

B

読む(352頁2行目~7行目)
佐野
「超越論的述語面」、これはいわば無限大に広がった述語面ですね。無の場所と言ってもよい。それが(抽象的な)「一般概念」によって限定せられるというのは如何なることを意味するか」と、最初の問いが改めて掲げられます。まず「我々が何を考えるにしても限定せられた概念から出立せねばならぬ、而も限定せられた概念は抽象的でなければならない、超限定的なる述語面から出立すると云うことはできない」と、経験的な事実から出立します。「犬は動物である」という言明の場合には、我々は「動物」という一般概念(抽象的一般)に立っています。どんな言明の場合でも一般概念の上に立つから言明ができるのです。逆に言えば、個物の場合には言葉を失います。あるいは「富士山は富士山だ」という同語反復(無意味な言明)をするほかなくなります。では「個物を考える」場合はどうなるのか。その場合は「同時に述語面が(無限大にまで)広がる」ことになります。そうして「之(無限大に広がった述語面)によって述語面が限定せられるのである」と言われます。ここまででとりあえず意味の通らないところはありますか?

B

大丈夫です。
佐野
次に「抽象的一般から具体的一般に移って行く」とありますが、これは「個物を考える」場合ですね。それは「全く異なれるものに移って行くのではなく、一般の一般に移って行くのである」と、また難解な表現がなされていますね。ここではとりあえず「一般の一般に移る」というのを「〔抽象的〕一般が〔具体的〕一般に移る」、だから「異なれるものに移って行くのではない」と読んで置きます。次にその説明がありますね。「特殊と一般との関係に主語と述語との関係が含まれて居るとすれば」、つまり「抽象的一般」に「具体的一般」が含まれているとすれば、ということです。「この関係」、「特殊と一般」・「主語と述語」の関係ですね。これを「どこまでも広げていくということが抽象的一般から具体的一般に移り行くことである」ことになります。括弧が付いていますね。ただし書きです。「無論その間に立場の超越がなければならぬと考えられるかも知らぬ」とあります。言葉で言い表せる次元から、個物という言葉で言い表せない次元へと超越するわけですから、当然そう考えられます。しかし「抽象的一般と特殊との関係が既に潜在的に主語と述語との対立を含むとすれば、斯く云い得るのである」とされます。われわれの言葉によって表現された如何なる判断も潜在的に「個物」を含んでいる、ということです。例えば目の前の犬(ベラ)が動物らしい行動をとったとして、「犬も動物だなあ」という判断をしたときに、そこにすでに個物(ベラ)が潜在的に含まれている、というのでしょう。今日はここまでとしておきます。
(第116回)
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言葉が黙する――具体的一般者と一般概念

岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」「四」第3段落349頁13行目から、同段落350頁8行目まで(級下げ部分)を読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「而してかゝる大語的限定面が単なる肯定面であった場合は、尚真に推論式的一般者の述語面といふことができない、それが矛盾的統一面であった時、推論式的一般者の述語面としてその時間的なる内容を完全に映すことができる」(350, 6-8)でした。そうして「考えたことないし問い」は、「判断的一般者の立場を推論式的一般者の立場で説明するとき、その眼目は単に超越的述語面が概念で限定されるのではなく、肯定面と矛盾的統一面を分けた上で、矛盾的統一面における限定が強調される点にあるという理解でよいか」(104字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
今講読している箇所は、「判断的一般者」から「推論式一般者」への移行の現場です。この「級下げ部分」は後からの加筆と考えられますが、正式に本文で「推論式的一般者」が登場するのは、次々段落、第5段落末(356,3)です。同段落の中程(353,6)にもすでに出ていますが、これは括弧内ですので正式な登場とは言えません。この括弧も後から挿入したものと推測されます。Sさんのご質問の趣旨は「判断的一般者」と「推論式的一般者」の違いの「眼目」ということになると思いますが、これを明らかにすること、それだけで一本の論文になると思いますが、ご質問の趣旨はこういうことでよいでしょうか?

S

ええ。西田が「判断的一般者」の限界をどこに見ていたか、そこに関心があります。
佐野
それを明らかにするためには、これから講読する移行の現場の中で何が起こっているか、何が達成されて「推論式的一般者」が登場しているのか、を見て行かなければなりません。これから一緒に読んでいけばよいのですが、少し先回りして確認しておこうと思います。

S

お願いします。
佐野
「判断的一般者」も「推論式的一般者」もどちらも「具体的一般者」ですが、「推論式的一般者」がその「完全形」(349,13)と呼ばれるように、「判断的一般者」はなお不完全だということになります。何が不完全かと言うと、主語と述語の統一です。「具体的一般者」は特殊を含む一般ということですが、西田は特殊を主語、一般を述語に重ねますから、「具体的一般者」は主語を包む述語だと言えます。「判断的一般者」の場合は主語と述語が繋辞(である)によって統一されていますが、なお主語と述語との対立が前面に出ています。これに対し「推論式的一般者」の場合は、主語(小語)と述語(大語)が媒辞(媒語)によって媒介されていますので、統一がはっきりと表現されています。ここまでで何か質問はありますか?

A

大丈夫です。
佐野
西田は「具体的一般者」はどこまでも概念的に限定できると考えます。どこまでも哲学できるということですね。そうした「具体的一般者」の「論理的限定」(350,16)ないし「自己限定」(354,9)に①肯定的、②否定的、③否定の否定として否定的肯定(矛盾的統一)の「三つの段階」(同)を区別します。「AはAであると同時にAでない」あるいは「AはAでないことによってAである」という文のうち、「AはAである」という側面が「肯定的」、「AはAでない」という側面が「否定的」、「AがAでないことによってAである」というのが、「否定の否定としての否定的肯定」(矛盾的統一)と考えられます。ここまでで何かありますか?

A

何とかついていけています。
佐野
以上は「論理的」な限定ですが、今度は「具体的一般者」を「部分的」に限定することを考えます。「数学的知識」の場合には「数」や「図形」といった一「般概念」へと限定します。その場合は主語と述語が一致し、先の「論理的限定」が完全な仕方で成立し、そこに「先験的知識」が成立しますが、「経験的知識」の場合には主語と述語がどこまでも一致しません。「経験的知識」の場合には「具体的一般者」における「超越的述語面」は「感覚的性質一般」という「一般概念」によって限定されますが、この限定に先の「論理的限定」の「三つの段階」を当てはめると、①の肯定的限定として、「感覚的対象界」が、②の否定的限定として、「知覚の世界」が、③の否定の否定として否定的肯定(矛盾的統一)として、「物理現象界」が成立することになります(356,11-13)。

A

前々回読んだ箇所では、「単なる肯定的述語面」である場合に「知覚の対象界」、「否定を含む矛盾的統一面」である場合に「物理現象界」が見える、となっていましたが。
佐野
そうですね。叙述が揺れていますね。解釈する外ありませんが、「知覚の対象界」をさらに、「感覚的対象界」と「知覚の対象界」に分けた、と考えられます。その場合、「感覚的対象界」には、「これは赤だ」というような判断、「知覚の世界」には、「このリンゴは赤い」というような判断が属することになると思います。「これは赤だ」という判断では、否定が十分に言い表されていないのに対し、「このリンゴは赤い」という判断では、「赤い」という述語が「このリンゴ」を否定的に限定していることになります。スピノザのあらゆる「限定は否定である」が念頭に置かれていたのかもしれません。以上は一つの解釈にすぎませんが。

A

一応納得できました。
佐野
さて、その三つの世界ですが、どの世界においても、述語が主語を完全に包む(言い表す)ことはできません。「これは赤だ」の「赤」は「一般概念」ですが、「これ」はどこまでも個だからです。「このリンゴは赤い」においても、述語をいくら重ねても主語の「このリンゴ」を言い表すことはできません。では「物理現象界」の場合はどうか。物理現象の場合、この赤はただちにこの赤ならざるものです。主語においても述語においてもそのことが成り立っているように見えます。しかしその場合でも主語と述語が異なっている、そのように西田は述べます。「尚肯定的主語面の性質を有する」(355,9)というのです。例えばリトマス紙が変化する場合、主語の方に「リトマス紙」という「物」(個物としての実体)ないし、さらにつきつめて考えれば「質料」が残っている、そのように考えるのです。そこでさらに③を突き詰めて、この「物」ないし「質料」を取り払う。そこに出て来るのが「所謂変ずるもの」ではない、「真に変ずるもの」すなわち「生滅するもの」です。これは生即死、有即無の場合の「即」ないし「即非」です。この「即」をふたたび実体化してはいけません。さて「知覚の世界」から「物理現象界」を経て「生滅する出来事」へと移行するこの三つの段階は、それぞれ「相異」、「相反」、「矛盾」に対応していることが分かります。この最後の「矛盾」に至って、真に主語面と述語面とが合一することになります。そこに「矛盾的統一を包む一般者が見られる」(356,3)ことになって、ここに「推論式的一般者」が成立することになります。主語面と述語面の統一が媒語として言い表されているからです。「判断的一般者」の立場では、「具体的一般者」の述語面である「超越的述語面」が「感覚的性質一般の概念によって限定せられる」(350,2)という言い方をしなければならなかったのが、「媒語が大語と合し小語を包む」(356,5)ないし「大語面的」「自己限定」(350,5)と言えば済むことになります。まあ、このくらいにしてテキストに移りましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(350頁9行目~13行目)
佐野
「具体的一般者というのは所謂主語となって述語とならないもの」、「個物」ですね、それ「を内に包んだものである」、つまり「個物的なるものを自己自身の限定と考えるものである」ということになります。何度も聞いていると分かった気になりますが、不思議な概念です。西田も「矛盾の言の様ではあるが」と断った上で、「それは主語となって述語とならない一般者である」、つまり個物にして一般者、これをひっくり返して、「一般的なる基体である」、そのように述べます。この場合の「基体」はそれについて述語されるところのもの、つまり「個物」です。さて、その「具体的一般者」について、それは「こういう意味に於ては固より抽象的一般概念と同様の意味に於て限定せられると云うことはできない」と述べられます。存在、生物、動物、人間、というような論理的な仕方で限定できない、ということでしょうね。「唯部分的に一般概念として限定し得るまでである」。例えば「数」、「図形」、「感覚的性質」という仕方で、それぞれ部分的な仕方で限定できるだけだ、そういうことだと思います。「併し苟も之」、「部分的限定」ですね、それによって「判断的知識が成立する以上、それ」、これも「具体的一般者」でしょうね、「それは一般概念という意義を有さねばならない」、そのように述べられます。「具体的一般者」は「抽象的一般概念」ではないけれども、「一般概念」でなければならない、そこから判断が成立するものでなければならない、と。

B

「抽象的一般概念」と「一般概念」はどう違うのですか?
佐野
次に書いてあります。次をCさん、お願いします。

C

読む(350頁13行目~351頁4行目)
佐野
「具体的一般者」は「抽象的一般概念」ではないけれども「一般概念」という意義を持っていなければならない、ということがこれまで述べられていました。「具体的一般者」は、それによって「一般」が「特殊」を含む真の「一般」となり、「特殊(個)」も真に「特殊(個)」としての「特殊(個)」となるものです。「一般」が「特殊(個))と対立するならば、それはすでに「特殊」であって、「一般」ではなく、「特殊(個)」も「一般」と対立するならば、それ自体「一般」であって、「特殊(個)」ではありません。「このもの」と言ってもどれもみな「このもの」だからです。「一般」と「特殊(個)」というのはともに「概念(言葉)」ですが、これらを徹底すると、一方において「概念(言葉)」であることをやめてしまう。「一般」は有無を絶した「絶対無」となり、「特殊(個)」がそこから「特殊(個)」として立ち上がってくることになります。これは「概念(言葉)」の徹底として、「概念(言葉)」が黙する(「維摩の一黙」を想い起させます)ところで知的に直観する外はありませんが、この知的直観が、無限の概念(言葉)がそこから湧き出てくる水源となります。この言葉が黙する、というところをテキストでは「具体的一般者」は「抽象的概念」ではない、と言い、無限の言葉の水源となる、というところを「一般概念」という意義を有せねばならない、と言っていると思われます。ここまでで何か質問はありますか?

C

大丈夫です。
佐野
そう言ったところで西田は「私は却って真の知識の根柢としては具体的概念を真の概念と考え」と述べます。

C

「具体的一般者」と「具体的概念」は同じものですか?
佐野
同じと見ていいと思います。前者は「概念」の絶対の無の所で端的に知的に直観されるものという側面、また後者は、それが無限の概念(言葉)の水源となるという側面を言い表したものと考えられます。そうして「抽象的概念というのは超限定的述語面に於て現れる具体的概念の部分的限定と考えたいのである」と述べられます。「超限定的述語面」とは「限定」できない「述語面」ということで、「具体的一般者」の述語面、即ち「超越的述語面」と同じものです。具体的には「意識一般」のことです。「抽象的概念」とはこうした「超限定的述語面に於て現れる具体的概念の部分的限定」だというのです。例えば「数」や「図形」、「感覚的性質一般」などがそれです。その他すべての言葉がこうした「抽象的概念」になります。ただしここで言われているように、それは通常の「抽象的概念」ではなく、あくまで「具体的概念」です。言葉には言葉としての形式と内容があります。「リンゴ」という言葉は「リンゴ」という音、ないし文字の側面と、それが言い表わす意味の側面があります。「リンゴ」という音ないし文字に習慣的に結びついた理解は形式的な理解ですが、こうした形式的な理解を破って立ち現れるのが意味であり、これを具体的概念の部分的限定としての抽象的概念と呼んでいると考えられます。

C

言葉だけれども同時にそうした言葉が黙するところ、その意味では言葉以前であるようなもの、言葉にして言葉以前、そうしたものと考えていいですか?
佐野
そういうことになりますね。そうしてそれが我々の日常用いている言葉だ、ということです。次を見て見ます。「而して既に概念的と云い得るかぎり、それについて種々なる意味の論理的限定が考えられねばならぬ」とあります。「具体的概念」には「部分的限定」しかありえませんが、「具体的概念」が同時に「一般概念」であることによって、そこに「論理的限定」があることになります。それが①肯定的限定、②否定的限定、③否定の否定としての否定的肯定、ということで、「それが私の所謂矛盾的統一なるものである」と言われます。「それ」とは何を指しますか?

C

最後の③だと思います。
佐野
そうですね。文脈からすると①②③の全体を指すとも読めますが、後の叙述などからすればそう読むべきだと思います。続いて「矛盾の背後には所謂限定せられた一般概念という如きものは考えられない」とあります。そうした一般概念があると矛盾が矛盾でなくなってしまう、ということです。例えば白くて同時に辛いとだけ言えば矛盾ですが、この背後に「塩」という「物」(一般概念)を持って来れば矛盾なく考えることができるように思われます。同様に赤くて赤くない、と言えば矛盾ですが、「リトマス紙」という「物」を持ってきて、しかもこれに「時」という形式を当てはめれば、「変化」ということで矛盾なく考えることができるように思われます。我々の思考はつねに根本的には矛盾した出来事を無矛盾なしかたで理解しようとしますが、この根本的な矛盾そのものはもはやその背後に「一般概念」がありませんので、矛盾が露堂々として現前することになります。ここはもはや概念的な理解の及ばない、概念的理解を破ったところです。しかしそれでも西田はこの矛盾的統一こそが無限なる概念の水源になると考えます。そこで「個物的なるものが之に於てある一般者」、「具体的一般者」の「超越的述語面」、絶対無ですね。そういうものとして「私はどこまでも概念的限定と考えたい」とあります。何をそのように考えたいというのでしょうか?

C

難しいですね。「矛盾的統一」でしょうか。
佐野
たしかに難しいですが、「矛盾的統一」からの「概念的限定」が可能である、そのように読んでみたいと思います。「具体的一般者」は知的直観の事柄ですが、それでも「どこまでも」哲学できる、そのように「考えたい」、そのように読めます。ところが次に「之を越ゆるものは全く概念的限定の外に逸し去るのである」とありますが、「之」とは?

C

「概念的限定」です。
佐野
そうですね。一方で「どこまでも」哲学できる、と言いながら、他方でそれを「越える」ものを認めている、そのように読めます。哲学を超える立場、宗教を示唆しているようにも読めます。しかしそれだと「どこまでも」という言葉が意味をなさないことになります。ここはそのように読むべきではなく、哲学そのものが、どこまでも概念的限定が可能でありながら、同時に絶えずそれを超えた概念的限定の外、概念化できないということを抱えている、そう読んでみては、と思うのです。宗教は概念の事柄ではありませんが、言葉(教)や行い(行)の事柄であり、その点では哲学(思索)とは異なる仕方(信)で言葉以前につねに開かれている、そのように考えることができます。次に参りましょう。Dさん、お願いします。

D

読む(351頁4行目~10行目)
佐野
「それで感覚的なるものを包む具体的一般者の超越的述語面という如きもの」、感性的直観を対象とする意識一般ですね。それが「感覚的性質一般」という「抽象的概念」に部分的に限定される際に、①肯定的でも、②否定的でもなく、③「矛盾的統一の〔抽象的〕一般者として限定せられた時、即ち変ずるもの」、「個物」ですね、これが③の「矛盾的統一によって限定せられた時、物理的世界という如きものが考えられる」ということになります。これが①であれば、「感覚的対象界」、②であれば「知覚の世界」ということになります。ここまで、どうですか?

D

大丈夫です。
佐野
次いで「而してかかる矛盾的統一の形式が時と考えられる」とあります。「此故に物理現象は時の一般者に於ける特殊ではなく、却って時の関係の基礎となるのである」、そのように言われます。物理現象が「時の一般者」に於てあるのではなく、「時の一般者」は「物理現象」の形式だ、「物理現象」の方が根本的だ、そのように言うのです。「時の一般者に於ける特殊」も「時の関係」も、ともに前後、同時、長短などのことです。次いで「かかる場合」、「物理現象」の場合ですね、「具体的一般者の超越的述語面が限定せられると云う所以は、矛盾的統一といえどもそれが論理的限定であるかぎり、変ずるものの根柢となるものは、尚一般概念的なるもの」、この場合は「感覚的性質一般」ですね、そういうもの「でなければならない」からだとされます。「具体的一般者」が同時に「一般概念」であるが故に、①から③までの「論理的限定」が可能になるというのです。そうして「更に深い意味に於て変ずるものはかかる限定の外に逸し去るのである」と言われます。「かかる限定」とは?

D

「一般概念的なるもの」です。
佐野
そうですね。「矛盾的統一」という「一般概念」、「感覚的性質一般」の第三段階です。これを超えた所に、「さらに深い意味」での「変ずるもの」が立ち現れることになります。これが何であるかは解釈となりますが、「生滅するもの」だということになります。今日はここまでとしましょう。
(第115回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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